風の寒い世の中へ 小川未明 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)お嬢《じょう》さん |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)二、三|日《にち》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#7字下げ] ------------------------------------------------------- [#7字下げ]一[#「一」は中見出し]  お嬢《じょう》さんの持《も》っていましたお人形《にんぎょう》は、いい顔《かお》で、めったに、こんなによくできたお人形《にんぎょう》はないのでしたが、手《て》もとれ、足《あし》もこわれて、それは、みるから痛《いた》ましい姿《すがた》になっていました。  けれど、お嬢《じょう》さんは、そのお人形《にんぎょう》に美《うつく》しい着物《きもの》をきせて、本箱《ほんばこ》の上《うえ》にのせておきました。かわいらしい顔《かお》つきをしたお人形《にんぎょう》は、いつでもにこやかに笑《わら》っていました。そして、あちらに、かかっている柱時計《はしらどけい》を小《ちい》さな黒《くろ》い目《め》でじっと見《み》つめていたのです。  お人形《にんぎょう》には、このお嬢《じょう》さんのへやのうちが、広《ひろ》い世界《せかい》でありました。まだ、これよりほかの世《よ》の中《なか》を見《み》たことがありません。それでお人形《にんぎょう》は、満足《まんぞく》しなければならなかったのです。なぜなら、このへやは、住《す》みよくて、そして、ここにさえいれば、まことに安心《あんしん》であったからでありました。 「どうか、いつまでもここに置《お》いてくださればいい……。」と、お人形《にんぎょう》は、思《おも》っているようにさえ見《み》えました。  ほんとうに、平常《へいぜい》は、そんな不安《ふあん》も感《かん》じないほど、このへやの中《なか》は平和《へいわ》で、お嬢《じょう》さんの笑《わら》い声《ごえ》などもして、にぎやかであったのです。  ある日《ひ》のこと、お嬢《じょう》さんは、本箱《ほんばこ》の中《なか》をさがして、なにかおもしろそうな書物《しょもつ》はないかと、頭《あたま》をかしげていましたが、そのうちに、気《き》が変《か》わって、お人形《にんぎょう》に目《め》を向《む》けました。 「お人形《にんぎょう》の着物《きもの》も、だいぶ色《いろ》が褪《さ》めてしまったこと。こんどお母《かあ》さんに、いいお人形《にんぎょう》を買《か》っていただきましょう……。」そういいながら、手《て》に取《と》りあげて、お人形《にんぎょう》を見《み》ますと、お人形《にんぎょう》の手《て》はとれ、足《あし》もないので、お嬢《じょう》さんはいい気持《きも》ちはしませんでした。 「いくらいいお人形《にんぎょう》だって、また、どんなにいい顔《かお》だって、こんな不具《かたわ》なものはしかたがないわ。」  そういって、お嬢《じょう》さんは、お人形《にんぎょう》を机《つくえ》のそばにおいたくずかごの中《なか》へいれてしまいました。  お人形《にんぎょう》は、くずかごの中《なか》にいれられて、半日《はんにち》ほどそのかごの中《なか》にいました。もう、ここでは、いままで毎日《まいにち》のように見《み》た時計《とけい》を見《み》ることもできません。くずかごの中《なか》は、うす暗《ぐら》く、それに息《いき》づまるように狭苦《せまくる》しくありました。ただ、そこにいる間《あいだ》は、なつかしいお嬢《じょう》さんの唄《うた》の声《こえ》を聞《き》いたのでありましたが、その顔《かお》を見《み》ることはできませんでした。  そのうちに、下女《げじょ》が、このへやにはいってきて、あたりをそうじしました。そして、最後《さいご》に机《つくえ》のそばにあったくずかごを持《も》って、はしご段《だん》を降《お》りてゆきました。  はしご段《だん》を降《お》りたことは、お人形《にんぎょう》にとって、知《し》らない世界《せかい》へいよいよ出《で》ていったことになります。いままで、長《なが》い間《あいだ》住《す》みなれた、平和《へいわ》な、にぎやかな、明《あか》るい、変《か》わったことの何事《なにごと》もなかった、このへやに別《わか》れを告《つ》げて、思《おも》いがけもない、まだ見《み》もしない、知《し》りもしない、世界《せかい》に出《で》てゆくことになったのでした。そして、そのことは、人形《にんぎょう》ばかりでなく、お嬢《じょう》さんもこれから、いままでかわいがった、自分《じぶん》のお人形《にんぎょう》がどうなるかということは、考《かんが》えつかなかったことでありました。 [#7字下げ]二[#「二」は中見出し]  下女《げじょ》は、無神経《むしんけい》に、くずかごを外《そと》の大《おお》きなごみ箱《ばこ》のところへ持《も》っていって、すっかりその箱《はこ》の中《なか》へ捨《す》ててしまいました。くずかごの中《なか》に、いったいどんなものがはいっているかということも、そのときは頭《あたま》に考《かんが》えずに、まったくほかのことを思《おも》っていました。そして、下女《げじょ》は、ふたをしてしまいました。  ごみ箱《ばこ》の中《なか》で、お人形《にんぎょう》は、黄色《きいろ》なみかんの皮《かわ》や、赤《あか》いりんごの皮《かわ》や、また、魚《さかな》の骨《ほね》や、白《しろ》い紙《かみ》くずや、茶《ちゃ》がらなどといっしょにいましたが、もとより箱《はこ》の中《なか》には、光線《こうせん》がささないから、真《ま》っ暗《くら》でありました。  こうして、そこにお人形《にんぎょう》は、幾日《いくにち》ばかりいましたでしょう。もはや、そこでは、時計《とけい》も見《み》えなければ、また、あのなつかしいお嬢《じょう》さんの唄《うた》の声《こえ》も聞《き》くことができませんでした。  そのうちに、そうじ人《にん》がやってきました。彼《かれ》は、箱《はこ》のふたを開《あ》けると、大《おお》きなざるの中《なか》へ、箱《はこ》の中《なか》のごみをすっかりあけてしまいました。そして、それを車《くるま》の上《うえ》についている大《おお》きな箱《はこ》に移《うつ》してしまいました。お人形《にんぎょう》は、ごみの中《なか》にうずまってしまったのです。  これから、自分《じぶん》は、どんなところへ持《も》ってゆかれるのか、お人形《にんぎょう》の小《ちい》さな頭《あたま》の中《なか》では、想像《そうぞう》もつかなかったのであります。ただ、そのうちに車《くるま》がゴロゴロと動《うご》きはじめたのを知《し》るばかりでありました。  この車《くるま》が、街《まち》の中《なか》を通《とお》り、街《まち》を出《で》はずれてから、道《みち》のわるい、さびしい村《むら》の方《ほう》へはいっていったことも、もとよりお人形《にんぎょう》にはわかりませんでした。  やがて、この大《おお》きなごみ箱《ばこ》をのせた車《くるま》は、あるさびしい郊外《こうがい》のくぼ地《ち》に着《つ》くと、そこのところでとまりました。そして、たくさんのごみといっしょくたに、くぼ地《ち》の中《なか》へあけられました。くぼ地《ち》には、こうして運《はこ》ばれてきたごみが、すでにうずたかく積《つ》まれていましたけれど、まだそのくぼ地《ち》をうずめてしまうまでにはなりませんでした。  そうじ人《にん》は、ごみための箱《はこ》の中《なか》のごみをあけてしまうと、空《あ》き車《ぐるま》を引《ひ》いて、あちらへ帰《かえ》ってゆきました。お人形《にんぎょう》は、くぼ地《ち》の中《なか》へ仰向《あおむ》けにされて、ほかのごみくずの蔭《かげ》になって捨《す》てられていたのであります。 「ああ、ここはどこだろう?」と思《おも》って、お人形《にんぎょう》は、あたりを見《み》ますと、さびしい野原《のはら》の中《なか》で、上《うえ》には、青空《あおぞら》が見《み》えたり、隠《かく》れたりしていました。そして、寒《さむ》い風《かぜ》が吹《ふ》いていました。そばに、雑木林《ぞうきばやし》があって、その葉《は》の落《お》ちた小枝《こえだ》を風《かぜ》が揺《ゆ》すっているのでした。  お人形《にんぎょう》は、寒《さむ》くて、寂《さび》しくて、悲《かな》しくなりました。いままでいたお嬢《じょう》さんのへやが、恋《こい》しくなりました。本箱《ほんばこ》の上《うえ》に、平和《へいわ》で、雨《あめ》や、風《かぜ》から遁《のが》れて、まったく安心《あんしん》していられた時分《じぶん》のことを思《おも》い出《だ》して、なつかしくてなりませんでした。そして、どうしたら、ふたたび、お嬢《じょう》さんのそばへゆき、あの住《す》みなれたへやに帰《かえ》られるだろうかと思《おも》っていました。  ある晩《ばん》のことです。お嬢《じょう》さんは、ふと、いままで本箱《ほんばこ》の上《うえ》に置《お》いた、お人形《にんぎょう》のことを思《おも》い出《だ》していました。そして、下女《げじょ》を呼《よ》んで、 「あれから、ごみ屋《や》さんがきて?」といって、たずねました。 「今朝《けさ》きて、すっかり持《も》っていってしまいました。」と、下女《げじょ》は答《こた》えました。  お嬢《じょう》さんは、人形《にんぎょう》の行方《ゆくえ》を思《おも》ったのでした。しかし、それは、どこへ、どうなってしまったものか、ほとんど想像《そうぞう》のつかないことでした。 「つい、二、三|日《にち》前《まえ》まで、私《わたし》といっしょにこのへやの中《なか》にいたのに……。」と思《おも》うと、お嬢《じょう》さんは、ほんとうにかわいそうなことをしたものと後悔《こうかい》したのであります。  捨《す》てられたお人形《にんぎょう》は、一晩《ひとばん》、ものさびしい野原《のはら》の中《なか》で、露宿《ろじゅく》しました。嵐《あらし》の音《おと》をきいておそれていました。気味悪《きみわる》く光《ひか》る星影《ほしかげ》を見《み》ておののいていました。しかし、幸《さいわ》いに、雨《あめ》が降《ふ》らずにいましたから、着物《きもの》は霜《しも》で白《しろ》くなりましたけれど、そんなにぬれずにすみました。  夜《よ》が明《あ》けると、雑木林《ぞうきばやし》のこちらへ差《さ》し出《で》た枝《えだ》に、からすがきて止《と》まって、鳴《な》いていました。これを見《み》ながら、お人形《にんぎょう》は、お嬢《じょう》さんはいま時分《じぶん》、起《お》きて、学校《がっこう》へゆく支度《したく》をなさっているだろう? などと思《おも》っていました。 [#7字下げ]三[#「三」は中見出し]  その日《ひ》の昼《ひる》ごろのことであります。どこからかみすぼらしいふうをした、乞食《こじき》の子《こ》が、このごみためへはいってきました。そして、ごみを分《わ》けて、なにかないかとあさっていました。乞食《こじき》の子《こ》はかん詰《づ》めの空《あ》いたのや、空《あ》きびんなどを撰《よ》っていますうちに、お人形《にんぎょう》を見《み》つけて、手《て》に取《と》りあげました。そして、これを袋《ふくろ》の中《なか》へいれて、街《まち》の方《ほう》へと歩《ある》いてゆきました。  ごみための中《なか》から、去《さ》ったお人形《にんぎょう》は、この後《のち》どうなるだろうと、袋《ふくろ》の中《なか》で思《おも》っていました。  乞食《こじき》の子《こ》は、街《まち》の方《ほう》へ歩《ある》いてゆきました。そして、町《まち》はずれにあった、一|軒《けん》の小《ちい》さな家《うち》の前《まえ》へくると、その家《うち》をのぞいて声《こえ》をかけたのです。その家《うち》は、店《みせ》さきに、いろいろの泥人形《どろにんぎょう》を並《なら》べていました。家《うち》の中《なか》から、おじいさんが顔《かお》を出《だ》しました。すると、子供《こども》は、袋《ふくろ》の中《なか》から、拾《ひろ》ってきた人形《にんぎょう》を取《と》りだして、おじいさんに見《み》せました。おじいさんは、手《て》にとって、それをながめますと、 「ああ、これはいい人形《にんぎょう》だ。私《わたし》が、手足《てあし》をつけて、ひとつりっぱな人形《にんぎょう》にこしらえてみせよう。」といって、子供《こども》に、いくらかの金《かね》をやりました。子供《こども》は、喜《よろこ》んであちらへ去《さ》りました。  お人形《にんぎょう》が、人《ひと》の好《い》いおじいさんの仕事場《しごとば》へつれてゆかれました。その仕事場《しごとば》には、いろいろ、さるや、犬《いぬ》や、人《ひと》や、また、ねこなどの形《かたち》が造《つく》られていました。これらの粘土細工《ねんどざいく》は、驚《おどろ》いた顔《かお》つきをして、急《きゅう》に、その仕事場《しごとば》へはいってきた派手《はで》な着物《きもの》を着《き》たお人形《にんぎょう》を見《み》つめているようすでした。  おじいさんは、眼鏡《めがね》をかけて、このお人形《にんぎょう》の手《て》を造《つく》り、足《あし》を造《つく》ってくれました。そうして、その手《て》や、足《あし》を、ちょうど顔《かお》の色《いろ》と同《おな》じように、白《しろ》く塗《ぬ》ってくれました。お人形《にんぎょう》は、これで、どうやら、不具《かたわ》でない、満足《まんぞく》の姿《すがた》になったのであります。 「ああ、こうなればりっぱなものだ。顔《かお》がきれいなのだから、きっと、だれか目《め》につけるにちがいない……。」といって、おじいさんは、この人形《にんぎょう》を自分《じぶん》の家《うち》の小《ちい》さな店《みせ》さきに、ほかのおもちゃといっしょに並《なら》べておきました。  お人形《にんぎょう》は、お嬢《じょう》さんから着《き》せてもらったままの着物《きもの》でありましたが、手足《てあし》ができて、満足《まんぞく》な姿《すがた》になると、いくらか色《いろ》の褪《あ》せた着物《きもの》も、なかなかりっぱに見《み》えたのであります。  お人形《にんぎょう》は、この家《うち》の店《みせ》ききに並《なら》べられてからは、あの野原《のはら》のくぼ地《ち》に捨《す》てられたような心細《こころぼそ》さは感《かん》じなかったけれど、いつまでも、お嬢《じょう》さんのへやにいた時分《じぶん》のことを忘《わす》れることはできなかったのです。そして、行《ゆ》く末《すえ》のことなどを考《かんが》えると、希望《きぼう》もひらめきましたが、また心細《こころぼそ》くもありました。自分《じぶん》がこんな満足《まんぞく》な姿《すがた》になったのを、もしや、お嬢《じょう》さんが、この家《うち》の前《まえ》を通《とお》りかかってごらんになったら、ふたたび連《つ》れて帰《かえ》ってくださらないものでもないと、さまざまに思《おも》って、お人形《にんぎょう》は、その日《ひ》、その日《ひ》、家《うち》の前《まえ》を通《とお》る人々《ひとびと》をながめていました。 [#地付き]――一九二四・一二―― 底本:「定本小川未明童話全集 5」講談社    1977(昭和52)年3月10日第1刷 初出:「赤い鳥」    1925(大正14)年3月 ※表題は底本では、「風《かぜ》の寒《さむ》い世《よ》の中《なか》へ」となっています。 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:江村秀之 2014年1月18日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。