お父さんの見た人形 小川未明 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)娘《むすめ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)一|倍《ばい》 -------------------------------------------------------  娘《むすめ》の父親《ちちおや》は、船乗《ふなの》りでしたから、いつも、留守《るす》でありました。その間《あいだ》、彼女《かのじょ》は、お父《とう》さんを恋《こい》しがっていたのです。 「いまごろは、どこに、どうしておいでなさるだろうか?」  こう思《おも》うと、少女《しょうじょ》の目《め》には、はてしない青《あお》い海原《うなばら》がうかびました。そして、その地平線《ちへいせん》を航海《こうかい》している、汽船《きせん》の影《かげ》が見《み》えたのであります。 「もう、いくつ眠《ね》たら、お父《とう》さんは、お帰《かえ》りなさるだろう?」  彼女《かのじょ》は、毎日《まいにち》、恋《こい》しいお父《とう》さんの帰《かえ》りをば待《ま》っていました。  娘《むすめ》が、こうして、家《うち》で思《おも》っているように、船《ふね》に乗《の》っている父親《ちちおや》は、また、子供《こども》のことを思《おも》っていました。 「どんなにか、私《わたし》の帰《かえ》るのを待《ま》っているかしれん……。」  父親《ちちおや》は、汽船《きせん》の甲板《かんぱん》の上《うえ》に立《た》って、これから、船《ふね》の着《つ》こうとする港《みなと》の方《ほう》をながめていました。そして、指《ゆび》を折《お》って、故郷《こきょう》へ帰《かえ》る日《ひ》のことなどを考《かんが》えていました。  娘《むすめ》には、母親《ははおや》がなかったのです。彼女《かのじょ》の小《ちい》さな時分《じぶん》に、お母《かあ》さんは、なくなってしまった。彼女《かのじょ》が、父親《ちちおや》を慕《した》ったのも、父親《ちちおや》が、一|倍《ばい》娘《むすめ》をかわいがったのも、そのためでありました。  たとえ、父《ちち》と子《こ》は、たがいに思《おも》っても、幾《いく》千マイルとなく隔《へだ》たっていました。そして、まだ、なんの陸《りく》らしいものも目《め》にはいりません。ただ、夏雲《なつぐも》が、水《みず》の上《うえ》に漂《ただよ》っているかと思《おも》うと、いつしか、それは消《き》えてしまいました。  こうして、幾日《いくにち》かの航海《こうかい》をつづけた後《あと》で、やっと、かなたに陸《りく》が見《み》えたのでした。船《ふね》に乗《の》っているものは、みんな喜《よろこ》んで、甲板《かんぱん》に出《で》て、その方《ほう》を望《のぞ》み、叫《さけ》び、手《て》をたたいて、躍《おど》りました。久《ひさ》しぶりで、港《みなと》に着《つ》いたからです。  けれど、この港《みなと》に着《つ》いて、この父親《ちちおや》の乗《の》っている、船《ふね》の航海《こうかい》は終《お》わるのでありません。さらに、いくつかの港《みなと》へ寄《よ》らなければならなかったのでした。 「どうか、私《わたし》の帰《かえ》るまで、家《うち》に、なんの変《か》わりもなくてくれるように……。」と、父親《ちちおや》は、心《こころ》で祈《いの》っていました。  汽船《きせん》が、港《みなと》に着《つ》くと、人々《ひとびと》は、陸《りく》を見物《けんぶつ》するために、あがったのです。父親《ちちおや》も、ぶらぶらと歩《ある》いてみました。どこの船着《ふなつ》き場《ば》も、そうであるように、街《まち》はにぎやかでした。酒場《さかば》もあれば、宿屋《やどや》もある。また諸国《しょこく》の雑貨《ざっか》を商《あきな》う店《みせ》などが、並《なら》んでいます。ここに、夏《なつ》の晩方《ばんがた》であって、芸人《げいにん》が、手風琴《てふうきん》などを鳴《な》らし、唄《うた》をうたって、往来《おうらい》を流《なが》していました。 「あれは、支那人《しなじん》かしらん……。」と、ちょっと父親《ちちおや》は、立《た》ち止《ど》まって振《ふ》り向《む》いてみました。  街《まち》には、小路《こうじ》が、いくつもありました。 「なにか、珍《めずら》しいものでも、見《み》つからないか。」と考《かんが》えて、一つの小路《こうじ》をはいって、店頭《てんとう》を見《み》ながらいったのです。  すると、小《ちい》さな古道具屋《ふるどうぐや》がありました。店《みせ》は、狭《せま》く、なんとなくむさくるしかったけれど、いろいろな道具《どうぐ》が並《なら》べてあった。燭台《しょくだい》の古《ふる》いのや、南洋《なんよう》の土人《どじん》が織《お》ったような織物《おりもの》や、またオランダあたりからきたつぼや、支那人《しなじん》の腰掛《こしか》けていたような椅子《いす》や、ストーブのさびたのなどまで置《お》かれてありました。 「なるほど、港町《みなとまち》の道具屋《どうぐや》らしいな。」と思《おも》って、奥《おく》の方《ほう》を見《み》ると、赤《あか》い人形《にんぎょう》が、目《め》にはいったのです。 「ちょっときれいな人形《にんぎょう》だな。どこの国《くに》の人形《にんぎょう》かしらん?」と、彼《かれ》は、思《おも》いました。そして、しばらく、ちゅうちょしていましたが、 「もし、もし、その人形《にんぎょう》をちょっと見《み》せてください。」といいました。  奥《おく》から、おばあさんが、顔《かお》を出《だ》しました。 「このお人形《にんぎょう》ですか……。」といって、それを取《と》り下《お》ろして、彼《かれ》に、渡《わた》しながら、 「なんでも、エジプトあたりからきた、人形《にんぎょう》ということですよ。なにか唄《うた》をうたいます。そして、その娘《むすめ》の色《いろ》をごらんなさい。生《い》きているようじゃありませんか。着物《きもの》の色《いろ》も、ただの色《いろ》とはちがいますから。」といいました。  なるほど、手《て》に取《と》って、よく見《み》ると、おばあさんのいうとおりでした。それは、不思議《ふしぎ》な感《かん》じのする人形《にんぎょう》でした。そして、抱《だ》くと唄《うた》をうたうが、その声《こえ》は、かなしいうちに、遠《とお》い、知《し》らない国《くに》へ、人間《にんげん》の魂《たましい》を誘《さそ》っていったのであります。 「これを娘《むすめ》の土産《みやげ》に買《か》っていってやろう……?」と、父親《ちちおや》は、考《かんが》えたのでした。そして、おばあさんに、価《あたい》をたずねました。 「そのお人形《にんぎょう》は、高《たか》いのですよ。安《やす》ければ、もうとっくに、いくたりごらんになったかわかりませんから、売《う》れましたのですけれど、あまり高《たか》いので、まだありますのですが、安《やす》くは売《う》れない品《しな》です……。」  おばあさんは、その価《あたい》をいいました。なるほど、その価《あたい》は、あまりに高《たか》かったのでした。 「そんな高《たか》いものを、土産《みやげ》にしなくても、ほかにたくさんいいものがあろう……。」と、彼《かれ》は思《おも》いましたから、 「おばあさん、ありがとう。また、考《かんが》えて、もらいにきますから……。」と、父親《ちちおや》は、人形《にんぎょう》をおばあさんに返《かえ》して、その店《みせ》から出《で》ました。 「いつ、お父《とう》さんは、お帰《かえ》りなさるだろうか。」  娘《むすめ》は、毎日《まいにち》、晩方《ばんがた》の空《そら》をながめて、お父《とう》さんを思《おも》っていました。赤々《あかあか》と、海《うみ》の方《ほう》の、西《にし》の山《やま》を染《そ》めて、いくたびか、夕焼《ゆうや》けは、燃《も》え、そして、消《き》えたのです。そのうちに、秋《あき》となりました。  娘《むすめ》は、この時分《じぶん》から病気《びょうき》にかかったのです。おばあさんや、おじいさんの心《こころ》づくしも、かいなく、だんだん病気《びょうき》は重《おも》るばかりでした。ちょうど、そのころ、父親《ちちおや》は、航海《こうかい》から帰《かえ》ってきました。  娘《むすめ》のやつれたようすを見《み》て、父親《ちちおや》は、心配《しんぱい》しました。なぜ、もっと早《はや》く帰《かえ》られなかったろう? 「さあ、これは、おみやげだよ。」といって、ポンカンや、ザボンや、そのほか、珍《めずら》しいものをまくらもとに並《なら》べました。  娘《むすめ》は、それを手《て》にとって、喜《よろこ》びました。そして、ザボンの香《かお》りをかぎますと、遠《とお》い南《みなみ》の国《くに》の匂《にお》いがしたのであります。 「お父《とう》さん、わたしも、こんな美《うつく》しい果物《くだもの》のなっている、南《みなみ》の国《くに》へいってみたいわ。」といいました。 「それは、大《おお》きくなればゆけるとも、早《はや》く、病気《びょうき》をよくして、元気《げんき》にならなければならない。」と、父親《ちちおや》は、答《こた》えたのです。 「こんど、航海《こうかい》をしたら、いい人形《にんぎょう》をみやげに買《か》ってきてあげよう。」 「どんな、お人形《にんぎょう》?」と、娘《むすめ》の目《め》は、輝《かがや》きました。  父親《ちちおや》は、なぜ、あのとき、あの人形《にんぎょう》を買《か》ってこなかったろう……と、後悔《こうかい》しました。あの人形《にんぎょう》は、珍《めずら》しい、いい人形《にんぎょう》だった。あれを見《み》たら、さぞ娘《むすめ》は、喜《よろこ》ぶことだろうと思《おも》ったからでした。 「来年《らいねん》の春《はる》は、また南《みなみ》の方《ほう》へ、航海《こうかい》するだろう。そのとき、あの港《みなと》へ寄《よ》ったら、町《まち》のあの古道具屋《ふるどうぐや》へいってみる。そして、まだ、人形《にんぎょう》が売《う》れずにいたら、きっと買《か》ってきてあげよう。それは、いい人形《にんぎょう》だったよ。その人形《にんぎょう》を、欲《ほ》しいと思《おも》ったら、早《はや》く、病気《びょうき》をなおさなければなりません。」と、お父《とう》さんはいわれたのです。 「お父《とう》さん、もっと、そのお人形《にんぎょう》のことをくわしく話《はな》してくださらない? そのお人形《にんぎょう》のあった町《まち》は、どこの港《みなと》のどんな家《うち》でしたの……。」と、娘《むすめ》はいろいろにたずねました。  お父《とう》さんは、くわしく、お人形《にんぎょう》について話《はな》しました。また、その港《みなと》の景色《けしき》や、街《まち》の有《あ》り様《さま》や……小路《こうじ》の角《かど》には、たばこ屋《や》があって、果物屋《くだものや》があって、赤《あか》い旗《はた》の立《た》っている酒場《さかば》のあることも、話《はな》しました。 「どうか、そのお人形《にんぎょう》が売《う》れずにいるように、わたし、祈《いの》っているわ。」と、娘《むすめ》は、希望《きぼう》にかがやいた目《め》を上《あ》げて、窓《まど》から見《み》える青《あお》い空《そら》を仰《あお》いだのです。  娘《むすめ》の病気《びょうき》は、なかなかなおりませんでした。医者《いしゃ》は、来年《らいねん》の春《はる》にもなって、暖《あたた》かくなったら、快《よ》い方《ほう》に向《む》かうであろうが、それまで、大事《だいじ》にしなければならないといいました。お父《とう》さんは、娘《むすめ》の身《み》の上《うえ》を気遣《きづか》いながら、また、航海《こうかい》に出《で》かけることになったのです。 「こんど、帰《かえ》るときは、お人形《にんぎょう》を持《も》ってくるよ。」と、出《で》かける時分《じぶん》に、お父《とう》さんは、いいました。  娘《むすめ》は、その日《ひ》から、まだ見《み》ない人形《にんぎょう》に憧《あこが》れたのでした。そのお人形《にんぎょう》を、外国《がいこく》のどんな子供《こども》が持《も》っていたのだろう……。どんな町《まち》のお家《うち》で、そのお人形《にんぎょう》は、産《う》まれたのだろう……。もし、そのお人形《にんぎょう》が、遠《とお》い旅《たび》をして、わたしのところへきたら、わたしは頼《たよ》りのないお人形《にんぎょう》さんをかわいがってあげるわ……と、思《おも》っていました。そして、彼女《かのじょ》の心《こころ》は、港《みなと》の町《まち》の古道具屋《ふるどうぐや》の前《まえ》をさまよったのでした。        *   *   *   *   *  南《みなみ》の国《くに》には、もう春《はる》がきたのであります。ある日《ひ》の昼《ひる》ごろ、馬車《ばしゃ》から下《お》りて、古道具屋《ふるどうぐや》へはいった、美《うつく》しい奥《おく》さまがありました。 「そのお人形《にんぎょう》を見《み》せてください。」といいました。おばあさんは、お人形《にんぎょう》を見《み》せると、奥《おく》さまは、それを手《て》に取《と》って、「いいお人形《にんぎょう》ですこと、私《わたし》に売《う》ってください。」といいました。すると、おばあさんは、 「じつは、毎日《まいにち》、このお人形《にんぎょう》を見《み》にいらっしゃる、かわいいお嬢《じょう》さんがあるのですよ。そして、今夜《こんや》の六|時《じ》まで、だれにも売《う》らんでおいておくれ、お父《とう》さんがもらいにくるからとおっしゃるのですから、どうか、その時刻《じこく》までお待《ま》ちください。おいでがなかったときは、あなたさまにおねがいします。」といいました。  奥《おく》さまは、それなら、また、くるからといって帰《かえ》りました。ちょうど、その日《ひ》の晩方《ばんがた》、船《ふね》から上《あ》がった父親《ちちおや》は、その店《みせ》をたずねました。ちょうど、その時《とき》は六|時《じ》でありました。おばあさんの話《はなし》を聞《き》いて、びっくりしたのです。なんという、不思議《ふしぎ》なことだろう……。もしたとえ、その娘《むすめ》が、ほかの家《うち》の少女《しょうじょ》にしても、父親《ちちおや》は、前《まえ》に一|度《ど》人形《にんぎょう》のことで、おばあさんと顔《かお》なじみだったから、おばあさんは、あなたが、先口《せんくち》だといって、人形《にんぎょう》を売《う》りました。 底本:「定本小川未明童話全集 6」講談社    1977(昭和52)年4月10日第1刷 底本の親本:「未明童話集3」丸善    1928(昭和3)年7月6日 ※表題は底本では、「お父《とう》さんの見《み》た人形《にんぎょう》」となっています。 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:へくしん 2021年9月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。