面影 ハーン先生の一周忌に 小川未明 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)杜《もり》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)心|如何《いか》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)⁉ ------------------------------------------------------- [#10字下げ]一[#「一」は中見出し]  独り、道を歩きながら、考えるともなく寂しい景色が目の前に浮んで来て胸に痛みを覚えるのが常である。秋の夕暮の杜《もり》の景色や、冬枯《ふゆがれ》野辺の景色や、なんでも沈鬱《ちんうつ》な景色が幻のように見えるかと思うと遽《たちま》ち消えてしまう。  消えてしまった後は、いつも惘《ぼっ》として考えるのである。なんでこんな景色が目に見えるのであろう。誰のことを自分は思っているのか? 気に留めて考えれば空漠《くうばく》として、悲しくも、喜ばしくもないが、静かに落付ていると胸の底から細い、悲しい、囁《ささや》きのように、痛むともなく痛みを覚えて、沈鬱な寂寞《じゃくまく》たる夕暮の田園の景色などが瞭々《ありあり》と目の前に浮んで来る。  ああ、自分はなぜこんなに悲しい気になるのであろうか。もうもう彼女《かれ》のことは思い切っているのにと自《みず》から心を励《はげ》ますけれど、熱い涙が知らずにぽたぽたと落ちる。物の哀れはこれよりぞ知るとよく言ったものだ。自分は曾《かつ》て雑司ヶ谷の鬼子母神《きしもじん》に参詣して御鬮《みくじ》を引いたこともあったが……やはり行末のことや、はかない恋をそれとも知らなかったからである――この道を行けば、やがて鬼子母神の境内《けいだい》に出るのだが、もう草は枯れている。圃《はたけ》のものも黄ばんでしまった。なんだか斯《こ》う、彼女の面影が目に見えて来る。そういえばこの道を去る秋、共に通ったことがあったのである。  ああ、もうもう思うまい思うまい、悲しいんだやら、こう気が焦《いらだ》ってくるばかりで、やはりこれが悲しいんであろう。涙が知らずに湧いて来る。  どれ、ハーン先生の墓にでも詣《まい》ろう。…… [#10字下げ]二[#「二」は中見出し]  思えば一昨年《おととし》、ちょうど季節は夏の始めである。青葉の杜を見ても、碧色《へきしょく》の空を見ても何となく、こう恋人にでも待たるるような、苦しいかと思うと悲しいような、又物哀れな慕わしげな気持のする頃であった。  自分は学校の窓から裏庭《うらて》の羅漢松《くさまき》の芽の新なる緑を熟《じっ》と見入《みいっ》て色々の空想に耽《ふけ》っていた。するとベルが鳴ってハーン先生が来たのである。この日初めて先生の顔を見るのだ。  先《ま》ず空想に浮んだのはこの人が希臘《ギリシヤ》に生れ、西印度《にしインド》諸島や、その他諸方を流浪して来たと云うことである。背の低い眇目《びょうもく》の、顔付《かおつき》のどことなくおっとりとした鼠色の服を着ていなさる、幾人の兄弟《けいてい》や、姉妹があり、父や母は何処《いずく》にどうして、而《そ》して真面目な恋もあって、それが成就しなかったのではあるまいか。などと種々《いろいろ》の空想を廻《めぐ》らしていた。やがて講義が終えてから、運動場に出て、羅漢松の木蔭の芝生の上に腰を下して漫々《まんまん》たる碧空に去来する白雲の影を眺めていると、霊動《れいどう》する自然界が、自《おのずか》ら自我に親しみ来るように思われる。そこいなき円《まる》い空、寂しそうな白雲、袂《たもと》におとずれる風のささやき。雲を踏み、海を渡り、親もなく、兄弟もなき異郷に漂浪する、先生の身が可哀そうになって来る。今も尚《な》お優しい余韻のある、情熱の籠っている講義の声が律呂的《リズミカル》に耳許《みみもと》に響いているような。  而して熟々《つくづく》と穏かな容貌《かおつき》が慕わしうなり、又自分も到底この先生のようではないけれど、やはり帰趨《きすう》なき、漂浪児であるという寂しい感《かんじ》になった。           *      *      *  この光栄ある詩人が、遽《にわ》かに永劫の楽園を慕うて沈黙《サイレンス》の海に消え、紫色の……さながら夢のような……さながら消えた悲みのような、遠いまた杳《はる》かな島山蔭の波間に見える、永劫の夏の浄土に憧がれ、漕《こ》いで行ってしまわれた夕暮、我れは悲しみにたえやらず、君の行方なつかしく、美しい茜色の西の大空を、野越え、山越え、森越えて眺めやり、松樹《しょうじゅ》影暗く繁る、瘤寺《こぶでら》の、湿《しめ》れる墓畔《ぼはん》に香を焼《た》いて、縷々《るる》として寂寞《じゃくまく》の境に立ち上る、細い細い青烟《けぶり》の消えゆくを見るも傷ましく、幾たびも幾たびも空想《おもい》を破る鐘の響《ひびき》に我れ知らぬ暗涙をたたえたことであった。――思うともなく、その日のことが思いだされて、未だにその時の光景《ありさま》が瞭々《ありあり》と目に浮んで来て堪えられぬ。 [#10字下げ]三[#「三」は中見出し]  この春のことであった。北国のある町を歩いていると立琴《たてごと》のようなものを鳴らして乞食が通るのを見た。その男の容貌がいかにも「日まわり」の一章に読《よん》だ乞食と似ている。何となく悲しく、鳴らしている立琴の音《ね》を聞きつつ、空想に耽《ふけ》っているとその男の姿は遠くなって見えなくなった。……ああ、彼も漂浪人《さすらいびと》かと思うと、つい熱き涙が目の中に湧くのであった。  ハーン先生の文は、この琴の音の人をひく力のようにどこか哀れな寂しい、細い澄んだ響きを伝えていた。――何となく沈痛! 何となく悲哀! の響きがある。  人生には悽惨《せいさん》の気が浸透している。春花、秋月、山あり、水あり、紅《あか》、紫と綺羅《きら》やかに複雑に目も文《あや》に飾り立てているけれど、帰《き》する処《ところ》沈痛悲哀の調べが附纏《つきまと》うて離れぬ。酔うたる人は醒むる時の来るが如く、楽《たのし》める者、驕《おご》れるもの、悦《よろこ》べるもの、浮かるるもの早晩傷み、嘆き、悔い憂《うれ》うる時の来ることを免《まぬか》れない。  誰か青春の美酒に酔うては歌わざらん。誰か凋落《ちょうらく》の秋に遭《お》うては酸鼻《さんび》せざらん。人生酔うては歌い、醒めては泣く、就中《なかんずく》余は孤愁《こしゅう》極《きわま》りなき、漂浪人の胸中に思い到る毎《ごと》に堪えがたき哀れを感じて、無限の同情を捧ぐるのである。  さすらい人! いかなれば君独り愁え多きや。飛ぶ雲の影を見れば故郷の山を思い、うららかなる春の日に立つ野山の霞を見る時は、ありし昔の稚子《おさなご》の面影を偲《しの》ぶ。里川《さとがわ》の流れ迢々《ちょうちょう》たるも目に浮び、何処《いずこ》よりか風のもて来る余韻悲しき、村少女《むらおとめ》の恋の小唄も耳に入《い》る。……故郷を離るる幾百里、望めば茫々《ぼうぼう》として空や水なる海、山の上にも山ある山国に母を憶《おも》い、父を憶うて、恋しき弟妹《はらから》の面影を偲ぶ心|如何《いか》ならん。  さすらい人! いかなれば君独り愁え多きや。男子|苛《いやしく》も志を立てて生活の戦場に出《い》で人生に何等かの貢献を試《こころみ》んと決したる上は、たとえ腸《はらわた》九たび廻り、血潮の汗に五体は涵《ひた》るとも野に於いて、市に於いて、鋤《すき》に、鍬《くわ》に、剣に、筆に奮迅《ふんじん》の苦闘を敢《あえ》てする腕《かいな》も、勇気もあるものの、只《ただ》彼《か》の浮世の風波に堪え得ぬ花の如き少女、おお、我が恋人は今頃いかに、今宵《こよい》をいかに送るならんと空の彼方、見よ月に雲のかかり、忽《たちま》ち勇気の挫《くじ》けて暗《やみ》に落ち行く心地せらる。……煩悶《はんもん》……懐疑……ああ、いかなればさすらい人! かく君独り愁え多きや。  ラフカディオ・ハーン先生はた一個のさすらい人であると思う。           *      *      *  見渡せば霞立つ春の海原。波静かなる、風穏かなる、夢にも似たる青き遠山を見るにつけ、黄色なる入江の沙上《さじょう》の舟や、灰色の市街を見るにつけ、子《し》の文章を思い起すのである。  北国の春の空色、青い青い海の水色、澄みわたった空と水とは藍を溶《とか》したように濃淡相映じて相連《あいつら》なる。望む限り、縹緲《ひょうびょう》、地平線に白銀の輝《ひかり》を放ち、恍《こう》として夢を見るが如し。彼の浦島太郎が波間に浮べる、故郷の山影の、夢のような景色を眺めたのも、こうであったろう⁉ 「夏の日の夢」の記を読んで、今、記憶に残っているのは左の一節である。 [#横組み]“Summer days were then as now, ―― all drowsy and tender blue, with only some light, pure white clouds hanging over the mirror of the sea.”[#横組み終わり]  日本海の風に吹かれて、滄浪《そうろう》の寄せ来る、空の霞める、雲も見えず、麗《うらら》かなる一日を海辺にさまよい、終日《ひねもす》空想に耽っていたことがあるが、その時|子《し》の文章と閲歴とを思い出さずにはいられなかった。赤、黄、緑、青、何でも輪郭の顕著なる色彩を用い、悠々《ゆうゆう》たる自然や、黙静《もくせい》の神秘を物哀《ものあわ》れに写す力があったのが彼《か》の人の特長である。  自分は希臘の海を見ないけれど、我が春の海を見るたびに何となく懐かしく思う。ああ、緑なる空。青き海原を見れば希臘の空を思い、悠々と白き雲の飛ぶ影を見れば、さすらい人を思い、月の光を見ては愁え、貝を拾うては泣き、悲しく吹く風に我が恋人の身の上を思い煩《わず》らうのである。 [#10字下げ]四[#「四」は中見出し]  ただ独り、黄ばんだる林の下道を歩いて、青い空の見える淋しい湿《しめ》り勝《がち》な小道を行くと、涼しい秋の風が身に浸み、何となく痛みを胸に覚ゆるのである。広い圃の中に出ると、小春日に、虚空を赤蜻蛉《あかとんぼ》が翻々《ひらひら》と、かよわく飛んでいるのやら、枯れた足元の草の上に止《とま》っているのもある。遠く、うす黒き烟《けむり》の、大空に溶けるように上《のぼ》っているのも見える。けれど何等の響きも聞えない。左に小道を折《お》るれば、例の墓所《はかしょ》に出るので、誰れ見るともなく、静かな秋はいつとなく暮《くれ》て行くのである。  自分はこの眩《まぶ》しいような空を眺めて、何となく悲しくなった。  ある日、講義の時間に「とんぼつり、今日はどこまで行ったやら」の句を、 [#横組み]“Catching dragon-flies! ..... I wonder where he has gone to-day!”[#横組み終わり]  詩人の情のこもれる、やさしい声で而《しか》も物哀れに語られたことがあった。而《そ》してその時に自分は稚児《おさなご》が現世《うつつよ》ならぬ薄青い夢の世の熱い夏の真昼頃、なんでも広い広い桑畑でただ独り、その裡《うち》をさまよいながら、蜻蛉を取っている姿のありありとして見られたのである。           *      *      *  不思議なるは人生の行路《こうろ》、誰か自分の運命を知るものがあろう。……ふりさけ見れば千万里、海や、雲を隔てて異郷の土に冷《ひやや》かに眠るさすらい人の身を哀れむのである。而してもう、あの柔和な面影は再び見られない。艶麗《えんれい》な筆も既に霊なきものとなった。  ただ永劫に吹く風の、悲しい余韻を伝えるばかり。  自分は茫《ぼう》として人の身の上を思うていたが、やがてまた我が身の上を悲しく感ずるのである。光明の郷に憧がれて、迷う孤雲の如く、幽《かす》かなる光を放ち、漫々たる西の大空に浮ぶ。暗《やみ》、愁《うれ》え何処に果《はて》は落ち行くであろう。……うす紫に匂う、希望の星の光は遠い。……去年《こぞ》の秋、この道を歩いた時は、恋しい影が従《つ》いていたものを……今は思いにやつれしさすらい人!  いでやこの涙を捧げものにして詩人の墓を訪《と》おう。……ああ、おそろしい風! このあたりは落葉で径《みち》も見えぬ。 底本:「文豪怪談傑作選 小川未明集 幽霊船」ちくま文庫、筑摩書房    2008(平成20)年8月10日第1刷発行    2010(平成22)年5月25日第2刷発行 底本の親本:「定本 小川未明小説全集1 小説集Ⅰ」講談社    1979(昭和54)年4月6日第1刷発行 初出:「家庭新聞」    1905(明治38)年9月 入力:門田裕志 校正:坂本真一 2017年8月25日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。