ある男と牛の話 小川未明 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)男《おとこ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)一|歩《ぽ》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#地付き]――一九二六・六作―― -------------------------------------------------------  ある男《おとこ》が、牛《うし》に重《おも》い荷物《にもつ》を引《ひ》かせて町《まち》へ出《で》かけたのであります。 「きょうの荷《に》は、ちと牛《うし》に無理《むり》かもしれないが、まあ引《ひ》けるか、引《ひ》かせてみよう。」と、男《おとこ》は、心《こころ》の中《なか》で思《おも》ったのでした。  牛《うし》や馬《うま》は、いくらつらいことがあっても、それを口《くち》に出《だ》して訴《うった》えることはできませんでした。そして、だまって人間《にんげん》からされるままにならなければなりませんでした。  牛《うし》は、その荷《に》を重《おも》いと思《おも》いました。けれど、いっしょうけんめいに力《ちから》を出《だ》して、重《おも》い車《くるま》を引《ひ》いたのです。  街道《かいどう》をきしり、きしり、牛《うし》は、車《くるま》を引《ひ》いて町《まち》の方《ほう》へとゆきました。汗《あせ》は、たらたらと牛《うし》の体《からだ》から流《なが》れたのでした。松並木《まつなみき》には、せみが、のんきそうに唄《うた》をうたっていました。せみには、いまどんな苦《くる》しみを牛《うし》が味《あじ》わっているかということを知《し》りませんでした。野原《のはら》の上《うえ》を越《こ》え、そよそよと吹《ふ》いてくる涼《すず》しい風《かぜ》に、こずえに止《と》まって鳴《な》いているせみは眠気《ねむけ》を催《もよお》すとみえて、その声《こえ》が高《たか》くなったり、低《ひく》くなったりしていました。  牛《うし》は、心《こころ》のうちで、せめてこの世《よ》の中《なか》に生《う》まれてくるなら、なぜ自分《じぶん》は、せみに生《う》まれてこなかったろうとうらやみながら、一|歩《ぽ》一|歩《ぽ》、倦《う》まずに車《くるま》を引《ひ》いたのであります。  男《おとこ》は、手綱《たづな》の先《さき》で、ピシリピシリと牛《うし》のしりをたたきましたが、牛《うし》は、力《ちから》をいっぱい出《だ》していますので、もうそのうえ早《はや》く足《あし》を運《はこ》ぶことはできませんでした。さすがに、男《おとこ》も、心《こころ》のうちでは、無理《むり》をさせていると思《おも》ったので、そのうえひどいことはできなかったばかりでなく、またそのかいがなかったからです。  それに、真夏《まなつ》のことであって、いつ牛《うし》が途《みち》の上《うえ》で倒《たお》れまいものでもないと思《おも》ったから、よけいに心配《しんぱい》もしたのでした。  街道《かいどう》の中《なか》ほどに掛《か》け茶屋《ぢゃや》があって、そこでは、いつも、うまそうな餡《あん》ころもちを造《つく》って、店《みせ》に並《なら》べておきました。男《おとこ》は、酒呑《さけの》みで、餡《あん》ころもちはほしくなかったが、牛《うし》が、たいそうそれを好《す》きだということを聞《き》いていましたから、やがて、その家《うち》の前《まえ》へさしかかると、 「どうか、この荷物《にもつ》を無事《ぶじ》に先方《せんぽう》へ届《とど》けてくれ。そうすれば帰《かえ》りに餡《あん》ころもちを買《か》ってやるぞ。」と、男《おとこ》は、牛《うし》にいったのであります。  その言葉《ことば》が牛《うし》にわかったものか、牛《うし》は重《おも》そうな足《あし》どりを精《せい》いっぱいに早《はや》めました。そして、その日《ひ》の午後《ごご》、町《まち》の目的地《もくてきち》へ着《つ》くことができたのであります。  男《おとこ》は、そこで賃金《ちんぎん》を、いつもよりはよけいにもらいました。心《こころ》のうちでほくほく喜《よろこ》びながら、牛《うし》にも水《みず》をやり、自分《じぶん》も休《やす》んでから、帰《かえ》りに着《つ》いたのでした。 「牛《うし》もたいそうだし、自分《じぶん》も骨《ほね》だが、多《おお》く積《つ》んで積《つ》めないことはないものだ。すこしこうして勉強《べんきょう》をすれば、こんなによけいにお金《かね》がもらえるじゃないか……。」と、手綱《たづな》を引《ひ》いて歩《ある》きながら考《かんが》えました。  町《まち》を出《で》てから、田舎道《いなかみち》にさしかかったところに居酒屋《いざかや》がありました。そこまでくると、男《おとこ》は、牛《うし》を前《まえ》の柳《やなぎ》の木《き》につないで、店《みせ》の中《なか》へはいりました。彼《かれ》は、有《あ》り合《あ》いの肴《さかな》でいっぱいやったのでありました。そして、いい機嫌《きげん》になって、そこから出《で》たのであります。  その間《あいだ》、牛《うし》は、居眠《いねむ》りをして、じっと待《ま》っていました。牛《うし》は疲《つか》れていたのです。赤々《あかあか》として、太陽《たいよう》は、西《にし》の空《そら》へ傾《かたむ》きかけて、雲《くも》がもくりもくりと野原《のはら》の上《うえ》の空《そら》にわいていました。  男《おとこ》は、牛《うし》を引《ひ》いて、やがて餡《あん》ころもちを売《う》っている店《みせ》の前《まえ》へかかりますと、その時分《じぶん》から、ゴロゴロと雷《かみなり》が鳴《な》りはじめました。 「あ、夕立《ゆうだち》がきそうになった。ぐずぐずしているとぬれてしまうから、今日《きょう》は我慢《がまん》をしてくれな。明日《あした》は、きっと餡《あん》ころもちを買《か》ってやるから。」と、男《おとこ》は牛《うし》にいいました。  牛《うし》は、黙《だま》って、下《した》を向《む》いて歩《ある》いていました。男《おとこ》は、けっしてうそをいうつもりはなかったのでしょう。すくなくも哀《あわ》れな牛《うし》にはそう信《しん》じられたのでした。  明《あ》くる日《ひ》も男《おとこ》は、昨日《きのう》と同《おな》じほどの重《おも》い荷《に》を引《ひ》かせたのです。牛《うし》は、汗《あせ》を滴《た》らして車《くるま》を引《ひ》きました。そのうち、餡《あん》ころもちを売《う》る店《みせ》の前《まえ》へさしかかると、男《おとこ》は、ちょっと店《みせ》の方《ほう》を横目《よこめ》で見《み》て、 「今日《きょう》は、帰《かえ》りに餡《あん》ころもちを買《か》ってやるぞ。だから、早《はや》く歩《ある》けよ。」といいました。  昨日《きのう》と同《おな》じ時分《じぶん》に、町《まち》へ着《つ》きました。そして、男《おとこ》は、昨日《きのう》と同《おな》じように、よけいに金《かね》をもらいました。男《おとこ》は、ほくほく喜《よろこ》んだのであります。この男《おとこ》は、よけいに金《かね》を持《も》つと、なんで忍耐《にんたい》して、居酒屋《いざかや》の前《まえ》を素通《すどお》りすることができましょう。やはり我慢《がまん》がされずに、店《みせ》へはいって、たらふく飲《の》みました。その間《あいだ》、牛《うし》は外《そと》にじっとして待《ま》っていました。  男《おとこ》は、いい機嫌《きげん》で店《みせ》から出《で》ると、牛《うし》を引《ひ》いてゆきました。  やがて、餡《あん》ころもちを売《う》る店《みせ》の前《まえ》へさしかかりました。 「なに、畜生《ちくしょう》のことだ。人間《にんげん》のいったことなどがわかるものか……。」と、男《おとこ》は、ずうずうしくも知《し》らぬ顔《かお》をして、牛《うし》を引《ひ》いて、その前《まえ》を通《とお》り過《す》ぎてしまいました。そのとき、牛《うし》は、 「モウ、モウー。」と、なきました。 「さ、早《はや》く歩《ある》け!」と、男《おとこ》は、しかりつけて、ピシリと牛《うし》のしりを手綱《たづな》で力《ちから》まかせにたたきました。すると、いままで、おとなしかった牛《うし》は、急《きゅう》に、猛《たけ》りたって、男《おとこ》を角《つの》の先《さき》にかけたかと思《おも》うと、五、六|間《けん》もかなたの田《た》の中《なか》へ、まりを投《な》げ飛《と》ばすように投《な》げ込《こ》んでしまったのです。  彼《かれ》は、顔《かお》を泥田《どろた》の中《なか》にうずめてもがきました。そのまに、牛《うし》は、ひとりでのこのこと歩《ある》いて家《いえ》へ帰《かえ》ってゆきました。  男《おとこ》は、ようやく田《た》の中《なか》からはい上《あ》がると、泥《どろ》まみれになって村《むら》へ帰《かえ》りましたが、あう人《ひと》たちがみんな怪《あや》しんで、どうしたかと聞《き》きましたけれど、さすがに、牛《うし》にうそをいって、復讐《ふくしゅう》されたとはいえず苦笑《にがわら》いしていました。  彼《かれ》は、家《いえ》に帰《かえ》ってから、黙《だま》っている牛《うし》が、なんでもよくわかっていることを覚《さと》って、心《こころ》から自分《じぶん》の悪《わる》かったことを牛《うし》に謝《しゃ》したといいます。 [#地付き]――一九二六・六作―― 底本:「定本小川未明童話全集 5」講談社    1977(昭和52)年3月10日第1刷発行 ※表題は底本では、「ある男《おとこ》と牛《うし》の話《はなし》」となっています。 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:雪森 2013年4月10日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。