金歯 小川未明 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)絵《え》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)三|円《えん》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#7字下げ] ------------------------------------------------------- [#7字下げ]一[#「一」は中見出し] 「絵《え》を描《えが》きたくたって、絵《え》の具《ぐ》がないんだからな。」  あまり欠乏《けつぼう》しているのが、なんだか自分《じぶん》ながら、滑稽《こっけい》に感《かん》じたので、令二《れいじ》は笑《わら》いました。 「いくらあったら、その絵《え》の具《ぐ》が買《か》えます。」 「さあ、ホワイトはなかった、それにグリーンもないと、まあ三|円《えん》はいりますね。」 「もし、それくらいでいいのなら、私《わたし》が、どうかして、こしらえてあげますよ。」  母親《ははおや》は、年《とし》のせいか、日《ひ》の光《ひかり》が恋《こい》しいので、縁側《えんがわ》の方《ほう》に、小《ちい》さな背中《せなか》を向《む》けて、答《こた》えました。 「なに、いますぐ描《か》かなくたっていいんです。」  令二《れいじ》は、気《き》の弱《よわ》い母《はは》をいじめて、すまなかったと、淋《さび》しい気《き》がしました。  そばで、一|心《しん》にセーターを編《あ》んでいた、姉《あね》のさき子《こ》は、 「そんなこと口《くち》に出《だ》さなければ、いいじゃないか。」と、弟《おとうと》を上目《うわめ》でにらみました。 「描《か》きたいから、描《か》きたいといったのだ。」  こんどは弟《おとうと》が、口《くち》をとがらして姉《あね》をにらんだ。 「なんだ、そのかばのような顔《かお》は?」 「なんだ、乾《ほ》しいわしのような目《め》をして。」  二人《ふたり》が、言《い》い争《あら》うと、母《はは》は、 「もう、けんかはよしておくれ、明日《あす》にでもお金《かね》をこしらえてきて絵《え》の具《ぐ》を買《か》ってあげますから。」といいました。 「お母《かあ》さん、令二《れいじ》にそんなお金《かね》をおやりなさるなら、私《わたし》にも毛糸《けいと》を買《か》ってちょうだいよ。」 「おまえたちは、お母《かあ》さんに、どうしてそんなお金《かね》があると思《おも》えるの。」 「お母《かあ》さん、僕《ぼく》はいりませんよ。なに、デッサンさえ、やっていれば、金《かね》なんか、かかりませんから。」 「私《わたし》、とれた金歯《きんば》を売《う》ってこようかと思《おも》っているのです。新聞《しんぶん》の広告《こうこく》を見《み》ると、金《きん》ならなんでも高《たか》く買《か》うと書《か》いてありますから。」  これを聞《き》くと、二人《ふたり》は、さすがにひどく打《う》たれたように顔《かお》を見合《みあ》ったが、さき子《こ》は、そのまま下《した》を向《む》いて、編《あ》み物《もの》の棒《ぼう》を動《うご》かしていました。独《ひと》り、令二《れいじ》が、 「お母《かあ》さん、そんなことをせんで、歯医者《はいしゃ》へいって、とれたのをつけてもらっていらっしゃいよ。」といいました。 「いえ、私《わたし》は、このあいだから、そう思《おも》っていたのです。それに、あれのないほうがかえって、ものが食《た》べいいのですよ。ただ売《う》ることなどしつけないのに、どんな店《みせ》がいいだろうか、正直《しょうじき》なところへいきたいと思《おも》っていたのです。そして、あれを売《う》ったら、なにかおまえたちの喜《よろこ》びそうなものを買《か》ってあげようと、独《ひと》りで楽《たの》しみにしていました。」  このごろは、まったく砂漠《さばく》のように、灰色《はいいろ》にしか目《め》に映《うつ》らない家《いえ》の中《なか》にも、小《ちい》さいながらさんらんとした、金《きん》の塊《かたまり》が、隠《かく》されているということは、令二《れいじ》にとって、不思議《ふしぎ》というよりか、むしろ、人生《じんせい》には、つねにこうした矛盾《むじゅん》があって、楽《たの》しいのだという感《かん》じのほうを強《つよ》からしめたのであるが、これが母《はは》の大事《だいじ》な歯《は》であるだけに、あまり朗《ほが》らかな気持《きも》ちにはなれなかったのです。 「歯《は》のないのが、かえってかみいいなんて、そういうことはありませんよ。」  母《はは》の道理《どうり》に合《あ》わない言葉《ことば》を、令二《れいじ》は、指摘《してき》しました。 「いえ、おかしな話《はなし》だが、あまり金《きん》をば惜《お》しげなく使《つか》っているので、重《おも》くて大《おお》きすぎるのです。」 「どうして、またそんなにたくさん金《きん》を使《つか》ったのだろうな。」 「まだ、金《きん》の値《ね》が上《あ》がらなかったときで、それに造《つく》った歯医者《はいしゃ》が、学校《がっこう》を出《で》たばかりで細工《さいく》がうまくなかったのですね。」 「そんなことが、いまの私《わたし》の家《うち》のしあわせになるんですかねえ。」 「しあわせって、なんだ?」  このとき、姉《あね》は、また弟《おとうと》をにらみました。しかし、令二《れいじ》は相手《あいて》にしなかった。 「お母《かあ》さんは、長《なが》い間《あいだ》、そんなものを入《い》れて、不自由《ふじゆう》を我慢《がまん》していたんですか。」 「歯《は》を入《い》れた、はじめのうちは、みんなこうしたもので、なれれば具合《ぐあい》がよくなると思《おも》っていたのです。そのうちに、不自由《ふじゆう》になれてしまって、つい不自由《ふじゆう》ということがわからなくなったのです。こんど、とれてから、はじめて、堅《かた》いものでもほかの歯《は》でかめるので、入《い》れ歯《ば》の不《ふ》できであったことがわかったのでした。」 「じゃ、なければないで、自然《しぜん》がいちばんいいということになりますね。それなら、その金歯《きんば》を売《う》っちまいましょう。」と、令二《れいじ》は、いいました。 「ばか、おまえは、お母《かあ》さんから、そのお金《かね》をもらう気《き》なの?」と、姉《あね》は、弟《おとうと》の方《ほう》へ体《からだ》をゆすりました。 「ああ、くださればもらうよ。」 「さっき、デッサンだけでいいといったじゃないか。」 「たまには、色《いろ》のついている風景《ふうけい》も描《か》きたいんだ。」 「おまえの絵《え》が、なにになるというのだ。」 「そういう姉《ねえ》さんはなにになるのか?」 「私《わたし》は、さっさと街《まち》へ出《で》て働《はたら》くわよ。そして、おまえの絵《え》は、お金《かね》になるの。」 「美《うつく》しいということが、わからない人間《にんげん》ではしかたがないのだ。」  母親《ははおや》は、子供《こども》たちの話《はなし》をば、じっとして、よく聞《き》いているとも、また、よく聞《き》いていないとも、どちらにもとられそうなようすで、だまっていました。 「ねえ、お母《かあ》さん、なぜ令二《れいじ》を芸術家《げいじゅつか》なんかにしたんです?」  せいた調子《ちょうし》で、さき子《こ》は、おびやかすように、問《と》いかけると、母《はは》は、 「その責任《せきにん》なら、死《し》なれたお父《とう》さんにあるのだよ、家《いえ》のことは、なんでもお父《とう》さんの意見《いけん》できめたのだからね。ある日《ひ》、お湯屋《ゆや》で、三|助《すけ》が、青《あお》い顔《かお》の坊《ぼっ》ちゃんだが、どこかわるくはないんですか、子供《こども》のうちは、勉強《べんきょう》などよりも体《からだ》がいちばん大事《だいじ》ですぜといった、言葉《ことば》にたいそう感心《かんしん》なさって、学校《がっこう》をやめさせてしまいなされたのだよ。」 「お父《とう》さんの罪《つみ》だわ。」と、さき子《こ》がいいました。 「お父《とう》さんの悪口《わるくち》なんかいったら、僕《ぼく》は、承知《しょうち》しない。もし、学校《がっこう》へいって、試験勉強《しけんべんきょう》ばかりしていたら、僕《ぼく》は、ほんとうの自然《しぜん》というものを、永久《えいきゅう》にわからずにしまったろうな。」 「ふん、おまえは、わかっているのか?」 「わからなくて、絵《え》が描《か》けるか。」  さき子《こ》は、たちまち、しんみりとした調子《ちょうし》になって、 「令《れい》ちゃんは、これから先《さき》、どうして食《く》っていくつもり。」と、ききました。 「絵《え》を描《か》いてさ、それよりほかに道《みち》がないだろう。」  令二《れいじ》は、さびしい笑《わら》いを顔《かお》に浮《う》かべた。そして、なにか、遠《とお》くのものを考《かんが》えるような、目《め》つきをしました。 「令《れい》ちゃん、芸術家《げいじゅつか》で、食《く》っていかれる?」 「人《ひと》をばかにするな。」 「心配《しんぱい》だから、聞《き》くんだわ。」  令二《れいじ》は、怒《おこ》った感情《かんじょう》をあらわすときは、いつも、口《くち》をとがらすのでした。 「人間《にんげん》が、まったく美《び》を愛《あい》しなくなったら、その国《くに》は滅《ほろ》びてしまうだろう。人間《にんげん》に美《び》を愛《あい》する本能《ほんのう》がなかったら、芸術《げいじゅつ》というものは、はじめから存在《そんざい》しないのだから。」  このとき、母親《ははおや》は立《た》って、たんすの小《こ》ひきだしから、紙《かみ》に包《つつ》んでしまっておいた、金歯《きんば》を持《も》ってきました。 「これは、金《きん》の無垢《むく》だよ。これを見《み》て思《おも》い出《だ》したが、お父《とう》さんが、夜《よる》おそく帰《かえ》ってらしって、歯医者《はいしゃ》の家《いえ》の前《まえ》をお通《とお》りになると、往来《おうらい》に面《めん》した窓《まど》に、あかりがついていて、コツ、コツと金《かな》づちをつかっている、小《ちい》さな音《おと》がきこえたので、おまえの歯《は》は、明日《あす》はいるそうだが、いま造《つく》っているのが、それだなと、音《おと》を聞《き》きながら、歩《ある》いてきたとおっしゃったのを覚《おぼ》えている。ちょうど秋《あき》の末《すえ》のことで、翌朝《よくちょう》、歯医者《はいしゃ》へいくとき、寺《てら》の前《まえ》を通《とお》って、黄色《きいろ》な、いちょうの落《お》ち葉《ば》がたくさん敷石《しきいし》の上《うえ》にたまっているのを見《み》ました。」  さき子《こ》と令二《れいじ》は、母《はは》の話《はなし》よりは、金歯《きんば》のほうに多《おお》く気《き》を取《と》られていたらしかったのです。 「なるほど、重《おも》みがありますね、これは、一|匁《もんめ》以下《いか》ということはありません。」 「いくらになるでしょう。」と、さき子《こ》もこれを掌《てのひら》の上《うえ》に載《の》せて、心《こころ》のうちで重《おも》さをはかりながら、そんなことを思《おも》っていたが、また、これが、ある時代《じだい》のお母《かあ》さんの歯《は》であったかと、おのずと涙《なみだ》が目《め》の中《なか》にわいてきました。 「お母《かあ》さん、これをお売《う》りになったら、いいげたをお買《か》いなさるといいわ。」 「いいえ、私《わたし》は、いま、べつになにも欲《ほ》しくないけれど。」 「お母《かあ》さん、新聞《しんぶん》に出《で》ている相場《そうば》は、純金《じゅんきん》をばいうのでしょう、それでなくとも、持《も》っていけば、きっと安《やす》いことをいいますよ。」と、令二《れいじ》が、いいました。 「まあ、そんなことだろうね。」  さき子《こ》は、慨然《がいぜん》として、 「ああ、お母《かあ》さんは気《き》の毒《どく》だ。私《わたし》、早《はや》く口《くち》を見《み》つけて働《はたら》くわ。令二《れいじ》には、ちっともそんな気《き》がないのだから、にくらしい!」 「そんなことをいうもんじゃありません。令二《れいじ》だって、考《かんが》えていますよ。」 「おまえ、考《かんが》えているのか?」 「僕《ぼく》は、絵《え》かきだから、美《うつく》しい絵《え》を描《か》くことしか考《かんが》えていない。それが、いちばん正《ただ》しく、また生《い》きる道《みち》だと思《おも》っている。それよりほかのことは僕《ぼく》にはわからない。」 「ああ、どうしたら、そんなことがいえるだろう。私《わたし》もそんな美《うつく》しい夢《ゆめ》が欲《ほ》しいわ。お米《こめ》がなくなってもかまわない、自分《じぶん》かってな気持《きも》ちになりたいものだ。」  日《ひ》が傾《かたむ》くと、外《そと》よりは、家《いえ》の内《うち》から、だんだん肌寒《はだざむ》くなりました。母親《ははおや》とさき子《こ》は、いつしか茶《ちゃ》の間《ま》を去《さ》って、夕飯《ゆうはん》の支度《したく》にかかり、令二《れいじ》だけが、まだ縁側《えんがわ》に残《のこ》っていました。 [#7字下げ]二[#「二」は中見出し] 「令《れい》ちゃん、お母《かあ》さんに心配《しんぱい》かけちゃ、だめよ、すこし感心《かんしん》なさるようにしてあげなくちゃ。」 「姉《ねえ》さんは僕《ぼく》の顔《かお》を見《み》ると、すぐいじめるのだな。僕《ぼく》にだって、すこしは認《みと》めてくれていい素質《そしつ》があるのだぜ。」 「このあいだ、東京駅《とうきょうえき》へ叔母《おば》さんを見送《みおく》りにいったとき、どうしたの? 聡《さとる》さんがあいさつなさるのに、帽子《ぼうし》も脱《と》らずに頭《あたま》を下《さ》げたって、お母《かあ》さんは、顔《かお》を赤《あか》くしたと、おっしゃってよ。」 「ちょっと、だれだかわからなかったのだ。」 「あまり、非常識《ひじょうしき》だわ。従兄《いとこ》の顔《かお》を忘《わす》れるなんて、まぬけだわ。」 「セパードみたいな顔《かお》つきをしているので、だれかと思《おも》ったのさ。」 「聡《さとる》さんは、来年《らいねん》から大学《だいがく》で、秀才《しゅうさい》という話《はなし》じゃないの。」 「学校《がっこう》へいって、あんまり機械的《きかいてき》に訓練《くんれん》されると、人間《にんげん》もセパードみたいな顔《かお》つきになるものかしらん。」 「そんなことばかりしか、考《かんが》えていないのでしょう。お母《かあ》さんは、どんな学校《がっこう》でもいいから、骨《ほね》のおれないところへ、おまえを入《い》れておけばよかったとおっしゃっていらしたわ。しかし、令《れい》ちゃんは、詩人《しじん》よ。詩人《しじん》は、書物《しょもつ》からでなく、自然《しぜん》から学《まな》ぶという話《はなし》よ」 「僕《ぼく》、今度《こんど》かいている絵《え》は、なかなかいいぜ。」 「そう。」 「原色《げんしょく》だけを使《つか》って描《か》いてみたが、純粋《じゅんすい》で、明《あか》るい、好《す》きな感《かん》じが出《だ》せた。」 「令《れい》ちゃんは、いったい、単純《たんじゅん》なものが好《す》きね。」 「ああ、なんでも単純《たんじゅん》に限《かぎ》る。単純《たんじゅん》で、素朴《そぼく》なものは、清《きよ》らかだ。ちょうど、文明人《ぶんめいじん》より、原始人《げんしじん》のほうが、誠実《せいじつ》で、感覚的《かんかくてき》で、能動的《のうどうてき》で、より人間《にんげん》らしいのと同《おな》じだ。近世《きんせい》になってから、人間《にんげん》は堕落《だらく》した。だんだんほんとうの美《び》というものがわからなくなった。そこへいくと、まだ自然界《しぜんかい》は、原始時代《げんしじだい》からのままだ。木《き》にしろ、草《くさ》にしろ、鳥《とり》にしろ、虫《むし》にしろ、本質《ほんしつ》を変《か》えていない。正直《しょうじき》で、明朗《めいろう》だ。あの澄《す》みきった子供《こども》の目《め》のようなものさ。」  二|階《かい》のガラス戸《ど》から、あさぎ色《いろ》の空《そら》が、遠《とお》い記憶《きおく》のようにのぞいていました。晩秋《ばんしゅう》の日《ひ》の光《ひかり》が、桜《さくら》のこずえに残《のこ》った、わずかばかりの葉《は》を透《すか》して、花《はな》よりもきれいに見《み》せています。  子供《こども》が、青竹《あおだけ》を切《き》って、造《つく》った管笛《くだぶえ》を吹《ふ》くように、ピイ、ピイ、鳥《とり》がなくので、広《ひろ》い、隣《となり》の庭先《にわさき》を見下《みお》ろすと、ひよどりが、青木《あおき》の枝《えだ》にきて赤《あか》い実《み》を争《あらそ》っているのでした。  さき子《こ》と、令二《れいじ》は、窓《まど》から、頭《あたま》を出《だ》してこれをながめていました。 「思《おも》いがけない、いいものを見《み》つけたといって喜《よろこ》んでいるのよ。」 「ほんとうかな。」 「この赤《あか》い実《み》を食《た》べてもいいのかといって、聞《き》いているんだわ。」 「そうかしらん。」 「お天気《てんき》がいいので、へぼ絵《え》かきが、こっちを見《み》て笑《わら》っているといっているのだわ。」 「ああ、そうだ、それと並《なら》んで、乾《ほ》しいわしのようなヒステリーの女《おんな》がといって……。」  令二《れいじ》は、姉《あね》の頭《あたま》の髪《かみ》をつかみました。 「お母《かあ》さん、きてくださあい。」という、さけび声《ごえ》がしたのであります。 [#7字下げ]三[#「三」は中見出し] 「ねえ、お母《かあ》さんは、令《れい》ちゃんをどうお思《おも》いなさるの。」 「なぜ、また、そんなことを聞《き》くのかい。」 「昨日《きのう》のことよ、どこかの人《ひと》が、たいへん精巧《せいこう》な空気銃《くうきじゅう》を提《さ》げて歩《ある》いていたのですって。そして、片手《かたて》にたくさん打《う》ったすずめもぶらさげて。そこへ令《れい》ちゃんが通《とお》りかかると、ちょうど、高《たか》い木《き》のこずえに、すずめが二、三|羽《ば》止《と》まってないているのを、その男《おとこ》の人《ひと》が見《み》つけて、すぐにねらったのですって。そのとき、令《れい》ちゃんはどうかして、あのすずめが助《たす》けられないものかと思《おも》ったから、暗《くら》くなって、盲目《めくら》の鳥《とり》を打《う》つのは、だれだってできるなと、そばの子供《こども》たちに向《む》かって、大《おお》きな声《こえ》で、いったそうです。すると、その男《おとこ》は、ねらいを中止《ちゅうし》して、そんなら君《きみ》打《う》てるかといって、令《れい》ちゃんをにらんだそうよ。」  母親《ははおや》は、この話《はなし》に、深《ふか》い興味《きょうみ》を覚《おぼ》えたらしく、笑《わら》って、 「それから、どうしたでしょう。」といいました。 「僕《ぼく》は殺生《せっしょう》はきらいだ。もし、おじさんが、ほんとうに名人《めいじん》なら、このおかめどんぐりを打《う》ってお見《み》せよ。そうしたら、僕《ぼく》は、敬服《けいふく》するがなあといって、令《れい》ちゃんは、一人《ひとり》の子供《こども》が手《て》に持《も》っているどんぐりを一つもらって、道《みち》の遠《とお》くへ置《お》いてきたのですって。」 「まあ、そうして……。」 「すると、その男《おとこ》の人《ひと》は、どんぐりをねらって、うまく当《あ》てたのですって、どんぐりが破《やぶ》れて弾丸《たま》が、石《いし》にあたって、火《ひ》が出《で》たそうよ。みんなが、びっくりして声《こえ》を上《あ》げているうちに、すずめは、どこかへいってしまって、令《れい》ちゃんの思《おも》うとおりになったというのよ。こんな話《はなし》をきくと、ただばからしいとだけは思《おも》えないわ。」  母親《ははおや》は、火鉢《ひばち》によりかかるようにして、娘《むすめ》の顔《かお》を見《み》ました。 「そういうふうに、おまえがあの子《こ》を半分《はんぶん》疑《うたが》ってみるのも道理《どうり》だけれど、ばかというものじゃない、ただ異《ちが》っているだけだ。あの子《こ》には、学問《がくもん》、学問《がくもん》といわぬほうがいいよ。どちらかといえば、私《わたし》は、学問《がくもん》より人情《にんじょう》のあるほうを取《と》りますからね。先《せん》だってであったか、令二《れいじ》が、お母《かあ》さんには、空《そら》へ突《つ》き出《で》ている木《き》の枝《えだ》が、金色《きんいろ》には見《み》えませんか。僕《ぼく》は、このごろの風景《ふうけい》が、みんな光《ひか》って見《み》えますがねというから、それは、おまえが、お母《かあ》さんの金歯《きんば》を売《う》ったお金《かね》で、絵《え》の具《ぐ》を買《か》ったからでしょうというと、お母《かあ》さんは、さすがに偉《えら》いな、よく僕《ぼく》の心《こころ》の底《そこ》の見《み》えないところまでわかっている。こんど描《か》いている絵《え》は、傑作《けっさく》と思《おも》いますから、もし評判《ひょうばん》にでもなって、いい値《ね》で売《う》れたときには、なんでもお母《かあ》さんのお好《す》きなものを買《か》ってあげますよというのです。私《わたし》はなにもほしいとは思《おも》わないが、ただおまえの絵《え》が、世《よ》の中《なか》に認《みと》められれば、それで満足《まんぞく》です、なによりもそれがうれしいといったのですよ。」と、母親《ははおや》は、笑《わら》いました。 「だって、お母《かあ》さんは、よく、私《わたし》みたいな不幸《ふこう》なものはない、芝居《しばい》なんか、もう何年《なんねん》見《み》たことがないと、おっしゃるじゃありませんか?」と、さき子《こ》はいいました。 「つい愚痴《ぐち》をいってしまって、後《あと》から、すまないと気《き》がつくのです。私《わたし》なんかは、どうでも、これから世《よ》の中《なか》へ出《で》かけなければならぬ、おまえたちのことを考《かんが》えると、そんな、もったいないことはいえないのですからね。」 「お母《かあ》さん、私《わたし》が、働《はたら》いてお金《かね》が取《と》れるようになったら、きっと、お母《かあ》さんのすきな、お芝居《しばい》を見《み》せてあげますわ。」 「ほんとうに、芝居《しばい》なんか、見《み》たくありません。おまえも、令二《れいじ》も、そうやさしくいってくれます。それだけで、私《わたし》は、もう、幸福《こうふく》なんです。」  母親《ははおや》は、娘《むすめ》がそれを見《み》て、心《こころ》でお母《かあ》さんの癖《くせ》がはじまったと思《おも》っているのも知《し》らずに、火《ひ》ばしの先《さき》で、火鉢《ひばち》の灰《はい》の上《うえ》に、点々《てんてん》をつけていました。  このとき、思《おも》い出《だ》したように、木枯《こが》らしが、叫《さけ》びを静《しず》かな空《そら》に上《あ》げました。それは、忘《わす》れていた令二《れいじ》を、二人《ふたり》の胸《むね》の中《なか》に、呼《よ》びもどしたのでした。 「令《れい》ちゃんは、おそいが、どうしたんでしょう。」と、さき子《こ》が、いいました。 「今日《きょう》は、たぶん描《か》き上《あ》げるだろうから、おそくなるかもしれないといっていました。」と、母親《ははおや》は、答《こた》えたが、鋭《するど》いあらしの音《おと》に、耳《みみ》を澄《す》ましていたようです。  そのうちに、くぐり門《もん》の戸《と》が開《ひら》くと、ぼろぐつを、玄関口《げんかんぐち》の敷石《しきいし》に突《つ》っかけるようにして、引《ひ》きずりながら、勝手《かって》の方《ほう》へまわった音《おと》がしました。 「あ、帰《かえ》ってきた。」  そういった、母《はは》の言葉《ことば》の調子《ちょうし》には、一|種《しゅ》の安堵《あんど》があらわれていました。さき子《こ》は、立《た》って、木枯《こが》らしの中《なか》を歩《ある》いてきた弟《おとうと》を出迎《でむか》えました。 「外《そと》は、寒《さむ》かったでしょう。」 「なんだか、ものすごい空《そら》になってきた。」 「令二《れいじ》、絵《え》は描《か》き上《あ》がりましたか。」と、母親《ははおや》が、ききました。 「やっと描《か》き上《あ》げました。」 「そう、見《み》せてくれない?」と、姉《あね》は、両手《りょうて》を差《さ》し出《だ》して、弟《おとうと》の手《て》から、二|枚《まい》重《かさ》ね合《あ》わせたカンバスを受《う》け取《と》ろうとした。 「いや、見《み》てはいけない!」  令二《れいじ》は、強《つよ》く拒否《きょひ》しました。 「私《わたし》たちにも、よくできているか、そうでないかくらいはわかりますよ。だれに見《み》せようと思《おも》って、一|所懸命《しょけんめい》描《か》いたの。見《み》せるための絵《え》なら、真心《まごころ》をもって、見《み》てわからぬはずはありません。おまえのことをいちばん真剣《しんけん》に考《かんが》えているのが、私《わたし》とさき子《こ》でないか。」と、母親《ははおや》がいいました。 「そうよ、お母《かあ》さんの金歯《きんば》まで売《う》って……。」と、姉《あね》がいいかけたのを、令二《れいじ》は、怖《おそ》ろしい顔《かお》をして、威嚇《いかく》しながら、 「だまっておいでよ。」と、押《お》さえつけて、母《はは》の方《ほう》に顔《かお》を向《む》けると、訴《うった》えるように、 「ねえ、お母《かあ》さん、僕《ぼく》は、とにかく、新《あたら》しい色《いろ》を発見《はっけん》したんです。それがどれほどの貴《とうと》い性質《せいしつ》のものか、いまは自分《じぶん》にもわからないし、あるいは、僕《ぼく》がこの色《いろ》を出《だ》すために生《う》まれてきたような気《き》もするので、すぐに、いいとか、わるいとかきめてしまうことが怖《おそ》ろしいんです。」 「|H先生《エイチせんせい》にも、見《み》せないつもり?」と、さき子《こ》がききました。 「三|月《がつ》までは、僕《ぼく》も見《み》ないから。」 「お母《かあ》さんは、おまえのいうことを、正直《しょうじき》に信《しん》じて、楽《たの》しみにして待《ま》っていますよ。」と、母親《ははおや》がいいました。 「毎夜《まいよ》、一人《ひとり》の女《おんな》を殺《ころ》した、暴虐《ぼうぎゃく》なペルシアの王《おう》さまに、おもしろい話《はなし》をしてきかせて、千|夜《や》一|夜《や》の間《あいだ》、地獄《じごく》から人命《じんめい》を救《すく》ったという、美《うつく》しい娘《むすめ》の芸術《げいじゅつ》で、将来《しょうらい》僕《ぼく》の絵《え》がありたいものだな。」  令二《れいじ》は、つぶやいて、なにか、深《ふか》く考《かんが》え込《こ》んでいました。 底本:「定本小川未明童話全集 11」講談社    1977(昭和52)年9月10日    1983(昭和58)年1月19日第5刷 底本の親本:「未明童話 お話の木」竹村書房    1938(昭和13)年4月 初出:「文芸」    1935(昭和10)年3月 ※表題は底本では、「金歯《きんば》」となっています。 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:酒井裕二 2016年10月28日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。