いいおじいさんの話 小川未明 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)美《うつく》しい |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)一|面《めん》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#地付き]――一九二五・一二作―― -------------------------------------------------------  美《うつく》しい翼《つばさ》がある天使《てんし》が、貧《まず》しげな家《いえ》の前《まえ》に立《た》って、心配《しんぱい》そうな顔《かお》つきをして、しきりと内《うち》のようすを知《し》ろうとしていました。  外《そと》には寒《さむ》い風《かぜ》が吹《ふ》いています。星《ほし》がきらきらと枯《か》れた林《はやし》のいただきに輝《かがや》いて、あたりは一|面《めん》に真《ま》っ白《しろ》に霜《しも》が降《お》りていました。天使《てんし》は見《み》るもいたいたしげに、素跣《すはだし》で霜柱《しもばしら》を踏《ふ》んでいたのであります。  天使《てんし》は自分《じぶん》の身《み》の寒《さむ》いことなどは忘《わす》れて、ただこの貧《まず》しげな家《いえ》のようすがどんなであろうということを、知《し》りたいと思《おも》っているふうに見《み》えました。家《いえ》の内《うち》にはうす暗《ぐら》い燈火《とうか》がついて、しんとしていました。まだ眠《ねむ》る時分《じぶん》でもないのに話《はな》し声《ごえ》もしなければ、笑《わら》い声《ごえ》もしなかったのであります。  このとき、ちょうど同《おな》じ村《むら》に住《す》んでいる、人《ひと》のいいおじいさんが、山《やま》の小舎《こや》でおそくなるまで働《はたら》いて、そこを通《とお》りかかったのであります。そして、おじいさんは天使《てんし》を見《み》ると、そばへいってどうしたのかと問《と》うたのであります。  天使《てんし》はおじいさんを見上《みあ》げて、 「近《ちか》いうちに、この家《いえ》へ天《てん》から子供《こども》を一人《ひとり》よこそうと思《おも》うのですが、心配《しんぱい》でなりません。この寒《さむ》いのに、子供《こども》がどうしてつらいめをしないものでもないと思《おも》うと、なんとなく案《あん》じられて、私《わたし》はこの家《いえ》のようすを見《み》にやってきたのであります。それだのにこの家《いえ》はしんとして、笑《わら》い声《ごえ》ひとつしないので、どうしたのであろうと考《かんが》えていたのであります。」といいました。  おじいさんは天使《てんし》のいうことを聞《き》いて、もっともだといわぬばかりにうなずきました。 「それにちがいありません。俺《わし》がよく亭主《ていしゅ》の心持《こころも》ちを聞《き》いてみます……。」と、おじいさんは申《もう》しました。  天使《てんし》は木枯《こが》らしの吹《ふ》く中《なか》を、いずこへとなく歩《ある》いて去《さ》りました。その後《あと》を見送《みおく》って、おじいさんは、よくこのときの神《かみ》さまのお心持《こころも》ちがわかったのでした。 「ほんとうにこの家《いえ》の亭主《ていしゅ》にも困《こま》ったものだ。女房《にょうぼう》がもうじきお産《さん》をするというに、働《はたら》いた金《かね》はみんな酒《さけ》を飲《の》んでしまう……。なんということだ。今夜《こんや》もあの居酒屋《いざかや》に酔《よ》いつぶれているにちがいない……。」と、おじいさんは村《むら》はずれの居酒屋《いざかや》をさして、疲《つか》れている足《あし》を運《はこ》びました。  いってみると、はたして亭主《ていしゅ》は、そこで酔《よ》っているのでした。おじいさんは意見《いけん》をしてやろうと思《おも》いましたが、このようすではなにをいっても、いまはこの男《おとこ》の耳《みみ》にはいらないと思《おも》いましたので、明日《あす》酔《よ》いのさめているときにするつもりで、家《いえ》にもどったのであります。  その亭主《ていしゅ》は大工《だいく》でありました。あくる日《ひ》、仕事場《しごとば》で彼《かれ》は休《やす》みの時間《じかん》に火《ひ》を焚《た》いてあたっていました。  いい天気《てんき》でありました。冬《ふゆ》ではあったが日《ひ》があたたかに当《あ》たると、小鳥《ことり》が枯《か》れた木立《こだち》にきて鳴《な》いています。青《あお》い煙《けむり》は、さびしくなった圃《はたけ》の上《うえ》をはって、林《はやし》の中《なか》へとただよってゆきました。彼《かれ》はぼんやりと、なにか頭《あたま》の中《なか》で考《かんが》えているらしく見《み》えたのであります。 「こんにちは。」といって、おじいさんは若者《わかもの》のそばへ近《ちか》づきました。  若者《わかもの》はだれかと思《おも》って見《み》ると、人《ひと》のよいおじいさんなものですから、 「こんにちは、いいお天気《てんき》ですの、風《かぜ》が寒《さむ》いから火《ひ》におあたんなさい。」といいました。  それから二人《ふたり》は、いろいろな話《はなし》をしましたが、そのうちにおじいさんは、 「おまえさんのところにも、もうじき赤《あか》ん坊《ぼう》が産《う》まれるようだが、もし子供《こども》がいらないなら、ほしいという人《ひと》があるから、やる気《き》はないか?」といいました。  これを聞《き》くと、若者《わかもの》は急《きゅう》に怒《いか》りだしました。 「大事《だいじ》な子供《こども》をなんで他人《たにん》にやれるものか。おじいさんいくら人《ひと》がよくても、また頼《たの》まれたからといって、そんなばかなことをいうものじゃない。」といったのであります。  おじいさんは、にこにこと笑《わら》って、 「それは俺《おれ》が悪《わる》かった。おまえさんは酒《さけ》ばかり飲《の》んで、女房《にょうぼう》の身《み》の上《うえ》も思《おも》わなければ、赤《あか》ん坊《ぼう》が産《う》まれる仕度《したく》もしていないようすなので、おまえさんは子供《こども》がかわいくないのだろうと思《おも》ったからいったのだ。赤《あか》ん坊《ぼう》は、この寒《さむ》い時分《じぶん》に生《う》まれてくるのだから、それを思《おも》ったら、あたたかに仕度《したく》しておいてやらなければならん……。そうでないかな。」と、おじいさんはいいました。  若者《わかもの》は、酒《さけ》に酔《よ》っていませんから、よくおじいさんのいうことがわかりました。自分《じぶん》が悪《わる》かったと思《おも》いました。若者《わかもの》は頭《あたま》をかきながら、 「私《わたし》がわるかった。ほんとうに、まだ子供《こども》のことを考《かんが》えていなかった。女房《にょうぼう》が、わがままですこし気《き》にいらないことがあると、がみがみいうもんだから、つい外《ほか》で飲《の》んでしまうのだが、考《かんが》えてみりゃ子供《こども》のために我慢《がまん》するんだった……。」と、若者《わかもの》は心《こころ》から感《かん》じたのであります。  おじいさんは、たいそう喜《よろこ》びました。その後《のち》のこと、夜《よる》、この大工《だいく》の家《いえ》の前《まえ》を通《とお》りますと、大工《だいく》は家《いえ》にいて、女房《にょうぼう》の話《はな》し声《ごえ》もすれば、なんとなく陽気《ようき》でありました。 「これなら、もう、安心《あんしん》だ。」と、おじいさんは、思《おも》いました。  ある夜《よ》のこと、星《ほし》の光《ひかり》は、凍《こお》ったように白《しろ》く見《み》えたけれど、もう、やがて春《はる》がきかかっているのがわかりました。おじいさんは、山《やま》で仕事《しごと》をして、おそく帰《かえ》ってきますと、いつかの天使《てんし》が、大工《だいく》の家《いえ》の窓《まど》の下《した》に、しょんぼりと立《た》っていました。いつかのように素跣《すはだし》で、脊《せ》に白《しろ》い翼《つばさ》がありました。  おじいさんは、神《かみ》さまというものは、一人《ひとり》の子供《こども》をこの世《よ》の中《なか》に送《おく》るために、これほど気遣《きづか》われるものかということをはじめて知《し》りました。 「この家《や》の亭主《ていしゅ》は、もうあのときから、酒《さけ》をやめて、子供《こども》の生《う》まれる仕度《したく》をしています。あのように二人《ふたり》が、楽《たの》しそうに話《はなし》をしている声《こえ》がきこえています。もう、ご心配《しんぱい》なさることはありません……。」と、おじいさんは、いいました。  やさしい、美《うつく》しい天使《てんし》は、それでも、まだなんとなく安心《あんしん》しない気持《きも》ちをして、涙《なみだ》に光《ひか》った目《め》を、いたいたしげな自分《じぶん》の足《あし》もとに落《お》としていました。 「俺《わし》は、はじめて、あなたのお姿《すがた》を見《み》たのでありますが、どの人《ひと》も、この世《よ》の中《なか》に生《う》まれてくる時分《じぶん》には、こうして、神《かみ》さまがご心配《しんぱい》なさるものでございましょうか。」と、おじいさんは、天使《てんし》に向《む》かって聞《き》きました。  天使《てんし》は、この長《なが》い年月《としつき》を、生活《せいかつ》と戦《たたか》ってきて、いまこのように疲《つか》れて見《み》えるおじいさんの清《きよ》らかな目《め》をうつしながら、 「どの人《ひと》が生《う》まれてくるときも、健《すこ》やかに、平和《へいわ》に育《そだ》つようにと思《おも》って、心配《しんぱい》するかしれません。そして、親《おや》たちは、みんな子供《こども》を大事《だいじ》にしなければならないと思《おも》いますのに、いつか自分《じぶん》たちのことにかまけて、忘《わす》れてしまいます。生《う》まれない前《まえ》までは神《かみ》の力《ちから》で、どうにもすることができるけれど、ひとたび、世《よ》の中《なか》のものとなってしまえば、神《かみ》の力《ちから》のとどくはずはありません。人間《にんげん》にすべてを悟《さと》る力《ちから》を神《かみ》は与《あた》えたはずですけれど、それを忘《わす》れてしまえばまた、どうすることもできないのです……。」と、天使《てんし》は答《こた》えました。  おじいさんは、天使《てんし》の話《はなし》を聞《き》いているうちに、遠《とお》い過去《かこ》の、青春《せいしゅん》の時代《じだい》に、自分《じぶん》の魂《たましい》が帰《かえ》ったように感《かん》じました。あの時分《じぶん》から、自分《じぶん》は正《ただ》しく生《い》きようと心《こころ》がけてきたが、顧《かえり》みればまだどれほど後悔《こうかい》されることの多《おお》かったことかしれない。若《わか》いものは、これから、一|生《しょう》をもったいなく思《おも》って、ほんとうに有益《ゆうえき》に、正《ただ》しく送《おく》らなければならないだろう……と思《おも》いました。 「よく、あなたのおっしゃることがわかりました。よく、この家《いえ》の女房《にょうぼう》にも、子供《こども》をしからないように、注意《ちゅうい》しますし、みんなが、いい生活《せいかつ》をするように、私《わたし》の力《ちから》で、できるかぎり心《こころ》がけさせます。」と、おじいさんは誓《ちか》いました。  いつしか、白《しろ》い天使《てんし》の姿《すがた》は、どこへか消《き》えてしまいました。  幾何《いくばく》もなくして、この家《いえ》に、赤《あか》ん坊《ぼう》が生《う》まれました。それからというもの、女房《にょうぼう》は、ほんとうにやさしい、いいお母《かあ》さんとなり、亭主《ていしゅ》はよく働《はたら》く大工《だいく》となって、二人《ふたり》は、赤《あか》ん坊《ぼう》の顔《かお》を見《み》るのが、なによりの楽《たの》しい、なぐさめとなったのであります。  おじいさんは、仕事《しごと》の帰《かえ》りに、この家《うち》へ立《た》ち寄《よ》って、平和《へいわ》な有《あ》り様《さま》を見《み》るのが、またなによりの喜《よろこ》びでありました。  そして、何人《なんぴと》によらず、子供《こども》をしかるのを見《み》ると、おじいさんは、 「おまえが生《う》んだから、自分《じぶん》のものだとばかり思《おも》ってはいけない。神《かみ》さまこそ、ほんとうのこの子供《こども》のお母《かあ》さんだから、自分《じぶん》の機嫌《きげん》にまかせて、子供《こども》を育《そだ》ててはならない。」といいました。  村《むら》の人《ひと》たちは、いまごろ、神《かみ》さまなどというおじいさんをばかにして、笑《わら》っていました。 「おじいさん、神《かみ》さまの子供《こども》なら、人間《にんげん》は、神《かみ》さまでなければならないじゃないか、それだのにいい人《ひと》もあれば、わるい人《ひと》もある。これは、どうしたことだ?」と問《と》いました。  そのとき、おじいさんは、いつか天使《てんし》が、 「人間《にんげん》は生《う》まれてくるとき、すべての悟《さと》る力《ちから》を授《さず》けられてきたのだが、いつか忘《わす》れてしまって、正《ただ》しい生活《せいかつ》ができなくなったのだ……。」といったことを思《おも》い出《だ》しました。  おじいさんは、そんなことをこの人《ひと》たちにいっても信《しん》じてくれないと思《おも》いました。まして、自分《じぶん》が、翼《つばさ》のある天使《てんし》を見《み》たなどといっても、大工《だいく》の夫婦《ふうふ》はじめ、それをほんとうにしてはくれないと思《おも》いました。  そう思《おも》うと、おじいさんは、さすがに悲《かな》しかったのであります。  おじいさんは、どうかもう一|度《ど》、天使《てんし》を見《み》たいと思《おも》いました。そうしたら、今度《こんど》こそよく見《み》ておこう……。そして、ほかの人《ひと》にもそっと知《し》らしてやろうと思《おも》いました。けれど、ふたたび、天使《てんし》を見《み》ることはできませんでした。  そのうちに、春《はる》になりました。長《なが》い冬《ふゆ》の間《あいだ》じっとしていた草木《そうもく》は、よみがえって、空《そら》は緑色《みどりいろ》に、あたたかな風《かぜ》が吹《ふ》きました。おじいさんは、空《そら》に向《む》かって、黙《だま》って感謝《かんしゃ》しました。 [#地付き]――一九二五・一二作―― 底本:「定本小川未明童話全集 5」講談社    1977(昭和52)年3月10日第1刷発行 ※表題は底本では、「いいおじいさんの話《はなし》」となっています。 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:雪森 2013年4月10日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。