坂道 新美南吉 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)歸《き》省 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)生|徒《と》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)へま[#「へま」に傍点] /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)わく/\ -------------------------------------------------------  東京のさる專門學校の生|徒《と》である草野金太郎は、春|休《やす》みで故|郷《けう》の町に歸《き》省してゐたが、春|休《やす》みも終つたので、あと二時間もするとまた一人で東京にたつのである。  荷物はまとめて驛《えき》に出してしまひ、まだ明るいけれど夕飯も風|呂《ろ》もすましてしまつた。これから二時間のあいだ、もう何もすることがない。  忘《わす》れてゐることはないかと考《かんが》へて見るが、萬事手|筈《はづ》は整《とゝの》つてゐる。そこで金太郎は、二時間といふ僅《わづ》かな時間をもてあましてしまふ。  ぢつと落着いてゐることができない。何故だかわく/\してゐる。かういふことが時々あるのだが、人間は果してこんな時仕合せなのか不仕合せなのか、と金太郎は考《かんが》へたがそれも解らない。  そこで金太郎は、一つ自轉車で町にでも出て來ようと思つて母に何か用事はないか訊ねると生憎ないさうである。仕方がないので故|郷《けう》に對して惜別の感慨《かんがい》にふけるといつたやうな目的で自轉車をひつぱり出した。  父が十何年も前に、しかも中古で買つたといふ古風な自轉車である。ハンドルが水牛の角のやうな形をし、ブレーキと荷|掛《か》けとチエーンのカバーがない。俗《ぞく》に「ふみきり」といふペタルで、つまり普《ふ》通の自轉車のやうに、或る程度の惰性《だせい》がついたらペタルの上で足を休ませてゆくといふことが出來ない。自轉車が走つてゐる限り、ペタルも足も廻《まは》つてゐなければならないのである。  金太郎はさて、家の前で身|輕《がる》にひよいと自轉車にまたがつた。  用事はないのだから、ゆつくりゆつくり行けばよいのだが、町の人に見られると體裁が惡《わる》いので、自然何か買物にでもゆくやうな風をして走り出すのである。  さうして走つてゐると彼は何となく胸《むね》のときめくのを禁《きん》じえない。戀《こひ》といふ程のことをした經|驗《けん》のない彼には、この町のどこにもそれとなく見て別れを告げねばならぬやうな少女はゐないのであるが、通りのずつと向うの方に、まだ顏《かほ》は見えぬけれど着物の色|彩《さい》で少女と知れる姿《すがた》が現はれると、自分の愛《あい》人ではないかと思つて見たりするのである。  そして金太郎は、更めて自分が專門學校生|徒《と》である誇《ほこ》りにうつとりする。  やがて人通りの餘りない、片側に工場の黒|板《いた》塀が續《つゞ》き、片側は畑を間にさしはさんで住宅《じうたく》が數|軒《けん》ならんでゐる、町で一番長い坂道の上に出た。專門教育を受ける人間は現代日本では六十人に一人の割《わり》合であると、以前に誰《たれ》からか聞かされたことのあるのを思ひ出しながら、金太郎は坂を下り始めた。  少し下つた時、兩足がひよいとペタルから離《はな》れてしまつた。自轉車が加|速《そく》度で走り出し、從つてペタルが速く囘轉しはじめたので、うつかりしてゐて足を離《はな》したものらしい。こいつはいけないと金太郎は思つた。兩足をもう一度ペタルにのせて速《そく》度を制《せい》御しようとしたが、ペタルの囘轉は速さを増すばかりで金太郎の足を寄《よ》せつけない。  このまゝにしておけば自轉車は速くなるばかりである。坂はかなり長いから、一番下に到《いた》る時分には、梶をとることさへ出來なくなるであらう、今のうちに轉んでしまへば、怪《け》我はするかも知れない。だが大事に到《いた》らず濟《す》むことは確《たし》かだ、と金太郎は、速《そく》度を増してゆく自轉車の上で、幾《き》何の問題を解くときのやうに冷|靜《せい》に推《すい》理した。  そこで金太郎は體を固《かた》く小さくして、道の白い流《なが》れの上へ、飛びこむやうな具《ぐ》合に轉んでいつた。自轉車は三四米先へ投《な》げ出された。  起きあがつて見ると、ころぶときに地べたに突《つ》いたらしく、右の掌に擦《す》り傷《きず》がついてゐた。その他は別|段《だん》故|障《せう》もなかつた。  坂の上にも下にも人の姿《すがた》は見えないので、幸ひ羞しいおもひもしなくてすんだのである。尤《もつと》も見られたとて大して羞しがることでもない。鐵棒《てつぼう》をやつてゐる最中ちよつとへま[#「へま」に傍点]をして砂《すな》に尻もちをついたくらゐのことなのである。  そこで金太郎は、二三米先へ歩いていつて自轉車を起すと、またそれにまたがつて、今度はペタルから足を離《はな》さぬ樣に注意し、適《てき》當に速さを加減しながら坂の下へおりていつた。  坂を下り切つて、油屋の前から右へ曲《まが》つたところで、小學校でちよつと教はつたことのある山下といふ愛想《あいそう》のよい先生にゆきあつた。金太郎が帽子《ぼうし》をとつてお辭儀《じぎ》をすると、山下先生は眼《め》を絲のやうに細《ほそ》くして、春|休《やす》みは何日までか訊ねた。金太郎は路傍の道しるべの石に片足をかけて、自轉車に跨《またが》つたまゝ憩みながら、今|晩《ばん》たつといふ返《へん》事をした。  山下先生に別れると、額にかかつてゐた髮《かみ》をうしろへ掻《か》きあげて、豐富《ほうふ》な髮《かみ》の毛が外にはみ出さぬ樣に丁|寧《ねい》に帽子《ぼうし》をかむり石を蹴《け》つてひよいと體を浮《う》かしまた走り出した。そして今別れた愛想《あいそう》のよい山下先生が、金太郎の入學を喜《よろこ》んでくれた時、この町で一番|偉《えら》くなつてゐるのは××大學の教|授《じゆ》をしてゐられる林信助さん、その次に偉《えら》くなるのは君だとみんなが云つているから、しつかり勉《べん》強したまへ、と言つた言葉を憶ひ出し、惡《わる》い氣持はしなかつたのである。  町を一|巡《じゆん》して家へ歸《かへ》つて來る頃には、彼はもう坂の途《と》中で轉んだことを忘《わす》れてゐた。  間もなく、女學校一年生の妹すみ子に送られて、停《てい》車場に來た。いつもの事だから、ホームまではいるのはよせといつて、すみ子を出口のところに立たせておき、金太郎はブリツヂを渡《わた》つた。  汽《き》車が出るとき金太郎は、出口の方の妹に手をふりながらも彼女の左右や背後を見た。誰《たれ》かが……例へばすみ子を可|愛《あい》がると同時に金太郎にも愛《あい》を感《かん》じてゐるといつた風のすみ子の上|級《きう》生か何かゞ、こつそり金太郎を見送つてゐはしないかと思つたのである。併《しか》し考《かんが》へて見ればそんなものがある筈《はづ》はなかつた。  妹が見えなくなつてしまふと窓《まど》硝《がら》子をおろして、腰《こし》を落着けバツトを取り出して吸《す》ひつけた。それから、くる/\と卷《ま》いてポケツトにさし込んで來た週《しう》刊|雜誌《ざつし》をひろげて、この春に來る外國|映《えい》畫のスチルを眺《なが》めはじめた。  すると、發車間|際《ぎは》に慌てゝのつたらしい、鞄《かばん》を持つた、營《えい》利會社の外交風の男が二人、金太郎のうしろの、も一つうしろのボツクスに腰《こし》を卸《おろ》して何か話し出した。  中のすいてゐる車なので、別|段《だん》注意してゐなくても、二人の話がよく聞きとれるのである。  金太郎は初《はじ》め、氣にもかけず聞きながしてゐたが、「助けてくれえ、助けてくれえ、と叫《さけ》びながら下りていつたさうだ」と一人がいふのをきいて、ちよつと注意しだした。 「ブレーキが利かんだつたと見えるな」と年とつた方の紳《しん》士がいつた。 「あんまり自轉車に馴《な》れてゐなかつたんだね。こいつはいかんと思つたら、早くころがつてしまへばよかつたんだ」 「うん。……まごまごしてゐるうちに自轉車は速くなる、ころぼたつて、もうころぶわけにもいかない、そこで助けてくれえと悲鳴《ひめい》をあげるより他なかつたんだらう。氣の毒《どく》にな、何處の年|寄《よ》りだか知らんが……」 「飛びこまれた家もびつくりしたらうね、油屋ださうだが、正面の硝《がら》子をぶちやぶつて、油桶のならんでるところへぶつかつて來たんださうだからね。そこら一面に油と血が流れ出て、ほんとの油地|獄《ごく》だなんていつてたよ」  あきらかに、金太郎がさつきころんだあの坂で起つた慘《さん》事である。どこかの年とつた男がブレーキのきかない自轉車で、速《そく》力を抑へることが出來ず、ま一文字にかけ下りて、坂下の油屋にとびこみ、死《し》んだのである。金太郎が轉んだときから僅《わづ》か半時間程のちに。  金太郎は聞いてゐるうちに、眼《め》の前が白く霞んで來て、見てゐた寫《しや》眞が見えなくなつてしまつた。かつて、あまり經|驗《けん》したことのない奇妙《きめう》な感《かん》じである。普《ふ》通にはそれを「ぎよつとした」と形|容《よう》するがその言葉があらはす程シヨツクの烈《はげ》しいものではなく、何か日頃は奧《おく》のほうにしまつてあつて、滅《めつ》多にとり出すことのない感《かん》情のはしに一つの火がしづかに點ぜられ、段《だん》々ひろがつてゆくやうな氣持である。やがて心音が、一つ一つどすんどすんと大きく鳴《な》りはじめるのを覺《おぼ》えた。  落ち着いてゐられなくなつて金太郎は帽《ぼう》子をひつつかみ、そゝくさと別の車へうつつた。  その車もよく空いてゐたので眞中所の窓際《まどぎは》の席《せき》に腰《こし》を卸《おろ》し、窓《そう》外に眼《め》を放《はな》つた。窓《まど》のすぐ外に、枯草に緑《りよく》草がまじつた土堤が續《つゞ》いてゐる、それがすばらしい速さで、線《せん》をひきながらうしろへ流《なが》れてゐる、かういふ風にあの時道の白さが足の下を流《なが》れてゐたと金太郎はすぐ聯|想《そう》した。  もしあの時、自分が轉ばうと思はなかつたら、自分の上に大變な事がふりかゝつて來たのだ。轉ばうと思つたのはほんの些細なことで、それが、自分をそれ程の大事から救《すく》つてくれようとは思ひ設けなかつた。さう金太郎は考《かんが》へた。分水|嶺《れい》の頂《てう》上に降る雨が、實に一糎か二糎の相違から、一方は右に流《なが》れてやがては右の海にそゝぎ、他方は左に流《なが》れて左の海にそゝぐことになるときかされてゐたのも、こんなことなのだと思ひ合はされた。  金太郎が轉ばうと思つたのは餘り些細なことであつただけに、それが一命を救つてくれたとはどうも信じがたくも思はれた。自分ではなかつたのか、その油屋に飛びこんで死《し》んでしまつたのは、と彼は疑《うたが》つて見る。自分なのかも知れない。自分であることは何もむづかしいことではないのだから。  しかしながら金太郎は、こゝに、東京にゆく汽《き》車に滿足な體をしてゐるのである。これが現實なのだ。それならば現實といふものは、うすい硝《がら》子のやうな何と云ふ頼《たよ》りないものなんだらう。  どうもよく解《わか》らない。何が何だかと痺れた樣になつてよく働かない自分の頭を、金太郎は齒|痒《かゆ》く思ひながら考《かんが》へた。爺さんは油|桶《をけ》にぶつかつて血を流して死《し》んでしまつたといふ。それがどれだけの悲劇《ひげき》なのか。爺さんは死《し》んだが自分は生きてゐる。それがどれだけの重量を持つた意|味《み》なのか。  金太郎は中學で物理の時間に四|角《かく》な檻《をり》のやうな針《はり》金|細《さい》工の箱《はこ》の中に人間を入れておいて、その箱《はこ》に高|壓《あつ》電流を通じても、中の人間は少しも知らないで平然としてゐられる、といふ話をきいたことがあるが、今の自分はちようど高|壓《あつ》電流の通ふ箱《はこ》の中に閉《と》ぢこめられた人間の樣なものであると考《かんが》へた。あまりに強|烈《れつ》な現實が自分の周圍《しうい》をめまぐるしく走つてゐるのに、自分にはそれがよく解らないのである。  金太郎は急《きう》に、一切のことを誰《たれ》かに話して、自分とその老《ろう》人とが同じ危|險《けん》状態にあつたことを現在世|界《かい》中で自分だけが知つてゐるといふこの祕密《ひみつ》から、いちはやく解|放《ほう》されたい衝《せう》動をうけた。そこで適《てき》當な人はゐないかと周圍《しうい》を眺《なが》め始めた。 底本:「校定 新美南吉全集第三巻」大日本図書    1980(昭和55)年7月31日初版第1刷発行 初出:「哈爾賓日日新聞」    1940(昭和15)年5月 入力:愛知大学文学部図書館情報学 時実ゼミ 青空文庫班 校正:富田倫生 2012年11月4日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。