稚子ヶ淵 小川未明 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)恍惚《うっとり》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)一声|啼《な》いて [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] -------------------------------------------------------  もう春もいつしか過ぎて夏の初めとなって、木々の青葉がそよそよと吹く風に揺れて、何とのう恍惚《うっとり》とする日である。人里を離れて独りで柴を刈っていると、二郎は体中汗ばんで来た。少し休もうと思って、林から脱け出て四辺《あたり》を見廻すとすぐ目の下に大きな池がある。二郎は何の気なしにその池の畔《ほとり》へ出た。  すると青々とした水の面《おもて》がぎらぎらする日の光りに照《うつっ》て一本《ひともと》の大きな合歓《ねむ》の木が池の上に垂れかかっていた。 「この池の名は何というだろう?」  二郎はその合歓の木蔭に来て鎌や、鉈《なた》を投《ほう》り出して、芝生の上に横になって何を考うるともなく熟《じっ》と池の上を見下している。爽やかな風がそよそよと池を渡って合歓の木の葉が揺れると寂然《ひっそり》としている池の彼岸《あなた》で鶺鴒《せきれい》が鳴いている。うす緑色の木の葉も見えれば、真蒼《まっさお》な常盤木《ときわぎ》の色も見えている……しかし人影は見えなくて静かな初夏の真昼である。  二郎は種々《いろいろ》な空想を浮べていた……合歓の木の下に繁《しげっ》ている蔦葛《つたかずら》の裡《なか》で、虫が鳴いている。二郎は虫の音に暫時《しばし》聞《きき》とれていたが、思わず立上って蔦葛の裡をそっと覗き込んで見たが、姿は見えなかった。またもとの芝生の上に横《よこた》わって池の方を見ていると又虫の音が聞こえてくる……若《も》し捕まえたら、彼《あ》の竹籠の中へ入れて、籠の中へ草を入れて、霧を吹いて、庭の南天の枝に掛けて置こう。そうするときっとこのように好い声を出して泣くだろう……。されど身動きもせんで、熟と眸《ひとみ》を青葉の上に落して、滅入るような日の光りを見つめていた。  すると池の上で先刻《さき》がたの鶺鴒が一声|啼《な》いて向うの岸に飛んで行くのである。二郎は、その鶺鴒の下りた林の方に目を移して又考え込んでしまう。 「ああ、姉さんは死んでしまったのか。」 と、この時|遽《にわ》かに独言《ひとりごと》のように溜息を吐《つ》いて目から涙が溢《こぼ》れる。しかし誰《た》れも見ているのでないから、落つるままにしておくと、涙が頬を伝うてぽたぽたと膝の上に落ちた。  この時、何を思い立ったか、二郎は仰いで合歓の木を見上げたのである。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 「大きな合歓の木だな、幾百年経ったろう……早く花が咲けば好いが、花が咲く時分になると村のお祭が何時《いつ》でもあるんだ……しかし姉さんがいないから、寂しくてならん……盆になると姉さんは踊ったっけ……姉さんを村の者は美しいと言う。その噂を聞くと姉さんはいつも赤い顔をしたっけ……。ああ、つまらんつまらん姉さんは死んでしまったんだ。」 [#ここで字下げ終わり]  思い出すともなく、いつしか姉のことを思い出して二郎は泣いたり、又何か思うて笑ったりしているのである。  白いすき透るような雲が、ふわふわと高く飛んで池の上を渡ると影が水の上に映って、赫々《かっかく》と照っていた日の光りが少し蔭ると、天地が仄《ほんの》りと暗くなって、何処《いずく》ともなく冷たい、香《かん》ばしい風が吹いて来る。何だか寂しいような、うら悲しいような気持になった。すると又不思議なことには、それはそれは……今迄聞いたことのない、美妙《びみょう》の音楽の音が響いて来て、初めは何でも遠くの方に聞こえたと思うと漸々《だんだん》近《ち》かく、しまいには何でも池の中から湧き出て来るように思われた。  而《そ》して時々は姉の声も交って、歌うている歌の声が聞こえて来るかと思うと、つい眠くなって二郎は其処《そこ》の芝生に倒れたまま、好い気持でうとうとと眠ってしまった。  さだめし二郎は面白い夢を見ていたのであろう。冷たい風が顔を嘗《な》めるように身に浸みて、ふと目を醒まして見ると驚いた。  星の光りがちらちらと見え、全く日は暮れていたのである。池の面は黒ずんで、合歓に渡る風が一きわ高く、静かな山中《やまなか》の夜は物凄い程に寂然《ひっそり》としている。……耳を澄ますと虫の音が聞こえて来る。叢《くさむら》の中でかさかさとするのは何かの小鳥が巣を探《たず》ねているのであろう。手で地上を探って鎌や、鉈を腰に挟んで、一歩一歩池の畔に出た時に心覚えのあるだらだら坂を登って、やっと昼前に柴を刈っていた場所まで来て見たが、それから先《さ》きは一向《いっこう》覚えがない。たとえ覚えはあったにしても、夜のことで、とても小道を探し出すことは出来なかった。  帰ろうと思っても、帰ることが出来ず、家では親達が心配しているだろうと思うと一刻も茫然《ぼんやり》してはいられず、だんだん心細くなって来て泣き出した。……ややしばらくして泣き止んで切り捨ててあった、青々とした柴の上に腰を下して、空の星をさびしげに眺めていた。  すると何処ともなく天外《てんがい》になつかしい声が聞えて、さわさわと木の葉が揺れるかと思うと、日頃恋い慕っていた姉が、繁みの裡《なか》から出てきたのである。 「姉さん!」 と、余りの嬉しさに一声叫んで飛び付いた。……しかし死んだ人がどうして来たろうと思うと空怖ろしいような、物凄い気持がしたけれど、見れば見る程まさしく自分の姉であり、而して今自分の心細く思っている矢先であったから、そんなことを考える間《ひま》がなかった。 「姉さん、姉さん! 僕は嬉しかった。」  姉は物も言わんで、微笑《ほほえ》んで、彼《あ》のうるんだ愛《なさけ》の籠る眸《ひとみ》で、二郎を打眺《うちなが》めている。二郎は姉の袂《たもと》にしかと縋《すが》り付いたまま、もうもう決して決して、放さないと決心したのである。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 「さあ、二郎ちゃん行こう。妾《わたし》が道を案内して上《あげ》るから、いつかは、日常《いつも》妾の帰りが遅いと迎いに来てお呉《くれ》だったのね、今日は妾が途《みち》を教えて上げよう。」 [#ここで字下げ終わり]  二郎はその言葉を聞き、何となく悲しく感じて、姉に手を引《ひか》れて林の裡から出た。……  二郎は心のうちで、どうして姉が斯様《こん》な山道を悉《くわ》しく知《しっ》ていようか……斯様なに暗いのにどうして斯様なに路《みち》が分るだろうかと訝《いぶ》かしがりながら歩《あ》るいていた。しかし姉はいつになく、沈んでいるように見えたので、自分も口を喊《つぐ》んで成《なる》たけ話をせまいものと黙って歩るいていたのである……。やがて大きな沢や、幾つかの渓《たに》を越えて、細い細い山途に差しかかると、山の端《は》を離れて月の光りが渓川の水に宿《やど》っている。二人は黙ったまんまで途を歩いている……  この時姉は始めて弟《おとと》を顧みて、さも名残惜そうにして見つめたのである。弟も月の光りに始めて青白い姉の顔をつくづくと眺めた。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 「この道を真直に行くと、直《じ》きに彼《あ》の大きな原に出る、すると向うに家が見える。泣かんで早くお帰り! ちょうど月も出たから……妾は此処《ここ》で見送っていますよ。」 [#ここで字下げ終わり]  二郎の声はもう涙に咽《むせ》んで、 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 「じゃ姉さんは、やっぱり帰らないの……。僕は姉さんと一しょに行きたいから連れて行って頂戴! 僕は独りで帰るのは厭だ。」 [#ここで字下げ終わり]  姉は流石《さすが》に躊躇《ためらっ》ていたように見えた。さも哀しげに渓間《たにま》の月影を見下して、果ては二人してさめざめと泣くのである。小《ち》さき弟の胸には張り裂けんばかりに悲《かなし》みの充ちて、さも心配らしう姉の顔を眺めている。 「そんなら、また明日彼の池の畔へ来ておくれ! きっと妾が待っていますから、而して楽しく話をしましょうね。」 「じゃ姉さんは明日も、来てくれるなら僕はきっと彼の池の畔へ行って待っていよう。」 「ああ、ほんとうに妾が待っててよ。」 「うんにゃ、僕の方が先に行って待っているんだ。」 「ほほほ可笑《おか》しいことね。」 と、さびしげに姉は打笑《うちえ》んだ。 「また明日にしてよ、今日はこれでお帰りよ。」  二郎は首肯《うなずい》たまま、泣く泣く坂を下りて行ってしまう。姉は爪先だてて見送っている。二人は幾度も幾度も見返えりつ、見送りつ、月の光にほんのりと姿は霞むが如く見えずなるまでも……  しかし二郎の両親《ふたおや》はいつになく我が子の遅く帰ったのに心配して、種々《いろいろ》と二郎に仔細を問うた。始めのうちこそは何とも言わなかったけれど、問い詰められて隠しきれず、つい一部始終を物語ったのである。而してどうか姉を家へ連れて来たいと両親に請願《ねだる》と両親は驚いて、顔の色を変えて、 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 「二郎や、それは魔物がお前を見込んでいるのだ。もうもう決してその池の畔《はた》へ行くことはならんぞ。」 [#ここで字下げ終わり] と、堅く言い聞かせた。  その翌日のこと、二郎はいつもの山へ出掛けはしたが、偶然《ふと》昨日、両親から言われたことを思い出して、池の畔りへは行かなかったのである。  やがてその日の昼頃となって、もう大分仕事に疲れてきて、休もうかと思っていると、遠くで自分の名を呼ぶ声が聞こえる。二郎は握っていた青々とした小枝を地上《ちびた》に落して、耳を傾けていると又呼ぶ声が聞こえるのである。確かに姉の声に相違《ちがい》がない。  二郎は空怖しくなって、林の中に慄《すく》んでいると、その声は漸々と近づく。……突如として自分の前に立ち塞《ふさ》がったものは、顔色の青晒《あおざ》めている女の姿! ぎょっとして見上げると頭髪《かみのけ》は顔に乱れていて、物も言《いわ》んで、自分を捕えたまま冷《ひやや》かにけらけらと笑い、またさも嬉しそうに、我が顔を覗き込んだ。 「行こう行こう、二郎ちゃん! 妾は先刻《さっき》から大分待っていてよ。」 と無理にその場を押し立てて、何処《いずく》ともなく連れ去ってしまった。  ……二郎は何処《どこ》へ行ったであろう、その晩はとうとう帰って来なかった。両親は非常に心配して、今日山へやらなければよかったと後悔をしていると、日暮方から鳴出《なりだ》した雷は益々《ますます》すさまじくなって、一天《いってん》墨を流したようで、篠突《しのつ》く大雨、ぴかりぴかりと電《いなずま》が目の眩《くら》むばかり障子に映《うつ》って、その毎《たび》に天地も覆《くつがえ》るように雷《いかずち》が鳴り渡る、その夜は両親は心配に泣き明した。明くる朝を待って池の畔へ行って見ると、可哀そうに二郎の被っていた菅笠《すげがさ》が池の水に漂うていた。父親は其処《そこ》に泣き倒れた。而して一先《ひとまず》村へ帰って人々の助けを借りて、再び池の中を捜索したけれど、その苦心の効《か》いもなく、とうとう死骸を見付ることが出来なかった。  其処で村の人達は相会《あいかい》して、これには何か不思議な仔細があるのであろうと議結《ぎけつ》をして小祠《やしろ》を大きな合歓の木の下に建立《こんりつ》して、どうかこの村に何事の祟《たたり》もないように、どうか旱魃《かんばつ》の時にはこの村の田畑に水の枯れぬように、どうか小供の水難を救われるようにと祈祷《きとう》をして、さてこの池をば稚子《ちご》が淵《ふち》の明神《みょうじん》と名づけたのである。  毎年初夏の頃になると、薄紅《うすくれない》色の合歓の花が咲く。その頃になるとこの祠《やしろ》の祭があるので、村祭同様に村中の者が家業を休む。その時にはこのさびしい山中にも太鼓の音がひびき、笛の音も冴える、而して春、夏、秋、冬、この池の水は青々として黒ずんで、静かな山や、林や、杜《もり》の影を映している。青葉の夏も、紅葉の秋も、いつもなつかしい慕わしい眺めである。 底本:「文豪怪談傑作選 小川未明集 幽霊船」ちくま文庫、筑摩書房    2008(平成20)年8月10日第1刷発行    2010(平成22)年5月25日第2刷発行 底本の親本:「愁人」隆文館    1907(明治40)年6月25日発行 初出:「早稲田學報」    1906(明治39)年3月号 ※「歩るいて」と「歩いて」の混在は、底本通りです。 入力:門田裕志 校正:坂本真一 2016年6月10日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。