白いくま 小川未明 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)熱《あつ》い |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)一|度《ど》 -------------------------------------------------------  そこは、熱《あつ》い国《くに》でありました。日《ひ》の光《ひかり》が強《つよ》く、青々《あおあお》としている木立《こだち》や、丘《おか》の上《うえ》を照《て》らしていました。  この国《くに》の動物園《どうぶつえん》には、熱帯地方《ねったいちほう》に産《さん》するいろいろな動物《どうぶつ》が、他《た》の国《くに》の動物園《どうぶつえん》には、とうてい見《み》られないほどたくさんありましたが、寒《さむ》い国《くに》にすんでいる動物《どうぶつ》は、なかなかよく育《そだ》たないものとみえて、あまり、数多《かずおお》くはありません。その中《なか》に、一ぴきの白《しろ》いくまが、みんなから珍《めずら》しがられ、またかわいがられていました。  なにしろ、木立《こだち》の柔《やわ》らかな葉《は》が、きらきらと光《ひか》って、いつかはあめのように溶《と》けてしまいそうにみえるほどの熱《あつ》いところでありましたから、寒《さむ》い、寒《さむ》い、氷山《ひょうざん》の上《うえ》にすんでいるしろくまを飼《か》っておくことは、まったく容易《ようい》ではなかったのでした。  大《おお》きな水《みず》たまりを造《つく》って、その中《なか》へ、氷《こおり》のかけらを投《な》げいれておきます。くまは、熱《あつ》さにこらえられないので、幾度《いくど》となく、その水《みず》の中《なか》に浸《ひた》ります。そして、バシャバシャと水《みず》をはねかえして、冷《つめ》たい氷水《こおりみず》を浴《あ》びたときだけ、わずかに、自分《じぶん》の生《う》まれた北《きた》の故郷《こきょう》にいた時分《じぶん》のことを思《おも》い出《だ》したり、また、ちょっと、その当時《とうじ》の気持《きも》ちになったのであります。  あちらには、どんよりとして、いつも眠《ねむ》っているような海《うみ》が見《み》えました。その海《うみ》は、おしで、盲目《めくら》なのだった。なぜなら、ものすごい叫《さけ》びをあげている波《なみ》は、みんな口《くち》を縫《ぬ》われてしまって、魚《さかな》のうろこのように、海《うみ》はすっかり凍《こお》っていたからであります。そして、氷山《ひょうざん》が、気味悪《きみわる》く光《ひか》って、魔物《まもの》の牙《きば》のように鋭《するど》く、ところどころに、灰色《はいいろ》の空《そら》をかもうとしていたからです。  脂肪《しぼう》のたくさんな、むくむくと毛《け》の厚《あつ》いしろくまはそこを平気《へいき》で歩《ある》いていました。また、氷《こおり》が解《と》ける時分《じぶん》になれば、険《けわ》しい山《やま》の方《ほう》へのこのこと帰《かえ》ってゆきました。広《ひろ》い寂《さび》しい天地《てんち》の間《あいだ》を自由《じゆう》にふるまうことができたのでした。  それが、いまどうでしょう。熱《あつ》い、熱《あつ》い、知《し》らない国《くに》に連《つ》れてこられて、狭《せま》い鉄《てつ》のおりの中《なか》へいれられてしまったのです。はじめのうちは、腹《はら》だたしいやら、残念《ざんねん》やらで、じっとしていることができませんでした。かんしゃくまぎれに鉄《てつ》の棒《ぼう》を折《お》り曲《ま》げて、外《そと》へ暴《あば》れ出《だ》してやろうと、何度《なんど》となく、そのおりの鉄棒《てつぼう》に飛《と》びついたかしれません。  力《ちから》の強《つよ》いくまは、いままで、こんなに、体《からだ》の中《なか》にあった力《ちから》をすっかり出《だ》したことはなかったのです。なぜなら、その必要《ひつよう》がなかったのでした。いま、いくら力《ちから》を出《だ》しても、すべてが無効《むこう》であることを知《し》ったときに、くまは、はじめて人間《にんげん》が、自分《じぶん》より智慧《ちえ》のある動物《どうぶつ》だということをも知《し》ったのでした。 「これは、もう、力《ちから》ずくでいってはだめだ。」と、くまは考《かんが》えました。  彼《かれ》は、しばらく、人間《にんげん》がなにをしようと、するままに黙《だま》って、見《み》ていようと思《おも》いました。くまは、人間《にんげん》は、けっして、これ以上《いじょう》なんにもしないということを知《し》ったのであります。  毎日《まいにち》、白《しろ》い布《ぬの》を頭《あたま》にかぶった、青《あお》い色《いろ》の服《ふく》を着《き》た男《おとこ》が、生肉《なまにく》の切《き》れを持《も》ってきてくれました。くまは、それを食《た》べながら、「なんというまずい肉《にく》だろう。」と、考《かんが》えたのです。ぴちぴちはねている生《い》き物《もの》を自分《じぶん》の手《て》でしっかり押《お》さえつけて、頭《あたま》がらガリガリとかじるのにくらべては、歯《は》ごたえがなかった。彼《かれ》は、もう一|度《ど》氷山《ひょうざん》の上《うえ》で、逃《に》げてゆこうとする動物《どうぶつ》を追《お》いかけていって、それをつかまえて、食《た》べてみたいと思《おも》いました。  食《た》べ物《もの》は、まあ、これでもしかたがないが、暑《あつ》いのには、こまってしまいました。すると白《しろ》い布《きれ》をかぶった男《おとこ》が、大《おお》きな氷《こおり》の塊《かたまり》を水《みず》の中《なか》へ投《な》げ込《こ》んでゆきました。くまは、ザブリと躍《おど》り込《こ》んで浸《ひた》りました。浸《ひた》ったかと思《おも》うと、また躍《おど》り上《あ》がりました。ちょっと、その瞬間《しゅんかん》だけいい気持《きも》ちがしたのでした。 「人間《にんげん》は、なんていうけちな奴《やつ》だ。あの海《うみ》はすっかり凍《こお》っているじゃないか? また氷山《ひょうざん》の氷《こおり》をいくらでも持《も》ってくればいいじゃないか。それだのに、これんばかりしか、氷《こおり》をここへは持《も》ってこない。こんなけちんぼうで、そのうえ、力《ちから》の弱《よわ》いくせに、よくあんなに強《つよ》い棒《ぼう》を造《つく》ったものだ。いや、あのときは俺《おれ》がどうかしていたのだろう。この力《ちから》で、あんな細《ほそ》いものがへし折《お》れないはずはないのだ……。」  白《しろ》いくまは、ふいに、そんなことが頭《あたま》に浮《う》かぶと、どっと暴風《あらし》のように、鉄《てつ》の格子《こうし》に飛《と》びついて破《やぶ》ろうとしました。しかし、やっぱりだめでした。  けれど、このすばらしい勢《いきお》いで、見物人《けんぶつにん》がみんなびっくりして、声《こえ》をたてました。くまはそれをせめても痛快《つうかい》がったのであります。  そんなようなことも、このくまが、ここにきたはじめのうちのことでした。しまいには、このおりの中《なか》にも、人間《にんげん》にも馴《な》れてしまいました。人間《にんげん》は思《おも》ったよりはやさしかったからです。  この国《くに》の人々《ひとびと》は、寒《さむ》い、寒《さむ》い、北《きた》の国《くに》にすんでいる白《しろ》いくまをひじょうに珍《めずら》しがりました。いったこともない、想《おも》っても、ほとんど想像《そうぞう》されない北極《ほっきょく》に近《ちか》い世界《せかい》を考《かんが》えることは、なんとなく神秘的《しんぴてき》であり、また、うっとりとさせられるからでした。 「くまや、おまえは、そんな遠《とお》い、寒《さむ》い国《くに》で生《う》まれたのかい。親《おや》もあり、兄弟《きょうだい》もあったのだろう。どうして、人間《にんげん》などに捕《と》らえられて、こんなところへきたのか?」と、見物《けんぶつ》の中《なか》にはこんなことをいった学校《がっこう》の生徒《せいと》もありました。  月日《つきひ》はたって、はじめは、子《こ》ぐまであったのが、だんだん年《とし》を取《と》りました。その間《あいだ》に、白《しろ》いくまは、芸《げい》というほどのことでもないが、見物《けんぶつ》に向《む》かって、頭《あたま》を下《さ》げたり、体《からだ》を左右《さゆう》に揺《ゆ》すってみせるようなことを覚《おぼ》えました。体《からだ》を左右《さゆう》に揺《ゆ》するのは、うれしい感《かん》じを表《あらわ》すことであり、頭《あたま》を上下《うえした》に動《うご》かすのは、なにか食《た》べるものを欲《ほ》しいという心《こころ》を示《しめ》すものだということは、見物《けんぶつ》にもわかったのであります。 「くまが、あんなに、頭《あたま》を下《さ》げているから、チョコレートをやりましょう。」といって、見物《けんぶつ》していた女《おんな》の人《ひと》は、日《ひ》がさをかしげてオペラバッグを開《ひら》きながらいいました。  この国《くに》は、ココアや、コーヒーの産地《さんち》でありましたから、チョコレートのおいしいのが、またたくさんありました。くまは、チョコレートが大好《だいす》きでした。  動物園《どうぶつえん》の白《しろ》いくまが、チョコレートが大好《だいす》きだということが、みんなに知《し》れわたりましたから、見物《けんぶつ》にくる女《おんな》の人《ひと》や、子供《こども》たちが、くまにチョコレートを持《も》ってきてやりましたので、あんまり食《た》べ過《す》ぎて、くまは夜《よる》も眠《ねむ》れなかったことがあります。  しかし、くまも、いつしかすっかり、この国《くに》の生活《せいかつ》に慣《な》れてしまいました。そして、いまではあまり生《う》まれた国《くに》のことなどを思《おも》い出《だ》さなくなったようです。境遇《きょうぐう》というものは、しぜんにその性質《せいしつ》までも変《か》えてしまうのでした。  子供《こども》の時分《じぶん》に、この熱《あつ》い国《くに》の動物園《どうぶつえん》に連《つ》れられてきた白《しろ》いくまは、もう年《とし》をとってしまいました。  ある日《ひ》のこと、やしの樹《き》の木蔭《こかげ》で、青《あお》い着物《きもの》をきて、白《しろ》い布《きれ》を頭《あたま》に巻《ま》いた係《かかり》の男《おとこ》が、大《おお》きなパイプで、いい香気《こうき》のするたばこをすぱすぱと吸《す》って、石《いし》に腰《こし》をかけて、考《かんが》え顔《がお》をしていました。  そこへ、一人《ひとり》の紳士《しんし》が、令嬢《れいじょう》をつれて通《とお》りかかりました。この紳士《しんし》は日《ひ》ごろから、この動物園《どうぶつえん》の男《おとこ》を知《し》っているとみえまして、にっこりと笑《わら》って、顔《かお》を見合《みあ》わせると、 「このごろ、しろくまはおとなしくなりましたね。」といいました。  パイプをくわえていた男《おとこ》は、青《あお》い煙《けむり》を吹《ふ》きながら、 「いまも、しろくまのことを、私《わたし》は、考《かんが》えていたのです。このごろは、あんまり水《みず》の中《なか》へも、たくさんは飛《と》び込《こ》まないし、暴《あば》れまわったということもありません。まったくおとなしくなりましたよ。それは、まことにけっこうなことなんですが、困《こま》りましたのは、あんまりチョコレートを食《た》べたもので、歯《は》がすっかり、もうだめになってしまったんです。」と、男《おとこ》は、答《こた》えたのです。  紳士《しんし》と令嬢《れいじょう》は、思《おも》わず笑《わら》いました。 「じゃ、人間《にんげん》にかみつく心配《しんぱい》がなくていいじゃないか?」と、紳士《しんし》はいいました。  パイプをくわえた男《おとこ》も、からからと笑《わら》いました。 「まったく、そうです。あんな鉄格子《てつごうし》のおりに入《い》れておく必要《ひつよう》はありませんね。」といいました。  チョコレートを食《た》べたために、歯《は》がなくなってしまったしろくまの話《はなし》が新聞《しんぶん》に出《で》ると、いままでよりいっそうこの無邪気《むじゃき》なくまの人気《にんき》が募《つの》ったのであります。毎日《まいにち》動物園《どうぶつえん》へ見物人《けんぶつにん》が押《お》し寄《よ》せてまいりました。白《しろ》いくまは、いままでよりか、もっとにぎやかになったのを喜《よろこ》びました。そして、みんなの方《ほう》を向《む》いて、頭《あたま》を上下《じょうげ》に振《ふ》ったり、体《からだ》を左右《さゆう》に揺《ゆ》すったりしました。「チョコレートをやってはなりません」と、札《ふだ》が立《た》てられたにかかわらず、あいかわらずオペラバッグから、女《おんな》たちはチョコレートを出《だ》して、投《な》げてやりました。  歯《は》のなくなったくまを、いつまでもおりの中《なか》へいれておく必要《ひつよう》がないという説《せつ》も出《で》ました。動物園《どうぶつえん》では、立《た》て札《ふだ》に書《か》いてあるような、猛獣《もうじゅう》の性質《せいしつ》がなくなってしまうと、この白《しろ》いくまの処分《しょぶん》に困《こま》りました。このことを、あるりこうな香具師《やし》が聞《き》き込《こ》みました。彼《かれ》は、あまり金《かね》を出《だ》さないで、白《しろ》いくまを手《て》にいれたのであります。  香具師《やし》は、白《しろ》いくまを長《なが》く、その内《うち》にいれてあったおりからつれ出《だ》して、動物園《どうぶつえん》を去《さ》りました。足《あし》のつめは切《き》り、危《あぶ》ないような歯《は》はみんな取《と》ってしまって、白《しろ》いくまを自由《じゆう》にさせてやりました。くまは、これを苦痛《くつう》と思《おも》うどころでなく、広々《ひろびろ》とした世界《せかい》へ出《で》られたのを喜《よろこ》びました。もう、このごろは、生《う》まれた国《くに》の夢《ゆめ》も見《み》ることがなければ、氷《こおり》の上《うえ》を駆《か》けて遊《あそ》んだ子供《こども》の時分《じぶん》のことも忘《わす》れてしまって、オペラバッグを見《み》るとチョコレートを投《な》げてくれないかと、目《め》を細《ほそ》くしているのであります。  香具師《やし》は、白《しろ》いくまに、紅《あか》い日《ひ》がさを差《さ》して踊《おど》ることなどを教《おし》え込《こ》みました。白《しろ》いくまは、物覚《ものおぼ》えのいいほうではなかったけれど、後足《あとあし》で立《た》ち上《あ》がることや、ダンスのまねなどをするようになりました。  この南《みなみ》の国《くに》の熱《あつ》い午後《ごご》のこと、町《まち》のはずれの広場《ひろば》でいろいろと手品《てじな》や、唄《うた》や、踊《おど》りなどをしてみせている興行物《こうぎょうもの》がありました。その中《なか》には、この白《しろ》いくまのダンスも混《ま》じっていました。くろんぼが笛《ふえ》や、らっぱを吹《ふ》き、鉦《かね》などをたたくと、白《しろ》いくまが、赤《あか》と緑《みどり》のまじった布《きれ》を腹《はら》に巻《ま》いて紅《あか》い日《ひ》がさを差《さ》しながらダンスをはじめたのです。このとき、みんなは、手《て》をたたいてはやしました。 「あれが、チョコレートで歯《は》をなくしてしまった、動物園《どうぶつえん》にいたしろくまだよ。」と、子供《こども》たちはいいました。  香具師《やし》は、広場《ひろば》に、響《ひび》きわたるような声《こえ》で、 「これは、北極《ほっきょく》の方《ほう》に生《う》まれたしろくまです。かわいそうに、こんなに遠《とお》いところへきていますが、また、みなさまにひどくかわいがられてしあわせ者《もの》です。動物園《どうぶつえん》から出《だ》されたとき、生《う》まれた国《くに》へ帰《かえ》してやろうと思《おも》いましたが、くまのいうのに、こんなに年《とし》を取《と》って、歯《は》がなくなって、国《くに》へ帰《かえ》るより、やはりみなさまにかわいがられて、チョコレートをもらって食《た》べているほうがいいというのです。……どうぞ芸《げい》は、未熟《みじゅく》ですが、遠《とお》いところからきていると思《おも》ってかわいがってやってください。」といいました。  この熱《あつ》い国《くに》から、世界《せかい》のいたるところへ、はるばる輸出《ゆしゅつ》されるココアの罐《かん》や、チョコレートのブリキ製《せい》の箱《はこ》の上《うえ》に、くまが日《ひ》がさをさして、やしの木《き》のある野原《のはら》で踊《おど》っている絵《え》があります。  北極《ほっきょく》の方《ほう》近《ちか》くまでそれはゆくであろうが、これは、このしろくまを描《えが》いたものです。 [#1段階小さな文字]☆ 香具師《やし》――縁日《えんにち》や祭《まつ》りなどで、見《み》せ物《もの》などを興業《こうぎょう》する人《ひと》や、品物《しなもの》を売《う》る人《ひと》。[#小さな文字終わり] 底本:「定本小川未明童話全集 5」講談社    1977(昭和52)年3月10日第1刷 底本の親本:「未明童話集4」丸善    1930(昭和5)年7月20日発行 初出:「良友」    1926(大正15)年10〜11月 ※表題は底本では、「白《しろ》いくま」となっています。 ※初出時の表題は「白い熊」です。 ※本文末の注記の「一〇八ページ」は省略しました。 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:へくしん 2019年10月29日作成 2020年11月1日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。