人妻 永井壮吉 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)思《おもひ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)一|際《きは》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#ここから地から2字上げ] /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)拭き/\ *濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」 -------------------------------------------------------  住宅難の時節がら、桑田は出来ないことだとは知つてゐながら、引越す先があつたなら、現在借りてゐる二階を引払ひたいと思つて見たり、また忽気が変つて、たとへ今直ぐ出て行つて貰ひたいと言はれやうが、思《おもひ》のとゞくまではどうして動くものか、といふやうな気になつたりして、いづれとも決心がつかず、唯おちつかない心持で其日其日を送つてゐた。それも思返すと半年あまりになるのである。  二階を借りてゐる其家は小岩の町はづれで、省線の駅からは歩いて二十分ほど、江戸川の方へ寄つた田圃道。いづれも生垣を結ひ囲《めぐら》した同じやうな借家の中の一軒である。夏は蚊が多く冬は北風の吹き通す寒いところだといふ話であるが、桑田が他へ引越したいと思つてゐる理由は土地や気候などの為ではなかつた。家の主人と細君との家庭生活が、どこにも見られまいと思はれるばかり、程度以上に、また意想外に、親密で濃厚すぎるやうに思はれるのが、桑田にはわけもなく或時にはいやに羨しく見え、或時には馬鹿々々しく、結局それがために、今まではさほど気にもしてゐなかつた独身の不便と寂しさとが、どうやら我慢しきれないやうに思はれ出した。その為《ため》であつた。  桑田は一昨年の秋休戦と共に学校を出て、四ツ木町の土地建物会社に雇はれ、金町のアパートに居たのであるが、突然其筋からの命令で、同宿の人達一同と共に立退かねばならぬ事になり、引越先がないので途法にくれてゐたが、偶然或人の紹介で現在の二階へ引移つたのである。  年はまだ三十にはならないので、当分は学生の時と同様、独身生活をつゞけて行くつもりでゐたのだが、小岩の家の二階へ引越してから、とてもそんな悠長な、おちついた心持ではゐられなくなつたのである。  家の主人は桑田よりは五ツ六ツ年上で、市川の町の或信用組合へ通勤してゐる。身長《せい》は人並で、低い方ではないが、洋服を着た時の身体《からだ》つきを見ると、胴がいやに長い割に足の短いのと、両肩のいかつたのが目に立ち、色の黒い縮毛の角ばつた顔が、口の大きいのと出張つた頬骨のために、一層|猛々《たけ/″\》しく意地悪さうに見えるが、然しその子供らしい小さなしよんぼりした眼と、愛嬌のある口元とが、どうやら程よく其表情を柔《やはら》げてゐる。  細君は年子《としこ》といつて三年前に結婚したといふはなし。もう二十五六にはなつてゐるらしい。まだ子供がないせいか、赤い毛糸のスヱータに男ヅボンをはいたりする時、一|際《きは》目に立つ豊満な肉付と、すこし雀斑《そばかす》のある色の白いくゝり頤《あご》の円顔には、いまだに新妻《にひづま》らしい艶しさが、たつぷり其儘に残されてゐる。  良人はどつちかと云ふと無口で無愛想な方らしいが、細君はそれとは違つて、黙つてぢつとしては居られない陽気な性《たち》らしく、勝手口へ物を売りにくる行商人や、電燈のメートルを調べに来る人達とも、飽きずにいつまでも甲高《かんだか》な声で話をしつゞけてゐる。  桑田が初め紹介状を持つて尋ねて行つた時、また運送屋に夜具蒲団を持ち運ばせて行つた時、細君年子さんは前々から知合つた人のやうに、砕けた調子で話をしかけ、気軽に手つだつて、桑田の荷物を二階へ運び上げてやつた。この様子に桑田は何といふ快活な、そして親切な奥さまだらうと感心せずには居られなかつた。 「もうぢき帰つて参りますよ。遠慮なんぞなさらないで下さい。何しろ私達二人ツきりですからね。このごろのやうに世間が物騒だと、一人でも男の方の多い方が安心なんですよ。それに二階を明けて置くと、引揚者だの罹災者だの、さういふ人達に貸すやうにツて、警察からさう言つて来て困るんですよ。」と細君は一人でしやべり続けた後、配給物もついでゝすから、家の物と一ツしよに取つて来て上げる。洗濯もワイシヤツくらいなら一|緒《しよ》に洗つてあげやうとさへ言ふのであつた。  桑田はこんな好い家は捜しても滅多《めつた》に捜されるものではない。アパートを追出されたのは全く有難い仕合《しあはせ》だと思つた。  然しこの喜びはほんの一ト月ばかりの間で、桑田は忽ち困りだしたのである。引越す先があつたら明日といはず直《すぐ》にも引越したいやうな気になり出したのである。  最初、どうやら身のまはりが片づき、机の置処もきまり、座敷の様子から窓外の景色にも親しみが感じられるやうになりだした頃、或日の朝である。桑田は下座敷から聞える夫婦の声に、ふと目を覚して腕時計を見た。午前七時半であつた。 「おい、寒いよ。寒いよ。風邪ひくよ。裸ぢやゐられない。」と言ふのは主人浅野の声。 「そんならもう一遍おねなさい。ボタンがとれてるからさ。お待ちなさいよ。」と命令するやうに言ふのは細君年子さんの声であつた。  それなり二人の声は途切れて、家中は静になつてゐたが、忽ち甲高な年子さんの笑ふ声。それから着物でも着るらしい物音と、聞きとれない話声がつゞき初めた。  桑田はこんな事から程なく主人の浅野は毎朝出勤する時、自分の手では洋服がきられないのか、わざと着ないのか、それは分らないが、子供が幼稚園へでも行く時のやうに、細君にきせて貰ひ、ネキタイも結んでもらふ人だといふ事を知つた。そして夕方近く勤先から帰つて来ると、洋服だけは一人《ひとり》でぬぐが、すぐに丹前の寐巻に着かへる時、帯はやはり細君に締めてもらふらしい。  この事が桑田の好奇心を牽《ひ》きはじめた初まりで、次に桑田は二人の食事をする茶ぶ台には飯茶碗だけは二ツ別々にしてあるが、汁を盛《も》る椀も惣菜の皿小鉢も大ぶりのが一個《ひとつ》しか載せられてゐないのを見て、味噌汁は交る/″\一ツの椀から吸ふのではないかと思つた。桑田は仕事の都合で午後から出掛けたり、また昼近くに帰つて来たりすることがあるのを幸、それとなく家の様子に気をつけた。  主人の浅野は夕方六時前にはきまつて帰つて来る。電車に故障でも起らないかぎり、早くもならず晩くもならない。細君は時計を見ずとも其時刻を知つてゐて、夕飯の仕度にかゝるより早く、風呂へは行かないことがあつても、白粉だけはつけ直さないことはない。昼間良人の留守中、細君は配給物など取りに出る時、桑田が二階に居れば、「済みませんが、桑田さん。一寸お願ひしますよ。」と声をかけて出て行くが、いつもは格子戸と潜門とに鍵をかけ、目立たぬやうに取付《とりつ》けてある生垣の間の木戸から出入をするのである。さういふ無人《ぶにん》な家のことで、衣類や大切な物は市川の知り人《びと》の許に預け、箪笥には時節のものしか入れて置かないことを、細君は得意らしく桑田に話をした。  細君は良人の留守中、いつも小《こ》まめに休まず働いてゐる。主人が出て行つた後、天気つゞきで風でも吹くやうな日には、朝夕二度拭掃除をすることもある。タオルで髪を包み、そこら中を拭き/\二階へも遠慮なく上つて来て、桑田の敷きはなしにした夜具を縁側の欄干に干してやつたりする事もある。よく働きよく気のつく細君だ。家庭の主婦としては全く何一ツ欠点がないと思ふと、桑田は自分も結婚するなら、年子さんのやうな人を貰はなければと云ふやうな羨しい気がしてならなくなつた。話をしながらも、桑田はいつか細君の働く姿から目を離すことができなくなつた。  スヱータの袖を二の腕までまくり上げ、短いスカートから折々は内股を見せながら、四ツ這《ばひ》になつて雑巾掛をする時、井戸端で盥を前にして蹲踞《しやが》む時、また重い物の上下しに上気《じやうき》したやうに頬を赤くする顔色などを見る時、桑田はいきなり抱きついて見たいやうな心持にさへなることがあつた。  やがて桑田は夜もおち/\眠られなくなつた。下座敷の夫婦は晩飯をすまして暫くラヂオを聞いてゐるかと思ふと、いつの間にか寐てしまふ。毎晩、よくあんなに早く寐られると思はれるくらいで。連立つて映画を見に行つたり、買物がてら散歩に出るやうなことは殆どない。桑田が勤先からの帰り道に、鳥渡用足しでもして帰つて来ると、家の内は早くも真夜中同様、真暗闇になつてゐる。朝の出勤時間が早い為めだらうと、桑田は初の中は気にもしなかつたが、或夜何かの物音に、ふと目をさますと、宵の中に消えてゐた下座敷の電燈がいつの間にかついてゐて、しかも低い話声さへ聞える。二人して交る/″\何か読んでゐる声のすることもあつた。どういふ種類の書物であるかは推量されるが、然しその文章は聞きとれない。やがて男か女か知れぬが立つて障子をあけ、台所へでも行くやうな物音の二度三度に及ぶやうなこともある。  桑田は学生時分からアパート住ひには馴れた身の、壁越のさゝめきや物音にはさして珍しい気もせずにゐたのであつたが、今度初て、其時分の経験からは到底推察されない生活の在ることを、あり/\事実として認めねばならなかつた。桑田は是非なく、成るべく外で時間をつぶして帰らうと思ひはじめた。一度帰つて自炊の晩飯を済ましてから、また外出することもあるやうになつた。然し場末の町のこと、殊に夜になつては何処へも行くところはない。駅に近い方に一二軒カフヱーはあるが、女給はいづれも三十近いあばずればかり。そして飲物の高価なことは、桑田が一ヶ月の給料などは二三度出入をしたら忽ちふいになるかと思はれるくらい。トラツクの疾走する千葉街道の片ほとりには、亀戸から引移つて来た銘酒屋があるし、また一駅先の新小岩にも同じやうな処があるが、いづこもインフレ景気の物すごさに、桑田は唯|素見《ひやか》し歩《ある》くよりしやうがない。已《や》むを得ず勤先からの帰り道、銀座から浅草へ廻つて、レヴユーの舞台で踊子の足を蹴上げて踊る姿を見詰めたり、ダンス場で衣裳越しに女の身にさはり化粧の匂を嗅《か》いだりするより外に気を休める道がない。然しそれさへ随分な物費《ものい》りである。  毎夜の睡眠不足から桑田はすつかり憂欝になつてしまつた。引越したいと思つても引越す目当がないと思ふと、無暗に腹が立つて座敷の物でも手当り次第|毀《こは》してみたいやうな気になる。夜のみならず、昼間でも家内の物音が、台所の水の音から襖障子の明けたてされる音まで、何一ツ気をいら立せないものは無いやうになる。夫婦の話声がいやらしく怪し気に聞えてしやうがない。「ねえ、あなた。ねえ、あなた。」と良人に話をしかける細君の声が、毎日毎夜、あけても暮れても耳について、どうにも我慢ができないやうな心持になる。  桑田は腹立しさのあまり、思切つて暴行を加へて見やうかと思つた。然しどういふ風に実行すべきものか、其手段がわからない。いざといふ場合になつたら、女の方が遥に強くはあるまいかといふ気もする。拭掃除に水一ぱいの大きなバケツを幾度となく汲みかへては持運ぶ様子から、半日洗濯をしつゞけても、さほど疲れた風もしないところなどを見ると、あべこべに繊細《かぼそ》い自分の方が身動きもならないやうに押へつけられはしまいかとも思はれる。押へつけられて、そんな剰談《じようだん》しちやいけませんと叱られるくらいならいゝが、帰つて来た主人に事の始末をありのまゝに告げられたら、其時はどういふ事になるだらう。今すぐ出て行つてくれと言はれても出て行く処がない。自分は低頭平身してあやまらなければなるまい。そして馬鹿ツと怒鳴られた挙句、場合によつては拳骨《げんこつ》の一ツぐらいは食《くは》されないとも限るまい。そんな事を思ふと、いかに切なくとも我慢に我慢してこのまゝそつと人知れず、様子を立聞きして自分ばかりの妄想に耽けるより仕様がない………。  日はいつか長くなつて、勤先から帰つて夕飯をすませても外はまだ明く、生垣の外の畠が青く見えるやうになると、忽ちそこら中一帯に蛙の鳴く声が聞え出した。桑田はいつもに変らぬ深夜の囁きに加へて、枕元に蚊の声をも聞くやうになつた。眠られぬ夜はます/\眠られなくなるばかりである。  蚊遣香を焚いて我慢をしてゐたのも暫くの間であつた。桑田は蚊帳を釣るために釘と金槌とを借りやうと、或日下座敷へ行くと、主人の浅野は細君と二人で旅行用の革包《かばん》をひろげてゐた。桑田の降りて来るのを見て、 「三四日留守にしますから、何分よろしく御頼みします。田舎の親類に弔ひがあるんで、一寸行つて来ますから。」  次の日の朝、桑田が朝飯の仕度《したく》をしにと台所へ降りて行つた時には、主人の浅野は既に立つて行つた後と見えて、板の間に置かれた茶ぶ台の上には、食べ残されたものが其儘になつてゐて、細君はひとり蚊帳の中の乱れた床の上に、たわいもなく身体を投出して高鼾をかいてゐた。  桑田はおそる/\其枕元まで歩み寄つて、ぢつと寐姿を眺めてゐたが、そのまゝ意久地なく台所へと立戻つて、わざと物音あらく鍋や皿を洗ひかけたが、細君はどうしてそんなに疲れたのかと寧ろ恠しまれるほど、いよ/\鼾《いびき》の声を高めるばかりであつた。  桑田の煩悶は主人が居た時よりも更に甚しく、とても二階にぢつとしては居られなくなつた。  二日目の夜である。小雨が降つたり歇んだりしてゐたに係らず、勤先からの帰道、桑田は映画館で時間をつぶした後、その辺のおでん屋で平素飲まない酒を飲み、真暗な横町を足もとしどろに帰つて来た。離れ/″\に立つてゐる人家には門口の灯さへ消えてゐるところもあつた。遠くに聞える省線電車の響、蛙の声と風の音とが、さほど深《ふ》けてもゐない夜を、気味わるいほど物さびしくしてゐる。  桑田は危く溝に踏込まうとして道ばたの生垣につかまり身を支へたのも一度や二度ではない。やつとの事自分の家の潜門《くゞりもん》を、それと見定め、手をかけて開《あ》けやうとすると、その戸は内の格子戸と共にあけたまゝになつてゐるのに気がついた。酔つてゐながらも変だなと思つて、見るともなく様子を窺ふと、家の内は外と同じやうに真暗であつた。  桑田は今夜こそ是が非にも運だめしをする決心であつたので、片足を出入口の土間に踏み入れると共に、わざとらしく声を張上げ、 「奥さん。どうも、おそくなつてすみません。」  すると闇の中から、「大変よ。桑田さん。」といふ奥様の声がしたが、それは顫へた泣声であつた。今まで一度も聞いたことのない異様な調子を帯びた声であつた。  この声に驚かされて、其方へと一歩進寄つた時、更に一層桑田をびつくりさせたのは、何物をも纒つてゐないらしい女の柔な身体に、その足がさはつたことであつた。  顫《ふる》へる手先に電燈をひねると、抽斗《ひきだし》を抜いた箪笥の前に、奥さまは赤いしごきで両手を縛られ俯伏《うつぶ》しになつて倒れてゐた。  畳の上には土足で歩いた足跡がある。  夜がふけるに従つて、また誰か、餌をさがす狼が来はせぬかといふやうな気味悪さが、いつまでも二人を其儘一ツ座敷に坐らせてしまつた。夜があけても二人は離れることができなかつた。そのまゝ食事も一|緒《しよ》、つかれて蚊帳の中にうと/\するのも亦一|緒《しよ》であつた。  二人はぽつ/\こんな話をした。 「ねえ、奥さん。届けるなら、暗くならない中盗まれたことになさい。」 「わたしは家に居なかつた事にしてよ。縛られたなんて、そんな事言はれないからさ。」 「でも、よく、何ともありませんでしたね。怪我しなくつてよござんした。」 「わたし、ほんとにそればつかりが心配だつたのよ。おとなしくしてゐるより仕様がないと思つたのよ。だけど、よくつて。秘密よ。絶対に秘密よ。あなただけしか知つてる人はないんだから。きつとよ。」  三日目に浅野がかへつて来た。たぶん午後に早く帰つて来たのであらう。桑田はその勤先から帰つて来て格子戸を明けた時、二人が夕飯をたべながら、いつもと変らない調子で話をしてゐる声をきいた。  桑田はそのまゝ二階へ上らうとすると浅野が、「留守中はどうも御世話さまでした。」と言ふので、黙つてもゐられず、 「お帰りですか。汽車はこんだでせう。」 「イヤ思つたより楽でした。」 「それは能うござんしたなア。」  桑田はまたもや梯子段へ片足踏みかけやうとすると、 「空巣をやられたさうですな。あなたの物でなくツて能うござんした。」と言ふので、桑田は其晩の事が既に二人の間に話し出されてゐた事を知つた。 「わたしがゐればよかつたんですが、会社へ出かけた後なもんで、申訳がありません。」  言ひながら桑田は襖際まで立戻つて、何より先に細君の顔を見た。  燈火のせいか、または気《き》のせいか、桑田の眼には細君の夕化粧がいつもより濃く見えた。横坐りに少し片足を投出し飯茶碗に茶をついでゐた手も止めず、 「桑田さんが帰つて来て下さつたからよかつたのよ。わたし一人だつたら、とても気味がわるくツて、夜なんぞ寝られなかつたかも知れなかつたわ。」  桑田はまアよかつたと言はぬばかり、俄に安心したやうな気がした。それと共に、人間は虚言《うそ》をつかなければならない場合になると習はなくとも随分上手に虚言《うそ》がつけるものだ。男よりも女の方がさういふ事には余程上手であり大胆にやれるものだと思はないわけには行かなかつた。  あくる日、桑田はいつもより仕事が忙しかつたにも係らず、大急ぎに浅野よりも早く帰つて来て、台所で洗物をしてゐる細君の後姿を見るや、すぐさま其身近に進み寄り、 「奥さん。」と呼びかけた。  奥さんは何も言はず唯ぢつと桑田の顔を見返し、返事の代りに意味あり気《げ》な微笑を口元に浮べた。その目つきとその微笑とは、桑田の眼には、あの晩の事はあれなり誰にも知れる気づかひはない。もう心配しないでもいゝと云ふやうな意味にしか見えなかつた。そして桑田が二階へ上ると、細君もつゞいて其後から二階へ上つた。  桑田はその日から折々浅野よりも早く帰つて来たり、また浅野が出て行つた後昼近くまで出かけずにゐることもあつた。  二階の窓から見渡すあたりの麦畠には麦が熟して黄いろくなり、道端にも植ゑられた豆の花はそろ/\青い実《み》になりかけた。  桑田は再びこの二階には居たくない。今度こそ一日も早く明間をさがして引越したいと決心するやうになつた。以前のやうに夫婦の性的生活に対する羨望と嫉妬からではない。桑田は人の秘密を自分一人知つてゐることが、自分ながら不快でならなくなつたのだ。  細君は以前よりも親切に小《こ》まめに身のまはりの世話をしてくれる。時には食事までこしらへてくれることがある。桑田は親切にされゝばされるほど、それもみんなあの秘密を知られてゐる弱身があるためだと思ふと、気の毒な心持が先に立つて、つまらない剰談も言へなくなるのであつた。さうかと言つて、黙つて何も言ひかけずに慎《つゝし》んでゐると、女の方では心配でたまらないと云ふやうな顔をして、機嫌を取らうとすることもある。桑田はいよ/\居辛《ゐづら》くて堪《たま》らなくなつた。  一ヶ月ばかりして、諸処方々へ引越先を聞合してゐた結果、小松川辺の或農家の離家を見つけ、人に金を借りてまでして敷金を収め、桑田はやう/\の事で、小岩の貸二階を引上げた。見渡す青田の其処此処《そここゝ》に蓮の花が咲き初めた頃であつた。 [#ここから地から2字上げ] (昭和二十二年六月稿) 〔一九五〇(昭和二五)年二月二〇日、中央公論社『葛飾土産』〕 [#ここで字上げ終わり] 底本:「荷風全集 第十九巻」岩波書店    1994(平成6)年11月28日第1刷発行    2010(平成22)年10月26日第2刷発行 底本の親本:「葛飾土産」中央公論社    1950(昭和25)年2月20日 初出:「中央公論 文芸特集第一号」中央公論社    1949(昭和24)年10月1日 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※初出時の表題は「下宿人」です。 ※初出時の署名は「荷風散人」です。 入力:H.YAM 校正:きりんの手紙 2020年12月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。