ねずみとバケツの話 小川未明 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)町裏《まちうら》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)一|軒《けん》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)ながし[#「ながし」に傍点] -------------------------------------------------------  町裏《まちうら》を小《ちい》さな川《かわ》が流《なが》れていました。川《かわ》というよりは、溝《みぞ》といったほうがあたっているかもしれません。家々《いえいえ》で流《なが》した水《みず》が集《あつ》まって、一筋《ひとすじ》の流《なが》れをなしているのでありました。  ねずみは、その流《なが》れの岸《きし》に穴《あな》を掘《ほ》って、もう長《なが》い間《あいだ》、そのところにすんでいました。ほかのねずみたちが、みんな家々《うちうち》の天《てん》じょう裏《うら》や、縁《えん》の下《した》などに巣《す》を造《つく》っているのに、このねずみばかりは、こうして、外《そと》のこんなむさくるしいところに、どうしてすんでいるのだろうという疑《うたが》いをもたれたのですが、それには子細《しさい》のあることでした。  この川《かわ》の淵《ふち》には、いたるところにごみためがあって、いろいろなものが捨《す》てられるからではありませんでした。ねずみの食《た》べられそうなものは、犬《いぬ》やからすが先《さき》にきて、たいていそれを食《た》べてしまうのでありましょう。  ねずみがここにすんだのは、この場所《ばしょ》が安全《あんぜん》だと思《おも》ったのにほかなりませんでした。  それは、ねずみがもっと小《ちい》さかった時分《じぶん》のことであります。彼《かれ》は、ほかの友《とも》だちといっしょに、やはり、町《まち》の一|軒《けん》の家《うち》にすんでいました。ある夜《よ》のことでありました。彼《かれ》は、みんなから離《はな》れて、ひとり台所《だいどころ》へ出《で》てきました。たなの上《うえ》には、大根《だいこん》や、芋《いも》などがざるの中《なか》にいれて、のせてありました。また、戸《と》だなの中《なか》には、煮《に》た魚《さかな》や、豆《まめ》などがはいっていました。すべてが、敏感《びんかん》なねずみの鼻《はな》でわかったのであります。 「人間《にんげん》は、りこうでずるいから、気《き》をつけなければならない。」と、日《ひ》ごろから聞《き》いていましたから、ねずみは注意《ちゅうい》を怠《おこた》りませんでした。  彼《かれ》は、音《おと》をたてないように、戸《と》だなをかじってみようかと思《おも》ったが、それよりは、まず無難《ぶなん》の、たなの上《うえ》にのっている芋《いも》を食《た》べようと思《おも》いました。  彼《かれ》は、そこへ上《あ》がって、芋《いも》を食《た》べました。小《ちい》さなねずみの腹《はら》は、じきにいっぱいになってしまいました。腹《はら》がいっぱいになると、もう彼《かれ》は、戸《と》だなの中《なか》のものを食《た》べたいなどという欲《よく》を起《お》こしませんでした。それよりか、ただ一口《ひとくち》水《みず》を飲《の》みたかったのです。  水《みず》を飲《の》んで自分《じぶん》たちの巣《す》へ帰《かえ》ろうと考《かんが》えながら、彼《かれ》は、ながし[#「ながし」に傍点]の中《なか》へ降《お》りてきました。そこには、バケツがありました。バケツの中《なか》には、多分《たぶん》水《みず》がはいっているだろう……彼《かれ》は、注意《ちゅうい》をして、バケツの縁《ふち》に上《あ》がって、中《なか》をのぞいてみました。  あたりは、暗《くら》かったけれど、バケツの中《なか》には、はたして、水《みず》がなみなみと七|分《ぶ》めのところまで満《み》たされているのを悟《さと》りました。ねずみは、どうかして、くびを伸《の》ばして、水《みず》を飲《の》みたいと思《おも》いました。それは、ほんのわずかばかりの距離《きょり》ではありましたけれど、この小《ちい》さな動物《どうぶつ》にとっては、容易《ようい》のことではなかったのです。  彼《かれ》は、できるだけ下《した》へくびを伸《の》ばしました。まさしく、それは冒険《ぼうけん》でありました。しかしいくら、しっかりとつかまっていても、バケツの縁《ふち》は円《まる》く、それに金属《きんぞく》でつめの立《た》ちようがなかったから、ねずみは、足《あし》をすべらすと同時《どうじ》に前《まえ》のめりになって、水《みず》の中《なか》へ落《お》ちてしまいました。ねずみは、水《みず》の中《なか》でもがきました。しかし、バケツの縁《ふち》には、どんなことをしても、手足《てあし》がとどきませんでした。  このとき、バケツはあざ笑《わら》ったのであります。 「おまえは、だれの許《ゆる》しを得《え》て水《みず》を飲《の》もうとしたのだ。小《ちい》さなくせに、生意気《なまいき》な。俺《おれ》の頭《あたま》の上《うえ》へ乗《の》ったりして、みんな罰《ばち》があたったのだ。こうなっては、逃《に》げようと思《おも》っても逃《に》げられるものでない。」と、バケツはいいました。  ねずみは苦《くる》しんでいました。そして、水《みず》をはね返《かえ》しながら、 「私《わたし》が悪《わる》かったのです。どうか助《たす》けてください。こんどからは、けっして、あなたの中《なか》にはいっている水《みず》を飲《の》もうとはいたしませんから……。」と、バケツに向《む》かって頼《たの》みました。  けれど、バケツは、冷淡《れいたん》に、からからと笑《わら》ってとりあいませんでした。  憐《あわ》れなねずみは、苦《くる》しまぎれに水《みず》を飲《の》みました。体《からだ》じゅうの毛《け》は、すっかりぬれてしまって、もはや、泳《およ》いでいるだけの力《ちから》がなく、まさにおぼれようとしていました。 「ここまで、泳《およ》いでおいで、私《わたし》が助《たす》けてあげるから。」と、ふいにいったものがあります。  ねずみは声《こえ》のするところまで、いっしょうけんめいに泳《およ》いでゆきました。ねずみにこういったのは、柄杓《ひしゃく》でありました。 「さあ、私《わたし》の体《からだ》につかまって上《あ》がんなさい。」と、柄杓《ひしゃく》はねずみに勇気《ゆうき》づけました。  ねずみは、しっかりと柄杓《ひしゃく》の柄《え》につかまって、かき上《あ》がりました。そして、やっと死地《しち》からのがれたのであります。 「ありがとうございます。」と、震《ふる》えながら、ねずみは柄杓《ひしゃく》に礼《れい》をいって逃《に》げてゆきました。  ねずみは、命《いのち》が助《たす》かると、もはや家《うち》の中《なか》が怖《こわ》くて、すんでいる気《き》には、どうしてもなれませんでした。彼《かれ》は、みんなから別《わか》れて、安全《あんぜん》な場所《ばしょ》を見《み》いだすために苦《くる》しみました。そして、いまのところに穴《あな》を掘《ほ》って、ここで暮《く》らしたのであります。  彼《かれ》は、いまは大《おお》きく、そして、考《かんが》え深《ぶか》いりこうなねずみになりました。無事《ぶじ》に日《ひ》を送《おく》っているうちに、ここに、はからずも、ねずみにとって困《こま》ったことが起《お》こりました。  雨《あめ》が幾日《いくにち》も降《ふ》りつづいて、流《なが》れがあふれたからであります。ねずみは穴《あな》の中《なか》へ水《みず》がはいるので、そこにじっとしているわけにはいきませんでした。しかたなく穴《あな》から出《で》て、もとすんでいた、ようすのわかっている家《うち》の縁《えん》の下《した》へゆこうと思《おも》って、夜《よる》になるのを待《ま》ってやってきました。  ねずみは腹《はら》がすいていましたので、さっそく、台所《だいどころ》へきました。そして、ながし[#「ながし」に傍点]口《ぐち》から、雨戸《あまど》の外《そと》へ出《で》ますと、魚《さかな》の骨《ほね》や、いろいろのうまそうなもののにおいが、すぐ近《ちか》くでしました。彼《かれ》は、頭《あたま》をめぐらして探《さが》しますと、そばの古《ふる》いバケツの中《なか》からするのでした。  ねずみは、すぐに飛《と》び上《あ》がりました。そして、バケツの中《なか》へ飛《と》び込《こ》みました。いまは、大《おお》きく強《つよ》くなって、そんなことをするのは、ねずみにとってなんでもなかったのであります。彼《かれ》は、そこにあった、うまそうなものから食《た》べました。そして、もっと、なにか下《した》の方《ほう》にはいっていないかと思《おも》ったので、ガタ、ガタと、バケツを鳴《な》らしながら、食《た》べるものを探《さが》しました。 「痛《いた》い、痛《いた》い、ねずみさん。どうか静《しず》かにしてください。私《わたし》は、体《からだ》を動《うご》かすたびに、痛《いた》んでたまらないのですから。」と、バケツは、悲《かな》しそうな声《こえ》を出《だ》して訴《うった》えました。  ねずみは、その言葉《ことば》をきくと、哀《あわ》れになりました。 「どうしたのですか? こればかし動《うご》いて、そんなに痛《いた》いというのは……。」と、ねずみはたずねました。 「ねずみさん、私《わたし》は、このながしに長《なが》い間《あいだ》役《やく》をつとめていました。そのうちに体《からだ》のところどころがさびて、傷《きず》がついて、もう水《みず》をいれる力《ちから》がなくなりかけた時分《じぶん》に、セメンでその傷口《きずぐち》をうずめられました。その後《のち》も、かなりしばらくの間《あいだ》は、私《わたし》は、役《やく》をつとめたのであります。いよいよだめになると、こんどは、ここに出《だ》されてごみのいれ物《もの》となりましたが、もう体《からだ》じゅうが傷《いた》んでしまい、すこし動《うご》くと、セメンを詰《つ》めたところが欠《か》けて、痛《いた》んで痛《いた》んでたまらないのでございます。」と、バケツは答《こた》えました。  ねずみはその話《はなし》をきいて、このバケツは、自分《じぶん》の子供《こども》の時分《じぶん》に、水《みず》を飲《の》もうとして落《お》ちたときに、まだぴかぴか光《ひか》っていばっていて、無情《むじょう》であったのだということを思《おも》い出《だ》しました。しかし、このねずみはりこうなねずみでありましたから、いま、こんなふうになってしまったバケツに対《たい》して、なにもいいませんでした。ただ心《こころ》の中《なか》で、その末路《まつろ》を憐《あわ》れんでいたのであります。 「それはお気《き》の毒《どく》のことです。私《わたし》は、すぐにここから出《で》ますから。」といって、ねずみはバケツの外《そと》へ飛《と》び出《だ》して、 「ときにバケツさん、昔《むかし》、あなたといっしょであった柄杓《ひしゃく》さんは、どうしましたか。」とききました。 「あの柄杓《ひしゃく》ですか。あれは、私《わたし》よりも、もっと早《はや》く、あまり体《からだ》を使《つか》いすぎたために、頭《あたま》がとれて役《やく》にたたなくなってしまいました。人間《にんげん》は、そうなると、まことに冷酷《れいこく》なものです。その朝《あさ》、柄杓《ひしゃく》をどこかへ捨《す》ててしまいました。しかし、ひとごとでありません。私《わたし》がそうなるのも近《ちか》いうちです。」と、バケツは、まったく前《まえ》の元気《げんき》はなく、悲《かな》しそうにいいました。  ねずみは、自分《じぶん》にしんせつであった柄杓《ひしゃく》の最後《さいご》をきいて、胸《むね》がいっぱいになって、ものをいうことすらできませんでした。  そのとき、なんともいえぬ甘《うま》そうなにおいが、どこからかしてきました。ねずみは急《きゅう》に鼻《はな》をひくひくさせました。 「あのうまそうなにおいは、どこからするのだろう。」と、あちこち見《み》まわしはじめたのです。 「ねずみさん、油断《ゆだん》をしてはいけません。昨日《きのう》の昼間《ひるま》、人間《にんげん》がねずみとり薬《ぐすり》を食《た》べ物《もの》の中《なか》へいれて、その辺《へん》にまいたようですから……。」と、バケツはいいました。 「ありがとう……。そんなこととは知《し》らないものですから、食《た》べたらたいへんでした。」と、ねずみはいって、お礼《れい》を申《もう》しました。たとえ、りこうなねずみにせよ、それを悟《さと》るはずがないからでした。 「ねずみさん、そればかりではありません。毎夜《まいよ》、いま時分《じぶん》……ねこがやってきますから気《き》をおつけなさい。」と、バケツは教《おし》えてくれました。ねずみは、この家《うち》の付近《ふきん》にすむことの危険《きけん》をつくづくと感《かん》じました。そして、やはり、自分《じぶん》は、あの溝《みぞ》の淵《ふち》に帰《かえ》るほうがいいと思《おも》いました。ちょうど、雨《あめ》は晴《は》れて、空《そら》には、月《つき》が出《で》ていました。 「バケツさん、どうぞご機嫌《きげん》ようお暮《く》らしなさい。」と、ねずみは別《わか》れを告《つ》げて、ふたたびさびしい町裏《まちうら》の方《ほう》を指《さ》して出《で》かけました。彼《かれ》は、道《みち》すがら、昔《むかし》の敵《てき》であったバケツが、いま年《とし》をとってやさしくなったのを寂《さび》しく感《かん》じました。 底本:「定本小川未明童話全集 4」講談社    1977(昭和52)年2月10日第1刷    1977(昭和52)年C第2刷 初出:「赤い鳥」    1925(大正14)年7月 ※表題は底本では、「ねずみとバケツの話《はなし》」となっています。 ※初出時の表題は「鼠とバケツの話」です。 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:へくしん 2020年7月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。