三階の家 室生犀星 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)煉瓦《れんが》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)全部|何時《いつ》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)ヷ -------------------------------------------------------  三階の家は坂の中程にあった。向う側は古い禅寺の杉の立木が道路の上へ覆いかかり、煉瓦《れんが》造りの便所の上まで枝を垂れていた。こんな坂の中途に便所がどうして建っているのか。一寸《ちょっと》不思議な気がする、――その便所の廂《ひさし》へ瓦斯燈《ガスとう》がさびしく点《とも》れていた。  三階の一階は小間物屋を兼ねた店につづいて、造花屋があり、その隣は八百屋であった。二階は全部|何時《いつ》も借手がなく、雨戸は閉《とざ》されがちであった。時たま、造花屋で大物の造花を拵《こしら》える時に雨戸が開くくらいだった。  三階の北側にH新聞の記者の松岡という男が住んでいたが、その隣の部屋は閉じたきりで、明《あ》いたことがない………そればかりでなく、その隣の間も雨戸が閉ったままであった。時々借手があるのだが、荷車が着いたかと思うと二三日すると直ぐに越して行った。家主はすぐ裏町の湯屋であったが、今度は日曜だけを師団の兵隊に貸すことにしていたが、それも三度ばかりで兵隊の方で来なくなったらしかった。別に何の噂もなく極めて平凡な貸家だが、誰も落着かぬらしかった。  一階のはずれは八百屋が三辻の角になり、遊廓《ゆうかく》へ這入《はい》る口であった。造花屋は坂の上にあたるので、穴蔵が仕組れ、八百屋が使用していた。  H新聞の松岡は一人暮しで朝おそく起きると、すぐ内職の木炭画の写真肖像を描くのだったが、職掌柄《しょくしょうがら》、師団の方の戦死将校の肖像を引受けていて、部屋じゅう肖像画だらけであった。北側のうすぐらい部屋の中に生白い戦死将校の引延しの肖像画が架けられて、留守中に這入った造花屋の主婦は、慌てて部屋を出た程であった。  松岡は外出の時は必らず一枚ずつの肖像画を風呂敷に包んで出かけた。必ずフロックを着て黒の山高《やまたか》をかむっていた。坂を上りつめると大きな鉄橋だった。H新聞記者松岡正の人並|勝《すぐ》れた風采《ふうさい》は、誰が値踏みしても地方裁判所の首席判事くらいに見えた。或いはそれ以上かも知れない。かれは警察と市役所とを廻ると原稿を書いて四時頃に帰宅した。  別に何処《どこ》へ行くということもなく、社からかえると肖像画を書くくらいが仕事であった。造花屋や小間物屋の受けもよかった。食事は造花屋でこしらえていたが、晩食だけであった。夜もおそくまで画架《がか》に向っているらしく能《よ》く造花屋の主婦は、三階から小用に降りてくる松岡の足音をきいた。三階から二階へ下りてくる松岡は静かに足音をしのばせて、穴蔵のすぐ横のはばかりへ這入るのであった。主婦はそんな時には決って納戸の方から声をかけて見るのだった。 「まだ御勉強ですか?」 「そろそろ止そうかと思っているんです。何時ごろでしょうか。」  松岡は決《き》っと時計を持っているくせにそう言って、ことりことりと長い階段を上って行くのだった。新聞社の収入と肖像画の収入を合せると、相応な金になるらしかったが、別に遊びに出かけることもないので、相当な貯蓄があるらしいと言われていた。訪ねて来る人もなければ何日《いつ》夕方から食事に出かけたこともなかった。  唯《ただ》、非常な潔癖で、身なりを作ることが道楽らしかった。いつでも黒の山高をきちんと冠《かむ》って、洋杖《ステッキ》を小脇にはさんで橋の上を歩いて行くのだったが、妙に蒼白い皮膚と、痩せた肩つきとが際立って見え、朝日に影を惹《ひ》いた姿は妙にさびしかった。  唯の一度、夕方おそく駅の人力車に乗った女客が、造花屋の店さきに下りたが、主婦は女客の顔色が汽車に揺られた疲れと度端《どはず》れの昂奮《こうふん》との為《た》めにがちがち顫《ふる》える指さきを見た。 「何時もならもうおかえりのころでございますが、お上りになってお待ちなすったら直ぐでございます。」  主婦はそう言っておどおどしている女客の浅ぐろい顔を見たが、妙に浅ぐろいために何か可憐な可愛《かわい》げのある顔つきであった。その容子《ようす》では決してすれっ[#「すれっ」に傍点]からしの女でないことや、結婚したにしてもほん[#「ほん」に傍点]の暫《しば》らく、半年くらいしか男にふれないようなところがあった。主婦は直覚的に松岡と関係のある女だと思ったが、松岡が越して来てから四ヶ月くらいしか経たなかったので、主婦は何か解ったような気がした。「とにかく、永いことお待ちなさらなくともようございますよ。」  女客はおろおろした声で言った。 「でもわたくしお待ちしてもようございますかしら。」 「さあ、――」主婦は女客の顔を見戍《みまも》った。 「でも能くごぞんじじゃないんですか、ごぞんじなら……」 「ええ、それはよくぞんじているんですけれど……」  女客は曖昧に言った。 「それなら関《かま》わないじゃありませんか? おあがりなさいましよ。」  主婦は女客を三階へ案内しながら、長い階段を上った。 「御家内の方でございますか、奥様でいらっしゃるのだと、わたくし存じあげているんですけれど……」主婦はそう言って女客をちらと偸見《ぬすみみ》たが、女客は低い声でこたえた。 「すこし事情がございまして、何でございます……」 「はあ、……」  主婦は松岡の部屋の戸をあけた。書きかけの肖像画が気味わるく四方の壁に架けられていた。主婦はあたりを片づけて女客を坐らせた。 「ではお休みなさいまし。」  主婦が去ってしまうと、女客はぽかんと坐りながら気ぬけのしたような格好で、見るともなく肖像画に見入っていたが、何時の間にかしくしく泣き出していた。そして永い間、坐ったままでいた。  向いの寺の鉾杉《ほこすぎ》に風が鳴り出して、まだ明りの漂うている部屋の中に何の物音もなかった。女は手鏡で顔のつくり[#「つくり」に傍点]をなおしかかると、二階あたりの階段をみしりみしりと上ってくるものがいた。いつもの松岡正は最《も》っと静かな歩調だったが、きょうはその足音には故意《わざ》とらしい感情があらわれ、二足三足と何か考えているようであった。  女はその足音に何気なく注意したが、ほんの一秒間位の間に、すっかり蒼くなるほど皮膚が褪《さ》めた色になった。そして三階の階段にかかった足音を耳に入れると、女の手さきは小さい包みを有《も》ったまま、すこしずつ痙《ふる》えはじめた。その表情は息を窒《つ》めたような緊張で、皮膚そのものが紙のようにぱりぱりしているように見えた。  足音が三階の階段を上りつめると、女は殆《ほとん》ど倒れるような一種の眩惑しそうな眼付で、沈んだ昂奮のために前のめりになり、やっと畳の上に手を置いて手を支えるのだった。足音は襖の前に止ったが、襖は辷《すべ》りよくむしろ何気なく開いたような様子だった。女は肩さきを斬《き》られたように驚いて、冷汗を掻《か》いて仰向《あおむ》いた。  松岡正は入口で女のことを聞いたものらしく、冷然と澄し返って黙って、壁の方へ行って上着を脱いだ。女は黙ってうつ向いているだけだった。松岡は明らかな不愉快さを表情にうかべると、表の障子を勢《いきおい》よく、あまりに勢よく開けたのだった。寺の境内が見渡されるのだが、何かの忌日《いみび》で赤い流れ旗が一ながれ夕やみの中によどんで見えた。松岡はズボンを脱いで、和服に着かえると手拭を下げて又長い階段を降りて行った。そのスリッパの音がきゅっと皮砥《かわど》のように鳴っていた。  女はうつ向いたきりであった。それは一生懸命にうつ向いているようであった。松岡が這入って来て、煙草《たばこ》をくわえたまま、ひどく高びしゃな調子で突っかかった。 「何時来た?」  女はうなじをぴりとうごかした。そして漸《やっ》と顔を擡《もた》げると、ひどく感動して声の出ない掠《かす》れた声音で言った。 「三十分ほどさきに参ったのでございます。」 「三十分程前に?――どうしてそんな気になったのだ。おれは別にお前を呼びはしないんだが……」 「わたくし、ちょっとお話をしたいことがございましたから突然まいったのですけれど……」女は言葉を切った。「わるいとは思っていたのでございます。」 「悪いと思ったらなぜ来たんだ。おれは忙しいんだ。」 「それはもう……」 「では用事というのは何《な》んだ、それから聞きたいが……」 「べつに改めて何んでございますけれど、それに言いにくうもございますし……」 「何を言っているんだ。」  松岡は吸殻を噛んで棄てると、忌々《いまいま》しそうに焦《じ》れついて、舌打ちをした。女の眼は謝まっているようなおどおどしさに取紛れて、そして急に物が言えそうもなかった。その慌てたところにこの浅ぐろい色の女の可愛らしさが、いじけて、優しくしなえ[#「しなえ」に傍点]て見えた。松岡の眼付は惨虐にそのしなえ[#「しなえ」に傍点]た優しさを踏みしだいて、睨《にら》んでいた。 「おれの方から知らせるまで控えてくれるようにあれほど頼んで置いた、それをお前は勝手にやって来たのだ、おれはそういうことは嫌いなんだ、おれは仕事もやっと眼鼻がついてどうやらうまく[#「うまく」に傍点]行きそうなところへ、また邪魔をしにお前はやって来たのだ。」 「それはきっとお叱りを受けるだろうとは思っていたのですけれど、もう永い間、お目にかかりませず……」 「お目にかかりませずか……」  松岡はまた舌打ちをして女の気勢を挫《くじ》いてしまった。「そんないい加減な文句をつけて来られてたまるものか? それに先《さ》きに前触れをして来るのならまだいいが、大ぴらで能く来られたものだ。」  女は黙って俯向いていた。頸《くび》は顔色の浅ぐろいのに似合わず、白く、静かな肥りを小ぢんまりと伸べていた。しかし松岡正の眼にはそういう頸すじなぞ眼に止らないで、むしろ憎々しげに見下ろしたのだった。 「それでどうする気なんだ、勝手に上り込んでしまって、――」松岡はすぐにでも出て行けがしに言った。そして急に思い出して、「俥も返してしまったじゃないか?」 「ええ、わたくし、どうしようかと迷っていたのですけれど、車ならお目にかかった上で……」 「また呼べると言うのだろう。」 「え、そうおもうたものでございますから。」 「何しろお前には辛抱というものができないらしいんだ。とにかく食事はまだしないのだろうから……」  松岡は階下へ立とうとした。一《いっ》そう、怒ったような顔貌だった。女は慌てて松岡を止めるようにした。 「わたくしなら汽車の中でいただいたのですから、かまわないで下さいまし。あなたはまだ召しあがらないのならどうぞ。」 「おれならいいよ、それに今夜じゅうの仕ごとがあるんだ。明日中にとどける約束のものがあってね。」  女は仕方なしに「ではお暇《いとま》しますわ、お邪魔でございましょうし……」  しかし女の顔には別に毒念のない、平淡さがあった。 「そしてお前はどこへ行くのだ、いまから一人で……」 「近くに宿屋でもございましょうから、そちらへ参って居ります、でも此処《ここ》では何んですから。」 「そうか、それで明日また遣って来る気かい。」 「あの……」  女は先刻から耐えていて持ち切れなくて、眼に一杯|泪《なみだ》をうかべた。そして直ぐうつ向いて手帛《ハンカチ》をあてた。 「あ、耐らん、すぐそれだ。」  松岡は黄色い萎《しな》びた声でそういうと、突然頭の毛の中へ指を入れて、髪の毛をくしゃくしゃにした。「みんな日限の仕事になっているのだ、明日から又台なしだ。」松岡はそういうと、どかりとうしろ向きに寝ころんで、何か奇声を発した。平常の気取ったフロック姿の松岡らしくもない、松岡であった。 「それではわたくし帰ることにいたします、わたくし何もぞんじませんでしたものですから……」  女はそういうと、もじもじして包みを手に取ったが、中から菓子折を出すと壁ぎわへ押し遣った。松岡はそおっと起き上ると、暗い表の障子をこんどは静かに閉めた。寺の境内から虫の音が一《ひ》とかたまりになって、聞えた。松岡は菓子折に目も呉れなかった。冷たい、鋏《はさみ》のような眼付で女を依然高びしゃに打眺めた。 「それで歩いて行くか、――」 「そとで俥を見つけて乗ることにいたします、近くに俥宿がございますでしょうか?」  たったそれ[#「それ」に傍点]だけでも松岡の機嫌を取る言葉づかいだったが、松岡にはそんなことが感じられなさそうであった。 「橋を渡るとぶらぶら歩いている車はある。」 「では御邪魔をいたしました。」 「……………」  松岡は襖をあけて出る女の姿を見ないようにしたが、女が階段を下りると足音をぎしぎしと寧《むし》ろ静かすぎる程度で聞き澄した。にも関わらず疑いぶかく足音の消えた時分に襖のそとへ出て、階段の方をそっと窺《うかご》うた。暗い廊下のとっつきの階段には灯がなく、また、その幾つも廊下の途中にある部屋がみんな明いているので、明りらしいものなぞ無かった。それに二階は全部明いているのだ。六つある部屋には一つも電燈がついていない。――しかし女はたしかに二階へ下りてゆき、階下で造花屋の主婦と何か話しているらしかった。松岡はそれを聞きすますと自分の部屋へ取って返して、茫乎《ぼんやり》と時を過した。その内に木炭をカンヷスになすり始めた。或る将校夫人の肖像だったがその写真を引き伸しながら描いているうちに、何時の間にかたて[#「たて」に傍点]に長くなるような気がしてならなかった。松岡は電燈の位置を変えた。それでうまく行って時間の経つことも知らなかった。 「しかし……」  松岡は突然に真青な顔つきになり、木炭をカンヷスから離した。たしかに帰るときに階段を下りて行き、主婦と話していた声がきこえたのだ、松岡は何度もこう思うたのだったが、もう筆が進まなかった。松岡はズボンのかくしを捜《さぐ》って時計を見たが、十一時を八分過ぎて止っていた。それを振ると又カチカチ動いた。  寺の前の往来の人も行き静まって、造花屋の店明りの電燈も何時ものように街路を明るく射していなかった。よほど遅いと見える、こんなに早く時間が経ったかと不思議に思われる。  松岡は手さぐりで階段を下り、二階から階下まで行って小用を足したが、主婦は寝そびれたこえで、 「松岡さんですか?」  と言った。  森《しん》としていた。 「え……」松岡はいつもの癖でこう言って尋ねた。 「何時ころですか。」 「さあ、さッキ十二時を打ったのを聞きましたが一時ころでしょうね。」  松岡はその声をうしろに聞いて、階段を上りはじめたが、そんなに経つかなと思い、時間の経つのが早いと考えた。しかし、いつもの松岡は四時には帰っていたが、きょうは遅くなって五時半だったことを思い出し、そうかなと思うた。  二階を上りつめると、往来へのとっつきの硝子雨戸《ガラスあまど》が、鉄橋の電燈の余映で仄明《ほのあか》るかった、いつも見るのだったが、今夜はそれがわけて際立って仄明るかった感じであったが、その腰硝子を横の方へ、北側の部屋の方へ何かかげ[#「かげ」に傍点]が動いたように思われたが、よくあることで莫迦《ばか》なと思うた。しかし何か量《かさ》のある物かげであった。誇張して言ったら人かげであったかも知れない、――もう一歩、進んでいうとその北側へ逸《のが》れた逃げ方、かげ[#「かげ」に傍点]の動き方が非常にのろかったのが、松岡にもふしぎに思われた。 「まさか?――」  松岡はそうも思うた。  三階へぎしぎし上りはじめた。  そして自分の部屋へ這入ると初めて先刻の影が或る幽《かす》かな物音を引いていたことを瞭乎《はっきり》と思い出した。廊下の坂の上にたまった埃とも砂とも云えない細かなざらざらしたものの上を、強く、踏んで引いた一種のすれ[#「すれ」に傍点]た物音であった。物音というよりも、どう言ったらいいか、西洋紙を幾枚も重ねたのを上の方の一枚を引いた、ああいう幽かな物音であった。 「あの部屋は明いているのだが、造花の枝や紙の型なぞを束ねて積んであるらしい。するとそれが何かにすれた音だったかも知れない――」  昼間無理をして積んだのが夜になって、湿ったためにしなえ[#「しなえ」に傍点]てその一部がくずれたのかも知れぬ、松岡はそう思うとそういうこともあることに気づいた。しかし、それはそれにしても何かかげのようなものの、横の方へ幅びろく、うつ向いて通りすぎたのは一《いっ》たい何だろう、松岡がそう考えたとき、五六十本ばかりの針の尖端で襟元を突かれたような、一時的ではあったが非常な悪寒が、ぞっくりと通りすぎることを感じて、或る震えをおぼえた。  かれは襖をあけ、そとの廊下を神経的にあけて見たが、何も変ったことがあろう筈がなかった。これまででも松岡だけは何の不思議も気味わるさもこの三階では感じなかった。他のいろいろな人が越すごとに寧ろ可笑《おかし》かったくらいだった。八百屋の主人も、造花屋も松岡がいてくれるので、何より安堵していたのだった。松岡自身も曾《か》つて変な気のすることはなかった。唯の一度も無いと言っていい、――  しかし今夜は何か絶えず気が昂《たか》ぶっているのは、松岡には女が来て行ったことに原因していることに気がついていたのだが………こんなに廊下へ出て見る気や、悪寒や、胸の悸《どき》つくことや、喉の乾くことなぞ一度も経験したことがなかった。他から様々なこの三階の家の噂を聴くごとに寧ろ松岡は鼻であしらっていたのだ。  松岡は襖戸を閉めて部屋へ這入ろうとする時に、鈍いぱたんという音をきいた。二階から三階への上り口から抜けて来る音であった、何か立てかけたものが不意に倒れたそれで、床板にひびいたのであるらしい。たしかに二階で、廊下の板の上にちがいないとそう思うた。今頃そんな音がしたことがない、鼠にしては大き過ぎる音であった。  松岡はまた先刻の横に幅のひろい、何かが跼《かが》んで逃げたような物かげを不図《ふと》思い出して見た。 「二階も北側のはずれだ、ちょうどおれの部屋の階下にちがいない。」  松岡はまた身ぶるいした。  松岡は寝床の中へ這入ったが、寝つけそうもなかった。先刻、女を素気《そっけ》なく、ああまで素気なくしなくともよかったと思うたが、同時に昼間八時間も汽船にゆすられて来た女の、汽船ではいつも女が悪く胸気を嘔かれて苦しがることも、(大方《おおかた》きょうもさんざん船の中で苦しがっていたことは、浅ぐろい皮膚の下に覗く紅味が少しもないことで解っていた。)又思い出すともなく考え出した。あの女はあのまま帰ったに違いないが、しかし、ああやって階下の主婦にまで会いながら、殆ど三十分も経たない内にすごすごと帰って行ったのが松岡には余りいい気もちがしなかった。しかし、松岡は女から隔《はな》れる気もちで、出来るだけの素気ない冷淡さをよそわねばならぬと思った。  松岡はうつらうつらした時分に急に誰かが襖のそとに佇《た》っているような気がした、そして起き上ると、曾つて一度も覚えたことのない恐怖に充ちた気もちで、襖のそとを窺うた。誰かが佇って呼吸をしている、すくなくとも或る量のある肉体が、襖一枚の外にどっしりと、暗みを浴びながら部屋の内側を圧しているような気がして、息苦しいばかりの静かさであった。 「誰だ、」  松岡は神経的に黄ろい声で叫んで、襖をがらりと開けたが、誰も立っていなかった。松岡は廊下へ出た。  二階からの上り口へ何かぼんやりと明るみが浮いていた。 「あの明りは小窓からさしてくる明りだ、いつも気づかないのだ。とにかく三階の部屋を一と通り見廻ってやろう、どうもそうしないと寝られない。」  松岡は一つ一つの部屋を見廻ってあるいていると、末枯れどきのうそ寒さが慄々《ぞくぞく》と肌身に沁みついた、からだが震えて止りそうもなかった。幾度もくもの巣[#「くもの巣」に傍点]で顔を撫でられたが、そのたびに松岡は股から逆に水を浴びたような気がした。  松岡が階段の上の板の間に出たとき、突然、造花屋の主婦の声が鋭く階段口から叫ばれた。 「誰方《どなた》ですか。いまごろ――」  寝床から起き上って叫んだような声であった。 「僕です。」 「どうしたんです。」 「実はちょっと何で……見廻っているのですが。」  階下は森とした。 「わたくしも先刻から二階にどうも足音がしているような気がして、冴えて、ねむれないんですよ、そしたらあなたがまだ起きていらっしゃるんですもの、それでやっと吻《ほっ》としたのですが……」  主婦は起き上ったような声で、大声で、誰かにあて[#「あて」に傍点]つけたように言った。「しかし、わたくし考えますには、足音は三階ではなく二階の方でございましたよ、あなたの足音とは違う足音です。」  松岡がぞっとした。 「僕も二階のような気がしたんです、ちょうど僕の部屋の下の方のようでした、誰かが歩いているような……たしか、あそこに造花の道具類が積んであった筈でしたね、あれが崩れたような音がしましたよ、十一時ころに、――」  主婦はすぐ階下の上り口へ立って来たらしかった。 「え、そう、たしか十一時ころですわ、わたくしもその物音をきいたんですよ、造花はほんの紙型だけなんです、くずれるほどは有りません。」 「おかしいな」  松岡はしかし例のもの影を口へ出かかっていたが、なぜか言う気がしなかった。 「変ですね、よほど、しっかりした音なんですもの。」  主婦はそう言いながら二階へ上ろうとしなかった。 「今夜のようなことは、これまでに一度もなかったのですからね、ひょっとすると鼠かも知れない――」 「え、そりゃ、ねずみ[#「ねずみ」に傍点]かも知れませんが、それにしちゃ……」  松岡は寒さで膝のあたりががくがく喰いちがいになるほど、震えて仕方がなかった。主婦は云った。 「おついでに些《ちょ》っと一と廻りしてくださいませんか、わたくし何だか寒気がしてならないんですから。」 「え、しかし厭だな。」  松岡は二階へ下りる気がしなかった。真暗な口を開いている階段の下から抜ける、雨戸漏れの空気のゆらぎが一層《いっそう》冷たく脇の下を通りすぎた。 「しかし何んでもないんでしょう、見廻るほどのことも無い――」  松岡は部屋の方へかえろうとしたが、主婦はまた言った。 「何んでもないんでしょうが、一寸、お廻りくださいませんか?」  松岡は黙って立ち竦《すく》んだ。  しんと虫のこえがした。 「わたくしも安心してねむれるんですもの。」 「厭だな。」 「そんなことを仰有《おっしゃ》らないで見廻ってくださいな。」 「何んでもないんですよ、あれから後に何も物音がしないじゃありませんか。」  松岡は耳をすました。 「そりゃ、そうですけれど、こんな晩には見廻って置いた方がようございますからね、安心ができますから。」 「あなたが廻ったらどうです、ばかに此処は寒い。」 「でもあなたは男の方じゃありませんか、そんな弱い……」  松岡は実際、二階へ下りる気がしなかった。唯、なにか知《し》ら厭な気がして、滅入《めい》り込んで、考えるだけでもげっそり[#「げっそり」に傍点]と痩せるような気がした。 「僕はもう寝ますよ。」 「そんなことを仰有らないで一寸下りて入らしってくださらない……」 「厭だな、」 「ではご一緒に廻って頂けませんか、その方がよございます。」 「災難だな、」  松岡は二階へめしめしと階段を下りはじめた。階下からも主婦がめしめし上って来たのだった。 「でも一晩じゅう寝つかれないよりも、見廻った方がいい気もちですよ。」  主婦は松岡と二階で落ち合うと、二人とも立ち止った。通りの雨戸からの明りがぼんぼり[#「ぼんぼり」に傍点]のように仄明るく浮いて見え、松岡はさむかった。 「たしかに二階でしたよ。」  主婦は同じことを言って、まじまじと松岡の顔を見戍った。松岡は立ったまま、先きに行く気がしなかった。蝋燭《ろうそく》を手に持った主婦の顔が片明りで悪鬼のように、あぶらぐんで見えた。 「さむくなりましたね。」 「ええ。」  使わない部屋はどの部屋もざらついて、げじげじ虫が踵に這い込んでいるようで気味わるかった。納屋がわりの六畳の間でこおろぎが一|疋《ぴき》、畳の上を飛んでそれにも松岡はぎっくりした。「こんなところへ能く這入り込んだものですね。」主婦は気味わるそうにこおろぎを見すえたが、蝋燭の火かげで大きい暗いかげ[#「かげ」に傍点]が一緒に動いていた。 「あなたのお部屋の下でしたよ、物音のしたのは?」 「僕もそう思うんですが、しかし……」  松岡はその部屋へ這入るのが、何故か厭だった。それに不思議な胸騒ぎが先刻から間断なくして、主婦に見られるのも工合のわるい程、総身がふるえて仕方がなかった。廊下で主婦はふと皮肉めいた顔付《かおつき》で、松岡を見戍りながら言った。 「奥さまはよくお寝《やす》みになれますね。」 「奥さまって?」松岡は驚いて蒼くなった。 「夕方、いらしったじゃありませんか? あの方は奥さまなんでしょう、美しい優しい方じゃありませんか?」 「あれは[#「あれは」に傍点]帰った筈です、あれから間もなく用事ができましてね。」 「いいえ、お帰りになりはしませんよ、階下にはちゃんとお召しものがあるんですもの。」  松岡は頭がぐらぐらとして、後脳が斬り取られたように軽い感覚の無い眩惑を感じた。 「それは本統《ほんとう》ですか。」  松岡は主婦の顔を睨むような眼附で、わなわなと顫えた。 「でも、あれから一度も階下へお下りにならないんですもの。わたくしお食事の時も気がついていたんですけれど、却って何んだと思いましてね。」 「実は……」松岡は喉の掠れた声で言った。 「あれから間もなく帰ったんですよ、すこし用事があったので、――履きものがあるというのは、本統のことですか。」 「じゃ、階下へ行ってごらんなさいまし。それにしてもお帰りになったとすると……わたくし、ずっと階下にいましたから気づかないことはない筈ですがね。」 「とにかく僕は履き物を見て来る、――」  松岡は蒼くなりながら急いで階段を下りて行き、すぐ上り口に脱いである籐表の、うす紫の緒のある女の履物を見たが、それは、夕方帰って来たときに見た女の履物に違いはなかった。位置もすこしも変っていないようであった。 「まだ帰らない、――とすると、一体《いったい》どこにいるのだろう。」  松岡はがたがた震えながら階段を上ると、上り口に主婦はこれも夜ふけの青い顔をして立っていた。 「ございましたでしょう。」 「ありました。」 「たしかにおかえりになったんですか、それとも……」 「たしかに帰ったのです。階下で女の話声までしたと思ったのは、聞きちがいをしたのだな。」  松岡はいまから思うと、話し声はどうも女の声だと思われなかった。 「すると何処にいらっしゃるのでしょう、変ですね。」 「かえらないとすると……」松岡は冷たくなって了《しま》った。 「何か言い争いでもなすったのですか。」  主婦は不安げな顔附で、松岡の顔をまじまじに打眺め乍《なが》ら、何かの予感で唇を少し震わせて言った。 「え、すこしね、込み入った事情がありましてね。」 「しかし変ですね。」  主婦は造花の道具部屋の前に立ちながら、ふと、 「こんな事を言っては何んですが、言い争いをなすったとすると……」主婦は喉が乾いたようにがくがくさせた。 「それに鬱《ふさ》いでいらしったんですか、へいぜいから陰気な方でしたか知ら?」 「いくらかその方ですね。」  主婦はとにかくこの部屋を見ましょうと言った。 「ちょうど此処はあなたのお部屋の下にあたります。」  そう又言ったが、松岡は胸さわぎで、わくわくして部屋の戸があけられなかった。主婦はいきなり襖の戸をあけたが、中はしんとして別に異常もなかった。松岡はほっとして思わず言った。 「あいつ、短気なことをしやしなかったかと、この部屋を覗くまで安心ができませんでしたよ。それにしても一たい何処へ行ったんだろう、下駄を穿《は》き違えたものらしいんですね。」 「そう思うより外に考えようはありませんね、どこにも居らっしゃらないとしますとね。」  松岡は欠伸《あくび》を一つした。 「やすみましょう、莫迦々々しい。」 「でも、ようございました。もしものことがあったりしますとあとが厭でございますからね。」 「まさか、そんな奴ならいいんだが……」  松岡は冷笑して見せた。 「あんな美しい方をそんなに仰有るものじゃありませんよ、ずっと御一緒だったのですか。」 「すこし訳があって別れたんですが、時々ああして出て来てはうるさくて仕方がないんです。」 「でもお一人では御不自由でしょうから一緒におなりになったらどうです。」  松岡は黙って鼻さきで笑っていた。二人は三階へ上る階段に立っていたが、主婦はその時、急に居竦《いすく》んで、松岡の手首をうしろから引いた。松岡は驚いて振りかえると、主婦は階段の下を指さした。松岡は蝋燭の火かげで、ずるずると長い影を引いたものが、階段裏からくび[#「くび」に傍点]れているのを目に入れた。女の顔は向うむきに隠れていた。動かず凝乎《じっ》としていた。 「あの方ですよ。」  主婦はぶるぶる震えた。 「やはり帰らなかったのだな。」  松岡は紙のように蒼くなり、へた張った主婦を足もとに見て、その長い姿を天井裏に仰いだ。 「悪いことをした。」  松岡は始めてそう謝まるような声音で独り言をしたが、からだが硬張《こわば》って動かれなかった。 底本:「文豪怪談傑作選 室生犀星集 童子」ちくま文庫、筑摩書房    2008(平成20)年9月10日第1刷発行 底本の親本:「室生犀星未刊行作品集 第2巻 大正Ⅱ」三弥井書店    1987(昭和62)年5月28日 初出:「苦楽」    1926(大正15)年12月号 入力:門田裕志 校正:岡村和彦 2013年8月20日作成 2013年10月11日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。