芳年写生帖 野村胡堂 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)霖雨《りんう》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)七堂|伽藍《がらん》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)毮 ------------------------------------------------------- [#5字下げ]絵師の誇り[#「絵師の誇り」は中見出し]  霖雨《りんう》と硝煙のうちに、上野の森は暮急《くれいそ》ぐ風情でした。その日ばかりは時の鐘も鳴らず、昼頃から燃え始めた寛永寺の七堂|伽藍《がらん》、大方は猛火に舐め尽された頃までも、落武者を狩る官兵の鬨の声が、遠くから、近くから、全山に木精《こだま》を返しました。 「今の奴、何処《どこ》へ逃げた」 「味方を四五人騙し討ちに斬って居るぞ。逃してはならぬ奴だ」 「まだ遠くへは行くまい」 「見付かったら、朋輩の敵、一《ひ》と太刀ずつ斬るのだぞ」  背負《しょい》太刀、ダン袋、赤い飾毛をなびかせた官軍が五六人、木立を捜《さぐ》り、藪を分けて鶯谷《うぐいすだに》の方へ降りて行きます。  その背後《うしろ》から、物の影のように現われたのは、彰義隊士《しょうぎたいし》日下部欽之丞《くさかべきんのじょう》、二十四五の絵に描いたような美男ですが、軽傷《あさで》を受けた上、幾人か斬った返り血が、乱鬢《みだれびん》と、蒼い頬と、黒羽二重《くろはぶたえ》を絞った白襷《しろたすき》に反映して、凄まじさというものはありません。 「――――」  不敵な舌鼓を一つ、四辺《あたり》を見廻した欽之丞は、又も近づく人影に驚いて、木立の蔭に身を潜めました。 「畜生ッ、――俺は怪しい人間じゃねえ」  血の臭いに酔って、無暗《むやみ》に吠え付く犬を叱り乍《なが》ら、桐油《とうゆ》をすっぽり冠《かぶ》って、降りしきる細雨の中をやって来たのは、絵師の月岡米次郎《つきおかよねじろう》こと、大蘇芳年《たいそよしとし》の一風変った姿です。  明治元年五月十五日の夕刻。  その時芳年は三十歳、御家人の子に生れて武士の血を享《う》けた筈《はず》ですが、月岡|雪斎《せっさい》に養われ、菊池容斎《きくちようさい》、葛飾北斎《かつしかほくさい》の風を学んで、心も姿もすっかり町絵師になり切って居りました。  浅葱《あさぎ》の股引に草鞋《わらじ》がけ、桐油に上半身を包んで、目ばかり出した風体《ふうてい》は、腰の矢立てと懐の画帳が無かったら、葛飾在から来た水見舞と間違えられるでしょう。  油のような生温かい雨が降るのに、芳年の身体《からだ》は、ガタガタ小刻みに顫《ふる》えて、時々はしゃっくり[#「しゃっくり」に傍点]をして居ります。その上|足許《あしもと》も不確かで、ヒョロヒョロと行っては、ぬかるみに足を取られて、泥の中へヘタヘタと坐ったりしました。  そのくせ、藪の中や道の上に、斬られて死んでいる死骸を見ると、彰義隊であろうと官兵であろうと一々覗いて、その相好と、歪んだ姿態を見極めずには居られなかったのです。 「ひどい傷だが、――仏様のような穏かな顔をして居る」  そんな無事な死顔は、芳年の興味を引かなかったのでしょう。 「これは凄い」  時々は死体の前に踞《しゃが》んで、懐から出した半紙横綴の帳面に矢立の筆を抜いて――細雨をかばい乍ら、写生の筆を走らせました。  不意に―― 「居たぞ居たぞ」  バラバラと押《お》っ取巻《とりま》く官兵、ギラリギラリと幾条《いくすじ》かの刃が芳年の眼に焼け付きました。 「あッ、お許し」  驚き騒ぐ芳年、桐油を引き毮《むし》られて襟髪を掴まれたまま、二つ三つ小突き廻されます。 「何者だッ、うぬッ」 「お許し、お許し下さりませ。私は怪しい者じゃございません」  行儀の悪い猫の子のように摘《つま》み上げられた芳年は、意気地無くもガタガタ顫え乍ら、両手を合せて居ります。 「怪しくないことがあるものか。其処《そこ》で何をして居た」  風体は落武者とも見えません。多分戦塵のまだ納まらぬ山内に潜り込んで、掠奪を目論《もくろ》む泥棒とでも思ったのでしょう。 「絵を描いて居ります。私は、私は芳年と言う浮世絵師で――」 「何? 浮世絵師? 出鱈目《でたらめ》な事を言えい。浮世絵師と言えば、美人や、役者や、道中の景色などを、面白|可笑《おか》しく描いて、女子供の慰み物にするのが稼業ではないか、――どれ見せい、貴様の絵は――何《な》んだこりゃ、どれもこれも、気味の悪い、斬り合いや、死骸や、梟《さら》し首ばかり、これでも浮世絵師と言うのか、怪しい奴ッ」  頭立《かしらた》った一人の武士、芳年の写生帳をバラバラと開いて、不審の眉を顰めます。 「そ、それは違います。あなたの仰《おっ》しゃる遊女や役者や道中絵を描くのは、泰平の世の浮世絵師、――女子供の慰みにする気はなくとも、世の中に事が無いと自然絵までが穏かになりますが、此節《このせつ》のように、斬った張ったの世の中、耳元で鉄砲の音のする時節には、それ相応の浮世絵がなくてはなりません。この世の中に様々な姿を、あるが儘《まま》に写して、後の世に伝えるのは、絵筆とる者の勤めでござります。――今時|華魁《おいらん》や役者の絵を描いて、一人で悦に入っていられましょうか」  芳年は一所懸命でした。自分に掛けられた疑惑を解くというよりも、硝煙と血潮の洗礼を受けた浮世絵師の、精一杯の誇りを――斯《こ》う高らかに言ってやり度《た》かったのです。 「可笑《おか》しな奴だ、言う事は一と通り筋道が立っているが――そのくせガタガタ顫えて居るじゃないか。そんな臆病者に、血腥《ちなまぐさ》い場面が写せると思うか」 「写しますとも、ヘエ、身体の顫えるのは疳《かん》のせいで、私の臆病のせいじゃございません。こんな時本当に突き詰めた人間の姿を写して置かなきゃ、――私は浮世絵師に生れた甲斐《かい》がありません。何んの」 「よし、それじゃ、もっと凄いところを見せてやろう、一緒について来い」 「ヘエ――」 「さア」  促されて芳年は起ち上りましたが、意気地無くも膝の蝶番《ちょうつがい》が崩れて、ヘタヘタと綿のように泥濘《ぬかるみ》へ坐ってしまいます。 「た、起てません」 「ハッハッ、馬鹿な奴だ。腰が抜けたのか、そんな事で本当の戦が描けるものか」 「少し気を落付《おちつ》けさせて下さい、直《す》ぐ治ります」 「よしよし、何時《いつ》までも腰抜の相手になっても居られまい。誰か二人ばかり、此辺で見張って居るが宜《い》い、我々はもう一度落武者を狩り出して来よう」  芳年は腰の抜けたまま、松の根方に縛り付けられ、官兵二人はそれを見張るともなく残されました。  あとの一隊はバラバラと上野の森へ、暮れ残る道を取って返します。 [#5字下げ]落武者欽之丞[#「落武者欽之丞」は中見出し] 「やい、絵師」 「ヘエ――」 「俺を描いて見ろ」 「ヘエ――」 「この武者振りを一つ描いて見ろ、出来が良かったら、国への土産《みやげ》にしてやる」  一人の官兵は威儀を作りました。 「縛られて居ちゃ描けません」  芳年は泣き出しそうでした。 「よしよし、それじゃ暫《しば》らくの間縄を解いてやる。その代り絵の出来が悪いと勘弁しないぞ」 「それじゃ御免|蒙《こうむ》ります」 「何?」 「出来不出来は臨本《てほん》次第で、一たん筆を執った上は、私の儘にもなりません」 「俺の武者振りが悪いというのか」 「そう言うわけじゃございませんが、お気に召さないといけませんから、描くのは勘弁して下さい――死人や梟《さら》し首と並べて描いちゃ、第一気色が悪うございます」  芳年は縛られ乍らも、頑強にはね飛ばしました。こみ上げて来る強大な自尊心がガタガタ顫え乍らも、斯《こ》う言わせずには措かなかったのです。 「無礼な奴だ、そんな事を言うと、痛い目を見るぞ――絵描きだと言っても、描くところを見なければその帳面の絵だって、誰が描いたか解ったものじゃない。其方《そのほう》、彰義隊の落武者ではないか」 「と、飛《と》んでもない」  そう言う芳年の後に廻って一人は鍔《つば》を鳴らしました。 「此奴《こいつ》、斬って捨てようか」 「フム、それも宜かろう」  二人は何やら合図をして居ります。 「あッ、お許しを。私は、彰義隊なんかじゃございません」  颯《さっ》と来た一刀、縛られ乍らも危うく首を縮《すく》めましたが、二度目の太刀は防ぎようはありません。  が、その時奇蹟が起りました。芳年の頭上に振り冠《かむ》った一刀は宙に飛んで、 「あッ」  飛退《とびの》く官兵の一人は、足を苅られて屏風《びょうぶ》の如く倒れたのです。 「己れッ」  飛付くもう一人の官兵の前へ、石垣を這い上ってスックと立ったのは、先刻《さっき》姿を隠した日下部欽之丞の満身に返り血を受けて、地獄の底から跳出《とびだ》した、幽鬼のような物凄い姿です。  二人の官兵はよく闘いましたが、一人は足を苅られ、一人は不意を喰って、死物狂いの欽之丞の敵ではありません。真にあッと言う間に、左右に斬って落されました。  二人の官兵を片付けた欽之丞は、芳年の側に寄って、夕闇の中からその顔を差覗《さしのぞ》きました。 「気を喪《うしな》ったのか、馬鹿な奴」  冷たい笑《わらい》が頬に淀んだのもほんの暫らく、次の瞬間、欽之丞の手は、芳年の縄を解いて、その着物を剥ぎ始めます。 「あッ、お助け、命ばかりは――」  芳年は漸《ようや》く気が付きました。 「命は取らぬが、その方の着物が入用なのだ、暫らく借りるぞ」  武装を脱ぎ捨てた欽之丞は、芳年の袷《あわせ》を着流し、脇差だけ一本、深々と懐に呑み、幸い道端の水溜りで、ザッと手足や顔の血潮を拭き取りました。  心持髷を直して、芳年の手拭を取上げて冠《かぶ》ると、何《ど》うやら彼《こ》うやら町人らしくなります。 「それ、これは礼だ」  ポンと投《ほう》り出したのは小粒が二つ三つ、 「あ、もし、お武家様」  芳年はその小粒には目もくれず、襦袢一つの姿で泥の中に起上《おきあが》りました。 「何んだ、金が不足か」  振り返った欽之丞、弥蔵《やぞう》さえも拵《こしら》えて、頬冠《ほおかぶ》りの中に匂う顔は、歌舞伎芝居の花道で見るような男振りです。 「その帳面だけは返して下さい、――そいつは、私の命から二番目で」 「これか」  無意識に懐にねじ込んだ帳面を取出すと、欽之丞はポンと投《ほう》ります。 「あ、泥が附くじゃありませんか」  絵師の憤懣が、ツイ軽い抗議になりますが、欽之丞はそれを耳にも掛けず、夕闇の濃くなり行く上野、谷中、道灌山かけての木立の中を見て居ります。 「待て待てッ、怪しい奴」  不意に藪を分けて一人、日下部欽之丞の行手に立ち塞《ふさ》がりました。羅紗《らしゃ》の陣羽織、細雨を凌《しの》ぐ陣笠、抜刃《ぬきみ》のままの一刀を側構えに、一寸《ちょっと》の油断も無い気組です。 「ヘエヘエ、私共は土地の者でございます。戦見物と申しちゃ悪うございますが、一生に一度の事と存じまして、ツイ、ウカウカと深入りいたしました。お見逃しを願います」  日下部欽之丞は腹からの町人らしい滑らかな調子でした。江戸侍の器用さでしょう。 「もう一人の男は裸体《はだか》じゃないか」 「連れは落武者に剥がれました」  日下部欽之丞ケロリとしてこんな事を言うのです。 「頬冠りを取れ」 「ヘエ――」 「頬冠りのまま武士に挨拶する奴があるか」 「ヘエ――」  欽之丞の左の手は挙りました。頬冠りを取ると見せて、右手は早くも懐の申の脇差の柄に―― 「え――ッ」  紫電一閃、 「わッ」  羅紗陣羽織の肩から鮮血を吹き上げて、相手は倒れたのです。 「お助けッ」  芳年も、あまりの事に肝を潰して、欽之丞の足許に這いました。 「馬鹿|奴《め》ッ、何んと言う声だ、斬られたのは貴様ではないぞ」 「ヘエ――」 「其方の住居は何処《どこ》だ」  血刀を拭い乍ら、欽之丞は訊ねました。 「あ、浅草の馬道でございます」 「大して遠くはないな、――今晩一と晩俺を泊めろ」 「――――」 「いやか」  生血を拭いたばかりの刀が、芳年の眼の前へ、思わせ振りに動きます。 「と、飛んでもない」 「では、案内せい、――こんなところに長居は無用だ」 「――――」 「さア」  促され乍ら、芳年は此処《ここ》に釘付けになりました。夕闇の中に絶え入る、今斬られたばかりの武士の相好が、芳年の興味を犇《ひし》と捕えたのでしょう。  何時《いつ》の間にやら取出した帳面、それをガタガタ顫える膝の上に展《の》べて、芳年は矢立の筆を噛んでいたのです。 [#5字下げ]悪い相談[#「悪い相談」は中見出し]  それから四五日、江戸には血生臭い風が吹き続きました。  その風に憑かれでもしたように、大蘇芳年は、朝から晩まで、街から街へと、物騒な噂を追い歩いて居たのです。  小塚ヶ原の刑場は言うに及ばず、彼方《かなた》の橋の袂《たもと》、此方《こなた》の長屋の裏で、彰義隊の落武者が、薩長の巡邏《じゅんら》兵に見付けられ、縛られ、斬られる有様を、吐気を催すような嫌悪と、病的な熱情とで、一々画帳に納めなければ承知しなかったのです。  馬道の留守宅では、押かけ女房のおよつ[#「よつ」に傍点]が、これも押かけ落人《おちうど》の日下部欽之丞を介抱して、世間を狭く暮して居りました。およつ[#「よつ」に傍点]は、園花《そのばな》と言って千住《こつ》で勤めた女で、年《ねん》が明けると、大した歓迎もしない芳年のところへ轉《ころ》げ込み、女房気取りで三月四月も納まっていると言った質《たち》の女でした。 「本当にあの晩ほどびっくりしたことは無いよ。襦袢一枚のあの人の後から、彰義隊へ入ったという欽さんが、のそりと入って来るんだもの――」  およつ[#「よつ」に傍点]は、芳年の留守の間、狭い六畳の、日下部欽之丞の枕許に坐り切りで、根が生えたように、斯《こ》う話し込んでいるのです。 「俺だって驚いたよ。此春年が明けて、千住から消えたお前が、場所もあろうに、俺が逃げ込んで来たヘボ絵描きの家の、長火鉢の前に納まって居ようとは、お釈迦様でも気が付くわけはねえ」  欽之丞は、そんな伝法《でんぽう》な口をききます。腕はよく出来ますが、旗本の冷飯食いで、およつ[#「よつ」に傍点]の園花とは、二年前からの深間《ふかま》だったのです。 「でも、斯《こ》うして逢えたのも、深い縁じゃないかねエ欽さん、――いくら私が図々しくたって、旗本のお屋敷へ、誓紙起証を振り廻して乗込《のりこ》むわけにも行かず、仕様ことなしに一番甘そうなお客の絵描きの家へ轉げ込んだのさ。其処《そこ》へ落武者になった欽さんが飛込んで来るなんて、草双紙にも滅多に無い筋じゃないか、――あの通り世間は物騒だし、幸い主人《あるじ》は朴念仁《ぼくねんじん》で二人の仲に気が付かないから、五年でも十年でも、神輿《みこし》を据えて逗留しておくれよ、ね欽さん」  長い煙管《きせる》を吸い付けて布団の中へ入れると、およつ[#「よつ」に傍点]の身体《からだ》は横っ坐りに、肘はもう、男の布団へやわやわと重しになるのでした。 「傷はもう癒《なお》ったぜ、何時《いつ》までも斯《こ》うしていた日にゃ、人間の造作が弛《ゆる》むよ、後生だから起してくれ」  煙管《きせる》をポイと投《ほう》って、欽之丞は枕へ頬杖を突いたなりに、下からおよつ[#「よつ」に傍点]の滴《したた》る風情を見上げるのです。 「あれさ、お前、起き出した時は、追い出される時じゃないか、それに縁側やお勝手でウロウロされちゃ、近所の人の手前もあるし」 「その近所に、飛んだ綺麗な娘が居るじゃないか」 「まア、呆れたよ。もうあれを見たのかい、――でもあれだけはお止《よ》しよ。お浜坊《はまぼう》と言って、素人《しろうと》のくせに飛んだ摺《す》れっからしさ。何処《どこ》が良いか知らないが、うちの朴念仁にポーッと来て居るんだって、ホホ」 「ヘエ――、芳年師匠、芸道ばかりと思ったら、そんな腕もあるのかい」  欽之丞は何処《どこ》までも面白そうです。 「そう言うけれど、私はつくづくあの人が怖くなることがあるよ」 「あんまり物驚きをする柄では無いようだが、――何が一体怖いんだ」 「あの通り、絵を描くより外《ほか》に望みの無い人だし、臆病なほど大人しいから、踏台に丁度《ちょうど》よかろうと思って連れ添って見ると――」 「――――」  およつ[#「よつ」に傍点]はごくりと固唾《かたず》を呑みました。 「あの通りの良い腕を持ち乍ら、右から左へ金になる、華魁《おいらん》や役者の絵を描くのが大嫌いで、たまたま筆を取るかと思えば、不気味な無慚絵《むざんえ》ばかり――、そんなものが金になるわけが無いから、家の中は何時《いつ》まで経っても火の車さ」 「――――」 「上野の戦《いく》さが始まると、その病は嵩《こう》じるばかり、毎日目の色を変えて飛出しては、斬り合《あい》があった、晒《さら》し物があったと、三里も五里も歩き廻って、暗くなってから、狐が落ちたような顔で帰って来るんだもの」  およつ[#「よつ」に傍点]はそう話し続け乍ら、何んとなく胴顫いを感ずる様子です。 「私はつくづく愛想を尽き果てたよ。幸い飛込んだお前さんは、私の為には渡りに舟さ、迷惑だろうけれど、何処《どこ》へなと連れて逃げておくれ、ね欽さん」 「俺もそれを考えないわけじゃ無いが、何んと言っても、まだ探索の目が厳しいから、一と足路地を出たら、どんな事になるか解ったものじゃない。それに何処《どこ》へ行くにしても先立つものは金だ」 「それなら幸い――」  およつ[#「よつ」に傍点]は、少しばかり隠して持っている、自分の虎の子のことを考えて居ました。 「三河島《みかわしま》には縁家がある。今日芳年が出る時、一筆書いて持って行って貰ったから、今にも帰って来たら、何とか返事があるだろう」  日下部欽之丞は、何時《いつ》の間にやら、床の上に起直って居りました。二つ三つ受けたかすり[#「かすり」に傍点]傷は、もうすっかり癒って、此儘函館へも飛べそうな心持です。 「それじゃ、私が一緒に行けないではないか。あの人に行先まで教えてしまっては、命の鍵を握られているも同様、それに、二人の仲を薄々嗅ぎつけた様子だから、後腐れのないように、バッサリやって、何処《どこ》か遠くへ飛ぶ工夫が肝心だと思うが――」  およつ[#「よつ」に傍点]の肝の太さ、あまり気の進まぬ日下部欽之丞を説き伏せて、底の知れない悪魔の淵へと誘い入れる積《つも》りでしょう。 [#5字下げ]隣の娘お浜[#「隣の娘お浜」は中見出し] 「ちょいと」  ひそやかな声に呼止《よびと》められて、芳年は思わず足を淀ませました。今日は不思議に早く帰った路地の入口、共同井戸の前に、白い顔が自分を見詰めて居たのです。 「お浜さんじゃないか、何んか用事かい」  芳年は気軽な調子で斯《こ》う立ち止りました。世帯摺れはして居りますが、十九になったばかりのお浜には、娘らしさが、顔にも姿にも、声の爽やかさにも充分過ぎるほど匂って居たのです。 「今入って行くのは、お止しなさいよ、迷惑する人が二人あるようだから」  その娘の口に含んだ毒が、妙に芳年を焦立たせます。 「何?」 「ね、芳年さん、人のことだけど、私はもう、腹が立って腹が立って、あの彰義隊の生っ白い二本差を、いっそ屯所へ訴人してやろうかと――」 「シッ――」  二人は継穂もなく、黙って顔を見合せました。 「お前さんが、あんまりお人よし過ぎるんですよ。あんな恩知らずの畜生は、なぶり[#「なぶり」に傍点]殺しにでもされて――」 「なぶり殺し?」 「首は三尺高い木の上に梟《さら》され、死骸は犬の餌《え》にでもなりや宜いに――」  お浜の怒《いかり》は際限もなく爆発します。芳年をいとしと思う心が、斯《こ》うまで極端に働いて、全く違った方角へ忿怒の形で発展して行ったのでしょう。 「嬲《なぶ》り殺し、――梟《さら》し首、――そして死骸は犬に――」  芳年の空想力は鼓舞されました。無慚絵の素晴しい題材が、お浜の言葉の上に、活々《いきいき》と築き上げられて行くのです。 「足りない、まだ足りない」  江戸人の心を恐怖のドン底に投込んだ、私刑、暗殺、押込《おしこみ》、斬合《きりあ》い、――そして最後に彰義隊の戦争から、寛永寺三十六坊の炎上、八百八町の落武者狩までの、血と焔の印象が、まだまだそんな事では表現し切れなかったのです。 「何が足りないと言うんです、え?」 「凄さが足りない」 「え? ――お前さん、確《しっか》りして下さいよ。あんな二本差なんか、芋侍に引渡《ひきわた》しさえすれば、それでお仕舞なんだから」  お浜には、芳年の心持が解る筈もありません。日下部欽之丞とおよつ[#「よつ」に傍点]の関係を言い当てられて、フラフラと気が変になったのであるまいか――お浜はそんな事を考えるのが精一杯だったのです。 「放って置いてくれ、お浜さん、俺にも少しは考えたことがあるから――」  解ったような、解らないような事を言い捨てて、芳年は自分の家へ入って行きました。 「――――」  その臆病らしい姿、作り笑いさえ浮べた横顔を、お浜はどんなに腑甲斐のないものに思ったのでしょう。  御家人の子に生れて、その描く絵と同じように、骨っぽい男らしい人柄を見上げる心持で居たお浜は、近頃の芳年の意気地のない態度に、言いようのない憤懣を感じて居たのです。 「皆《み》んなあの女のせいだよ」  お浜の眼には、恥というものを、何処《どこ》かに置き忘れて来たような、およつ[#「よつ」に傍点]の白粉焼《おしろいやけ》のした顔が、はっきり浮ぶのでした。 [#5字下げ]恐ろしい予感[#「恐ろしい予感」は中見出し] 「日下部さん、御安心なさい。三河島の御親類じゃ、日下部さんが無事と聴いて、大喜びでしたよ」  芳年の言葉にも態度にも、何んのこだわりもありません。 「それは有難《ありがた》い」  日下部欽之丞は、ツイ今しがたまで、およつ[#「よつ」に傍点]と、よからぬ事を企んでいたことなどは、綺麗に忘れてしまった様子です。 「で、――馬道よりは近所が遠いだけでも身を隠す都合が宜かろうから、すぐおつれするようにと、斯《こ》う言うお言葉でございました。世間が物騒だから、お返事を口移しで、書いたものは持って参りませんから――」 「それで結構、飛んだ御苦労であったな、早速支度をして、今夜にも出かけるとしようか」  欽之丞はもう、まだ癒らぬ首の傷のことも忘れて、床から飛起きて居りました。 「いえ、夜は反《かえ》って物騒ですよ。私は諸方をほッ[#「ほッ」に傍点]つき歩いて、其辺中の官兵の屯所は、一つ残らず顔馴染《かおなじみ》だから、私と一緒にお出《い》でなさい。とがめられたら、私の弟子ということにしましょう。陽の当るうちの方が、どんなに安心だかわかりません」 「成程《なるほど》、そう言ったものかも知れぬな」  日下部欽之丞は支度を始めました。月代《さかやき》を広く取って、根を下げた町人|髷《まげ》、芳年の袷《あわせ》、手拭はわざと肩に、脇差は鍔を外して懐に隠し、突っかけ草履《ぞうり》で、芳年の後に続きます。 「ね、欽さん」 「――――」  門口まで追って出たおよつ[#「よつ」に傍点]、芳年が一と足先へ行ったのを確かめて、 「わざと途中で手間取って、何処《どこ》か人気《ひとけ》の無いところで――」  およつ[#「よつ」に傍点]は手刀で、そっと物を切る真似《まね》をして見せます。 「それが、およつ[#「よつ」に傍点]――」 「待ってますよ、暗くなったら、直ぐ迎いに来て下さい。解って欽さん」 「――――」  欽之丞はうなずくと、一と足先に行った芳年の後ろ姿を追いました。  未刻《やつ》から申刻《ななつ》頃まで、  およつ[#「よつ」に傍点]は坐っても起ってもいられない心持でした。長火鉢の前へ行ったり、門口へ出たり、お勝手を覗いたり、煙草《たばこ》を吸ったり、茶を呑んだり、溜息をついたり、 「欽さん」  何《な》んか邪《よこし》まなことを念ずるような心持で、不思議に胸騒ぎに悩み続けたのです。  ヒョイと見ると、垣の間から白い顔、  お浜の狷相《ずるそう》な眼と、人を馬鹿にしたような――その癖、男好きのしそうな赤い唇が見えるではありませんか。 「何んだい、お前は? 昨日も一昨日《おととい》も、雌犬のように、変なところから覗いたりして、いくら棟割長屋だって、垣の中は人様の城郭だよ、風の悪いことしやがると、水ブッ掛けるから」  およつ[#「よつ」に傍点]は気が立って居りました。 「芳年さんは、まだ帰らないの?」  お浜の調子の邪念の無さ。 「それが何《ど》うしたと言うのだえ?」  ツイ釣られるともなく、およつ[#「よつ」に傍点]も縁先へ泳ぎ出しました。 「だって、ツイ先刻《さっき》、田圃《たんぼ》で彰義隊の落武者が捕まって、斬ったとか斬られたとか、大変な騒《さわぎ》をしたようだから、此方《こっち》に何んか変りが無きゃ宜いと思って――」  お浜の調子のさり気ない滑らかさは、およつ[#「よつ」に傍点]に取っては、此上もない威嚇でした。が、――あんなに用心深い支度をして行った欽さんに、万に一つ間違いなどある筈もありません。あの人が訴人するか、屯所へ引渡したのなら別だけれど、あんな臆病者に、そんなことが出来る筈も無し――盛上《もりあが》って来る恐怖を、無理にも押付けて、およつ[#「よつ」に傍点]は乾く唇を噛みました。 「彰義隊の落武者? そんな者に掛り合いは無いよ。余計なお節介をするより、さっさと自分の家へ帰って、内職の楊枝でも拵えるが宜い、馬鹿馬鹿しい」 「そんなら宜いけれど――」  お浜は煮え切らぬ事を言い乍ら、臆病な狐のように、振り返り振り返り帰って行きます。 「畜生ッ、何んて嫌な奴だろう」  およつ[#「よつ」に傍点]は縁側から引込みました。  が、その時丁度、格子を開けて、何時《いつ》になく、ノソリと入って来た、大蘇芳年の蒼い顔と、眼を外《そら》しようもなく、ハタと逢ってしまったのです。 「あッ」  恐ろしい予感が、水のようにおよつ[#「よつ」に傍点]の背筋を走りました。 [#5字下げ]血に狂う美女[#「血に狂う美女」は中見出し] 「およつ[#「よつ」に傍点]、居たか」  洞《うつ》ろな声、眼はギラギラと瀬戸物のように光ります。 「お前さん、何んて顔だい、――あの人が若《も》しや?」  およつ[#「よつ」に傍点]の言葉は喉の中で消えました。 「田圃《たんぼ》で官兵に捕まったよ」 「えッ」 「上野で散々官兵を斬ったことを知って居る者があって、其場でなぶり殺し同様」 「じゃ、矢張《やっぱ》り」 「これを見ろ」  芳年は、ポンと画稿を投げました。  手に取って見る迄《まで》もありません。およつ[#「よつ」に傍点]の膝の前でパッと開いたのは、矢立の墨一色で描いた、至って粗末な略画乍ら、紛れもない町人姿にして出してやった日下部欽之丞が、多勢の官兵に取巻かれ、乱刃の下に斬りさいなまれている怨《うらみ》の形相です。 「えッ、畜生」  およつ[#「よつ」に傍点]は画稿を叩き付けて、いきなり芳年に武者振り付きました。 「あッ、何をするんだ」 「お前と言う男は、何んと言う卑怯者だい。私とあの人の仲を疑って、力ずくで叶わないから芋兵に、訴えて召し捕らせ、こんな虐《むご》たらしい目に逢わせやがったろう」 「俺がそんな事を知るものか、離せ」 「わざわざ陽のあるうちに連れ出したのは、これを絵に描き度いために違いない。三月でも四月でも、一緒に住んだお前の心持が、私に解らないと思うのかッ」 「馬鹿なッ」 「お前は上野で官兵に斬られるところを、あの人に助けられたと言ったろう。一旦かくまった恩人を訴人して、義理も人情もない、それでも江戸っ児《こ》の端くれかい。畜生ッ、意気地なし、そのくせ、いけ図々しく、こんな虐《むご》たらしい絵まで描いて来やがって、ぬけぬけと私に見せるなんて、何んて根性だろう、外道ッ、鬼ッ」  およつ[#「よつ」に傍点]は半狂乱でした。揉みも揉んだ姿で、芳年の首へ胸へ、髻《たぶさ》へと武者振り付くのです。 「俺じゃない――誰か訴人をしたに違いないが、この芳年じゃ無い」 「それほど潔白なら、何んだって、こんな無慚絵なんか描いたんだ。人の死ぬのをヌケヌケと見ていて宜いものか悪いものか、思い知らせてやるから、畜生ッ」  小格子で年一杯叩き上げたおよつ[#「よつ」に傍点]は、妖艶で取廻しの良い女でしたが、その代り、執拗で病的で、意地っ張りで気違い染みた女でした。 「待ちなよ、俺だって人の殺されるのが面白いわけじゃないが、今の時世を写すには、こんなものでも描くより外に仕方が無い。天下後世に、俺の芸道を遺すためには、油汗を流し乍ら、歯ぎしりして、無慚絵を描くのだ」 「まァ、何んと言う曲った根性だろう。地獄の鬼だって、そんな虐《むご》たらしい事ばかり追い廻しちゃ居まい――それほど芸とやらが大事なら、美事《みごと》私も成敗しておくれ。お察しの通り欽さんは私の命まで打込《うちこ》んだ深間さ。それがどうしたんだい、畜生。さア、殺しておくれ、立派にやっておくれよ」  半狂乱のおよつ[#「よつ」に傍点]は、芳年に身体《からだ》を摺り寄せて、四方《あたり》構わずわめき散らすのでした。 「馬鹿ッ、宜い加減にしないか。俺はそんなことで、人を殺す量見《りょうけん》などは微塵も無い。気に入らなきゃ出て行くが宜い。どうせお前が勝手に飛込んで来た家じゃないか、死のうと生きようと、お前の好きなように――」  芳年もツイ持て余し気味に、およつ[#「よつ」に傍点]の絡み付く身体《からだ》をおし退《の》けました。 「私一人で死ねと言うんだね、――ようし、あの人を訴人したお前の前で、見事死んで見せよう、驚くな」  いきなり台所へ駆け込んだおよつ[#「よつ」に傍点]、芳年がそれを追う隙もありません。キャッと言う悲鳴、――研ぎすました出刃庖丁で、我とわが喉も胸も、顔までも掻き切って、満身鮮血を浴びたまま、よろぼいよろぼい這い出して来たのです。 「あッ、何んと言うことをするんだ」 「さァ、この、私の顔をよく見ておくれ。この顔を、この姿を、――お前の筆で描けるものなら描いておくれ」  宙に泳ぐ手、銀杏《いちょう》返しの根はガックリ抜けて、血潮の網目を引いた拳に、黒髪がバラリと絡みます。  女の顔は、美しいだけに凄まじいものでした。引釣《ひきつ》る眉、ギラギラと死の苦痛を映す瞳《め》、血みどろの頬も唇も痙撃して、綺麗な歯並が、締木にかけたようにギリギリと鳴ります。 「この顔を見て、お前が夜寝られるか寝られないか、――よく見ておくれ。欽さんを訴人した上に、この私まで、――手に掛けなくても、なぶり殺しにしたお前だ――」 「待て、言うことがある。何も彼《か》も間違いだらけだ、――あれ、あれを聴け」  芳年は血に狂う手負いのおよつ[#「よつ」に傍点]を辛くも抱き止めて、二軒長屋の隣家――お浜の家のたたずまいを指します。  生垣一つを隔てて、明けっ放した庭先の夕陽に、何も彼も手に取るよう。この時お浜の家には、隊長に従って官兵が七八人、ドカドカと入って来たのでした。 [#5字下げ]描き出す怨女の悪相[#「描き出す怨女の悪相」は中見出し] 「日下部欽之丞を訴人した、浜というのは其方か。女乍ら、賊軍の大物を討たせた手柄は抜群だ。追って褒美の御沙汰はある筈だが、取あえずお上のお言葉だけを伝えて置く」  そう言う官兵の隊長の声が、近所合壁へも聞えよがしに、凜々と響き渡るのです。 「――――」  それを聴いたおよつ[#「よつ」に傍点]、芳年の腕の中に、必死の眼を見開きました。 「聴いたか、およつ[#「よつ」に傍点]、――あれで、何も彼も解ったろう。改めて言うまでもないが、――俺は唯《ただ》の絵描きだ。世の態《さま》、人の姿は描くが、訴人や企らみをする柄ではない、――俺の言葉も耳に掛けず、お前は飛んだ早まったことをしてくれたじゃないか」 「――――」 「どうせ勤めをしたお前だ。馴染も深間もあったところで、俺はそんな事でヤキモキするものか」  静かに説く芳年、隣の庭からは官兵が引揚げて、お浜のいそいそとした姿が、それを送って出た様子まで手に取るよう。 「お前さん」 「解ったか、およつ[#「よつ」に傍点]」 「堪忍しておくれ、私は――」  今死ぬおよつ[#「よつ」に傍点]の眼には、初めて油のような涙が沁《し》み出しました。 「解ったらそれでよい。傷は浅い。静かに手当をするが宜い」 「いえ、私は助からない。助かり度くもない、――お前さんに済まないけれど、私は、私は欽さんの後が追って行き度い」  およつ[#「よつ」に傍点]は声もなく、芳年の膝の上に、身を顫わせて泣くのです。 「それも解っている、どうせこの俺とは浅い縁だ」 「堪忍して」 「可哀想に、――お前という女は」 「お前さん、――たった一つの願い、聴いてください」 「何んだ」 「お前さんは此間から、殺しも斬合いも梟《さら》し首も描いたが、女の、怨女の末期は手本が無いと言って居なすった」 「――――」 「幸い、この私の浅ましい姿、――息のあるうちに、描いて下さい、――せめてもの恩報じ」  芳年の膝を降りたおよつ[#「よつ」に傍点]は、最後の力を絞り出すように、柱に縋《すが》ったまま、フラフラと立ち上るのでした。 「それはいけない、――お前の顔に怨は消えた。死ぬ苦しみはあっても、怨女の悪相は無くなってしまった」  まこと、法悦に似たものが、血みどろなおよつ[#「よつ」に傍点]の顔を、仏作ってさえ見せているのです。  が、形勢は一瞬にして変りました。  此時、隣の物音に気の付いたお浜が、官兵を送り出した序《ついで》に、庭の木戸を押し開けて、ヒョイと入って来たのです。 「あッ」  目の前に展開した、血みどろの光景に、お浜は逃げることも忘れて釘付けになりました。 「畜生ッ、お前が訴人したんだね、――この怨み、覚えてお出で」  お浜の顔を見ると、忽《たちま》ちおよつ[#「よつ」に傍点]に蘇生《よみが》える怨み、柱に絡んだ身体《からだ》が醜《みに》くく歪むと、眼も、口も、一瞬蒼白い焔《ほのお》を潜ったように、深怨無残の悪相が、メラメラと燃え上るのでした。 「助け――てエ」  あまりの事に、お浜は狭い庭の上に這いました。眼は縁の柱に伸上《のびあが》る手負に吸い付けられて、娘の身体《からだ》はあまりの恐怖に蟲《むし》ほども動きません。 「口惜《くや》しいッ」  キリキリと鳴るおよつ[#「よつ」に傍点]の歯、風の無いのに、サッとなびく黒髪、柱に絡んだ手が緩むと、手負の身体《からだ》が、ゾロゾロと崩折《くずお》れて、庭のお浜を覗き加減に、ワナワナと双手《もろて》を差伸べます。  最早、背に迫る死の手、お浜をつれて、八寒地獄の底までも行く積りでしょう。  芳年は思わず画帳を取上げました。死の一瞬手前の、怨女の悪相が、名筆に従って、サラサラと描き上げられて行くのです。そのかみ、猛火の中のわが娘を見たという、仏画師|良秀《よしひで》のように、――人の世の掟を超えた、芸道三昧の恍惚境にひたり切って、――浮世絵師芳年の顔は、名ある高僧のように澄み切ったのでした。  大蘇芳年の傑作「英名二十八人衆句」は斯《こ》うして出来上りました。徳川末期の江戸を彩った、血みどろの世界が、「団七九郎兵衛《だんしちくろべえ》」になり「稲田新助《いなだしんすけ》」になり、「直助権兵衛《なおすけごんべえ》」になり、そして怨を含んで殺されて行く「笠森《かさもり》お仙《せん》」の美女殺戮の図となったのです。  芳年の無慚絵が持った境地、その生々しいリアリズムは、明治画壇に大きなスタートを与えました。それが水野年方《みずのとしかた》となり、落合芳幾《おちあいよしき》となり、輝方《てるかた》、英朋《ひでとも》、年恒《としつね》、年英《としひで》となり、そして巨匠|鏑木清方《かぶらぎきよかた》となったことは言う迄もありません。 底本:「野村胡堂伝奇幻想小説集成」作品社    2009(平成21)年6月30日第1刷発行 底本の親本:「芳年写生帖」春陽堂    1939(昭和14)年 初出:「オール読物」    1938(昭和13)年3月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※「さア」と「さァ」、「まア」と「まァ」の混在は、底本通りです。 入力:門田裕志 校正:阿部哲也 2015年8月13日作成 青空文庫作成ファイル: 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