銭形平次捕物控 江戸阿呆宮 野村胡堂 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)口惜《くや》しがった |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)石原|新町《しんまち》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#5字下げ] ------------------------------------------------------- [#5字下げ]一[#「一」は中見出し]  江戸開府以来の捕物の名人と言われた銭形平次も、この時ほど腹を立てたことはないと言っております。  滅多に人間を縛らぬ平次が、歯噛みをして口惜《くや》しがったのですから、よくよくの事だったに相違ありません。 「親分、また神隠しにやられましたぜ」  ガラッ八の八五郎が飛込んで来たのは、初夏の陽が庇《ひさし》から落ちて、街中に金粉を撒《ま》いたような、静かな夕暮でした。 「今度は誰だ」  平次は瞑想から弾き上げられたように、火の消えた煙管《きせる》をポンと叩きました。 「石原町《いしはらちょう》の日傭取《ひようとり》の娘お仙と駄菓子屋の女房のおまき[#「まき」に傍点]、それから石原|新町《しんまち》の鋳掛屋《いかけや》の娘おらく[#「らく」に傍点]――」 「三人か」 「三人は三人でも、今度のは一粒|選《よ》りだ。ピカピカ後光の射すのをさらわれ[#「さらわれ」に傍点]て町内の若い者は気違いのようになっていますぜ。殺生な真似をする野郎じゃありませんか」 「野郎だか怪物《えてもの》だか見当が付かねえから弱っているのさ、とにかく行ってみよう」  平次は短い羽織を引掛けると、ガラッ八の八五郎を案内に、本所へ飛んで行きました。  神隠し騒動――と言われたこの事件は、平次捕物のうちでも極めて重要な事件で、詳しく書くと長大な一編の小説になりますが、要点だけをかい[#「かい」に傍点]摘《つま》むとこうでした。  去年の暮頃から、御府内の美しい娘が、一人二人ずつ行方不明になります。  最初のうちは駆落《かけおち》が流行《はや》るとばかり思い込み、娘を失った親や、若い女房に逃げられた夫は、内々心当りを捜しておりましたが、何の手掛りもないばかりでなく、不思議なことに、行方不明になるのは女だけで、男の方には一人も間違いがありません。  年を越すと、その傾向はますます激しくなって、とうとう毎月三人四人と大量の行方知れずがあるようになりました。  若い美しい女ばかり、声も立てず、形も残さず、描いたものを拭き消すように行方知れずになるのですから、江戸中の不安は募るばかり、そのうち誰ともなく――神隠しだと言い始めると、この宿命的な妖神《まがつみ》の悪戯《わるさ》に対して、町人達――わけても美しい娘や女房を持った人々は、本当に顫《ふる》え上がってしまいました。  そんな馬鹿な事があるものか――と江戸の御用聞手先は、一斉に奮起しましたが、足跡一つ残さず、コトリと音も立てずに、若くて美しい娘達をさらって行く手際は、全く人間業とは思われません。  こうして銭形の平次が登場するまで、江戸の娘達が三十人も姿を隠したでしょう。 「親分、こいつは諦《あきら》めものかも知れませんよ。銭形の親分に三月越し塩を舐《な》めさせて、影法師も掴《つか》ませねえんだから」  ガラッ八は遠慮のないところをズケズケやります。 「…………」 「神隠しじゃ平次親分でも歯が立たねえ」 「馬鹿野郎、若い綺麗な娘ばかり隠すような神様があるものか」 「へッ」 「人間の仕事だよ、それもとんでもねえ悪党だ」  平次とガラッ八は、そんな事を言いながら、一応石原の利助を訪ね、利助の娘のお品と一緒に、改めてお仙とおまき[#「まき」に傍点]とおらく[#「らく」に傍点]の家へ行ってみました。  お仙の父親というのは、定《き》まった職のない日傭取で、 「お仙の阿魔《あま》に男なんかあるものか、紅白粉《べにおしろい》はおろか、油|一貝《ひとかい》買ったことのねえ身の上だ――へッ」  打ちひしがれ[#「ひしがれ」に傍点]たようになりながらも、貧乏を売物にする日頃の癖をそのまま、こんな事を言っております。 「どうして姿を隠したんだ、詳しく話してくれまいか」  と平次。 「詳しいにもザツにも話しようがねえ、久し振りで湯に入りたいって言うから、湯銭だけ持たしてやると、フラリと出かけたっきり、今日で二日二た晩も帰《けえ》らねえ。親分の前だが、そんな長い湯はどこの世界にあるんだ」  この期《ご》に臨んでも、自棄酒《やけざけ》が手伝うせいもあるでしょうが、捨鉢な洒落《しゃれ》を言っております。次の駄菓子屋は留守。――  最後に石原新町の鋳掛屋へ行ってみると、 「銭形の親分さんで。お願いでございます、娘を探し出して下さい。悪者は二階から押し込んで来やがって、娘をさらって行ってしまいましたよ、――男があるだろうっておっしゃるんですか、ジョ、冗談じゃありません、俺《あっし》の娘と来た日にゃ町内でも評判の孝行者で――」  親父はおろおろ[#「おろおろ」に傍点]しながらも、職人らしい威勢のいい事を言っております。 「親分、怪物《えてもの》は隣の天水桶《てんすいおけ》を踏台にして、庇《ひさし》を渡って二階へ押し込んだんだね」  とガラッ八、天水桶の埃《ほこり》の上に印された足跡のようなものや、板庇に残る、破損の跡などを念入りに調べております。 「庇を渡ったのはよく解るが、外から雨戸を開けて入ったのは、どんな手品を使ったんだ」  と平次。 「すると――?」 「娘のおらく[#「らく」に傍点]さんが自分で雨戸を開けて二階から出たんだよ」 「そんな事があるものですか親分、家の娘に限って――」  鋳掛屋の親父はやっき[#「やっき」に傍点]となりますが、平次は一向気にも留めない様子で、家の造り、雨戸の具合などを念入りに見た上、大渋りの親父を説き落して、娘の持物から、貧しい着物まで一と通り眼を通しました。 [#5字下げ]二[#「二」は中見出し] 「八、お前《めえ》は不思議だとは思わないか」  利助の家へ引揚げると、平次はいきなりこんな事を言い出します。 「何が不思議なんで、親分?」 「今まで誘拐《かどわか》された女の身許を十五六軒も当ってみたが、一人も藻掻《もが》いたのがねえ」 「…………」 「皆んな気を揃えて、素直にさらわれ[#「さらわれ」に傍点]ているのはどうしたわけだ。二三十人のうち、一人でもいいから悲鳴をあげたのがあるとか、血を流したのがあると張合があるが、そっと消えてなくなったんじゃ、探す方も励みがねえ」 「…………」 「駆落でないことは確かだ、さらわれ[#「さらわれ」に傍点]た娘と、何かと評判のあった男が皆んな指をくわえて取残されているんだから」 「親分」  不意にお品が口を出しました。一時は銭形平次と張合った御用聞、石原の利助の一人娘で、親の利助が身体を痛めてから、残された子分どもを号令して、まだ若くも美しくもある癖に、江戸中の御用聞と肩を並べて、一歩も退《ひ》けを取らぬ娘――だったのです。 「何だえ、お品さん」 「こんな事は、親分はとうに御存じでしょうが」 「いや、存外気が付かずにいるかも知れねえよ」 「さらわれ[#「さらわれ」に傍点]た娘やお神《かみ》さんは、皆んなその日の物に困るような人達ばかりじゃありませんか」 「その通りだよお品さん、金持の娘や女房を狙わないのは、何か仔細のあることだろう。とにかく、諸人の難儀を黙って見ているわけには行かねえ。乗りかかった船だから、思い切り突っ込んでみようと思うが、お品さん、手を貸して下さるかい」 「それはもう、本所から深川にかけて荒されているんですもの、どんな事でもして悪者を挙げなきゃア、父《とっ》さんの顔にもかかわります。こちらからこそお願い申さなければなりません」  お品は膝に手を置いて、物柔かに平次を振り仰ぎました。少し淋しい細面ですが、水火の中へでもといった気組みが、その切れの長い眼や、キリリと引締った唇にも溢れます。 「こうなれば、最初からやり直しだ。お品さんは手蹟《て》が良いから、御苦労でも去年の暮からさらわれ[#「さらわれ」に傍点]た人の名と、年と、町所《まちどころ》と商売とを調べ上げて、さらわれた日と時刻と、出来れば天気と手口を順々に書いておくんなさい」 「それくらいの事でしたら、――でも筆蹟《て》は良くはありませんよ」 「それから八は、吉原《なか》は言うまでもなく四宿の盛り場を廻って、去年の暮頃から住込んだ、新顔の妓《おんな》に出来るだけ逢ってみるんだ」 「へッ、こいつは悪くねえ仕事だね」 「馬鹿、いちいち役得のつもりでデレデレしていると、限《きり》がねえぞ、少なく積って三百人や四百人は居るだろう」 「親分は?」 「俺は昼寝をしながら考え事をするよ」  平次はこうして江戸中の岡っ引が思いも寄らなかった組織的な捜査網を張ったのでした。 [#5字下げ]三[#「三」は中見出し]  それから半月経ったある日江戸の街々の甍《いらか》の上に泳いだ鯉幟《こいのぼり》が影を潜めると、長い旅に出ていた平次はどこからともなく、神田の家へ帰って来ました。 「今|帰《けえ》ったよ」 「あ、お前さん――、お帰んなさい」  飛んで出た女房のお静は、片襷《かただすき》をかなぐり棄《す》てるように、縋《すが》り付きたいのを我慢しいしい、姉さん冠りの手拭を取って、平次の肩から裾へ、旅の埃《ほこり》を払ってやるのでした。 「留守中誰も来なかったかい」 「え、どなたもいらっしゃいません」 「お品さんと八が来るはずだが――」  平次はそう言いながら、井戸端で足を洗って、清々した浴衣《ゆかた》に着換えていると、八五郎とお品が伴《つ》れ立ってやって来ました。 「親分、お帰んなさい――、半月昼寝をしていたにしちゃ、陽に焦《や》けたね」 「つまらねえ事を覚えていやがる、ところで早速だが、頼んだ事はどうした」  平次はお品に座蒲団《ざぶとん》を勧めながら、明るい初夏の光を浴びて、何の憚《はばか》る様子もなくこう八五郎に話しかけるのでした。 「それが驚いたよ、親分、江戸の盛り場というものは、思いの外大したものだね」 「当り前《めえ》だ」 「妓《おんな》の数もあんなにあろうとは思いも寄らなかった。毎日毎日、白粉臭いのを首実検してつくづく厭《いや》になりましたよ、おしまいには嘔気《むかつ》いて来る」 「とんだ役得だ、――ところで、さらわれ[#「さらわれ」に傍点]た女に一人でも出っくわしたか」  平次は冗談を言いながら膝を進めます。 「一人も居ねえ、――身を沈めた理由《わけ》を聞くと、どれもこれも気を揃えて親のためだ。何だって江戸の盛り場にはあんなに親孝行が多いんだろう」 「馬鹿野郎」 「吉原《なか》から始まって、千住《せんじゅ》、新宿、品川、板橋、の四宿を始め、大根畑から金猫銀猫、いろは茶屋といった岡場所、比丘尼《びくに》から夜鷹《よたか》まで、八丁堀の旦那の御声掛りで、町役人立会の上|虱潰《しらみつぶ》しに見て廻ったが、暮から先月へかけて、本所深川でさらわれ[#「さらわれ」に傍点]た娘などは一人も居ねえ」  ガラッ八は調子に乗って、少し仕方噺《しかたばなし》になりました。 「御苦労御苦労、大方そんな事だろうとは思ったが、一度当ってみないうちは安心がならねえ、――ところでお品さん」 「親分、家の若い者に手伝わせて、こんなものを拵《こしら》えてみましたが、役に立つでしょうか」  お品は風呂敷を解くと、半紙|横綴《よこつづ》り十枚ばかりのを出して、極り悪そうに平次の前に押やります。 「これは大変だ、――口で言うと何でもないが、十何ヶ町を歩いて、これだけ書き上げるのは容易でない」  平次はバラバラとくりひろげて、ザッと眼を通しましたが、何に驚いたか、重ねて、 「お品さん、不思議なことがあるが、気が付きなすったか」  こう言いながら、膝の上の帳面を叩きます。 「施行《せぎょう》のことでしょう」  お品の賢い眼はまたたきます。 「それだよ、お品さん、人さらい[#「さらい」に傍点]のあった町は、みんな本銀町《ほんしろがねちょう》の巴屋三右衛門《ともえやさんえもん》が、施米《せまい》をした町ばかりだ」  平次は大変なことに気が付きました。  巴屋というのはその頃、越後屋《えちごや》と対抗した江戸一流の呉服屋で、呉服の外に、大伝馬町《おおでんまちょう》、金吹町《かなぶきちょう》などに唐物屋《とうぶつや》、米屋、金物屋などの店を持ち、今の百貨店《デパート》を幾つにも割ったような豪勢な商売をしている店でした。  主人の三右衛門は、やがて五十にも近い年配ですが、商売熱心な上に、世にも有難い心掛けの男で年中善根を施すのを楽しみにしている人間だったのです。  もっとも、長者番付の三役所で、金に不自由のないせいもあったでしょう。諸方の寄付寄進はもとより、付合の費用にも糸目をつけず、その上昨年の夏頃から、浅草、本所、深川を中心に、毎月八の日を決めて、一ヶ月一ヶ町の施米をはじめ、町役人の肝煎《きもいり》で、その町内の者でさえあれば、一人三升ずつの米を施していたのです。  施米を貰う資格は、女か子供と限られました。いかに世並《よな》みが悪いといっても、凶作|飢饉《ききん》というでもないのですから、大の男が笊《ざる》や風呂敷を持って三升の米を貰う行列に加わるわけにもいかず、女子供に限ったのは、まことに当然の制限でもあったのでした。 「親分、その上、人さらい[#「さらい」に傍点]は、施米のあった町を順々に荒していますよ」  お品は註を入れました。 「なるほど、これは面白い。去年の九月が長崎町、十月が松倉町、十一月は中《なか》ノ郷《ごう》、十一月は飛んで森下、それから海辺大工町、それから浅草へ行って――これは驚いた、人さらい[#「さらい」に傍点]は執念深く施米の後を追っかけて歩いている」 「親分、そりゃどういう判《はん》じ文《もん》だろう?」  ガラッ八の鼻はキナ臭く蠢《うごめ》きます。 「巴屋は万両分限の筆頭だ、まさか貧乏人の娘をさらって売るはずはねえ」  銭形の平次にも、これ以上のことは解りません。 [#5字下げ]四[#「四」は中見出し] 「親分、どこで昼寝をしてなすったんで」  ガラッ八は改めて訊きました。 「ハッハッハッ、よっぽど俺の昼寝が癪《しゃく》にさわったとみえるな、――安心するがよい、奥州街道、中仙道、甲州街道の手近な宿々を捜し廻った上、東海道はわざわざ箱根まで行ってみたが、この半年の間に関所破りもなく、怪しい女も通らねえ。それから、別に人をやって品川と三崎と伊豆の船番所も当ったが、女を乗せた船なんか一隻も通らねえとよ」 「ヘエ――」  昼寝どころの沙汰ではありません。たった十五日間に平次がどれだけ骨を折ったか、ガラッ八は今さら唸《うな》るばかりです。 「三十人の女は、江戸の盛り場にも売られず、上方へ送られた様子もねえとなると、どうしても江戸に居なきゃアならないはずだ、――もっとも、生きているか、死んでいるか、そこまでは解らないが――」 「親分」  お品はさすがに怯《おび》えました。 「三十人の若い女だ。生きていれば泣きも笑いもするだろう、殺されたにしても、死体のやり場があるめえ」  平次の言うのは尤《もっと》もでした。江戸の真ん中で、三十の死体を、人目に触れないように処分する方法はありません。 「どうすりゃアいいんだろう、親分」  とガラッ八。 「たった一つ工夫がある、――が、これはむつかしい、命がけの仕事だ」  平次は何やら思い惑う様子です。 「親分、命がけの仕事なんざ、お茶漬ほどにも考えちゃいないこちとら[#「こちとら」に傍点]じゃありませんか。八、これをこうしろ――と威勢よくやっておくんなさい」  ガラッ八の八五郎は、はみ出した膝小僧を擦《さす》りながら、上眼使いに平次の打ち沈んだ顔を睨《ね》め上げるのでした。 「手前《てめえ》で間に合や、命惜しみなんぞするものか。ただ、こいつはいけねえ、女の子でなきゃア役に立たない仕事なんだ」  口ではこんな荒っぽい事を言いながらも、平次の霑《うる》んだ眼は、ガラッ八の純情を感謝しております。 「役に立つかどうか解りませんが、私ならどうでしょう」  お品は虔《つつ》ましく口を容《い》れました。 「お品さん、それはいけねえ、そんな事をして貰っちゃ石原の兄哥《あにき》に済まねえ」  平次は頑固《かたくな》に頭を振りました。 「でも親分、本所深川の人さらい[#「さらい」に傍点]を、この上放っておいては、父親の名折れになります」  お品の決心にも拠《よ》りどころがあります。親父の利助に代って、十手捕縄を辱《はずか》しめないためには、生命《いのち》を的の仕事に飛込むのも已《や》むを得ないことだったのです。 「なるほど、そう言えばその通りだが、こればかりはいけねえ」 「どんな事をやらかしゃいいんで? 親分」  ガラッ八はまた横合から口を入れます。 「明日は八日で巴屋の施米日だ。今度は徳右衛門町《とくえもんちょう》と菊川町《きくがわちょう》の二ヶ町の人数を南辻橋の橋詰の空地に集めると言うから、綺麗な娘を一人土地の者に仕立て、笊《ざる》か何か持たせて、施米を貰いにやろうという寸法だ、――だが、この囮《おとり》は、若くて綺麗でなくちゃ勤まらない」 「それじゃ、私では勤まりそうもありません」  お品は、――若くて綺麗でなくちゃ――と聞いて、淋しく笑って紛らせてしまいました。出戻りには相違ありませんが、白粉気《おしろいけ》さえ嫌ったお品は、美しくなければならぬ囮などを買って出るような、嗜《たしな》みのない女ではなかったのです。 「冗談でしょう、お品さんほどの新造《しんぞ》は、本所深川に五人とはねえ」  とガラッ八。 「馬鹿野郎、何て口を利きやがる」 「ヘエ」  平次にたしなめられて、一ぺんで凹《へこ》んでしまいました。 [#5字下げ]五[#「五」は中見出し]  南辻橋の空地、粗末な葭簾張《よしずばり》の小屋に、青竹の手摺をぐるりと繞《めぐ》らしたところへ、界隈《かいわい》の女子供は目の詰んだ笊《ざる》や、風呂敷持参で朝のうちから詰めかけて来ました。  世話人は巴屋の番頭手代に、町内の鳶頭《とびがしら》、臨時にかり集めた人足など、土間に積んだ二三十俵の白米を一俵ずつほぐすと、順々に入って来る女子供へ、枡《ます》で量って威勢よく頒《わ》けてやっております。  一人三升、少々ぐらいの暮しの家は、無理をしても家族交代で出て来る仕組になっておりました。町役人は人別帳を控えて、かねて家主から渡しておいた短冊形の切手と引換えですから、手数な代り誤魔化《ごまか》しも間違いも起りません。  巳刻《よつ》(十時)を少し廻ると、主人《あるじ》の巴屋三右衛門は番頭と鳶頭を従えて、見廻りにやって来ました。五十少し前といった、デップリした恰幅《かっぷく》で、柔和な眉、少し鋭い智恵の輝きを思わせる眼、二重|顎《あご》、大町人らしい寛闊《かんかつ》なうちにも、何となく商機に敏《さと》い人柄を思わせるのが、地味な紬《つむぎ》を着て、ニコニコ遜《へりくだ》った微笑を湛《たた》えながら、そっと小屋の横から、施米の忙しさや、手摺の外の群衆などを満ち足りた様子で眺めているのでした。 「あれが巴屋の旦那だよ」 「ヘエ――、道理で福相だ、大したものだね」  三升だけのお世辞を言いながら、小腰を屈めて遠くから挨拶をする者などがあります。 「旦那、銭形の平次親分が来ていますよ」 「何? 銭形?」 「あれ、向うから施米の行列を見ているのは、平次親分と子分の八五郎でございますよ」  番頭に注意されると、巴屋三右衛門は黙って点頭《うなず》いて、二人を従えたまま平次の方へ近づきました。 「これは銭形の親分、御苦労様で」 「巴屋の旦那でしたか、結構な善根ですね、皆んなどんなに喜んでいることでしょう」 「いやそう言われると極りが悪い、ほんの少しばかり、私の気紛れですよ」 「毎月の事ですから、気紛れや道楽では続きゃしません、恐れ入りました」 「いやもう」  三右衛門は本当に恥かしそうに顔を赤らめましたが、心の中では、銭形平次に褒められたのを、どんなに喜んだかわかりません。 「ところが巴屋の旦那、世の中には良いことばかりはないもので、こんな結構なことのある本所深川に、近頃若い女の誘拐《かどわかし》が流行《はや》るのには困ったものじゃありませんか」  平次は妙なことを言い出しました。 「そんな噂《うわさ》も聞きましたよ、困った事で――」  三右衛門の柔和な顔が少し顰《ひそ》みました。 「それに、不思議なことに、人さらい[#「さらい」に傍点]のあった町は、施米のあった町ばかりで」 「えッ」 「施米の順で人さらい[#「さらい」に傍点]をやるのは妙じゃありませんか」  何を考えたか、平次は思い切ってズバズバ物を言います。 「それは初耳でしたよ、なるほど、そんな事もありましたかね」  巴屋の主人もさすがに驚いた様子です。 「何か心当りはありませんか」 「心当りは少しもありませんが、どうかしたら、私の施米にケチを付けようという企みじゃありませんか」 「…………」 「商売気離れた施米で、もとよりお客様の御心持、人気などを考えたわけじゃありませんが、これをやり始めてから不思議に商売の方が良くなって行きます」 「そんな事もあるでしょうね」 「手前どもの商売がよくなると一方には悪くなる方もあるわけでしょう、ツイ人間の浅ましさで、私を怨《うら》む者も出来るわけで――」  巴屋はこうスラスラと言いましたが、平次の探るような眼を見ると、ピタリと口を噤《つぐ》んでしまいました。 「旦那、お店を怨む者にお心当りはありませんか」  平次は一歩進めました。 「さア、それは。別に心当りと申すほどの事はありませんが――」  三右衛門は大店《おおだな》の主人らしく、鷹揚《おうよう》に笑ってそっぽ[#「そっぽ」に傍点]を向きます。  その時、平次の眼は、施米の行列の先頭、ちょうど小脇に抱えた笊《ざる》へ、三升の白米を入れて貰っている二十一二の女の眼と逢いました。 「あ」  平次は危うく声を立てるところでした。  若い人妻らしいその女の美しさが、四方の汚いのに反映して、あたりにも輝かしいばかりでなく、その身扮《みなり》がまた、顔形とは似も付かぬ凄まじい汚さだったのです。  肩も膝も抜けた素袷《すあわせ》、よれよれの帯を締めて、素足に冷飯草履、埃《ほこり》だらけな髪を引詰めて疣尻巻《いぼじりまき》にし、白粉の気が微塵《みじん》もないのに、沢《つや》の良い玉のような顔の色は、どう見てもその日の物に困る人間ではありません。  その女が米を貰って、イソイソと逃げるように立ち走ると、少し離れて南辻橋の袂《たもと》に立っていた、頬に古い傷痕《きずあと》のある遊び人風の男が、どこやらと合図を交しているのが、物に馴れた平次の眼には、実によく判るのです。 「巴屋の旦那、――私がこうして、施米を見張っているわけはお判りでしょうね。この上、人さらい[#「さらい」に傍点]などがあると、これほどの善根も沙汰止《さたや》みにならないとも限りません。そうなると第一貧乏人が可哀相じゃありませんか」  平次は妙な事を言い出します。 「有難うございます。親分が見張って下さるんで、どんなに心強いかわかりません、――でも、世間では、人さらい[#「さらい」に傍点]は人間業ではない、あれは神隠しだ――と言っているそうですが」 「そんな馬鹿なことがあるものですか、人間も人間、容易ならぬ人間ですよ、――だが旦那、私も銭形とか何とか言われて、少しは悪者に烟《けむ》たがられた男です。女の子をさらう[#「さらう」に傍点]ような、卑怯《ひきょう》な野郎に負けようとは思いも寄らない、私が見張っているうちは、指も差させるこっちゃありませんよ」  平次は日頃にもない大言壮語を吐き散らします。驚いたのは側に居たガラッ八、――いやそれより驚いたのは巴屋の三右衛門でした。 「親分、それは本当で」 「私《あっし》は自慢は大嫌いですよ」 「ヘエ――」  これでは挨拶のしようがありません。 [#5字下げ]六[#「六」は中見出し] 「親分、またやられたッ」  ガラッ八が飛込んで来ました。南辻橋の施米があってから三日目です。 「菊川町の盲目の太助の出戻り娘だろう」 「親分は、どうしてそれをッ」 「大変な事になった、来いッ、八」  平次は脇差をブチ込むと、サッと飛出しました。続くガラッ八、女房のお静は呆気《あっけ》に取られてその後ろ姿を見送っております。 「親分、何をそんなにあわてなさるんで」  菊川町の裏、盲目の太助の汚い家の前に着いた時ガラッ八はたまり兼ねて平次の袂を引きました。 「黙っていろ、今に判る」  平次は好奇心でハチ切れそうになっているガラッ八を払い退けて、太助の家へヌッ[#「ヌッ」に傍点]と入ります。 「お品さんが見えなくなったそうじゃないか、どうしたんだ」 「銭形の親分さんで――今神田のお宅へお知らせしようと思っていたところですよ」  太助は見えぬ眼を見開いて、さして驚く風もなく、この闖入者《ちんにゅうしゃ》を迎えます。 「親分、お品さんはどうしたんです」  ガラッ八はたまり兼ねて後ろから首を突込みました。 「俺があんなに止めたのに、この家の娘の身代りになってさらわれ[#「さらわれ」に傍点]たんだ。――綺麗自慢と思われたくないから、一度は思い止まったような事を言っていたが、お品さんは気性者だから、あんな事で引込む人じゃねえ」 「ヘエ――」 「施米の時、姿を変えて来たのを、お前は気が付かなかったろう。身扮《みなり》を落すと、あの人は後光が射すほど綺麗だったよ」 「ヘエ――」 「俺は巴屋の旦那に言うような顔をして、その辺に様子を見ていた悪者へお品さんをさら[#「さら」に傍点]ったら承知しねえ――ということを呑込ませるつもりで、つまらない自慢を言ったが、あれがかえって悪かったんだ。悪者は俺の鼻を明かすつもりでお品さんをさら[#「さら」に傍点]ったんだ」  平次は今さら口惜《くや》しがりますが、どうすることも出来ません。  いろいろ盲目の太助から聞くと、お品は施米の前の晩そっと太助を訪ね、わけを話して太助の娘――出戻りながら美しいという評判の娘――になりすまし、真物《ほんもの》の娘は石原の家へ預けて、翌《あく》る日、施米を貰いに出掛けて行ったのでした。  お品は賢い女には相違ありませんが、女の本能が教えてくれる「自分の美しさ」だけははっきり知っていたのです。  それから三日、お品は実によく化けおおせました。平次はお品の留守にそっとやって来て、太助に様子を訊き、いろいろ打合せもしましたが、せっかく決心をして、貧しい生活に我慢しているお品の計画を破るわけにも行かず、危ぶみながらも成行きを見ていたのでした。 「お品さんは、昨夜までは確かにここに居ました。私は俄《にわか》盲目で感が悪いが、これは間違いありません。今朝起きてみると、どこへ行ったかいつもの声も足音も聞えず、手探りで捜してみると、雨戸が一枚明けっ放しになっておりました」  太助の話はこんな事で、一向取止めもありませんが、お品の行方知れずになったのは、夜中過ぎ、どうかしたら暁方《あけがた》ではあるまいかと思われるのでした。  平次とガラッ八は、一応太助の家の内外を見せて貰いましたが、何の手掛りもありません。路地には足跡一つあるわけでなく、雨戸は間違いもなく中から開けたもので、強いて言えば、今までさらわれ[#「さらわれ」に傍点]た女達のように、あの賢いお品も、フラフラと戸を開けて、怪しの物に操られるように、フラフラと出て行ったという外には、見当も付けようがありません。 「帰ろうか」  二人は徳右衛門町の河岸《かし》の端を一つ目橋の方へ辿《たど》りました。 「おや、何でしょう、親分」  ガラッ八は立止って橋の欄干《らんかん》を指しております。 「ウーム」  平次も唸《うな》りました。橋の欄干の手前寄りに消炭《けしずみ》でかなり大きく、銭の形が一つ描いてあるのです。 「お静さんが花嫁に化けた時やった術《て》だ、――これは間違いもなくお品さんですぜ」  ガラッ八は心得顔に一つ目の橋を渡って両国の方へ早走りになります。  両国橋の本所寄りの方にも、これは直径《さしわたし》五寸もあろうと思われる大銭形が一つ。もう疑いも何にもないような気になって、ひた走りに広小路へ、――ここへ来ると、さすがに躊躇《ためら》います。  巴屋の店の方へ行く順路は、柳橋を右に見て、横山町を真っ直ぐに大伝馬町から本町《ほんまち》へ出るのですが、その辺の横町、路地、大通りには、銭形の栞《しおり》などは一つもありません。  念のため、引返して薬研堀《やげんぼり》へ行くと、元柳橋の欄干に一つ、これは小さいが橋が新しいのでくっきり[#「くっきり」に傍点]目に付きます。 「あったあった」  ガラッ八は鬼の首でも取ったように飛び上がります。  そこから湊橋《みなとばし》まで、辿り着くのに小半刻《こはんとき》かかりましたが、結局、銭形栞を辿って、南新堀の廻船間屋|浪花屋《なにわや》の前に立っていたのでした。  そこには、表に積んだ天水桶に、消炭ながら黒々と銭形が一つ描いてあったのです。 [#5字下げ]七[#「七」は中見出し]  浪花屋へ入って、主人に逢いたいが――と丁寧に言うと小僧はおよそ腑《ふ》に落ちない顔をして、 「先刻《さっき》、三輪《みのわ》の万七親分が来て誘拐《かどわかし》の疑いがあるとかおっしゃって、旦那に縄を打って伴《つ》れて行きましたよ、――番頭さんも三人縛られましたが、どんな御用でしょう」  そんな事を言っております。 「あッ」  驚いたのはガラッ八でした。せっかく手繰って来ると、三輪の万七に挙げられたんでは、まるっきり形無しです。 「たいそう早く手が廻ったな、――もっとも俺はここの主人を縛るつもりで来たのじゃない、――三輪の兄哥《あにき》が縛ったのは何かの間違いだろう。お内儀《かみ》さんに、あまり心配しないようにって言うんだよ」  平次はそう言いながら外へ出ました。別に負け惜しみを言っている様子もないのが、ガラッ八には不思議でたまりませんでした。 「親分、浪花屋でなきゃア、誰がお品さんをさら[#「さら」に傍点]ったんでしょう」 「そんな事が判るものか」 「消炭《けしずみ》で描いた銭形は?」 「偽物だよ、よく見るがいい、書いてある場所が誂向《あつらいむ》きすぎるし、第一、悪者にさらわれて[#「さらわれて」に傍点]行く女が、あんな手際の良いものを書けるわけはねえ」 「ヘエ」 「念入りに円《まる》を描いて、中へ丁寧な角《かく》を入れているぜ。浪花屋の天水桶のなんか、男でなきゃア、描けない高さだ」 「なア――る」 「その上、浪花屋の前を通り越して、霊岸橋《れいがんばし》の袂へ消炭の片《かけ》らを捨てて行ったのは、どうだ。お品さんは浪花屋の天水桶へ目印の栞《しおり》を書いて、ここへ入りましたと教えておきながら、霊岸橋を渡って鎧《よろい》の渡《わたし》の方へ行ったことになるぜ」 「親分、恐れ入った」  ガラッ八はこの素晴らしい親分の前に、心からなるお辞儀を一つ、ピョコリとやったものです。 「馬鹿野郎、往来で人の尻へお辞儀なんかしやがって、人様が見て笑ってるじゃないか」 「ところで親分、これからどうしたものでしょう」 「俺にも見当が付かない」  二人は間もなく鎧の渡に立っておりました。 「向うへ渡るんですか」  と船頭。 「向うへ渡ってもいいが、今朝イの一番にここを渡ったのはどんな人間だい」  平次はさり気ない調子で訊ねます。 「朝河岸へ行く肴屋《さかなや》でしたよ」 「それから」 「青物市場へ行く人と、茅場町《かやばちょう》の薬師様へのお詣りの人と、それから――」 「巴屋の番頭か手代は渡らなかったかい」 「知りませんね」  平次の身分を覚《さと》ったものか、面倒臭い問にも思いの外丁寧に答えてくれます。 「頬に傷のある遊び人風の男は?」 「そんな人は渡りませんよ」  平次はフト、南辻橋の施米の時、橋の袂で何やら合図をしていた男の事を思い出したのです。あの時はお品の変装に気を取られて、惜しい生き証拠を逃がしましたが、お品をさらった時一と役勤めたくらいですから、昨夜の一件にも、関係していないはずはないと思い当ったのです。 「遊び人風の男は存じませんが、頬に傷のある堅気の男なら通りましたよ」 「えッ、それは誰で、どこへ行った」  ガラッ八がたまり兼ねて口を出します。 「あれは親分方の探しなさるような男じゃありません。本銀町《ほんしろがねちょう》でも名うての堅い人間で、あんまり堅いんで、融通がきかないというものか、塀隣の巴屋さんと年中|喧嘩《けんか》している男ですよ」 「誰だい、その男は」 「桶屋の甚三郎《じんざぶろう》と言や、日本橋で知らない者のない因業《いんごう》な片意地な人間ですぜ」 「あれが桶甚《おけじん》か」  平次も驚きました。あの南辻橋の袂に居た遊び人風の男と、若いくせに、頑固一徹で通っている桶甚と、同じ人間とはどうしても思えませんが、船頭に言われてみると、なるほど思い当る事がないではありません。 「桶甚と巴屋はそんなに仲が悪いのか」  平次は重ねて訊ねました。 「悪いの悪くないのって、何しろ一方はあの通り片意地で、桶屋といっても、早桶ばかり拵《こしら》えてる人間でしょう。巴屋さんの方はあの通り派手で、金持で、施しが好きで、江戸中に人気のある人だから、土台|反《そり》が合いません。塀隣のくせに、年中|啀《いが》み合いの喧嘩でさ、もっとも巴屋さんが金に飽かして桶甚の家屋敷を買おうとしても、旋毛《つむじ》を曲げて動かないのが喧嘩の因《もと》なんだそうで――」  平次は老船頭の饒舌《おしゃべり》をいい加減に聞いて、船から飛降りると、一散に本銀町へ駆けて行きました。 [#5字下げ]八[#「八」は中見出し]  本銀町の一角、一町四方もあろうと思う巴屋の店の後ろに、もう一町四方ほどの高い塀をめぐらして、巴屋の豪勢な住居《すまい》があります。その高い塀の下に、押し潰《つぶ》されそうになりながら、頑張っている早桶屋――巴屋が金に飽かして地所ごと買い取ろうとするのを、頑固にハネ飛ばして、三方塀に囲まれながら、ダニのように喰い下がっているのが、名代の片意地者甚三郎だったのです。  平次とガラッ八が、桶屋の店先に立つと、 「そこに立っちゃ暗いよ」  大肌脱いで桶の仕上げをしながら、上眼使いにジロリと見たのが、例の名物男の甚三郎です。  年の頃は四十前後、左の頬にかなり古い傷痕はありますが、これが南辻橋の袂に立っていた、小意気な遊び人とはどうしても思えません。 「親方、精が出るね」 「早桶の註文かい」  どうも少し食い付きよくありません。 「お前さん昨夜《ゆうべ》どこへ行きなすったえ」 「何?」 「お品さんをどこへ隠したんだ、それを教えて貰おうか、次第によっちゃお前を入れる早桶を註文するよ」 「何だと、手前は一体誰だ」 「神田の平次だよ」 「あッ、銭形の親分」  甚三郎は急に肌を入れると、一つピョイとお辞儀をしました。 「施米の時からお品さんをつけ廻していたようだが、昨夜どこへ伴《つ》れ込んだんだ」  平次は手厳しく、――が、事務的に言葉を進めました。 「何をおっしゃるんで、親分」 「白ばっくれちゃいけねえ、菊川町から、念入りに橋々へ銭形を書いたのは御苦労だったネ」 「私には何が何やら少しも解りませんよ」  桶甚は持前の片意地を発揮して少しムッとした様子です。 「その手を見せろ」  あっ[#「あっ」に傍点]と言う隙もありません。平次はいきなり飛付くと、桶甚の右の手をグイと握りました。掌には何の異常もありません。 「手がどうかしましたか」 「見ろ、手は洗ったが、爪の間を掃除するのを忘れたろう。消炭がこんなに付いてるじゃないか、太い野郎だ」 「あっ」  飛退くと甚三郎の手には、キラリと鑿《のみ》が閃《ひらめ》きましたが、早くも飛付いた八五郎、後ろから、鑿を持つ手ごと、一流の剛力で羽交締《はがいじ》めにしてしまいました。 「神妙にせえ」  必死と騒ぐ甚三郎は、二人の手で高手小手《たかてこて》に縛り上げられてしまいました。  雇人は逃げ散り、女子供は、顫え上がっているので、もう二人を妨げる者もありません。 「八、その野郎を逃がすな、俺は家の中を捜してみる」  平次は一と間一と間、恐ろしく念入りに調べ始めました。店にも、居間にも、お勝手にも何の変ったところもありません。が、風呂場へ入って、その中へ据えてあるくせに、一向使ったようにもない商売物の真新しい風呂桶を見ると、何の気もなく、それを動かしてみたくなったのです。  ガラッ八を呼んで、二人がかりで少し退《の》かせると、下から現れたのは、少し土を冠った千両箱が三つ。 「あッ」  平次は予期した事ですが、ガラッ八が仰天してしまいました。 「まだ面白いものがある。来い、八」  風呂場の裏の炭部屋に入ると、平次はいきなり羽目板に手をかけて、存分に押してみました。 「あッ」  もう一度驚くガラッ八の前へ、三つ目の板がスッ――と開いて、明るい庭の景色が映ったのです。 「ちょうど隣の巴屋の塀の下だから、抜け道はこの辺だろうと思ったよ、八、驚かずに伴《つ》いて来い、その縄付きを逃がしちゃならねえよ」 「ヘエ――」  こうなると、平次の御意《ぎょい》のままです。ガラッ八は桶甚を追っ立てるように、パアッと明るい庭へ出ました。 [#5字下げ]九[#「九」は中見出し]  江戸|阿呆宮《あほうきゅう》――読者はこんな言葉をお聞きになったことがあるでしょうか。  平次とガラッ八が入って行ったのは、世にも不思議な歓楽境で、巴屋三右衛門が一代の智恵を絞って建てた、地上の女護島《にょごがしま》だったのです。  その設備の怪奇さ、中に養われている美女の夥《おびただ》しさ、さすがの平次とガラッ八も度胆を抜かれてしばらくは口もきけない有様でした。  母屋《おもや》の外《ほか》に土蔵七|棟《むね》、それを繋《つな》ぐ廊下、泉石《せんせき》の奇を尽し、さして広くはありませんが、善美を尽した豪勢な構えは、見ぬ世の龍宮と言ってもこれほどではなかったでしょう。  オランダの敷物、ペルシャの壁飾り、インドの窓掛、ギヤマンの窓、紫檀《したん》黒檀《こくたん》に玉《ぎょく》を彫《ちりば》めた調度、見る物一つとして珍奇でないものはありません。  巴屋三右衛門はここに貧民の中から盗んだ美女を集め、淫蕩無比《いんとうむひ》の歓楽境を作って、慈悲善根に余念のない大町人の仮面を冠り、世にも憎むべき二重生活を営んでいるのでした。  三右衛門の意に従わない者は、虫のように押し殺されて、早桶屋の甚三郎の手で、極めて自然に処分されてしまいました。  残るのは、栄華に眼がくれて、この阿呆宮を地上の楽園とも思い込んでいる者ばかり。  これほどの騒ぎの中に、開いてやった土蔵の扉《と》からたった一人も逃げ出そうとする者のないのには、さすがの平次も腹の底から驚いてしまいました。いや、この罪悪の淵《ふち》から脱け出そうとする良心を持ったのは、とうの昔に殺されていることに気が付かなかったのです。 「さアさア皆んな親許へ引渡してやる、外へ出ろ」  平次は七つの土蔵をめぐって、豪奢《ごうしゃ》を極めた部屋部屋へ触れて歩きましたが、三十余人の女どもは振り向いてみようともしません。 「親分、桶甚が逃げましたぜ」 「何?」  いつの間にやら二人は、土蔵の奥の一室に閉じ込められて恐ろしく巌丈《がんじょう》な大扉《おおど》が背後《うしろ》に鎖《とざ》されているのに気が付きました。 「どれどれ生け捕ったか、――それはよかった」  格子の前には、三右衛門と甚三郎、こっちを指してニヤリニヤリと笑っております。 「焼くわけにも行くまい、硫黄で煉《いぶ》して、少しイキの悪くなったところを、手前ものの早桶にでも入れて泉水に沈めましょう」  甚三郎は途方もないことを言います。 「銭形の親分、とんだ災難だったね、こんな所へ入るのが土台間違いの種さ。女どもはここを極楽のように思っているんだから、親分のすることは、全く余計なお節介と言うものだよ、ハッハッハッ」  存分に着飾った女どもの中に立って、巴屋三右衛門|相好《そうごう》を崩して笑っております。 「畜生、どうするかみやがれ」  歯を剥《む》くガラッ八。 「…………」  平次は黙って二人を見詰めました。 「どうだい銭形の、巴屋さんと仲の悪い俺がその実無二の仲間と気が付いたところまでは上出来だったが、多勢の綺麗首に見とれて、俺を逃がしたのが、その丸タン棒野郎の落度とは言うものの、やはりお前の不運さ。鼠《ねずみ》のように硫黄で燻してやるから、せいぜい苦しむがよかろう」  甚三郎はそんな事を言いながら、女どもの持って来た大火鉢に一と握りの硫黄を投《ほう》り込み、扇を持出して、ハタハタと格子の中へ、その凄まじい毒煙を煽《あお》ぎ入れるのでした。      * 「こんな憎い奴はなかった」――と平次ほどの者が言ったくらいで、施米などをやって、江戸の人気を一身に集め、商売の金儲けにそれを利用した上、歓楽と豪奢な生活を餌《えさ》に貧しい女を虐《しいた》げたのは、いかにも許し難いことだったのです。  浪花屋を陥れたのは商売上の怨みで、三右衛門の密告状に驚いて、あわてて無辜《むこ》を縛った三輪の万七の器量の悪さは言うまでもありません。  一番大事なことを言い落しましたが、平次とガラッ八を助けたのは、やはりお品だったのです。その時まで、死んだ者のようになっていたお品は、二人が硫黄燻しにされるのを見るとそっと甚三郎の家への通路を抜け出して、八丁堀へ飛んで行き、危ないところで平次とガラッ八を救うことが出来たのでした。 「お品さんの笊《ざる》を持った恰好はなかったぜ、綺麗な人はボロを着るとますます綺麗になるから不思議さ」  ガラッ八がそう言ってお品をからかった[#「からかった」に傍点]のは、ズッと後の事です。 底本:「銭形平次捕物控(五)金の鯉」嶋中文庫、嶋中書店    2004(平成16)年9月20日第1刷発行 底本の親本:「銭形平次捕物百話 第四巻」中央公論社    1939(昭和14)年 初出:「オール讀物」文藝春秋社    1934(昭和9)年6月号 ※副題は底本では、「江戸|阿呆宮《あほうきゅう》」となっています。 入力:山口瑠美 校正:noriko saito 2017年10月25日作成 2019年11月23日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。