抜髪 小川未明 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)糠《ぬか》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)二本|立《たっ》て [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)Ⅱ -------------------------------------------------------  ブリキ屋根の上に、糠《ぬか》のような雨が降っている。五月の緑は暗く丘に浮き出て、西と東の空を、くっきりと遮《さえぎ》った。ブリキ屋根は黒く塗ってある。家の壁板《したみ》も黒い。まだ新しいけれど粗末な家であった。家の傍には、幹ばかりの青桐《あおぎり》が二本|立《たっ》ている。若葉が、びらびらと湿っぽい風に揺れている。井戸がその下にあって、汲手《くみて》もなく淋しい。やはり雨が降っている。この家には若い女が一人で住んでいるのだ。  私は、この若い女を見たことがない。暮春《ぼしゅん》であるけれど、寒い日であった。私は、窓から頭を出して、黒い家を見た。ひょろひょろとした青桐が、木のように見えぬ。人の立っているようだ。此方向《こちらむき》の黒い壁板には一つも窓がなかった。彼方《あちら》には窓があるかも知れない。私は、まだその家を廻って見たことがない。ただ、若い女が住んでいるということを聞いた。 「女は、どうしているだろう。」と思った。女は、琴を弾かない。また歌わない。いつもあの黒い家には音がなかった。私は、どうかして、井戸に水を汲みに出る姿でも見たいと思ったが、ついその女の姿を見たことがない。  私は心で、いろいろその女を想像して見た。或時は、痩せた青い顔の女だと思った。或時は、もう寡婦で艶気《つやけ》のない、頭髪《かみのけ》の薄い、神経質な女だと思った。私は、女のことを考えているうちに、日が暮れた。  やはり雨が降っている。こう幾日もつづいて降ったら皆な物が腐れてしまうだろう。 「そうだ。皆な物が腐れてしまったら……。」と思った。  黒い夜だ。腐れて毒と化《なっ》たような夜だ。暗い色は漠《ばく》としているだけだ。黒い色には底に力がある。私は暗い夜でない黒い夜だと思った。私は、深い穴を覗くような気がした。冷《つめ》たな舌でなめるように風が当る。もう黒い家は分らぬ。あるけれど分らぬ。私は不安であった。けれどやはり私は窓から頭を出していた。  明《あく》る日も雨だ。私の空想はもはや疲れた。朝から、青桐に来て烏が止っている。茫然《ぼんやり》と窓に凭《もた》れて、張り付けたような空を見ていると、烏が、時々頭を傾げて何物かに瞳を凝《こら》している。私は、手を上げて逐《お》うのも物憂《ものう》かった。自然に逃げて行くのを待《まっ》ていると、烏は昵《じっ》として動かなかった。  私は、窓を閉めた。急に室《へや》の中が暗く陰気となった。暫《しばら》くして、また窓を開けて見ると、まだ烏が青桐に止っていた。……とうとう日が暮れてしまう。  或晩ふと眼を醒《さま》すと、窓の障子が明るかった。戸を開けて見ると、雲が晴れて、空は暗碧《あんぺき》だ。古沼に浮いた鏡のように青い月が出た。銀光が戦《おのの》き戦き泳いで来る。幾万里の間音が亡びて空は薄青い沈黙である。二本の青桐も目醒《めざめ》たように立っている。黒い家もその儘《まま》だ。ただ湿《ぬ》れたブリキ屋根に青い光が落ちて、東、西の黒い森にも青みを帯《お》んだ光りは流れていた。  私は暫らく、窓に凭《よ》って青い月の光りを受けた黒い家を見ていたが、いうにいわれぬ悲しさがシミジミと胸に湧いた。 「若い女! まだ見ぬ若い女!」ああ、その若い女が恋しい。私はなぜ今迄その女を見なかっただろう。私は余り考え過ぎた。考え過ぎているうちに春も過ぎてしまった。この青い月の光り! もう春でない。淡い夏が来たのでないか。夏? そうだ夏だ。病的な、暗愁の多い春は去《さっ》て、淡々として白い夏が来たのだ! しかし、もう遅い。春は去てしまった。私は、過去の邪推、疑念、無駄な空想を呪った! 後悔した! 私は始めて、若い女は唇の紅い、髪の緑の、眼の美しい、処女であったということ……そしてその女は、恥《はずか》しくて姿を隠していたのでないかということを考えた。  醒めよ。春は逝《ゆ》いてしまった! といわんばかりに月の光りは淡かった。  幾日か降った雨、それは恋しい、懐しい、春の行くのを泣いた泣いた女の涙であっただろう……私は、その夜後悔と慚愧《ざんき》に悶《もだ》えた。悶えた。  白い雲が、日の光りに輝く青葉の上を飛んでいる。緑葉は一夜のうちに黒ずんだ。青桐の葉は大きく延びた。その蔭が地の上に落ち、はっきりと刻《きざ》んだ。井戸の釣瓶《つるべ》の縄はいつの間にか切れて、もはや水を上げる役にたたない。ブリキ屋根には赤い錆が出て、黒塗の壁板《したみ》には蛞蝓《なめくじ》の歩いた痕が縦横についていた。私は、黒い家の周囲《まわり》を廻った。果して窓があった。東向になっている窓が閉っていた。私は、窓の傍《そば》に近づいて、戸を開けて見た。裡《うち》は暗くて、人の住んでいる気はいもない。物の腐れた臭いが激しく鼻を衝いて来る。僅《わず》かに射し込んだ日の光りで、狭い、室の中が見えたが、畳の上には、女の抜髪《ぬけがみ》が一握《ひとつかみ》程落ちていた……。  若い女は、もはやこの家に住んでいなかった。 底本:「文豪怪談傑作選 小川未明集 幽霊船」ちくま文庫、筑摩書房    2008(平成20)年8月10日第1刷発行    2010(平成22)年5月25日第2刷発行 底本の親本:「定本 小川未明小説全集2 小説集Ⅱ」講談社    1979(昭和54)年5月6日第1刷発行 初出:「読売新聞」    1909(明治42)年6月6日号 ※表題は底本では、「抜髪《ぬけがみ》」となっています。 入力:門田裕志 校正:坂本真一 2015年9月1日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。