山へ帰りゆく父 小川未明 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)父親《ちちおや》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)一|度《ど》 -------------------------------------------------------  父親《ちちおや》は、遠《とお》い街《まち》に住《す》んでいる息子《むすこ》が、どんな暮《く》らしをしているかと思《おも》いました。そして、どうか一|度《ど》いってみたいものだと思《おも》っていました。  しかし、年《とし》を取《と》ると、なかなか知《し》らぬところへ出《で》かけるのはおっくうなものです。そして、自分《じぶん》の長《なが》らく住《す》んでいたところがいちばんいいのであります。 「私《わたし》は、こんなに年《とし》をとったのに、せがれはどんな暮《く》らしをしているか心配《しんぱい》でならない。今年《ことし》こそはいってみよう。」  父親《ちちおや》は、遠《とお》い旅《たび》をして、息子《むすこ》の住《す》んでいる街《まち》にやってきました。それは、にぎやかな都会《とかい》でありました。  静《しず》かな、夜《よる》などは、物音《ものおと》ひとつ聞《き》こえず、まったくさびしい田舎《いなか》に住《す》んでいました人《ひと》が、停車場《ていしゃば》に降《お》りると、あたりが明《あか》るく、夜《よる》でも昼間《ひるま》のようであり、馬車《ばしゃ》や、電車《でんしゃ》や、自動車《じどうしゃ》が、往来《おうらい》しているにぎやかな有《あ》り様《さま》を見《み》て、びっくりするのは無理《むり》のないことです。父親《ちちおや》も、やはりその一人《ひとり》でした。 「お父《とう》さん、よくおいでくださいました。」といって、息子《むすこ》はどんなに喜《よろこ》んで迎《むか》えたかしれません。  息子《むすこ》はいまでは、この都《みやこ》でなに不自由《じゆう》なく暮《く》らしていられる身柄《みがら》でありましたから、父親《ちちおや》に、なんでも珍《めずら》しそうなものを持《も》ってきて、もてなしました。また、方々《ほうぼう》へ見物《けんぶつ》にもつれていったりいたしました。  父親《ちちおや》は、はじめのうちは、どこへいってもにぎやかなので驚《おどろ》いていました。また、いままで口《くち》にいれたことのないようなものを食《た》べたりして、こうして、人間《にんげん》が暮《く》らしてゆかれたら、しあわせなものだとも考《かんが》えられたのでした。  五日《いつか》、六日《むいか》というふうに同《おな》じことがつづきますと、そのにぎやかさが、ただそうぞうしいものになり、また、毎日《まいにち》ごちそうを食《た》べることも、これが人間《にんげん》の幸福《こうふく》であるとは、思《おも》われなくなりました。 「お父《とう》さん、おもしろい芝居《しばい》が、はじまりましたから、いってごらんになりませんか。」 「いいや、見《み》たくない。」 「お父《とう》さん、これから、なにかうまいものを食《た》べに出《で》かけましょう。」 「いいや、なにも食《た》べたくない。」  父親《ちちおや》は、じっとして、家《うち》の中《なか》に、すわっていました。 「どうしたのですか? お父《とう》さん。」と、息子《むすこ》は、なにをいっても、父親《ちちおや》が気乗《きの》りをしないので、心配《しんぱい》して問《と》うたのでありました。 「私《わたし》は、国《くに》へ帰《かえ》りたくなった。」と、父親《ちちおや》は答《こた》えました。  息子《むすこ》は、これを聞《き》くと、目《め》を円《まる》くして、 「あんなさびしい山《やま》の中《なか》へ帰《かえ》ってもしかたがないではありませんか。どうして、あの不便《ふべん》なところがいいのですか?」と、息子《むすこ》は、父親《ちちおや》の心《こころ》をはかりかねて、たずねました。 「私《わたし》は、国《くに》へ帰《かえ》りたい。」と、父親《ちちおや》は答《こた》えました。 「お父《とう》さん、なにかいけないところがあったら、いってください。また私《わたし》たちが、気《き》のつかないところがあったら、これから気《き》をつけるようにしますから、もっと、こちらにいてくださいまし。そのうちに、お父《とう》さんは、この街《まち》の生活《せいかつ》にも、おなれでありましょうから……。」と、息子《むすこ》は、ひたすら真心《まごころ》をあらわしていいました。  すると、父親《ちちおや》は、頭《あたま》を振《ふ》って、 「いや、私《わたし》は、かえっておまえが国《くに》に帰《かえ》るように、つれにきたのだが、おまえは、帰《かえ》らないか?」といいました。 「どうして、お父《とう》さん、私《わたし》が、帰《かえ》ることができましょう?」  息子《むすこ》は、父親《ちちおや》の顔《かお》を見《み》つめて、あきれた顔《かお》つきをしました。  それから、日《ひ》ならずして、老人《ろうじん》の故郷《こきょう》に向《む》かって旅立《たびだ》ってゆく、姿《すがた》が見《み》られたのであります。  その日《ひ》は、一|日《にち》、息子《むすこ》は、家《うち》にいて、父親《ちちおや》のことを案《あん》じていました。 「あんなに、お年《とし》をとっていられるから、道中《どうちゅう》なにか変《か》わったことがなければいいが……。」 「いまごろ、汽車《きしゃ》はどのあたりを通《とお》っているだろうか……。」  いろいろと息子《むすこ》は、思《おも》いました。そして、道《みち》すがらの景色《けしき》などを思《おも》い出《だ》しては、目《め》に描《えが》いていたのであります。  汽車《きしゃ》は、高《たか》い山々《やまやま》のふもとを通《とお》りました。大《おお》きな河《かわ》にかかっている鉄橋《てっきょう》を渡《わた》りました。また、黒《くろ》いこんもりとした林《はやし》に添《そ》って走《はし》りました。白壁《しらかべ》の土蔵《どぞう》があったり、高《たか》い火《ひ》の見《み》やぐらの建《た》っている村《むら》をも過《す》ぎました。そして、翌日《よくじつ》の昼過《ひるす》ぎには、故郷《こきょう》に近《ちか》い停車場《ていしゃば》に着《つ》くのでありました。 「いまごろは、お父《とう》さんは、あの街道《かいどう》の松並木《まつなみき》の下《した》を歩《ある》いていなさるだろう……。」と、息子《むすこ》は、都《みやこ》にいて思《おも》っていました。  それは、広々《ひろびろ》とした、野中《のなか》を通《とお》っている、昔《むかし》ながらの道筋《みちすじ》でありました。年《とし》とった松《まつ》が道《みち》の両側《りょうがわ》に生《お》い立《た》っていました。野《の》の面《おもて》を見《み》わたすと、だんだん北《きた》の海《うみ》の方《ほう》に伸《の》びるに従《したが》って、低《ひく》くなっていました。そして、その方《ほう》の地平線《ちへいせん》は、夕暮《ゆうぐ》れ方《がた》になっても、明《あか》るくありました。  山《やま》には、せみやひぐらしが鳴《な》いていました。老人《ろうじん》は、もう多年《たねん》この山《やま》の中《なか》に生活《せいかつ》をしています。道《みち》すがらの木《き》も、草《くさ》も、石《いし》も、またこの山《やま》にすんでいる小鳥《ことり》や、せみや、ひぐらしにいたるまで、毎日《まいにち》のように、この山道《やまみち》を歩《ある》く老人《ろうじん》の咳《せき》ばらいや、足音《あしおと》や、姿《すがた》を知《し》らぬものはありません。  父親《ちちおや》が、街道《かいどう》を歩《ある》いていますと、電信柱《でんしんばしら》の付近《ふきん》に鳴《な》いているつばめは、「いま、お帰《かえ》りですか。」と、いうように聞《き》こえました。  夕焼《ゆうや》けの空《そら》は、昔《むかし》も、今《いま》も、この赤《あか》い、悲《かな》しい色《いろ》に変《か》わりがありません。父親《ちちおや》は、夕焼《ゆうや》けの空《そら》をながめました。 「よく、自分《じぶん》は、せがれの手《て》を引《ひ》いて、夕暮《ゆうぐ》れ方《がた》、町《まち》から帰《かえ》ったものだ。あの時分《じぶん》のせがれは、どんなに無邪気《むじゃき》で、かわいらしかったか。あのせがれがいまでは、りっぱな人間《にんげん》になったのだ。私《わたし》が、こんなに年《とし》をとったのも、無理《むり》はない……。」と、考《かんが》えにふけったのでした。  そして、老人《ろうじん》は、いよいよ山道《やまみち》にさしかかりますと、山《やま》の上《うえ》は、まだ、ふもとよりは、もっと明《あか》るくて、ちょうが飛《と》んでいました。 「いま、おじいさんお帰《かえ》りですか?」と、いっているように、人《ひと》なつかしげに、老人《ろうじん》の身《み》のまわりを飛《と》んでいました。せみも、ひぐらしも、このとき、みんな声《こえ》をそろえて鳴《な》きたてました。 「よう帰《かえ》っておいでなさいました。あなたのお山《やま》は、いつでも平和《へいわ》です。おじいさん、あなたは、いつまでもこのお山《やま》においでなさい。そして、けっして、ほかへゆくなどと思《おも》いなさいますな。」と、みんなしていっているように聞《き》こえました。  おじいさんは、にこにこしていました。 「なんで、こんないいところを捨《す》てて、他国《たこく》へなどゆけるものか。」  いつまでも、いつまでも、この山《やま》の中《なか》の自分《じぶん》の家《いえ》に、暮《く》らそうものと思《おも》いました。そして、その憐《あわ》れげな、小《ちい》さな影《かげ》を道《みち》の上《うえ》に落《お》としながら、一|歩《ぽ》、一|歩《ぽ》、登《のぼ》ってゆきました。  こうして、父親《ちちおや》は、また、故郷《こきょう》の人《ひと》となったのであります。  こんどは、息子《むすこ》が、毎日《まいにち》のように父親《ちちおや》の身《み》の上《うえ》を心配《しんぱい》しました。 「お父《とう》さんは、ほんとうに年《とし》をとられた。」と、彼《かれ》は父親《ちちおや》の姿《すがた》を目《め》に思《おも》い浮《う》かべました。自分《じぶん》が子供《こども》のとき、父親《ちちおや》の後《あと》からついて町《まち》へゆき、また山《やま》に帰《かえ》ったときは、父親《ちちおや》は、まだ若《わか》く、力《ちから》が強《つよ》く、達者《たっしゃ》であったのです。そう考《かんが》えると、なぜ早《はや》く、この都《みやこ》へ越《こ》してこられないものかと案《あん》じていました。 「あのさびしい、不便《ふべん》な、田舎《いなか》がなんでいいことがあろう。ぜひ、今年《ことし》の中《うち》に、迎《むか》えにいってつれてこなければならない。」と、息子《むすこ》は毎日《まいにち》のように思《おも》っていました。  それに、秋《あき》から、冬《ふゆ》にかけて、山《やま》の中《なか》は、風《かぜ》が寒《さむ》く、吹雪《ふぶき》がすさまじいのでありました。息子《むすこ》は、故郷《こきょう》にいた時分《じぶん》の記憶《きおく》をけっして、忘《わす》れることができません。 「雪《ゆき》の積《つ》もる冬《ふゆ》は、お父《とう》さんは、どうしてあんなところで暮《く》らされよう。」  息子《むすこ》は、とうとうお父《とう》さんを、自分《じぶん》の住《す》んでいるにぎやかな街《まち》へ迎《むか》えるために、久《ひさ》しぶりで故郷《こきょう》へ帰《かえ》ったのであります。  息子《むすこ》は、自分《じぶん》の生《う》まれた、古《ふる》い家《いえ》の中《なか》へはいりました。すると、いろいろの思《おも》い出《で》が、そのままよみがえってくるのでした。壁板《かべいた》に書《か》いた、子供《こども》の時分《じぶん》の楽器《がっき》が、なおうすく残《のこ》っています。よく鳥《とり》かごをかけた、戸口《とぐち》の柱《はしら》の小刀《こがたな》の削《けず》り痕《あと》もそのままであります。雨《あめ》の降《ふ》る日《ひ》には、土間《どま》で独楽《こま》をまわした。そして、よく、かち当《あ》てた敷石《しきいし》もちゃんとしていました。なにもかも、昔《むかし》のままであったのであります。  息子《むすこ》は、ぼんやりとした気持《きも》ちで、二、三|日《にち》は過《す》ごしてしまいました。 「お父《とう》さんは、都《みやこ》へおいでになりませんか。」と、息子《むすこ》は、いいました。 「いや、どうして、この長《なが》く住《す》み慣《な》れた家《うち》を、捨《す》ててゆけよう。」と、父親《ちちおや》は、頭《あたま》を振《ふ》りました。 「おまえこそ、ここへ帰《かえ》ってきて、いっしょに暮《く》らしたがいい。」と、父親《ちちおや》は、息子《むすこ》に向《む》かっていいました。  息子《むすこ》は、都《みやこ》に残《のこ》してきた、仕事《しごと》のことを思《おも》い出《だ》しました。そして、どうしても都《みやこ》に帰《かえ》らなければなりませんでした。  二人《ふたり》は、たがいに別《わか》れて暮《く》らさなければならないのを悲《かな》しく思《おも》いました。 「これは、おまえが子供《こども》の時分《じぶん》に、裏《うら》の庭《にわ》さきで拾《ひろ》って大事《だいじ》にしていた石《いし》だ。」と、父親《ちちおや》はいって、床《とこ》の間《ま》の台《だい》の上《うえ》に乗《の》せてあった黒《くろ》い石《いし》を取《と》りあげて、息子《むすこ》に見《み》せました。 「私《わたし》は、おまえが子供《こども》の時分《じぶん》に、持《も》っていたおもちゃは、みんな粗末《そまつ》にしないでしまっておく。そして、ときどき出《だ》してみては、おまえのことを思《おも》い暮《く》らすのだ。」と、父親《ちちおや》はいいました。  これを聞《き》くと、息子《むすこ》は、どんなに父親《ちちおや》の情《なさ》けをありがたく感《かん》じたかしれません。そして、その黒《くろ》い石《いし》を、手《て》に取《と》ってつくづくとながめますと、やはり、自分《じぶん》にも子供《こども》の時分《じぶん》のことが思《おも》い出《だ》されたのであります。  ほとんど、幾《いく》十|年《ねん》の間《あいだ》、その石《いし》は、故郷《こきょう》のうす暗《ぐら》い、家《いえ》の床《とこ》の間《ま》に、ほこりを浴《あ》びて置《お》かれていました。 「お父《とう》さん、私《わたし》は、この石《いし》を持《も》っていってもようございますか?」と、息子《むすこ》は、父親《ちちおや》にたずねました。 「ああ、いいとも、おまえの持《も》ってゆくぶんにはさしつかえない。なんでもほしいものがあったら持《も》ってゆくといい。」と、父親《ちちおや》は答《こた》えました。  長《なが》い、長《なが》い間《あいだ》、こうして、じっとしていた石《いし》が、ここから、どこかへ、まったく知《し》らぬところへ持《も》ってゆかれることになりました。それは思《おも》いもよらないことで、変化《へんか》というものがどんなものの上《うえ》にもくることを、思《おも》わせたのであります。  石《いし》は、息子《むすこ》のかばんの中《なか》へ、紙《かみ》に包《つつ》まれてはいりました。  彼《かれ》は、また外《そと》に出《で》て、子供《こども》の時分《じぶん》、よく遊《あそ》んだ草原《くさはら》へやってきました。そこには、いろいろな草《くさ》が、紫《むらさき》や、青《あお》や、白《しろ》の花《はな》を咲《さ》かせていました。その花《はな》は、このあたりにはたくさんあっても、都《みやこ》ではとても見《み》ることができませんでした。彼《かれ》は、その花《はな》の一つ、一つを昔《むかし》のお友《とも》だちにでもあったように、なつかしげにながめました。とんぼが飛《と》んできて、かがやかしい羽《はね》を、花《はな》に止《と》まって休《やす》めています。それに、じっと見入《みい》っていると、そのころ、いっしょに草《くさ》の葉《は》や、花《はな》をつんで遊《あそ》んだ近所《きんじょ》の女《おんな》の子《こ》や、男《おとこ》の子《こ》の姿《すがた》が、ありありと目《め》さきにちらつくように映《うつ》ってくるのでした。  しかし、その女《おんな》の子《こ》も、男《おとこ》の子《こ》も、もういまではこの土地《とち》にはいません。みんな大人《おとな》になって、女《おんな》の子《こ》はお母《かあ》さんになり、男《おとこ》の子《こ》はお父《とう》さんになっているのです。けれど、この草原《くさはら》の景色《けしき》は、昔《むかし》とすこしの変《か》わりもありませんでした。草《くさ》に咲《さ》いている花《はな》の色《いろ》も、またとんぼの羽《はね》もすこしの変《か》わりがありませんでした。  息子《むすこ》は考《かんが》えました。「この草《くさ》も都《みやこ》へ持《も》ってゆこう。そして、朝晩《あさばん》ながめて、故郷《こきょう》のことを思《おも》い、子供《こども》の時分《じぶん》のことを考《かんが》えよう……。」と、彼《かれ》は、紫色《むらさきいろ》の花《はな》の咲《さ》いている草《くさ》を、根《ね》をつけて掘《ほ》り取《と》ったのであります。  やがて息子《むすこ》は、都《みやこ》に帰《かえ》ることになりました。父親《ちちおや》に、別《わか》れなければならぬ悲《かな》しみで、胸《むね》いっぱいにして旅立《たびだ》ちました。  汽車《きしゃ》は、くるときと同《おな》じ道《みち》を通《とお》って、ついにふたたび故郷《こきょう》から遠《とお》く去《さ》ってしまったのであります。  幾《いく》百|里《り》も、遠《とお》いところを石《いし》と草《くさ》とが運《はこ》ばれました。石《いし》や草《くさ》はどうして、こんな遠《とお》いところへくるなどと思《おも》ってましたでしょう?  息子《むすこ》は、植木屋《うえきや》に、草《くさ》といっしょに石《いし》も鉢《はち》へ移《うつ》させました。そして、草《くさ》と石《いし》とを、ときどき見《み》ようとしたのであります。植木屋《うえきや》は、鉢《はち》の中《なか》へ、草《くさ》を植《う》え、程《ほど》いいところへ石《いし》を置《お》きました。 「これで根《ね》がつけば、たいしたものです。」と、植木屋《うえきや》はいいました。  息子《むすこ》は、植木屋《うえきや》に向《む》かって、「これをどこに置《お》いたらいいだろうか。」と聞《き》きました。 「さようです、寒《さむ》いところに生《は》える草《くさ》ですから、風当《かぜあ》たりのいい、高《たか》いところがいいと思《おも》います。」と、植木屋《うえきや》は答《こた》えました。  息子《むすこ》は、これをバルコニーに出《だ》しておきました。そこからは、都会《とかい》のいろいろな工場《こうじょう》から上《あ》がる煙《けむり》が黒《くろ》くなって見《み》られました。ちょうど黒《くろ》いへびのはい上《あ》がるように、いつしか青《あお》い空《そら》に、煙《けむり》は吸《す》い込《こ》まれて消《き》えているのでありました。  また、いろいろの、巷《ちまた》から起《お》こる音《おと》が聞《き》こえてきました。風《かぜ》は、いままでは、つねに南《みなみ》から吹《ふ》いていましたが、だんだん北《きた》から吹《ふ》くほうが多《おお》くなると、季節《きせつ》も変《か》わって、熱《あつ》さは去《さ》っていったのです。  つばめは鳴《な》いたり、すずめもまれにきて、屋根《やね》の上《うえ》などで鳴《な》きましたけれど、草《くさ》は、故郷《こきょう》の草原《くさはら》で聞《き》いたような、いい小鳥《ことり》の声《こえ》にはふたたび出《で》あいませんでした。  太陽《たいよう》は、東《ひがし》から出《で》て、西《にし》に沈《しず》みました。けれど、あの黒《くろ》い森影《もりかげ》から上《あ》がって、あの高《たか》い雲《くも》の光《ひか》る山《やま》のかなたに沈《しず》むのではありませんでした。いつもほこりっぽい建物《たてもの》の屋根《やね》から上《あ》がって、あちらの屋根《やね》の間《あいだ》に落《お》ちるのでした。草《くさ》は、夜々《よよ》、大空《おおぞら》に輝《かがや》く星《ほし》の光《ひかり》を仰《あお》いで、独《ひと》りさびしさに泣《な》いたのです。故郷《こきょう》の露深《つゆぶか》い、虫《むし》の声《こえ》のしげき草原《くさはら》が慕《した》われたからです。そこにいまもなお花《はな》の咲《さ》いている姉妹《きょうだい》や友《とも》だちがいるのが、かぎりなく恋《こい》しかったのです。  ある日《ひ》、草《くさ》は、下《した》に黙《だま》ってすわっていた石《いし》に向《む》かっていいました。 「あなたも、遠《とお》くからきなされたのですか。」 「ええ、やはり汽車《きしゃ》に乗《の》って、あなたといっしょにまいりましたのです。」と、石《いし》は答《こた》えました。  すると、草《くさ》はさも疲《つか》れたというようすをして、 「あなたは、体《からだ》がおじょうぶですから、どこにいられてもいいのですけれども、わたしは、もうこんなに弱《よわ》っています。ついここにくるまでは、はかない自分《じぶん》の運命《うんめい》というものに考《かんが》えつかなかったのです。」と、さも後悔《こうかい》したように語《かた》りました。  これを聞《き》くと、さすがに黙《だま》っていた石《いし》も、感慨《かんがい》に堪《た》えないふうで、 「私《わたし》は、長《なが》い幾《いく》十|年《ねん》かの間《あいだ》、無事《ぶじ》に暮《く》らしてきました。そして、おそらく、永久《えいきゅう》にそのように暮《く》らされるものと思《おも》っていました。それが、思《おも》いがけなく、こんな身《み》の上《うえ》になってしまったのです。これから先《さき》のことを考《かんが》えると不安《ふあん》でなりません。」と、石《いし》はいいました。  やさしい草《くさ》は、自分《じぶん》の身《み》を忘《わす》れて、石《いし》に同情《どうじょう》したらしかった。 「けれど、あなたはおじょうぶですから、安心《あんしん》なさいまし。わたしは、枯《か》れれば、明日《あす》にもあの人通《ひとどお》りの多《おお》い道《みち》の上《うえ》に捨《す》てられてしまうかもしれません。そうすれば、あの怖《おそ》ろしい車《くるま》や、馬《うま》にふまれて、わたしの体《からだ》は、跡形《あとかた》もなく砕《くだ》かれてしまうでしょう。」と、草《くさ》はいいました。 「いえ、私《わたし》だって同《おな》じことです。」と、石《いし》はいいました。  こうして、草《くさ》と石《いし》とが相慰《あいなぐさ》め合《あ》ったのも、束《つか》の間《ま》のことでありました。草《くさ》は、とうとう枯《か》れてしまったのです。  息子《むすこ》は、草《くさ》の枯《か》れたのを、どんなに悲《かな》しんだかしれません。 「そのうちに、なにか、かわりのいい草《くさ》を見《み》つけてきて植《う》えてさしあげます。」と、植木屋《うえきや》はいいました。  ある日《ひ》のこと、植木屋《うえきや》は、バルコニーに上《あ》がりました。そして、枯《か》れた草《くさ》の鉢《はち》を持《も》って降《お》りてきました。なにか、それに代《か》わりの草《くさ》を植《う》えようと思《おも》ったからです。  その後《のち》のことでありました。息子《むすこ》は、夜《よる》床《とこ》の中《なか》にはいってから、枯《か》れた草《くさ》や、持《も》ってきた石《いし》のことを思《おも》い出《だ》しました。せめてあの石《いし》なりと大事《だいじ》にして、記念《きねん》にしておこうと思《おも》いました。そして、夜《よ》の明《あ》けるのを待《ま》ってバルコニーに出《で》てみますと、いつのまにか、そこには新《あたら》しい草《くさ》の植《う》わった鉢《はち》が置《お》いてありました。そして、もとより枯《か》れた草《くさ》も、石《いし》も影《かげ》だに見《み》られませんでした。 「この草《くさ》は、どうしたのだ?」といって、家内《かない》のものに聞《き》きますと、 「昨日《きのう》、植木屋《うえきや》が、あなたのお留守《るす》に持《も》ってきましたのです。」と答《こた》えました。  息子《むすこ》は、枯《か》れた草《くさ》はしかたがないとしても、石《いし》は、どこへいったろう。植木屋《うえきや》に聞《き》いてみようと、さっそく、植木屋《うえきや》を呼《よ》びにやりました。 「あの、草《くさ》の下《した》にあった、黒《くろ》い石《いし》でございますか。つまらない石《いし》だと思《おも》って、捨《す》ててしまいました。」と、植木屋《うえきや》は答《こた》えました。  息子《むすこ》は、これを聞《き》くとたいそう驚《おどろ》きました。 「あの石《いし》は、私《わたし》の大事《だいじ》な石《いし》だ。どこへ捨《す》ててしまった?」と問《と》いました。  すると、植木屋《うえきや》は、しばらく考《かんが》えていましたが、 「たしか、ここからの帰《かえ》り途《みち》に、あちらの広《ひろ》い空《あ》き地《ち》に捨《す》ててしまいました。」と答《こた》えたのであります。  その空《あ》き地《ち》は、もと建物《たてもの》があったのですが、いまはなにもなく草《くさ》が茫々《ぼうぼう》として生《は》えていました。そして、子供《こども》らはその中《なか》に遊《あそ》び、通行《つうこう》する人《ひと》たちは、近道《ちかみち》するために、その空《あ》き地《ち》を横《よこ》ぎったのであります。  息子《むすこ》は、どんなに、がっかりしたかしれません。どうしても、その石《いし》を忘《わす》れることができませんでした。すると、黒《くろ》い石《いし》が、夜露《よつゆ》にしっとりと湿《ぬ》れて、広場《ひろば》の中《なか》で、月《つき》の光《ひかり》に照《て》らされて輝《かがや》いている夢《ゆめ》を見《み》ました。  ふと目《め》をさましますと、外《そと》は、ちょうどその夢《ゆめ》に見《み》たようないい月夜《つきよ》で、小《ちい》さな窓《まど》が明《あか》るく月光《げっこう》に照《て》らされていました。彼《かれ》は、さっそく、起《お》き上《あ》がりました。そして、その広場《ひろば》へ、石《いし》が落《お》ちていないかと探《さが》しにゆきました。  すっかり秋《あき》の景色《けしき》となって、こおろぎが鳴《な》いていました。うすもやが一|面《めん》に降《お》りて、建物《たてもの》の間《あいだ》や、林《はやし》の木《き》の間《あいだ》や、広場《ひろば》の上《うえ》に渦巻《うずま》いているようにも見《み》られました。  息子《むすこ》は、あたりが、すでに眠静《ねしず》まった真夜中《まよなか》ごろ、一人《ひとり》広場《ひろば》にやってきますと、はたしてさびしい月《つき》の光《ひかり》が、草《くさ》の葉《は》をば照《て》らしていました。  けれど、黒《くろ》い石《いし》が、どこにあるか、もとより容易《ようい》に見当《みあ》てることができませんでした。彼《かれ》はあちらへゆき、こちらへさまよっていますと、うすもやの中《なか》に、しょんぼりと立《た》っている人影《ひとかげ》を見《み》いだしました。 「いまごろ、何人《なんびと》が立《た》っているのだろう。」と、怪《あや》しみながら、よく見《み》つめますと、それは、美《うつく》しい、若《わか》い女《おんな》でありました。彼《かれ》は、好奇心《こうきしん》から、つい、そのそばに近《ちか》づいてみる気《き》になりました。 「いまごろ、あなたは、そこになにをしていられますか?」と、彼《かれ》はたずねました。  美《うつく》しい女《おんな》は、ぱっちりとした、すずしい目《め》をこちらに向《む》けました。そして、彼《かれ》を見《み》ていましたが、にっこりと笑《わら》って、 「わたしは、かんざしの珠《たま》をさがしています。もう幾《いく》十|年《ねん》も前《まえ》のことでありました。わたしは、お嫁《よめ》にゆく前《まえ》に、ちょうどこのあたりであった窓《まど》から、ある日《ひ》の夕暮《ゆうぐ》れ方《がた》、かんざしの珠《たま》をあやまって落《お》としますと、それがころげてどこへいったか見《み》えなくなったのです。それから、わたしは、いくら探《さが》したかしれません。お母《かあ》さんからはしかられました。けれど、どうしても、なくした珠《たま》は見《み》つからなかったのです。わたしは、一生《いっしょう》そのことを忘《わす》れませんでした。今夜《こんや》も、また、わたしは、その珠《たま》のことを思《おも》い出《だ》して探《さが》しにきたのです。」と、その若《わか》い女《おんな》は、答《こた》えたのであります。  彼《かれ》は、この話《はなし》をきくと、なんとなく体《からだ》じゅうが、ぞっとしました。女《おんな》の姿《すがた》を見《み》ると、長《なが》い黒《くろ》い髪《かみ》は結《むす》ばずに、後《うし》ろに垂《た》れていました。  若《わか》い、美《うつく》しい女《おんな》は、いっしょうけんめいに、足《あし》もとの草《くさ》を分《わ》けて、珠《たま》を探《さが》していました。彼《かれ》も、また草《くさ》を分《わ》けて、なにかそのあたりに落《お》ちていないかと、熱心《ねっしん》にたずねましたけれど、べつになにも見《み》あたりませんでした。 「どんな色《いろ》の珠《たま》でしたか?」  こういって、彼《かれ》は、顔《かお》を上《あ》げて、もう一|度《ど》子細《しさい》に若《わか》い女《おんな》を見《み》ようとしますと、どこにも女《おんな》の影《かげ》は、見《み》えなかったのです。  不思議《ふしぎ》なことがあれば、あるものだと思《おも》って、しばらく彼《かれ》は、茫然《ぼうぜん》として、たたずんでいました。  月《つき》は、西《にし》に傾《かたむ》きました。そして、思《おも》いなしか、東《ひがし》の空《そら》は白《しら》んで、どこからか、暁《あかつき》を告《つ》げるに鶏《にわとり》の鳴《な》く声《こえ》が聞《き》こえてきました。もやは、いつしか晴《は》れて、空《そら》は青《あお》みをまして頭《あたま》の上《うえ》に垂《た》れかかっていました。 底本:「定本小川未明童話全集 4」講談社    1977(昭和52)年2月10日第1刷発行    1977(昭和52)年C第2刷発行 初出:「中央公論」    1923(大正12)年12月 ※表題は底本では、「山《やま》へ帰《かえ》りゆく父《ちち》」となっています。 ※初出時の表題は、「山へ帰り行く父」です。 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:栗田美恵子 2020年5月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。