夕顔の門 吉川英治 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)海騒《うみざい》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)一|詫《た》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)莿 ------------------------------------------------------- [#4字下げ][#大見出し]十九の海騒《うみざい》[#大見出し終わり] [#8字下げ][#中見出し]一[#中見出し終わり] 『はてな。……閉めて寝た筈だが』  と、若党《わかとう》の楠平《くすへい》は、枕から首を擡《もた》げて、耳を澄ました。  ――風が出て来たらしい。  海が近いので、庭木には潮風が騒《ざわ》めいている。確かに、寝しなに閉めたとばかり思っていた庭木戸の扉《と》が、時折、ばたん――ばたん――と大きな音を立てている。  楠平は、手燭を灯《つ》けた。そして揺れる灯を庇《かば》いながら、庭へ出て行ったが、主人たちの住む南側の母屋を見て、眼を恟《すく》めた。 『あっ、お市《いち》様の部屋が開《あ》いている?』  口走りながら、楠平はそこへ寄ってみた。雨戸が二尺ほど開いているし、縁の内をそっと覗《のぞ》くと、暗くてよく分らぬが、何か取乱れている気配がする。 『――お嬢様、お嬢様』  ふた声ほど呼んでみた。  返辞はない。  楠平はすぐ、はっと或る予感の的中を思って、体が顫《おのの》いた。  明日は、家中の人、曾我部兵庫《そがべひょうご》へ嫁《とつ》ぐというので、きょうも一日、曠《は》れの荷物や、何かの支度に、忙《せわ》しく暮れたこの部屋だった。 『旦那様っ、旦那様っ。――お嬢様のお部屋が開いておりますが。そして、お嬢様のお声もしませぬが』  雨戸の外から、主人の寝所をたたいて彼が告げると、 『なにっ、娘が居ないと?』  田丸惣七《たまるそうしち》の夫婦は、刎《は》ね起きたらしく、遽《にわか》に家の内には、狼狽する気配が聞かれた。  娘のお市の行状に就《つい》ては、田丸惣七夫妻も、薄々は一抹の気懸りを抱いていたものとみえて、 『さては、格之進《かくのしん》めに唆《そその》かされて、明日《あした》を前に、立ち退いたものとみえる。……不! 不埓者《ふらちもの》めが!』  と、狼狽の中に、惣七の怒りの声が洩《も》れたと思うと、軈《やが》て、 『おまえが悪いっ。女親として、知らずにおる事があるものか』  と、彼女の母親を、恐しい声で叱りとばした。  ――わっと、泣き伏す声がした。お市の母が悔い泣くのである。  その泣き声を、惣七は又叱りながら、 『ば、ばかめ! 泣いていて済む場合か。遺書を見い、上方へ行くとある。わし達が寝《やす》む迄は、何の気振も見えず、この部屋の灯影《ほかげ》に姿が見えた彼奴《あいつ》だ。――差しずめ、一刻も早く、手配をするのが肝要じゃ。まず斎地《さいち》どのへ報《し》らせに行け。岡村へも、野坂へも。――早く、早く』 [#8字下げ][#中見出し]二[#中見出し終わり]  ――まだそう遠く迄は走っていまい。  それに夜半《よなか》は、浜から出る船はない筈だから、足どりも、山越えを指して行ったに違いない。  楠平は、自分の若党部屋へもどって、慌《あわただ》しく身支度をする間に、そう考えた。 『旦那様。ひと足先に、てまえが追いついて、お嬢様を抑えて置きますから、お後からすぐ』  出がけに、外から云うと、惣七は、窓から顔を見せて、 『楠平か、楠平か』 『はい。はい』 『よく気がついた。早く行ってくれ。――浜ではないぞ。道どりは山の方らしい』 『てまえも、そう考えます』 『わし等も、手配をして、すぐ後《あと》から行く程にな――』  楠平はもう外へ駈け出していた。主人のおろおろした声が耳に残って、いつまでも心が傷《いた》んだ。  中津の城下は、もう何処も寝しずまっていた。小笠原家《おがさわらけ》八万石のお城にも、ポチと小さい灯が仰がれるだけだった。  道は、山国川の流れに添って行く。町から離れ、村から遠去かるに従って、登りにかかった。  宇佐《うさ》まで六里。小倉まで十五里半。  峠《とうげ》の追分まで来て、ほっと楠平が汗を拭っていた時である。もう戸を閉《た》てて人気もない筈の山茶屋の陰から、人影が二つ――寄り添って彼方《あなた》へ行くのが見えた。 『あっ? ……やっぱり相手は格之進』  楠平は、覚られないように、身を屈《かが》めて追いかけた。  もう一人の方は、紛れもない主人の娘の――お市であった。 『お待ちなさいっ。――お嬢様、格之進様っ』  不意に馳け寄って、楠平は、男女《ふたり》の袂をつかまえた。 [#8字下げ][#中見出し]三[#中見出し終わり]  男女は吃驚《びっくり》して、彼の手を振払ったが、楠平は先へ廻って、道に立ち塞《ふさ》がった。 『何とした事です。お嬢様もお嬢様なら、格之進様も又、武士にあるまじき為され方。――さ、お帰りなさいませ』 『…………』  若い男女は、恟《すく》んだまま、楠平の甲《かん》だかい声に、顔いろを顫《おのの》かせていた。 『今のうちにお帰りなされば、誰もまだ知らぬ事、お嬢様も傷がつかず、格之進様も御無事で済みましょうが。……おふたりの仲は、楠平も以前から、薄々はお察し申しておりましたが、お嬢様には、親御様のお口から、嫁に遣《や》ろうと誓った歴乎《れっき》とした良人《おっと》のある身。――それを、明日《あした》は御婚礼という今夜、こんな事を遊ばしては、親御様のお立場は何うなりましょうぞ』  ――すると、それまで黙っていた深見格之進は、 『これ楠平。若党の分際《ぶんざい》で、いらざる事に出洒張《でしゃば》るな。もう御城下を出奔したからには、男女《ふたり》の恋は命がけ、ここは二人が、恋に勝つか死ぬかの峠だ』 『では、何うあっても』 『知れたこと!』 『……でも、お嬢様は、よもや御両親を苦境に捨てて、後は何うでもなれというお考えでは御座いますまい。口の巧い、容貌《かおだ》ちの美《よ》い男に限って軽薄なもの。――永い行末《ゆくすえ》に、御後悔をなされますなよ』 『おのれ、今の言葉は、誰を指して? ――』  と、格之進は不意に刀を抜いて、楠平の横顔へ斬りつけた。  楠平は、わっと両手で顔を抑えながら五、六歩ほど蹌《よろ》めいた。  そして一度は、腰をつきかけたが、血を浴びた刹那《せつな》に、彼にも武士の性根が勃然《ぼつぜん》と眼を醒《さ》まして、 『もうこの上は!』  と、刀を抜合せて、烈しく斬返して来た。  格之進は、彼の鋭い切っ先を、何度もかわしながら、彼の弱るのを待って、滅多斬りに刀で撲《なぐ》った。  お市は、自分の幼い時から、背にも負われ、手にも抱かれた召使なので、さすがに面《おもて》を向けていられなかった。 『――もう、もう、止してください。格之進様っ。止して下さい。……あっ、誰か彼方《むこう》から人が来ました。はやく此処を』 『えっ、追手が来た?』  彼女のことばに度を失って、格之進は血刀を提げたまま、お市の走るのに尾《つ》いて駈け出した。  だが、その翌々日、男女《ふたり》は、門司《もじ》から赤間《あかま》の関へ行く便船の中で、追手の者に、捕まってしまった。  然し、連れ戻されたのは、お市だけで、男の深見格之進は、島の多い海峡の瀬戸口で、追手の隙を見て海へ飛びこんでしまった。  勿論、この事は、田丸家の内輪の者だけで、極秘にされ、お市の婚礼は、急病という態《てい》で、延期された。  若党の楠平は、重傷だった。けれど生命《いのち》だけは取止めたので、彼の義兄で、身分の低い同藩の侍――尾形周蔵を呼んで、懇篤《こんとく》に引き渡した。  その後、半年以上も過ぎて、お市の結婚は、極めて質素に執り行われた。――かねて正当な婚約のあった同藩の曾我部兵庫《そがべひょうご》が、その日からの彼女の良人であった。       ×         ×           ×         ×  享保二年から八年までの歳月は、またたく流れた。  十九の年の過《あやま》ちも、六年前の夢となって、お市は今なお水々しい二十五の御新造《ごしんぞ》ぶり、良人の曾我部兵庫は、四十近い寡黙《かもく》な侍であった。そして明けても暮れても、静かな海騒《うみざい》と、長閑《のどか》な陽あたりの他《ほか》、何事もない城下町では、この一家庭も、勿論、平和に見えた。ただ夫婦の仲に、子がないだけが淋しく思われる位なものであった。 [#4字下げ][#大見出し]一|詫《た》の妻[#大見出し終わり] [#8字下げ][#中見出し]一[#中見出し終わり]  七夕も近い――夏の或る日の黄昏《たそが》れだった。  お市は、ぽつねんと、雑草に委されている庭に立って、夕方の星を仰いでいた。まだ、外も、窓も、仄明るかった。 『お市っ。――鷹《たか》はどうした?』  良人の書斎から、兵庫の声が、その姿へ、鋭く投げられた。 『…………』  星を見ていたお市の眼は、そこらの木を梢から梢へ移されたが、良人の方は見もしなかった。 『……居りません』  と、冷ややかに云ったのみで。  兵庫は、書き物に疲れた眼をあげて、筆架《ひっか》へあらく筆を擱《お》いた。  彼の周りは、書物に埋っていた。  伸びるままに委せてある庭の雑草のように、彼の身のまわりも、独り者のように、散らかって、塵《ちり》が積っていた。 『居ない? ……。それは当り前だ。そんな所に立った儘、庭木を見ていた所で、見える筈はない。外を歩いて探して来い』 『…………』  彼女は然し――その立っている所から動かなかった。  今し方、良人に代って、鷹小屋の中へ這入って鷹へ餌《え》をやる時、過まって、鷹を逃がしてしまったのである。  鷹の糞《ふん》だの、羽虫のにおいだのがして、その中へ這入ると、彼女はいつもむっとする。だから彼女は鷹が嫌いであり、鷹に不親切であった。  飼い馴れている鷹であるから、本来逃げる筈のものではないが、彼女の姿を見ると、鷹も怒《いか》るのであった。過失《あやま》ちの因《もと》は、そこにあった。  それを良人の兵庫は、叱りはしなかったが、 (探して来い)  と、先刻《さっき》から云っているのだった。 (馴れた者が、口笛をふくなり、手をあげて呼べば[#「呼べば」は底本では「呼べは」]、鷹は拳《こぶし》に降りてくる。おまえも、鷹匠の妻ではないか)  とも云うのである。  だが――彼女はその命に従がえなかった。  星を見ていた……。  ここに居ない、遠くの人が思い出された。  そして現在の自分に、ほろほろと理由なく泣けて来る―― 『まだ其処に居るかっ』  兵庫の声は、烈しくなった。 『もう年老いて、猟には使えぬ古鷹だが、年来、わしが餌《え》飼いして来た鷹だ。それに人に馴れ過ぎているので、この家を離れれば、すぐ心ない童《わらべ》たちに捕まるか、猟師に撃ち殺されてしまうだろう。――余り暗くならぬうちに、早く見つけて来い』 『……御無理です』 『なに、なぜわしの吩咐《いいつ》けが無理か』 『女などに、鷹を捕まえて来いなどと仰っしゃっても』 『其方《そち》が逃がしたのではないか』 『逃がしたから、その咎《とが》を責めて、困らしてやろうというお考えですか』 『誰が、妻の困るのを見て嬉ぶものがあろうぞ。そなたも鷹匠の妻でないか、もう五、六年も朝夕わしのする事は見て手心も知っている筈。――今渡した鷹笛をふいて、彼方此方《あなたこなた》と、庭木の多い屋敷を歩いて居れば、きっと鷹が聞きつけて降りて来る』 『……そ、そんな、見ッともないことが』 『何が見ッともないのか』 『御自身で探していらっしゃれば、よいではございませぬか』 『十日以内には返上すると約束して、他家から拝借した「放鷹故実《ほうようこじつ》」を、こうして今、懸命に写しておるので手が離せぬ。……アア行燈《あかり》もまだ灯《つ》いていないの。燈《ひ》の用意はわしがするから、さがして来い、鷹を探して来い』  すぐ側にある行燈を引き寄せたが、掃除の届かない油皿にも塵《ちり》が溜っていて、付木の火を移すと、バチバチと火花が刎《は》ねた。 [#8字下げ][#中見出し]二[#中見出し終わり]  いつのまにか、お市の姿は、庭から消えていた。  鷹を探しに外へ出て行ったものとばかり思って、兵庫は又、机に屈《かが》みこんでいたが、ふと、彼女の部屋に物音がするので顔をあげてみると、お市が鏡台に向って、いつもの夕化粧をしている姿が、萩戸を透かして見えた。 『居るのかッ、未だ!』  こう呶鳴ると、彼は無意識に、机の上の物を掴んで、彼女の部屋へ抛りつけた。  それは、朱墨《しゅずみ》を卸《お》ろす丸硯《まるすずり》だった。萩の簀戸《すど》を突き破った硯は、箪笥《たんす》にぶつかって、彼女の坐っている側に躍《おど》った。 『――今、行きかけている所です』  お市は、見向きもせず、櫛の手をうごかしていた。くわっとした兵庫も、彼女の声の底に、何日《いつ》にない冷たさと落着きぶりを感じたので、黙って、見まもっていた。  ――次に、お市は箪笥を開けていた。閉めたり開けたりする抽斗《ひきだし》の環《かん》の音がだんだん荒っぽくなる。  着物を更《か》え、帯を締め、そして何か手廻りの物を包み初めた様子に――兵庫は、 (又、始まったな)  と、覚《さと》って、舌打した。 『……お話がございますが』  と、彼女は、改まって、良人の前へ来て坐った。 『……なんだ』 『お暇《ひま》をくださいまし』 『…………』 『貴方《あなた》は、妻よりも、鷹の方が可愛いいお人なんですから』 『…………』 『この部屋も、鷹の書《ほん》でいっぱい。家の中も鷹の抜毛や餌でいっぱい。何処を向いても鷹臭いほどです。――貴方がいちばん御機嫌のよい時は、餌をやりながら、鷹と独り言に話しをしている時でしょう。――鷹になさる程な優しい顔を、妻にはした事のない貴方です』 『わしは、藩の鷹匠だ、書物を見るも、鷹を飼うも、わしの天職――わしの御奉公。――当りまえな勤めではないか』 『ですから、わたくしは、此家《ここ》を去って参ります。どうか、お暇を下さいまし』 『易《やす》い事だ。……おまえが来てからも、この家の行燈の灯皿には、いつも虫の死骸や塵が沈んだままだ。居ても居なくても、何の変りはない』 『よ、ようござんすね。……では』 『だが、待て』 『御未練ですか。武士のくせに』 『はははは。――イヤそう思って居てもよい。其女《そなた》の出て行く出て行くもこれで何度か』 『はい、今日こそは、出て参ります。此の家へ嫁いで来てから、わたしはただの一日でも、倖せだった事はないのですから』 『仕方があるまい……』 『ど、どうしてですか』 『そうして、一日一日でも、親に為した不孝の罪を償うのが、せめて其女《そなた》のとる道ではないか』 『…………』  お市は、ちょっと青ざめた唇を、きりっと噛んで、詰め寄りながら、 『それは一体……何の……何ういう意味ですか』 『自分の胸に問え』 『父の惣七も、私の母も、実家《さと》は無事に暮しています。何が、わたくしが不孝をして、親たちを』 『やかましい』 『いいえ、いいえ』 『だまれ。惣七殿が御無事なのは、わしたち夫婦が、何事もなく、いや何の風波も無いように、世間へ見せているからではないか。――あの好人物な惣七殿を初め――其女の一家が、わしの胸一つで、気の毒な事になると思えばこそ、わしは彼《あ》の時、何事もいわずに婚儀をしたのだ』 『そ、そんな、偽った気持――わたくしは嫌いです』 『何を云う。誰が、偽った気持など抱きたかろう。――だが、わしはお前の両親に、頼むと、手をつかれた事があった』 『知りません。父が貴方と婚約した事すら、わたしに黙ってしたのですから』 『いや、まあ聞け。武士として、頼むと、手をつかれる程、辛い事はない。其女はいつも口癖に、わしには愛がないように申すが、それは僻《ひが》みというものだ。いちど自分の持った女――無智なら無智で不愍《ふびん》と思う――まして惣七殿が泣いて手をつかえた親心もある。きょう迄わしは、一度でも、其女を憎いとはしていない。飯櫃《めしびつ》でも使い馴れる迄はクセのあるもの。わが妻と成しきる迄は、そのクセも抜こう、磨きもかけよう。――そう考えて努力して来たが、その大きな愛が其方にはまだ分らぬ』 『分りました。――そうです、わたくしなどは、どうせお飯櫃《ひつ》ぐらいにしか、貴方には考えられていないのですから』 『今に分る。もっと長く長く、わしと生活《くらし》ているうちには』 『そんな辛抱《しんぼう》はもう……。思うだけでも、身がふるえます』 『不幸が其女を誘惑するのだ。惣七殿の為にも、其女の為にも、わしという者は、大樹の陰ではないか。――逃げた鷹はぜひもないが、不幸になる人を見のがすわけには行かぬ』 『そんな事を云って、又わたくしの気を鈍《にぶ》らせ、真綿で首を縊《くく》るように、じりじりと、復讐《しかえし》なさるので御座いましょう』 『――復讐《しかえし》?』 『そうです! 貴方の優しいのは、芯《しん》から優しいのではない。針をかくした莿茨《とげいばら》。なぜ胸にあることを、男らしく云って、打《ぶ》つとも蹴るともなさらないのです』 『……はははは、もう落着け、鷹も探しに行かいでもよい。よく落着いて、もういちど考え直せ』 『いいえ、嫌です、嫌です。何と云われても、もうもう私は……』  良人が冷静な眼《まな》ざしを澄ましている程、彼女の眼は、涙に吊《つ》り上った。そして物狂わしく、自分の居間へ駈け戻ると、包んでおいた身のまわりの物を抱えて、玄関から外へ出て行った。  前の日、一人の仲間《ちゅうげん》は、諫早《いさはや》の家に急用が起って帰り、勝手元にいる老婆は、耳が遠いし、気がついても、何日《いつ》もの事だと思っているらしい。  兵庫は又、机に向い直して、筆を執りかけた。  ――すると、彼女の跫音が、門を踏み出したか、未《ま》だかと思われるのに、 『あれッ』  と、消魂《けたたま》しい叫びが一声、そとから聞えた。 『……?』  兵庫は、執りかけた筆を擱《お》いて、耳を澄ましたが、ふと眉をひそめて起ち上った。 [#4字下げ][#大見出し]忘れぬ意趣[#大見出し終わり] [#8字下げ][#中見出し]一[#中見出し終わり]  この界隈《かいわい》の屋敷はみな小さい。  従って、狭い小路が、幾筋も曲がっていたし、どの家も、簡素を超えて、貧しげな侍ばかり住んでいた。  今――ばたばたっと夕闇を蹌《よろ》めくように駈けて来た旅の浪人者があった。物に衝き当った蝙蝠《こうもり》のように、お市が、門を出て来た出会い頭《がしら》に、そこの土塀にぶつかって、ばたっと仆《たお》れたかと思うと、 『た、助けて下さい。――お縋《すが》り申す! ……何、何処へな、お匿《かくま》い願いたい』  と、彼女の裾をつかんで叫んだ。  赤土の肌の崩れている土塀には、夕顔の蔓《つる》がいちめんに這って、白い花が無数に宵《よい》の微風に息づいていた。彼女の側にも、浪人の体にもその弱々しい蔓や白い花が、千断《ちぎ》れて落ちた。 『あっ……?』  と、お市が身を退《ひ》くと、若い浪人は、固くつかんでいる裾の手を、猶更かたく、 『お、お、お慈悲に――暫くの間、御門内に』  と、這って来る。  見ると、その若い浪人の背筋は、割《さ》いた魚の背みたいに真っ赤な肉がはじけていた。仄暗いので、血とも見えない液体が、黒々とそこから満身にながれて、手をついた跡にも、血しおの手型がべったり残っている。  ――きゃっと、彼女が思わず悲鳴を揚げて、門の内へ逃げこんだのは、その時だった。ウーム、ウームと、外には、気息奄々《きそくえんえん》な傷負《ておい》の呻《うめ》きが、不気味に昂《たか》くなっていた。  良人には、出て行くと云って、踏み出した閾《しきい》だし、門の外には、その不気味なものが仆れているので、お市は、そこに立ち恟《すく》んでいた。  ――と。手燭の明りが映《さ》して、 『何うした? ……』  と、兵庫の声が後《うしろ》でする。  さっきも今も、兵庫の声には、少しも変りは無かったが、お市は、未練に思われるのが口惜しかったので、 『ええ今……今行くところです』  と、云った。  兵庫は、薄く苦笑したが、門の外の呻き声に、 『やっ? ……誰じゃ』  と、傷負《ておい》の影へ、手燭をかざした。 [#8字下げ][#中見出し]二[#中見出し終わり]  もう意識を失いかけて、昏倒《こんとう》していた傷負《ておい》の若い浪人は、兵庫のことばと、手燭の明りに、又びくびくと全身の肉を痙攣《ふる》わせて、 『武士のお情に! ……お、お匿《かくま》い下さいませ』  と、絶叫する程な力で、微《かす》かな声をしぼりながら、兵庫の足もとを、血しおの手で拝んだ。  兵庫は、夕顔の花より血の気のない――その浪人の顔を見て、愕然としたが、 『斬合《きりあい》か』  と、一|言《こと》、訊ねた。 『そ、そうです。相手は……相手は五、六人もの人数』 『ひとりか、おん身は』 『…………』  頷くと、其儘、がくり[#「がくり」に傍点]としかけたので、兵庫は急いで手を伸ばした。そして、傷負の体を、引っ抱えるなり、庭の奥へ、駈けこんで行った。  お市は、その隙に、もう二度と兵庫とは顔を合せない覚悟で――ついと門の外へ踏み出しかけたが、途端に、ばらばらと駈けて来た跫音と共に、 『あっ、この家だっ』 『血しおがこぼれている!』  と、口々に喚いて、門の前に立ち塞がった侍たちの白刃《しらは》を見て、今度は、より以上、恟《ぎょ》ッと竦《すく》んでしまった。 『――それっ』  と、五人の中のひとりが云った。その男の白刃には、ありありと血しおが塗《まみ》れていた。  他《ほか》の者も、総て抜刀《ぬきみ》を引っ提《さ》げているのだ。どの顔も皆、眦《まなじり》をつりあげ、革襷《かわだすき》をかけ、股立《ももだち》を括《くく》って、尋常な血相ではなかった。  その儘、彼等はどやどやと、門の中へ押し込んで来ようとした。すると、飛鳥のように、庭の奥から引っ返して来た兵庫が、 『待てっ、何処へ行くか』  と、門の口いっぱいに、両手を拡げて、立ち塞がった。 『やっ?』――と、その姿に初めて、 『ここは、曾我部どののお住居《すまい》だったか』  と、気着いたように、一同は、土塀の夕顔を見まわした。 『されば親代々、お扶持《ふち》を賜《たま》わって、ここに住居しておる曾我部兵庫。小さくとも、貧しくとも、侍の家は一|城廓《じょうかく》です。誰のゆるしを受けてこの門内へ、踏み込もうと召されるか』 『ただ今、この内へ、傷負の浪人が逃げ込んだ筈――討たでは措かれぬ憎ッくい曲者《しれもの》、お渡しください』  頬に古い大傷のある男が喚くと、それに続いて、他の侍たちも、 『年来|尾《つ》け狙っていたところ、漸く、時節が参って、この中津の御城下へ立ち入ったことを知り、唯今、笠懸《かさか》け松の辻で見つけ、一太刀浴びせて、取り逃がした者でござる』 『どうか、その曲者を、突き出していただきたい』 『吾々の手に、お渡しください』 『それがお手数とあれば、われわれが勝手に引っ捕えます故、暫時《ざんじ》、お住居の中を捜《さが》す事、御用捨にあずかりたい』  と、口々に云う声も、殺気立っていた。  兵庫は、依然として、手を拡げた儘、 『いや。その儀は成らぬ。お断りする』  と、云った。  断乎とした言葉でそう答えた。 [#8字下げ][#中見出し]三[#中見出し終わり]  兵庫の一|蹴《しゅう》に会うと、さなきだに気負い立っている五名は、 『なに! なぜ成らぬか』  と、詰め寄った。 『何とあろうが、いちど侍の廂《ひさし》の下に、助けてやると、抱え入れたからには、それを渡しては、武士の信義に外れる』 『異なことを申される。あの曲者と、抑《そも》、何の縁故があって、そのような庇《かば》い立てを召さるか』 『縁も、由縁《ゆかり》もない路傍の人間なればこそ、猶更のこと。各〻の手に、委ねるわけにはゆかぬ』 『分らぬ!』  と、頬に大傷のある男は、味方の者たちを顧みて、絶叫した。 『この曾我部兵庫どのが――あんな事を仰せられる。わし等と共に、あの曲者を、一太刀恨んでもいい人なのに!』 『きっと、われわれが何者か、この門内へ逃げた浪人が誰か、まだ何も御存知ないのだろう。格之進も変っているし、おぬしの顔も、その大傷で変っているからな』 『そうだ。名乗れ名乗れ。――そして、仔細をよく話してみろ』  顔に大傷のある男を中心に、五名の侍は、がやがや云っていたが、軈《やが》て、 『あいや兵庫どの。これにおる男は、顔の大傷のため、お見違いなされたか知らぬが、以前、田丸様に若党奉公しておった楠平と申すもの。それがしは叔父の太左衛門でござる』 『てまえは、楠平の義兄の尾形周平というもの』 『拙者は、従兄弟の中根倉八』 『友人の沢井又兵衛』  と、順に名乗りかけてから、 『逃げ込んだ卑怯者は、六年前、御当所を逐電《ちくてん》した深見格之進でござりますぞ。楠平にとっては、云わずと知れた年来の怨み重なる奴なれど、旧主の田丸家に取っても、又、其許《そこもと》にとっては猶《なお》のこと、捨ておかれぬ畜生ではござりませぬか。――それを匿《かくま》う尊公の量見が分らぬ。いざ、お渡しください』  と、前にも増して強硬だった。  云われる迄もなく、兵庫は疾《と》くから知っていたので、その間も、何の表情もうごかさない。――そしてただ一言、 『いや、成らぬ。何と云われようが、武士の然諾《ぜんだく》、傷負《ておい》を渡すことは断じて相ならぬ』  と、同じ言葉を、重ねただけであった。  楠平の義兄、尾形周平は、さっきから眼を燃やして、兵庫の顔を睨《ね》めつけていたが、 『もう、こんな分らぬ人間に、物を云うな。云うだけ無駄だっ』  と、罵《ののし》って、 『駈け落ち者の片方を、女房に持って、何ともせぬ神経へ、われわれの武士道を、云って聞かせても始まるまい。――この上は、刀にかけても、渡さぬというのか否か。それだけ聞こう』  と、身を開いて、ぱっと刃《やいば》を構えながら云い放った。  周平が、そうしたので、他の者も、さっと身構えを変えた。当然、相手がふいに、抜打ちに来るものと計ってである。  だが兵庫は、眉も動かしてはいない。ただ微かに苦笑を唇元《くちもと》にながして、 『元より、刀にかけても!』  と云った。 『――う、うぬッ』  周平が振り込んだ一薙《ひとな》ぎは、斜めに、門の柱へ斬りこんでいた。――途端に、中へ隠れた兵庫の影の代りに、門の扉《と》が、風を孕《はら》んで、どんと閉まった。 『叔父御、背を貸せ』  と、周平は、太左衛門の背に足をかけて、直ぐ塀の内へ躍り込もうとした。 『まあ待て、まあ待て』  太左衛門は、背をかわして、彼やその他を、抱き止めながら、 『理不尽《りふじん》に乗り越えては、兵庫めが云う通り、此方《こちら》の落度になり、彼奴《きゃつ》には思うつぼ[#「つぼ」に傍点]に篏《はま》るわい。忌々しいが胸を撫でて――。な、これ……此処は胸を撫でて』  と、何か囁《ささや》いた。  四名は、地《じ》だんだ[#「だんだ」に傍点]を踏みながら、門を睨《ね》めつけて、 『――かッ』  と、唾《つば》を吐きかけ、そして、何処《いずこ》ともなく立ち去った。 [#4字下げ][#大見出し]鷹小屋の呻《うめ》き[#大見出し終わり] [#8字下げ][#中見出し]一[#中見出し終わり]  楠平やその友達や、尾形一家の者が立ち去って行くらしい跫音に、曾我部兵庫は、ほっとして、家の中へ這入りかけたが、ふと、暗い大地を振向いて、 『お市』  と、呼んだ。  お市は、そこに居るか居ないか分らないように門の脇に、身を沈めたまま、平たく俯《う》っ伏している。 『――冷えるぞ』  それも常の声だった。 『…………』  突然、お市は、嗚咽《おえつ》しはじめた。肩は波を打って、泣きじゃくった。 『――泣いている間に、傷負《ておい》はことぎれるぞ。はやく鷹小屋へ行って手当をしてやれ』  云い捨てて、兵庫は家の中へかくれ、又、机の前に、黙然と坐った。  ――坐ったが、然し彼もさすがに、筆は持てなかった。  地の下に、蚯蚓《みみず》が泣きぬいて、星の美しい夜となった。夜となれば暑い夏も、ずっと冷々《ひえびえ》して、人間の心からも、焦々《いらいら》したものを拭《ぬぐ》ってゆく。 『……うううむ。……ううム……』  庭の隅の鷹小屋から、時折、苦しげな太い呻《うめ》きがながれてくる。それは、お市と兵庫の、六年間の苦しみを、一時に踠《も》がき苦んでいるような呻きだった。  お市の耳へも、それは聞えてゆくに違いない。捨てて置けば、出血は止まるまいし、刻一刻と、生命《いのち》が縮められてゆくことも知れきった事である。  そのうちに――がたんと、裏の方で、物音がした。  兵庫は、すぐ窓を開けて、 『誰だっ』  と、咎《とが》めた。 『あ……吃驚《びっくり》いたしました。仲間《ちゅうげん》の由松《よしまつ》でございます。諫早《いさはや》の病人が快《よ》くなったので、唯今戻って参りました』 『オ……由松か』 『御用を欠《か》いて、相すみませんでした』 『いい所へ戻ってくれた。早速だが、金創薬《きんそう》の有合せがあるか』 『ございます』 『それと、片口注《かたくち》へ焼酎《しょうちゅう》をなみなみ注《つ》いで、晒布《さらし》と一緒に、鷹小屋の前へ持って行ってやれ。――外へ置いてくればいいのだぞ、中へは這入るなよ』 『へい』  由松は、不審な顔をしながら、とにかく吩咐《いいつ》けられた品を揃《そろ》えて、裏庭の奥へ運んで行った。  そこに一棟の鷹小屋がある。  這入るなとは主人に云われたが、戸が開《あ》いているし、何やら、人の気配がするので、由松は暗い中を覗いてみた。  白い顔が、傷負の側から振向いて、あっと、軽い声を洩《も》らした。  由松も吃驚して、 『ヤ。御新造さまでは御座いませんか』  と、さけんだ。  お市は、手を振って、 『叱っ……静かにしておくれ』 『そこに、誰方《どなた》か、怪我人が居らっしゃるのでございますか』 『わたしの襦袢《じゅばん》を裂いて今、手当てしているところです』 『晒布も、金創薬も、焼酎もここへ持って参りましたが』 『え? 何《ど》うして』 『旦那様のおいいつけで……』 『……あ。……そう』  凝《じっ》と、首をたれて、お市は俯《うつ》向きこんでいたが、もう女の特有な度胸がすっかりすわったように、言葉のふるえも消えて、 『ここへ持って来ておくれ』 『へ、へい……。けれど、旦那様が、中へは這入るなと仰っしゃいましたが』 『かまいません』 『では――』 『それから、夜半《よなか》になったら、済まないけれど、駕《かご》を二|挺《ちょう》、そっと裏口の木戸へ呼んで来ておくれでないか』 『畏《かしこ》まりました』 『竹筒に水を入れて、駕へ括《くく》っておいておくれ。それから中に、油単《ゆたん》や小蒲団をかさねておくようにね』 『では、その怪我人のお方を』 『別府の温泉《ゆ》まで、療治《りょうじ》にお連れするんです』 『旦那さまのお耳へは』 『何もかも御存じなのだから、云うには及びません。――もうすぐにお寝みになるだろうし』 『……ほんに』と、由松は庭木を透かして、 『いつのまにか、お部屋の明りが消えております』 『じゃあ、今のうちに、はやく駕を頼んでおいておくれ。間際《まぎわ》になって、無いと困りますから』  由松は、何処かへ、出て行った。 [#8字下げ][#中見出し]二[#中見出し終わり]  もう九刻《ここのつ》[#1段階小さな文字](十二時)[#小さな文字終わり]過ぎ――  海騒もない、静かな夜半《よなか》だった。  沖の水平線だけが、月光色の帯のように、ぎらぎら明るかった。 『御新造さま。……参りました』 『駕?』 『へい』 『旦那さまは』 『あれなり、ずっと、お寝みのようでございますが』 『……じゃあ、ちょっと、手をかしておくれ。……そっと、そっと抱いて上げないと』 『かなり深傷《ふかで》の御様子でございますな』 『でも、すっかり洗って晒布巻《さらしまき》をしましたから、だいぶお顔が快《よ》くなって来ました』  由松は、何気なく、傷負《ておい》を抱き起して、自分の肩に負いかけたが、ふとその浪人の顔を見て―― 『あっ、この男は』  と、思わず口走った。  お市は、顔を反向《そむ》けながら、 『お前も、この人の顔を、見知っているのかえ』 『知……知らねえで、何としましょう。……御新造さま! お、おまえ様というお方はなあ……』 『もう、何も云っておくれでない』 『――云いますめえ、追《おっ》つかねえことだ』  由松は、肱《ひじ》を曲げて、顔の涙をこすりながら、傷負《ておい》を肩に、とぼとぼと歩きだした。 『……ア、由松や。表門ではなるまい。駕は裏の木戸へ来ているのでしょう』 『うんにゃ』――と由松は首を振って、 『宵から、裏の浜辺に、不審《おか》しな人影が、張番みてえに立っているので、わざと、表へ廻しておきましただが』 『えっ、外に誰か、立っているって?』 『仕方がござりますめえ。この塀の中にいれば、誰にも、指一つ触らせる旦那様ではねえのに……おまえ様が好んで出て行かっしゃる地獄の道だに』 『……いいよ! ……もうわたしは、覚悟をしているのだから』  門の前には、駕が二つ、忍びやかに待っていた。それも由松の気くばりとみえて、提燈《ちょうちん》には、黒い布《ぬの》が巻いてあった。  傷負は、そっと、一挺の内へ寝かされた。由松は、鼻をすすって、地を見つめていたが、 『さ、御新造も、はやく……』  と、人目を惧《おそ》れて促《うな》がした。 『ありがとうよ――』  彼女は、奉公人へ対しても、初めて、心からそんな礼を云った。そして、 『もういいから、中へ這入っておくれ』  と、云った。  由松が中へ姿をかくして、門の扉《と》を閉めても、彼女はまだ、六年住んだ家の屋根や廂《ひさし》や樹を見まわしていた。そして、駕屋の眼にも触れないように、門の土塀に這っている夕顔の蔓《つる》を、そっと千断《ちぎ》って、袂へ入れた。 『駕屋さん――やってください。一挺は病人ですから、揺れないように』  駕は、傷負を劬《いたわ》りながら――でも軽い弾《はず》みをつけながら――駈け出した。  お市は、駕の中から、もういちど、草だらけなわが家の門を振り向いた。 [#4字下げ][#大見出し]蔓草《つるくさ》の道[#大見出し終わり] [#8字下げ][#中見出し]一[#中見出し終わり]  中津の城下から南へ向って、道が町屋から離れると間もなく、嫌《いや》でも応でも、浜辺の並木へかかるしかなかった。 『待てーッ』  いきなり横合の樹陰《こかげ》から跳び出した人影がある。しゃ[#「しゃ」に傍点]嗄《が》れ声ですぐ老人であることは分ったが、手には、槍を引っ提《さ》げ、袴《はかま》を高く括《くく》し上げて、まるで夜叉《やしゃ》のような権《けん》まく[#「まく」に傍点]だった。 『お市! これへ出ろっ。他人手《ひとで》を待つまでもない、肉親の父惣七が成敗してやる。――出ろっ、出ろっ。その後で、不義者の相手も刺止《とどめ》を刺してくるるから』  惣七の後ろには、宵の五名も、その儘のすがたで、ずらりと立ち並《なら》んでいた。  もう霜になった鬂《びん》の毛を顫《ふる》わせて、惣七は、 『ようも家名を汚《けが》し、良人の顔に泥をぬりおったの。――うぬ、出てうせねば!』  槍を繰り引いて、垂れ籠めている駕の内へ、ずばっと突き入れようとした時、並木の陰から、閃《ひら》っと迅い人影が、彼の側へ跳んで槍の手元をつかんだ。 『御老台《ごろうだい》。あなた迄が、何をなさる』 『あっ――お身は兵庫どの』 『あなたに、こんな事をさせる程なら、拙者も永い忍苦《にんく》はしませぬ。こうした事の生れる初めに、あなたも父として何も落度はなかったか、拙者も良人として足らぬ所はなかったか。それも考えてみなければなりますまい』 『ない、わしに落度はない。町人なら知らぬ事、武士の娘に――又武士の間に、そんな斟酌《しんしゃく》はないことじゃ』 『武士。――仰せられたその武士へ、では何で、お市を嫁がせる前にあなたは、頼む! と拙者に手をついたか』 『……む?』 『武士には、一|諾《だく》を重んじるという事がござりますぞ。事情を打明けて、この娘、頼むと仰せられたあの涙を、なぜ今お持ちなさらぬのか。よろしいお娶《もら》い申そうと、その時云った然諾《ぜんだく》を、拙者はまだ、胸から捨ててはおりませぬ』 『…………』 『いや一諾の、信義のと、肩肱《かたひじ》張《は》った理窟《りくつ》ばかりではない。瑕《きず》のある玉も、身に帯び馴れれば捨て難《かね》る。ましてや何《いず》れに動くもただ感情に動く女、無智なれば無智なほど不愍《ふびん》にも存じて――今日までは何とかして、あなたに与えた然諾を、裏切るまいと努めて来たのに』 『もう、仰せられな。――勿体ない、勿体ない。そう云われては、この惣七、何《ど》う詫《わ》びてよいやら、途方にくれる』 『お詫びは、今も申した通り、兵庫からせねばなりませぬ。折角の一諾も、お引き請け効《が》いもなくて』 『な、なんの。――お身から詫び言など』 『この上は、お慈悲です。二人の然諾も、恨みも解いて、この駕を、行きたい道へやって下さい。――それが縁あって一時良人と侍《かしず》かれたそれがしが、お市への唯一つの餞別《せんべつ》』 『いや、わしの一量見にはゆかぬ。あれに居らるる五人の衆の心も訊《き》かねば』  惣七は、親心に、もう槍の向け場を失っていた。  兵庫は慇懃《いんぎん》に、五名の影に向って、 『この通りお願いしまする』  と、云った。  そして又、 『その中に、楠平どのは居るか』  と、訊ねた。 [#8字下げ][#中見出し]二[#中見出し終わり] 『はい、これに居りまする』  と、楠平は一足前へ出て云った。 『おぬしが受けただけの傷は、いやもっと心にまで深く、格之進に与えたではないか。その上、刺止《とどめ》まで刺すのは武士の情ではない。――のみならず、それでは、旧主の惣七どのを、是が非でも、わが娘《こ》を成敗せねばならぬ破目《はめ》に立たせてしまう』 『……分りました。貴方のお言葉で、小さい意地や男の体面のほかに真《まこと》の武士道とは、大きな而《しか》も優しい愛のあるものだと分りました。――もう何事もわすれます。どうぞその駕、お通しくださいませ』 『かたじけない』  兵庫は、それを惣七に伝えるつもりで、駕のそばへ戻って来たが、ふと見ると、お市の乗っている底から、血しおのながれが、無数に地を走っていた。 『しまった!』  兵庫は、駈け寄るなり、駕のたれ[#「たれ」に傍点]を刎《は》ね上げたが、もう間にあわなかった。吾儘《わがまま》で、容易に意志を曲げない女だけに――自《みずか》ら喉を突いた短い刃《やいば》も、襟へ抜けるほど深く貫いていた。  そして膝には、夕顔の蔓《つる》に、まだ萎《しお》れていない二、三輪の白い花が乗っていた。 『……兵庫どの。娘はやはり武士の娘に違いはなかったのじゃ。わしが悪かったかも知れぬ。いや悪かった、悪かった。……ゆるして下され』  大地へ手をつかえた惣七は、怺《こら》える嗚咽を、脆《もろ》くも老《おい》の肩骨にふるわせて、いつ迄、顔を上げ得なかった。 『――それ』  と、眼くばせ交すと、楠平を初め五名の者は、すぐもう一つの駕を取巻いて、中を覗《のぞ》いたが、その格之進は自刃もしていなかった。  ――すでに、ここ迄来る途中で、彼の生命《いのち》は終っていたからである。 [#地から1字上げ][#1段階小さな文字](昭和十三年六月)[#小さな文字終わり] 底本:「吉川英治全集・43 新・水滸傳(二)」講談社    1967(昭和42)年6月20日第1刷発行 初出:「婦人倶楽部 臨時増刊」大日本雄弁会講談社    1938(昭和13)年6月 入力:川山隆 校正:門田裕志 2014年2月14日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。