海のかなた 小川未明 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)海《うみ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)一|度《ど》 -------------------------------------------------------  海《うみ》に近《ちか》く、昔《むかし》の城跡《しろあと》がありました。  波《なみ》の音《おと》は、無心《むしん》に、終日《しゅうじつ》岸《きし》の岩角《いわかど》にぶつかって、砕《くだ》けて、しぶきをあげていました。  昔《むかし》は、このあたりは、繁華《はんか》な町《まち》があって、いろいろの店《みせ》や、りっぱな建物《たてもの》がありましたのですけれど、いまは、荒《あ》れて、さびしい漁村《ぎょそん》になっていました。  春《はる》になると、城跡《しろあと》にある、桜《さくら》の木《き》に花《はな》が咲《さ》きました。けれど、この咲《さ》いた花《はな》をながめて、歌《うた》をよんだり、詩《し》を作《つく》ったりするような人《ひと》もありませんでした。ただ、小鳥《ことり》がきて、のどかに花《はな》の咲《さ》いている枝《えだ》から枝《えだ》に伝《つた》ってさえずるばかりでありました。  夏《なつ》がきても、また同《おな》じでありました。静《しず》かな自然《しぜん》には、変《か》わりがないのです。日暮《ひぐ》れ方《がた》になると、真《ま》っ赤《か》に海《うみ》のかなたが夕焼《ゆうや》けして、その日《ひ》もついに暮《く》るるのでした。  いつ、どこからともなく、一人《ひとり》のおじいさんが、この城跡《しろあと》のある村《むら》にはいってきました。手《て》に一つのバイオリンを持《も》ち、脊中《せなか》に箱《はこ》を負《お》っていました。  おじいさんは、上手《じょうず》にバイオリンを鳴《な》らしました。そして、毎日《まいにち》このあたりの村々《むらむら》を歩《ある》いて、脊《せ》に負《お》っている箱《はこ》の中《なか》の薬《くすり》を、村《むら》の人《ひと》たちに売《う》ったのであります。  こうして、おじいさんは日《ひ》の照《て》る日中《ひなか》は村《むら》から、村《むら》へ歩《ある》きましたけれど、晩方《ばんがた》にはいつも、この城跡《しろあと》にやってきて、そこにあった、昔《むかし》の門《もん》の大《おお》きな礎石《だいいし》に、腰《こし》をかけました。そして、暮《く》れてゆく海《うみ》の景色《けしき》をながめるのでありました。 「ああ、なんといういい景色《けしき》だ。」と、おじいさんは海《うみ》の方《ほう》を見《み》ながら、ため息《いき》をもらしました。おじいさんは、この海《うみ》の暮《く》れ方《がた》の景色《けしき》を見《み》ることが好《す》きでした。  つばめはしきりに、空《そら》を飛《と》んで鳴《な》いています。船《ふね》の影《かげ》は、黒《くろ》く、ちょうど木《こ》の葉《は》を浮《う》かべたように、濃《こ》く青《あお》い波間《なみま》に見《み》えたり、隠《かく》れたりします。そして、真《ま》っ赤《か》に、入《い》り日《ひ》の名残《なごり》の地平線《ちへいせん》を染《そ》めていますのが、しだいしだいに、波《なみ》に洗《あら》われるように、うすれていったのでありました。  おじいさんは、ほとんど、毎日《まいにち》のようにここにきて、同《おな》じ石《いし》の上《うえ》に腰《こし》を下《お》ろしました。そして、沖《おき》の暮《く》れ方《がた》の景色《けしき》に見《み》とれていましたが、そのうちに、バイオリンを鳴《な》らすのでした。  おじいさんの弾《ひ》くバイオリンの音《ね》は、泣《な》くように悲《かな》しい音《おと》をたてるかと思《おも》うと、また笑《わら》うようにいきいきとした気持《きも》ちにさせるのでした。その音色《ねいろ》は、さびしい城跡《しろあと》に立《た》っている木々《きぎ》の長《なが》い眠《ねむ》りをばさましました。また、古《ふる》い木《き》に巣《す》を造《つく》っている小鳥《ことり》をばびっくりさせました。そして、しまいには、うす青《あお》い、黄昏《たそがれ》の空《そら》にはかなく消《き》えて、また低《ひく》く岸《きし》を打《う》つ波《なみ》の音《おと》にさらわれて、暗《くら》い奈落《ならく》へと沈《しず》んでゆくのでした。おじいさんは、自分《じぶん》の鳴《な》らす、バイオリンの音《ね》に、自分《じぶん》からうっとりとして、時《とき》のたつのを忘《わす》れることもありました。  夏《なつ》の日《ひ》の晩方《ばんがた》には、村《むら》の子供《こども》らがおおぜい、この城跡《しろあと》に集《あつ》まってきて石《いし》を投《な》げたり鬼《おに》ごっこをしたり、また繩《なわ》をまわしたりして遊《あそ》んでいました。子供《こども》らは、はじめのうちは、おじいさんの弾《ひ》くバイオリンの音《ね》を珍《めずら》しいものに思《おも》って、みんなそのまわりに集《あつ》まって聞《き》いていました。 「いい音《ね》がするね。」 「学校《がっこう》のオルガンよりか、この音《ね》のほうがいいね。」  子供《こども》らは、たがいに、こんなことをいいあっていました。  おじいさんは、あるときは、子供《こども》らを相手《あいて》にいろいろな話《はなし》もしました。しかしみんなは、おじいさんの弾《ひ》くバイオリンの音《ね》に慣《な》れ、またおじいさんの話《はなし》にも聞《き》き飽《あ》きると、いままでのように、おじいさんのまわりには寄《よ》ってきませんでした。 「薬売《くすりう》りのおじいさんが、また、あすこで鳴《な》らしているよ。」と、一人《ひとり》の子供《こども》がいうと、 「稽古《けいこ》をしているのだよ。」と、他《た》の一人《ひとり》の子供《こども》がいいました。 「稽古《けいこ》でない、海《うみ》の景色《けしき》がいいから、見《み》てうたっているのだよ。」 「そうでない、ねえ、稽古《けいこ》だねえ。」  子供《こども》らはいろんなことをいって、議論《ぎろん》をしましたが、また、そんなことは忘《わす》れてしまって、みんなは遊《あそ》びに夢中《むちゅう》になりました。  ひとり、松蔵《まつぞう》という少年《しょうねん》が、この中《なか》におりました。この少年《しょうねん》の家《いえ》は、貧乏《びんぼう》でありました。彼《かれ》は、他《た》の子供《こども》らが騒《さわ》いだり、駆《か》けたりして遊《あそ》んでいましたのに、ひとり、おじいさんのそばへきて、熱心《ねっしん》にバイオリンの音《ね》を聞《き》いて、感心《かんしん》していました。  いつしか、おじいさんと、この少年《しょうねん》とは仲《なか》よくなりました。 「どうして、こんないい音《ね》が出《で》るのでしょうね。」と、松蔵《まつぞう》は、不思議《ふしぎ》そうにおじいさんに向《む》かってたずねました。 「坊《ぼう》は、音楽《おんがく》が好《す》きとみえるな。」と、人《ひと》のよいおじいさんは、少年《しょうねん》の顔《かお》を見《み》ながら、笑《わら》っていいました。 「聞《き》いていると、ひとりでに涙《なみだ》が出《で》てくるの……。」 「ははは、坊《ぼう》も、私《わたし》のお弟子《でし》になってバイオリンが弾《ひ》きたいかな。」と、おじいさんはいいました。 「おじいさん、どうか僕《ぼく》に、バイオリンを教《おし》えてください。」と、少年《しょうねん》は、熱心《ねっしん》に、目《め》を輝《かがや》かして頼《たの》みました。  それからは、おじいさんは、自分《じぶん》のバイオリンを少年《しょうねん》に貸《か》して、弾《ひ》く方法《ほうほう》を教《おし》えてやりました。  松蔵《まつぞう》は、おじいさんから、バイオリンを教《おそ》わることをどんなにうれしく思《おも》ったでしょう。そして、毎日《まいにち》、日暮《ひぐ》れ方《がた》になると、城跡《しろあと》にいって、いつもおじいさんの腰《こし》かける石《いし》のそばに立《た》って、おじいさんのくるのを待《ま》っていました。 「なかなかよく弾《ひ》けるようになった。」といって、おじいさんは、松蔵《まつぞう》の頭《あたま》をなでてくれることもありました。  夏《なつ》も、もはや逝《ゆ》くころでありました。おじいさんは、ある日《ひ》のこと、松蔵《まつぞう》に向《む》かって、 「坊《ぼう》や、おじいさんは、もう帰《かえ》らなければならない。こんど、いつまた坊《ぼう》にあわれるかわからない。坊《ぼう》は、きっと上手《じょうず》なバイオリンの弾《ひ》き手《て》になるだろう。私《わたし》のかたみに、このバイオリンを坊《ぼう》に置《お》いてゆく。坊《ぼう》は、このバイオリンで私《わたし》がいなくなってもよく、稽古《けいこ》をしたがいい。」といって、バイオリンを松蔵《まつぞう》にくれました。  少年《しょうねん》は、どんなに喜《よろこ》んだでありましょう。また、おじいさんに別《わか》れなければならぬのを、どんなに悲《かな》しく思《おも》ったでありましょう。  おじいさんは、船《ふね》に乗《の》って、遠《とお》く、遠《とお》くいってしまいました。少年《しょうねん》は、おじいさんの故郷《こきょう》を知《し》らなかったのです。ただ、このとき、海《うみ》の上《うえ》を望《のぞ》んで悲《かな》しんでいました。おじいさんを乗《の》せた船《ふね》は、夕焼《ゆうや》けのする、紅《あか》い海《うみ》のかなたに消《き》えてゆきました。少年《しょうねん》は、果《は》てしない、その方《ほう》を見《み》やって、ただ悲《かな》しみのために泣《な》いていました。  毎日《まいにち》、入《い》り日《ひ》は、紅《あか》く海《うみ》の上《うえ》を彩《いろど》りました。そして、城跡《しろあと》から、海《うみ》をながめるその景色《けしき》に変《か》わりはなかったけれど、おじいさんの姿《すがた》は、もはや、どこにも見《み》ることができませんでした。  少年《しょうねん》は、おじいさんが、腰《こし》かけた石《いし》のところにやってきました。ありありとおじいさんが、いつものように、小《ちい》さな箱《はこ》を脊中《せなか》に負《お》って、バイオリンを持《も》って、石《いし》に腰《こし》をかけている姿《すがた》が見《み》えたのです。 「おじいさん!」  少年《しょうねん》は、こう呼《よ》びました。しかし、応《こた》えはありませんでした。  彼《かれ》は、自分《じぶん》の手《て》に、いまおじいさんの持《も》っていたバイオリンのあるのに、はじめて気《き》づきました。そして、おじいさんは、海《うみ》のかなたへいってしまったのだと知《し》って、かぎりなく悲《かな》しかったのです。  彼《かれ》は、その石《いし》に腰《こし》をかけました。また小《ちい》さな姿《すがた》で、その石《いし》の上《うえ》に立《た》ちました。そうして沖《おき》の方《ほう》を向《む》いて、おじいさんから教《おし》えてもらったバイオリンを弾《ひ》くのでした。  少年《しょうねん》は、おじいさんのことを思《おも》うと、胸《むね》がいっぱいになりました。いつしか自分《じぶん》の弾《ひ》いているバイオリンの音《ね》は、悲《かな》しい響《ひび》きをたてていたのでした。  海鳥《うみどり》は、しきりに鳴《な》いています。頭《あたま》の上《うえ》の松《まつ》の木《き》を渡《わた》る風《かぜ》の音《おと》まで、バイオリンの音《ね》に心《こころ》をとめて、しのび足《あし》して過《す》ぐるように思《おも》われました。  いつしか、村《むら》の子供《こども》らまで、松蔵《まつぞう》の弾《ひ》くバイオリンの音《ね》を、感心《かんしん》して聞《き》くようになりました。  松蔵《まつぞう》は、おじいさんがいなくなっても毎日《まいにち》のように、城跡《しろあと》の石《いし》のところにきて、おじいさんがしたように、沖《おき》の方《ほう》をながめながら、熱心《ねっしん》にバイオリンの稽古《けいこ》をしたのであります。  けれど、ここに思《おも》いがけない不幸《ふこう》なことがもちあがりました。  松蔵《まつぞう》の家《いえ》が、貧乏《びんぼう》のために、いっさいの道具《どうぐ》を競売《きょうばい》に付《ふ》せられたことであります。もとよりなにひとつめぼしいものがなかったうちに、バイオリンが目立《めだ》ちましたのですから、この松蔵《まつぞう》にとってはなによりも大事《だいじ》な楽器《がっき》を奪《うば》い去《さ》られてしまいました。そして、バイオリンは他《た》のがらくたといっしょに車《くるま》につけて、どこへか運《はこ》び去《さ》られました。  車《くるま》が、でこぼこの道《みち》をゆきますと轍《わだち》がおどって、そのたびにバイオリンは車《くるま》の上《うえ》から悲《かな》しいうなり音《おと》をたてたのであります。  松蔵《まつぞう》は、目《め》に、いっぱいの涙《なみだ》をためて車《くるま》の行方《ゆくえ》を見送《みおく》っていました。しかしそれをどうすることもできなかったのです。  こののちは、自分《じぶん》が、できるだけ働《はたら》いて、自分《じぶん》の力《ちから》でそれを取《と》り返《かえ》すよりは、ほかに途《みち》がないことを感《かん》じました。  松蔵《まつぞう》は、あの忘《わす》れがたいおじいさんのかたみである、そして、自分《じぶん》の大事《だいじ》なバイオリンを取《と》り返《かえ》すためには、どんな苦労《くろう》をもいとわないと決心《けっしん》しました。それから、松蔵《まつぞう》は、小《ちい》さな体《からだ》で堪《た》えるだけの仕事《しごと》はなんでもしました。工場《こうば》にいっても働《はたら》けば、家《いえ》にいても働《はたら》き、また、他人《たにん》の家《いえ》へ雇《やと》われていっても働《はたら》きました。寒《さむ》い冬《ふゆ》の夜《よ》も、また、暑《あつ》い夏《なつ》の日盛《ひざか》りもいとわずに働《はたら》きました。そして、自分《じぶん》の家《いえ》のために尽《つ》くしました。また、もう一|度《ど》、失《うしな》ったバイオリンを自分《じぶん》の手《て》に買《か》いもどして、それを弾《ひ》きたいという望《のぞ》みばかりでありました。  けれど、あのバイオリンが、はたして、自分《じぶん》の手《て》にもどってくるか、どうかということは、まったくわかりませんでした。もしかだれか、知《し》らぬ人《ひと》の手《て》に渡《わた》ってしまって、ふたたび自分《じぶん》の手《て》に返《かえ》るようなことはないと考《かんが》えましたときは、彼《かれ》は、どんなに悲《かな》しみ、もだえたでありましょう。  けれど、あのバイオリンは、きっと、いつか自分《じぶん》の手《て》にもどってくるにちがいないと信《しん》じますと、また、彼《かれ》の瞳《ひとみ》は、希望《きぼう》の光《ひかり》に輝《かがや》いたのであります。  三|年《ねん》の後《のち》、彼《かれ》はとうとうバイオリンを、買《か》いもどすだけの金《かね》を持《も》つことができました。 「これから、自分《じぶん》は、バイオリンを探《さが》して旅立《たびだ》ちしよう。」  松蔵《まつぞう》は、城跡《しろあと》の石《いし》のところにきました。そして、海《うみ》の方《ほう》をながめて、祈《いの》りました。 「どうか、あのなつかしいバイオリンが、私《わたし》の手《て》にもどってきますように。」と、祈《いの》りました。  空《そら》を鳴《な》きながら飛《と》んでいるつばめは、彼《かれ》のいうことを聞《き》きました。そして、この憐《あわ》れな少年《しょうねん》に同情《どうじょう》するごとく、くびを傾《かたむ》けてながめていました。  少年《しょうねん》は、両親《りょうしん》や、姉妹《しまい》に別《わか》れを告《つ》げました。 「私《わたし》は、旅《たび》をして、りっぱな音楽家《おんがくか》になって帰《かえ》ります。」  そういって、彼《かれ》は、故郷《こきょう》を立《た》ち出《で》たのです。  それから、彼《かれ》は、あちらの町《まち》、こちらの町《まち》とさまよって、バイオリンを探《さが》して歩《ある》きました。  また、バイオリンを弾《ひ》く家《いえ》の前《まえ》に立《た》っては、じっとその音《ね》に耳《みみ》を傾《かたむ》けました。弾《ひ》いている人《ひと》にどれほどの技倆《ぎりょう》があろう。弾《ひ》いているバイオリンは、なつかしい自分《じぶん》のものであったバイオリンではなかろうか? と、かたときも自分《じぶん》の志《こころざし》と、バイオリンのことを忘《わす》れませんでした。  少年《しょうねん》は、おじいさんのしたように、薬売《くすりう》りになったり、筆《ふで》や、墨《すみ》を売《う》る行商人《ぎょうしょうにん》になったりして、旅《たび》をつづけました。  ただ一つ、そのおじいさんの持《も》っていたバイオリンにめぐりあうのに、頼《たの》みとするのは、小《ちい》さな星《ほし》のような真珠《しんじゅ》が、握《にぎ》り手《て》のところにはいっていたことです。少年《しょうねん》は、ふるさとに近《ちか》い町《まち》の道具屋《どうぐや》は一|軒《けん》のこらずにきいて歩《ある》きました。 「真珠《しんじゅ》の小《ちい》さな珠《たま》が、握《にぎ》り手《て》にはいっているバイオリンは出《で》ませんでしたか?」  どこかこの近《ちか》くの古道具屋《ふるどうぐや》に、そのバイオリンは売《う》られたと思《おも》ったからです。そして、まだ、その店《みせ》のすみに残《のこ》っていやしないかというかすかな望《のぞ》みがあったからでありました。  すると、一軒《いっけん》の道具屋《どうぐや》は、いいました。 「なんでも、そんなバイオリンを三|年《ねん》ばかし前《まえ》に買《か》ったことがあります。店《みせ》にかけておくとある日《ひ》、旅《たび》の人《ひと》が前《まえ》を通《とお》りかかって、そのバイオリンを見《み》て、ほめて買《か》ってゆきました。どこの人《ひと》ともわかりませんが、なまりで西《にし》の方《ほう》の国《くに》の生《う》まれだということはわかりました。もう、そのバイオリンはどこへいったかわかるものでありません。」  松蔵《まつぞう》は、そう聞《き》くと、がっかりしました。 「その人《ひと》は、どちらへいったでしょうか。」といって、ため息《いき》をつきました。  道具屋《どうぐや》の主人《しゅじん》は、笑《わら》いました。 「なんで、そんなことがわかるものですか。しかし、いまごろは、あの買《か》った人《ひと》も、またどこかの古道具屋《ふるどうぐや》へ売《う》ってしまったかもしれません。あなたが、そんなにほしいものなら、幾年《いくねん》もかかって探《さが》してみなさるのですね。しかし、そんなことはむだなことかもしれません。」と、主人《しゅじん》はいいました。 「私《わたし》には、あのバイオリンでなければ、けっして出《で》ない音《ね》があります。命《いのち》をかけても探《さが》さなければなりません。もしあのバイオリンが見《み》つからなかったら私《わたし》は、もう生《い》きているかいもないのです。」と、少年《しょうねん》はいいました。  これを聞《き》くと、主人《しゅじん》は、目《め》を円《まる》くしてびっくりしました。 「あなたが、そんなに熱心《ねっしん》なら、きっと見《み》つかるときがあるでしょう。」といいました。  少年《しょうねん》は、その言葉《ことば》に勇気《ゆうき》づけられました。そして、あてなき旅《たび》をつづけたのであります。  その後《ご》、幾《いく》十たび、幾《いく》百たび、いろいろな古《ふる》い道具《どうぐ》を売《う》る店《みせ》にはいって、バイオリンを聞《き》いたでしょう。また、あるときは、風《かぜ》の絶《た》え間《ま》にどこからか聞《き》こえてくるバイオリンの音色《ねいろ》に耳《みみ》を傾《かたむ》けて、もしや、だれか自分《じぶん》の持《も》っていたバイオリンを弾《ひ》いているのではないかと思《おも》ったりしました。  そのバイオリンの音《ね》は、じつにいい音色《ねいろ》でした。そして、それを弾《ひ》いている人《ひと》は、けっして下手《へた》ではありませんでした。けれど、彼《かれ》は、自分《じぶん》のおじいさんからもらった、バイオリンには、けっして、他《た》のバイオリンにはない、音色《ねいろ》の出《で》ることを感《かん》じていました。 「あのバイオリンじゃない。」  彼《かれ》は、がっかりしました。  明《あ》くる日《ひ》も、また明《あ》くる日《ひ》も、少年《しょうねん》は、旅《たび》をつづけたのであります。  春《はる》の日《ひ》の雨催《あめもよお》しのする暖《あたた》かな晩方《ばんがた》でありました。少年《しょうねん》は、疲《つか》れた足《あし》を引《ひ》きずりながら、ある古《ふる》びた町《まち》の中《なか》にはいってきました。  その町《まち》には、昔《むかし》からの染物屋《そめものや》があり、また呉服屋《ごふくや》や、金物屋《かなものや》などがありました。日《ひ》は、西《にし》に入《い》りかかっていました。少年《しょうねん》は、あちらの空《そら》のうす黄色《きいろ》く、ほんのりと色《いろ》づいたのが悲《かな》しかったのです。  雨《あめ》になるせいか、つばめが、町《まち》の屋根《やね》を低《ひく》く飛《と》んでいました。このとき、少年《しょうねん》は、疲《つか》れた足《あし》を引《ひ》きずりながら、まだ家《いえ》の内《うち》には、燈火《ともしび》もついていない、むさくるしい傍《かたえ》の軒《のき》の低《ひく》い家《いえ》の前《まえ》にさしかかりますと、つばめが三|羽《ば》、家《いえ》の内《うち》から、外《そと》の往来《おうらい》に飛《と》び出《だ》しました。それと同時《どうじ》に、ブーンといって、バイオリンの糸《いと》の鳴《な》り音《おと》がきこえたのであります。  少年《しょうねん》は、はっと心《こころ》に思《おも》いました。なぜならその音色《ねいろ》は、きき覚《おぼ》えのあるなつかしい音色《ねいろ》でありましたからです。  もうすこしのことに、気《き》づかずに通《とお》り過《す》ぎようとしましたのを、彼《かれ》は立《た》ち寄《よ》って、その古道具屋《ふるどうぐや》をのぞいてみました。それは、つばめが、止《と》まっていて、飛《と》び立《た》つときに、その糸《いと》を鳴《な》らしたとみえます。そこには、バイオリンが一ちょうすすけた天《てん》じょうからつるされていました。彼《かれ》は、よく見《み》ると、それに小《ちい》さな光《ひか》る星《ほし》のような、真珠《しんじゅ》がはいっていたのでした。 「あ!」と、声《こえ》をたてて、少年《しょうねん》は、喜《よろこ》びに、狂《くる》わんばかりでありました。そしてさっそく、このバイオリンを買《か》って、自分《じぶん》の腕《うで》に奪《うば》うように抱《いだ》きました。まさしく、三|年《ねん》前《ぜん》に失《な》くしたおじいさんのくれたバイオリンでありました。  黄昏方《たそがれがた》の空《そら》に、つばめはないています。そのつばめの鳴《な》く声《こえ》は故郷《こきょう》の海岸《かいがん》の岩鼻《いわはな》でなくつばめの声《こえ》を思《おも》わせました。 「ああ、つばめが、私《わたし》に、教《おし》えてくれたのだ。」と、うす明《あ》かりの下《した》で、バイオリンを抱《いだ》いて少年《しょうねん》は、つばめの飛《と》んでゆく北《きた》の空《そら》をながめていました。  松蔵《まつぞう》は、唄《うた》うたいとなりました。かつて、おじいさんがそうであったように、脊中《せなか》に、小《ちい》さな薬箱《くすりばこ》を負《お》って、バイオリンを弾《ひ》きながら、知《し》らぬ他国《たこく》を旅《たび》して歩《ある》いたのです。  入《い》り日《ひ》は、赤《あか》く、海《うみ》のかなたに沈《しず》みました。彼《かれ》は、その入《い》り日《ひ》を見《み》るにつけて、おじいさんのことを思《おも》わずにいられませんでした。旅《たび》するうちに、幾《いく》たびか月日《つきひ》はたちました。松蔵《まつぞう》は、青年《せいねん》となったのです。けれど、彼《かれ》は、どうかして一|度《ど》、海《うみ》を渡《わた》って、あちらにある国《くに》にいってみたいという希望《きぼう》を捨《す》てませんでした。  ある年《とし》の初夏《しょか》のころ、彼《かれ》は、ついに海《うみ》を渡《わた》って、あちらにあった大島《おおしま》に上陸《じょうりく》しました。  そこには、いまいろいろの花《はな》が、盛《さか》りと咲《さ》いていました。  彼《かれ》はその島《しま》の町《まち》や、村《むら》でやはり薬《くすり》の箱《はこ》を負《お》って、バイオリンを鳴《な》らして、毎日《まいにち》のように歩《ある》いたのです。こんど、彼《かれ》は、おじいさんを探《たず》ねなければなりませんでした。  彼《かれ》が、バイオリンを鳴《な》らしながら道《みち》を歩《ある》くと、村《むら》の子供《こども》たちが、男《おとこ》となく、女《おんな》となく、みんな彼《かれ》の身《み》のまわりに集《あつ》まってきました。 「ああ、この人《ひと》だ。この人《ひと》だ。」 「私《わたし》に、どうかバイオリンを教《おし》えてください。」 「わたしにも……。」  子供《こども》らが、こういって、口々《くちぐち》に頼《たの》みましたばかりでなく、親《おや》たちまで家《いえ》の外《そと》に出《で》て、松蔵《まつぞう》をながめていました。 「どうしたことか?」と、彼《かれ》は、不思議《ふしぎ》に思《おも》いました。すると、一人《ひとり》の子供《こども》が、 「私《わたし》たちのおじいさんが、死《し》になさる前《まえ》に、もし真珠《しんじゅ》の星《ほし》のはいったバイオリンを弾《ひ》いてきた人《ひと》があったら、第《だい》二の私《わたし》だと思《おも》って、その人《ひと》から、バイオリンを教《おし》えてもらえといわれたのです。」といいました。  彼《かれ》は、このことを聞《き》くとがっかりしました。なつかしいおじいさんに、もう永久《えいきゅう》にあうことができなかったからです。それから彼《かれ》は、花《はな》の咲《さ》き、ちょうの飛《と》ぶ中《なか》で、みんなに音楽《おんがく》を教《おし》えてやりました。 底本:「定本小川未明童話全集 4」講談社    1977(昭和52)年2月10日第1刷発行    1977(昭和52)年C第2刷発行 初出:「週刊朝日」    1924(大正13)年1月 ※表題は底本では、「海《うみ》のかなた」となっています。 ※初出時の表題は「海の彼方」です。 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:富田倫生 2012年1月21日作成 2012年9月27日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。