水郷異聞 田中貢太郎 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)浴衣《ゆかた》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)八時|比《ごろ》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)Ⅰ ------------------------------------------------------- [#6字下げ][#中見出し]Ⅰ[#中見出し終わり]  山根省三は洋服を宿の浴衣《ゆかた》に着更《きが》えて投げだすように疲れた体を横に寝かし、隻手《かたて》で肱枕《ひじまくら》をしながら煙草を飲みだした。その朝東京の自宅を出てから十二時過ぎに到着してみると、講演の主催者や土地の有志が停車場に待っていてこの旅館に案内するので、ひと休みしたうえで、二時から開催した公会堂の半数以上は若い男女からなった聴講者に向って、三時間近く、近代思想に関する講演をやった壮《わか》い思想家は、その夜の八時|比《ごろ》にも十一時比にも東京行の汽車があったが、一泊して雑誌へ書くことになっている思想をまとめようと思って、せめて旅館まででも送ろうと云う主催者を無理から謝絶《ことわ》り、町の中を流れた泥溝《どぶ》の蘆《あし》の青葉に夕陽の顫《ふる》えているのを見ながら帰って来たところであった。  それは静《しずか》な黄昏《ゆうぐれ》であった。ゆっくりゆっくりと吹かす煙草の煙が白い円い輪をこしらえて、それが窓の障子《しょうじ》の方へ上斜《うえななめ》に繋《つな》がって浮いて往った。その障子には黄色な陽光がからまって生物のようにちらちらと動いていた。省三はその日公会堂で話した恋愛に関する議論を思い浮べてそれを吟味していた。彼が雑誌へ書こうとするのは某博士の書いた『恋愛過重の弊』と云う論文に対する反駁《はんばく》であった。 「御飯を持ってまいりました」  婢《じょちゅう》の声がするので省三は眼をやった。二十歳《はたち》ぐらいの受持ちの婢が膳《ぜん》を持って来ていた。 「飯《めし》か、たべよう」  省三は眼の前にある煙草盆へ煙草の吸い殻を差してから起きあがったが、脇の下に敷いていた布団《ふとん》に気が注《つ》いてそれを持って膳の前へ往った。 「御酒は如何《いかが》でございます」  婢は廊下まで持って来てあった黒い飯鉢《めしばち》と鉄瓶《てつびん》を執《と》って来たところであった。 「私は酒を飲まない方でね」  省三はこう云ってから白い赤味を帯びた顔で笑ってみせた。 「それでは、すぐ」  婢は飯をついでだした。省三はそれを受け執って喫《く》いながら、こんな世間的なことはつまらんことだが、こんなばあいに酒の一合でも飲めると脹《ふくら》みのある食事ができるだろうと思い思い箸を動かした。 「今日は長いこと御演説をなされたそうで、お疲れでございましょう」  その婢の声と違った暗い親しみのある声が聞えた。省三はびっくりして箸を控えた。そこには婢の顔があるばかりで他に何人《だれ》もいなかった。 「今|何人《だれ》か何か云った」  婢《じょちゅう》は不思議そうに省三の顔を見詰《みつ》めた。 「何んとも、何人《だれ》も云わないようですが」 「そうかね、空耳だったろうか」  省三はまた箸を動かしだしたが彼はもうおち着いたゆとりのある澄《す》んだ心ではいられなかった。急に憂鬱《ゆううつ》になった彼の目の前には、頭髪《かみ》の毛の数多《たくさん》ある頭を心持ち左へかしげる癖のある壮《わか》い女の顔がちらとしたように思われた。 「おかわりをつけましょうか」  省三は暗い顔をあげた。婢がお盆を眼の前へ出していた。彼は茶碗を出そうとして気が注《つ》いた。 「何杯目だろう」 「今度おつけしたら、三杯でございます」 「では、もう一杯やろうか」  省三は茶碗を出して飯《めし》をついで貰いながらまた箸を動かしはじめたが、膳《ぜん》の左隅の黒い椀《わん》がそのままになっているのに気が注いて蓋《ふた》を除《と》ってみた。それは鯉《こい》こくであった。彼はその椀を執《と》って脂肪の浮いたその汁に口をつけた。それは旨いとろりとする味であった。……省三は乾いた咽喉《のど》をそれで潤《うるお》していると、眼の前に青あおとした蘆《あし》の葉が一めんに見えて来た。そして、その蘆の葉の間に一条《ひとすじ》の水が見えて、前後して往く二三|隻《せき》の小舟が白い帆を一ぱいに張って音もなく往きかけた。舵《かじ》が少し狂うと舟は蘆の中へずれて往って青い葉が船縁《ふなべり》にざらざらと音をたてた。微曇《うすぐもり》のした空から漏《も》れている初夏の朝陽《あさひ》の光が微紅《うすあか》く帆を染めていた。舟は前へ前へと往った。右を見ても左を見ても青い蘆《あし》の葉に鈍い鉛色の水が続き、そのまた水に青い蘆の葉が続いて見える。 (先生、これからお宅へお伺《うかが》いしてもよろしゅうございましょうか)  壮《わか》い女は持前の癖を出して首をかしげるようにして云った。 (好いですとも、遊びにいらっしゃい、月、水、金の三日は、学校へ往きますが、それでも二時|比《ごろ》からなら、たいてい家にいます。学生は土曜日に面会することにしてありますが、あなたは好いんです) (では、これから、ちょいちょいおじゃまをいたします) (好いですとも、お出《い》でなさい、詩の話でもしましょう、実に好いじゃありませんか、この景色は) (ほんとうにね、何人《だれ》かの詩を読むようでございますのね、蘆と水とが見る限りこんなに続いてて) 「鯉《こい》こくがおよろしければ、おかわりは如何《いかが》でございます」  省三は婢《じょちゅう》の声を聞いて鯉の椀《わん》を下に置いた。鯉の肉も味噌汁ももう大方《おおかた》になっていた。 「もうたくさん、非常に旨かったから、つい一度に喫《た》べてしまったが、もうたくさん」  省三は急いで茶碗を持って飯《めし》を捲《か》き込むようにしたが、厭《いや》なことを考え込んでいたために婢が変に思ったではないかと思ってきまりが悪かった。そして、つまらない過去のことは考えまいと思って飯がなくなるとすぐ茶を命じた。 「もう一つ如何でございます」 「もうたくさん」 「では、お茶を」  婢《じょちゅう》は茶器に手を触れた。 [#6字下げ][#中見出し]Ⅱ[#中見出し終わり]  けたたましい汽笛の音が静《しずか》な空気を顫《ふる》わして聞えて来た。それはその湖の縁《へり》から縁を航海する巡航船の汽笛であった。省三は婢が膳《ぜん》をさげて往く時に新らしくしてくれた茶を啜《すす》っていたが、彼の耳にはもうその音は聞えなかった。彼は十年前の自己《おのれ》の暗い影を耐えられない自責の思いで見詰《みつ》めていた。  それは己《じぶん》が私立大学を卒業して、新進の評論家として傍《かたわ》ら詩作をやって世間から認められだした比《ころ》の姿であった。その時も彼はやはり今日のようにこの土地の文学青年から招待せられて講演に来たが、いっしょに来た二人の仲間はその晩の汽車で帰って往ったにもかかわらず、彼一人はかねて憧憬《どうけい》していたこの水郷の趣《おもむき》を見るつもりで一人残っていた。  それは初夏のもの悩ましい壮《わか》い男の心を漂渺《ひょうびょう》の界に誘《いざの》うて往く夜であった。その時は水際《みずぎわ》に近い旅館へわざわざ泊っていた。その旅館の裏門口ではやはり今晩のように巡航船の汽笛の音が煩《うるさ》く聞えた。  その夜は蒼《あお》い月が出ていた。彼は旅館の下手《しもて》から水際に出て歩いた。そこは湖と町の運河がいっしょになった処で、彼の立っている処は石垣になっているが、前岸《むこうぎし》はもとのままの湖の縁で飛《とび》とびに生えた白楊《はこやなぎ》が黒く立っていて、その白楊の下の暗い処からそこここに燈の光が見えている。彼は一眼《ひとめ》見てそれは夕方に見えていた四つ手網を仕掛けている小屋の燈だと思った。  湖の水は灰色に光っていた。省三は飯《めし》の時にみょうな好奇心から小さなコップに二三ばい飲んでみた葡萄《ぶどう》酒の酔《よい》が頬《ほお》に残っていた。それがためにいったいに憂鬱《ゆううつ》な彼の心も軽くなっていた。  湖の縁《へり》はそこから左に開《ひら》けて人家がなくなり、傾斜のある畑が丘の方へ続いていた。黒いその丘は遥《はるか》の前に崩《くず》れて湖の中へ出っぱって見えた。その路縁《みちぶち》にも、そこここに白楊《はこやなぎ》が立ち、水の中へかけて蘆《あし》の嫩葉《わかば》が湖風に幽《かす》かな音を立てていた。白楊の影になった月の光の射《さ》さない処に一つ二つ小さな光が見えた。それは蛍《ほたる》であった。彼はその蛍を見ながら足を止めてステッキの端《さき》を蘆の葉に軽く触れてみた。  軽いゴム裏のような草履《ぞうり》の音が耳についた。彼は見るともなく後《うしろ》の方に眼をやった。そこには壮《わか》い女が立っていた。女は別に怖れたような顔もせずにこっちを見ながら歩いて来た。 (失礼ですが、山根先生ではございませんか)  女は頭をさげた。 (そうです、私は山根ですが、あなたは) (私は何時《いつ》も先生のお書きになるものを拝見している者でございますが、今日はちょうど、先生のお泊りになっていらっしゃる宿へ泊りまして、宿の者から先生のことを伺《うかが》いましたものですから) (そうですか、それじゃ何かの御縁がありますね、あなたは、何方《どちら》ですか、お宅は)  こう云いながら彼は女の顔から体の恰好《かっこう》に注意した。すこし受け唇《くち》になった整った顔で、細かな髪の毛の多い頭を心持ち左にかしげていた。 (東京の方に父と二人でおりますが、この前《さき》の△△△に伯母《おば》がおりますので、十日ほど前、そこへ参りまして、今日帰りに夕方船でここへまいりましたが、夜遅く東京へ帰ってもめんどうですから、朝ゆっくり汽車に乗ろうと思いまして) (そうですか、私も今日二人の仲間といっしょにやって来ましたが、昼間は講演なんかで、このあたりを見ることができなかったものですから、見たいと思って朝にしたところです) (それじゃ、また面白い詩がお出来になりますね) (だめです、僕の詩はまねごとなのですから) (先生の詩は新らしくって、私は先生の詩ばかり読んでおりますわ) (それはありがたいですね、じゃ、あなたも詩をお作りでしょうね) (ただ拝見するだけでございますわ)  そう云って女は笑った。 (詩はお作りにならなくっても、歌はおやりでしょう、水郷は好いのですね、何か水郷の歌がお出来でしょう) (それこそほんのまねごとをいたしますが、とても、私なんかだめでございますわ)  湖畔の逍遥から伴《つ》れだって帰って来た二人は彼の室《へや》で遅くまで話した。女は伯母《おば》の家で作ったと云う短歌を書いたノートを出して見せたり、短歌の心得《こころえ》と云うようなありふれた問いを発したりした。 (明日、私は、船を雇《やと》うて、××まで往って、そこから汽車に乗ろうと思うのですが、あなたはどうです、いっしょにしませんか)  話の中に彼がこんなことを云うと女は喜んだ。 (私も、今日舟をあがる時に、そう思いました、小舟で蘆《あし》の中を通って見たら、どんなに好いか判らないと思いました、どうかお邪魔でなければ、ごいっしょにお願いいたします) (じゃ、いっしょにしましょう、蘆の中はおもしろいでしょう)  彼は翌日宵の計画どおり女といっしょに小舟に乗って、湖縁を××へまで往ってそこから汽車に乗って東京へ帰った。女は日本橋|檜物町《ひものちょう》の素人屋《しろうとや》の二階を借りて棲《す》んでいる金貸《かねかし》をしている者の女《むすめ》で、神田の実業学校へ通うていた。女はそれ以来金曜日とか土曜日とかのちょっとした時間を利用して遊びに来はじめた。  彼はその時|赤城下《あかぎした》へ家を借りて婆やを置いて我儘《わがまま》な生活をしていた。そして、放縦《ほうじゅう》な仲間の者から誘われると下町あたりの、入口の暗い二階の明るい怪しい家に往って時どき家をあけることも珍らしくなかった。  ある時その時も大川《おおかわ》に近い怪しい家に一泊して、苦しいそうして浮《うき》うきした心で家へ帰って来て、横に寝そべって新聞を読んでいると女の声が玄関でした。婆やは用足しに出かけたばかりで取次ぎする者がないので己《じぶん》で出て往かなければならないが、その声は聞き慣れたあの女の声であるから体を動かさずに、 (おあがんなさい、婆やがいないのです、遠慮はいらないからおあがんなさい)  と、云って首をあげて待っていると女が静《しずか》に入って来た。 (昨夜《ゆうべ》、お朋友《ともだち》の家で碁《ご》がはじまって、朝まで打ち続けてやっと帰ったところです、文学者なんて云う奴は、皆|痴者《ばかもの》の揃いですからね、……そこに蒲団《ふとん》がある、執《と》って敷いてください)  女はくつろぎのある姝《きれい》な顔をしていた。 (ありがとうございます、……先生にお枕《まくら》を執《と》りましょうか)  彼は昨夜《ゆうべ》の女に対した感情を彼女にも感じた。 (そうですね、執って貰おうか、後《うしろ》の壁厨《おしいれ》にあるから執ってください)  女は起《た》って往って後《うしろ》の壁厨を開け、白い切れをかけた天鵞絨《びろうど》の枕を持って来て彼の枕頭《まくらもと》に蹲《しゃが》んだ。彼はその刹那《せつな》、焔《ほのお》のように輝いている女の眼を見た。彼はその日の昼|比《ごろ》、帰って往く女を坂の下の電車の停留場まで見送って往った。そして、翌々日の午後来ると云った女の詞《ことば》を信用して、その日は学校に往ったが平常《いつも》の習慣で学校の食堂で喫《く》うことになっている昼飯《ひるめし》をよして急いで帰って来た。  しかし、女は夜になっても来なかった。何か都合があって来られないようになったのなら、手紙でもよこすだろうと思って手紙の来るのを待っていたが、朝の郵便物が来ても手紙は来なかった。彼は手紙の来ないのはすぐ今日にでも来るつもりだから、それでよこさないだろうと思いだして散歩にも出ずに朝から待っていたが、その日もとうとう来もしなければ手紙もよこさなかった。  彼はそれでも手紙の来ないのはすぐ来られる機会が女の前に見えているからであろうと思って、その翌日も待ってみたがその日もとうとう来なければ手紙もよこさなかった。彼は待ち疲《くたび》れて女の往っている学校の傍を二時|比《ごろ》から三時比にかけて暑い陽《ひ》の中を歩いてみたが、その学校から数多《たくさん》の女が出て来てもあの女の姿は見えなかった。  彼はまた檜物町の女の棲《す》んでいると云う家の前をあちらこちらしてみたが、それでも女の姿を見ることができなかった。しかし、隣《となり》へ往って女の容子《ようす》を聞く勇気はなかった。  そのうちに一箇月あまりの日がたってから、もう諦《あきら》めていたあの女の手紙が築地《つきぢ》の病院から来た。それは怖ろしい手紙であった。女はあの翌日から急に発熱して激烈な関節炎を起して、左の膝《ひざ》が曲ってしまったために入院して治療をしたが、熱はとれたけれども関節の曲りは依然として癒《なお》らないから、一両日のうちに退院して故郷の前橋へ帰ったうえで、どこかの温泉へ往って気長く養生《ようじょう》することになっている、明日《あす》は午後は父も来ないからちょっと逢《あ》いに来てくれまいかと云う意味を鉛筆で走り書きしたものであった。  彼は鉄鎚《てっつい》で頭を一つがんとなぐられたような気もちでその手紙を握っていた。彼は一時のいたずら心から処女の一生を犠牲にしたと云う慚愧《ざんき》と悔恨に閉ざされていた。心の弱い彼はとうとう女の処へ往けなかった。  女からはすぐまたどうしても一度お眼にかかりたいから、都合をつけて来てくれと云う嘆願の手紙が来たがそれでも彼は往けなかった。往けずに彼は悶《もだ》え苦しんでいると、女から明日《あす》の晩の汽車でいよいよ出発することになったから、父親がいても好いからきっと来てくれと云って来た。そして、汽車の時間まで書いて病院まで来てくれることができないなら、せめて停車場へなり来てくれと書き添えてあった。  心の弱い彼はその望みも達してやることができなかった。そして、二三日して汽車の中で書いたらしい葉書が来た。それは(先生さようなら、永久にお暇乞《いとまご》いをいたします)と書いてあった。  それから二日ばかりしての新聞に、前橋行の汽車の進行中、乗客の女が轢死《れきし》したと云う記事があった。…… 「先生、先生」  黙然と考え込んでいた省三はふと顔をあげた。微暗《うすぐら》くなった室《へや》の中に色の白い女が坐っていて、それが左の足をにじらして這《は》うように動いた。と、青い光がきらりと光って電燈がぱっと点《つ》いた。  室には何人《だれ》もいなかった。省三はほっとしたように電燈を見なおした。  廊下に跫音《あしおと》がして初めの婢《じょちゅう》が入って来た。婢は手に桃色の小さな封筒を持っていた。 「お手紙がまいりました」  省三は桃色の封筒を見て好奇心を動かした。 「どこから来たのだろう、持って来たのかね」 「俥屋《くるまや》が持ってまいりました」  省三は手紙を受けとりながら、 「俥屋は待ってるかね」  と、云って裏を返して差出人の名を見たが名はなかった。 「お渡ししたら好いと云って、帰ってしまいました」 「そうかね、何人《だれ》だろう、今日の委員か有志だろうが」  それにしては桃色の封筒が不思議であると思いながら開封した。罫《けい》のあるレターペーパーに、万年筆で書いた女文字の手紙であった。省三はちらと見たばかりで婢の顔を見て、 「よし、ありがとう」 「お判りになりましたか」 「ああ」 「では、また御用がありましたら、お呼びくださいまし」 「ありがとう」  婢《じょちゅう》が出て往くと省三は手紙の文字に眼をやった。それはその日公会堂に来て彼の講演を聞いた地位《みぶん》のあるらしい女からであった。彼はその手紙を持ったなりに女の地位《みぶん》を想像しはじめた。彼の心はすっかり明るくなっていた。 [#6字下げ][#中見出し]Ⅲ[#中見出し終わり]  省三は好奇心から八時十分前になると宿を出て、運河が湖水に入っている土手の上へ出かけて往った。そこには桃色の封筒の手紙をよこした女がいることになっていた。  宵に二時間ばかり闇をこしらえて出た赤い月があった。それは風のない春のような夜であった。二人|伴《づれ》の労働者のような酔っぱらいをやり過して、歩こうとして右側を見ると赤いにじんだような行燈《あんどん》が眼に注《つ》いた。それは昔|泊《とま》ったことのある旅館であった。しかし、彼はその行燈に対して何の感情も持たなかった。  彼は甘い霞《かすみ》に包まれているような気もちになっていた。路《みち》の右側にある小料理屋から三絃《しゃみせん》が鳴って、その音といっしょに女の声もまじって二三人の怒鳴《どな》るような歌が聞えていたが、彼の耳には余程遠くの方で唄っている歌のようにしか思えなかった。  微白《ほのじろ》いぼうとした湖の水が見えて、右側に並んでいた人家がなくなった。もう運河が湖水へ入った土手が来たなと思った。そこには木材を積んだりセメントの樽《たる》のような大樽を置いたりしてあるのが見える。彼は二三年前の事業熱の盛んであった名残《なごり》であろうと思った。  月に雲が懸《かか》ったのかあたりが灰色にぼかされて見えた。省三は東になった左手の湖の中に出っぱった丘のうえを見た。微黄《うすきい》ろな雲が月の面を通っていた。 「先生、山根先生ではございますまいか」  女が眼の前に立っていた。面長《おもなが》い白い顔の背の高い女であった。 「そうです、私が山根ですが」 「どうもすみません、私はさっき手紙をさしあげて、ごむりを願った者でございます」 「あなたですか」 「はい、どうも御迷惑をかけてあいすみませんが、今日、先生の御講演を伺《うかが》いまして、どうしても先生にじきじきお眼にかかりたくてかかりたくて、しかたがないものですから、先生のお宿を聞きあわして、お手紙をさしあげました、まことにあいすみませんが、ちょっとの間でよろしゅうございます、私の宅までお出ましを願いとうございます」 「どちらですか」  女はちょっと後《うしろ》をふり返って丘の端《はし》へ指をさした。 「あの丘の端を廻った処でございますが、舟で往けば十分もかかりません」 「舟がありますか」 「ええ、ボートを持って来ております」 「あなたがお一人ですか」 「ええ、そうです、お転婆《てんば》でございましょう」  女は艶《つや》やかに笑った。 「そうですね」  省三はちょっと考えた。 「婢《じょちゅう》と爺《じい》やよりほかに、何人《たれ》も遠慮する者はおりませんから」 「そうですね、すぐ帰れるならまいりましょう」 「すぐお送りします」 「ではまいりましょう」 「それでは、どうかこちらへ」  女が前《さき》になってアンペラの俵《たわら》を積んである傍を通って土手へ出た。そこには古い船板のようなものを斜《ななめ》に水の上に垂らしかけた桟橋があって、それが水といっしょになったところに小さな鼠《ねずみ》色に見えるボートが浮いていた。 「あれでございますよ、滑稽《こっけい》でしょう」 「面白いですな」  省三は桟《さん》を打って滑らないようにしたその船板の上を駒下駄《こまげた》で踏んでボートの方へおりて往った。船板はゆらゆらとしなえて動いた。ボートは赤いしごきのようなもので繋《つな》いであった。 「そのままずっとお乗りになって、艫《とも》へお懸《か》けくださいまし」  省三はボートに深い経験はないが、それでも女に漕《こ》がして見ていられないと思った。 「あなたが前《さき》へお乗りなさい、私が漕ぎましょう」 「いいえ、このボートは、他の方では駄目《だめ》ですから、私が漕ぎます、どうかお乗りくださいまし」  省三は女の云うとおりにして駒下駄《こまげた》を脱いで、それを右の手に持ちやっとこさと乗ったが、乗りながら舟が揺れるだろうと思って、用心して体の平均をとったが、舟は案外動かなかった。  続いて女が胴《どう》の間《ま》に乗り移った。その拍子に女の体にしみた香水の香《かおり》が省三の魂をこそぐるように匂うた。省三は艫《とも》へ腰をおろしたところであった。  女の左右の手に持った二本の櫂《かい》がちらちらと動いて、ボートは鉛色の水の上を滑りだした。月の光の工合《ぐあい》であろうか舟の周囲《まわり》は強い電燈を点《つ》けたように明るくなって、女の縦模様のついた錦紗《きんしゃ》のような華美《はで》な羽織《はおり》がうすい紫の焔《ほのお》となって見えた。 「私がかわりましょうか、女の方よりも、すこし力があるのですよ」  省三は眩《まぶ》しいような女の白い顔を見て云った。女はそれを艶《つや》やかな笑顔で受けた。 「いえ、私はこのボートで、毎日お転婆《てんば》してますから、楊枝《ようじ》を使うほどにも思いませんわ」 「そうですか、では、見ておりましょうか」 「四辺《あたり》の景色を御覧くださいましよ、湖の上は何時《いつ》見ても好いものでございますよ」  女は左の方へちょっと眼をやった。省三も女の顔をやった方へ眼をやろうとしてすぐ傍の水の上に眼を落してから驚いた。その周囲《まわり》の水の上は真黒な魚の頭で埋まって見えた。それは公園や社寺の池に麩《ふ》を投げたときに集まってくる鯉《こい》の趣《おもむき》に似ているが、その多さは比べものにならなかった。魚は仲間同士で抱きあったり縺《もつ》れあったりするように、水をびちゃびちゃと云わして体を搦《から》ましあった。 「鯉でしょうか」  省三は眼を睜《みは》った。 「そんなに騒ぐものじゃありませんよ、静《しずか》になさいよ、お客さんがびっくりなさるじゃありませんか」  女は魚の方を見てたしなめるように云った。省三の耳にはその女の詞《ことば》が切れぎれに聞えた。省三は女の顔を見た。 「このボートで往ってると、湖の魚が皆集まってくるのでございますよ、でも、あまり多く集まって来るのも煩《うるさ》いではございませんか」 「鯉でしょうね、私はこんな鯉を、はじめて見ましたね、この湖では鯉をとらないでしょうか」 「とりますわ、この湖で鯉を捕《と》って生活している漁夫《りょうし》は数多《たくさん》ありますわ」 「そうですか、そんなに鯉を捕ってるのに、こんなに集まって来るのは、鯉がたいへんいるのですね」 「先生をお迎えするために集まったのでしょうが、もう、帰りましたよ」  省三は水の上を見た。今までいた鯉はもういなくなって鉛色の水がとろりとなっていた。 「もう、いなくなったでしょ、ね、それ」  省三はあっけにとられて水の上を見ていた。と、一尾の二尺ぐらいある魚が浮きあがって来て、それが白い腹をかえして死んだように水の上に横になった。 「死んだんでしょうか、あの鯉《こい》は」 「あれは、先生に肉を饗応《ごちそう》した鯉でございますわ」 「え」 「いいえ、先生は、今晩宿で鯉こくを召しあがったのでございましょう、このあたりは、鯉が多いものですから、宿屋では、朝も晩も鯉づくめでございますわ」  女はこう云って惚《ほ》れ惚《ぼ》れする声を出して笑った。 [#6字下げ][#中見出し]Ⅳ[#中見出し終わり]  省三は眼が覚めたように四辺《あたり》を見まわした。青みがかった燈の燭《とも》った室《へや》で己《じぶん》は黒檀《こくたん》の卓《テーブル》を前にして坐り、その左側に女が匂《におい》のあるような笑顔をしていた。 「私は、どうしてここへ来たのでしょう」  省三はボートの中で鯉の群と死んだような鯉の浮いて来たことを見ている記憶はあるが、舟からあがったことも、路《みち》の上を歩いたことも、その家の中へ入って来たことも、どう云うものかすこしも判らなかった。 「私といっしょにずんずんお歩きになりましたよ、よく夜なんか、知らないところへまいりますと、狐《きつね》につままれたようにぼうとなるものでございますわ、ほんとうに失礼いたしました、こんな河獺《かわうそ》の住居《すまい》のような処へお出《い》でを願いまして」 「どういたしまして、静《しずか》な、理想的なお住居《すまい》じゃございませんか」  省三はその家の位置が判ったような気になっていた。 「これから寒くなりますと、締《しめ》っきりにしなくてはなりませんが、まだ今は見晴しがよろしゅうございますわ」  女は起《た》って往って省三から正面になった障子《しょうじ》を開けた。障子の外は小さな廊下になってそれに欄干《らんかん》がついていたが、その欄干の前《さき》には月にぼかされた湖の水が漂渺《ひょうびょう》としていた。 「すぐ水の傍ですね、実に理想的だ、歌をおやりでしょうね」  省三は延びあがるように水の上を見ながら云った。女は障子へ寄っかかるようにして立っていた。 「まねごとをいたしますが、とてもだめでございますわ」 「そんなことはないでしょう、こう云う処にいらっしゃるから」 「いくら好い処におりましても、頭の中に歌を持っておりません者は、だめでございますわ」  女はこう云って笑い声をたてたが、そのまま体の向きをかえて元の蒲団《ふとん》の上へ戻って来た。 「そんなことはないでしょう、私もこんな処に一箇月もおると、何か纏《まと》まりそうな気がしますね」 「一箇月でも二箇月でも、お気に召したら、一箇年もいらしてくださいまし、こんなお婆さんのお対手《あいて》じゃお困りでございましょうが」  女はこう云って卓《テーブル》の上に乗っている黒い罎《びん》を執《と》って、それを傍のコップに注《つ》いで省三の前に出して、 「お茶のかわりに赤酒《ぶどうしゅ》をさしあげます、お嫌いじゃございますまいか」 「すこし、戴《いただ》きましょう、あまり飲めませんけれど」 「婢《じょちゅう》を呼びますと、何か、もすこしおあいそもできましょうが、めんどうでございますから、どうか召しあがってくださいまし、私も戴きます」  女も別のコップへその葡萄《ぶどう》酒を注《つ》いで一口飲んだ。 「では、戴きます」  省三は俯向《うつむ》いてコップを執《と》った。 「私は先生が雑誌にお書きになるものを平生《いつも》拝見しております、それで一度、どうかしてお眼にかかりたいと思っておりましたところ、今日、先生の御講演があると家へ出入《でいり》の者から伺《うかが》いまして、どんなに今日の講演をお待ちしましたか、そして、その思いがやっとかなってみると、人間の慾《よく》と云うものはどこまで深いものでございましょう、遠くからお話を伺ったばかしでは、気がすまなくなりまして、こんな御無理をお願いしました、こんなお婆さんに見込まれて、さぞ御迷惑でございましょう」  女はまた笑った。省三も笑うより他にしかたがなかった。 「私は判りませんけれども、今日先生がなさいました、恋愛に関するお話は、非常に面白うございました。あのお話の中の女歌人のお話は、非常な力を私達に与えてくださいました。もっともこんなお婆さんには、あの方のような気の利《き》いた愛人なんかはありませんが、あのお話で、つまらない世間的な道徳などは、何の力もなくなったような気がしますわ」 「あなたのように、心から、私のつまらない講演を聞いてくだされた方があると思うと、私も非常に嬉しいです、しかし、私がほんとうの講演ができるのは、まだ十年さきですよ、まだ、何も頭にありませんから」 「そんなことがあるものでございますか、今日の聴衆という聴衆は、先生のお話に感動して、涙ぐましい眼をして聞いておりましたわ」 「だめです、まだこれから本を読まなくては、もっとも、これからと云っても、もう年が往ってますから」 「失礼ですが、お幾歳《いくつ》でいらっしゃいます」 「幾歳に見えます」 「さあ、そうですね」女は黒い眼でじっと正面《まとも》に省三の顔を見つめたが、「三十二三でいらっしゃいますか」 「そいつはおごらなくちゃなりませんね、六ですよ」 「三十六、そんなには、どうしても見えませんわ」 「あなたはお幾歳です」 「私、幾歳に見えます」 「さあ、三ですか、四にはまだなりますまいね」 「なりますよ、四ですよ、やっぱり先生のお眼はちがっておりませんわ」 「お子さんはおありですか」 「小供はありません、一度結婚したことがありますが、小供は出来ませんでした」  省三はその女が事情があるにせよ、独身であると云うことを聞いて心にゆとりが出来た。彼は女が二度目についでくれたコップを持った。 「それでは、目下《もっか》はお一人ですか」 「そうでございますわ、こんなお婆さんになっては、何人《だれ》もかまってくださる方がありませんから、一人で気ままに暮しておりますわ」 「かえって、係累《けいるい》がなくって気楽ですね」 「気楽は気楽ですけれど、淋《さみ》しゅうございますわ、だから今日のように、我《わが》ままを申すようなことになりますわ」 「こんな仙境のような処なら、これから度《たび》たびお邪魔にあがりますよ」  省三はもう酔っていた。 「今晩もこの仙境でお泊りくださいましよ」  牡丹《ぼたん》の花の咲いたような濃艶《のうえん》な女の姿が省三の眼前《めのまえ》にあった。 「そうですね」 「私の我ままをとおさしてくださいましよ」  女の声は蝋燭《ろうそく》の燈のめいって往くようなとろとろした柔かな気もちになって聞えて来た。省三は卓《テーブル》に両肘《りょうひじ》を凭《もた》せて寄りかかりながら何か云ったが聞えなかった。  女は起《た》って己《じぶん》の着ている羽織《はおり》を脱いで裏を前にして両手に持って省三の傍へ一足寄った。と、廊下の方でぐうぐうと蛙《かえる》とも魚ともつかない声が数多《たくさん》の口から出るように一めんに聞えだした。女は厭《いや》な顔をして開けてある障子《しょうじ》の外を見た。今まで月と水が見えて明るかった戸外《そと》は、真暗な入道雲のようなものがもくもくと重なり重なりしていた。 「ばかだね、なにしに来るのだね、ばかなまねをしてると承知しないよ」  女は叱《しか》るように云った。それでもぐうぐうの声は止《や》まなかった。黒い雲の一片はふわりふわりと室《へや》の中へ入って来た。 「おふざけでないよ」  女の右の手は頭にかかって黒いピンが抜かれた。女はそのピンを室の中へ入って来た雲の一片めがけて突き刺した。と、怪しい鳴き声はばったり止《や》んで雲はピンを刺したまま崩れるように室の外へ出て往った。  省三は夢現《ゆめうつつ》の境に女の声を聞いてふと眼を開けた。それと同時に女が後《うしろ》から着せた羽織《はおり》がふわりと落ちて来た。  省三は女に送られてボートで帰っていた。それは曇った日の夕方のことで、鼠《ねずみ》色に暮れかけた湖の上は蝸牛《かたつむり》の這《は》った跡のようにところどころ鬼魅《きみ》悪く光っていた。  省三は女の家に二三日いて帰るところであった。彼は艫《とも》に腰を懸《か》けて女と無言の微笑を交わしていたが、ふと眼を舟の左側の水の上にやると一尾の大きな鯰《なまず》が白い腹をかえして死んでいた。 「大きな鯰が死んでますね」  省三はその鯰をくわしく見るつもりでまた眼をやった。黒いピンのようなものが咽喉《のど》に松葉刺しにたっていた。 「咽喉をなにかで突かれているのですね」 「いたずらをして突かれたものでしょう、それよりか、次の金曜日にはきっとですよ」 「好いです」 [#6字下げ][#中見出し]Ⅴ[#中見出し終わり]  すこし風があって青葉がアーク燈の面を撫《な》でている宵のくちであった。上野の山を黙々として歩いていた省三は、不忍《しのばず》の弁天と向き合った石段をおり、ちょうど動坂《どうざか》の方へ往こうとする電車の往き過ぎるのを待って、電車|路《みち》をのそりと横切り弁天の方へ往きかけた。そこにはうっすらした靄《もや》がかかって池の周囲《まわり》の燈の光を奥深く見せていた。  彼は山の上で一時間も考えたことをまた後《あと》へもどして考えていた。……こうなれば、世間的の体裁《ていさい》などを云っていられない、断然別居しよう、小供には可哀そうだがしかたがない、そして、別居を承知しないと云うならひと思いに離別しよう、小供はもう三歳《みっつ》になっているからしっかりした婆やを雇えば好い、今晩まず別居の宣言をしてみよう、気の弱いことではいけない。どうも俺は気が弱いからそれがためにこれまで何かの点に於《おい》て損をしている、断然とやろう、来る日も来る日も無智の詞《ことば》を聞いたり厭《いや》な顔を見せられたりするのは厭だ……。  彼はその夕方|細君《さいくん》といがみ合ったことを思い浮べてみた。先月のはじめ水郷の町の講演に往って以来、長くて一週間早くて四五日するとぶらりと家を出て往った。そのつど二三日は帰って来ない彼に対して、敵意を挟んで来ている細君は隣《となり》の手前などはかまわなかった。  ……(さんざんしゃぶってしまったから、もう用はなくなったのでしょう)  ……(私のような者は、もう死んでしまや好いのでしょう、生きて邪魔をしちゃ、どっさりお金を持って来る女が来ないから)  細君《さいくん》は三千円ばかりの父親の遺産を持って来ていた。……  その日は神田の出版|書肆《しょし》から出版することになった評論集の原稿をまとめるつもりで、机の傍へ雑誌や新聞の摘み切りを出して朱筆《しゅふで》を入れていると、男の子がちょこちょこ入って来てその原稿を引っ掻《か》きまわすので、 (おい、坊やをどかしてくれなくちゃ困るじゃないか)  と云うと、 (坊やお出《い》でよ、そのお父様は、もう家のお父様じゃないからだめよ)  と、云って細君が冷たい眼をして入って来た。 (ばか) (どうせ、私は痴《ばか》ですよ、ばかだから、こんな目に逢《あ》うのですよ、坊や、おいで)  細君はまだ雑誌の摘み切りを手にして弄《いじく》っている小供の傍へ往って、その摘み切りを引ったくっておいていきなり抱きかかえた。その荒あらしい毒どくしい行《おこない》が彼の神経を尖《とが》らしてしまった。彼は朱筆を持ったなりに細君の後《うしろ》から飛びかかって往って、両手でその首筋を掴《つか》んで引き据《す》えた。細君は機《はずみ》をくって突き坐った。と、小供がびっくりして大声に泣きだした。 (痴、なんと云う云いかただ)  彼は細君《さいくん》の頭の上を睨《にら》みつけるようにして立っていた。  細君の泣き声がやがて聞えて来た。 (何と云うばかだ、身分を考えないのか)……  彼は楼門の下を歩いていた。白い浴衣《ゆかた》を着た散歩の人がちらちらと眼に映った。  ……この後《あと》、こんな日がもう一箇月も続こうものなら、頭は滅茶苦茶《めちゃくちゃ》になって何もできなくなる、できなくなればますます生活が苦しくなる。このうえ生活に追われて立ちも這《は》いもできないことになる、どうしても、別居だ、別居して静《しずか》に筆をとる一方で、己《じぶん》の哲学を完成しよう、そして、その間に時間をこしらえてあの女と逢《あ》おう……。  彼は弁天堂の横から渡月橋の袂《たもと》へ往った。そこは弁天堂の正面とちがって人通りがすくなくて世界がちがったようにしんとしていた。彼は暗い中を見た。 「先生じゃありませんか」  と、聞き覚えのある女の声がした。省三は足を止めて後《うしろ》の方をふり返った。白い顔が眼の前に来た。それは水郷の町の女であった。 「何時《いつ》いらしったのです」 「今の汽車でまいりました、ちょうど好かったのですね」 「どこへいらしったのです」 「銚子《ちょうし》の方へ往こうと思って、家を出たのですが、先生にお眼にかかりたくなりましたからまいりました、これからお宅へあがろうと思いまして、ぶらぶら歩いてまいりましたが、なんだか変ですから、ちょっと困っておりました」 「そうですか、それはちょうど好かった、飯《めし》はどうです」 「まだです、あなたはもうおすみになって」 「すこしくさくさすることがあって、まだです、どこかその辺《あたり》へ往って飯を喫《く》おうじゃありませんか」 「くさくさすることがあるなら、いっそ、これから銚子へ往こうじゃありませんか」 「そうですね、往っても好いのですね」  二人は引返して弁天堂の前の方へ往った。 [#6字下げ][#中見出し]Ⅵ[#中見出し終わり]  省三は電車をおりて夕陽の中を帰って来たが、格子戸《こうしど》を開けるにさえこれまでのように無関心に開けることができなかった。  彼はまず細君《さいくん》がいるかいないかをたしかめるために玄関をあがるなり見附《みつけ》の茶の間の方を見た。そこはひっそりして人の影もないので左側になった奥の室《へや》を見た。  細君の姿はそこに見えた。去年こしらえた中形《ちゅうがた》の浴衣《ゆかた》を着てこっち向きに坐り、団扇《うちわ》を持った手を膝《ひざ》の上に置いてその前に寝ている小供の顔を見るようにしていた。  彼はそれを見つけると、「うむ」と云うような鼻|呼吸《いき》とも唸《うな》り声とも判らない声をたててみたが、細君《さいくん》が顔をあげないのでしかたなしに書斎へ入って往った。  暗鬱《あんうつ》な日がやがて暮れてしまった。省三は机の前に坐っていた。彼は夕飯に往こうともしなければ、細君の方からも呼びに来もしなかった。その重苦しい沈黙の中に小供の声が一二回聞えたがそれももう聞えなくなってしまった。  省三は気が注《つ》くと手で頬《ほお》や首筋に止《とま》った蚊《か》を叩いた。そして、思いだして鉛《なまり》のようになった頭をほぐそうとしたがほぐれなかった。  不思議な呻吟《うめき》のようなものが細ぼそと聞えた。省三は耳をたてた。それは玄関の方から聞えて来る声らしかった。彼は怖ろしい予感に襲われて急いで起《た》ちあがって玄関の方へ往った。  青い蚊帳《かや》を釣《つる》した奥の室《へや》と茶の間の境になった敷居《しきい》の上に、細君が頭をこちらにして俯伏《うつぶ》しになっている傍に、壮《わか》い女が背をこっちへ見せて坐っていたがその手にはコップがあった。省三は何事が起ったろうと思い思いその傍へ往った。と、壮い女の姿は無くなって細君が一人苦しんで身悶《みもだ》えをしていた。 「どうした、どうした」  その省三の眼に細君の枕頭《まくらもと》に転《ころ》がっているコップと売薬の包《つつみ》らしい怪しい袋が見えた。 「お前は、何《な》んと云うことをしてくれた」  省三は細君の両脇に手をやって抱き起そうとしたが、考えついたことがあるのでその手を離した。 「お前は小供が可愛くないのか、何故《なぜ》そんな痴《ばか》なまねをする、しっかりおし、すぐ癒《なお》してやるから」  省三は玄関の方へ走って往ってさっき己《じぶん》が脱ぎ捨てたままである駒下駄《こまげた》を履《は》いて格子戸《こうしど》を開け、締《し》めずに引いてあった雨戸を押しのけるように開けて外へ出た。 「やあ、山根君じゃないか」  と、むこうから来た者が声をかけた。省三は走ろうとする足を止めた。 「何人《だれ》だね」  それは野本と云う仲間の文士であった。 「野本君か、野本君、君に頼みがある。妻室《かない》がすこし怪しいから、急いで医師《いしゃ》を呼んで来てくれないかね、ここを出て、右に五六軒往ったところに、赤い電燈の点《つ》いた家がある、かかりつけの医師《いしゃ》だから、僕の名を云えばすぐ来てくれる」 「どうしたんだ」 「痴《ばか》なまねをして、なにか飲んだようだ」 「よし、じゃ、往って来る、君は気をつけてい給《たま》え」  野本は走って往った。それと同時に省三も家の中へ走りこんだ。  細君《さいくん》は両手をついて腹這《はらば》いになり、ひっくり返ったコップの上から黄《きい》ろなどろどろする物を吐いていた。 「吐いたか、吐いたなら大丈夫だ」  省三は急いで台所へ入って往って手探りに棚にあった飯茶碗を執《と》ってバケツの水を掬《すく》うて持って来た。 「水を持って来た、この水を飲んでもうすこし吐くが好い」  省三は蹲《しゃが》んでその水を細君《さいくん》の口の傍へ持って往った。細君はその茶碗を冷《ひやや》かな眼で見たなりで口を開けなかった。 「何故《なぜ》飲まない、飲んだら好いじゃないか、飲まないといけない、飲んで吐かなくちゃいけない」  省三は無理に茶碗を口に押しつけた。水がぽとぽととこぼれたが細君は飲まなかった。 「お前は小供が可愛くないのか、何故飲まない」  がたがたとそそっかしい下駄《げた》の音がして野本が入って来た。 「先生はすぐ来る、どうだね、大丈夫かね」 「吐いた、吐いた、吐いたら大丈夫だと思うのだ」 「吐いたのか、吐いたら好い」  野本は傍へ来て立った。 「奥さんどうしたのです、大丈夫ですから、しっかりしなさい」  細君の顔は野本の方へ向いた。その眼にはみるみる涙が一ぱいになった。 「野本君、僕が水を飲まして吐かそうとしても、飲まない、君が飲ましてくれ給え」  省三は手にした茶碗を野本の前にだした。 「そんなことはなかろうが、僕で好いなら、僕が飲ましてやろう」  野本はその茶碗を持って蹲んだ。 「奥さん、どんなことがあるか知りませんが、山根君に悪いことがあるなら、私が忠告します、おあがりなさい、飲んで吐くが好いのです」  細君《さいくん》はその水を飲みだした。省三はその傍へ坐って悲痛な顔をしてそれを見ていた。  赧《あか》ら顔の医師《いしゃ》が薬籠《やくろう》を持ってあがって来た。医師《いしゃ》は細君の傍へ往って四辺《あたり》の様をじっと見た。 「吐きましたね」 「吐いてます、まだ吐かしたら好いと思って、今この茶碗に一ぱい水を飲ましたところです」  野本は手にしていた茶碗を医師《いしゃ》に見せた。 「それは大変好い」  医師《いしゃ》は今度は細君の方を向いて云った。 「奥さん、大丈夫ですよ、御心配なさらないが好いのですよ」  細君は声をあげて泣きだした。 「先生お恥かしゅうございます」  省三はやっとそれきり云って眼を伏せた。 「どれくらいになりますか」 「私が気がついて、まだ二十分ぐらいにしかならんと思いますが」 「そうですか」  医師《いしゃ》は薬籠を開けて小さな瓶《びん》を出し、それを小さな液量器に垂らした。 「水を持って来ましょうか」  野本が云った。 「そうですね、すこしください」  野本は茶碗を持って台所の方へ往ったがやがて水を汲《く》んで帰って来た。  医師《いしゃ》はその水を液量器の中に垂らして細君《さいくん》の口元に持って往った。細君は泣きじゃくりしながらそれを飲んだ。 「これで大丈夫だから、静《しずか》にしててください」  こう云って医師《いしゃ》が眼をあげた時には、省三の姿はもう見えなかった。 [#6字下げ][#中見出し]Ⅶ[#中見出し終わり]  省三はその翌日の夕方利根川の支流になった河に臨んだ旅館の二階に考え込んでいた。 「関根さん、お伴様《つれさま》が見えました」  関根友一は省三がこの旅館で用いている変名であった。省三は不思議に思って婢《じょちゅう》の声のした方を見た。昨日の朝|銚子《ちょうし》で別れた女が婢の傍で笑って立っていた。女は華美《はで》な明石《あかし》を着ていた。 「びっくりなすったのでしょう、なんだかあなたがここへいらっしゃるような気がしたものですから、昨日の夕方の汽車で引き揚げて来たのですよ」  女は笑い笑い入って来た。  省三と女は土手を下流の方へ向いて歩いていた。晴れた雲のない晩で蛙《かわず》の声が喧《やかま》しく聞えていた。 「いよいよ舟に乗る時が来ましたよ」  女が不意にこんなことを云った。省三はその意味が判らなかった。 「なんですか」 「舟に乗る時ですよ」  省三はどうしても合点《がてん》が往かなかった。 「舟に乗る時って、一体こんな処にかってに乗れる舟がありますか、舟に乗るなら、宿へでもそう云って拵《こしら》えて貰わなくちゃ」 「大丈夫ですよ、私が呼んでありますから」 「ほんとうですか」 「ほんとうですとも、そこをおりましょう」  川風に動いている丈《たけ》高い草が一めんに見えていて、路《みち》らしいものがそのあたりにあるとは思われなかった。 「おりられるのですか」 「好い路がありますわ」  省三は不思議に思ったが、女が断言するので土手の端《はし》へ往って覗《のぞ》いた。そこには一幅の土の肌の見えた路があった。 「なるほどありますね」 「ありますとも」  省三は前にたってその路をおりて往った。蛍《ほたる》のような青い光が眼の前を流れて往った。 「蛍《ほたる》ですね」 「さあ、どうですか」  黄《きい》ろな硝子《がらす》でこしらえたような中に火を入れたような舟が一|艘《そう》蘆《あし》の間に浮いていた。 「おかしな舟ですね、ボートですか」 「なんでも好いじゃありませんか、あなたを待ってる舟ですよ」  そんな邪慳《じゃけん》な詞《ことば》は省三はまだ一度も女から聞いたことはなかった。彼は女はどうかしていると思った。 「お乗りなさいよ」 「乗りましょう」  省三は舟を近く寄せようと思って纜《ともづな》を繋《つな》いである処を見ていると、舟は蘆の茎をざらざらと云わして自然と寄って来た。 「お乗りなさいよ」 「綱《つな》は好いのですか」 「好いからお乗りなさいよ」  省三は舟のことは女が精《くわ》しいから云うとおりに乗ろうと思ってそのまま乗り移った。舟のどこかに脚燈を点《つ》けてあるように脚下《あしもと》が黄《きい》ろく透《すか》して見えた。 「いよいよ乗せたから、持ってお出《い》でよ」  女はこう云いながら続いて乗って胴《どう》の間《ま》に腰をかけて省三と向き合った。女の体は青黄《あおぎい》ろく透《す》きとおるように見えた。 「皆《みんな》でなにをぐずぐずしているのだね、早く持ってお出《い》でよ」  省三は体がぞくぞくした。と、舟は発動機ででも運転さすように動きだした。 「この舟は一体なんです、変じゃありませんか」 「変じゃありませんよ」 「でも、機械もなにもないのに動くじゃありませんか」 「機械はないが、数多《たくさん》の手がありますから、動きますよ」 「え」 「今に判りますよ、じっとしていらっしゃい」 「そうですか」  女は大きな声をだして笑いだした。省三は怖《おそ》る怖る女の顔に眼をやった。黄《きい》ろな燃えるような光の中に女の顔が浮いていた。 「なにをそんなにびっくりなさいますの」  女の顔は左に傾いて細かい数多《たくさん》ある頭の毛が重そうに見えた。それは前橋の女の顔であった。 「わっ」  省三は怖ろしい叫び声をあげて逃げようとして舟から体を躍《おど》らした。  二日ばかりして山根省三の死骸は、壮《わか》い女の死体と抱きあったままでその川尻の海岸にあがって細君《さいくん》の手に引きとられたが、女は身元は判らないので、それはその土地の共同墓地に埋められたと云うことが二三の新聞に現れた。 底本:「日本怪談大全 第二巻 幽霊の館」国書刊行会    1995(平成7)年8月2日初版第1刷発行 底本の親本:「日本怪談全集 第四巻」改造社    1934(昭和9)年 入力:川山隆 校正:門田裕志 2012年5月22日作成 青空文庫作成ファイル: 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