あるまりの一生 小川未明 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)坊《ぼっ》ちゃん |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)二|度《ど》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#地付き]――一九二五・四作―― -------------------------------------------------------  フットボールは、あまり坊《ぼっ》ちゃんや、お嬢《じょう》さんたちが、乱暴《らんぼう》に取《と》り扱《あつか》いなさるので、弱《よわ》りきっていました。どうせ、踏《ふ》んだり、蹴《け》ったりされるものではありましたけれども、すこしは、自分《じぶん》の身《み》になって考《かんが》えてみてくれてもいいと思《おも》ったのであります。  しかし、ボールが思《おも》うようなことは、子供《こども》らに考《かんが》えられるはずがありませんでした。彼《かれ》らは、きゃっ、きゃっといって、思《おも》うぞんぶんにまりを踏《ふ》んだり、蹴《け》ったりして遊《あそ》んでいました。まりは、石塊《いしころ》の上《うえ》をころげたり、土《つち》の上《うえ》を走《はし》ったりしました。そして、体《からだ》じゅうに無数《むすう》の傷《きず》ができていました。  どうかして、子供《こども》らの手《て》から、のがれたいものだと思《おも》いましたけれども、それは、かなわない望《のぞ》みでありました。夜《よる》になると、体《からだ》じゅうが痛《いた》んで、どうすることもできませんでした。まれに雨《あめ》の降《ふ》る日《ひ》だけは、楽々《らくらく》とされたものの、そのかわり、すこし雨《あめ》が晴《は》れると、水《みず》たまりの中《なか》へ投《な》げ込《こ》まれたり、また、体《からだ》じゅうを泥《どろ》で汚《よご》されてしまうのでした。雨《あめ》の日《ひ》が長《なが》くつづけば、つづくほど、その後《あと》では、いっそうみんなから、手《て》ひどく取《と》り扱《あつか》われなければならないので、まりにとっては、雨《あめ》の降《ふ》る日《ひ》さえが、その後《あと》のことを考《かんが》えると、あまりうれしいものではなかったのです。  あるとき、フットボールは、みんなから、残酷《ざんこく》なめにあわされるので、ほとんどいたたまらなくなりました。そして、いつも、いつも、こんなひどいめにあわされるなら、革《かわ》が破《やぶ》れて、はやく、役《やく》にたたなくなってしまいたいとまで思《おも》いました。  こんなことを思《おも》っていましたとき、彼《かれ》は、力《ちから》まかせに蹴飛《けと》ばされました。そして、やぶの中《なか》へ飛《と》び込《こ》んでしまいました。まりは、しげった木枝《こえだ》の蔭《かげ》に隠《かく》れてしまったのです。 「まりが見《み》つからないよ。」 「どこへいったろう?」  子供《こども》たちは、おおぜいでやぶの中《なか》へはいってきて、まりを探《さが》しました。しかし、だれも、ボールがちょっとした、木枝《こえだ》の蔭《かげ》に隠《かく》れていようとは、気《き》づかなかったのであります。 「ここんとこではない。ほかのところかもしれないよ。」  子供《こども》らは、ほかの方面《ほうめん》へいって探《さが》しはじめました。そして、見《み》つからないので、みんなはがっかりとしてしまって、いつしか、どこへかいってしまいました。  あとに、まりは、独《ひと》り残《のこ》されていました。しかし、また、子供《こども》たちがやってくるにちがいない。そして、見《み》つかったら、いっそうさかんに投《な》げたり、蹴《け》られたりすることだろうと思《おも》うと、まりは、ため息《いき》をせずにはいられませんでした。  フットボールが、木枝《こえだ》の蔭《かげ》で、小《ちい》さくなっているのを、空《そら》の上《うえ》で、雲《くも》が、じっと見《み》ていました。なぜなら、雲《くも》は、まりが子供《こども》らから、いじめられるのを、かわいそうに思《おも》っていたからであります。  雲《くも》は、だれにも気《き》づかれないように、そっと空《そら》から下《した》へ降《お》りてきました。 「フットボールさん、お気《き》の毒《どく》です。私《わたし》は、なんでもよく知《し》っています。あなたほど、やさしい正直《しょうじき》ないい方《かた》はありません。それだのに、毎日《まいにち》、ひどいめにおあいなれされています。幸《さいわ》い、だれも、いまは気《き》づきませんから、この間《ま》に、私《わたし》といっしょに空《そら》へおいでなさい。そうすれば、もう、みんなの手《て》がとどかないから安心《あんしん》です。そうなさい。」と、雲《くも》はいいました。フットボールは、こういわれると、日《ひ》ごろから、空《そら》にいて、じっと下《した》を見《み》ていた白《しろ》い雲《くも》でありましたから、なつかしそうに、 「ごしんせつにいってくださって、ありがとうぞんじます。私《わたし》みたいなものが、あの美《うつく》しい空《そら》へいって、すんでいるところがありましょうか?」といって、たずねました。  雲《くも》は、にこやかに笑《わら》いました。 「それには、いい考《かんが》えがあることです。はやくなさらないとだめですから……。」といって、雲《くも》は、まりを急《せ》きたてました。  フットボールは、雲《くも》の言葉《ことば》に従《したが》いました。そして、雲《くも》に乗《の》って、空《そら》へ、高《たか》く、高《たか》く、昇《のぼ》ってしまったのであります。 「まりさん、私《わたし》は、夜《よる》になると、こういうように月《つき》を乗《の》せて、大空《おおぞら》を歩《ある》くのです。しかし月《つき》は、夜《よる》でなければ、やってきません。あなたは昼間《ひるま》は、月《つき》のかわりに、ここからじっと下界《げかい》を見物《けんぶつ》していなされたがいいと思《おも》います。」と、雲《くも》はいいました。  フットボールは、白《しろ》い月《つき》のように、円《まる》い顔《かお》を雲《くも》の間《あいだ》から出《だ》して、下《した》をながめていました。だれも、自分《じぶん》をまりだと思《おも》うものはありませんでした。 「あすこに、昼《ひる》のお月《つき》さまが出《で》ているよ。」といって、子供《こども》たちは、仰《あお》ぎながらいっているのを、まりは聞《き》いたのであります。  フットボールが、見《み》えなくなってしまってから、子供《こども》たちは、ほんとうにさびしそうでした。広場《ひろば》へ集《あつ》まってきても、いままでのように、きゃっ、きゃっといって、遊《あそ》ぶこともなくなりました。 「あのフットボールは、どこへいったろうね。」と、一人《ひとり》がいいますと、 「いいまりだったね。」と、ほかの一人《ひとり》が、なくなったまりをほめました。 「あんまり、ひどく蹴《け》ったから、いけないんだね。」と、なかには、後悔《こうかい》したものもありました。  子供《こども》たちのいうことを、空《そら》で聞《き》いていたまりは、かつて、自分《じぶん》のことなど、口《くち》にも出《だ》さなかったのに、いまはこんなに自分《じぶん》のことを子供《こども》たちが思《おも》っているかと思《おも》うと、うれしいような、悲《かな》しいような気持《きも》ちがしたのであります。そして、それほどまでに、自分《じぶん》を愛《あい》してくれるなら、たとえ自分《じぶん》は、どんなにつらいめをみても、子供《こども》たちを、喜《よろこ》ばしてやりたいというような考《かんが》えになりました。  まったく、まりは、いまは雲《くも》の上《うえ》にいて安全《あんぜん》でありましたけれど、毎日《まいにち》、毎日《まいにち》、仕事《しごと》もなく、運動《うんどう》もせず、単調《たんちょう》に倦《あ》いていました。そして、だんだん地《ち》の上《うえ》が恋《こい》しくなりはじめたのでありました。  まりは、地上《ちじょう》に帰《かえ》ろうかと考《かんが》えました。そのとき、風《かぜ》は、彼《かれ》にささやいたのであります。 「そんな気《き》を起《お》こすものではない。もしおまえさんが帰《かえ》ったら、もう二|度《ど》とここにはこられないだろう。そして、いままでよりか、もっといじめられるだろう……。」と、風《かぜ》はいったのであります。  雲《くも》は、また、まりに向《む》かって、 「もう、あなたは苦《くる》しいことを忘《わす》れたのですか。ここに、こうしていたら、どんなに安心《あんしん》であるかしれない。あの子供《こども》たちも、じきにあなたのことなどは忘《わす》れてしまいます。」といいました。  まりは、子供《こども》たちといっしょになっていた時分《じぶん》が、やはり恋《こい》しかったのです。そして、独《ひと》りぼっちとなり、やがて、みんなから忘《わす》れられてしまうと考《かんが》えると、もうじっとしているわけにはいきませんでした。 「雲《くも》さん、長《なが》い間《あいだ》、どうもお世話《せわ》になりまして、お礼《れい》の申《もう》しあげようもありません。私《わたし》は、下界《げかい》へゆきます。そして、坊《ぼっ》ちゃんや、お嬢《じょう》さんたちのお仲間入《なかまい》りをいたします。私《わたし》は、もう、さびしくて、さびしくてかないません……。」と、まりはいいました。  雲《くも》は、このことを聞《き》くと、また、まりの心持《こころも》ちに同情《どうじょう》をしました。 「それほど、あなたが帰《かえ》りたいなら、つれていってあげましょう。」と、雲《くも》はいいました。  ある夜《よる》、雲《くも》は、まりを乗《の》せて下界《げかい》へ降《お》りてきました。そして、いつかまりの隠《かく》れていたやぶの中《なか》へ、そっと降《お》ろしてくれました。 「まりさん、お達者《たっしゃ》にお暮《く》らしなさい。さようなら……。」と、雲《くも》は、名残惜《なごりお》しげに別《わか》れを告《つ》げました。 「ありがとうございました。」と、まりは、お礼《れい》をいいました。  やがて、夜《よる》が明《あ》け放《はな》れると、やぶの中《なか》へ朝日《あさひ》がさし込《こ》みました。小鳥《ことり》は木《き》の頂《いただき》で鳴《な》きました。そして、ぼけの花《はな》が、真紅《まっか》な唇《くちびる》でまりを接吻《せっぷん》してくれました。 「まりさん、どこへいままでいっていなさいました? みんなが、毎日《まいにち》、あなたを探《さが》していましたよ。」と、ぼけは、なつかしげにまりをながめていいました。  まりは、この地上《ちじょう》のものを美《うつく》しく、うれしく思《おも》いました。なぜ、自分《じぶん》は、この下界《げかい》を捨《す》てて、空《そら》の上《うえ》などへ、すこしの間《あいだ》なりとゆく気《き》になったろう。もう、これからは、不平《ふへい》をいわずに、みんなといっしょに暮《く》らすことにしようと思《おも》いました。  子供《こども》たちは、どうしてもフットボールのことを思《おも》いきれませんでした。そして、またやぶの中《なか》へ探《さが》しにきました。彼《かれ》らは、思《おも》いがけなくまりを見《み》つけたのであります。 「あった! あった! まりが見《み》つかったよ。」 「おうい、フットボールが見《み》つかった!」 「みんな、早《はや》くおいでよ。」  その日《ひ》から、広場《ひろば》で、前《まえ》のようにフットボールがはじまりました。子供《こども》たちは、その当座《とうざ》は気《き》をつけてまりを大事《だいじ》にしました。  しかし、いつのまにか、また乱暴《らんぼう》にまりを取《と》り扱《あつか》ったのであります。なんとされてもまりは、だまっていました。  こうしているうちに、まりは、もう年《とし》をとってしまいました。はね返《かえ》る元気《げんき》もなくなれば、不平《ふへい》をいったり、逃《のが》れようとする勇気《ゆうき》もなくなってしまいました。子供《こども》たちのするままになって、終日《しゅうじつ》外《そと》へほうり出《だ》されているようなこともありました。  空《そら》の雲《くも》は、まりが疲《つか》れて、広野《ひろの》にころがっているのを見《み》ました。雲《くも》は、あわれなまりを、気《き》の毒《どく》に思《おも》ったのであります。もし、二|度《ど》と空《そら》へくるような気《き》があるなら、つれてきてやろうと思《おも》って、雲《くも》は、だれも、人《ひと》のいないときを見《み》はからって、空《そら》から降《お》りてきました。 「もし、もし、まりさん。」と、雲《くも》は呼《よ》びかけました。しかし、耳《みみ》も遠《とお》くなって、目《め》のかすんだまりは、せっかくの雲《くも》の呼《よ》び声《ごえ》にも気《き》づきませんでした。雲《くも》は、哀《かな》しそうに去《さ》ってゆきました。 [#地付き]――一九二五・四作―― 底本:「定本小川未明童話全集 4」講談社    1977(昭和52)年2月10日第1刷発行    1977(昭和52)年C第2刷発行 ※表題は底本では、「あるまりの一生《いっしょう》」となっています。 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:富田倫生 2012年1月21日作成 2012年9月28日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。