猟色の果 野村胡堂 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)江島屋宗三郎《えじまやそうざぶろう》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)葉|更《さら》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)うんざり[#「うんざり」に傍点] -------------------------------------------------------  女性というものの平凡さに、江島屋宗三郎《えじまやそうざぶろう》は、つくづく愛憎《あいそ》を尽かして居りました。  持った女房は三人、関係《かかり》あった女は何十百人、武家の秘蔵娘から、国貞《くにさだ》の一枚絵になった水茶屋の女、松の位から根引いた、昼三《ひるさん》の太夫《たゆう》まで、馴れ染めの最初は、悉《ことごと》く全身の血を沸《たぎ》らせるような、魅惑を感じたにしても、一度《ひとた》び手活《てい》けの花にして眺めると、地味で慾張りで食辛棒《くいしんぼう》で、その上焼餅やきで口数が多くて、全く手の付けようのない駻馬《かんば》と早変りするのです。  宗三郎は全くうんざり[#「うんざり」に傍点]してしまいました。金毛九尾の狐でも宜《よ》い、葛《くず》の葉|更《さら》に結構、兎《と》にも角《かく》にも、この女性に飽々《あきあき》した心を沸《たぎ》り返らせて、命までもと打込《うちこ》ませる魅力を発散する女は無いものであろうか。  お蔵前札差の若主人として、十何大通とやらの一人に数えられ、馬に食わせ度《た》いほどの金を持って居る江島屋宗三郎は、根岸の寮の雪の一日を籠って、唐本の「聊斎志異《りょうさいしい》」を読み耽《ふけ》り乍《なが》ら、斯《こ》んな途方もないことを考えているのでした。  この物語に出て来る、草木禽獣の精の妖しき美しさ、火花の散るような恋の遊戯、透き徹《とお》るような清冽な肉体など、江島屋宗三郎は夢心地に考えて居りました。あらゆる女出入に飽き果てた宗三郎に取っては、狐狸《こり》でも変化でも構わない、現世的な生活から逃離し、物的な慾望を持たない、恋の対象だけが望ましかったのです。  窓を開くと、冷たい風が颯《さ》っと流れ込んで、宗三郎の熱した頭を心持よく冷やしてくれます。何時《いつ》の間にやら雪は止んで、五六寸|積《つも》った庭を、十六夜《いざよい》の月が青白く照し、世界は夢の国のように、静寂に、神秘的に変貌して居るのでした。  雑俳《ざっぱい》や漢詩なども一《ひ》と捻《ひね》りする宗三郎は、立ち上って行灯《あんどん》の灯を吹き消しました。此《この》冴え渡る月の下に、雪の夜景を満喫しようと思い立ったのです。 「おや?」  何やら、宗三郎の眼の前に、チラリと動くものがありました。  灯を入れた雪見|灯籠《どうろう》のあたり、雪を頂いた松の緑が淀んで、池の水の一角が、柔かい雪景色に切り込む刃金《はがね》のように、キラリと光る物凄い効果だったのかもわかりません。  宗三郎はゾッと身ぶるいして、障子を締めようとしましたが、フト雪見灯籠の側に、何やら物の動くのを意識すると同時に、満月の皚々《がいがい》たる白銀の世界に、一点漆のように、真黒に息つくものを見て取ったのです。  髪だ、――やがてそれは、高々と結い上げた、若い女の島田|髷《まげ》とわかると、その髪の下に、ほのぼのと明るく、池の面《おもて》を見詰めている若い女の横顔のあることに気が付いたのでした。  霞《かす》む眉、黒い瞳、赤い唇――と次第に道具立がはっきりすると、やがてしなやか[#「しなやか」に傍点]な首筋、細《ほ》っそりした肩から、ふくらんだ胸、帯から脚へ流るる線と、くっきり雪の中に浮上《うきあが》って来るのです。  見定めると五六寸も積った筈《はず》の雪の上へ、鷺《さぎ》のような真白な女が、ふんわり[#「ふんわり」に傍点]と立って居るのでした。白無垢の褄《つま》をさばいた下からチラリと長襦袢の緋縮緬《ひぢりめん》が燃えて、桃色珊瑚を並べたような爪先が、雪の上にキチンと揃った美しさは、何に讐えようもありません。  鈴木春信の描いた鷺娘の妖しい美しさを、宗三郎はフト思い浮べましたが、春信画中の美女は、襟が水色で、帯は漆のように真黒だった筈です。ところが宗三郎の眼の前十数歩のところに立って居る美女は、八朔《はっさく》の遊女のように、全身悉く真っ白な中に、髪と瞳《め》の黒さと、唇と裳《もすそ》の紅さだけを点じたのが、比類を絶した凄まじい効果になって、まさに「聊斎志異」の中から脱出した、一番怪奇な妖精としか思われなかったのでした。 「どなたか知らぬが、此処《ここ》へ入ってはどうじゃ、外は少し寒過ぎるようだが――」  宗三郎は思い切って声を掛けて見たが、女は左横顔を見せたまま、身じろぎもしません。  四半刻、半刻、いや一刻も経ったことでしょう。月はやがて中天に昇りましたが、雪中の女は塑像の如く立ち尽して、眉の毛一本動かそうとはしなかったのです。  窓を開けて、この神秘的な活人画に見入って居る宗三郎の心が、妖しくも乱れて行くのを何《ど》うすることも出来なくなりました。二十八歳になったばかりの、充分に健康で、思い切り冒涜的で、そしてかなり不人情でさえあった宗三郎は、何時《いつ》の間にやら温かい部屋を抜出《ぬけだ》し、庭下駄を突っかけたまま、夢心地に深い雪を踏みわけて、女の側に立って居りました。  近寄ると、体温をさえ感じさせます。いやそれどころでなく、女は寒さのためか、それとも心の動揺のためか、小刻みな胴ぶるい[#「ぶるい」に傍点]をさえして居るのでした。  が、その端麗な美しさは、寒さも怪奇な事情をも超えて宗三郎を驚かしました。左半面しか見せない女は、――雪を払うた庭石の上に立って、雪見灯籠にもたれたまま、凍え死にかけて居るにも拘《かかわ》らず、その曲線の美しさを燃焼させて、宗三郎の理性を滅茶滅茶にするだけの力はあったのです。  宗三郎は矢庭に女に飛付《とびつ》くと、庭石から引《ひき》おろす[#「おろす」に傍点]ように、自分の胸に犇《ひし》と抱きしめました。無抵抗に宗三郎の腕に倒れた女は、宗三郎の近づく顔の前に、始めてその右半面を見せたのです。 「あッ」  宗三郎は飛退きました。始めて見た右半面は、左半面の玲瓏とした美しさに似ず、赤黒く焼け爛《ただ》れて、見る眼も恐ろしい引釣《ひきつ》りだらけの顔だったのです。 「あ、お絹《きぬ》」  宗三郎は雪の中を這い廻り乍ら、辛くもうめき[#「うめき」に傍点]声をあげました。  曾《かつ》ては両国の水茶屋の看板娘、国貞の一枚絵になったお絹は、宗三郎に引取られて江島屋の二度目の女房になりましたが、三年前の蔵前の大火事のとき、逃げ場を失って危うく死にかけた宗三郎を、猛火の中から救い出して、自分は半面の大火傷《おおやけど》を受け、その醜い大火傷の故に、宗三郎に捨てられて、大川に身を投げて死んだ筈です。  宗三郎――耽奇の猟色に溺れた江島屋宗三郎は、翌《あく》る朝庭の池の中から、溺死体になって発見されました。  白装束の雪女の姿は、根岸の寮の召仕《めしつかえ》達も確かに見たと言います。それは妖怪でも変化でもなく、確かに人間であったに相違ないが、天保年間の人達は、其処《そこ》まで詮索するほど物事を科学的には考えなかったのです。  唯《ただ》一つ、お絹には、姉によく似たお仙《せん》という妹があり、同じ両国の水茶屋に奉公して、艶名を謳われて居りましたが、姉を変死させた江島屋の宗三郎を、ひどく怨んでいたことだけを伝えて置きましょう。火傷《やけど》の跡などは絵の具と膏薬でどんなにでも偽装が出来ることで、手足に油を塗って凍傷を防ぎ、巧みに宗三郎の好奇心さえ囚えることが出来れば、此大芝居は案外簡単に打てるのです。 底本:「野村胡堂伝奇幻想小説集成」作品社    2009(平成21)年6月30日第1刷発行 底本の親本:「娯楽世界」    1949(昭和24)年2月 初出:「娯楽世界」    1949(昭和24)年2月 入力:門田裕志 校正:阿部哲也 2015年5月25日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。