櫛 小川未明 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)離《はなれ》て |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)木綿|衣物《きもの》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)Ⅰ -------------------------------------------------------  町から少し離《はなれ》て家根《やね》が処々《ところどころ》に見える村だ。空は暗く曇っていた。お島《しま》という病婦が織っている機《はた》の音が聞える。その家の前に鮮かな紫陽花《あじさい》が咲いていて、小さな低い窓が見える。途《みち》の上に、二人の女房《かみさん》が立って話をしている。 「この頃は悪い風邪が流行《はやり》ますそうですよ。」 「そうだそうですよ、骨の節々が痛むんですって。」  陰気な、力なげな機の音がギイーシャン、コトン! と聞えて来る。全くこの時風が死んだ。また降り出しそうな空には、雲脚《くもあし》が乱れていた。 「お島さんの顔色は善くありませんね。」と一人の女房が眉を顰《ひそ》めた。 「産れるのかも知れませんよ。」と一人がいう。 「そうかも知れない、ああ顔色が悪くちゃ……。」 「吐瀉《もどしっ》ぽいといっていたから……。」  二人の女が話をしている処へ、頭髪《かみのけ》が沢山で、重々しそうに鍋でも被《かぶ》っているように見える、目尻の垂れ下った、鯰《なまず》の目附に似ている神経質じみた脊の低い、紺ぽい木綿|衣物《きもの》を着た女が、横合《よこあい》から出て来た。二人はこの女を見るとぎょっとして口を噤《つぐ》んだ。 「まった降りだ。」と鍋を被ったような女が、重たらしい調子でいう。その声がまたとなく陰気だ。 「悪いお天気で困ります。」と一人の女房がいった。  何の鳥とも知らず黒い小鳥が啼《な》いて、二三羽頭の上を廻っていた。傍《かたわら》の垣根の竹に蛞蝓《なめくじ》が銀色の縷《いと》を引いて止まっている。 「お洗濯が出来なくて。」と一人の女房がいって、我家の方へ帰りかけた。 「私もまだすることがあるのですよ。」と一人の女房も下駄の歯をぎしりと砂地に喰い込ませて後を向いた。  鍋被《なべかぶり》の女だけ陰気な顔で、何処《どこ》を睨むというでなく立っていた。二人の女房は各自《てんで》に家へ入って、その場にはただ一人鍋被の女だけ取り残された。この黒衣の女は暫《しば》らく石の如く動かなかった。何時《いつ》しかお島の織っていた機の音が止んだ。  一段空が暗くなった。この時、今年十二歳になるお島の子供が、町から帰って来た。手に薬屋から買《かっ》て来た、キナエンの薬袋を持って家《うち》へ入った。――風が少し出て来た。間もなく、お島の家の低い窓から真青な烟《けむり》が上り始めた。この時鍋被の女は重たそうな歩み付きで踵《きびす》を返して、自分の家に入りかけた。門口の柱には蚫《あわび》の貝殻がかかっていて、それに「ささらさんばち宿《やど》」と書いてある。また白紙の札に妙な梵字《ぼんじ》ような[#「梵字ような」はママ]字で呪文が書いて貼《はっ》てある。鍋被の女には歯というものがないようだ。何《いず》れも虫が食ってしまったらしい。口中《こうちゅう》は暗い洞《うつろ》である。女は立止って、家の前にある一本《ひともと》のただ白く咲いた柿の木を見上げていた。すると其処《そこ》へお島の男の児が駆けて来た。 「これ、おばさんのでなくて、往来に落ちていたよ。」といって、一枚の黄楊《つげ》の櫛を鍋被の女の手に渡すと、後《あと》も振向かずに一目散に逃げるように駆け出した。 「えッ。」と老女は鯰のような目を見張って、子供の駆けて行く後姿を睨んだ。 「櫛! 櫛!」といって唾を吐くと、暗い口を開けて、眼が異様に光った。手早にその黄櫛を西隣の家の方へ投げ捨てて、 「あくむちゃく……うい、うい。」と同じい呪文を三度唱えて、また唾を西に向けてペッペッと吐いた。 「お島の阿魔《あま》め、悪戯《いたずら》をさせやがって、覚えていろ。」 といって、黒鍋を被ったような頭を振って、戸を閉めて入ってしまった。暗い空に、湿っぽい風が吹いて、彼方《あちら》でがあがあと烏が啼いた。 底本:「文豪怪談傑作選 小川未明集 幽霊船」ちくま文庫、筑摩書房    2008(平成20)年8月10日第1刷発行    2010(平成22)年5月25日第2刷発行 底本の親本:「定本 小川未明小説全集1 小説集Ⅰ」講談社    1979(昭和54)年4月6日第1刷発行 初出:「文章世界」    1908(明治41)年7月号 入力:門田裕志 校正:坂本真一 2015年9月1日作成 2016年4月3日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。