雑木林の中 田中貢太郎 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)芝《しば》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)明治十七八年|比《ごろ》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)姝 -------------------------------------------------------  明治十七八年|比《ごろ》のことであった。改進党の壮士|藤原登《ふじわらのぼる》は芝《しば》の愛宕下《あたごした》の下宿から早稲田の奥に住んでいる党の領袖《りょうしゅう》の処へ金の無心《むしん》に往っていた。まだその比の早稲田は、雑木林《ぞうきばやし》があり、草原《くさはら》があり、竹藪《たけやぶ》があり、水田があり、畑地《はたち》があって、人煙《じんえん》の蕭条《しょうじょう》とした郊外であった。  それは夏の午後のことで、その日は南風気《みなみけ》の風の無い日であった。白く燃える陽《ひ》の下に、草の葉も稲の葉も茗荷《みょうが》の葉も皆|葉端《はさき》を捲《ま》いて、みょうに四辺《あたり》がしんとなって見える中で、きりぎりすのみが生《しょう》のある者のようにあっちこっちで鳴いていた。登は稲田《いなだ》と雑木林の間にある小さな路《みち》を歩いていたが、処どころ路が濡《ぬ》れていて禿《ちび》た駒下駄《こまげた》に泥があがって歩けないので、林の中に歩く処はないかと思って眼をやった。そこには雑草に交《まじ》って野茨《のいばら》の花が白く咲いていたが、その雑草の中に斜《ななめ》に左の方へ往っている小さな草路《くさみち》があった。登はその草路の方へ歩いて往った。  鍔《つば》の広い麦藁帽《むぎわらぼう》は雑木の葉端《はさき》に当って落ちそうになる処があった。登はそれを落さないようにと帽子の縁《ふち》に右の手をかけていた。彼はその時先輩に対して金の無心を云いだす機会を考えていた。彼は何人《たれ》か二三人来客があっていてくれるなら好いがと思った。それはもう途中で二度も三度も考えたことであったが。  ……(今日は何しに来たのだ)  と云うのを待って、 (すみませんが……)  と、云うように頭を掻《か》いてみせると、 (また金か、この間、くれてやったのが、もう無くなったのか、幾等《いくら》いるのだ)  と、豪放な口のきき方をするのを待っていて、 (すみませんが、五円ぐらい……)  とやると、 (しょうの無い奴だ)  と、云って傍の手文庫《てぶんこ》の中から出してくれるが、何人《たれ》も傍にいない時には一銭も出さない。……  彼は今日あたりは幹事の島田あたりがきっと来ているだろう、内閣|割込《わりこ》み運動のような秘密な会合だとその席へは通れないが、普通の打ち合せで、それから晩餐《ばんさん》でもいっしょにやると云うようなことであったら、通さないこともないだろう。そうなると金が貰えたうえに、酒にもありつけると思った。彼は好い気もちになって来た。  眼の前に壮《わか》い小供小供した女の顔が浮かんで来た。彼の心はその方に引かれて往った。 (小桜《こざくら》)  あれはたしかに小桜と云ったなと思った。それはその前夜|吉原《よしわら》の小格子《こごうし》で知った女の名であった。 (今晩もずっと出かけて往こう)  登はふと足のくたびれを感じた。彼は愛宕下から休まずにてくてく歩いて来たことを考えだした。額《ひたい》には湯のような汗があった。彼は右の手を腰にやった。白い浴衣《ゆかた》の兵児帯《へこおび》には手拭《てぬぐい》を挟《はさ》んであった。彼は手さぐりにその手拭を執《と》り、左の手で帽子を脱いで汗を拭《ぬぐ》った。  一軒の茶店《ちゃみせ》のような家が眼の前にあった。そこは路《みち》の幅も広くなっていた。一|間《けん》くらいの入口には納涼台《すずみだい》でも置いたような黒い汚い縁側《えんがわ》があって、十七八の小柄な女が裁縫《さいほう》をしていた。それは小供小供した一度も二度も見たようなどこかに見覚《みおぼえ》のある姝《きれい》な顔であった。視線があうと女の口許《くちもと》に微笑が浮んだ。  登の足は自然と止まってしまった。彼はこの女はどこかで見たことがある、どこで見た女だろうと考えてみたが思いだせなかった。彼はまた女に眼をやった。と、女と視線がまたあった。女の口許には初めのような微笑が浮かんだ。彼はそのまま入口の方へ往った。 「すみませんが、すこし休ませてくれませんか、愛宕下から歩いて来たものだから、暑くってしかたがないのです」 「どうぞ」  女はちょっと俯向《うつむ》くようにした。登は縁側に腰をかけて帽子を置き、外の方を見ながら無意識に額から首のまわりに手拭をやった。 「このあたりに、茶店はないでしょうか」 「近比《ちかごろ》まで、私の家で茶店をやってましたが、お父さんとお母さんが、本郷のお邸《やしき》へお手伝いにあがるようになりましたから、止《や》めっちまいました」 「そうですか」 「渋茶でよろしければ、さしあげましょうか」 「それはすみませんね、一ぱい戴《いただ》きましょうか」 「おあげしましょう、なんなら上へおあがりになって、お休みになったら如何《いかが》でございます、奥の室《へや》が涼《すず》しゅうございますよ」  登は女の云うなりに奥の室《へや》へ往きたいとは思ったが、気まりが悪いのですぐにはあがれなかった。 「そうですか、こちらは木があるのですから涼しいでしょう」 「涼しゅうございますよ、おあがりなさいまし、芝からいらしたなら、お暑かったでしょう」 「今日はばかに暑かったのですよ、僕はこの前《さき》の、山木さんの処へ往くもんですがね」 「あ、お邸でございますか」 「そうです、党のことで時どきやって来るのですがね、この路《みち》をとおるのははじめてですよ」 「そうでございましょう、ここはちょと入ってますから、それでもお邸へいらっしゃる書生さんが、よくおとおりになりますよ、店をやってます時は、お酒を飲んで往く書生さんがありましたよ」  登はふとこの家は茶店を止《や》めてても、酒ぐらいは置いてあって、知己《しりあい》の書生などには酒を飲ましているらしいなと思った。彼はすぐ己《じぶん》の懐《ふところ》のことを考えてみた。懐にはまだ前夜の使い残りがすこしあった。 「そうですか、じゃすこし休まして戴《いただ》きましょうか」 「さあ、どうぞ」  女が起《た》ちあがった。登は手拭《てぬぐい》で足をはたきながらあがったが、帽子のことを思いだしたので蹲《しゃが》んで持った。 「汚いのですけれど」  女は歩いて往って見附《みつけ》の障子《しょうじ》を開けた。左側に小さな小縁《こえん》が見えてそこに六畳ぐらいの室《へや》があった。右側は台所になって、その口の処に一枚の障子があった。 「ここですよ」 「すみませんね」  登は女の後《あと》から往ってその縁側へ出、障子を開け放してある室へ往った。庭の前《さき》は青あおとした木の枝が重《かさな》っていて、それに夕陽が明るく射《さ》していた。 「今お茶を持ってあがります」  女は小縁を伝って引返して往った。登は庭の方を向いて坐りながら、その女と前夜知った女の顔がいっしょになったように思った。 (そうだ、昨夜《ゆうべ》の女に似ている、だから、見たように思ったんだ)  女が茶碗を盆に乗せて持って来ていた。 「そんなにかしこまらないで、横におなりなさいましよ、何人《だれ》も来る人はありませんから」  女は物なれたものごしでそう云い云い茶碗の盆を登の前へ置いて坐った。 「すみませんね」  登はわざと女を見ないように茶碗を執《と》って、麦湯《むぎゆ》のような微濁《うすにご》りのした冷たい物を口にした。 「横におなりなさいましよ、私一人ですから遠慮する者はありませんよ」  登はかしこまって坐っているのが苦しかった。 「そうですか、じゃ、失敬します」  彼は胡座《あぐら》をかいて女の顔を見た。 「ほんとに横におなりなさいましよ、好いじゃありませんか」  登はふと酒のことを思いだした。 「もう、店をお止《や》めになったから、お酒なんか無いでしょうね」 「ええ、普通のお酒は無いのですけど、本郷のお邸《やしき》から戴《いただ》いた、西洋のお酒がありますが、なんならさしあげましょうか」 「いや、それは、それはなんですから、日本酒があるなら戴いても好いのですが、なに好いのですよ」 「御遠慮なさらなくても、家の者は、何人《だれ》も戴きませんから、よろしければ、さしあげましょう、すこししかありませんけど」 「そうですか、すこし戴きましょうか、ごめんどうじゃありませんか」 「そんなことはありませんよ、では、さしあげましょう」  女は起《た》って出て往った。登は出て往く女の紫色の単衣《ひとえもの》の絡《からま》った白い素足《すあし》に眼をやりながら、前夜の女の足の感じをそれといっしょにしていた。彼はうっとりとなって考え込んでいた。 「こんな酒ですよ、召しあがれますか、どうだか」  登は夢から覚めたような気もちで眼をやった。女が小さなコップに半分ぐらい入れた微赤《うすあか》い液体を盆に乗せて持って来ていた。女は膝《ひざ》を流して坐っていた。 「や、これはすみません」 「なんだか辛《から》いお酒だって云うのですよ」 「そうですか、戴《いただ》きましょう」  登は茶の盆をすこし左の方に押しやってから、コップの乗った盆を引き寄せ、それを持ってすこし舌の端《さき》に乗せてみた。それは麝香《じゃこう》のような香《におい》のある強烈な酒であった。 「なるほど、きつい酒ですな、しかし、旨いのですな」  登はこう云って一口飲んだ。彼の眼には黒い女の眼が見えていた。やがて登は、月の光のような微暗《うすぐら》い燈《ひ》の点《つ》いた室《へや》で女と寝そべって話している己《じぶん》に気が注《つ》いた。彼の手には女の手が絡《からま》っていた。彼はまた酒のことを思いだした。 「もうさっきの酒はないのですね」 「お酒、すこしならあるのですよ、まだおあがりになって」  女の白い顔が覗《のぞ》くようにした。 「すこし酒が醒《さめ》たようだ、あるならもうすこし飲みたいのですな」 「持って来ましょうか」 「持って来てください」  女は登の手にやっていた己《じぶん》の手を除《の》けて静かに起きながら、コップの盆を持って出て往った。登はそれを見送りながらじっとしていたが、女と離れているのが物たりなくなって来たので、起きるともなしに起きて、縁側に出て台所の方へ歩いて往った。  そこには障子《しょうじ》の開《あ》いた台所の口があって、内から蒼白《あおじろ》い燈《ひ》が射《さ》して物の気配がしていた。登は女がそこで何かしていると思ったので覗《のぞ》いてみた。台所の流槽《ながし》の傍に女がむこう斜《ななめ》に立って、高くあげた右の手に黒い長い物をだらりとさげていた。登はなんだろうと思って注意した。それは黒い鱗《うろこ》のぎらぎらとしている大きな蛇で、頭を切り放したらしいその端《はし》の切口から赤い血が滴《したた》って、それが流槽の上に置いたコップの中へ溜《たま》っていた。登は頭が赫《かっ》となった。登は足にまかせて逃げだした。  夢中になって逃げていた登は、運好く山木邸の前へ往きかかったので、その晩はそこの書生部屋に一泊さして貰い、翌日怪異の跡をたしかめるつもりで、山木邸にいた四五人の食客《しょっきゃく》といっしょにその場所を捜して歩いた。  そのうちにちょとした雑木林《ぞうきばやし》の中で己《じぶん》の冠《き》ていた麦藁帽子が見つかったので、そのあたりの草の中を捜していると、畳一枚ぐらいの処に草のよれよれになった処があって、そこに埴輪《はにわ》とも玩具《おもちゃ》の人形とも判らない七寸ぐらいの古い古い土の人形があって、その傍に一|疋《ぴき》の小さな黒蛇が死んでいた。 底本:「日本怪談大全 第一巻 女怪の館」国書刊行会    1995(平成7)年7月10日初版第1刷発行 底本の親本:「日本怪談全集 第二巻」改造社    1934(昭和9)年 入力:川山隆 校正:門田裕志 2012年5月2日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。