初夏の空で笑う女 小川未明 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)踊《おど》る |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)一|日《にち》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#地付き] -------------------------------------------------------  あるところに、踊《おど》ることの好《す》きな娘《むすめ》がありました。家《いえ》のうちにいてはもとよりのこと、外《そと》へ出《で》ても、草《くさ》の葉《は》が風《かぜ》に吹《ふ》かれて動《うご》くのを見《み》ては、自分《じぶん》もそれと調子《ちょうし》を合《あ》わせて、手《て》や足《あし》を動《うご》かしたり、体《からだ》をしなやかに曲《ま》げるのでした。  また、日《ひ》の輝《かがや》く下《した》の花園《はなぞの》で、花《はな》びらがなよなよとそよ風《かぜ》にひらめくのを見《み》ると、たまらなくなって、彼女《かのじょ》は、いっしょになってダンスをしたのであります。  両親《りょうしん》は、自分《じぶん》の娘《むすめ》をもてあましてしまいました。母親《ははおや》は、ダンスなどというものは、きらいでありましたから、 「もう、これほどまでいって、それでも聞《き》かないで、踊《おど》りたいなら、おまえは家《うち》にいないほうがいいから、かってにゆきたいところへいって、踊《おど》りたいだけ、踊《おど》ったらいい。」と、母親《ははおや》はいいました。  母親《ははおや》は、娘《むすめ》に裁縫《さいほう》を教《おし》えたり、また行儀《ぎょうぎ》を習《なら》わしたりしたいと思《おも》ったからです。けれど娘《むすめ》は、それよりか、自分《じぶん》かってに踊《おど》りたかったのであります。 「お母《かあ》さん、私《わたし》は、もっと旅《たび》へいって、踊《おど》りのけいこをいたします。そして、それで身《み》をたてたいと思《おも》いますから、どうぞ、お暇《ひま》をください。」と頼《たの》みました。  両親《りょうしん》は、いつか、娘《むすめ》が自身《じしん》で気《き》がつくときがあるであろうと思《おも》って、涙《なみだ》ながらに、それを許《ゆる》しました。  娘《むすめ》は、あるときは、雲《くも》の流《なが》れる方《ほう》へ向《む》かって歩《ある》いていきました。また、あるときは、水《みず》の流《なが》れる方《ほう》へ向《む》かって、旅《たび》を続《つづ》けました。そして、白壁《しらかべ》や、赤《あか》い煉瓦《れんが》などの見《み》える、気持《きも》ちのいい町《まち》へ着《つ》きました。  彼女《かのじょ》は、町《まち》の中《なか》を歩《ある》いていますと、小《ちい》さな劇場《げきじょう》のようなところがあって、そこには美《うつく》しい花《はな》の飾《かざ》りがしてあり、旗《はた》などが立《た》ててありました。そして、看板《かんばん》に、「どなたでも、踊《おど》りたいと思《おも》う人《ひと》は、踊《おど》りなさい。歌《うた》いたいと思《おも》われる人《ひと》は、歌《うた》いなさい。そのかわり、上手《じょうず》でなければ、人々《ひとびと》が笑《わら》います。」と、書《か》いてありました。  彼女《かのじょ》は、この劇場《げきじょう》の前《まえ》に立《た》って考《かんが》えました。 「踊《おど》りたいには、踊《おど》りたいが、上手《じょうず》に踊《おど》れるだろうか? 下手《へた》に踊《おど》って、人々《ひとびと》から笑《わら》われやしないだろうか?」  しかし、彼女《かのじょ》は、べつに頼《たよ》っていくところのきまった身《み》でもありませんから、上手《じょうず》、下手《へた》はそのときの運命《うんめい》と思《おも》って、とにかく出《で》て踊《おど》ることにしました。  彼女《かのじょ》は、みんなの前《まえ》で踊《おど》りました。 「草《くさ》の葉《は》の踊《おど》り」 「赤《あか》い花《はな》のダンス」  こうした、二つの踊《おど》りは、みんなに不思議《ふしぎ》な感《かん》じを与《あた》えました。みんなは、喜《よろこ》びました。拍手《はくしゅ》しました。彼女《かのじょ》は、あたかも、なよなよと草《くさ》の葉《は》が風《かぜ》にもまれるように、柔《やわ》らかに体《からだ》を波打《なみう》たせて踊《おど》りました。また、真紅《まっか》に咲《さ》き乱《みだ》れた花《はな》が、風《かぜ》に吹《ふ》かれて、いまにも散《ち》りそうなようすを、手《て》を振《ふ》り、足《あし》を動《うご》かし、体《からだ》をひねって、してみせたのであります。 「なんというおもしろい踊《おど》りだろう……。」と、みんなは口々《くちぐち》にいいはやしました。  ここに、金持《かねも》ちのお嬢《じょう》さまがありました。お父《とう》さんや、お母《かあ》さんは、たくさんのお金《かね》を残《のこ》して、この世《よ》の中《なか》から去《さ》られたので、お嬢《じょう》さまはりっぱな、大《おお》きな家《いえ》になに不自由《ふじゆう》なく、独《ひと》りで暮《く》らしていられました。  このお嬢《じょう》さまが、ちょうど劇場《げきじょう》にきて、娘《むすめ》の踊《おど》りを見《み》ていられましたが、踊《おど》りばかりでなく、この娘《むすめ》がたいそう気《き》にいられました。 「おまえさんは、わたしの家《うち》へきませんか。」と、お嬢《じょう》さまは、踊《おど》りが終《お》えると、娘《むすめ》にあって話《はな》されました。娘《むすめ》はお嬢《じょう》さまに向《む》かって、 「私《わたし》は、ただ踊《おど》りたいのです。私《わたし》を自由《じゆう》に踊《おど》らせてくださればまいります。」といいました。 「わたしは、おまえさんから、その踊《おど》りを習《なら》いたいのですから、そんな、気兼《きが》ねはすこしもいりません。」と、お嬢《さま》さまは答《こた》えられました。  娘《むすめ》は、その日《ひ》から、お嬢《じょう》さまの家《いえ》へ住《す》むことになりました。  お嬢《じょう》さまの家《いえ》は、りっぱなお家《うち》でした。そして、青《あお》い着物《きもの》をきた、もう一人《ひとり》美《うつく》しい娘《むすめ》がいました。その娘《むすめ》は、いい声《こえ》で一|日《にち》唄《うた》を歌《うた》っているのでした。 「この娘《むすめ》さんは、おまえさんと異《ちが》って歌《うた》うことが好《す》きなんです。それで、こうして、好《す》きな唄《うた》をうたっているのですよ。おまえさんは、今日《きょう》からかってに、この家《うち》で踊《おど》りなさるがいい。」と、お嬢《じょう》さまは、いわれました。  娘《むすめ》は、自由《じゆう》なところだと思《おも》いました。そして、はじめて、長《なが》い間《あいだ》の望《のぞ》みがかなったように思《おも》いました。いい声《こえ》で、歌《うた》っていた少女《しょうじょ》は、ぶどうのような、うるんだ目《め》でじっと、新《あたら》しく、ここへきた娘《むすめ》を見《み》ながら、 「あなたは、草《くさ》の葉《は》や、赤《あか》い花《はな》から、踊《おど》りを教《おそ》わったとお姉《ねえ》さまから聞《き》きましたが、私《わたし》は、また唄《うた》を小鳥《ことり》から、あのみみずから……風《かぜ》から、いろいろなものから習《なら》いましたの。私《わたし》は青《あお》い着物《きもの》を着《き》て、こうして歌《うた》っていると、ちょうど自分《じぶん》が小鳥《ことり》のような気《き》がして、それは、うれしいんですよ……。」  青《あお》い着物《きもの》の少女《しょうじょ》が、お嬢《じょう》さまを姉《ねえ》さんといいますので、彼女《かのじょ》もまた、お嬢《じょう》さまのことを姉《ねえ》さんということにしました。  この唄《うた》を歌《うた》うことの好《す》きな少女《しょうじょ》は、やはり自分《じぶん》の家《うち》にいる時分《じぶん》、朝晩《あさばん》、歌《うた》っていましたので、唄《うた》をきらいな、気《き》むずかしいお父《とう》さんは、娘《むすめ》をしかって、どこへでもいってしまえといいました。それで少女《しょうじょ》は、泣《な》く泣《な》く家《いえ》を出《で》て、やはり、この町《まち》にやってきました。そして、劇場《げきじょう》の前《まえ》を通《とお》りますと、 「歌《うた》いたいものは、だれでも、はいって遠慮《えんりょ》なくうたいなさい。まずければ、人《ひと》に笑《わら》われます。」と、このときも、看板《かんばん》に書《か》いてありました。  少女《しょうじょ》は、こずえに止《と》まって、小鳥《ことり》が自由《じゆう》にさえずるときの姿《すがた》を思《おも》い出《だ》しました。また、夏《なつ》の晩方《ばんがた》、眠《ねむ》そうに、唄《うた》を歌《うた》っているみみずの節《ふし》を思《おも》い出《だ》しました。それが、みんなの喝采《かっさい》を博《はく》しました。このときも、お嬢《じょう》さまは、ここにきていて、この少女《しょうじょ》の唄《うた》を聞《き》かれました。そして、少女《しょうじょ》をお家《うち》へつれて帰《かえ》られたのでした。 「花《はな》の踊《おど》りには、赤《あか》い着物《きもの》を着《き》るといい。」と、お嬢《じょう》さまはいって、この踊《おど》りの好《す》きな娘《むすめ》には、美《うつく》しい花弁《はなびら》のような着物《きもの》を、造《つく》ってくださいました。  その日《ひ》から、家《うち》の中《なか》で、青《あお》い着物《きもの》の少女《しょうじょ》はうたい、赤《あか》い着物《きもの》の娘《むすめ》は、花弁《はなびら》の風《かぜ》に吹《ふ》かれ狂《くる》うごとく踊《おど》るのでありました。  ある日《ひ》のことです。りっぱな、お嬢《じょう》さまの馬車《ばしゃ》が門《もん》の前《まえ》に止《と》まると、お嬢《じょう》さまは、黒髪《くろかみ》を両方《りょうほう》のふくよかな肩《かた》に乱《みだ》した、半裸体《はんらたい》の若《わか》い女《おんな》をつれて、お家《うち》の中《なか》へはいられました。  青《あお》い着物《きもの》の少女《しょうじょ》も、赤《あか》い着物《きもの》の娘《むすめ》も、この怪《あや》しげな女《おんな》を見《み》て、目《め》を円《まる》くしてびっくりしていました。 「この人《ひと》は、魔術使《まじゅつつか》いなのよ。今日《きょう》から、この家《うち》で、いっしょに暮《く》らすことになったの。」と、お嬢《じょう》さまは、驚《おどろ》いている二人《ふたり》に向《む》かっていわれました。  黒目勝《くろめが》ちな、唇《くちびる》の赤《あか》い、眉《まゆ》の濃《こ》い、髪《かみ》の長《なが》い女《おんな》は、黙《だま》って、二人《ふたり》に向《む》かって頭《あたま》を下《さ》げました。魔術使《まじゅつつか》いの女《おんな》は、おしなのでした。 「おまえさんには、黒《くろ》い着物《きもの》がよく似合《にあ》うようだ。」といって、お嬢《じょう》さまは、魔術使《まじゅつつか》いの女《おんな》には、黒《くろ》い着物《きもの》をきせました。  その女《おんな》は、なんでも、魔術《まじゅつ》をインド人《じん》から教《おそ》わったということです。人間《にんげん》をはとにしたり、からすにしたり、また、はとを皿《さら》にしたり、りんごにしたりする不思議《ふしぎ》な術《じゅつ》を知《し》っていました。いままで、いい声《こえ》で歌《うた》っていた青《あお》い着物《きもの》の娘《むすめ》が、魔術《まじゅつ》にかかってからすになったり、いままで赤《あか》い着物《きもの》をきて踊《おど》っていた娘《むすめ》が、たちまちの間《あいだ》にはとになるかと思《おも》うと、美《うつく》しい、華《はな》やかな着物《きもの》をきて、笑《わら》って、それをばごらんになっていたお嬢《じょう》さままでが、どこへか姿《すがた》が消《き》えてしまったり、最後《さいご》に、魔術使《まじゅつつか》い自身《じしん》も、白《しろ》い煙《けむり》をたててなくなってしまったりするかと思《おも》うと、目《め》の前《まえ》へ一|本《ぽん》の草《くさ》が芽《め》を出《だ》し、それがすぐ大《おお》きくなって花《はな》が咲《さ》き、その中《なか》から人間《にんげん》が生《う》まれる――それが、お嬢《じょう》さまであったり、また、はとが、生《う》まれかわって箱《はこ》の中《なか》から出《で》るときは、いつのまにか、赤《あか》い着物《きもの》をきた娘《むすめ》になったりするような、それは不思議《ふしぎ》なことばかりでありました。 「もっとおもしろいなにか芸《げい》をする娘《むすめ》さんたちが、集《あつ》まってこないものかね。」と、お嬢《じょう》さまは、その後《ご》も劇場《げきじょう》へいってみられたけれど、それから出《で》た女《おんな》は、平凡《へいぼん》なものばかりでした。 「お姉《ねえ》さま、きっと旅《たび》に出《で》たらおもしろいことがあると思《おも》います。」と、青《あお》い着物《きもの》をきた少女《しょうじょ》がいいました。 「わたしも、そんなことを思《おも》っていたのよ。もうこの町《まち》の生活《せいかつ》にも飽《あ》きましたから、四|人《にん》が旅《たび》へ出《で》て、ゆくさきざきの劇場《げきじょう》で、私《わたし》たちの芸《げい》をしてみせたら、かえっておもしろいかもしれない。」と、お嬢《じょう》さまはいわれました。  そこで、四|人《にん》は、旅《たび》へ出《で》たのであります。そして、ゆくさきざきでいろいろの芸《げい》をしてみました。四|人《にん》の年若《としわか》い女《おんな》たちは、いずれも美《うつく》しい顔《かお》で、見《み》る人々《ひとびと》をうっとりとさせました。中《なか》でも男《おとこ》たちは、かつて、こんなに美《うつく》しい女《おんな》を見《み》たことがないといって、感歎《かんたん》しました。そして、まれには、結婚《けっこん》を申《もう》し込《こ》んでくるものもありましたけれど、四|人《にん》は、けっして、それらの人《ひと》たちには、取《と》り合《あ》いませんでした。魔術使《まじゅつつか》いの女《おんな》はおしではありましたけれど、顔《かお》のどこかに、いちばん多《おお》く人《ひと》を魅《み》する力《ちから》をもっていました。  夏《なつ》のはじめになると、北国《ほっこく》の海《うみ》は青々《あおあお》として冴《さ》えていました。彼女《かのじょ》らは、この海岸《かいがん》の小《ちい》さな町《まち》にはいってきて、そこの劇場《げきじょう》で踊《おど》ったり、歌《うた》ったり、また魔術《まじゅつ》を使《つか》ったりしてみせました。まだまったく開《ひら》けていない土地《とち》の人々《ひとびと》だけに、どんなに驚《おどろ》いた目《め》つきをして、この美《うつく》しい女《おんな》たちをながめたでありましょう。 「真《ま》っ赤《か》な着物《きもの》をきて、花《はな》のように踊《おど》る。」といって、喜《よろこ》びました。 「あの黒《くろ》い着物《きもの》をきた女《おんな》は、なんというすごいほど美《うつく》しい女《おんな》だろう。そして、魔術《まじゅつ》を使《つか》う。」といって、驚《おどろ》いてうわさをしました。  また、町《まち》の男《おとこ》も、女《おんな》も、美《うつく》しいお嬢《じょう》さまについて、また、風《かぜ》のあたる緑《みどり》の林《はやし》を思《おも》わせるような、唄《うた》を上手《じょうず》に歌《うた》う少女《しょうじょ》について、いろいろの評判《ひょうばん》をしました。そのうちに、彼女《かのじょ》らは、この小《ちい》さな北国《ほっこく》の町《まち》にも別《わか》れを告《つ》げて、遠《とお》い西《にし》の国《くに》を指《さ》して、旅立《たびだ》たなければならぬ日《ひ》がきました。  彼女《かのじょ》らの、この町《まち》を去《さ》ってしまうということは、楽《たの》しみと色彩《しきさい》に乏《とぼ》しいこのあたりの人々《ひとびと》に、なんとなくさびしいことに感《かん》じられたのであります。そこで、いよいよその日《ひ》がくると、若者《わかもの》たちは、外《そと》に出《で》て彼女《かのじょ》らの立《た》つのを見送《みおく》っていました。  四|人《にん》の美《うつく》しい女《おんな》たちは、赤《あか》い馬車《ばしゃ》に乗《の》りました。赤《あか》い馬車《ばしゃ》は、青《あお》い海《うみ》を左手《ひだりて》にながめながら、海岸《かいがん》を走《はし》っていったのであります。  初夏《はつなつ》の光《ひかり》に照《て》らされて、その赤《あか》い馬車《ばしゃ》は、いっそう鮮《あざ》やかに、色《いろ》が冴《さ》えて見《み》られました。そして、青《あお》い海《うみ》の色《いろ》と反映《はんえい》して、美《うつく》しかったのでした。馬車《ばしゃ》は走《はし》って、走《はし》っていきました。海岸《かいがん》の道《みち》は、しだいにけわしくなりました。  一|方《ぽう》は山《やま》で、切《き》り落《お》としたようになって、一|方《ぽう》は深《ふか》い深《ふか》い崖《がけ》であります。その崖《がけ》の下《した》には、大《おお》きな波《なみ》が打《う》ち寄《よ》せていました。  赤《あか》い馬車《ばしゃ》は、どう誤《あやま》ったものか、勢《いきお》いよく走《はし》ってゆくと、その崖《がけ》からまっさかさまに海《うみ》の中《なか》へと四|人《にん》の女《おんな》たちを乗《の》せたまま落《お》ちてしまいました。そして、いままで、赤《あか》く火《ひ》の燃《も》えついたように、走《はし》っていった馬車《ばしゃ》の影《かげ》は、もはや、どこにも見《み》えませんでした。太陽《たいよう》は、そのことを知《し》ってか、もしくは知《し》らずにか、すこしの変《か》わりもなく、白《しろ》い道《みち》を照《て》らし、青《あお》い海《うみ》の面《おもて》を照《て》らしていました。  たまたま、馬車《ばしゃ》が崖《がけ》から落《お》ちたのを見《み》ていたものがあって、大騒《おおさわ》ぎになりました。人々《ひとびと》はそこへいってみました。けれど、馬《うま》も、人《ひと》も、また赤《あか》い箱《はこ》も、なにひとつ名残《なごり》をとどめていないので、みんなはそのことをはなはだ不思議《ふしぎ》に思《おも》いました。 「魔術使《まじゅつつか》いの乗《の》っている馬車《ばしゃ》だから、どんな魔術《まじゅつ》を使《つか》って、姿《すがた》を消《け》したのかもしれない。」といったものもありました。  その後《ご》、この話《はなし》は、この海岸《かいがん》の不思議《ふしぎ》な話《はなし》となりました。  暗《くら》い晩《ばん》に、北国《ほっこく》の海《うみ》を航海《こうかい》する船《ふね》が、たまたまこのあたりを通《とお》りますと、どこからともなく、若《わか》い女《おんな》の歌《うた》う声《こえ》が、聞《き》こえてくることがあるといいました。また、ある漁船《ぎょせん》は、夜《よる》、雨《あめ》の降《ふ》る中《なか》をさびしくこいでいると、あちらから一そうの小舟《こぶね》がやってきて、音《おと》もなくすれちがう。その舟《ふね》の中《なか》には、赤《あか》い着物《きもの》をきた女《おんな》がただ一人《ひとり》すわって、泣《な》いているのを見《み》たというものもありました。  毎年《まいとし》、初夏《はつなつ》のころのことであります。この海岸《かいがん》に、蜃気楼《しんきろう》が浮《う》かびます。赤《あか》い着物《きもの》をきた女《おんな》が踊《おど》り、青《あお》い着物《きもの》をきた女《おんな》や、黒《くろ》いからすの影《かげ》などが、空《そら》に見《み》えるかと思《おも》うと、しばらくして、消《き》えてしまい、晴《は》れわたった、輝《かがや》かしい太陽《たいよう》の下《した》で、顔《かお》も形《かたち》も見《み》えないで、女《おんな》の笑《わら》う声《こえ》がきこえる……。こんな神秘的《しんぴてき》な現象《げんしょう》をこの海岸《かいがん》の人々《ひとびと》は、いままで幾《いく》たびも見《み》たり、聞《き》いたりしたということであります。 [#地付き]――一九二五・三―― 底本:「定本小川未明童話全集 5」講談社    1977(昭和52)年3月10日第1刷 底本の親本:「未明童話集1」丸善    1927(昭和2)年1月5日発行 初出:「童話」    1925(大正14)年5月 ※表題は底本では、「初夏《はつなつ》の空《そら》で笑《わら》う女《おんな》」となっています。 ※初出時の表題は「初夏の空で笑ふ女」です。 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:へくしん 2019年6月30日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。