『日本石器時代提要』のこと 中谷宇吉郎 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)菊判《きくばん》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)弟|治宇二郎《じうじろう》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#地から2字上げ](昭和三十年七月十九日) -------------------------------------------------------  弟|治宇二郎《じうじろう》が書いた本というのは、表題の『日本石器時代提要』であって、菊判《きくばん》三百ページくらいの堂々たる体裁であった。評判も大分良かったらしく、『朝日新聞』の書評でも「年齢わずか三十歳の著者が」と、大いに褒めてあった。しかし本当は、当時二十七歳くらいだったので、ひどく早熟な方であった。  語学には、妙な才能をもっていて、来た時は仏蘭西《フランス》語はボン・ジュールくらいしか知らなかったのに、二カ月もしたら、もうコレジ・ド・フランスで、三十分の講演をして来たなどといって、澄ましていた。  日本を出る前に、注口土器《ちゅうこうどき》の形と紋様《もんよう》の分類をして、その型式を地図の上に描き現わして、文化(カルチュア)の中心を求めるという研究をした。その結果を英文で書いて、方々に送っておいたそうである。来て間もない頃、コレジ・ド・フランスで社会学のモリス教授の講義を冷やかしていたら「文化中心を求める中谷《なかや》の図式方法」というのが出て来て、びっくりしたそうである。講義がすんでから「それは私です」と申し出たら、モリス教授もたいへん喜んで、それから学会などにも始終顔が出せるようになった。  こういう具合に、弟の在仏生活は、大分楽しく、また仕事の方でも能率を大いにあげた。しかし勉強が過ぎて、胸を悪くした。スイスの療養所で大分静養もしたが、思わしくなく、帰って九州の由布院《ゆふいん》で闘病生活四年、遂に亡くなった。  それから五年ばかり経《た》って、日華《にっか》事変の最中、京都の出版社が、京大の梅原末治《うめはらすえじ》教授のところへ、考古学の本を一冊書いてもらいたいと頼みに行ったことがある。そしたら梅原教授は「考古学の本では、以前に出た中谷君の『提要』が非常に良い本であったが、今は絶版になっている。あれを補足して出した方がよい。私が校訂してあげる」と言われたそうである。そして同教室の小林行雄《こばやしゆきお》、岡崎敬《おかざきたかし》両君の熱心な助力を得て、初版刊行後に得られた新資料及び斯学《しがく》の進歩を採り入れて『校訂日本石器時代提要』は、菊判五百五十ページに及ぶ大著となって、再び世に出た。  原著の姿をそのままに残して、それに新しい資料を加えて、増補校訂をするということは、非常に労が多くて、しかも世間的には、功の現われない仕事である。普通は門下生が恩師の遺著について行うことが、稀《ま》れにあるという程度の話である。  梅原教授のような当代一流の学者が、その門下生でもない、他の大学の年若い一助手の遺著に対して、こういう厚意を示されたことは、空前のことであり、また絶後になるかもしれない。早くは死んだが、弟は仕合せな男であった。 [#地から2字上げ](昭和三十年七月十九日) 底本:「中谷宇吉郎随筆集」岩波文庫、岩波書店    1988(昭和63)年9月16日第1刷発行    2011(平成23)年1月6日第26刷発行 底本の親本:「百日物語」文藝春秋新社    1956(昭和31)年 初出:「西日本新聞」    1955(昭和30)年7月19日 入力:門田裕志 校正:川山隆 2013年1月4日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。