般若の面 小川未明 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)町《まち》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)一|軒《けん》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#7字下げ] -------------------------------------------------------  町《まち》からはなれて、街道《かいどう》の片《かた》ほとりに一|軒《けん》の鍛冶屋《かじや》がありました。朝《あさ》は早《はや》くから、夜《よる》はおそくまで、主人《しゅじん》は、仕事場《しごとば》にすわってはたらいていました。前《まえ》を通《とお》る顔《かお》なじみの村人《むらびと》は、声《こえ》をかけていったものです。  長《なが》かった夏《なつ》も去《さ》って、いつしか秋《あき》になりました。林《はやし》の木々《きぎ》は色《いろ》づいて、日《ひ》の光《ひかり》は、だんだん弱《よわ》くなりました。そして枯《か》れかかった葉《は》が思《おも》い出《だ》したように、ほろほろと、こずえから落《お》ちて、空《そら》に舞《ま》ったのであります。  もうこのころになると、この地方《ちほう》では、いつあらしとなり、あられが降《ふ》ってくるかしれません。百|姓《しょう》は、せっせと畠《はたけ》に出《で》て、穫《と》りいれを急《いそ》いでいました。鍛冶屋《かじや》の主人《しゅじん》は、仕事《しごと》の間《あいだ》には、手《て》をやすめて、あちらの畠《はたけ》や、こちらの畠《はたけ》の方《ほう》をながめたのです。そして、天気《てんき》がよく、ほこほことして、あたたかそうに、秋《あき》の日《ひ》が平和《へいわ》に、林《はやし》の上《うえ》や、とび色《いろ》に香《にお》った地《ち》の上《うえ》を照《て》らしているときは、なんとなく、自分《じぶん》の気《き》までひきたって、のびのびとしましたが、いつになく曇《くも》って、うす寒《さむ》い風《かぜ》が吹《ふ》くと、これからやってくる冬《ふゆ》のことなど考《かんが》えられて、ものうかったのです。  ある日《ひ》の晩方《ばんがた》から、急《きゅう》にあらしがつのりはじめました。落《お》ち葉《ば》は、ちょうど、ふいごを鳴《な》らすと飛《と》ぶ火《ひ》の子《こ》のように、空《そら》を駆《か》けて、ばらばらと雨《あめ》まじりの風《かぜ》とともに、空《そら》へ吹《ふ》きつけたのでした。 「いよいよ、このようすだと、二、三|日《にち》うちには雪《ゆき》になりそうだ。」と、主人《しゅじん》は、独《ひと》り言《ごと》をしました。  女房《にょうぼう》は、勝手《かって》もとで、用《よう》をしていましたが、彼《かれ》は暗《くら》い奥《おく》の方《ほう》をわざわざ向《む》いて、 「晩《ばん》には、雪《ゆき》が降《ふ》るかもしれないから、みんな外《そと》に出《で》ているものは、取《と》りいれろや。」と、大《おお》きな声《こえ》でいって、注意《ちゅうい》をしたのでした。  彼《かれ》は、やがて、女房《にょうぼう》と二人《ふたり》で、そこそこに夕飯《ゆうはん》をすましました。ふたたび、仕事場《しごとば》にもどって、鉄槌《てっつい》で、コツコツと赤《あか》く焼《や》けた鉄《てつ》を金床《かなどこ》の上《うえ》でたたいていました。戸《と》の外《そと》では、あらしがすさんでいます。彼《かれ》は、思《おも》わず、その手《て》をやめて、あらしの音《おと》に聞《き》きとれたのでした。  このとき、戸《と》の外《そと》で、だれか呼《よ》びかける声《こえ》がしました。  だれだろう? この暗《くら》い、あらしの晩《ばん》に、しかも、いまごろになって声《こえ》をかけるのは……と、主人《しゅじん》は考《かんが》えました。きっと、村《むら》の人《ひと》が、なにか用事《ようじ》があっておそくなり、そして、いま帰《かえ》るのだろう……と、こう思《おも》って、彼《かれ》は、立《た》って雨戸《あまど》を細《ほそ》めにあけて、のぞいたのです。  戸《と》のすきまから、ランプの光《ひかり》が暗《くら》い外《そと》へ流《なが》れ出《で》ました。そこには、まったく見知《みし》らない男《おとこ》が立《た》っていた。主人《しゅじん》は、目《め》をみはりました。すると、その男《おとこ》は、 「私《わたし》は、旅《たび》のものですが、知《し》らぬ道《みち》を歩《ある》いて、日《ひ》が暮《く》れ、このあらしに難儀《なんぎ》をしています。宿屋《やどや》のあるところへ出《で》たいと思《おも》いますが、町《まち》へは、まだ遠《とお》いでございましょうか?」と、たずねました。  主人《しゅじん》は、その知《し》らぬ男《おとこ》のようすをしみじみと見《み》ましたが、まだ、それは若者《わかもの》でありました。どう見《み》ても、ほんとうに、困《こま》っているように見《み》られたのです。 「それは、お気《き》の毒《どく》なことです。まあ、すこしこちらへはいって休《やす》んでから、おゆきなさい。」と、人《ひと》のよい主人《しゅじん》はいいました。  若者《わかもの》は、喜《よろこ》んで、あらしに吹《ふ》かれてぬれた体《からだ》を、家《いえ》の内《うち》へいれました。この若者《わかもの》も、性質《せいしつ》は、善良《ぜんりょう》ですなおなところがあるとみえて、二人《ふたり》は、やがて打《う》ち解《と》けて話《はなし》をしたのであります。 「私《わたし》は、事業《じぎょう》に失敗《しっぱい》をして、いまさら故郷《こきょう》へは帰《かえ》れません。私《わたし》の故郷《こきょう》は、ここから遠《とお》うございます。どこかへ出《で》かせぎでもして、身《み》を立《た》てたいと思《おも》って、あてもなく、やってきたのです。」と、若者《わかもの》は、いいました。  鍛冶屋《かじや》の主人《しゅじん》は、それは、あまりに無謀《むぼう》なことだと思《おも》ったが、すべて、成功《せいこう》をするには、これほどの冒険《ぼうけん》と勇気《ゆうき》が、なければならぬとも考《かんが》えられたのでした。 「それで、これから、どこへいきなさるつもりですか。」とたずねました。 「私《わたし》は、北海道《ほっかいどう》に知人《ちじん》がありますので、そこへ頼《たよ》っていきたいと思《おも》います。しかし、それにしては、すこし旅費《りょひ》が足《た》りません。それで、死《し》んだ父《ちち》の形見《かたみ》ですが、ここに時計《とけい》を持《も》っています。いい時計《とけい》で、父《ちち》も大事《だいじ》にしていたのでした。これを町《まち》へいったら、手《て》ばなして、金《かね》にしたいと思《おも》っています……。」と、いうようなことを、若者《わかもの》は、話《はな》しました。  主人《しゅじん》は、なんとなく、この知《し》らぬ旅人《たびびと》の正直《しょうじき》そうなところに、同情《どうじょう》を寄《よ》せるようになりました。 「どれ、どんな時計《とけい》ですか?」といった。  若者《わかもの》は、時計《とけい》を出《だ》して、主人《しゅじん》に見《み》せました。小型《こがた》の銀側時計《ぎんがわどけい》で、銀《ぎん》のくさりがついて、それに赤銅《しゃくどう》でつくられたかざりの磁石《じしゃく》が、別《べつ》にぶらさがっていたのでした。その磁石《じしゃく》の裏《うら》は、般若《はんにゃ》の面《めん》になっています。 「なるほど、いい音《おと》だ。これなら、機械《きかい》は、たしかだろう……。」 「まだ、その時計《とけい》にかぎって、機械《きかい》の狂《くる》ったことを知《し》りません。」 「すこしくらいなら、私《わたし》が、ご用立《ようだ》てをしましょう。そのかわり、いつでもこの時計《とけい》は、あなたにお返《かえ》しいたします。町《まち》へいって、お売《う》りになるのなら、それくらいの金《かね》で、私《わたし》が、おあずかりしてもいいですよ。」と、主人《しゅじん》は答《こた》えました。  若者《わかもの》は、どんなに、うれしく思《おも》ったかしれない。じつは、ここへくるまでに、他国《たこく》の町《まち》で見《み》せたことがあった。しかし、あまり安《やす》かったので売《う》る気《き》になれなかったのですが、若者《わかもの》は、そのことも打《う》ち明《あ》けました。すると鍛冶屋《かじや》の主人《しゅじん》は、 「その値《ね》に、もうその値《ね》の半分《はんぶん》も出《だ》したら、どうですか?」といった。  若者《わかもの》はよろこんで、それなら北海道《ほっかいどう》へゆくのに余《あま》るほどだといって、主人《しゅじん》に時計《とけい》を買《か》ってもらうことにしたのでした。 「これは、あなたのお父《とう》さんの形見《かたみ》だ。いつでも、ご入用《にゅうよう》のときは、さし上《あ》げた金《かね》だけかえしてくだされば、時計《とけい》をおかえしいたします。」と、主人《しゅじん》は、重《かさ》ねていいました。  戸《と》の外《そと》には、あらしが、叫《さけ》んでいました。つるしたランプが、ぐらぐらとゆらぐほどでありました。若者《わかもの》は、厚《あつ》く礼《れい》をのべて、教《おし》えられた方角《ほうがく》へ、町《まち》を指《さ》してゆくべく、ふたたび、あらしの吹《ふ》きすさむ闇《やみ》の中《なか》へ出《で》て、去《さ》ったのであります。その後《あと》を、しばらく主人《しゅじん》は、だまって見送《おく》っていました。 [#7字下げ]二[#「二」は中見出し]  いつしか、二十|余年《よねん》の月日《つきひ》はたちました。  空《そら》の色《いろ》のよくすみわたった、秋《あき》の日《ひ》の午後《ごご》であります。一人《ひとり》の旅人《たびびと》が、町《まち》の方《ほう》を見《み》かえりながら、街道《かいどう》を歩《ある》いて、村《むら》の方《ほう》へきかかりました。田《た》は、黄金色《こがねいろ》に色《いろ》づいていました。小川《おがわ》の水《みず》は、さらさらとかがやいて、さびしそうな歌《うた》をうたって流《なが》れています。木々《きぎ》の葉《は》は、紅《あか》くまた黄色《きいろ》にいろどられて、遠近《おちこち》の景色《けしき》は絵《え》を見《み》るようでありました。  旅人《たびびと》は、道《みち》のかたわらにあった、木《き》の切《き》り株《かぶ》の上《うえ》に腰《こし》をおろして休《やす》みました。そのとき、ちょうど町《まち》の方《ほう》から、村《むら》の方《ほう》へゆく乗合自動車《のりあいじどうしゃ》が、白《しろ》いほこりをあげて前《まえ》を通《とお》ったのです。彼《かれ》は、それを見《み》ると、 「そうだ、二十|年《ねん》にもなるのだから、あの時分《じぶん》と変《か》わったのも無理《むり》がない。」と、ひとりでいったのです。  この旅人《たびびと》は、ずっと以前《いぜん》に、あらしの晩《ばん》、鍛冶屋《かじや》の戸《と》をたたいた若者《わかもの》でありました。あの後《ご》、北海道《ほっかいどう》へゆき、それから、カムチャツカあたりまで出《で》かせぎをして、いまは、北海道《ほっかいどう》でりっぱな店《みせ》を持《も》っているのでありました。 「あの時計《とけい》は、まだあるだろうかな。いろいろお世話《せわ》になった。あのご恩《おん》は忘《わす》れられん。しかし、あの時計《とけい》についている、磁石《じしゃく》の般若《はんにゃ》の面《めん》は、子供《こども》の時分《じぶん》から父親《ちちおや》の胸《むね》にすがって、見覚《みおぼ》えのあるなつかしいものだ。いまも、あのかざりだけは目《め》に残《のこ》っている。よくお礼《れい》をいって、時計《とけい》をかえしてもらいたいばかりにやってきたのだが……。」  こう旅人《たびびと》は、昔《むかし》を思《おも》い出《だ》して、だれにいうとなくいいました。やがて、また街道《かいどう》を歩《ある》きながら、右《みぎ》を見《み》、左《ひだり》を見《み》て、あらしの晩《ばん》にいれてもらった鍛冶屋《かじや》をさがしたのであります。その晩《ばん》は真《ま》っ暗《くら》でした。そして、すさまじい風《かぜ》の音《おと》につれて、ランプのゆれるのを見《み》たのでした。それが、いまはこの村《むら》もすっかり電燈《でんとう》になっていました。  たしかに、ここと思《おも》うところに、一|軒《けん》の鍛冶屋《かじや》がありました。旅人《たびびと》は、その前《まえ》に立《た》って、しばらくためらい、胸《むね》をおどらして中《なか》へはいると、思《おも》った人《ひと》は見《み》えなくて、まだ若《わか》い息子《むすこ》らしい人《ひと》が、仕事《しごと》をしていたのです。  彼《かれ》は、昔《むかし》のことをこまごまとのべました。 「それで、ご主人《しゅじん》にお目《め》にかかって、お礼《れい》を申《もう》したいと思《おも》って、遠《とお》いところをやってきました。」と告《つ》げたのであります。すると、息子《むすこ》は、目《め》をまるくして旅人《たびびと》をながめましたが、 「父《ちち》はもう三、四|年前《ねんまえ》に亡《な》くなりました。」と答《こた》えた。これを聞《き》いた旅人《たびびと》は、どんなに驚《おどろ》いたでしょう。  北海道《ほっかいどう》から持《も》ってきた、いろいろのみやげものをさし出《だ》して、あらしの夜《よる》の思《おも》い出《で》などを語《かた》り、そして、あの時分《じぶん》、買《か》っていただいた時計《とけい》を、まだお持《も》ちなさるなら、譲《ゆず》っていただきたいと思《おも》ってきたことなどを話《はな》したのであります。 「母親《ははおや》は、年《とし》をとって、それに、あいにくかぜをひいて、あちらに臥《ふせ》っていますが。」と、息子《むすこ》は答《こた》えて、奥《おく》へはいったが、やがて時計《とけい》を持《も》って出《で》てまいりました。 「この時計《とけい》でございますか?」  旅人《たびびと》は、なつかしそうにその時計《とけい》を手《て》に取《と》り上《あ》げてながめました。息子《むすこ》は、 「私《わたし》は、子供《こども》の時分《じぶん》、そのくさりについている般若《はんにゃ》の面《めん》をほしいといって、どれほど、父《ちち》にせがんだかしれません。しかし、父《ちち》は、これは大事《だいじ》なのだといって、ほかのものは、なんでも、私《わたし》が頼《たの》めばくれたのに、その磁石《じしゃく》だけは、どうしてもくれなかったが、なるほど、この時計《とけい》に、そんな来歴《らいれき》があったのですか?」と、昔《むかし》を思《おも》い出《だ》していいました。  旅人《たびびと》は、この話《はなし》を聞《き》いているうちに、自分《じぶん》が子供《こども》の時分《じぶん》、ちょうど、それと同《おな》じように、般若《はんにゃ》の面《めん》をほしがったことを思《おも》い出《だ》しました。そして、この小《ちい》さな、一つの磁石《じしゃく》によって、自分《じぶん》と息子《むすこ》とが、同《おな》じように父親《ちちおや》に対《たい》して、なつかしい記憶《きおく》のあることをふしぎに思《おも》い、なんということなく、この人生《じんせい》に通《つう》ずる一|種《しゅ》のあわれさを感《かん》じたのでありました。 「いくら、昔《むかし》を思《おも》い出《だ》しても、なつかしいと思《おも》う父親《ちちおや》は、もう帰《かえ》ってきません。せっかく遠方《えんぽう》からおいでなさいましたのですから、どうか、この時計《とけい》をお持《も》ちください。」と、息子《むすこ》がいいました。旅人《たびびと》は、その言葉《ことば》をしみじみ悲《かな》しく身《み》に感《かん》じました。 「形見《かたみ》の時計《とけい》は、手《て》にもどっても、自分《じぶん》の父親《ちちおや》とてもふたたびこの世《よ》に帰《かえ》るものでない。自分《じぶん》は、愚《おろ》かしくも昔《むかし》の夢《ゆめ》をとりかえそうと思《おも》っていたのだ。そればかりか、息子《むすこ》の夢《ゆめ》をも破《やぶ》ってしまおうとした。この時計《とけい》などは、あのカムチャツカの雪《ゆき》の中《なか》にうもれてしまったものと思《おも》っていればよかったのである……。」こう考《かんが》えると、もうその時計《とけい》を取《と》りかえす気《き》にはなれませんでした。それから、二人《ふたり》はいろいろと話《はなし》をして、またたがいに会《あ》う日《ひ》を心《こころ》に期《き》しながら、別《わか》れたのであります。 底本:「定本小川未明童話全集 6」講談社    1977(昭和52)年4月10日第1刷発行 底本の親本:「未明童話集4」丸善    1930(昭和5)年7月20日 初出:「赤い鳥」    1928(昭和3)年11月 ※表題は底本では、「般若《はんにゃ》の面《めん》」となっています。 ※中見出し「一」がないのは底本通りです。 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:へくしん 2021年10月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。