九谷焼 中谷宇吉郎 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)心懸《こころが》けて |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)間|蔵《しま》って [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)窠 -------------------------------------------------------  震災で失ったものの中で、この頃になって、惜しいと思い出したものは九谷焼である。父が心懸《こころが》けて集めたもので、古い時代のいわゆる古九谷《こくたに》と呼ばれている高価な品ではないのだが、現今大量生産でどんどん造り出している今の九谷焼と、古い時代の「真正の九谷焼」との連絡を見るために、丁度都合のよい標本であったことと、自分には父を偲《しの》ぶよすがとなる品であったので、時がたつにつれてしみじみ惜しくなって来る。  加賀《かが》の人でも、この頃では余り知っている人が少い位だから、東京の人などには、「真正の九谷焼」は余り知られていないようだ。一皿数千円もするというような骨董《こっとう》としての九谷と、夜店で売っている九谷とが、今の東京の人に知られているので、丁度その連絡をなし、現今なお古い神聖な九谷焼を護《まも》っている少数の人々のことは殆《ほとん》ど知られていない。  沿革などというと如何《いか》にも骨董家めくので、極《ごく》簡単に書くと、日本で芸術品としての陶器が出来出した頃、伊万里焼《いまりやき》を倣《なら》って後藤才次郎《ごとうさいじろう》という人が、九谷村で適当な粘土を得て造り出したのが九谷焼の起りで、前田家治卿《まえだいえはるきょう》がパトロンとなってあれだけに発達したものなのである。その頃は、今のように焦燥の生活をしなくてもよかったので、数代も名工の後裔《こうえい》が、殿様の庇護《ひご》の下《もと》で研究を続けて、一つのかまを完成したのである。  九州の話だが、柿右衛門《かきえもん》という人などは、熟柿《じゅくし》が枝に下っているのを見て、その色を出そうとして、生涯を費《ついや》して出来ず、その子がこれをついで半ば完成し、三代目に至って漸《ようや》く出来上ったという話がある位である。今の骨董家が、初代の柿右衛門などといって愛蔵しているが、よく考えて見ると、三代目柿右衛門が認められるまで、貧しい陶器工の家だったはずだが、祖父の試験的出来上り品を、今残っているほど多く、三代の間|蔵《しま》ってあったかどうか随分変な話である。売ってしまったとすると、貧しい無名の陶工のつまらぬ器物が、五十年間も破損せずに使用されていて、三代目柿右衛門の出て後《のち》、これは初代だといって急に珍重されることになる。         ○  初めて事をなす人の苦心が、九谷焼の場合にもよくあらわれている。九谷という村は、加賀の山中《やまなか》という温泉から、六、七里ばかりも渓流に沿って上った所にある山間の僻地《へきち》で、今でもよほどの物好《ものずき》でないと行けぬ位の山奥である。今は一村五十戸位の小さい村で、炭焼を生活として、九谷焼とは何の関係もなく、訪れる人とても、毎夏数人の登山者が過ぎる位の程度であろう。徳川初期の時代に、こんな処へ来て初めて、求める粘土を見出した人の隠れた努力には、しみじみ感ぜさせられる。近年この村が殆ど全焼したことがある。その時東京の新聞などでは、九谷焼の窯元《かまもと》が全滅した、当分九谷焼を産出することは出来ぬだろうなどと書いていた。  この渓流の下流の所に、山代《やましろ》という温泉と大聖寺《だいしょうじ》という人口一万ばかりの町がある。この二つが古い九谷焼の面影の幾分残っている産地なのである。私の故郷はこのすぐ近くである。  明治維新の頃、奈良の五重塔が五十円で入札《にゅうさつ》に附された頃、九谷焼も同じような悲運に会って、殆ど一時全滅していた。古い九谷焼は、この時において事実上|跡絶《とだ》えたわけである。それが、明治二十年頃からか、ぼつぼつ大聖寺山代及びその附近の村などに窯《かま》を築く人が出来て来て、こんな目立たぬ所に、九谷焼の復活の曙光《しょこう》が見えて来たのである。その人々の中でも特にルネッサンス的気分の濃い人たちが集って、九谷の村から粘土をとり寄せて熱心に旗上げをしたのであるが、余り辺僻《へんぺき》な所で、運搬の費用に耐えられなくて直《す》ぐ失敗に終った。しかしこの時、真面目《まじめ》に造り出したもので、今は真正の古九谷として、東京や大阪の富豪の蔵におさまっているものが案外多いとのことである。このことは余り知られていないことである。  それから色々の所の土を用いて、絵だけは昔の様を継いで来ていたのであるが、この頃では、尾張《おわり》などから生地《きじ》を取りよせて、絵だけをつけることにしている人も多いらしい。  父が生きていたら、憤慨することだろう。  私が小学校へは入った頃から、四里《より》ばかり離れた隣郡《となりぐん》に寺井《てらい》という町があって、そこに陶器の会社が出来た。そこでは、九谷を日用品として造り始めた。大量生産で「機械を据え」つけて、製品としてどんどん売り出したのである。これが案外販路がひらけて、四、五年の後には、この方が九谷焼としてより多く認められるようになって来た。しかしこれを老人たちは寺井焼といって、九谷焼とは称せなかった。この特徴は、手にさわると、ぼつぼつするように絵の具を盛りあげて、こってりと花などを一面に書き埋《うず》めてあるもので、よく湯呑《ゆのみ》の内部などに細《こまか》い字が一杯書いてある。私たちが見ても俗悪だと感ずる位だから、老人たちの気に入るはずはない。生地《きじ》からいっても絵からいっても、今までのどの九谷の窯とも似もつかず縁故も見出せぬものであるから、無理もないのである。勿論《もちろん》この会社は益々《ますます》発展して、今東京や金沢の陶器店でさえ、殆んど全部がこの種に属するもので、今では立派な九谷焼の代表者となっているようである。僅《わず》か十五年位の間である。分業とか機械作業とかいうものの、有効なる実証であるなどという人があるかも知れぬ。  何に感じたのか知らぬが、私が小学校へは入る頃から、父は急に、こんな事では真正の九谷焼が滅亡してしまうと言い出して、当時大聖寺町に残っていた年とった画工たちと交際したり、型のように古い陶器を集めたりしていた。私の家は別に陶器屋ではないので、父は家業のひまに、何処《どこ》から取って来たか色々の白い粘土を、火鉢の火の中に入れて見て「この色が変らなくて、嵩《かさ》の減らない粘土がよいのだ」などといっていたことがあった。随分プレリミナリーな実験である。とうとう六年の時の春休みに帰った時、窯をつくるんだといって、庭の物置の隅に高さ五|尺《しゃく》位の窯が造ってあった。簡単に粘土に壁土位でつくったものらしかった。乾くと、すぐ罅《ひび》がは入った。父は夕方になると、その前に立って、丁寧にその罅を塗りつぶしていた。するとまたすぐ罅がは入った。そして私が夏の休みに帰った時も、まだ根気よく毎日塗りつぶしていた。しかし、とうとうその秋には、窯の方で根気負けをして、太陽がかんかん照りつけても、ちっとも罅がいらぬようになった。しかしその冬から父は病気になって、四月に死んだ。父位着手の億劫《おっくう》を感ぜなくて、そして根気がよかったら、物理の実験などは、どんどん捗取《はかど》ることだろうと考えることもある。  私は小学校へは入るために、八つの春、大聖寺町の浅井一毫《あさいいちもう》という陶工の家に預けられた。その頃七十幾つかで、白い鬚《ひげ》を長く伸《のば》したよいお爺《じい》さんであった。毎日、三方|硝子戸《ガラスど》の暖い室にきちんと坐《すわ》って、朝から晩まで絵を附けていた。  その頃、「真正」の九谷焼を護《まも》る人々の間には、青絵と赤絵とが、先《ま》ず試みられていた。特に赤絵の方が盛《さかん》だった。青絵というのは、染付《そめつけ》のことで、呉須土《ごすど》で描《か》いた南画《なんが》めいた構図で、よく寒山拾得《かんざんじっとく》のような人物や山水《さんすい》などが、達筆に密画でなく描かれていた。呉須は非常にむつかしいのだそうで、これで当時一家をなしてる人はなかったようだ。赤絵という方は、朱《しゅ》で極々《ごくごく》細《こまか》く念入りに描いたもので、これには必ず金《きん》が使ってあるのが普通だった。少し離してみると、薄赤色に見えるほど細く井桁《いげた》を組んだり、七宝《しっぽう》で埋めたりするのが特徴といえる。西洋人が家へ来て、手で描いたのではない、判で押したのだといって、どうしても聴かなかったことがある位である。それから赤絵に使う金《きん》は、どうしてやるのか忘れたが、とにかく焼き上った時は鈍い黄色をしている。それを籾殻《もみがら》で力一杯|擦《こす》るのである。すると、だんだん気持のよい光沢が出て来て、金らしくなるのである。この金は、それだから、梨地《なしじ》のような光り方である。寺井焼の方の金のことを、「水金《みずきん》」だから温泉に入れるとすぐ変色するし、鍍金《めっき》のような「あだ光り」がするといって、問題にしていなかった。私も随分手伝わされて、手が痛くなったこともあった。しかし面白かった。  一毫のお爺さんは、赤絵が専門だった。殊に竜が得意らしかった。「魑魅《ちみ》を画《か》くは易《やす》し」ではなく、お爺さんの描いた竜を毎日見ていると、本当にいてもよいような気がするほどだった。しかし「竜は雲があるから描けるので、頭から尻尾《しっぽ》まで描けといわれたらちょっと困る」と話してくれたことがあった。妙に今まで忘れないでいる。  いつか、『中央美術』で紹介されたこともあるが、この一毫さんと、まだ一人、中村秋塘《なかむらしゅうとう》との二人は、この仲間の人でも同じく、滅多に自分の描いた陶器の裏に九谷と銘《めい》を入れることはない。大抵自分の名だけしか入れない。つまらぬことだが、床しいような気がする。  中村秋塘の方は変なことで知っている。小学校の三年の時か、父の厳命でこの中村秋塘さんの所へ英語を習いに通ったことがある。英語はちっとも進歩しなかったが、陶器のことは色々覚えた。真黒い関羽鬚《かんうひげ》のこわい顔にも似ず親切で好きだった。  今から考えて見ると、随分変な先生を撰《えら》んでくれたものだとも思えるが、あるいは幼い頃から、名工と名付くべき人の特殊の感化を受けるようにと、父の深遠な理想があったのかも知れない。それだのに、自分は今になってもまだ、世間的の栄誉などに心を惹《ひ》かれがちになって苦しんでいる。  秋塘さんも赤絵の方が多かった。一毫の爺さんよりも、年が若かったせいか、精力家で、精練の作をどんどん出していた。そして、その頃から随分苦心して、新しい焼を出そうと色々骨を折っていたが、私が五年位の時に、初めて半ば成功した花瓶を父が貰《もら》って来て、説明してくれたのを覚えている。名前は玉質焼といって、全然気分のかわった淡い水彩画のような感じのもので、地《じ》を卵色の琺瑯《ほうろう》で焼き付けて、模様を白く残したようなものだった。この玉質焼は、一年位の間に随分進歩して、売出す位の程度になっていた。  一毫さんは、私の中学時代に死んだ。先年国へ帰った時、三方硝子戸の室には、中学の先生とかいう、若夫婦が間借りをしていた。おばあさんが、久しぶりなので喜んで、大きくなったと褒めてくれた。秋塘さんはまだ元気だった。関羽鬚がちっとも白くなっていなかった。そして、玉質焼は益々進歩して、渋味のある立派なものになっていた。まだ改良と工夫とを怠っていないのだと見える。  大聖寺では、他にM氏といって柿右衛門の赤をよく出している人がある。蒼《あお》い顔をしたおとなしい人で、さほどの年でもないのに、この頃は余り描かないらしい。何となく、諦《あきら》めているというような感じがする。その息子は機業場の事務員となって、新調の背広を着て毎日通っていた。それが得意だったらしく、家へ帰っても仲々洋服を脱がないでいた。  金沢《かなざわ》の高等学校には入ってからは、夕方の散歩に陳列棚を覗《のぞ》きこむ位のものだった。九谷窯元と書いた看板が、軒並《のきなみ》に並んでいたが、皆寺井でつくったものばかりだった。ただ一軒、犀川《さいがわ》の橋の袂《たもと》にあった大きい店で、自分で窯をもって研究しているらしい、親切な製品を並べている所があった。  それから、父が死ぬ前「もし窯が出来てうまくいったら、秋塘と竜山《りゅうざん》とを招聘《しょうへい》したい」と口癖のように、褒めていた石野《いしの》竜山のことを思い出して、裏通りの小さい店を探して行ったこともあった。子供の時の記憶よりも、ずっと鮮やかな立派な赤(赤というのは朱のことであるが)を出してあった。こんなことにでも、進歩の見えるということは、非常に嬉《うれ》しいことである。湯呑《ゆのみ》の獅子《しし》の尾にこの赤を使ってあったが、余り立派なので、買いたくて耐《たま》らなかったが、五円いくらというので、止《よ》して帰ったのを覚えている。  私はまた、金沢時代にN氏という画家の家へよく遊びに行った。不折《ふせつ》の門人だが、金沢へ来てから、日本画特に南画《なんが》に趣味をもって、筆致《ひっち》の雄はなくも、軽快な色と頭とで、十分好きになれる絵を描いていた。油絵の方は月並《つきなみ》だったが、こっちの方はよかった。遊びに行くと、よく二時か三時頃まで腰を据えて、そして達磨《だるま》の話やら鳥窠和尚《ちょうかおしょう》の話やらをやたら沢山聞いて来た。  此処《ここ》で結晶焼の菓子鉢を見た。今は帝室技芸員とかになっている金沢の人が、随分永々苦心して得た焼で、器物の上の方につけてあった釉薬《うわぐすり》が、焼いている間に適当に流れ落ちて面白い縞《しま》をつくり、所々に薬が結晶して、同心円の繊細な花模《はながた》が出来ているのである。N氏のいう所によるとちょっとの加減で釉薬の流れ方が拙《まず》かったり、結晶が発達し切らなかったり、または発達し過ぎて罅《ひび》が入ったりするので、数百の中から漸《ようや》く一個位しか、揚《あが》りのよい品は出来ない。それで非常に貴重になるのであるということである。私はこんなことをいって、頑張って来た。科学の重要なところはそこにあるのだ。薬を精密なバランスで秤《はか》って、色々の組合《くみあわせ》をつくって置いて、その各々を色々の温度と色々の時間で焼いて見て、高温計と時計とで、精確な記録をとっておけば、「アフリカの砂漠にその記録を落しておいて、仏蘭《フランス》人が拾って」焼いて見ても立派な結晶焼が出来るはずですというのだ。N氏も勿論《もちろん》同感してくれた。そして色々の学校の窯業科《ようぎょうか》などを出た人が、何故《なぜ》もっと組織的に、科学的に研究をしないのだろうといって訝《いぶか》っていた。実際、やれば出来るに極《きま》っていることを、誰もやらないのだから不思議だ。これと同じ不思議は至る処に一杯である。  もう半年で学校を出るという時になって、私は幾分、その理由が分るような気がする。要するに学校教育にそんなことを望むことが無理なのだ。特別な幸運で異常に偉い先生に付くことが出来て、科学の課程ではなく、研究するということの霊感を感応《かんのう》し体得することの出来たような異数に幸運な学生を除いては、通り一遍のままで卒業した多数の学生には、それは無理もないことである。形骸《けいがい》を教わって、観念を教わらなかったのである。勿論、科学の課程即ち材料の中から精神を汲《く》み取る者は、学生自身でなければならぬ。しかし、幾分教育の制度や方法にも欠陥はあると思われる。それは、中学校の物理の教科書を見れば最も明瞭《めいりょう》であると書いてあるのを見たことがある。         ○  N氏の所では、色々のことを知った。十二月の末頃から、N氏は朝風呂《あさぶろ》に行くことを覚えて、毎朝五時頃から出かけた。金沢では、雪の降る真暗《まっくら》の朝の五時から、一軒だけ湯をわかしている風呂屋があった。明日は画《え》をかくぞといって寝ると、あくる日はN氏が風呂から帰って来るまでに、八畳に毛氈《もうせん》を敷いて紙を伸べて水を汲《く》んで筆を洗ってある。N氏の言によると、今まで朝寝をした癖で、急に早く起きたのでは、自分の身体《からだ》のような気がしなくてどうも気が乗らぬのだそうだ。一度は坐《すわ》っても見るのだが、今日は止《よ》すといって机の方へ向ってしまう。年賀にいってその話を聞いて来たのであるが、二月|過《すぎ》になっても、一枚も画が出来ていない。聞くとあいかわらず朝湯に行っている、帰って筆を握っては見るのだが、どうもねという。もう八十日余りになりますと、八十|遍《ぺん》も空しい用意をしながら奥さんも平気なものだ。辞して帰る時、N氏は明日こそ本当に描くぞと奥さんに真面目《まじめ》な顔をしていっていた。奥さんはにっこり笑って頷《うなず》いているだけだった。  それから、N氏は金沢にいる間に、色々の家に遺《のこ》っている古い時代からの九谷の精密な摸写《もしゃ》をつくって見たいといっていた。色々の発展や分岐の跡が詳しく分ったら、面白いだろうと思うが、随分困難な仕事だろうと思われる。アルゲランダに比すべくもなくとも、それ自身の中に或《あ》る価値のある仕事だろうと思っている。どうなったか知りたいものだ。  大学へ来てからはすっかり縁を切った。当時をしのぶよすがさえも全部失った。或る意味からいえばさっぱりした。N氏の所から、震災では九谷焼も勿論駄目だったろうねといって、鳥窠禅の幅《ふく》をくれたが、床《とこ》のない下宿の四畳半では、空しく行李《こうり》の中でねている。今度行ったら額を貰《もら》って来なければなるまいと、勝手なことを考えている。 [#地から2字上げ](大正十三年十一月二十一日) 底本:「中谷宇吉郎随筆集」岩波文庫、岩波書店    1988(昭和63)年9月16日第1刷発行    2011(平成23)年1月6日第26刷発行 底本の親本:「冬の華」岩波書店    1949(昭和24)年 初出:「理学部会誌」    1924(大正13)年11月21日 ※表題は底本では、「九谷焼《くたにやき》」となっています。 入力:門田裕志 校正:川山隆 2013年1月4日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。