篝火の女 吉川英治 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)足高《あしたか》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)山|陰《かげ》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)〻 ------------------------------------------------------- [#4字下げ][#中見出し]朱い横笛[#中見出し終わり]  箱根山脈の駒や足高《あしたか》や乙女には、まだ雪の襞《ひだ》が白く走っていた。そこから研《と》ぎ颪《おろ》されて来る風は春とも思えない針の冷たさを含んでいる。然し、伊豆の海の暖潮を抱いている山|陰《かげ》や、侍小路の土塀のうえには、柑橘《かんきつ》の実が真っ黄いろに熟《う》れていて、やはりここは赤城や榛名《はるな》の吹きおろしに曝《さら》されている上州平野よりは、遙かに気候にめぐまれているなと、石田|大七《だいしち》は何事につけてもすぐ自分の国土と比較して考えずにいられないのであった。  畑をみれば、まだ、上州あたりでは冬草も除れてないのに、この相州では、麦が三寸も伸びている。土民の家をのぞいても豊らしく見えるし、往来人の風采《ふうさい》をながめても文化の差がわかる程、ここは、上州よりもずっと都会色が濃いのであった。 『さすがに、北条早雲以来三代を経た関東一の覇府《はふ》だ――』  石田大七は、感心したが、すぐその後から、 『――然し、兵にかけては、北条が強いのではなく、ただ、この天産と地の理が強いだけなのだ』  と、肚《はら》のそこで、見くびってしまう。  酒匂川《さかわがわ》を越えると、並木の風にも、北条氏三代のきびしい秩序が、颯々《さっさつ》と、威厳をもって、旅人を襲ってくる。  この小田原の城下は今や、八州はおろか、海道随一の大都会だった。海には、唐船《からふね》が帆ばしらを並《なら》べ、街には、舶載物《はくさいもの》を売る店舗《みせ》や、武具をひさぐ商人《あきんど》が軒をならべ、裏町には、京や堺《さかい》から移住して来た工匠《たくみ》たちが、糸を染め、鏃《やじり》を鍛え、陶器《すえもの》を焼き、殷賑な煙がなびいていた。 『文化は進んでいるが、そのかわりに、人間は甘いぞ』  と、石田大七は、すたすたと、城下へ向って足を早めながら、愈〻、北条を見くびった。  酒匂の木戸は、往来人の検《あらた》めに厳密をきわめていたが、誰あって、彼を敵国の乱波者《らっぱもの》[#1段階小さな文字](間者)[#小さな文字終わり]と見やぶる者はなかった。  だが、その彼の姿を見ると、町の洟《はな》たらしや、しらくも頭や、悪童たちが、 『やあい、ぼんやり飴屋《あめや》』 『唖《おし》か』 『唄を忘れたのか』 『胸の人形が欠伸《あくび》しているぞ』  と、ぞろぞろ尾《つ》いて来て、揶揄《からか》った。  大七は、ぎょっとした。  ここが北条氏康、氏政の本拠かと、事々物々に思わず眼を奪われて、うっかり歩いていたのであるが、気がついてみると、自分の姿は、阿波《あわ》人形を飴箱の上に乗せ、それを首に掛けている飴売《あめうり》なのだ。その飴売が無口になって、眼ばかり光らせて歩いていては、なる程、唖と思われよう。 『子どもは、怖い』  と、呟《つぶ》やきながら、大七は、朱《あか》い横笛を持って、城下の辻で、ひゃらひゃらと吹き初めた。 『さあ、お出でお出で。飴を買う子には、阿波人形の上方踊りを見せようず。買わない子には、見せぬとは云わぬが、遠慮して、後《うしろ》のほうに立っておくれ。――さあ、初めは槍舞じゃ、槍舞じゃ』 [#4字下げ][#中見出し]顔二つ[#中見出し終わり] 『萩乃《はぎの》や。――来てごらん』 『なんですか、姫《ひい》さま』  萩乃は、八雲によばれて、侍女《こしもと》部屋から縫物を置いて立った。  紅い糸屑がその裾についてゆく。  錦小路《にしきこうじ》の邸《やしき》だった。千貫以上の禄取りが住む古い武家構えの窓先なのである。裏も表も、いつも門扉はかたく閉まったままで人の住んでいる気配もない家なのであるが、めずらしく、こういう声がして、巌畳《がんじょう》な手斧削《ちょうなけず》りの窓格子に、美しい顔が二つ並んだ。  二十歳《はたち》か、二十一、二ぐらいな、一方の気品のある明眸《めいぼう》の麗人は、おととしの秋、武州|野火止《のびどめ》の合戦で、甲州勢のなかへ駈け入って戦死した東郷五郎左衛門直広のわすれがたみ――母もなく今はただ独りでこの広い屋敷に取り残されている八雲《やくも》なのである。  萩乃は、彼女の小間使であり、忠僕であり、又、片刻《かたとき》もそばを離れないただ一人の護衛の士《さむらい》でもあった。――と云っても勿論、萩乃は女性なのである。そして、年ばえもそう大しては違わない、一つか二つほど上であろう。色が白くて、笑靨《えくぼ》が深かった、笑うと、すこし齲《むし》の蝕《く》っている糸切歯《やえば》が唇からこぼれて見える。 『姫《ひい》さま。めずらしく、外をごらん遊ばして、何がお心にとまりましたか』 『おまえには、聞えない?』 『なんですか』 『あの笛の音が――』 『飴売でございましょう』 『ちがう』  八雲は、首を振った。  萩乃は、黒い糸切歯を、ちらと笑《え》んだ唇元《くちもと》から見せて、 『――では何の笛と仰っしゃいますか』 『あれを、ただの笛と聴くのは、おまえの耳がどうかしていますよ。あれは、杜鵑管《とけんかん》です』 『えっ』  萩乃は、耳を欹《そばだ》てながら、 『どうして、それがお分りになりますか』 『いちどでも、自分が、この唇を歌口に当てたことのある笛の音を、何で忘れてよいものか。しかも世間に幾つとは無い名笛でもあるし……』 『そういえば、ただ子ども寄せに吹いているようでも、どこか、余韻がちがうような気もしますね』 『私の耳に、間違いはない』  自信をこめて、八雲は云った。  その杜鵑管という笛は、先おととしの事、まだ彼女の父が壮健で、近国の乱も小康を得ていた折、京都《みやこ》へ上洛《のぼ》って、清水へ詣った時に、稀〻《たまたま》一度父の手に入ったことのある品なのである。  八坂の下の古い古物屋に埃にまみれてあったのだ。彼女の父は、舞楽にも嗜《たしな》みのある人だったので、すぐ、 (これは――)  と眼をつけて買い求めた。琉球《りゅうきゅう》朱で赤く塗ってあって、銘には、「杜鵑管」と、金の針金を象篏《ぞうがん》したように、細く小さく記してあった。 (いずれ、由緒《よし》ある若武者か、氏のよい公達《きんだち》かが鍾愛《しょうあい》したものにちがいない)  彼女の父はそう云った。  そして、加茂の流れに近い旅舎《たびのいえ》で、彼女にそれを吹けと云った。八雲は、興に乗って吹いた、その折、侍女《こしもと》の萩乃もそばに居てそれを聞いていた筈なのである。 [#4字下げ][#中見出し]みだれ世の赤縁《えにし》[#中見出し終わり]  すると――  その名笛が、縁になって、同じ旅舎に泊っていた越後の士《さむらい》と懇意になった。身分は、その士のほうが高いくらいであった。卑しくない父子《おやこ》なのである。 (てまえは、春日山の上杉弾正|少弼《しょうひつ》謙信の家来、安中越前守長房、これなるは伜の三郎進《さぶろうすすむ》と申すもので)  と、その父子《おやこ》は名乗った。  安中《あんなか》父子は又、 (主人謙信より申し遣わされて来た菊亭右大臣家の御用もはや済みましたので、この数日を、都見物にくらして居るところです)  とも話した。  縁というものであろう。それからの七日ほどを、この父子《おやこ》と父娘《おやこ》とが、打ちつれて洛中洛外の名所あるきをしている間に、北条家の東郷五郎左衛門と、上杉家の安中越前とは、すっかり気心が合って、 (其許《そこもと》の娘を、伜に賜《たま》わらぬか) (当人さえ、よいならば――)  と云うような談《はなし》になって、それでは、帰国した上で、双方の主君の許可《ゆるし》を得て、改めて、日もきめよう、結納《ゆいのう》も交そうとなった。  で、三郎に訊くと、 (是非)  と云うし、八雲の心をただすと、これも、 (お父さまの思し召しのままに)  という答え。勿論、わるくないのである。二人の父は、この幾日かのあいだに、若い息子と、若い娘とのあいだに、どういう感情がながれていたか位は、充分に知っていたので、 (そうだろう……)  と、老後の楽しみを予想するような和《なご》やかなほほ笑みを見交した事であった。  そればかりではない。  愈〻、別れに臨んでは、口約束だけでは心もとないとあって、三郎|進《すすむ》は、 (何か、御息女のおしるしを戴きたいが)  と、自分の意志《いし》のかたい所を見せて、こう希望を述べると、 (御もっともな仰せ。しかし、旅先のこととて、何もござらぬが、それでは、娘が吹いた笛の音が、この御縁をむすんだこと故、途中で求めた品でござるが、この杜鵑《とけん》と銘《なづ》けた一管を、お誓いの証《しるし》がわりに、お持ちくださるまいか)  東郷五郎左衛門のことばに、 (それは、何よりの品)  と、三郎はよろこんで、携《たずさ》えて帰ったのである。そして、後に届いた彼女への便りには、  ――お身の唇に濡れたることもある笛と思えば、わが唇の触るるごとに、音もおののき、身も慕わしゅうおののき候て。  などと書いてあった事もある。  云う迄もなく、八雲の思慕も同じだった。いや、女ごころは、外にあらわさないだけに、もっともっと、埋《うず》め火のようにつよいものがあったかも知れない。  所が、その誓いは、果されなかった。  なぜならば――  まず第一に、北条家の主君、氏政がゆるさなかった。越後の上杉家とは、それから間もなく、上野国《こうずけのくに》の国境で、小競《こぜり》あいがあり、甲州の武田信玄《たけだしんげん》は、久しく鳴《なり》をひそめていた鼓《こ》を鳴らして、 (わが甥、氏政のために)  と出兵の口実を藉《か》りて、上杉勢の退路を断ち、沼田、吾妻、碓氷《うすい》の各所で、烈しい合戦が繰りかえされて来たのである。  甲斐《かい》の武田信玄は、小田原の北条氏政にとっては、母の弟にあたるので、この叔父は、天文十六年の冬以来、越後の上杉謙信と干戈《かんか》を交え始めてから、互いにその領土を侵したり侵されたりしつつ、幾度か川中島に両軍から出張って雌雄を決しようとしたり、また幾度か和睦《わぼく》を議しては和《わ》せずに立ちわかれて、宿命的に、越後と睨《にら》み合っている仲なのである。  北条家としては、「金持喧嘩せず」という諺《ことわざ》のとおり、自分の領地が侵害をうけない限りは、精鋭無比な越兵とも事を構えたくないし、尚更、叔父信玄の持つあの精悍《せいかん》な甲州軍とも争いたくない。  けれど、上杉勢としては、何うしても三国の嶮をこえて、上野国から相武の海へと、その覇力を伸ばして来るのが自然の勢であったし、その志を遂げさせては、自分の大望に邪《さまた》げありとしていつも、横槍を衝き入れるのが武田信玄なのであった。  北条家の領土は、そうして、幾度か越兵に蚕食《さんしょく》されては、その度毎に武田勢が奪回してくれていたが、年々、越後の上杉勢は、上州から武蔵へと、一城一城、羽翼をのばして来て、近年では北条勢も武田勢も、まったく、手を拱《こまぬ》いて、越後から三国山脈をこえて襲う燎原《りょうげん》の火のような侵略を見ているほかない状態であった。  然し、それをいつまで黙って見ている信玄ではない。時機《とき》を見ていたのだ。  ふたたび、所々で合戦が始まった。  戦《いくさ》が起ると、 (西からどこを攻めよ。東からどこを衝け)  と、甲州の叔父からは頻々と、甥の氏政へ軍勢の催促がくる。  甲斐の敵とする上杉謙信は、同時に、北条家の敵ともなるのであった。そういう三国三すくみ[#「すくみ」に傍点]の一時的な平和のやぶれる気運が見えたので、主君の北条氏政が、東郷五郎左衛門の娘と、上杉家の家士との縁ぐみを、 (ならぬ)  と、黙殺《もくさつ》していたのは、当然なのであった。  願い書を主君の手もとへさし出してから、一年とも経たないうちに、東郷五郎左衛門は、甲相聯合軍の陣にあって、武州の平野戦で討死にしてしまった。  以来、甲越相三国の戦《いくさ》は絶え間がない。  おととし――去年――今年と。  東郷家には、五郎左衛門の死後、何の沙汰もなく、もちろん八雲の縁ぐみ届けも、そのまま永劫《えいごう》に闇から闇への運命になっている。  親戚の者が、彼女に対して、 (あの届け出は、殿も、もうお忘れであろうから、誰か、同藩士の子息を、聟《むこ》にむかえて、東郷家の名跡をつがせ、家督再興のお願いを出してみたらよいと思うが……)  と案じて計る者もあったが、八雲は、 (でも私には、いちど誓った良人《おっと》がありますから)  と何日《いつ》も、きっぱりと首をふって云う。  従って、彼女の立場は、だんだんに不利になって、禄《ろく》も途絶え、外出も制限され、他《ほか》から来る書状もいちいち監視をうけて、北条家の城下に住みながら、北条家の臣からは、まったく、他国者扱いにされていた。  ――そうした彼女自身の心と、彼女を繞《めぐ》る事情とが、この古い武家屋敷に、女ふたりの主従だけを取り残して、他目《よそめ》にも勿体ない程な若さと美しさを、空しく鋲打《びょううち》の門の中に閉じ籠めさせて来たのであった。 [#4字下げ][#中見出し]潮鳴の胸[#中見出し終わり] 『――でも、姫様《ひいさま》、おかしいではございませんか』  萩乃は又、考え直して、八雲のことばに疑いを挾《はさ》んだ。 『なぜ?』 『なぜと云って、あの杜鵑管を、どうして、飴売りなどが、持って居りましょう。安中三郎様が、かりそめにも、人手にわたす筈はございません』 『そうとは限るまい。きっと、あの飴売りは、三郎様の密使でしょう』  八雲は霊覚者の宣示《せんし》のように、信念のあることばで云った。 『そうでしょうか?』 『そうです』 『じゃあ、そっと出て、どんな飴屋か、見て参りましょうか』 『……え』と、欣《うれ》しげに、 『だけど、家中の者に、気づかれないように』 『抜かりはございませぬ』  萩乃は、裏門の潜《くぐ》りから、往来の眼をしのんで出て行った。  召使もずいぶん多かった中で、たった一人、今日まで残っていて、寝る間も、主人の身辺に細い気くばりをしている萩乃だった。――うしろ姿を見送って、八雲はふと、 (彼女《あれ》も若いのに、私のために――)  と、済まないような心持に、ふと、瞼《まぶた》を熱くした。  けれど、萩乃は、元気者だった。いつも、愛嬌のある黒い糸切歯を見せて、愁《うれ》わしげな顔をしたこともない。  今も、やがて、いそいそと戻って来て、 『姫《ひい》さま!』  と、息を弾《はず》ませて寄り添った。 『どうでした』 『やはり、姫さまはお偉いと、つくづく頭が下がりました』 『そんな事より、笛の持主は』 『上杉家の乱波者《らっぱもの》で、安中三郎様の手勢についている石田大七殿でございました。――そして、笛もやはり、姫さまのお察しどおり、あの杜鵑管《とけんかん》でございました』 『では、三郎様が、私へお便りを下さりたい為に』 『そうです。この笛を携《たずさ》えてゆけば、お疑いもあるまいし、又、姫さまの居所をたずねるにも、何かの便りになろうというお考えで、石田大七殿へ、お預けなされたのだそうでございます』 『そうか……』と、八雲は、あれ以来毎日、思いつめている三郎進の姿を、今も濃く瞼に描いているように、 『――してお手紙は』 『これに』  萩乃は窓を閉めて、なお屋敷の庭や次の間なども注意ぶかく見まわしてから、帯の間に秘《かく》して来た密書を、そっと、主人の手に握らせた。  八雲は、封を切ると、 『おなつかしい』  と口の裡《うら》[#「口の裡《うら》」はママ]でつぶやいた。もう、処女《おとめ》らしい涙をいっぱいにたたえて。 『お読みになったらすぐ火に燃やしてくれと使の大七殿が申しました』 『そうですか……』  焼くのも残り惜し気なのである。彼女はなんども読みかえして、吐息をついた。 『姫さま。お便りの中は、何んな事でございますか』 『――御覧』  萩乃にそれを渡して、彼女は、自分の小机のまえに坐りくずれてしまう。  この悶《もだ》えを、この情熱を、遣り場なく喘《あえ》いでいるようなそのうしろ姿――  萩乃は、彼女と背中あわせに、許されたその秘密の文を読んでいた。 [#ここから2字下げ] 八雲どの。 去《い》ぬる年の都の誓いを、この身は忘れてはいない。神かけて、あの誓いは胸に刻みこんでいる。 然し、乱れ世の若人《わこうど》の儚《はかな》さよ。戦《いくさ》と恋は両立しない。しかも、弓矢の捨てられない武人であることを、君もゆるせ。――ただここに、二人の希望をつなぐ一途がある。 それはおん身が、城地の監視をやぶって、私の城へ逃げてくることだ。幸にも我れ等は今、安中城に立てこもって、武田の遠征軍を蹴ちらしている。 貴女《あなた》に、その勇気があるかどうか。幸にも、もし来給うならば、使の者に、その旨を齎《もた》らしたまえ。われは、死を冒《おか》して、古河の利根川べりの辺りまで、手勢をひいてお迎えに参ぜん。 必ず吉報のお返しあらなんことを、信じて待つ。 [#ここから4字下げ] 永禄六年二月 [#ここで字下げ終わり] [#地から4字上げ]三郎進  二度ほど繰返しているうちに、紙のうえに黄昏《たそが》れが漂った。燭を点《つ》けて萩乃はその燈《ひ》に手紙をかざした。ぼっと、音をたてて紙は一片の焔《ほのお》になってしまう。 『姫さま! ……』  後《うしろ》へ摺《す》り寄って、八雲の耳もとへ、強い――低い声で、ささやいた。 『お書きあそばせ、御返事を――。その御返事を、大七殿が、今夜、御幸浜《みゆきがはま》で待っているはずでございます』 『なんと書こうぞ、あの、真実なおことばに対して』 『真実なおことばには、真実を以てお答えするよりほかはありますまい。姫さまの真実とは、常に仰っしゃっているように、女の道を踏むという事でございます』 『では、この小田原を』 『お逃げあそばせ、萩乃が、一命をもって、お供いたしまする』 『でも、御先祖からの主君の地を』 『では――女の道はどう遊ばしますか』 『ああ……』  と、泣き伏したが、すぐ、 『萩乃。――硯《すずり》へ水を』  と云った。  筆と紙とを持った八雲の面《おもて》には、つよい意志が坐っていた。燭の明りがその横顔の情熱を明々と焼いている。 『――行って参ります』  夜は出やすかった。  梅花《うめ》の多い城下である。錦小路のくら闇には、ほのかな香がうごいていた。町をまっ直ぐに突きぬけると、松の樹の間が青白く光っている。そして、ざあっと濤《なみ》の階音が裾を吹いてくる。  萩乃は、浜を見まわした。 『大七様あっ……』  約束の人影は見えないのである。ここでと云った巨《おお》きな松の下にも。その附近にも。 『どうしたのだろう?』  行きつ戻りつしていた。――すると、浜に曳きあげてある一|艘《そう》の漁船の中から、 『おう、東郷家の召使か』  と、人の声がした。  思わず、はいと答えながら側へ走って、 『大七殿か』  寄ると、途端に、 『捕れっ』  と、苫《とま》を刎《は》ねて云った者がある。  萩乃は、その顔を見て、 『あっ――』  と、身ぶるいして蹌《よろ》めいた。  どこに潜んでいたのか、砂を蹴って、真っ黒に彼女をつつんだ人影が、彼女の必死な反抗をたたみ伏せて、後ろ手に縄をまわしてしまった。       ×         ×           ×         ×  帰ろう筈はない。――帰らぬ萩乃を、八雲は、不安な胸をいだきながら待っていた。 『どうしたのであろう? ……。もう夜も更《ふ》けるに』  つい窓を明けてみた。  すると、誰やら、笠をかぶって、窓の外の夜更けを通って行く人影が、扇《おうぎ》を口に当て、 [#ここから2字下げ] はや潮の―― うしおに巻かれて 迷うよ 友の千鳥は。 はや潮の―― 寄せくる磯ぞ 立てよ 残る千鳥は。 [#ここで字下げ終わり]  夜霞《よがすみ》の小路の辻へ、謡《うた》いながら消えた。 『あっ? ……。今の謡は』  しきりと、海鳴《うみなり》の音が先刻《さっき》から胸底に騒いでいる所である。八雲は、はっとして、そこを閉めた  間もなく、燭もふき消した。奥で、物音だけが暫く密《ひそ》かにしていたが、やがて庭境の塀のやぶれを潜《くぐ》って、隣地《となり》の大宗寺の林から丘へ逃げのぼった。  ほっと、息をついて何気なく、わが家の方を振返って見ると、何とあぶない一刻の差であったろう。表門裏門から提灯《ちょうちん》や松明《たいまつ》をかざしてなだれ込んだ奉行所の手勢の声が、そこまで風に送られてくる程だった。 [#4字下げ][#中見出し]立ち寄る軒[#中見出し終わり] 『丑蔵《うしぞう》……。開けておくれ。……丑蔵』  そぼ降る小雨のあいだに、こう人声がして、誰か憚《はばか》るように戸を叩く者がある。  酒匂川《さかわがわ》の上流で、井細田村《いさいたむら》と足柄村に跨《また》がっている小さい部落だった。五、六軒しかない筏流《いかだなが》しを職とする土民の家もみな寝ているうちに、そこの一軒だけが、微《かす》かに、破れ窓から灯影を見せている。 『――誰だい?』  丑蔵の女房のお菅《すげ》らしい返辞である。やがて、がたぴし、内から戸をあけると、 『あっ、御城下のお嬢様?』  吃驚《びっくり》したのであろう、大きな声で云った。 『叱《し》っ……』  霧のような雨を巻いて風が屋内の燈《ひ》を暗く揺りうごかした。八雲は、脱いだ蓑《みの》をお菅の手にわたして、 『静かにしておくれ。やっと、人目をしのんで来たのだから――』 『ようお出でなさいました。こんな暗い雨の道を』 『雨の道より、方々に、私を捕《とら》えようとする奉行所の立札《たてふだ》が廻っているので――。お前も、噂をお聞きでしょう』 『はい、きょうもうちの良人《ひと》と、噂をしていた所でございますよ。さあ、炉《ろ》ばたへお寄んなすって』  お菅は、薪《まき》をくべ足して、 『生憎《あいにく》、うちの良人《ひと》も、小荷駄衆のお侍から出頭しろといわれて、夕方、酒匂のお役所まで行きましたが、もう間もなく戻りましょう』  そこに坐って、濡れた袂《たもと》や裳《すそ》を乾かしていると、小雨の音はしなかったが、酒匂川のすさまじい河鳴が遠く聞えてくる。  ここの主《あるじ》の丑蔵というのは、父の死ぬ頃まで、長年、東郷家の仲間《ちゅうげん》をしていた者なので、この夫婦ならばと見込んで、八雲は、訪ねて来たのだった。  あれからの数日は、茨《いばら》の路そのものだった。奉行所の者が、頻《しき》りと立ち廻って自分を詮議《せんぎ》しているらしいので、昼間は当然、危険で歩けなかった。 『お寒うございますから、こんな物でも――』  と、お菅が雑炊《ぞうすい》をこさえてすすめる。 『ありがとう』  八雲は箸《はし》を取った。そして、変らない人の情《なさけ》を心のうちで拝んでいた。  間もなく、丑蔵が帰って来た。仲間をしていた頃から、よく力自慢をしていた体のいかつい男ざかりの漢《おとこ》である。どこかで飲んで来たとみえ、酒のにおいを持っていた。  八雲の姿を見ると、丑蔵は、酒で濁っていた眼を醒まして、 『これは――』と、朴訥《ぼくとつ》らしく、畏《かしこ》まった。 『お前に、頼みがあって来たのです』 『わしのような者でも、思い出して下さいましたか。この丑蔵にできることなら』 『ほかではないが、筏《いかだ》を出して、私を、今夜のうちに、河向うまで渡してくれませんか』 『お易いことで――と云いたいが、お嬢様も知っての通り、又、甲斐の武田方からの督促《とくそく》で、御当家からも御軍勢が続々と出ているところだ。この辺りの筏は残らず徴発《めしあ》げられて、一艘だって有りはしませぬ。往来は、御城下の橋と、この井細田の舟橋との二口《ふたくち》に限られて、それも、手形がなくては渡れまぬ[#「渡れまぬ」はママ]』 『では、無理ではあろうが、お前の家には、その手形があるでしょう。それを私に譲って下さい』  必死な光をたたえた八雲の眸《ひとみ》である。  丑蔵は、考え込んでいたが、 『よろしゅうございます、永年の御恩返し――』  と、重くうなずいて、 『実は、こんどの御合戦に、わしも小荷駄《こにだ》の軍夫に召募《めさ》れて行くことになりましたから、その手形を失っては、組|頭《がしら》に云い開きが立たねえが、なあに、間違ったら、この首をやると思えば大した事はない。お待ちなさいまし』  と、懐中《ふところ》から小荷駄奉行の焼印が捺《お》してある小形な木製の鑑札を出してそこへ置いた。 『ありがとう、この恩は忘れませぬぞ』  押しいただいて、八雲は、もう起ちかけるのであった。 『――だが、お前の首にかかわるような事があってはならないから、私が、舟橋を渡ったら、河向うにある地蔵堂の絵馬額《えまがく》の裏へ、この手形を返しておく故、誰か、そなたを裏切らぬ友達にたのんで、そっと取って来てもらえば無事に済むでしょう』 『なる程、それはよい思案だ。――だが、舟橋の関所で、見破られないようにしておくんなさい』  丑蔵は、彼女に蓑《みの》を着せかけながら云った。大丈夫――と答えはしたけれど、八雲はそこが生死の境《さかい》であることを覚悟していた。裳《すそ》を高く括《から》げあげて、草鞋《わらじ》をはき、竹の子笠を被り、短い小脇差を差しているのである。 『戦の後には、きっと、便りをよこします。お菅も、無事で暮してください』  白い雨の光が、軒先に光った。  泥濘《ぬかるみ》の闇へ消えてゆく跫音を見送って、丑蔵はそこを閉めたが、上にはあがらなかった。お菅が見ると、良人も、草鞋の緒を結んで、蓑を被《かぶ》ろうとしているので、 『おまえさん、これから、何処へ出かける気だえ』  と、咎《とが》めた。  丑蔵は、笑って、 『金|儲《もう》けだ。――密訴した者には、銀五十貫をつかわすと、御高札に出ているのを知らねえか』 [#4字下げ][#中見出し]失恋軍功帳[#中見出し終わり]  数百頭の馬の背が暗い河原にならんで雨に打たれていた。夜が明けたら川を越えるばかりにして兵も将《しょう》も甲冑《かっちゅう》をつけたまま小屋や幕の蔭に眠っている。  舟橋の入口には、大|篝火《かがりび》が二ヵ所に焚《た》かれ、その赤い光をよぎって、軍夫や、商人や、農夫や牛馬などが、夜どおし往来していた。誰の眼にも、戦時だという緊張した光があった。 『組頭っ。――お頭っ』  濡《ぬ》れた陣幕の中へ、首を入れて、丑蔵がどなった。  軍夫頭の魚住十介《うおずみじゅうすけ》が、すぐそこの番小屋で、番士たちと共に、戦《いくさ》の話をしていた。 『なんだ?』と振向いて――『貴様は、筏《いかだ》方の丑蔵じゃないか』 『へい』 『何か用か』 『ちょっと、お顔を拝借したいんで』 『俺に?』  と、魚住十介は、そこから出て来た。丑蔵は息を弾ませながら、東郷五郎左衛門の娘が、自分の鑑札を持ってここを通る筈だから捕まえてもらいたいと密告した。 『いつ頃だ、それは』 『もう二刻《ふたとき》ほどばかり前で』 『すると、宵《よい》の口じゃないか』 『へい』 『たわけ者が、今頃云って来て何になるっ』  十介は、嶮《けわ》しい顔いろをして怒った。  この対岸にも、あした出陣する兵が千人以上も屯《たむろ》している。そこへの用を帯びて、すでに宵から幾人かの家中の女が舟橋を通っているから、その中には、詮議中の八雲が居たかも分らないのである。丑蔵の密告は、遅蒔《おそまき》だった。 『なんですぐ云って来なかったか。左様な事を申し立てるが、実は、肚をあわせて、逃がしたのだろう』 『ど、どういたしまして、遅くなったのは、女房の奴が、あっしの事を、恩知らずだの糸瓜《へちま》だのと、逆らいだてして狂うので、そいつを物置小屋へ叩《たた》っ込んで来るために手間どってしまったんで。――忌々しい畜生だ』 『しかし、捨てては措けん』  魚住十介は、番小屋の番士たちへ、早口に仔細を告げていた。  すると。  小屋の側《わき》手に積んである兵糧《ひょうろう》だの陣具だの濡らしてならない品を囲んである中に、紺糸縅《こんいとおど》しの鎧《よろい》に、黒革の具足をつけた武士が、幕を引っ被《かつ》いで眠っていたが、むっくりと起きあがって、 『おい十介、あわてるな』  と、声をかけた。  十介は、振り顧って、 『おう、相木殿《あいきどの》か』 『ああ、よく眠った。……戦《いくさ》のまえに寝ておくのは、働く前に飯を食べておくのと同じだ、そちのように、御城下を立つ時から眼を光らしていては、戦場へ着いてから碌《ろく》な働きはできんぞ』 『ですが、慌《あわ》てずに居られない大事が出来《しゅったい》いたしたので』 『今、うつうつと、眠りながら聞いていた。――東郷五郎左衛門の娘八雲が河を越えたというのだろう』 『さようで』 『はははは』  肩をゆすぶって、相木|熊楠《くまくす》は笑った。  まだ三十歳にもならない武士であるが、戦のたびにこの男の名は北条家のうちに重きをなして光っていた。人の為《な》し得ない軍功をきっと土産にして凱旋《がいせん》するのだった。つい数年前までは、槍組の軽輩《けいはい》であったのに、今度の戦ではもう先手組の侍頭《さむらいがしら》として、五百人の兵をあずかって出陣を命じられている。  彼に、戦の極意《ごくい》を問う者があると、 (死ぬことだ。他にない)  と、いつも笑って云う。  戦焦《いくさや》けとでもいうのか、顔の皮膚は南蛮鉄《なんばんてつ》のように黒くて艶があった。冑《かぶと》の緒《お》のあとが薄白く焦《や》け残っている程なのである。豪快な性質《たち》で、いつも軍功帳の筆頭には坐るが、決して小才《こさい》には立ちまわらない、むしろふだんは眠たげに口を結んで、底光りのする眸を濃い眉毛の下に欝陶《うっとう》しそうに半眼に塞《ふさ》いでいるといった風だ。 『多寡《たか》の知れた女ひとりに、そう立ち騒ぐこともあるまい。誰よりもよく八雲の顔を見知っている此方が、一鞭《ひとむち》当《あ》てて捕えてくる』  そう云うと、相木|熊楠《くまくす》は、自身で一頭の駒《こま》を曳き出して来て、舟橋の架《か》け板のうえを巧みな蹄《ひづめ》の音に躍らせて、忽ち、河彼方《かわむこう》へ飛ばして行った。 『なんだ、人を制《と》めておいて、自分は怖しく気早に駈けて行く。いつも、先陣をやるのはあの手だな』  魚住十介が呟いて見送っていると、 『それアその筈だよ』  と、番士のひとりが、小屋の中で相槌を打った。 『なぜ? ……。何か、意味があるのか』 『あるとも、知らないのか』 『知らん』 『迂遠《うと》いな。御家中で知らぬものはない位な話だぞ。――あの相木熊楠という男は、以前、東郷五郎左衛門に就いて北条流の軍学を学んでいたことがある』 『それは、俺だって知っている』 『それだけ知っていても何もならん、話はその先だ。相木熊楠、あんな明珍鍛《みょうちんぎた》えの面頬そのままな顔しているが、あれで、色気があるのだ』 『それアあるだろう』 『軍学を習《なら》いに通っているまに、五郎左衛門の娘、八雲どのに、こッそり恋をしたものらしい』 『ふウむ』 『おかしいだろう』 『すこし、おかしい』 『で――師匠の五郎左衛門に、自身で、申し込んだというのだ』 『なにを』 『八雲どのを妻にくれと』 『はははは。……ウム成程《なるほど》』 『その頃、彼はまだ槍組の足軽、先は千貫取りの侍だ、格がちがう、当然ことわりを食った。――だが、東郷五郎左衛門も、ただは断らなかった。熊楠を励ますためか、口実に過ぎなかったか、そこは分らぬが、とにかくこう云った。――貴様もはやく一かどの武士になれ、よい妻を持ちたいと思うならば、恋よりは、男は、仕事が先だ。よい軍功《てがら》をあげさえすれば、嫁などは、三国中の好きな女を選ぶことができるではないかと。――それからだ、熊楠が、岩櫃山《いわびつやま》の城で、一番槍一番首の名のりをあげ、又、野火止《のびどめ》の合戦では、大将首を取ったりして、合戦の度ごとにぐんぐんと足軽組から抜けだして立身して来たのは』 『すると、彼に苦言を与えた東郷五郎左衛門は、熊楠にとっては、鞭撻《べんたつ》の恩人だな』 『ところが、人間、そうとる奴はないからな』 『恨んでいるのか』 『そういう噂だ。もっとも、先もよくない。出世《しゅっせ》したら、娘をやってもよいような事を云っておきながら、五郎左衛門父娘は、その後、旅先で、今度、御当家と合戦になった上杉家の家臣と、婚約を取り交している。――相木熊楠もいい気持ちはしなかったに相違ない』 『ははあ、それですっかり読めてきた』 『わかったろう、熊楠の意中が』 『道理で、先頃から、八雲のことというと、今夜のように自分が先に立つ。――東郷家の小間使、萩乃を捕まえて拷問《ごうもん》にかけたのも、熊楠だった』 『それも腹癒《はらい》せなのだ』 『まだある。敵の安中三郎進から八雲のところへ密使をよこしたのを、逸早《いちはや》く知って、その乱波者《らっぱもの》を召捕らえ、八雲の邸へ奉行所の討手を向けたのも、後で聞けばみな熊楠のさしがねだという』 『恋の意趣《いしゅ》は、古来からおそろしいものに極っている』 『まして、あの男のことだからな。八雲も、とんだ人間に想われたものだ』 『想われただけならよいがさ……。後が怖《こわ》いて』 『はははは。いくら剛勇な熊楠でも、恋は戦《いくさ》のような腕ずくでは勝てぬからの』 『安中三郎進のため、戦の軍功帳の誉《ほま》れは見事|奪《と》られたわけか』 『そのかわりに、見ておれ、こんどの安中攻めの合戦では、熊楠が、いつもの戦《たたかい》以上に強いから――』  笑い興じていると、すぐ下の河原のふちで、馬蹄《ひづめ》の音が、戞《かつ》っ――と石に響いた。 『あっ、戻って来たらしい』 『熊楠か』  魚住十介を初め、ぴりっとして、口を緘《つぐ》んでしまう。  陣幕《とばり》の外の士卒に、駒をあずけて、相木熊楠はずかずかと入って来た。鎧の鍛具《うちもの》や太刀の柄に、雨のしずくが燦々《きらきら》と溜っている。 『残念なことをした』  床几《しょうぎ》へ、ずしりと、腰をおろして、 『喉がかわいた。十介、水をくれ』  と、よほど無念らしい。  魚住十介は、水柄杓《みずびしゃく》へ一|掬《すく》い汲んで渡しながら、 『八雲は、捕まりましたか』 『ばかを申せ』と、怖しく不機嫌で――『八雲がこの舟橋をこえたのは、すでによほど前ではないか。余りに時刻《とき》が経ち過ぎている為、いかに駒をとばしてみても見当らぬ。それに国府津の郷《ごう》から先は、岡本勝政の陣所となる。いったい、この密告は、何者から出たのか』 『筏《いかだ》方の丑蔵と申す者ですが』 『不届《ふとど》きな奴、八雲を落しておいて、時経てから、忠義がましく訴え出るなど、食えぬ下郎《げろう》ではある。ここへ連れて来いっ』 『はっ』  恩賞を夢みながら、陣所の陰に、腕|拱《ぐ》みして佇立《たたず》んでいた丑蔵は、十介のすがたを見ると、 (呼びにきたな)  にやりと、白い歯を見せた。  いきなりその襟がみを引っ掴んで、十介が、 『丑藤[#「丑藤」はママ]、ちょっと来いっ』  ずるずると、引摺ると、 『あっ、だ、旦那。何するんで?』  腰を蹴《け》放されて、泳ぐように陣幕《とばり》のうちへ跟《よろ》け込んだ丑蔵は、相木熊楠の厳しい眉を仰ぐと、あわてて逃げかけた。  熊楠は、その背へ向って、 『仔細を存じおりながら、訴えを怠りおった不埓者《ふらちもの》、軍律に照らすっ』  丑蔵は何か喚《わめ》いて跳びあがった。とたんに、熊楠の陣刀が戞《か》っと鳴った、鞘から噴いた白い光の下《もと》に、丑蔵の大きな体は紅殻樽をあけたようにころがった。胴を離れた首は、雨にたたかれて、見ている間に臙脂《えんじ》色のあぶらを泥濘《ぬかる》みにひろげ、蝋よりも青いものになった。 『十介、三軍の見せしめだ、首を、河原へ曝《さら》しておけ』  もとの板囲《かこい》のうちへ入って、干飯俵《ほしいだわら》や軍梱《いくさごり》のあいだに熊楠は又眠ってしまった。魚住十介たちは、ゾッとした気持に襲われながら、 (気をつけろ、機嫌がわるいぞ)  と、囁《ささや》き合った。  矢来の竹を一本抜いて来て、十介は、その先を刃物で尖《とが》らせ、無造作《むぞうさ》に丑蔵の首を突き刺して黙々と河原へ下りてゆく。  丘も馬も暫《しば》しを眠っている、明日《あした》はどこに陣をすることか、水かさの増した大河を蕭条《しょうじょう》と打って、雨はいよいよ暗い。 [#4字下げ][#中見出し]齲歯《むしば》むすめ[#中見出し終わり]  南部馬だの、鉄だの皮革《かわ》だの、又砂金などを小田原へ売り込みに来る奥州船は、帰りには、織物雑穀などを仕入て、御幸浜《みゆきがはま》から碇《いかり》を抜く。  それへ、大勢の旅客も、ごたごた便乗していた。  雨が霽《あが》ったので、 『晴れましたぜ、いい按配に、波も穏かで』  客は、船底から這いだした。 『よく降りましたな。あなたは、どちらですか』 『石巻《いしのまき》で』 『そちらは』 『わしゃあ、塩竈《しおがま》だが』 『御遠方だな。どうです、儲かりましたか』 『戦《いくさ》のお蔭で、今年はこれで二度目の行商《あきない》でさ。百姓衆にはお気の毒だが』 『こんどの軍《いくさ》も、大きくなりそうですぜ。さしもの武田勢も、信州武州までは、一捲きにして来たが、上州|箕輪《みのわ》の城が落ちない。松井田城と安中城のふたつも、安中越前守と、三郎進という父子《おやこ》の両大将が守っていて、これも頑《がん》としている。北条様からも五、六千人繰り出しましたが、どうも、長引くでしょうな』  そんな話声に背を向けて、先刻《さっき》から荷梱《にごり》へ倚《よ》りかかって居眠っている百姓娘があった。草鞋ばきでもんぺ[#「もんぺ」に傍点]を穿《は》き、無造作に束ねた髪へ、藁《わら》ごみ[#「ごみ」に傍点]がたかっている。  時々、帆《ほ》の音に眼をさますと、退屈そうに、その眼が陸《おか》の影をさがしていた。 『娘さん、何処まで行くんだい』  側にいた三十がらみの――この船の客のうちではいちばん都会人らしい――手甲|脚絆《きゃはん》で身軽に装った町人が話しかけた。 『おらかい?』  娘はぶっきら棒に、 『古河《こが》へ帰えるのさ』 『じゃあ、江戸の庄《しょう》で降りて、後は歩くのだな』 『ああ……』  と、鴉《からす》のような返辞をする。  そして袂から煎豆《いりまめ》を出して、ぽりぽり食べ初めたが、時々、愛くるしい唇の間から、虫蝕《むしく》いで黒くなった糸切歯《やえば》が見え、あまり歯が丈夫でない質《たち》とみえて固い豆がよく噛《か》めない。 『わしも、古河から上州の方へ出ようと思うのさ。ちょうど、道は一緒だな』 『おめえ[#「おめえ」に傍点]さんは、何屋だね』 『御城下の外郎屋《ういろうや》の若い者さ』 『あ。薬売さんか』 『血どめだの、陣中|膏《こう》だの、種々《いろいろ》な薬種《くすり》を持っちゃあ、方々の御陣所の御用を聞いてまわるのさ。生命がけの商売だよ』 『…………』  返辞がないと思ったら、田舎娘は、顔に笠を当てて、また居眠っていた、よく眠る娘である。つよい陽が、雲間から急に射してきた。誰か、大きな欠伸《あくび》をする。  その春の陽が、真っ紅《か》に沈むころ、奥州船は、右を見ても左を眺めても、芦《あし》ばかりな入江にはいっていた。怖しく広い川幅を、帆を垂らして徐々に溯《さかのぼ》って行く――  客のひとりが、原始林の如く欝蒼《うっそう》としている左岸の森を指さして、 『あそこの森ん中に、観音様の祠《ほこら》ができて、この頃、時々人が詣るそうな』 『この辺は、何てえとこですか』 『江戸の庄のうちで、浅草というのでさ。あの丘が、汐見山とも、待乳《まつち》山ともいう』 『じゃあ、ここが、梅若《うめわか》が人買に殺されたという隅田川か。……さびしい所だなあ』  白い川霧が降りていた。  漁村の灯が、チラと二つ三つ見える。そこが橋場の宿《しゅく》だった。外郎売《ういろううり》は起ちあがって、 『やれ、着いたか。……皆さんお先に』  船に残る人々も、 『気をつけて行かっしゃれよ』  淡い旅情が漂《ただよ》う。  宿場といっても、ひどい茅《あば》ら屋が、薄暗い燈芯《とうしん》の明りを洩らして、三、四十軒ほどあるに過ぎなかった。 『おや?』  外郎売は、さがしていた、その眼を避けるように、船から降りた田舎娘は、一軒の木賃宿《きちんやど》へついとかくれた。 『む、……あそこか』  見届けておいて、外郎売は何処へか立ち去った。  その晩である。もう、夜半《よなか》に近い時刻。  この宿場を、十人、二十人位ずつ、具足だけ着けた兵が、疲れた足で駈けて行った。  馬の駈けてゆく音もした。 『なんだろう?』  旅人は眼をさましたが、木賃宿の家族などは、近頃は、兵馬の音に馴れてしまって、豚のように眠っていた。――すると軈《やが》て、 『この辺を一応さがせ』[#「『この辺を一応さがせ』」は底本では「『この辺を一応さがせ」」]  がやがや引っ返して来た北条方の兵が、一軒一軒、たたき起して、ここの木賃宿へも三、四人入って来た。 [#4字下げ][#中見出し]畑の天人[#中見出し終わり] 『怪しげな奴は泊っていないか』  外の兵が、軒下から呶鳴ると、 『居ない居ない』  と、首を振りながら、木賃宿へ検《あらた》めに入った連中は出て来た。 『とうとう逃がしたか』 『女で、あんな巧みに、馬を操《あやつ》るものがあるだろうか』 『それや、兵学家の東郷五郎左衛門の娘だもの。馬術ぐらいは』 『その馬も、陣所から、隙をうかがって奪って行った馬だぞ。不敵さの底が知れぬ』 『一心だからたまらない。――親のゆるした――しかも自分も愛している未来の良人の立て籠《こも》る城へさして行こうという女ごころ。――これには、男が戦にのぞむ勇気もかなうまい』 『男と生れたら、そういう女に、一度は想われてみたいな』 『足軽では、まず見込みがない』 『ははは。だが、相木熊楠ほどな軍功のある男をも振り向かないところを見ると、身分や、男振りには関《かか》わるまいぜ』  断念したとみえて、人数をまとめて、引揚げて行くのであった。  木賃宿の亭主は、 『せっかく寝たところを、起されてしもうた』  ぶつぶつ呟いて、後《うしろ》の戸を閉めたが、ふと、女房や子ども達の寝ている夜具のすそに、見馴れない田舎娘がもぐっているのに気がついて、 『あれ? ぬし[#「ぬし」に傍点]ゃあ、誰だ』 『おら、宵に泊った客だがな』  と、田舎娘は笑った。 『なんじゃ、お客か。ここはわし達の寝るところじゃ。戸惑いするも程がある』 『でもな、怖くて怖くて。もうお士《さむらい》たちは去《い》んだかの』 『去んだわ、起きなされ』  亭主は、蒲団をめくった。  要心のいい娘である、足ごしらえもちゃんとしていて、 『御免して下され』  謝まって出て行った。間がわるいのか、翌朝は、この娘が一番早く宿を発《た》った。  隅田河原で、娘は、もんぺ[#「もんぺ」に傍点]の下紐を括《くく》りあげていた。 『――深い所もあるから気をつけな。負ぶってやろうか』  馴々しい声に、振り顧《かえ》ってみると、きのうの外郎売である。  ざぶざぶと、外郎売は、先へ渡って行ったが、娘が、草加並木まで来ると又、 『女にしては、脚がはやいね』  並木から腰をあげてついて来た。 『ゆうべ、宿場のお検《あらた》めがあったが、知ってるかい』 『あ、知っていたよ』 『よく陣屋へ連れて行かれなかったね』  娘は、ちょっと顔いろを変えて、 『ばかな云うて、おらは何も、連れて行かれるような悪い事はしないもの』 『だがサ、怒っちゃいけねえよ、ゆうべ北条方の足軽が探していたのは、女だと聞いたから、それで心配してやったんじゃないか』 『女なら誰でも捕まるという法があるもんじゃない』 『けれど、その女も美麗《きれい》な女だという噂だし、おめえも、美しい方だから』 『知らないよ』 『あ痛っ』  外郎売は顔を抑えた。煎豆《いりまめ》が一粒、その手の指のあいだに挾まった。  娘は、ぷんぷんと、怒り顔に、足を早めてゆく。  だが、どう侮辱されても、外郎売は離れない。後になるか先になるか、きっと彼女の影から半町とは距《へだ》たない間にあった。 『ちっ……』  舌打ちをして田舎娘は何か思案していたが、次の日、古河の町へ入ろうとすると、ここはもういっぱいな軍馬であって、北条方の里見義介や、千葉新助などの率いて来た房総の兵が、約七百ほど屯《たむろ》しているのであった。  いや、ここばかりではない。  附近の部落や利根川べりの要所要所、いたる所に兵が居、馬が嘶《いなな》いていた。平野には、母衣《ほろ》を負った伝令の騎馬武士が駈けているし、畑には、茶褐色の具足をつけた足軽が、槍を伏せて、夜となく、昼となく、西の方を見張っている。  戦線は近いのだ。  田舎娘は、辺りをながめて、 (ああ、遅《おそ》かった……)  当惑の眼をみはってしまったが、それから幾日か経つと、どこで仕入れて来たのか、餅《もち》だの飴《あめ》菓子だのを入れた竹籠を腕にかけて、畑や河原の兵たちの間を売り歩いていた。  甘い物にも、女にも飢えている足軽組の兵は、 『天人が餅売りにきた』  と噪《さわ》いで、 『天人餅か、買ってやろう』 『こっちへもくれ』  軍《いくさ》目付の眼をしのんで迄、争って、彼女の竹籠《たけかご》を軽くした。  然し――どの兵も、この田舎娘の黒いやえ[#「やえ」に傍点]歯を見覚えている者はなかった。萩乃は心の裡《うち》で、これは八雲の側に侍《かしず》いたきりで、あの小田原の邸《やしき》に幾年も閉じこめられていた恩恵だと思った。 『だが、油断はできない。――あの外郎売だけは、何だか、自分の素姓を知っているような気がする』  ――小田原から奥州船に乗るまでの苦心は、まったく危い橋であった。今考えると、よくもと思われるほどだった。然し、ほんとの危難や艱苦《かんく》は、おそらくこれから先の道であろう。これから先、安中城までの道だと萩乃は覚悟している。 [#4字下げ][#中見出し]雨なき夕立[#中見出し終わり]  安中三郎進から八雲へきた手紙のうちは、 [#2字下げ] 古河の利根川べりまで出で給わば、城兵をひいて、自らお迎え申さん――  と、書いてあった。  萩乃は、それを唯一の目的《めあて》に来たのであるが、その頼りは、絶望に近い。 『いつぞやの夜、橋場の宿を追われて通ったのは、たしかに、八雲様らしかったが?』  萩乃は、餅売をしながら、それとなく北条方の足軽に訊ねてみたが、八雲の捕まったという噂は聞かない。それにつけ、 (お嬢様は、萩乃がこうしてお後《あと》を慕って来ているとは、夢にも御存じないであろう。……ああ早く行き会いたいが)と、念じた。  あの時。――もう過ぎし日であるが。  小田原の御幸浜《みゆきがはま》で、萩乃を捕えた武士は、萩乃がふだんから北条家のうちで誰よりも憎く思っていた相木熊楠だった。  熊楠は、その時、さも快よげに云った。 (この小|賢《ざか》しい女には、俺自身で、糺《ただ》したいことがある)  彼女は、それから数日、熊楠の屋敷のうちの仮牢へ抛《ほう》りこまれていた。幸なことに、熊楠には上州攻めへ出陣の命が下ったので、邸《やしき》は、ごった返していた。  すると。  熊楠がいよいよ出陣した晩だった。混雑まぎれに、家来でも落したのか、牢の前に、鞘《さや》を抜けた短刀が落ちていた。天祐《てんゆう》か、それがやっと手の届くところにある。萩乃はその晩、仮牢を破った。そして、風雨の中を夢中で逃げ、身寄《みより》の漁師《りょうし》の家の床下、干鰯倉《ほしかぐら》の闇、釣舟の中の幾日と、覚えきれない程な惨苦をなめて、やっと、奥州船へ乗り澄ましたのであった。 『――そういう事とは知らない八雲様は、もう、私は獄舎《ひとや》の人間か、死んだ者とお思いになって、一図《いちず》に、先へお出でになってしまったのではないか?』  萩乃は、果《はてし》なく迷い歩いた。  春はくれて五月――六月――  桑がしげり、麦はのびてくる。  然し、古河から利根川一帯の兵馬は、雲の峰の下に、じっと備えたまま、動かなかった。  安中城からの迎えも見えない。  八雲の消息も皆目《かいもく》知れない。  餅の籠を腕にかけて、彼女は炎天の下を、 『――足軽さん、買うて下され』  桑畑の蔭を、呼んであるいた。  ところが、その日に限って、 『要らん』 『餅など頬ばっていられるか』  どこへ行っても、売れなかった。  すると後で、 『おい、天人餅を一つくれ』  久しく、姿が見えなかった外郎売が、ひょっこり、顔を見せて呼びとめた。 『――どうだい、売れるかい』 『ええ。陣中薬は、どうかね』 『薬のほうは、大変な景気さ。もうこの間の荷を売り切って、小田原まで荷を取りに行って来たんだ』 『戦《いくさ》もないのに、よう傷薬が売れるだな』 『戦がない? ……何を寝ぼけているんだ、深谷、本庄、秩父の鉢形、この一《ひと》月余りは、修羅《しゅら》の巷《ちまた》だ。――そして今は、武田方と北条勢が、一手になって、安中城を遠巻きにしてるじゃねえか』 『えっ、安中城を』 『そうさ。たいそう吃驚《びっくり》しなさるね、何か、おめえの色男でも、安中城にいるのかい』 『い……いいえ……そんな訳じゃありませんけれど』  萩乃はあわてて田舎言葉も出なかった。  餅を食べ終ると、外郎売は 『どれ、俺も、稼《かせ》ぎに御出陣としよう』  大股に歩みかけたが、ふと、足をとめて、笠のつばに手をやりながら、 『おや、ここの陣所だけは、後詰《うしろまき》でうごくめえと思ったら、これやあいけねえ、此《こ》っ方《ち》まで戦が拡《ひろ》がって来やがった。今夜あたり、敵が、襲《よ》せてくるか、此っ方《ち》から出てゆくらしいぞ』  独り語《ごと》にしては、大きな声だ。外郎売は、そういうと、道を更《か》えて立ち去った。 『――今夜あたり? ……。ほんとかしら』  萩乃は、胸を躍《おど》らせた。――安中勢の迎えかも知れない。だが、それも八雲様が居なければ何になろうか。  真っ赤に灼《や》けた陽が、夏草の蔭に沈んだ。  宵は、風も月もなかったが、やがて二更の頃になると、わあっと、鬨《とき》の声が、野や畑をゆるがした。  萩乃は、利根川の堤《どて》へ、駈けて上ってみた。  北条方では、かねて今夜の襲撃を、知っていたものとみえ、 『安中勢だ、蹴ちらせ』  堤《どて》の蔭から、雲のように、兵馬や薙刀《なぎなた》の光や、槍や太刀が、躍り越え躍り越えして、どっと、河にかかった。まるで、雨なき夕立のように。  小銃《こづつ》の音が、ひろい闇の中で、パチパチと鳴りはためく。ひゅっ――と矢うなりが、萩乃の顔を何度もかすめた。 『おお! ……』  対岸に見える黒い小さい何百名かの人馬――正しくそれが安中勢であろう。あの中には、安中三郎進も来ているにちがいない。 『――お嬢様あっ。八雲様あっ』  声かぎり呼びながら、萩乃は、河へ向って、狂女のようにざぶざぶと入って行った。 [#4字下げ][#中見出し]珠玉《たま》の輦《くるま》[#中見出し終わり]  北埼玉《きたさいたま》の多門寺《たもんじ》に近い方角である。この辺、桑の木ばかりだった。その広い桑園のなかに、いつも、筬《おさ》の音をのどかにさせている一軒の機屋《はたや》がある。  多門寺の僧が、そこの戸を烈しく叩《たた》いていた。 『合戦ですよ、御主人。かねて待っていた安中勢らしゅうございますよ』  ――それから暫くすると、 『では、御無事に』 『お気をつけて……』  一人の女の旅人が、機屋の者に送り出されて、裏口からそっと出て来た。  八雲であった。 『永い間、お匿《かくま》いくださいました上、皆様の御親切……。たとえ、この儘野辺の土になっても忘れはいたしません』  別れもそこそこであった。もう、この近くへまで、鉄砲の音は聞えている。  東郷家にとっても、八雲にも、何の縁《ゆかり》もない機屋であったが、多門寺の住職と道で口をきいたのが縁になって、彼女は、ここに今夜の折《おり》を待っていたのであった。  その酬われる日は遂に来た。今夜こそ愛人に会える。愛人の兵馬はもうすぐそこの利根川原へ来ているのだ。自分のために、幾多《いくた》の兵馬を犠牲《にえ》にし、自分の一命をも陣頭に置いて、闘ってくれているのだ。 (勿体《もったい》ない!)  黄金の輿《こし》、珠玉《たま》の輦《くるま》もおろかである、女一人に、あまりに冥加《みょうが》にすぎた迎えであると八雲は思った。闇を走りながら、瞼《まぶた》の熱くなるのを覚えた。  そのかわりには、自分が、妻となったあかつきには、この千倍も良人の為に尽そう! この万倍も部下の兵たちを愛してやろう! 『わあっ……。わあっ……』  八雲はもう鬨《とき》の声の中だった。  弾丸《たま》が来る。――誰とかもわからぬ槍が突っかけて来る。腸を出した馬の腹が、横たわっていたり、旗差物の竿だけをつかんでいる兵が、 『畜生っ、畜生ッ』  虫の息で、死骸の中を這《は》っていた。 『三郎様あッ……』  彼女の黒髪は、血なまぐさい闇を衝いて駈けまわった。  ざ、ざ、ざ、ざッ――と真っ黒な一群の騎馬武者《きばむしゃ》が、夕立のように此っ方《ち》へ向って駈けてくる。北条勢に備えをくずされた前線の旗本らしかった。 『あれだ!』  八雲は、奔馬《ほんば》の群を待っていた。そして、先頭の華やかな武者のあぶみへ縋《すが》って、 『三郎様ではございませんか』 『ちがう!』  武者は、弓で、彼女を払った。  卯《う》の花《はな》縅《おど》しの草|摺《ずり》をゆりうごかして、戞々《かつかつ》と、退《ひ》いて来た強者《つわもの》がある。 『もし! 安中三郎様は、どこにおいで遊ばすか』 『知らぬ』  駒の尾が、彼女の顔を払って通った。  彼女は怯《ひる》まなかった。続々と来る後続隊の将に又すがって、 『おたずね申しまする。あなた方は、もしや安中城の方々ではございませぬか』 『いいや』  訊かれた部将は、かぶりを振るだけなのである。 『では、あまり急いで、陣をまちがえたか』  と、八雲は、戦場に捨てられてある駒をひろって、半里ばかり鞭《むち》を打ってとんだ。そこにも、累々《るいるい》たる死骸と、先の兵馬とは比較にならない意気を持った将卒が、八方へ敵を駈けちらして首をあげる毎《ごと》に、名乗り揚げ、勝鬨《かちどき》をあげして、しかも整々と陣形をすすめていた。 『――これこそ、上杉家の家人、安中三郎進様の御本陣』  彼女は疑いを容れなかった。  まっしぐらに、その本陣とも思える旗本の中へ馬を乗りいれて、 『八雲です! お迎えをいただいた八雲でござります! 三郎進様にお取次ぎくださいませ』  鞍をとび下りていうと、七、八名の旗本がどっと取り囲んで、 『東郷五郎左衛門の娘八雲どのか』  と、念を押した。 『はい、かねて、三郎進様から御密書をいただいた八雲に相違ございません』  答えるが早いか、 『天命だっ』  甲冑の旗本が、背中をどんと突いた。  鉄の桶でもぶつけられたように、八雲は前へよろめいた。左右からも前からも、途端に、物の具の固い腕が、彼女の嫋《な》よやかな腕くびをつかみあげて、 『ここは、北条方の里見義介が陣だ。よくも、八雲と、自分から名乗ってきたの』 『げッ……。では……先に崩れて行った騎馬武者たちは』 『あれも、安中三郎の兵ではない。常陸《ひたち》下妻《しもずま》の上杉方の一党で、安中城の危急を聞いて、援兵に馳せつけようという途中を、こっちで先に出鼻をくじいてやったのだ』 『アア……』  石に挫《ひし》がれた白い花のように、八雲は地に顔を横づけた儘、その両手を荒縄にまかせてしまうほかはなかった。 [#4字下げ][#中見出し]黄母衣《きほろ》護送[#中見出し終わり]  馬蹄《ひづめ》や、具足をつけた草鞋《わらじ》が、ぱくぱくと埃を持ち上げる。真っ黄いろに空は汚れて、太陽が黒く見える。  大利根からうごきだした北条勢の一部が、灼《や》きつくような三伏の道を、蛇形《だぎょう》になって、安中城の方へいそいでいた。 『仆《たお》れる奴など捨てて行けっ。暑さで参るような人間が、物の役に立つかっ』  騎馬の将が、鞍から喚いてゆく。徒歩《かち》の足軽は、日射病でばたばた落伍する。歩いている者でも、熱病のような呼吸づかいである。どの顔も、眼ばかり光らし、汗を流している荒壁にひとしい。 『くそうッ! 歩《あゆ》べッ!』  牛車が十輛ばかり、荷駄《にだ》が三十頭ほど、軍のいちばん後から続いて行ったが、牛と馬も、暴れたり反《そ》れたりするので、遙かに、遅れていた。 『牛方さん、お休みよ』  その一輛の軍梱《こり》のあいだに、萩乃は乗せてもらって来た。足軽や、荷駄の者と、すっかり懇意になったおかげである。 『甘いものでも食べてさ。体がたまるまいよ』 『ばか言《こ》けっ、首が飛ぶわッ』 『気の毒だなあ、戦《いくさ》する男はよ』 『よう、女は見ておけ』  何《ど》うしても動かない馬を、足軽たちが槍の柄でなぐりつけると、馬は気が狂《ちが》ってしまったらしく、田の中へ飛びこんで、ひとりで暴れ廻った。 『抛《ほ》ってゆけ、抛って行け』  それも捨てて進みに進む。  おとといの夜、利根の川向うに現われた軍馬は、安中勢でなかったことを、萩乃は、翌朝この人たちに聞いて知った。  あの戦の後、間もなく、この一部隊は、安中へ行けと本陣から命をうけて出発したのである。萩乃は、ことによると主人の八雲はとうに安中城に入っているかも知れないと考えたので、急にこの軍旅へついて来る気になった。――然し、それも儚《はかな》い恃《たの》みのような気もする。  やがて、並木の口にかかると、 『おっ、うしろから黄母衣《きほろ》が来たぞっ、道を寄れ』  足軽頭が、槍をふって呶鳴った。  黄母衣は使番の目印だ、急な使者は陣中でも駈けぬけをゆるされているし、列も横切る場合すらある。その黄母衣組の士《さむらい》が一騎に、ただの騎馬武者が五名ほど、一頭の裸馬を中に囲って、黄塵《こうじん》の中から次々に姿をあらわし、驀《ま》っしぐらに、眼のまえをよこぎって彼方《かなた》へ駈け去った。  その一頭の裸馬の背には、ひとりの女性が、荒縄で縛《くく》りつけられていた。前後の武士は、相木熊楠の手の者だった。 『おう、女だ』 『おとといの夜、御本陣で捕まった女じゃ』  一瞬だが、足軽たちは、女という声だけで、わいわいわいとはしゃぎ[#「はしゃぎ」に傍点]合った。萩乃も、それをチラと見た一人であった。はッと思うと、全身の血がのぼって、起ちかけた頭に、ぐらぐらと眩《めま》いが来てしまった。 『やっ、餅売りが、牛車から落ちたぞ』 『病気が出たか』 『抛ってゆけ』 『いや、女は、かあいそうだ』  荷駄の小者が三、四人駈け戻って行って、埃の中から彼女をかつぎあげて来た。  ――絶え間なく、牛車の轍《わだち》は廻って行く。  夜になると、行軍はずっと楽になった。萩乃は、人にかくれて、泣いてばかりいた。  翌る日の朝早く、安中の城下に人馬は着いた。そこでも萩乃は、真っ暗な絶望にぶつかった。なぜならば、安中城の城壁のうえに見える旗差物《はたさしもの》は、すべて、北条勢と、武田勢のものであった。  甲相両軍の寄手《よせて》をうけて、半年近く、孤城をささえていた城将の安中三郎進は、きのう暁《あけ》がた火を放って、父越前守が立て籠っている松井田城へ落ちのびて行ったといううわさであった。 [#4字下げ][#中見出し]不落の城[#中見出し終わり]  夢でもみたのか、相木熊楠は、 『八雲っ』  と、大きな声で云って、自分の声に驚いたように、がばっと、楯《たて》のうえに起き直った。  青い月の光が、陣幕《とばり》に射している。――真夜半《まよなか》は、具足のままでも肌寒い。  幕のすそへ、身をかがめて、魚住十介が片手をついた。 『お呼びでしたか』 『いや……呼びはせぬ』 『お声がしましたが』 『知らぬ』 『耳のせいですかな』  十介が、立ち去ろうとすると、 『待て待て。何か俺が云ったか』 『戦《いくさ》のお疲れでしょう。囈言《うわごと》のように――』 『な、なんと云った?』 『八雲と、仰っしゃったようで』  熊楠は、苦りきって、大きな男性的な唇を声なくうごかしていたが、 『そうか……いや、そうかも知れない。……折角《せっかく》、味方の里見義介が捕えてくれたあの女を、吟味の都合上、俺の陣屋へ受け取ったはいいが、もしも亦《また》、逃げられでもしたらいい恥をかくと、それを常に気がかりにしているから、夢にまで、八雲が逃げた夢を見てしまった。ははははは』 『もう、二十日《はつか》あまり、仮屋《かりや》に寝かしてありますから、体もすっかり癒《なお》ったはずです。今夜あたり曳《ひ》き出して、お調べになっては何うですな』 『まあ急ぐことはない』  と、かぶりを重く振って、 『――今日は俺も戦につかれている』 『それもそうで』 『ただ、逃がさぬ様に、逃がさぬように』 『十名ずつ、交《かわ》る交るに、番を立たせてあります故、それはお案じなく』  十介が立ち去ると、彼は又、楯のうえに、具足の音をずしりとさせて、手枕をかってまどろんだ。  ここは、妙義山を後に負って、碓氷川を前にした丘の陣地だった。敵の安中越前守と三郎進の父子《おやこ》が立て籠っている松井田の城は、川を距てて此処から指さすことのできる要害な地にあった。  妙義、浅間、榛名《はるな》の三山のふところに囲まれているようなこの城の地の理には、武田勢も手をやいてしまったらしい。攻め口はわずかに、この河原と、安中から下後閑《しもごかん》の山道を経てかよう二口しかないのである。何万の兵馬を集めてみたところで無駄だった。  武田勢は、箕輪城《みのわじょう》を抜くと、 (後は北条にまかせる)  と、云わないばかりに、抑えの軍馬だけを残して、あらかた凱旋《がいせん》してしまった。相木熊楠は、この難攻不落な城の正面にあてられて、甲州方の諸将からも、小田原の味方からも、今や、その器量を試されているような立場にあった。 (落す! きっと落してみせる!)  彼の眉宇《びう》には、無言のうちに、その信念がほの見えるが、もう八月に入っている。やがてこの碓氷川に、秋風の立つのはすぐだ、秋風がふくかと思えば、赤城、榛名の頂きに雪を見るのも又すぐだ。  とこうする間に、謙信自身が、上杉勢の精鋭をすぐって、三国越えから潮《うしお》のように、上毛の野に殺到したら何うなることか。  部下は、彼の顔を仰いで、 『すこし、痩《や》せたぞ』  と、心配して咡《ささや》き合った。  たしかに、相木|熊楠《くまくす》の頬には、痩せが見えてきた。――今、手枕をかって、楯の上に、うつらうつらと眠っているその顔を月明りに眺めても。 [#4字下げ][#中見出し]黒髪刺客[#中見出し終わり]  うかと、相木熊楠は、眠り落ちてしまったらしい。  轡虫《くつわむし》が、いい音で啼《な》きぬく。  陣幕《とばり》のすそにたかっている蟋蟀《きりぎりす》の影までが、透《す》いてみえる程に月は冴えていた。  と――その虫の音が、はた[#「はた」に傍点]とやんだ。幕の外へ、いつのまにか、小猫のように這い寄って来て屈み込んでいる人影がある。  短い刃をうしろに秘《かく》して、陣幕《とばり》のすきから寝息をのぞく――。黒髪をうしろへ長く垂れた田舎娘の刺客《しかく》だった。 『熊楠ッ。――思い知ったかっ』  陣幕を刎《は》ねあげて、躍りこむと、 『あっ、何するんだ』  と、そこに寝ていた町人がとび起て、彼女の腕をつかんだ。見ると、いつか古河の畑で別れたきりの外郎売《ういろううり》だった。 『や? お前は、どうしてこんな所に』 『何のふしぎがあるものか。いつも薬を売りに来る御陣屋だもの』 『熊楠は、熊楠は』 『あぶねえ物を持ってるな。まあ離せ』 『お嬢様の御無念ばらし、刺しちがえて死ぬる気じゃ。おのれも、熊楠の手の者か』 『面倒くせえっ』  外郎売の男は、萩乃を組みふせて、声を出さないように、顔を布《ぬの》で縛った。そして、もう一重《ひとえ》、内側の陣幕を上げて、 『相木様』 『おう、憎ッくい奴だ、八雲の召使いだな』 『どういたしましょう』 『その成敗は、貴様にまかせる。――今夜のうちにだぞ』 『はっ、では――』  目礼して、外郎売の男は、萩乃の体を横抱きにすると、魔風のように、何処かへ立ち去った。  その頃から何処《どこ》となく、深夜の空気がさわがしかった。熊楠は、眼をかがやかせて、大地の音でもあるようなその気配を聞き澄ましていたが、愕然《がくぜん》と起って、 『十介っ。魚住十介はおらんかっ』  十介は駈けて来て、槍と一緒に身を屈《かが》めた。 『なんだっ、あの遠い物声は』 『お味方です』 『味方?』 『されば、何者かが松井田の城を、相木勢にまかせておいては、百年経っても落ちるはずはないなどと申し触れる者があって、その為、御本陣氏政公からの御命《ぎょめい》で、里見義介、そのほかの手勢が、下後閑《しもごかん》の間道から、急に、総攻めにかかったそうでございます』 『なに、この相木熊楠をさし措いて、総攻めにかかったと。ううむそうか……』  唇《くちびる》を噛《か》んで、凝《じっ》と、考えこんでいたが、突然、 『陣鉦《じんがね》、陣鉦っ。総がかりの鼓を打てや。夜の白むまでに、松井田の城は相木勢が乗り破った』  鎧を着こむと、 『十介、篝火《かがり》を焚《た》けっ、あるかぎりの篝火を焚けっ』  と、命じた。  十介は、それぞれの部将に、熊楠の命をつたえて駈けまわった。霹靂《へきれき》のように急なのである。陣屋の裏から荒駒が狂いだして、まだ夜のふかい河原で嘶《いなな》いた。 [#4字下げ][#中見出し]憎炎愛炎[#中見出し終わり]  松井田城の山絵図をひろげて、相木熊楠は秘策を描いた。そして、肚はきまった。  鉄砲組、槍、弓、長太刀、それぞれの部将をあつめて、 『城を抜くか、斬り死にするか、この二つを、夜明けまでに決めるのだ。相木熊楠もきょうかぎりの一命と思うてかかる。――祖先以来の君家の御恩に酬うはきょうを措いてない。よいか』  云いふくめて、手配を授けた。  それが終るとすぐ、 『八雲を曳《ひ》き出せ』  と十介に云った。十介は疑って、 『えっ、今ですか?』 『そうだ』  熊楠の肚がわからなかった。何で、一|刻《とき》を争っているこの総がかりの間際《まぎわ》になど曳き出せというのであろうかと。 『連れて来ました』  十介の声に、又、山絵図を繰ひろげて後ろ向になっていた相木熊楠は、ふり顧って、 『うむ……』と、ふとく呻《うめ》いた。  八雲は、二人の武士に、左右の手をうしろへ捻《ひね》り気味に取られて、烈々と燃える篝火《かがりび》の前にひきすえられているのである。窶《やつ》れてこそいるが――素服こそ纒《まと》っているが、この二十日余りを、仮屋の牢獄に投げこまれたまま陽の目も見ずにいたので、頬の紅《くれない》はやや青白く褪《さ》めているが――生れながらの美質はすこしも変らない。――いや相木熊楠がその以前、師の礼をとって、東郷家へ出入していた頃から見れば、さらに、清純な処女美《おとめび》は増しているようにすら彼には見える。 『八雲! ……』 『…………』 『八雲っ! ……』  沈痛な恨みのひびきをこめた熊楠の声であった。おそろしいような眉の表情である。歯は唇のわななきを固く縛っていた。 『……相木熊楠の名をよもや忘れはしまいな。俺《わし》は、夢寐《むび》の間も忘れていない。男が、この胸へ、生涯焼きしるされたものを……。それが何であるかは、やがて、思い知るがよい』  八雲は、きっと顔をふり上げた。その顔に、その眸に、赫々《かっかく》と赤い篝火が燃える。彼女の心をそこで焚《た》いているように。 『見さげ果てたお人ではある! それが武士の心根ですか! 私にはあなたの心の裡《うち》などわかりませぬ。ただ卑劣な武士よと、蔑《さげす》まれるだけのこと。もう、この期《ご》になって、何もいうことはない。ただ、そなたも人間なら、力の弱い女子が、この戦国のみだれた世の中で、女子の道のために戦うことのどんなに苦しいかぐらいは分るでしょう。一粒の涙でもあるならば、私を松井田城の下へ立たせてください。たった一言、私は自分の心を――女子の心根を――あの孤城のうちにいる安中三郎進様に呼びかけて死にたいのです。遠くからでもよい、お互の姿を、一目見合って、死にたいのです』 『よしっ!』  熊楠は全身をもって大きくうなずいた。 『望みどおりにしてやる。自分の未来の妻が、城下の敵に――しかもこの相木熊楠に――斬りさいなまれるのを、三郎進に見せてやることは俺《わし》から望むところだ。十介、この女に縄を打てっ』       ×         ×           ×         ×  丑満《うしみつ》から明け方にかけての激戦だった、山が鳴り、谷が吠え、碓氷川はさけぶ。 『今が最後』  と、城将の安中三郎進は、いちど、木戸をひらいて斬って出たが、その朝のすさまじい相木勢に斬りたてられて、城門のうちへひくと、八方を閉め切って、矢弾丸《やだま》のあるかぎりを、寄手へ送った。 『――卑怯、卑怯っ、城将の三郎進にものを言う。しばらく、鉄砲を置け、弓をひかえろ』  その時、城の空壕《からぼり》へ近々と駒をよせて、こう大音にどなっているものは、いうまでもなく相木熊楠である。 [#4字下げ][#中見出し]涙の強者《つわもの》[#中見出し終わり]  黒鹿毛《くろかげ》の鞍《くら》つぼへ踏み跨《またが》った自分の胴脇へ、遠目にも派手やかな古代紫の太紐《ふとひも》で、八雲のからだを確乎《しっか》とくくりつけていた。片手をさらに八雲の身にまわして、抱えるようにささえ、右の手に、軍扇をかたく振って、 『――三郎進どのはいかがせられたか。かねてのおん誓いを果さるる吉日、お支度はまだかっ』  すると、城の狭間《はざま》から、髪の白い一人の老武士が顔をだした。見ると、物の具をすっかり解いて、麻裃《あさがみしも》に平服を着ているのである、白扇を振って答えながら、 『初めてお目にかかる。某《それがし》は、三郎進の父、安中越前守長房でおざる。このたびのお取計らい、なんと申そうやらただ感涙にくれてござる。今暁《こんぎょう》、頂戴いたした密使のお言伝《ことづ》てによって、われ等|父子《おやこ》、死すとも北条家には渡しがたきこの松井田城ではあれど、貴公の義心に、向くる矢もはや尽きた。三郎進の身は、仰せにまかせてござるが、この越前守は、はや老い先なき身、この城の熨斗《のし》がわりに添えてただ今進上申すであろう。見たまえや、老《おい》武者の最期を――』 『おお』  熊楠が、扇子を駒のたてがみへ下げた刹那《せつな》に、狭間に見えた安中越前守のすがたはもうそこになかった。そして、真っ赤な炎が、すべての狭間からいちどに噴きだしていたのである。 『落ちたっ、――城は落ちたぞ。里見、その他の味方に越されては、相木勢の恥辱ぞ、武士の名がすたるぞ、かかれ、乗れやっ』  云うが早いか、抑〻《そもそも》、どうした事なのであろう、相木熊楠は、そのまま鞭を駒にあてて、戦場から鷹《たか》のように何処かへ翔《か》け去ってしまった。  後閑《ごかん》の間道から風戸峠へと、やがて、悍馬《かんば》は死にもの狂いでのぼってゆく。――一面の鏡のように、やがて遙かに榛名《はるな》の湖《うみ》が見えてくると、 『おうっいっ。……おうっいッ……』  あらんかぎりの声をもって、峰へ、谷へ、高原の彼方《かなた》へ、呼ばわっている。  すると、もう秋草の繚乱《りょうらん》な[#「繚乱な」は底本では「※[#「糸+寮」、207-下-8]」]高原の彼方で、旗差物を打ち振るものがあった。――二百人ほどな軍馬があった。  その列から歩みだして、相木熊楠を迎えるもののように、粛然と立ちならんでいたのは、安中三郎進であり、又、先に小田原の城下へ密使として行った乱波者の石田大七であり、又その側にいるのは萩乃であった。 『待ちかねておざったろう』  駒《こま》を寄せると、熊楠は、紫の太紐を解いて、絶えず宥《いたわ》るもののように抱えていた八雲の体を、鞍つぼからそっと摺《ず》り下ろした。 『おうっ……』  三郎進と、八雲とは、手をとりあって、秋草の中に埋《うず》まった。すべてが、八雲にはまだ夢のようだった。見れば、自分を数尺離れて、きのう迄、彼も恨み、自分も憎んでやまなかった相木熊楠が、両手をついて、顔もあげ得ずに――しかもこの荒々しい強者《つわもの》が、涙で顔をいっぱいに汚して、その顔も上げ得ずにひれ伏しているではないか。 『……どうしたのでしょう、これはいったい?』  八雲はうつつのようだった。うつろな眸が、この意外な人間の姿を、眼に見ても信じられないのであった。 『ごもっともです』  熊楠は、いつものような重い声でいう。 『すべてが、自分一存で為したこと、おわかりになりますまい。かような智謀《ちぼう》は、あなたのような清純なお人には、分らぬままがむしろよい。ただ、末ながく、お倖せであれ、よいお子をもうけて、八雲様は、恩師五郎左衛門先生へ、又、三郎進殿は、厳父越前守どのへの御|供養《くよう》をあそばされい。――そして、この熊楠は、ただ欣ばしさでいっぱいでござる、決して、誇言ではない、衒《てら》いでもない、欣《うれ》しいのです、欣し涙が出てならないのでございまする』 [#4字下げ][#中見出し]女子道・武士道[#中見出し終わり] 『どうしてでしょう、私は知りたい。熊楠、何がそなたは欣しいのですか』 『男の為《す》ることを為《なし》し事が……』 『では、初めからそなたは、この八雲も、お父様をも、恨んではいなかったのですか』 『なんでお恨み仕《つかまつ》るすじがありましょうか――熊楠の今日あるも、恩師のお陰、一日とて、忘れ申したことはない。ただ、世上の詭弁者《きべんしゃ》が、とやこうと、某《それがし》の心を測ったり、あなた様の身辺に、危い風聞をしきりに沙汰いたしまする故、いわゆる、兵学の逆策をもって、まず自分より先に、あなた様の敵に立って、あなた様にかかる矢を、すべてこの身にうけて参っただけの事です。――例えば』  と、乱波者の石田大七に、眼をやって、 『それにおる大七が、初めに、小田原の城下へ入りこまれた折も、すでに、奉行所の目付たちは、挙動をあやしと見ていたのでござる。万一にも、大七の携《たずさ》えてきた三郎進殿の密書が、余人の手に入ったら、八雲様は、即日に殿より首級《しるし》を召されよう。そう考えて、自分が捕えた。又、萩乃を召捕ったのも同じ考えであったし、八雲様の邸《やしき》へ、捕手《とりて》を向けたのも、この熊楠に相違ないのです』 『まだようわからぬ、それ程、この身を庇《かぼ》うてくれるおん身が、なぜ、捕手を使嗾《しそう》して、私を苦しめたのですか』 『その夜の事、お覚えはもうないか。――捕手のかかる少し前に、お邸の窓下を、編笠かぶって、それとなく謎《なぞ》ことばを、謡曲声《うたいごえ》にまぎらして、お告げして行った侍のあったことを』 『あっ……。ではあの編笠の人は、熊楠、おん身だったのですか』 『又、萩乃には、出陣の混雑を、幸に、牢の前へ、わざと、短刀をすてておいた。――そして、かねて、自分の屋敷にかくしておいた石田大七を、巧《たく》みに貌容《かおかたち》を化装《けそう》させ、外郎売《ういろううり》に仕立てて萩乃の身をまもらせたのも某《それがし》の策。――その他、いちいちは申しあげぬ。すべての事は、きょうの夜明けに、大七から越前守御父子へ申し告げてやった……。そして、ここに自分の心の底をのべて、恩師の御息女におわびすることも能《かの》うた。本懐《ほんかい》です。では、萩乃、忠義をつくせよ、この熊楠の御手伝いは一時、そちの奉公は末が長い。……たのむ』  云い終ると、もう駒の背に返って、 『御一同、おさらばです』  黙然と、うなだれていた安中三郎進は、 『暫くお待ちください』  と、前へ駈けまわって、口輪をつかんだが、涙ばかりがあふれて、俯向《うつむ》いていて何も云えなかった。  熊楠は、その心もちを察して、 『おわかれ申したい、お離し下さい』 『相木殿。……す、すまなかった。拙者は、あなたに負けた! 敗れたのだ!』 『恋は、戦《いくさ》ではないはずです。そんなお考えは持たぬがよい。某《それがし》の気持が徒労《とろう》になる。――又、そこもとの厳父《げんぷ》、越前守殿の死もむだになる』 『やっ? 父は、討死しましたか?』 『それも、お愁《いた》みあるな。お父上も、必ず御満足であったと思う』 『ああ、八雲っ。二人はどうしたらよいのか』 『三国峠に道がある。あの山の背をこえれば、おん身が祖先の国土だ。その国土を踏めば、八雲様も、そこもとも、自ら御決心が成るものだ』 『そうだ、女は女の道に、侍は侍に成りきることだ。熊楠どの。又会おう! 戦場で』 『来年は、信濃か、上野か』  と、熊楠は、十方の山脈をふと見わたして、一滴《ひとしずく》、侍の道のさびしさを、大きな欣《よろこ》びの後の睫毛《まつげ》にたたえた。  霧まじりの冷たい風が、もう、越後境の山々から、瀟々《しょうしょう》と秋を鎧《よろい》の袖に告げてきた。 [#地から1字上げ][#1段階小さな文字](昭和十年八月)[#小さな文字終わり] 底本:「吉川英治全集・43 新・水滸傳(二)」講談社    1967(昭和42)年6月20日第1刷発行 初出:「キング」大日本雄辯會講談社    1935(昭和10)年8月 入力:川山隆 校正:門田裕志 2014年2月14日作成 2015年1月15日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。