錢形平次捕物控 花見の果て 野村胡堂 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)乍《なが》ら |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)一|塊《くわい》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#9字下げ] /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)いろ/\ *濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」 ------------------------------------------------------- [#9字下げ]一[#「一」は中見出し]  菊屋傳右衞門の花見船は、兩國稻荷の下に着けて、同勢男女十幾人、ドカドカと廣小路の土を踏みましたが、 「まだ薄明るいぢやないか、橋の上から、もう一度向島を眺め乍《なが》ら、一杯やらう」  誰やらそんなことを云ふと、一日の行樂をまだ堪能《たんのう》し切れない貪婪《どんらん》な享樂追及者達は、 「そいつは一段と面白からう、酒が殘つて居るから、瓢箪《へうたん》に詰めて、もう一度橋の上に引返さう、人波に揉まれ乍ら、欄干《らんかん》の酒盛なんざ洒落《しや》れて居るぜ」  そんな事を言ひ乍ら、氣を揃へて橋の上に引返したのです。  暮れ殘る夕暮に、大川の水面《すゐめん》を薄紫に照して、向島のあたりは花の霞の裡に、さながら金砂子を撒《ま》いたやう。  橋の上は水の面も見えぬまでに、さんざめく船と船、これから夜櫻見物に漕ぎ出るのでせう。まことに『上見て通れ兩國の橋』と言つた、低俗な道歌も、今宵だけはピタリとした氣分です。 「成程こいつは洒落れてゐるぜ、サアサア店を擴げたり擴げたり」  欄干《らんかん》に銘々の盃を置いて、乙女たちが人波に揉まれ乍ら、その間を注いでまはります。  兩國橋の上には、いろ/\の物賣りが陣を布いて、橋の上から水肌まで、桃の皮を剥《む》いで垂らした時代です。交通整理も何もあつたものでなく、橋下の船の中の賑ひと呼應して、庶民歡樂の立體圖をそのまゝ、それはまことに、亂雜の中の秩序《ちつじよ》、無作法の中の美しさとも言ふべき見物でした。  菊屋傳右衞門は、横山町の大きな金貸しで、五十年輩の酒肥りのした老人ですが、それを圍んで、欄干に猪口《ちよこ》を据《す》ゑた一族郎黨は、番頭の孫作、手代の伴造、遠縁の清五郎、隣の小料理屋――柳屋の主人幸七、その女房で良い年増のお角、出入りの鳶頭《とびがしら》文次、それに若くて綺麗なところでは、娘のお吉、若旦那の許嫁のお延、下女のお市、御近所の娘お六、お舟のともがらを加へてざつと十五人。  暫らく薄れゆく夕明りを惜《をし》み乍ら、差しつ押へつ、欄干《らんかん》の饗宴は果てしもなく續くのでした。往來の人達は、少し苦々しく、この放縱極まる酒宴を眺めて行きますが、當人達は更に驚く樣子もなく、わざと突き當つたり、押しのめしたりする往來の人と、威勢の良い惡口を應酬《おうしう》し乍ら、盃の献酬は、お互の顏の見わかぬまで續きました。  やがて四方《あたり》が眞つ暗になつて、橋の上の人波もやゝ班《まだら》になると、菊屋の同勢もさすがに酒も興も盡きます。 「さて、そろ/\歸るとしようか」  主人の傳右衞門が聲を掛けた時でした。花見歸りらしい幾十人かの大きい團體が、揉みに揉んでドツと本所の方から橋の上へ襲つて來たのです。 「危ない/\」 「退いた/\」  除《よ》ける間もなく、菊屋の同勢を押し包むやうに揉んで、西兩國の方へ、どつと引いて行きます。 「何んといふことだ」 「隨分亂暴な人達ねエ」  女達が不平たら/\、衣紋《えもん》や髮飾りを直して居ると、主人の傳右衞門が、 「ウーム」  恐ろしいうめき[#「うめき」に傍点]聲と共に、ガクリと欄干《らんかん》の上に崩折《くずを》れたのです。 「旦那、どうしました」  それを抱き上げるやうに覗き込んだのは、番頭の孫作と隣家の主人――柳屋の幸七でした。 「灯《あかり》、灯だ、――旦那がどうかなすつたやうだ」  幸七が聲を絞《しぼ》りましたが、さて此處に灯を用意して居る筈もありません。  だが、遠縁の掛《かゝ》り人《うど》清五郎と、鳶頭《とびがしら》の文次は早くも橋番所に駈けて行きました。その間に柳屋の幸七は、 「旦那、どうしました。氣分でも惡いんですか、旦那」  後ろから抱き上げると、何やらぬらり[#「ぬらり」に傍点]と手に附くもの、僅かに殘る薄明りにその手を透《すか》して見ると、 「あツ、血」  驚いたのも無理はありません。兩掌《りやうて》から腕へかけて、生血でべつとり[#「べつとり」に傍点]。 「何? 血?」  と孫作。 「大變ツ、旦那を突いて逃げた奴があるんだ」  幸七は年甲斐もなくひどく取亂して居りましたが、思ひ直した樣子で、 「灯《あかり》、灯だ」  提灯を持つて行く人を呼びかけます。  だが、此時代の人はひどく掛り合ひを恐れたもので、事件が容易でないと見ると、一度集つた彌次馬も、バラバラと逃げ腰になつてしまひます。 「仕樣がないなア、怪我人があるんだ、灯を貸して下さい」  逃げて行く二三人を追ひ掛けた幸七は、五六間も追つ驅けて、漸《やうや》く提灯を一つ借りて來ると、慘憺《さんたん》たる現場がマザマザと照らし出されるのでした。 「あツ旦那」 「確《しつか》りして下さい、旦那」  番頭の孫作と、柳屋の幸七は、左右から抱き起しましたが、主人傳右衞門は、一|塊《くわい》のボロ屑《くづ》のやうに欄干に蹲《うづ》くまつて、最早息があらうとも覺えず、生命の最後の痙攣《けいれん》が、僅かにその四|肢《し》に殘るだけです。  傷は左の胸らしく、其處から噴出した血は下半身を染めて、橋板の上に流れて居りますが、此凄まじい光景を取卷くのは、菊屋の同勢だけで、其處にはそんな大それた事をしさうな顏もありません。 「退いた/\」  其處へ驅付けたのは、清五郎と文次を案内に、橋番所の役人と、此邊を繩張にして、花時の警戒に當つて居たガラツ八の八五郎、それに彌次馬の一隊でした。 [#9字下げ]二[#「二」は中見出し] 「ざつと斯《こ》んな事ですよ、親分」  その晩遲く、親分の錢形平次のところへ辿《たど》り着いた八五郎は、お靜の心盡しの暖かい晩飯を掻込み乍ら、兩國橋の上に起つた、怪奇な殺しを報告するのです。 「で、下手人《げしゆにん》はどうせ其邊にマゴマゴしちや居まいが、それでも彌次馬の中にうさん[#「うさん」に傍点]な奴でも居なかつたのか」  平次は變らず粉煙草をせゝり乍ら、乘り出し氣味です。 「怪しいと言へば、皆んな怪しいが、怪しくないと言へば、皆んな怪しくないので――」 「心細いなア、そんな事ぢや、何時まで經つても星は擧がらないぜ、――例へば、現場に何にか捨てて行つたものでもなかつたのか」 「匕首《あひくち》の鞘《さや》が一本、蝋塗《ろぬり》のありふれた品で、あんなのは何處にでもありますが、――それが六七間離れた橋板の上に棄ててありました」 「何方の方へ離れて居た?――」 「西兩國の方へ六七間ですよ、――尤《もつと》もあの人數ぢや人の爪先に掛つて動いたかも知れません」 「匕首の鞘は眞つ直ぐか、曲つて居るのか」 「かなり曲つて居ますよ、ちよいと不氣味なやつで」 「曲りの強い鞘《さや》なら、人に蹴られても、わざとやつたんでなきや、そんなに遠く轉がつて行くものぢやない」 「それにしちや、匕首《あひくち》のないのが變ぢやありませんか。曲者は鞘だけ捨てて、血染の刄物を持つて逃げたことになりますが」  ガラツ八もなか/\うまい事に氣が付きます。 「川へ放つたんだよ、欄干《らんかん》の下は大川が流れてゐるんだ。匕首一本位呑んだつて、ビクともするもんか」 「成程ね」 「ところで、殺された主人の隣には誰が居たんだ」 「左隣には菊屋の掛《かゝ》り人《うど》で、遠縁の清五郎、右隣には柳屋の幸七が居たさうです。清五郎の左は五人の若い娘達、幸七の右隣には、番頭の孫作や、鳶頭の文次、手代の伴造などが居たやうで」 「その中に下手人が居ると、先づ誰だと思ふ」 「兩隣に居る清五郎か幸七ですね」 「二人は眞つ先に疑ひがかゝるわけだ――」 「すると、下手人は離れて居た奴ですね」 「さう物事を手輕にきめてはいけない、――ところで、身體に血のついてゐるのは誰と誰だ」 「幸七と孫作は死體を抱き起してゐますから、此二人は一番ひどく、若い女共を除《のぞ》けば少しつづは皆んなが附いてゐましたよ」 「外に氣の付いたことはないのか」 「それつきりで」 「お前にしちや、それでも行屆いた方だ」 「お前にしちや――ですかい、親分」  八五郎は少しばかり斜《なゝ》めです。 「不足らしい顏をするな」 「へツ」 「念入りに調べる者なら、傷口の勾配《こうばい》――ことに匕首の刄は何方を向いて居るか、血が何處へどんな具合に附いて居るか――唯附いただけでなく、飛沫《ひぶ》いたのはないか、その日の花見で、どんな人に逢つてゐるか、誰か後を跟けなかつたか、始終見かけた顏はないか」 「――」 「まだあるよ、こいつは一番大事なことだが、兩國稻荷の下に舟をつけて、一度陸に上がつてから、暗くなるといふのに、兩國橋に引返して、橋の上から向島の遠見の花を見ようなどと醉興なことを言ひ出したのは誰か、――それを訊き度かつたんだ」 「へエ」  ガラツ八はまさに一言もありません。成程さう言はれるとその通りで、一應急所々々は突つ込んだつもりでも、平次の眼から見ると隙《すき》だらけです。 「まア宜い、其處まで行屆けば、お前も一本立の御用聞だ、――十手一梃の主《あるじ》さ、――ところで菊屋傳右衞門は商賣柄うんと諸方の怨《うらみ》は買つてゐるだらうな」  平次は話題を轉じました。 「評判のよくない親爺ですよ。誰の[#「誰の」はママ]金貸ならあんなに人に憎まれもしないでせうが、恐ろしく利息の高い金を貸して、血の出るやうな取立てをするくせに、妙に慈悲善根がつたことが好きで、町内の義理とか、氏神の祭禮などには、恐ろしく奮《はず》みやがるんで」 「フーム」 「氏神の玉垣を寄附する時も、親柱五本に菊屋傳右衞門の名を刻《きざ》ませ、檀那寺《だんなでら》の鯨幕《くぢらまく》にも自分の名が入つて居るし、時の鐘の月掛けも、四文で濟むところを、十二文と出すんださうで」 「妙な道樂だな」 「慾が深いくせに、人によく言はれ度いんですよ。乞食に米をやつて、町内中へふれ廻さしたり、金のあるに任せて、恐ろしく贅澤な眞似をする。――金貸しの癖に初鰹魚《はつがつを》を買つて、花見に屋根船を出すのは、江戸廣しと雖《いへど》も菊屋の傳右衞門ばかりだらう――て評判ですよ」 「廣しと雖も――と來たね、何處でお前はそんな學を仕入れた」 「これがあつしの地ですよ、へツへツ」 「良い氣なもんだ――その怨んでゐる者の中でも、うんと怨んでゐる者は誰だ」 「外面《そとづら》の良い人間は、家中の者から怨まれて居るに決つてゐますよ。伜は勘當されて潮來《いたこ》に居るし、許婚《いひなづけ》のお延は、下女のやうにコキ使はれて居るし、居候の清五郎は娘のお吉と娶合《めあは》せさうにして、給金のない奉公人見たいに働かせるし、娘のお吉は藝人と驅け落したのを引戻されて、二倍も年嵩《としかさ》の金持の親爺のところへ嫁にやられることになつて居るし」 「大變な親爺だな」 「まだありますよ、番頭の孫作は、うんと溜め込んだのを發《あば》き立てられて、三百兩から吐き出させられ、手代の伴造は十年越の給金を預つたきり返してくれさうもないのにシビレを切らしてゐますよ」 「成程、珍らしい因業《いんごふ》だ」 「それで自分だけ三度の膳に贅を盡して、何んとか樣へ寄附しては、でつかい札を建てさせるのばかり見得にして居るんだ。さぞ後生が良いでせうよ」  八五郎はひどくプリプリして居ります。菊屋傳右衞門の生活態度が、よく/\氣に入らなかつたのでせう。 [#9字下げ]三[#「三」は中見出し]  翌る日平次は、八五郎と一緒に横山町の菊屋を覗いて見ました。主人傳右衞門の遺骸を納めて、葬《とむら》ひの支度に大騷動ですが、家中の者の主人に對する反感のせゐか、何んとなく空々しいお祭り氣分のあるのを平次は見のがしませんでした。  番頭の孫作や、手代の伴造の追從顏をするのを宜い加減にあしらつて、平次は先づ主人傳右衞門の死骸を見せて貰ひました。尤《もつと》も調べたのは胸の傷口だけ、刄の先が上の方を向いて居るのを確かめると、それ以上は見ようともしません。 「これは何んでせう、親分」  ガラツ八の八五郎は、佛樣の前に飾つた机の上に、恭々《うや/\》しく供へた三方の上の、包み金に氣が付きました。 「小判のやうだね、いくら佛樣の大好物でも、お棺《くわん》の前に小判を飾るのは變だね」  錢形平次も此判じ物には驚いた樣子です。 「へエ、それは小判で五十兩ございます。變な供《そな》へ物ですが、それには少しばかりワケが御座います」  番頭の孫作は尤もらしい調子で口を容《い》れました。 「三途《さんづ》の川の渡し錢なら、六文と相場がきまつて居るぜ、五十兩ありや憚り乍ら閻魔《えんま》の廳が素通りだ」 「默つて居ろ、八」 「へエ」  平次は八五郎の不謹愼《ふきんしん》な舌の動きを留め乍ら續けました。 「そのワケといふのは何んだ」 「お隣りの柳屋の幸七さんが、昨夜《ゆうべ》といふ昨夜、不思議に無盡《むじん》が當つて五十兩の金が入つたさうで、此家の主人には古い借りがあつて、毎日氣にして居たが、死んだのを宜いことにして拂はないと思はれちや、佛樣に對しても濟まないからと、先刻わざ/\持つて來てお線香を上げ乍ら、佛樣に供へて行きました」 「そいつは固いことだね、――默つて居たら、知らずに濟んだかも知れないのに」  八五郎はまたさもしい[#「さもしい」に傍点]口を挾《はさ》みます。 「いえ、帳面がありますから、默つて居ても、帳消しになるわけぢやございません」  番頭はまた番頭らしいことを言ひます。 「ところで、菊屋の身上《しんしやう》はどうだ」  平次は問ひを變へました。 「大したもので御座います、――現金が三千兩、貸し金が一萬兩、地所家作は二三十ヶ所も御座いませうか」 「家督はどうなる」 「いづれ潮來《いたこ》から若旦那の傳四郎樣をお呼びすることになりませう」 「すると、主人が死んで一番喜ぶのは誰だ」 「――」  孫作は默つてしまひました。 「あれは誰だ」  中背の良い男――二十三とも見えるのが、何やら道具を持つて土藏から出て來ます。 「清五郎と申します。亡くなつた主人の遠縁の者で」 「此處へ呼んで貰はうか」 「へエ」  孫作が行つて何やら囁《さゝ》やくと、清五郎は一寸眉をひそめましたが、思ひ直した樣子で此方へやつて來ました。男つ振りの良いに似ず、ひどく不機嫌な顏をした男です。 「御苦勞樣で御座います、親分さん方」  挨拶だけは、思ひの外|丁寧《ていねい》でした。 「昨夜兩國の橋の上で一番酒を呑んだのは誰だえ」  平次の問は豫想を絶します。 「鳶頭《とびがしら》でございませう、幸七さんもよく呑んで居りました」 「呑まないのは」 「男共では私が下戸《げこ》で」 「その代り酌《しやく》でもしたのか」 「酌はお市がやりました、――幸七さんもすつかり浮かれて酌をして居たやうで」 「橋へ行つて、遠くから花見をしようなどと、醉狂《すゐきやう》ことを言ひ出したのは誰だえ」 「そいつはわかりませんが、――誰か言ひ出すと、一も二もなかつたやうです。皆んな飮み足りなかつたんですね」  清五郎の表情は漸《やうや》くほぐれ[#「ほぐれ」に傍点]ます。 「お前は主人を怨んでゐたといふが本當か」  平次は短兵急に突つ込みました。 「怨んでゐたわけぢや御座いませんが――」  清五郎の顏にあり/\と苦澁の色の表はれるのを、平次は見のがす筈もありません。  續いて手代の伴造にも逢つて見ましたが、これは三十四五の鼠のやうな男で、何を訊いてもヘラ/\と笑ふだけ、馬鹿なのか利巧なのか、一向平次に要領を得させません。 「主人を怨む者?――飛んでもない、家の中にそんな人間があるものですか、貸金の取立てこそやかましい人でしたが、慈悲善根といふと、人一倍はずんだ方で、奉公人達も皆んな心からお慕ひ申して居りました、へエ」  こんな事をヌケヌケ言へる男です。  娘のお吉は二十歳といふにしては初々《うひ/\》しくさして美しくはありませんが、さすがにたつた一人の父親を喪つた打撃に萎《しを》れ返つて、何を訊いてもはか/″\しい答へもありません。  勘當された若旦那の許嫁お延は一つ歳下の十九、これは可愛らしい娘でしたが、屈從《くつじう》の生活に馴れて、何んとなく明るさを失つて居ります。下女のお市は三十過ぎ、至つて平凡な――その代り申分のない働き者らしい女でした。 「昨夜《ゆうべ》、兩國の橋の上へ行かうと、最初に誘《さそ》つたのは誰だ」  女共を集めて置いて、平次の最初の問は斯うでした。それを聞くと、お延とお市は妙に顏を見合せて居りますが、容易に言はうとはしません。 「そいつは大事なことだぜ、橋の上へ誘《さそ》ひ出して主人を殺す氣だつたかも知れないからなア」  註《ちう》を入れたのは八五郎でした。 「默つて居ろ、八」  平次は驚いてその口を塞《ふさ》ぎさうにしましたが、八五郎はもう言ふだけの事を言つてしまひ、そして女共は田螺《たにし》のやうに口を閉ぢてしまつたのです。 [#9字下げ]四[#「四」は中見出し]  近所の娘、お舟とお六にも逢つて見ましたが、これは何んにも知らず、最後に丁度菊屋にやつて來た、隣の小料理屋で、此事件には一番よい觀察者の地位に居た筈の、柳屋幸七とその女房のお角を物蔭に呼んで見ました。  亭主の幸七は四十五六、小意氣な華奢《きやしや》な男ですが、何んとなく正直者らしい愛嬌者で、女房のお角は小料理屋の女將《おかみ》らしく、垢拔《あかぬ》けのした、三十七八の、年にしては少し色つぽい女です。 「錢形の親分さん、御苦勞樣でございます」  幸七は如才なく小腰を屈めました。 「五十兩の大金を佛樣の前に供《そな》へたんだつてね」 「へエ、お恥かしいことで。新店で資本を入れ過ぎて、菊屋さんから、二年越し融通《ゆうづう》して頂きました。他樣《よそさま》よりは利息も安く廻して下すつたのに、無盡で五十兩といふ金が入つたのを、默つては居られません」 「この無盡は?」 「町内の無盡で、昨夜の籤引《くじびき》で御座いました。意地の惡いもので、たつた一と晩の違ひで、菊屋の御主人に喜んで頂くことの出來なかつたのが殘念でございます。――え、あの騷ぎで、私は參り兼ねましたので、無盡の發會に女房が參りました。女は妙に籤強《くじづよ》いもので、へ、へ」  と言つた調子です。 「ところで、昨夜の兩國の騷ぎのことだが、お前には少しも下手人の心當りはないのか」 「一向氣が付きませんが――」 「向島で一日中後を跟けた者が無かつたのか。その時は氣が付かなくとも、後で思ひ合せて、幾度も/\土手で逢つた顏といふのはなかつたのか」  平次の質問はさすがに巧妙《かうめう》でした。 「さうですね、――さう言へば、一人、若い男が――頬冠《ほゝかむ》りをした、意氣な男が、幾度も土手《どて》で摺《す》れ違つたやうですが、――背の高い、三十前後の――、私共が船へ乘つて歸る時まで、報念深く[#「報念深く」はママ]土手から見送つて居たやうですが――」  幸七の記憶は次第に喚《よ》び覺されて行きます。 「その顏を見なかつたのか」 「何分頬冠りをして、顏を反《そむ》けるやうにして居りましたので――尤も、あの背の高さは並大抵ぢやございません、身體の恰好にも、見覺えがあるやうですが、どうも思ひ出せません」 「他に誰か、その男に氣の付いた者はないのかな、家の者は兎も角、――鳶頭《とびがしら》などはどうだらう」 「皆んな浮かれ切つて居りました、殊に鳶頭は虎になつて、往來の人をつかまへては盃を差して居た位ですから」  幸七は覺束《おぼつか》ない顏をするのです。 「有難う、そいつは大變役に立ちさうだ、ところで、昨夜西兩國へ船をつけてから、もう一度橋の上へ行かうと言ひ出したのは誰だ――お前が一番氣が付いたさうだが――」 「そいつは――」 「女共――ことに下女のお市は知つて居たさうだが、言はないよ」  八五郎は口を容れました。 「清五郎さん――いやあの人は呑んでゐない。鳶頭《とびがしら》だつたかも知れませんね、まだ呑み足りない顏をして居ましたから」 「そんな事で宜からう、――いや、足留めをさせて氣の毒だつたな、――八、鳶頭を搜して來てくれ」  平次は幸七夫婦に別れて、庭の方へ行きました。其處にはもう八五郎が、鳶頭の文次をつかまへて、話の口火を切つて居ります。  狹い庭で、せゝこましい植込の上へ、土藏の庇《ひさし》と物干臺が突き出し、嚴重な忍び返しを打つた黒板塀を隔《へだ》てて、近々と隣家――柳屋のお勝手の煙口、物干臺が見えて居ります。 「鳶頭に聽くと、菊屋の關係の者で、恐ろしく背の高いのは、潮來《いたこ》に居る勘當された若旦那の傳四郎ださうですよ」  八五郎は早くも先を潜つて居りました。 「その若旦那の姿を、昨日向島の土手で見掛けなかつたかい、頬冠りをして居たさうだが」 「見かけませんね、――あつし[#「あつし」に傍点]は若旦那とは仲良しでね、少しくらゐ醉つて居ても、若旦那を見落すやうなことはありませんよ。釣《つり》仲間の遊び友達――と言つちや失禮だが、何處へ行くんでも、お供はあつし[#「あつし」に傍点]でしたよ。若旦那が向島に居たものなら、三丁先から匂ひでもわかりますよ」  斯《こ》んな事を言ふ文次です。 「潮來《いたこ》から、江戸へ歸つて來た樣子はないのか」 「可哀想に一年越し潮來に島流しですが、預けられて居るのは乳母《うば》の家ですから、時々は御眼こぼしで、お延さんの顏を見に來るやうです、――親旦那がなくなれば今度は大ぴらに此家へ入つて來るでせうよ」 「すると、何だつて勘當になつたんだ」 「其處まではこちとらにはわかりませんが、――お延さんと滅法仲が良いくせに、道樂が過ぎたやうで――女道樂ぢやありません、繪も描く、雜俳《ざつぱい》もやる、ことに芝居|狂氣《きちがひ》が大變で、素人芝居をして何百兩と費ひ込んだり、ひいき[#「ひいき」に傍点]の役者に引幕を送つたり」 「そんな事か」  平次は少し呆氣《あつけ》に取られた樣子です。 「あんな結構な若旦那はありませんよ。女と酒が大嫌ひで勘當された若旦那は、神武天皇以來初めてだらうつて町内の噂ですよ」 「もう一つ訊き度いが、昨夜、兩國橋へ引つ返さうと言ひ出したのは、誰だえ」 「あつし[#「あつし」に傍点]だつたかもしれませんよ、――いや待つて下さいよ、誰か言ひ出したんで、あつし[#「あつし」に傍点]もついそんな氣になつて、眞つ先に橋へ引返したが――」 「その言ひ出したのは男か、女か」 「男ですよ――ハテ、誰だつたかな」  鳶頭の記憶も此邊はすつかり朧《おぼ》ろになります。  平次は後のことを八五郎に任せて、一應引揚げることにしました。それを追つかけるやうに、 「潮來へ人をやつて見ませんか、親分」  ガラツ八も其處までは氣が付きます。 「やつて見ようと思ふ――が、そいつは多分無駄だらうよ、俺の見當では、橋の上に殘つた奴が下手人に間違ひあるまいと思ふ」 「へエ?」 「向島の土手で、菊屋の同勢の跡をつけ廻した人間があるにしても、菊屋の同勢が船で兩國へ着いて、直ぐ引返すとは氣が付くまい」 「心得た者なら、先へ廻つて兩國の船着き場で待つて、橋へ一緒に引返す術《て》もありますよ」  八五郎はもう一つ智惠を絞りました。 「頬冠りの男は、船が出てからまで、向島土手で見送つて居たといふぜ、それから人混みの中を駈け出して、船より先に西兩國の船着場に來る工夫はないよ、嘘だと思ふなら、例《ため》しにやつて見るが宜い」 「成程ね」  斯う言はれると、頬冠りの男が下手人でないことは、あまりにも明かです。 [#9字下げ]五[#「五」は中見出し]  その晩、通夜の席へ、菊屋の伜傳四郎は歸つて來ました。 「親の言ひ付けには反《そむ》きますが、二、三日前から江戸へ來て居たので、變事を聽いて駈け付けました。皆樣、有難う御座います」  近所の衆や親類達へ、丁寧な挨拶です。  もと/\無理な勘當と知つてゐるので、それを非難するものなどがあるわけもなく、其場から傳四郎は指導者とも喪主《もしゆ》ともなつて、何くれと指圖をして居ります。  それを迎へて一番喜んだのは許嫁のお延で、掛《かゝ》り人《うど》の清五郎、傳四郎の妹のお吉も、不幸中にホツとした樣子です。  變死人のことですから、世間への聞えも如何といふので、半通夜で近所の衆は歸し、裏表の戸も締めさして、あとは近い親類だけが殘りました。それも夜中過ぎは眠る人が多く、お勝手に一人殘つてお茶番をして居た下女のお市も、夜半過ぎになるとすつかりくたびれて、他愛もなく、居眠つて居りました。  翌る朝、一番先にお勝手へ來たのは、いつものやうに、朝の支度を手傳ふお延でした。 「おや?」  土竈《へつゝひ》にもたれるやうに、下女のお市は變な恰好をして崩折れて居ります。それは決して唯の居眠りではなく、何となく不自然で無氣味な姿態になつて居るのです。  近づいて見ると、僅かに漏《も》れる朝の光の中乍ら、お市の顏色や表情の凄まじいことにすぐ氣が付きます。その上首に卷きつけたのは、蛇のやうな班《まだら》の紐――前掛の眞田紐《さなだひも》ではありませんか。 「あつ、お市さんが――誰か來て下さい」  お延は悲鳴をあげてしまひました。 「何んだ/\」  飛出して來たのは、通夜の人達――眞つ先に立つたのは、昨夜《ゆうべ》此家に泊つて、樣子を見張つて居た八五郎です。  騷ぎは一瞬にして煮えくり返りました。 「あつ、戸を開けるんぢやない、鍵が掛つてゐないか」  お勝手口を開けようとした清五郎は、八五郎に叱り飛ばされました。 「締つては居るが、輪鍵《わかぎ》が掛つて居ませんよ」 「待つてくれ、俺はちよいと戸締りと外廻りを見てくる、――後は番頭さん、頼むぜ、――第一番は醫者を呼ぶんだ」  お市の死體はもう冷たくなつて居て、呼び生ける術《すべ》もないと見極めると、八五郎は水下駄を突つかけて、裏口からグルリと表口へ廻りました。金貸の戸締りらしく裏も表も木戸も、輪鍵と閂《かんぬき》との二重締りで、鼠一匹入れさうもありません。  ふり仰ぐと土藏の壁だけを殘して、あとは嚴重な黒板塀をめぐらし、眞新しい忍び返しが、中空に無氣味な尖端《せんたん》を並べて菊屋の安全を保證して居ります。  八五郎は大急ぎでお勝手に取つて返しました。其處から奧へは一方口で、ツイ鼻の先には、お通夜の人も七八人居たのですから、店からも奧からも、その關所を通らずに此處へ入る道理はなく、曲者はお勝手から入つたのでなければ、お通夜の人の中に交《まじ》つて居るわけです。  間もなく、町内の本道(内科醫)が坊主頭を先に立てて來ましたが、冷たくなつた死體ではどうしやうもなく、醫者の歸つた後には家の者と泊り客が全部で十數人、お互に白い眼で見張り合ひ乍ら、無氣味な時が經つばかりでした。  それから半刻《はんとき》ばかり後、使ひの者と一緒に飛んで來た錢形平次の顏を見た時ばかりは、ガラツ八の八五郎、母親の顏を見た赤ん坊のやうにホツとしたことです。 「八、何んとしたことだ、お前が見張つて居て」 「へエ、面目次第もありません、――お勝手でワザをするとは氣が付かなかつたんで」  八五郎の腐《くさ》つた顏といふものは――。 [#9字下げ]六[#「六」は中見出し] 「でも、お前が、泊つてゐたお蔭で、後の調べは助かるだらう。どんな樣子だつたんだ、詳《くは》しく話せ」  平次にそれでも、八五郎の腐つてゐるのを引立てるやうに、斯う話しかけました。 「御通夜には何んの變りもありません。夜中過からはお市も顏を出さなかつたし、手洗に立つた人の外には、皆んな居眠りして居ましたよ。御近所の衆と、通夜の坊主は宵のうちに歸してしまつたし、氣の置ける人も居なかつたんでせう」 「小用に立つたのは、誰と誰だ」 「一度や二度づつは皆んな立ちました」 「それから」  八五郎はそれに應へてお延が死體を發見してから、内外の戸締りを見て廻つた事を話し、 「醫者が來て、殺されたのは丑刻《やつ》(二時)に丑刻半(三時)よりは遲くあるまいといふことです」 「首を締めて居た前掛は――」 「私ので御座いました」  ガラツ八に、ジロリと顏を見られると、清五郎は尻を引つ叩かれたやうにあわてて名乘つて出ました。 「親分さん、――清五郎に間違ひがある筈はありません、それは私が引受けますが――」  口を出したのは背の高い三十男で、何となく此家の空氣にそぐはぬ寛達《くわつたつ》な風格でした。 「お前は?」 「あ、申遲れました、私は此家の伜の傳四郎で御座います」 「さうか、お前は清五郎を庇《かば》ひ度いのか」 「庇ふわけぢや御座いませんが、――清五郎は良い男で御座います。私とは無二の仲で、それに、自分の前掛で人の首を締めるやうな馬鹿な下手人もないだらうと思ひますが」  傳四郎も少し出過ぎたのを後悔して居る樣子ですが、併《しか》し頭も人柄も――勘當息子らしくない良い男です。 「お前は一昨日向島へ行かなかつたのか」  平次は全く別のことを訊ねました。 「いえ、何處へも參りません」 「何處に居たんだ」 「橋場の友達の家に居りました――露友《ろいう》といふ俳諧《はいかい》をやる男の家で、一日|碁《ご》を打つたり、本を讀んだり、無駄話をしたり、そんな事で暮しましたが、二三人好きなのが集りましたから、お聞き下さればわかります」  これは結構過ぎるほど結構な不在證明《アリバイ》です。すると、向島で一日菊屋の同勢を見張つたといふ、頬冠りの男は一體誰でせう。 「お延さんに訊き度いが――」 「ハイ」  人の後ろに小さくなつて居たお延は引緊《ひきしま》つた可愛らしい顏を、朝の光の中に出しました。 「お市は昨夜何にか言はなかつたのか」 「いえ」 「一昨日、兩國橋に引返さうと誰が言ひ出したか――お市はそれを知つて居たと思ふ」  平次は愈々最後の問ひを投げかけたのです。 「え、幾度も私に何にか言ひ度さうにして居ましたが、――まア/\言はない方が無事だらう、明日の天道樣を拜んだら又氣が變るかも知れないが――と、到頭言はずにしまひました」 「フーム」  平次はひどく殘念さうです。 「親分、手掛りはそれですつかりなくなつたわけですね」  八五郎は、狹い庭に降り立つた平次の後を追つて來ました。 「いや、手掛りはうんとあるよ、――鳶頭《とびがしら》が來たやうだ、もう一つあの男に當つて見よう」 「何を當るんで? 親分」 「まア、默つて來るが宜い」  木戸を出ると、忙しさうに入つて來たのは鳶頭の文次です。 「お早う御座います、夜分」 「大層早いんだね、鳶頭、早速だが少し訊き度いことがあるが」 「へエ」 「菊屋の主人に女道樂はなかつたのか」  平次の問ひは相變らず八五郎の豫想を絶します。 「ありましたよ。あの年で、その病氣があるんで、隨分諸方の怨も買つたやうです」 「近いところでは?」 「大きい聲では言へませんが、お隣の柳屋の女將《おかみ》――あの通り色つぽい――化けさうな大年増でせう、尤もあんな具合に持ちかけて、元手を菊屋から融通《ゆうづう》さして居るんだとも言ひますがね、――そんな内證事《ないしよごと》まではわかりませんよ」 「よしつ、八」 「へエ」 「下手人はわかつたよ」 「誰です」 「あの忍び返しを越して來た奴だよ」 「へエ?」 「向うの物干しから、此方の物干しへ板を渡したのさ、達者な奴なら板でなく丸太でも渡れるだらう。物干臺から物干臺へ、精々一間半位なものだ。忍び返しの上を樂に越せるぢやないか、二間位の板か丸太があつたら」  平次と八五郎は隣の柳屋へ飛込みました。  其處には併《しか》し、朝の膳へ差し向ひになつて、寛々《くわん/\》と暖かい味噌汁を啜つて居る幸七夫婦の太平無事な姿があるだけ、二間以上の板も丸太も見付からなかつたのです。 「お早う御座います、親分さん方、何んか御用で」  幸七のケロリとした顏には、嘲笑《てうせう》と侮辱《ぶじよく》が一パイに漲《みなぎ》つて居るではありませんか。  平次は默つて裏口へ廻りました。 「八」 「二間以上のものはありませんね、親分」 「――」 「干物竹ぢや猫の子が渡る位のものです」  八五郎はまた無駄を言つて居ります。 「八、此|鋸屑《のこくず》はどうだ」  平次は新しい土に交つて、塀の下に掃き寄せられた夥《おびたゞ》しい鋸屑を見付けたのです。 「へエ」  八五郎の感の惡さ。 「二つ三つに引つ切つた板か丸太がある筈だ、搜して見ろ」 「それならありますよ。四寸角の材木が三本、皆んな四五尺のですよ。物干から物干へは屆きませんが」  八五郎は縁の下から、三本の材木を引張り出しました。 「それだ」 「切口が泥だらけですよ」 「匂ひを嗅いで見ろ、新しい木の匂ひがするだらう。泥も新しいぢやないか、その材木で物干臺から物干臺に渡つて菊屋に行き、歸つて來てすぐ鋸《のこ》で引切つたのだ。恐ろしく智惠の働く野郎だ」 「あゝ、逃げ出した樣子ですよ、親分」 「大きな聲で怒鳴れ。眞晝の横山町だ、逃げ了《をは》せるわけはない」 「御用ツ」  八五郎の蠻聲が、逃げて行く幸七とその女房のお角の後を追ひます。         ×      ×      ×  間もなく幸七夫婦は處刑され、傳四郎とお延は祝言をして菊屋を繼ぎました。清五郎とお吉が一緒になつたことも言ふまでもありません。  大分經つてから八五郎のせがむまゝに、平次は斯《か》う説明してやりました。 「幸七は惡い野郎だが、恐ろしく智惠の廻る奴さ。女房のお角とぐるになつて菊屋の主人から金を引出したが、段々それが嵩《かう》じて妙に嫉妬《やきもち》を燒くやうになり、大口の金をせしめて、菊屋を殺す氣になつたのだ。花見船で折を狙つたがうまく行かず、兩國橋へ引返してあんな事をした上、提灯を往來の人から借りると見せて鞘《さや》は五六間先の橋の上に捨て、匕首《あひくち》は川へ投り込んだのだらう。下手人は逃げうせたと見せるためだ。傳右衞門を介抱したのは、自分の腕に飛沫《ひぶ》いた血を胡麻化《ごまか》すため、――それに幸七は、死體を抱き上げた時、眞つ暗な中で――旦那を突いて逃げた奴がある――と言つたさうだ。突いたか斬つたか、そんな事まで見えるわけはないだらう――語るに落ちたのさ」 「へエ」 「傷口が上向で、胸へ眞つ直ぐに突き立つたのは、右側に居るものの仕業だ。左側に居ると傷口へ近いやうだが、匕首を逆手《さかて》に持たなければ力が入らず、逆手に持つと、刄が上へ向かない――だから最初左側が清五郎で、右側が幸七と聽いた時から、こいつは變だぞと思つたよ」 「――」 「それから、幸七が頬冠《ほゝかむ》りの男の話をしたのは、若旦那の傳四郎に疑ひをきせようとした細工だが、あれは大縮尻《おほしくじり》さ。若旦那は向島へ行つて居ないし、向島で船の出るのを見て、陸を飛んで來ては、兩國の西詰へ船より先には來られない。下手人はどうしてもあの日花見船に乘つた同勢の一人で、橋の上へ誘《さそ》つた者に違ひないと睨んだよ」 「成程ね」 「下女のお市を殺したのは口を塞《ふさ》ぐためだが、前の晩無盡で五十兩の金が入つたのを、その翌る朝持つて行つて佛樣に供へたのは、少し細工過ぎたよ、――いくら正直者でも、二三日間を置いて番頭へ持つて行くのが本當だ。それに通夜の晩の殺しは餘つ程の惡黨のすることで、あんな人間だからヌケヌケと佛樣まで騙《だま》す氣になつたのさ。忍び返しを越す工夫さへ見付かれば、あとはもう文句はない、――尤も鋸《のこ》で切る術《て》は考へなかつたよ、恐ろしい奴だ」  錢形平次も舌を捲いて居ります。そして最後に斯う續けるのでした。 「幸七は惡人だが、殺された傳右衞門も隨分イヤな人間さ、あんな人間とは附き合ひ度くないな。伜の傳四郎は良い男だよ、馬鹿な道樂を少し封《ふう》じさへすれば」 底本:「錢形平次捕物全集第十九卷 神隱し」同光社磯部書房    1953(昭和28)年11月5日発行 初出:「オール讀物」文藝春秋新社    1947(昭和22)年3月号 ※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:門田裕志 2016年3月4日作成 2017年3月4日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。