夢殿 北原白秋 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)白良《しらら》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)玉|火気《ほのけ》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)〻  [#(…)]:訓点送り仮名  (例)沖[#(ノ)]端 ------------------------------------------------------- [#ページの左右中央] [#5字下げ]上巻[#「上巻」は大見出し] [#改丁] [#ページの左右中央] [#5字下げ]白良[#「白良」は中見出し] [#改ページ] [#ページの左右中央] [#ここから1段階小さな文字] [#ここから5字下げ] [#ここから25字詰め] 昭和九年八月中旬、台湾巡歴の帰途、神戸に迎へたる妻子と共に紀州白良温泉に遊ぶ。滞在数日。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] [#改ページ] [#1字下げ]白良[#「白良」は小見出し] [#3字下げ]白良の浜に遊びて [#ここから25字詰め] 白良《しらら》の ましららの浜、まことしろきかも。驚くと、我が見ると、まことしろきかも。踏みさくみ、手《た》ぐさとり、あなあはれ、まことしろきかも。子らと来て、足投げて、膝くみて、ただにしろきかも。白良の ましららの浜、松が根も、渚べも、日おもても、ただにしろきかも。あなあはれ、目に霧《き》りて、火気《ほけ》だちて、しろきかもや、しろきかもや、立ちても居ても。 [#ここで字詰め終わり] [#3字下げ]おなじく ましららの白良の浜はまことしろきかも敷きなべて真砂も玉もまことしろきかも [#1段階小さな文字]旋頭歌一首[#小さな文字終わり] [#3字下げ]また ましららのまこと白浜照る玉のかがよふ玉の踏《ふ》み処《ど》知らなく まことにもしろき浜びや足つけて踏みさくみ熱き真砂《まさご》照る玉 音絶えてかがよふ砂浜ましろくぞ白良のま玉|火気《ほのけ》澄みつつ [#3字下げ]昼渚 松が枝《え》の疎《あら》き鱗《うろこ》に照るさへや真砂は暑し吹きあげの玉 女童《めわらは》の脛《すね》の柔毛《にこげ》につく砂のしろき真砂は光りつつあり 浜木綿《はまゆふ》は花のかむりの立ち枯れてそこらただ暑し日ざかりの砂 [#3字下げ]浜木綿を、また 牟婁《むろ》と言へば葉叢《はむら》高茎《たかぐき》百重《ももへ》なす浜木綿の花はうべやこの花 紀の海牟婁の渚に群れ生ふる浜木綿の花過ぎにけるかも 糸しだり花過ぎ方の浜木綿は影おだしけれ火照《ほで》る夕波 [#3字下げ]崎の湯二趣 崎《さき》の湯《ゆ》は湯室《ゆむろ》の庇|四端《よつま》反《そ》り夕凪にあるか入江向ひに 牟婁の崎荒き石湯《いはゆ》に女童《めろ》居りて大わだの西日ただに明《あか》かり [#3字下げ]夜景 浜木綿に湯室《ゆむろ》の灯《あかり》映《うつ》りゐて真砂踏み来《く》る足音絶えぬ [#3字下げ]短夜 短夜の白良の浜に来寄《きよ》る波燈籠にまくわ苧《を》がらなどをあはれ [#3字下げ]白良荘起臥 朝ながめ夕ありきして牟婁の津や白良の浜に玉をめでつつ 玉ひろふ子らと交らひ牟婁の崎白良の浜に七夜《ななよ》寝にける 砂いくつ畳にひろふ起臥《おきふし》も早やすずしかり唐紙《たうし》のべしむ [#改丁] [#ページの左右中央] [#5字下げ]郷土飛翔吟[#「郷土飛翔吟」は中見出し] [#改ページ] [#ページの左右中央] [#2字下げ]小序[#「小序」は小見出し] [#ここから1段階小さな文字] [#ここから5字下げ] [#ここから25字詰め] 我弱冠、郷関を出て処女詩集「邪宗門」を公にして以来、絶えて故国に帰ること無し。その間、歳月空しく流れて既に二十の星霜を経たり。時に望郷の念禁じ難く、徒に雲に島影を羨むのみ。偶〻昭和三年夏七月、大阪朝日新聞社の求むるところにより、その旅客輸送機ドルニエ・メルクールに乗じて北九州太刀洗より大阪へ飛翔せんとす。これ日本に於ける最初の芸術飛行なり。事前、乃ち妻子を伴ひて郷国に下る。山河草木、旧のごとくにして人また変転、哀楽また新にして恩愛一のごとし。南関柳河行これなり。二十三日、本飛行を決行するに先立つて、幸ひに試乗してその太刀洗より郷土訪問飛行の本懐を達するを得たり。恩地画伯、長子隆太郎と共なり。ここにその長歌十七篇短歌二百五十三首を録す。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] [#改ページ] [#1字下げ]序篇[#「序篇」は小見出し] [#3字下げ]海を越えて [#5字下げ][#1段階小さな文字]七月十八日朝、関門海峡を渡る。[#小さな文字終わり] 海を越ゆるただち胸うつ国つ胆《きも》我が筑紫なり声に荒くも 母《おや》の国筑紫この土我が踏むと帰るたちまち早や童《わらべ》なり 見るただち顔に溢《あふ》るる親しみは故郷《ふるさと》にあれや帰り来にけり 我が言へば音の響に添ふごとく響き応《こた》ふる国人君は [#3字下げ]明日飛ぶと 雲|美《は》しき山門《やまと》のまほらここにして我はや飛ばむ高き青雲 南風《はえ》のむた真夏大野を我が飛ぶと明日待ちかねつ心あがりに 産土《うぶすな》よこの山河をかくばかり直《ただ》にし見ずて我恋ひにけり [#3字下げ]山門の歌 [#ここから25字詰め] 山門《やまと》はもうまし耶馬台《やまと》、いにしへの卑弥乎《ひみこ》が国、水清く、野の広らを、稲|豊《ゆた》に酒を醸《かも》して、菜は多《さは》に油しぼりて、幸《さちは》ふや潟の貢と、珍《うづ》の貝・ま珠・照る鰭《はた》。見さくるや童《わらべ》が眉に、霞引く女山《ぞやま》・清水。朝光《あさかげ》よ雲居《くもゐ》立ち立ち、夕光《ゆふかげ》よ潮《うしほ》満ち満つ。げにここは耶馬台《やまと》の国、不知火《しらぬひ》や筑紫潟、我が郷《さと》は善しや。 [#ここで字詰め終わり] [#4字下げ][#1段階小さな文字]反歌[#小さな文字終わり] 雲|騰《あが》り潮《うしほ》明るき海のきはうまし耶馬台《やまと》ぞ我の母国《おやぐに》 [#3字下げ]妻と子らに [#5字下げ][#1段階小さな文字]汽車いよいよ生国筑後に近づく。[#小さな文字終わり] 筑紫野は大き出水《でみづ》の田つづきを簑笠つけて人遊ぶかに 筑紫は我《あ》を生ましける母の国大き出水《でみづ》の田の広ら見よ 父我はここに響けりまつぶさにこの愛《かな》しかる山河は見よ [#ここから1段階小さな文字] [#ここから5字下げ] [#ここから25字詰め] 父恋し母恋してふ子の雉子は赤と青とに染められにけり [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#21字下げ]「雀の卵」 [#ここで小さな文字終わり] 夏山は赤と青との雉子馬の清水寺も雨こめにけり 夏かすむ女山《ぞやま》の岩の神籠石《かうごいし》老《ふ》け鶯も谷にくだるか [#ここから1段階小さな文字] [#ここから5字下げ] [#ここから25字詰め] 午近く、大牟田に着けば、既に師友、肉親の人々、柳河或は南関より来りて、我等を待ちたまふに会ふ。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 我が帰る心矢のごとありけらし早や着きたりと笑ひて泣かゆ [#改ページ] [#1字下げ]南関・外目篇[#「南関・外目篇」は小見出し] [#ここから1段階小さな文字] [#ここから5字下げ] [#ここから25字詰め] 肥後玉名郡|南関《なんくわん》、そのかみの関町《せきまち》、その字|外目《ほかめ》は我が母の生地にして、我にも亦、第二の故郷たり。乃ち、大牟田より先づ出迎の叔父たちと共に上内の山を越えてその土を踏む。親戚知音の人々の喜びかぎりなし。一夜、町の招宴に臨み、竜田川の橋ぎはなる島田家に泊る。翌十九日、外目近郊の外祖父母の墓に詣で、後、石井本邸に帰る。山河旧のごとくなれども、その母の生家は既に昔の俤なし。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] [#3字下げ]索麪の関町 掛け竝《な》めて玉名少女が扱《こ》きのばす翁|索麪《さうめん》は長きしら糸 手うち索麪戸ごと掛け竝《な》め日ざかりや関のおもてはしづけかりにし 山間《やまあひ》は貧しき関のありやうを暑き日ざしにて敢て見て過ぐ [#3字下げ]恩賜の時計 [#ここから1段階小さな文字] [#ここから5字下げ] [#ここから25字詰め] 南関田町の島田家は我が母の異母姉の家なり。従兄敏三は帝大法科に学びて聞えし俊才なりき。いま一家すべて死に絶ゆ。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] [#ここから25字詰め] しろがねの恩賜の時計、畏《かしこ》むやその子秘めにき。秒|隔《お》かず死ぬまで愛《め》でぬ。子が死にて愛《かな》しき時計、形見よと、父は後愛《あとめ》で、命よと、いとほしと、日も夜も持ちき。時刻むその秒の、その秒すらも絶えざりき。その小さき恩賜の時計、父死にて母に伝へき。その母も、ちちちちと、その音聴きき。子の敏三《びんざう》あはれよと、命よと、また継ぎ巻きぬ。生けるあひだ、その臨終《いまは》まで、その螺子《ねぢ》巻きき。人の世の真実の、この音の、つきつめにけり。 [#ここで字詰め終わり] [#4字下げ][#1段階小さな文字]反歌[#小さな文字終わり] 時計の秒|針《はり》は進むと子が死にて父へ母へとつたふる絶えぬ [#3字下げ]老柿 [#ここから1段階小さな文字] [#ここから5字下げ] [#ここから25字詰め] 島田家その後、従妹類子(北原氏)夫妻之を継ぎたれども遠くロスアンゼルスに在り。一の叔父隆承老その跡を守る。老は生来徳望高く、今また南関町長たり。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 中庭の柿の老木は庇より手のとどかむに暑き日照《ひでり》や 乏しきを老いて豊けき大人《うし》見れば鶏《とり》割《さ》け風呂焚け造酒《みき》よと麪《めん》よと 割《さ》く鶏《とり》の胆《きも》青きまで下照《したて》らす柿の葉ごみに風とどまりぬ 低屋根に鉄砲風呂の煙立ちあくまでも暑き西日たもてり [#3字下げ]外目、祖父母の墓に詣でて お墓山煙草の花にふる雨のほの紅《あか》うして身はうつつなり この道よ椎の落葉にふる雨のいたくもふらねよくしめりつつ [#3字下げ]外目、石井本家 [#ここから1段階小さな文字] [#ここから5字下げ] [#ここから25字詰め] 母の生家石井家は南関の西、外目の丘にあり、いま二の叔父貴道氏、その兄に代りて本邸にあり、而も世の転変は甚だしく、旧時の高閣既にその半ば取りこぼたれ、庭前庭後、ただ荒るるにまかせたり。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 百日紅《さるすべり》老木《おいき》しらけて厠戸《かはやど》の前なる石もあとなくなりぬ 白き鶏《かけ》あさりさわめく影のみぞただに照り反《かへ》る動きにてあり [#4字下げ][#1段階小さな文字]老樹なほ存す[#小さな文字終わり] 背戸柿やこれの爺《をぢ》さが木洩れ日に身うちゆるがし我ら遊びし [#4字下げ][#1段階小さな文字]蚕室の跡にて[#小さな文字終わり] 玉名のや少女《をとめ》索緒《くちた》て煮る繭のころろ小をどる玉白かりき [#5字下げ][#1段階小さな文字]そのあたりの家々をまた見てまはるに[#小さな文字終わり] 粗壁《あらかべ》に影して低き草庇いまも山家は貧しかるなり [#3字下げ]零余子 [#5字下げ][#1段階小さな文字]裏なる三の叔父武雄氏を訪ふ。[#小さな文字終わり] 七面鳥|乳嘴《にふし》かき垂り尾羽張りてとめぐる庭の日ざかり今は 病み臥《こや》す人が眼うつす外《と》の庭に零余子《むかご》そよぎてげに外目《ほかめ》なり [#3字下げ]遠近を眺めて 高き屋に常眺めてし前《さき》の山いまも恋《こほ》しき一つ松見ゆ 上内《かみうち》は谷をへだつる前《さき》の山肥後と筑後の境松あはれ     § 母の里|外目《ほかめ》の夏は月夜には笛おもしろく子ら吹き立てぬ 横笛は子らが手づくり南瓜《かむぼちや》の花かかるあたり月夜吹きつつ     § 幼なくて裸馬《らば》をせめたる山坂に磨墨川といふが響きし     § 赤ん谷山桃実る梢《うれ》越えて鷲巣山《わしのすやま》は雲近かりき 夏山は霞わけつつ持て来たる山桃ゆゑにそのよき姥《うば》を [#1段階小さな文字](母の乳母)[#小さな文字終わり] [#改ページ] [#1字下げ][#小見出し]柳河・沖[#(ノ)]端篇[#小見出し終わり] [#3字下げ]青櫨 葉がくりにいまだか青き櫨《はじ》の実の幼なごころよ我はゆめみし 塁《とりで》なす櫨《はじ》の木群《こむら》の深みどり我が水上《みなかみ》はみ霧霽れつつ 山門《やまと》は丘も水際《みぎは》も櫨群《はじむら》のたわわのみどりしたたりにけり [#3字下げ]瀬高にて [#ここから1段階小さな文字] [#ここから5字下げ] [#ここから25字詰め] 十九日、外目を出でて筑後の瀬高へかかる。上[#(ノ)]庄の江崎氏を訪ふに [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 酒屋には酒屋よけむと嫁に来しお加代姉さもただの古嬬《ふるづま》 空飛ぶを弟《おと》があやつる翼かと早やおぼすらし声おろおろに 御許《おもと》には童《わらべ》女童《めわらは》数群れて亦若かりしけぶりだになし [#3字下げ]童女柳河 [#5字下げ][#1段階小さな文字]午後、いよいよ郷里に入る。柳河女学校にて[#小さな文字終わり] 額髪《ぬかがみ》の笑《ゑま》ふ女童《めわらは》このごとくあどなきものを恋ふとありにし 我老いぬただに愛《かな》しき額髪《ぬかがみ》の面《かほ》あげてあるその子ら見れば 夏ごろも匂ふ少女は朝ひらくからたちの花と清《すず》しかるべし [#3字下げ]中学伝習館にて [#ここから1段階小さな文字] [#ここから5字下げ] [#ここから25字詰め] 我、中学伝習館を学業卒へずして去りぬ。寧ろ追はれたるにちかし。而も我が今日ある、恨無くしてただ感謝あるのみ。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 儺《やら》はれし我の来《こ》し方ここにして早や遥かなり帰り今在り これの子ら歎《なげき》知らざり我が言ふをただおもしろと笑ひ爆《は》ぜたる 我が声にひびき応《こた》ふる子らありて顔ことごとく笑ひくづれつ [#3字下げ]沿道 [#ここから1段階小さな文字] [#ここから5字下げ] [#ここから25字詰め] 沖[#(ノ)]端に近づくに、城内《しろうち》、矢留《やどみ》両小学校の生徒、既に旧藩侯邸の前に整列して我が一行を迎ふるあり。雨中三時間の余も佇立したりきと。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 雨に佇《た》ち竝びゐやまふ子ら見れば我幼なくてかくも迎へし [#3字下げ]林泉の鴨 [#ここから1段階小さな文字] [#ここから5字下げ] [#ここから25字詰め] 旧藩侯邸の林泉は古来の名苑にして、所在の鴨おのづからに集り嬉遊するもの数を知らず。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 石多き林泉《しま》のたをりにつく鴨の寄り寄りにさびしおのがじしをる この林泉《しま》に潜《かづ》く野鴨の夏鴨の数は光れど広き水の面《も》 か広《びろ》くて却《かへ》てしづけさまさりけるこのよき林泉《しま》に鴨おほくゐる 昼の林泉《しま》石《いは》のあひさにゐる鴨の一羽は黝《くろ》しつれづれの鴨 泉石《せんせき》のここだあかるき真日照《まひでり》に青鷺が佇《た》てり泛《う》く鴨のあひだ 日のうちも幽けくあらし引く水のかがよふ方へ鴨の寄り行く 日は暑し林泉《しま》の撓《たを》りにつく鴨のゆきあひの鴨のくわうと啼きたる 林泉《しま》の鴨おほに遊べばゆふつ方荒き野鴨も下《お》りて来にける 林泉《しま》や夏空の広らを飛び来《きた》る荒き野鴨のふりもおもしろ 林泉《しま》や夏この夜浅きに水にゐて月の光を潜《かづ》くものあり [#1段階小さな文字](その後に夜一首)[#小さな文字終わり] [#3字下げ]矢留小学 [#ここから1段階小さな文字] [#ここから5字下げ] [#ここから25字詰め] 遂に我が唯一の母校矢留小学校に臨む。乃ち我、故老、旧知、児童を前にして嗚咽、しばし言葉絶ゆ。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 息つめて子らまじろがず空飛ぶに何悲しきと思ふなるらし 我が言ひて絶ゆる言葉は子らはいざ老いたるどちや知りておはさむ 雲仙の山を眺むる朝霞ここに学びて童《わらべ》なりにし [#3字下げ]村社、太神宮に詣でて 宮裏はそこらの砂の日に蒸れて土糞《どふん》のにほひいまにをさなき 裸足《はだし》には小砂ざらつく絵馬殿に幼なかりける子ら遊びにき 神にうつ大き太鼓はその朝やとうとうとあげてゆくらつづけぬ [#ここから1段階小さな文字] [#ここから5字下げ] [#ここから25字詰め] 宮司は旧師木下登三郎先生なり。ぼそぼそと老いたまへり。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] この神酒《みき》は中ほど黒き土器《かはらけ》にとよと注がれていや沁みにけり [#3字下げ]展墓 専念寺甍|黝《くろ》みて閑《しづ》かなり我が寺と思ふはひりの照りを 閻魔堂草むす軒のうらべよりつぶやききこゆ蜂か巣ごもる 夏|闌《た》くる寺のお堀のとちかがみ源五郎虫も黝《くろ》みつつあり 夕凪はいきるる草を墓所《はかど》には人|多《さは》に来居《きを》り我が泣かむ見に [#ここから1段階小さな文字] [#ここから5字下げ] [#ここから25字詰め] 明治三十四年、十三にてみまかりし妹ちか子の墓は、まだ土を盛りしままなり。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 土に沁む線香の火のまだ見えて散るいくつあり青き折れ屑 [#3字下げ]沖[#(ノ)]端 [#ここから1段階小さな文字] [#ここから5字下げ] [#ここから25字詰め] 柳河の西南半里、我はこの沖[#(ノ)]端に生れぬ。漸くにしてその石場に帰るに、すでに夕に近し。町には祭の楼門チョウギリといふものを我が為に立て、人々、また宴を張りて泣く。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 街堀《まちぼり》は柳しだるる両岸《もろぎし》を汲水場《くみづ》の水照《みでり》穏《おだ》に焼けつつ かいつぶり橋くぐり来《こ》ぬ街堀《まちぼり》は夕凪《ゆふなぎ》水照《みでり》けだしはげしき 我が見るは入日まともにさしあたる駐在所脇の二挺堰《にちやうゐび》の渦 町祠《まちほこら》石の恵美須の鯛の朱《しゆ》の早や褪せはてて夏西日なり [#3字下げ]その日に もの言ひて前かがみなる甚吉は柳の洩れ日まぶしむならむ 菎蒻屋の弟《おと》の末吉泣きめだち女子《めのこ》さびしか今は媼《をば》めく 葉柳や今の日ざしに相見れば誰彼の頭《づ》も薄くなりつる [#3字下げ]生家 [#ここから1段階小さな文字] [#ここから5字下げ] [#ここから25字詰め] 我が生家は今、人手にわたりて、とどろしき鑵詰工場となりぬ。初めて妻子を伴ひて、この我家にあらぬ家の門をくぐるに、胸塞がりてまた言ふこと無し。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 泣かゆるに日は照り暑し湯気立てて蟶《あげまき》を今|釜《かま》に煮沸す 照る砂に雷管のごと花落す朱欒《ザボン》一木《ひとき》が老いてお庭に 棟瓦《むながはら》千石船の朱《しゆ》と碧《あを》は正目《まさめ》仰ぎて深き雑草《あらくさ》 鍋二つ汲水場《くみづ》に伏せて明らけき夏真昼なり我家《わがや》なりにし 白栄《しらはえ》に蛇《くちなは》奔る裏堀は水紋《すゐもん》の動き光《かげ》とありつつ [#ここから1段階小さな文字] [#ここから5字下げ] [#ここから25字詰め] 我が書斎たりし隠居家は、なほ遺れども、既に久しく鎖しぬ。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 空しかり縁に眼をやる泉石《せんせき》も常《つね》水たたへ濡れてありしを 我家は菅家《くわんけ》の裔《すゑ》と宣《の》らしたる大伯母《おほをば》ましき敢て読みにけり [#ここから1段階小さな文字] [#ここから5字下げ] [#ここから25字詰め] 我が幼な遊びの穀倉いまなほ存す。外壁破れ、ひとへにあはれ深し。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 穀倉は外《そと》板壁のか黝《ぐろ》きが日中《ひなか》の堀に影映すのみ [#5字下げ][#1段階小さな文字]十数棟にもあまりし酒倉の跡はと見れば[#小さな文字終わり] 五月雨に麦は落穂も取り入《れ》ずて染色《しみいろ》黝《くろ》し土に還《かへ》らむ 青光るめくわじやの貝に眼は大き鴉降りゐてまた旱《ひでり》なり 三日《みか》三夜《みよ》さ炎あげつつ焼けたりし酒倉の跡は言ひて見て居り [#3字下げ]沖[#(ノ)]端の鹹川 葦むらや開閉橋《かいへいけう》に落つる日の夕凪にして行々子鳴く 潮の瀬の落差《らくさ》はげしき干潟には櫓も梶も絶えて船の西日に 洋《わた》越ゆと六騎が伴《とも》は舟|竝《な》めて勢《きほ》ひ榜《こ》ぎ連れ矢声あげにし [#1段階小さな文字](鮟鱇組)[#小さな文字終わり] 夕凪の干潟に黒き粒だちは片手の小蟹貝ひろひ食《く》ふ [#4字下げ][#1段階小さな文字]註、ここの蟹すべて片手なり。[#小さな文字終わり] 西日して潮満つるまの夕干潟営み長く蟹ぞつぶやく 夕凪の干潟まぶしみ生貝《なまがひ》や弥勒《みろく》むく子の額髪《ぬかがみ》にして 西日には蟶《あげまき》むきて居るならし後姿《うしろ》気《け》ぶかき四五の女童《めわらは》 女童《めわらは》や我は思へば額髪《ぬかがみ》のかぐろき瞳|此方《こなた》見あげつ 潮くさき突堤《うろこ》に沁むる夏西日音あわて落つるむつごろ影あり [#ここから1段階小さな文字] [#ここから5字下げ] [#ここから25字詰め] 註、沖[#(ノ)]端にては突堤をうろこと云ふ。石にて鱗のごとく畳める故なるべし。尚「むつごろ」は小さき山椒魚に似たる魚にて、よく潟を走り、突堤の石垣にも登る、前世紀の遺物の由。日本にていま棲息するはこの土地のみ。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 魚市場|落日《いりひ》あかきに手品師は鍔までもりゆうと刀《たう》を呑みつも [#3字下げ]乳母 [#ここから1段階小さな文字] [#ここから5字下げ] [#ここから25字詰め] 字、筑紫村のほとりに、妹の乳母を訪れて、同じくその日、 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 風かよふ蘆のまろ屋に息ほそり白鷺のごと臥《こ》やる姥《うば》はや 老の息かくて絶えなむ女童《めわらは》の陰《ほと》どころさへも知りきと泣くを [#3字下げ]朝の揮毫 [#ここから1段階小さな文字] [#ここから5字下げ] [#ここから25字詰め] 柳河町の旧友川野三郎氏宅に泊る。盛んなりしこの柳河にての歓迎の一夜も明けて、 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 墨を磨り若かへるでは朝光《あさかげ》のすずしきがほどをゆとりもたなむ [#3字下げ]夏の三柱宮 [#ここから1段階小さな文字] [#ここから5字下げ] [#ここから25字詰め] 高畠公園の三柱神社は藩祖を祀る。二十日、ここに詣でてまた幼き日を偲ぶ。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 太鼓橋|欄干橋《らんかんばし》をわたるとき幼子《をさなご》我は足あげ勢《きほ》ひし 三柱宮《みはしらぐう》水照《みでり》繁《しじ》なる石段《いしきだ》に瑪瑙の小蟹ささと音あり 神楽殿砂吹きあぐる白南風《しらはえ》に小蟹ちり走る鋏立てたり [#5字下げ][#1段階小さな文字]宮地嶽神社は、その裏参道にあり。[#小さな文字終わり] 鹹涸川《しほひがは》堰《ゐぜき》の下の葦むらに行々子鳴きて鳰はお堀に [#3字下げ]水路舟行 [#ここから1段階小さな文字] [#ここから5字下げ] [#ここから25字詰め] 二十日、再び沖[#(ノ)]端に帰りて、人々と共に楽しむと柳河まで小舟に棹さしのぼる。恩地画伯も同舟なり。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 我つひに還り来にけり倉下《くらした》や揺るる水照《みでり》の影はありつつ [#4字下げ][#1段階小さな文字]註、倉下とは倉の庇の内らの壁。[#小さな文字終わり] 夏真昼わが故郷《ふるさと》は外《と》に干して巻線香のにほひかなしも しづかさは殿《との》のお倉の昼鼠《ひるねずみ》ちよろりとのぼりまたも消《け》ぬかに [#4字下げ][#1段階小さな文字]註、昼鼠とは土俗に水陽炎の影をいふ。[#小さな文字終わり] 御船倉|水照《みでり》ゆたかに舟うけて吹き通る風の夏はすずしさ 御船倉いとど明るき水の上《へ》は蛙のこゑもよく徹《とほ》るなり 水のべは柳しだるる橋いくつ舟くぐらせて涼しもよ子ら 土橋をわが往きかへる柳かげ青銭《あをぜに》一つ投げてわたりし 南風《はえ》すずし籠飼《ろうげ》あげをる舟《ふな》わきをわが舟にして声はかけつつ 風のさき黄なるカンナの群落《ぐんらく》に舟|棹《さ》しかへす今はまぶしみ 橋ぎはの醤油竝倉西日さし水路《すゐろ》は埋む台湾藻の花 背戸ごとに小舟|纜《もや》へる汲水場《くみづ》にはをりをり女居りて日暑し 夏堀《なつぼり》と狭《せば》む水曲《みわた》の葦むらはたださわさわし小舟|棹《さ》しつつ [#3字下げ]二十年前 [#ここから1段階小さな文字] [#ここから5字下げ] [#ここから25字詰め] 処女詩集「邪宗門」の上梓の直後なりけむ。かかるわかき日の帰省の夢を境として、その後二十年絶えて帰省することなし。之等の感懐も今は昔となりぬ。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] [#4字下げ][#1段階小さな文字]合歓[#小さな文字終わり] 葉のとぢてほのくれなゐの合歓《ねむ》の花にほへる見れば幼な夕合歓 水のべにいまだをさなき合歓の花ほのかに紅《あか》く君も眠《ね》ななむ [#4字下げ][#1段階小さな文字]鳰の浮巣[#小さな文字終わり] 水の街《まち》棹さし来れば夕雲や鳰の浮巣のささ啼きのこゑ 旗雲と匂だちたる月の出はたぐふすべなしあかき旗雲 [#4字下げ][#1段階小さな文字]幼な遊び[#小さな文字終わり] 過ぎし日の幼な遊びの土の鳩吹きて鳴らさな月のあかりに 爆竹の花火はぜちる柳かげ水のながれは行きてかへらず 汗あゆる夏のゆふべはすがすがし葦の葉吹きてあるべかりけり [#4字下げ][#1段階小さな文字]菱売のこゑ[#小さな文字終わり] 都べへ立たむ日近し菱売の向脛《むかはぎ》黒く秋づきにけり [#改ページ] [#1字下げ][#小見出し]童子柳河 [#1段階小さな文字]追憶篇[#小さな文字終わり][#小見出し終わり] [#3字下げ]馬 [#ここから25字詰め] 馬|描《か》かば前脚曲げて、蹄上げ、内腹蹴れと、尾の張りに力こめよ、跳ぶごとく描けよと見せぬ。土けぶり後《あと》にあがらむ、勢《いきほひ》や和子《わこ》もかくあれ、早や描けと筆持たしめき。末爺《すゑぢぢ》、三代に仕へて老ゆる大き爺《ぢぢ》よく馬描きぬ。よく見よと雲に馬描く和子や我や、三つ児のたましひ、かくぞ生きぬく。 [#ここで字詰め終わり] [#4字下げ][#1段階小さな文字]反歌[#小さな文字終わり] 馬描かば内にためたる蹴上げよと老いたる泣きぬ幼児に言ひて 描く馬よ青雲のぞむ勢《いきほひ》の上なかりしが墨はかすれき [#3字下げ]石合戦 [#ここから25字詰め] 石うてやよしや若殿、何負けむ、石場の子ら、小舟にて早や漕ぎ出だせ、石積めよ、水棹《みさを》とれ、土橋《どばし》くぐれ、鳰鳥の火の点《つ》く頭《あたま》、いま夕日、それとかかれと、我が仰ぐ館《やかた》の築地《ついぢ》、濠めぐるここをよろしと、采配やささとかかれと、前うちの金の鍬形、紙鎧、桜縅の大将我は。 [#ここで字詰め終わり] [#4字下げ][#1段階小さな文字]反歌[#小さな文字終わり] 十二万石|殿《との》の若子《わくご》はさもあらばあれここに六騎《ろつき》の町の子我は [#ここから1段階小さな文字] [#ここから5字下げ] [#ここから25字詰め] 註、石場は字石場町、六騎とは平家の六騎、ここに落ちのびて漁る。故にこの町の漁師を時俗六騎と呼ぶ。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] [#3字下げ]外ながめ [#ここから25字詰め] 風の日は風をながめて、雪の日は雪をながめて、玻璃戸越し、大き店さき、朝《あした》には餅《もちひ》焼かせて、日暮にはお膳竝べて、さて師走、我が家の市、馬ぞ、鮪《しび》ぞ、鰤ぞ、牛ぞと、おもしろと、見るとながむと、子供らの一の和子《わこ》我は。 [#ここで字詰め終わり] [#4字下げ][#1段階小さな文字]反歌[#小さな文字終わり] 外厠《そとかはや》戸ごとあけたる町すぢに冬は西日の寒けかりにし [#3字下げ]初売 [#ここから25字詰め] あらたまの年のはつ売、暁を大戸あけさせ、早や待つに挙《こぞ》り入り来る。たうたうと人ら入り来る。※[#「仝」の「工」に代えて「北」、屋号を示す記号、262-8]《やまきた》の濃染手拭、酒の名の「潮《うしほ》」の盃、引出よと祝ふとわけて、我が老舗《しにせ》酒はよろしと、新《あら》の桝酒に磨《みが》くと、春や春、造酒《みき》よ造酒《みき》よと、酒はかり、朱塗の樽の栓《だぶす》ぬき、神もきかせと箍《たが》たたき、たたきめぐれば、ほのぼの明けぬ。 [#ここで字詰め終わり] [#4字下げ][#1段階小さな文字]反歌[#小さな文字終わり] 春の夜と滴《したた》りあまる豊造酒《とよみき》は朱塗の樽に添ひて流れつ [#3字下げ]習字 [#ここから25字詰め] 太竹の青き筒、つやつやし筒に、たぷたぷと素水《さみづ》入れ、硯の水|清《さや》けし、墨磨れと、傍《かたへ》注《つ》ぎ、注ぎてまはりぬ。勢《きほ》ひける何なるならし。幼などちそのかの子らの、筒袖の、その中にしも級長われは。 [#ここで字詰め終わり] [#4字下げ][#1段階小さな文字]反歌[#小さな文字終わり] 女童《めわらは》はほのかなりしか小硯の赤間が石《せき》に墨片|避《よ》けて [#3字下げ]雲畦先生 [#5字下げ][#1段階小さな文字]幽人雲畦先生は我が書の師なりき。[#小さな文字終わり] よく坐《ま》しきあてに墨磨り唐《から》やうの画《ゑ》をたしなみと書《しよ》を楽しみと 田のそなた堀に柳のしだれたる離家《はなれ》の窻に老いていましき [#3字下げ]藩札 [#ここから25字詰め] 藩札は赭《あか》き紙ぎれ、皺に寂《さ》び黴《かび》くさき札《さつ》、うち廃《すた》り忘られし屑、うち束ね山と積めども、用も無し邪魔ふさげぞと、放《はふ》られてあはれや朽ちぬ。竹鉄砲紙の弾丸《たま》よし、花火筒につめよ押しこめ、煙硝よ染《し》めとはじけと、ぱんぱんと響け、火花よ飛びちれと、幼な児我は。 [#ここで字詰め終わり] [#4字下げ][#1段階小さな文字]反歌[#小さな文字終わり] しゆうしゆうと花火ふき出《づ》る竹の筒|幼《をさな》らすでに勢《きほ》ひそめにし [#3字下げ]青銭 [#ここから25字詰め] 青銭《あをぜに》は穴あき銭《ぜに》よ、字のおもて寛永通宝、裏に波文久永宝、よく数へよく刺し貫《ぬ》くと、手もすまにそろへて締むと、幼な児や息づかし我、青太藺《あをふとゐ》綯《な》ひし小縄の、撚《よ》りつよきその緒くくりて、夜々をなげきし。 [#ここで字詰め終わり] [#4字下げ][#1段階小さな文字]反歌[#小さな文字終わり] 青銭の穴あき銭をかなしよと父のみ前に貫《ぬ》きて数へつ [#3字下げ]魚市 [#ここから25字詰め] 魚市は師走の市、歳のすゑ、大つごもり前の三日《みつか》、雪よ霰ふる中を、塩鰤や、我が家の市、競り市や、魚市場、戦《いくさ》や、船に馬に大八車《だいはち》、わさりこ、えいやえいや、かららよ、えいやえいや、人だかりわらわら、はいよ、天秤、担棒《おうこ》、走る走る、えや肩掻きわけて。 [#ここで字詰め終わり] 諸国船《しよこくぶね》歳《とし》の塩鰤|競《せ》りあぐと寒《かん》もものかは裸でおらぶ [#3字下げ]千石船 師走業《しはすがふ》我が家《や》の市は大歳《おほどし》と千石船の群《む》れて泊《は》てにし 南風《はえ》にして千石船の箱ぐるま金比羅までも我は曳かせつ [#3字下げ]篦 [#ここから25字詰め] 篦《へら》や篦、漆掻く篦、篦はよし、色掻き交ぜ、たらりとよ、垂りしたたらす。ぬめりや漆のねばり、たらりとよ一つ反《かへ》し、つるりとよ二つ反《かへ》し、日に透かし、時をや見る。乾きや潤《うる》ひや、にほひとや持ち味。漆は、漆はや、あやかし、こは子らよ生物《いきもの》、かく言ひて一つ反《かへ》し、二つ反《かへ》し、たらりとよ、つるりとよ、爺《をぢ》は見てゐつ、春の日永を。 [#ここで字詰め終わり] [#4字下げ][#1段階小さな文字]反歌[#小さな文字終わり] 滴《た》りいとど仏師がい掻く赤漆篦うちかへし春もいぬめり [#3字下げ]白鷺 [#1段階小さな文字]童ぶり[#小さな文字終わり] [#ここから25字詰め] 夕焼には、夕焼にはの、白鷺が紅《べに》つける。白鷺が潟のそこりに足なづむ。簑毛風にそよいで。ハレヤ、霞の雲仙、島原は追風《おひて》の一と潮、風さきの向う突堤《うろこ》は三潴《みづま》ばの、のうもし。 [#ここで字詰め終わり] [#4字下げ][#1段階小さな文字]反歌[#小さな文字終わり] 春もやや潟の水曲《みわた》を行きありく白鷺の眼の黒くするどさ [#3字下げ]童子柳河 涼しさは水豊かなる柳かげ葦笛吹きて我等行けりし 夏の照り葦辺行く子は魚籠《びく》もちて何か真顔《まがほ》の我にかも似る 今ぞ見む郷国《くに》は童《わらべ》がどの顔も我によく似る太郎によく似る [#1段階小さな文字](妻に)[#小さな文字終わり] [#3字下げ]町内 [#ここから25字詰め] 菎蒻屋桶に藷《いも》磨り、飴形屋掛けて飴練る、蚊ばしらや春より立たむ。藍俵夏よ染《し》み出《で》む。綿うたす媼《をば》はさもあれ、提灯屋|老《おい》の猫脊が、さてゑがく牡丹に唐獅子、太神宮祭近しと、子供組|勢《きほ》ふよろしと、えやうやと受け合ふものから、向ひ屋の浄瑠璃の師匠、越太夫を我は。 [#ここで字詰め終わり] [#4字下げ][#1段階小さな文字]反歌[#小さな文字終わり] 照る日には傘《かさ》を干し竝《な》め雨ふれば提灯に紅《あか》き牡丹|描《か》きける [#3字下げ]柳河風俗 菱採りはか揺りかく揺り桶舟に両手《もろて》掻《か》きしてその菱堀を 菱売は久留米絣の筒袖に手も脛《すね》も黒く菱やとふれ来《く》る [#改ページ] [#1字下げ]飛翔篇[#「飛翔篇」は小見出し] [#3字下げ]太刀洗飛行場 [#ここから1段階小さな文字] [#ここから5字下げ] [#ここから25字詰め] 昭和三年七月二十二日、午後一時十分、愈〻一期の郷土訪問飛行を決行せむとす。恩地孝四郎画伯同乗、幼児隆太郎をも伴ふ。乃ち太刀洗飛行場に参集す。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 驟雨の後《あと》日の照り来《きた》る草野原におびただしく笑ふ光を感ず 草原にまだ滴《しづく》する格納庫日は直射《たださ》して白雨《しらさめ》過ぎぬ 蟻のごと兵列小さく曲り来て格納庫|角《かく》の銀灰《ぎんくわい》の照り 照りを来し頭右《かしらみぎ》して過ぎにけり二列縦隊の地上作業の兵 空は夏|光沢《つや》あるはたてうるほひて格納庫の上の白き断雲《きれぐも》 [#4字下げ][#1段階小さな文字]新野飛行士この人あり[#小さな文字終わり] 飛行帽まぶかに笑ふ逞ましきこの赭顔《しやがん》見れば期するあるなり 単葉ドルニエ・メルクール機両翼張り大き安らあり尾を地に据ゑぬ 平らけき今日の地平のあさみどり軽気球あがる空気がありぬ 音に澄みまはるプロペラ風|速《はや》し我が天翔る時ちかづきぬ [#4字下げ][#1段階小さな文字]その後にて、妻のいふを聴くに[#小さな文字終わり] 滑走し去りてふはりと上《あが》る単葉機の流るるがごとき脊筋《せすぢ》なりしと 雲ぎはに機体消えてより胸せまる虫のすだきを原に聴きぬと [#3字下げ]離陸、柳河へ柳河へ 飛ぶただち空《くう》と大地《だいち》の入りかはるこの驚きに我《われ》くつがへる 滑走しとどろ応《こた》へしいつ知らず身は離陸して軽きに似たり 上昇し早や翼《はね》かろしあをあをと退《しぞ》き流るる筑紫国原 単葉のドルニエ・メルクール軽快なり今影落す遥か下の原に 雲の先《さき》遥かにし見む我が軽き合金属の銀灰《ぎんくわい》の翼《よく》 上梶《あげかぢ》を護謨の滑車に照りつむる陽ははげしくて下空|虚《むな》し 海胆《ひとで》なす草山|脊筋《せすぢ》朱砂《すさ》なるが眼下《まなした》に暑し匍匐《ほふく》したりぬ 久留米師団|合歓《ねむ》ほの明し影つけて二列行進の兵隊が見ゆ [#4字下げ][#1段階小さな文字]いよいよ柳河見ゆ[#小さな文字終わり] 水|多《さは》に柳しだるる四つ手網今ぞ盛夏の柳河が見ゆ 我が飛翔《かけり》挙《こぞ》り出《で》て見む郷人《くにびと》に心は昂《あが》れ虚《むな》しかりけり [#3字下げ]故郷の [#ここから25字詰め] 故郷《ふるさと》の水のことごと、柳河や橋のことごと、たまゆらと、空ゆ一期《いちご》と、我が見ると、飛ぶと翔《かけ》ると、我が和子《わこ》連れぬ。 [#ここで字詰め終わり] [#4字下げ][#1段階小さな文字]反歌[#小さな文字終わり] 柳河は城を三《み》めぐり七《なな》めぐり水めぐらしぬ咲く花蓮《はなはちす》 [#3字下げ]柳河上空旋回 草家古り堀はしづけき日の照りに台湾藻《ウオータアヒヤシンス》の群落が見ゆ 柳河、柳河、空ゆうち見れば走り出《づ》る子らが騒ぎの手にとるごとし 大殿《おほとの》の濠《ほり》は広らと水照《みで》りして内なる池の鴨むらも見ゆ 殿の池ここだおどろく鴨むらの飛ぶまあらせずその上過ぎぬ うち低み榎か黒《ぐろ》き布橋《ぬのばし》の日ざかりの靄我は飛び過ぐ [#4字下げ][#1段階小さな文字]遂に恩讐を超えぬ[#小さな文字終わり] 伝習館ここぞと思ふ空にして大旋回一つあとは見ずけり [#3字下げ]沖[#(ノ)]端上空旋回 空よりぞ我が沖[#(ノ)]端を見る時し機体ことごとが光る眼なりき 鯉のぼりけふは視界に吹きながし沖[#(ノ)]端あり飛びて行くなり     § 矢留《やどみ》校|身《み》もて地《ち》に書く子ら見れば白光《びやくくわう》つよしヤの字一つ書く [#4字下げ][#1段階小さな文字]矢留校に呼ぶ[#小さな文字終わり] [#ここから25字詰め] 子らよ見よ、我《われ》かく翔《かけ》る、かの童《わらべ》、かく今翔る。空はよ、皆飛ぶべし、山河よ越えむに、時なし、またたく間ぞ、鳴《なり》かぶら矢留《やどみ》の子ら、いざや勢《きほ》ひ、土たたら踏み飛べや。 [#ここで字詰め終わり]     § 嵐なす羽風我が切りとよもすと的の矢留《やどみ》の空飛び抜けぬ 泣かむかに我は突き入る低空《ていくう》を子らぞ騒げるその仰ぎ見に 命なり散華の五色《ごしき》早や撒きて地に著かぬまを突入す我は 六歳《むつ》の子が強く口|緊《し》めこらふるに父なる我《われ》が何ぞわななく     § 風立てて我が家《や》の空を過ぎにけるこのたまゆらよ機は揺れ揺れぬ 大揺れに我が家《や》の甍すれすれと飛び過ぎにける今ぞその空 我が挨拶《メツセージ》夏は青田のただ中と子らを目がけて落下傘落す 雲仙と有明の海ひと目見したちまち喚《わめ》き機は旋回す 右に見し今は左翼にある海の浩蕩として筑紫潟ここは いや騰《あが》り国原恋ふるその父をこの子は空に神を見むとす [#5字下げ][#1段階小さな文字]父よ、児は遂に飛びぬ[#小さな文字終わり] 父の顔ありありと見る雲間にて涙|条《すぢ》なす我《われ》堪へむとす [#3字下げ]大牟田上空 煙吐く煙突|林《りん》の大傾斜《おほなだり》我が驚くと見やる間も無し [#3字下げ]三池山中 [#5字下げ][#1段階小さな文字]この日、南関を見失ひ、あらぬ山中を旋回す。[#小さな文字終わり] 夏照りの山の小峡《をがひ》にひそかなる部落あり我は空ゆ見むとす 童《わらべ》ひとり空を仰ぐは山中に路あるならし歩みゐるなり [#3字下げ]南関上空 [#5字下げ][#1段階小さな文字]二十三日、本飛行に先立ち、南関の上空を求む。[#小さな文字終わり] 母の里|外目《ほかめ》の空は雨雲の間《あひ》青く潤《うる》ひ母の眼かとも 山方は野町原町北の関その関越えて官軍は来《こ》し [#ここから1段階小さな文字] [#ここから4字下げ] [#ここから25字詰め] 註、野町、原町もともに村の名。南関は西南戦争の時官軍の本陣なりし由。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 棚畑の煙草の花の夏霞|祖父《おほちち》のみ墓今ぞ飛び越ゆ 石の井に釣瓶は置きて影ありしきのふの庭の空通り過ぐ [#1段階小さな文字](二の叔父の家)[#小さな文字終わり] 老人《おいびと》のその眼に小さき愛鷹《はしたか》と見え来む我か山は飛び越ゆ 町の長《をさ》その老《おい》ゆゑに山峡の小峡《をがひ》の関に空翔けくだる 柿|諸葉《もろは》てらてらい照り黒瓦今ぞ見え来つその家《や》とし見つ [#1段階小さな文字](島田家二首)[#小さな文字終わり] その家の低空にして昨《きぞ》浴びし風呂の煙の早や立ちそめぬ 老柿と築石《つきいし》畦《あぜ》に日の照りて草屋がいくつ関のせせらぎ 幼くて裸馬をせめたる山河を桑の葉照《はでり》に空かけめぐる [#3字下げ]瀬高の上空をも、またあらためて 上《かみ》[#(ノ)]庄|棟《むね》もま黒に群がるはそのかの子らしよく生《う》ましけり [#3字下げ]本飛行 [#ここから1段階小さな文字] [#ここから5字下げ] [#ここから25字詰め] 二十三日、はじめて本飛行に就く。南関の上空よりそのまま一路ただ大阪へ大阪へと飛ぶ。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 天《てん》の路ひとすぢ徹《とほ》り遥かなり今飛ぶべきはこの航路のみ 眼下《まなした》の深田《ふけだ》に映る日の在処《ありど》かがやきしるし月のごと見ゆ 昼がすみ水曲《みわた》の明りほのぼのと合歓《かふか》の花は咲き匂ふらし 天つ辺は飛びつつ泣かゆまなしたに虹の輪円く顕《た》ち明るめり 目にとめて下《した》なる虹の中飛ぶは単葉機我の蜻蛉《あきつ》なす影 北の方《かた》雲にか黝《ぐろ》き山の秀《ほ》は英彦《えいげん》ならむ尖り出《づ》る見ゆ 我が飛ぶや山はさやらず畳《たたな》はり畳《たたな》はる蒼き梢のみ見る 山なるは森厳にして雲湧けり梢《こずゑ》かぐろき杉の群立《むらだち》 空行けば目も恋《こほ》しかも山ふかく人家居して衣干す見ゆ 物駭《ものおどろき》悲しかるらし山の峠《たを》嶮峻にして鹿走り出《で》ぬ プロペラは音ひびかへれいつ知らず密雲《みつうん》の中に入りて暫《しば》あり [#5字下げ][#1段階小さな文字]新野飛行士生地の上を過ぐ、二首[#小さな文字終わり] 密雲のま中衝きゆく我が下に嘉穂の郡《こほり》はありと言ふかや 山中は音響かへば雨雲の上行く脊をか妹見けむかも 夏山は思はぬ岩に飛沫《しぶき》してたぎつ川瀬の水わかれ見ゆ 我が飛翔《かけり》しきりにかなし女子《をみなご》の小峡の水浴《みあみ》夏は見にけり 飛びつつを行《ぎやう》失ひし夕影はまさに女《をみな》の脛《はぎ》を見けむか 深山木《みやまぎ》の黒檜《くろひ》の木群《こむら》秀《ほ》に濡れて降りしばかりの雲|断《き》るるなり 深山辺よあはれは久し人入りておのづからなる道通ふ見ゆ 四方の雲ひたに閑《しづ》けくなりにけり山峡ふかく瀬のたぎち見ゆ 真夏空絶えず涌き来《く》るいつくしき白木綿雲《しらゆふぐも》の中わくるなり ここの空真夏|闌《た》けつつしづかなり行きあひの白き雲の部厚さ じんじんと山上百メートルを飛びつつあり緑に徹る命あるのみ 裸童《らどう》居る山の中なる風景の何ぞ空なる我に笑《ゑ》み来《く》る 雑草《あらくさ》の高原|斜面《なだり》緑なす気流に乗ると一気に我は ひた恋ふる地上のみどり逆《ぎやく》にして流動し去る総《すべ》てなるなり 国東《くにざき》は積乱雲のいや騰《あが》る夏空青し灘に映ろふ ひた飛びに周防へ向ふ灘の空何か後《あと》追ふ音ある聴かゆ 簑嶋は玉にかつづるひと簑の雨うつくしく光るその嶋 航空はしづけきものと人言ふを夕海の空をわたりうべなふ 翼《よく》のうら滑車に映る影見れば微動しつつあらし飛行はつづく 飛ぶものは尾翼《びよく》平らに今あらし瀬戸の内海《うつみ》の夏夕霞 水平動感じつつあり夕暮は思ふともなく母恋ふらしき 天上に桃の和毛《にこげ》をひた撫でてはかなやと言ふも我がうつつなり たまゆらと翔るたまゆら天《あめ》にして我がひた噛《かじ》るくれなゐの桃 厳嶋潮満ちたらし海中《わだなか》と鳥居ひたりて鹿あがる見ゆ 空に観て活字|函《かん》なす家群《いへむら》に都市の真実の声はあるなり 夕かげは陸《くが》の岬々《さきざき》嶋の岬《さき》遠《とほ》ながく見て高度《かうど》行くなり 雲の塊《くれ》夕紫に脈《なみ》なして屋嶋ぞと思ふ嶋々暮れぬ 翼のかげ支柱に映りしづかなる飛行はつづく夕《ゆふ》火照《ほて》る海 ほのぼのと匂ふ淡路のそなた空飛びつつは見ゆ霞む夕浪 早や愛《かな》し和田の岬の夕潮に藷《いも》洗ふごとく子らぞ混《こ》み合ふ 水のべの天満《てんま》の祭篝焚き空翔り来《こ》し我やそぐはず [#改ページ] [#1字下げ]終篇[#「終篇」は小見出し] [#ここから1段階小さな文字] [#ここから5字下げ] [#ここから25字詰め] 二十四日、我空を飛びて大阪へ向ふあひだ、妻は子らを伴ひて、太刀洗より大分なる生家へ下る。我、行を了るや、その翌の日、紅丸に乗じて、そを迎ふと航海す。かくして、別府、大分、由布院に淹留旬日、再び妻子と瀬戸の内海を渡りて帰る。その折の長歌竝に短歌二三。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] [#3字下げ]大分にて 白雉《はくち》城お濠の蓮のほの紅に朝眼《あさめ》よろしも妻がふるさと [#3字下げ]母びと [#ここから25字詰め] 母びとはかなしかるかな。老いましてなほとやさしな。妻と来て、お許に来て、今日《けふ》くつろぐと、子らもゐて。茶寮には灯《ひ》のはひり、石いくつ水うつあひだ、彼方《そなた》見て、もの言ひてます物ごしのあはれ、よくぞ似る妻が母刀自、子らにもけだし。 [#ここで字詰め終わり] [#4字下げ][#1段階小さな文字]反歌[#小さな文字終わり] 水うちて残んの日かげ濡れたるにもの言ひてます母のしたしさ [#3字下げ]おなじく 街中《まちなか》は瓦重なる夕かげをまだじじとある蝉が庭木に [#3字下げ]瀬戸内海 [#ここから25字詰め] しづかや船ゆきゆく。安らや船ゆきゆく。飛ぶべくはその空飛びぬ。ひさびさや会ふべく会ひぬ。子らにしも父が母国《おやぐに》、まつぶさに見よとし見せぬ。さて見むと、母の里をも、子ら見よと隈なく行きぬ。淡路嶋かよふ千鳥、明石の浦、このそよぐすずしき風に、親子づれ帰《かへ》さ安しと、この日なか、波折《なをり》光ると、甲板《かふはん》に鼠出でぬと、おもしろとその影見やる。 [#ここで字詰め終わり] [#4字下げ][#1段階小さな文字]反歌[#小さな文字終わり] 昨《きぞ》飛びて空ゆながめし瀬戸の海を今日|船路《ふなぢ》行き波の面《も》わたる 空ゆ見し全《また》き淡路の夕がすみ船はすべなもただに片附く [#3字下げ]あとのたより 君が飛ぶことごとの人が仰ぎぬと涙せりとぞ友ら言ふかも その空は涙たまりて見ざりきと下べのその家《や》我も見ざりき [#改丁] [#ページの左右中央] [#5字下げ][#中見出し]郷土と雲海[#中見出し終わり] [#改ページ] [#ページの左右中央] [#ここから1段階小さな文字] [#ここから5字下げ] [#ここから25字詰め] 昭和五年五月、かの郷土飛翔の事ありて翌々年、われ再び、北九州に所用ありて下る。この間一ヶ月余、郷里柳河、沖[#(ノ)]端、母の里南関、外目にも帰省するを得たり。その折の新唱之なり。なほ、この帰途、再び太刀洗より大阪へ、大阪より羽田へ一気に飛翔し、感懐また新なるを覚ゆ。此篇またおのづからにして郷土飛翔吟の続篇を成す。録長歌四首、短歌九十五首。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] [#改ページ] [#1字下げ]帰省篇[#「帰省篇」は小見出し] [#3字下げ]月光荘雑詠 [#ここから1段階小さな文字] [#ここから5字下げ] [#ここから25字詰め] 月光荘は柳河瀬高町高椋公夫君邸の離家に我が名づけしものなり。この行ほとんどこの水荘に宿る。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] [#4字下げ][#1段階小さな文字]月夜[#小さな文字終わり] 積藁に電柱のかげ傾《かし》ぎゐて堀の向ひはよき月夜なり この川やまだ張りすてて露《あら》はなる蜘蛛手の棚もよき月夜なり [#4字下げ][#1段階小さな文字]註、蜘蛛手は四つ手網。[#小さな文字終わり] 月夜なり馬鈴薯畑《ばれいしよばた》の片側は壁白う照りて家廂《やびさし》のかげ 昼間見し麦の立穂《たちほ》と思ふいろ月の光に見えそめにけり きやろと啼きけろと啼きつぐこゑきけば蛙も月に出て遊《あそ》ぶらし [#4字下げ][#1段階小さな文字]内庭[#小さな文字終わり] 庭の面《も》に月の光のありしとき楓《かへで》の影も椎《しひ》とありにし この庭の湿りがたもつ土《つち》のいろ月の光にかがよひにけり 月夜照る庭の木立をちかぢかと見つつゐにけり暗き渡廊《わたり》に まことのみ吾《あ》は言ひにけりよかりけり月の光に坐りつつ思ふ [#4字下げ][#1段階小さな文字]註、昼講演せり。[#小さな文字終わり] うち白《しら》む月のありどの雲のいろ樗《あふち》の花は揺れそめにけり [#4字下げ][#1段階小さな文字]昼[#小さな文字終わり] 縦川を斜に見やる縁の端《は》に吾が眺めつつ涼しがりをる この節句《せく》の粽《ちまき》のしろと刈る葦のいきれは繁し中分けて刈る 国つぶり節句《せく》の粽《ちまき》は梔子《くちなし》の実に染めてから葦の葉に巻く [#5字下げ][#1段階小さな文字]誰が棄てし暑さぞ[#小さな文字終わり] 菱の葉に白き扇のなづさへばあはれ水照《みでり》の夏も去《い》ぬめり [#4字下げ][#1段階小さな文字]再び夜景[#小さな文字終わり] とちかがみ揺れ合ふ見ればいとどしく月明りして飛ぶ羽虫あり 月の空夜の明方となりぬらし黄にあかり来る麦の穂のいろ [#3字下げ]水郷の朝 夏の夜ははや明けにけり瓦家の瓦に赤き煙突が見ゆ やはらかきからしの莢《さや》に明《あか》る日の光|恋《こほ》しみわれは行くなり 荒壁《あらかべ》に夏の朝日の照りてゐて漆の花の影もうつれり うしろ射す夏の朝日にわが渡る土橋《どばし》のへりのすかんぽの花 土橋の朝まだ早し揺りゆりてそら豆売りが籠かつぎくる 花まじる深田《ふけだ》の草の芒《のぎ》の穂は夏の朝日に見るべかりけり 穂に立つ麦の畑の中道《なかみち》は弧《こ》にうねりつつやはらかき土 しらしらと米の磨ぎ汁流れゐて藻の葉にまじる鮒のなきがら ついかがむ乙《おと》の女童《めわらは》影揺れてまだ寝起らし朝の汲水場《くみづ》に うちしめりなにか眩《まば》ゆき午《ご》の曇り樗《あふち》の花はいまだ了らず [#3字下げ]裏町の媼 [#ここから25字詰め] 見るすでに涙はためつ。会ふすぐと眼に手はあてつ。およし媼《をば》六騎《ろつき》がながれ、我が乳母《めのと》、そのかの一人。笛鳴るに太鼓とよむに、水祭また御|覧《らう》ぜよ、舟よしと、さて棹さしぬ。蚕豆《そらまめ》と麦秋の頃、舟舞台水にうかびて、老柳堀にしだれて、ひりへうと子らぞ吹きける、撥上げてとうとたたきぬ。見えず媼《をば》、舟多きから、我が言へば、さらばかくませ、この脊《せ》にと、両手《もろて》後《あと》にす。さて負はれ、のびあがり、見ゆと見ゆとし我が言へば、なよあはれ、五十年《いそとせ》の昔の温《ぬく》み、よろぼふ腰に力を撓《た》むる。 [#ここで字詰め終わり] [#4字下げ][#1段階小さな文字]反歌[#小さな文字終わり] ひりへうと笛が鳴るから夏祭|三神丸《さんじんまる》に小舟《をぶね》さもらふ [#3字下げ]宮永の媼 [#ここから25字詰め] 海老腰や家の子の媼《をば》、寺詣で左手後《ひだりあと》あて、片手杖、なむなむの媼《をば》、和子《わこ》よしと、こなたかなしと、ひさびさぞよくわせぬとぞ、せはしとぞ、早や膳まゐる。あのよろし蟹よ蝦蛄《しやこ》よ、それよこれよ、そをめせ、かくめせとあはれ、中つつき、殻《から》ほじりあはれ。かの和子にものいふさまよ、雛鳥にふふますごとよ、傍《かたへ》つき、にじり寄り、さて暑さよとな、またあふぎゐる。ほれほれと箸もてまゐる。その和子はかくなる歳を、老いづくを、蟹や蝦蛄《しやこ》さもこそあらめど、身の老の、その海老腰の、おのれ知らずて。 [#ここで字詰め終わり] [#4字下げ][#1段階小さな文字]反歌[#小さな文字終わり] すかと剥《は》ぐ蟹の甲羅は黄のとろを尿《しし》ぶくろほぜりとりてすてたり [#3字下げ]女友だち [#ここから25字詰め] 額髪《ぬかがみ》の幼な女童《めわらは》、そのごとく今も囲むに、早や老いて含《ふふ》むものなし。子をなして幾人《いくたり》の親、死なしめて後《あと》のこる妻、姦《かし》ましと世にいふ際《きは》か、さて寄りて我にかくいふ。そのかみよ、そ様うれしと、ほのぼのと思ひ秘めきと、とりどりやひとりびとりに、吾《あ》こそよ吾《あ》こそよと膝すり寄せぬ。うち笑《ゑ》らぎ何すとすらし、泣かゆとて早や過ぎにけり。見る眼さへ鄙の媼《おうな》の歯ぐきあらはに。 [#ここで字詰め終わり] [#4字下げ][#1段階小さな文字]反歌[#小さな文字終わり] 女童《めわらは》に目もくれずとふ男童《をわらべ》は或《あるひ》はほのに何かおそれし [#3字下げ]大江の幸若 [#ここから1段階小さな文字] [#ここから5字下げ] [#ここから25字詰め] 筑後山門郡瀬高在の大江の幸若は今は日本に唯一のものとして珍重せらる。或る日、特に迎へられてその大江の村社に参観す。柳河の老儒渡辺村男先生の東道なり。社内、舞手と我等の外殆ど人影無く、俗塵絶ゆ。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 蝉のこゑしづけき森のここの宮|幸若《かうわか》の舞の時ぞ移ろふ 麦の熟《う》れ蒸すや五月《さつき》の野平《のだひら》にお宮ましまし小つづみの音 曲舞《くせまひ》の大江《おほえ》幸若《かうわか》足ずりにえやとたたらと舞ひ澄ましける 立烏帽子《たてゑぼし》袴長引き小《ち》さ刀|素襖《すあを》の袖は張りて舞ひつつ 幽けさは笛や羯鼓《かつこ》の外《ほか》にして舞ふものならし扇手に指《さ》し 打烏帽子脇と連《つれ》とが片膝に待つ間かがよふひとひらの雲 舞殿の幕《とばり》は匂ふ夏がすみ後水尾の帝《みかど》くだしたまへる 人な知り宮の幸若足ぶみに遊ぶ五月《さつき》のたたら曲舞《くせまひ》 舞殿に舞ひつつ闌《た》くる昼の照り撫子もちて仰ぐ女童《めわらは》 野の宮よ翁嫗《おぎなおぐな》ののどのどに石につい居り舞ふを見に来《こ》し 墨の香のながれて鎮《しづ》む青若葉誰に書けとふ紙かのべたる [#3字下げ]城内 裏堀は藻をかいくぐる鳰《にほ》居りて遥けきは啼けり城内《しろうち》らしも [#3字下げ]或る月夜 竝倉のしづけき生鼠壁《なまこ》月夜にて鳰は寄りゆくその向うの葦に ユーカリのしろき月夜の陰《かげ》にしてこなぎも花に咲きにつらむか [#3字下げ]船小屋 湯の館《やかた》築石垣《つきいしがき》の間《あひ》飛びて源氏蛍も早や末ならし [#3字下げ]南関、大津山 [#5字下げ][#1段階小さな文字]一族、我が為に集りて、半日を清遊す。[#小さな文字終わり] 大津山《おほつさん》ここの御宮の見わたしを族《うから》がものと我等すずしむ 小岱山《せうたいさん》霞む表《おもて》の端山《はやま》には関の名残りの書院松見ゆ 山帰来葉《ばらんは》や山は恋《こほ》しき日の蒸《むれ》に餅《もちひ》くるまむその葉摘みたむ [#3字下げ]北の関・南の関 [#ここから1段階小さな文字] [#ここから5字下げ] [#ここから25字詰め] 北の関の村は、筑後の山門と肥後の玉名の境にあり、そを越ゆれば母の里南の関、関町ともいふ。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 朱砂《すさ》にして雨ふりながす朝の道山片附けば北の関見ゆ ふかみどり櫨《はじ》の木かげに佇《た》つ見れば童女《どうによ》は愛《かな》し母によく似て 玉名郡《たまなごほり》関の山家は築畦《つきあぜ》の石塊《いしくれ》黒く夏まけにけり 朱砂《すさ》ながらさびし山家の壁のいろ薄日蒸したり母の関町 [#改ページ] [#1字下げ]北九州雑唱[#「北九州雑唱」は小見出し] [#3字下げ]宰府道 筑紫の、櫨《はじ》の木原《こばら》、木原には夕光《ゆふかげ》満ち、夕光に鷽鳥《うそどり》啼けり。宰府道、ここの木原に、飼鳥《かひどり》の、よき鷽鳥《うそどり》を、もつ家《や》あらしも。 [#4字下げ][#1段階小さな文字]反歌[#小さな文字終わり] 汗沁むる木彫の鷽《うそ》は手《た》にぎりて朝行きし前を夕かへりをり [#3字下げ]観世音寺道 麦の秋|夕《ゆふ》かぐはしき山の手に観世音寺の講堂は見ゆ 麦の秋観世音寺を罷《まか》で来て都府楼の跡は遠からなくに 夕あかる櫨《はじ》の木むらの前刈るは誰が麦秋の笠の紐ぞも [#3字下げ]水城 草ふかき水城《みづき》飛び越え立つ鴨の軽《かる》鴨の子をうつくしみ見む [#3字下げ]雑餉隈、環水荘 [#ここから1段階小さな文字] [#ここから5字下げ] [#ここから25字詰め] この行、この加野宗三郎氏の水荘に淹留することまた数日なりき。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 水|環《めぐ》る環水荘は降る雨のいろとりどりに夏いたりつつ [#4字下げ][#1段階小さな文字]昼[#小さな文字終わり] 雑餉隈《ざつしよのくま》池塘《つつみ》に映る床《ゆか》高き屋裏《やうら》に赤き金魚鉢見ゆ 菱生ふる広き池塘《つつみ》の中道は雨通らせて後照《あとでり》暑し 老樫のこぼれ日あかく地にあるに蟻現るる待ち居り我は 積藁にひびく一つの爆音が太刀洗より近づくごとし [#4字下げ][#1段階小さな文字]夜[#小さな文字終わり] ほのぼのとからし焼く火の夜は燃えて筑紫|郡《ごほり》の春もいぬめり 鬼菱の花さく池の月しろは夜のいよいよに闌《ふ》けて後《のち》なり [#3字下げ]呼子 [#4字下げ][#1段階小さな文字]名護屋城址[#小さな文字終わり] 麦黄ばむ名護屋《なごや》の城の跡どころ松蝉が啼きて油蝉はまだ 韓《から》の空の見はらしどころここにして太閤はありき海山の上に [#4字下げ][#1段階小さな文字]おなじく、山下善敏君の山荘にて[#小さな文字終わり] 麦の秋に白帆見わたす山幾重君が館《やかた》は伊達の陣跡 蒼海《あをうみ》の鯨の蕪骨《ぶこつ》醸《か》み酒のしぼりの粕に浸《ひ》でし嘉《よ》しとす ここにして十時伝右衛門の裔《すゑ》の子と一夜《ひとよ》勢《いきほ》ひ飲みて寝にける [#4字下げ][#1段階小さな文字]註、柳河の旧友。[#小さな文字終わり] おほらかにありつる昨《きぞ》の朝酒と再眺《またなが》めして名護屋にぞ居る [#4字下げ][#1段階小さな文字]呼子港[#小さな文字終わり] 遊女《あそびめ》が片手漕ぎする舟かとも午《ひる》ちかき照りの入江見てあり [#改ページ] [#1字下げ]飛行篇[#「飛行篇」は小見出し] [#3字下げ]白日飛行吟 [#1段階小さな文字]飛行吟その一[#小さな文字終わり] まさやけく夏の微塵《みぢん》の澄むところみ空は青し眼の極み見ゆ 三笠山さ青《を》の尾上《をのへ》に立つ鹿のかぼそき姿|天《あめ》にして見つ 青丹《あをに》よし奈良の都の藤若葉けふ新たなり我は空行く 高行くはひたすら悒鬱《さぶ》しまかがやき横たふ雲の眼を塞《ふた》ぎつつ 高蒼空《たかあをぞら》わがよるべなき単葉の機体の揺れは雲の撲《う》つなり 鈴鹿山|空木《うつぎ》花咲きしづかなり飛びつつし思ふ夏ふかみけり 眼下《まなした》に横たふ谿は鈴鹿とぞ死の衝激をからうじて堪ふ 移りつつ雲はあるらし山襞《やまひだ》の赭《あか》きなだりに影のさしたる [#3字下げ]雲海 [#1段階小さな文字]飛行吟その二[#小さな文字終わり] 雲に会ふ心したしく幽けかり高度の高さ思ふなるべし 人飛びて嬬《つま》恋ふる時し天《あめ》なるや雲高光り音をひそめつ しづかなる空の中処《なかど》に空洞《うろ》ありて来《きた》る待つとふけだしその空洞《うろ》 天つ風山吹きおろし息《おき》長しひた吹きあつる真向ひの雲 み身|隠《ごも》り雲がくります山の襞また現れて事なきごとし 雲塊《うんくわい》は雲塊と触れとどろけり然《し》か思ふは我の澄みゆくならむ 眼のかぎり雲|畳《たたな》はるさながらを空にして思ふ大わたの海 噴く綿の穏《おだ》しき雲の畳《たたな》はり影|繁《しじ》にして熱度けぶかき 雲塊の片陰附けばか黝《ぐろ》なる鷹ひとつ飛ぶとさまかはるなし 紫外線はげしき昼は陰黝き雲片附きて位置は低めつ 雲海の雲|畳《たたな》はりはてなきは無風状態に置かれたるなり 挙げて光り眼は向けがたき天《てん》の濤《なみ》白雲角《びやくうんかく》に人交りける 天《てん》の昼非常に光る雲角《うんかく》の頂にして鎮む物あり 独神《ひとりがみ》御身《みみ》隠します時すらやかく雲海はありて被ひき 雲の海に我はひびかふエンヂンの命なるなり航《ゆ》くとありつつ 雲海の荘厳をしも我が飛びていつ果つるなし心|食《は》み啖《く》ふ 雲隔つ友の葬所《はふりど》光《かげ》蒸していま暑からし蝉のしじ鳴き [#1段階小さな文字](沼津上空)[#小さな文字終わり] [#改丁] [#ページの左右中央] [#5字下げ][#中見出し]覊旅小品[#中見出し終わり] [#改ページ] [#ページの左右中央] [#ここから1段階小さな文字] [#ここから5字下げ] [#ここから25字詰め] 昭和三年盛夏、常陸大津の海岸へ児童自由詩講演に赴き、その夜五浦の故岡倉天心居士の別墅に宿る。帰途、筑波に登つて山上に一泊。「五浦少女」「筑波新唱」はその折の歌。 昭和八年十一月、福島市の公会堂創立につき講演に赴く。「初冬信夫行」はその時の作。 昭和七年一月、妻子を伴ひて信州、池ノ平に遊ぶ。「雪に遊ぶ」はその折に作る。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] [#改ページ] [#1字下げ]五浦少女[#「五浦少女」は小見出し] [#3字下げ]大津 大津の浜目どほり白き波際《なみぎは》を階上に見つつビールぽんぽん抜かしむ [#3字下げ]順礼の墓 順礼の墓とふ影が大暑《たいしよ》にて山のかかりにあるがしづけさ 順礼の山辺の墓は日ざかりをせせり浮きたり椀《まり》の清水に [#3字下げ]五浦、潮見堂 潮見堂ここにぞ天心先生は潮《うしほ》眺めて飽かず坐《ま》しにけむ 唐風《からふう》の画像思へば大き人いまも寛《ゆた》けくここに居らすかも 六角堂庇にしぶく夕潮の涼しきがほどを我ら佇《た》ち見つ [#3字下げ]五浦少女 [#ここから25字詰め] 山越《やまごえ》よ五浦少女、日中《ひなか》より影をつづりて、もてなしと我にまゐると、魚《とと》持《も》て来《く》、瓶子かかへ来《く》、五器そろへ、お膳持て来る。一閑張・筆・墨・硯、さて紙帳、くくり枕や、夜のものと衾《ふすま》持て来《く》る。額髪《ぬかがみ》の女童《めろ》も交りて、ほつほつと、ひとりひとりに、軽き提げ重きはかつぎて、あなかなし五浦少女、草いきれ暑き小径《こみち》を、潮しぶく東の磯の潮見堂、その母家《おもや》まで、山越え野越え。 [#ここで字詰め終わり] [#4字下げ][#1段階小さな文字]反歌[#小さな文字終わり] 山越は日のあるうちぞほどほどに持て来てたもれ道は遠きに [#3字下げ]おなじく 墨磨りに山路《やまぢ》越ゆると女童《めわらは》や硯も持ちて幼なかるべし 少女子や山は莠《はぐさ》の夕かげに瓶子落して笑ひたるらし [#3字下げ]また 早や帰れ火のひとつづり見え来《く》るは迎ひの父《とと》か山路気づかふ [#5字下げ][#1段階小さな文字]印度のタゴール翁ここに泊りしといふ。[#小さな文字終わり] かく在《あ》りて趺坐し一夜《ひとよ》をありけらしその縁の端《は》と思ふに我は [#3字下げ]天心居夜情 岩の端《は》にことりともこの家《や》音せぬは人|坐《ま》さぬらしすさぶ夜の潮 潮ひびく君が館《やかた》の跡どころ小夜ふけて聴くに磯は直ぐ下《した》 草塚にこもるこほろぎ潮騒《しほさゐ》のとどろ立つ夜を鋭声《とごゑ》しきりに [#4字下げ][#1段階小さな文字]註、天心先生の墓あり。[#小さな文字終わり] [#改ページ] [#1字下げ]筑波新唱[#「筑波新唱」は小見出し] [#ここから1段階小さな文字] [#ここから5字下げ] [#ここから25字詰め] 五浦の帰りに筑波の麓大宝村へ廻り、横瀬夜雨氏の邸にて河井酔茗氏と約のごとく落合ひ、その午後一同筑波山へ登る。山上へ一泊す。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] [#3字下げ]大宝村 ここの門《かど》庇に繁き雑草《あらくさ》の内外《うちと》の暑さなほ消《け》ち難し 庭苔の地湿《ぢしめり》ながら日おもては朝から蒸してこの大き草屋 [#4字下げ][#1段階小さな文字]朝顔に[#小さな文字終わり] 鉢にして花ひらきたる朝顔の五十《いそ》あまり置きて足蹇《あしなへ》君は 朝顔の幾花鉢や張る肘《ひぢ》の君|厳《いつ》かしく膝は平らに 雲居立ち紫にほふ筑波嶺を麓に堪へて足蹇君は [#3字下げ]山毛欅と青がへる 筑波嶺《つくばね》のいただき清《さや》にうちひびく山毛欅《ぶな》の林の青がへるのこゑ 筑波嶺のいただき通る夕立《よだち》雨わたくし雨のくだり去りにし 山毛欅《ぶな》の原朝居る雲のつぶさには下しづくして音果つるなし 小筑波や山毛欅《ぶな》の下枝《しづえ》の若萠に蛙ころろぐこゑのさやけさ 筑波嶺のいただきよりぞ見おろして雲はうち乱る表裏《おもてうら》となく にひばり筑波をくだりあはれあはれケーブルカーの索条|迅《はや》し [#3字下げ]夜雨、山にのぼる 見てのみや泣きてこらへし筑波嶺を君いまはのぼる人が背《そびら》にて 君を負ふ人の後蹤《あとつ》きのぼる道石ころ暑し赤き角々《かどかど》 山のぼる人の背《そびら》ゆもの言ひて筑波根草は君が教へし まだ見えて人の背《せ》にある君と思へ頂《いただき》の雲のいまはつつみぬ 高天原《たかまがはら》男峰《をみね》の岩のいただきに影黒くある君と思へや [#3字下げ]夜 [#5字下げ][#1段階小さな文字]夜雨氏夫妻も泊る、生れて初めての蜜月遊ぞといふに、[#小さな文字終わり] 女男《めを》の峰ひとつ筑波の頂にうべ鎮《しづ》もらすこの夜いみじく 筑波嶺の男峰落ちゆく雲あらしふりつつもあるか下の葉山に [#3字下げ]翌日、昼 負《おぶ》さりていや暑からしのぼりける眼《まな》ざしたゆく今は下《くだ》りに 筑波嶺にひとすぢかかる男女《みな》の川早やたえだえに君はありにし [#3字下げ]筑波の帰りに ここに見る霞ヶ浦は採る魚のわかさぎ色にしろく霞みぬ [#改ページ] [#1字下げ]初冬信夫行[#「初冬信夫行」は小見出し] [#3字下げ]伏拝を越えて 伏拝《ふしをがみ》越えつつくだる道の奥|道祖《だうそ》の神に幣《ぬさ》たてまつる 伏拝《ふしをがみ》越え来てひろふ日のあたりこれよりやいよよ奥のほそみち 人像《ひとがた》と藁の小積《こづみ》は数立《かずた》ちてなほうそ寒き刈田つづくか [#3字下げ]文字摺石 みちのくの信夫文字摺かくながら日の寒うある岩の面《も》にして 冬日ぐれ文字摺石の傍《わき》遊ぶ子らが石蹴り音ひびきけり [#3字下げ]福島対岸 ちびと啼く花吸鳥《はなすひどり》は水さむき阿武隈越えて何にかも来《こ》し [#改ページ] [#1字下げ]雪に遊ぶ[#「雪に遊ぶ」は小見出し] [#3字下げ]池ノ平 清らけく雪に遊ぶは白鷺の水あさりするたぐひならまし 今朝ふりて清明《さや》けき雪や積む雪の踏めば粉に立つその浄《きよ》ら雪 雪の原|霧華《きばな》咲き満つまさしくも白くさやけきこれや一色《ひといろ》 風やみて紫にほふ雪の襞《ひだ》この片陰に集《つど》ひて居れば [#3字下げ]妙高温泉へ下る 落葉松《からまつ》に夕粉雪《ゆふこなゆき》ぞつもりける末うごきつつしみらなる枝 落葉松に粉雪ふりつむ日くれがたひた滑りつつ我はありける 積む雪の下深くゆく水あらし風かとも聴くにせせらぎにけり [#改丁] [#ページの左右中央] [#5字下げ][#中見出し]満蒙風物唱[#中見出し終わり] [#改ページ] [#ページの左右中央] [#ここから1段階小さな文字] [#ここから5字下げ] [#ここから25字詰め] 昭和五年三月より四月にかけて四十余日、満蒙各地を巡遊す。満鉄の招聘によるなり。その情報部の八木沼丈夫君と同行す。歴遊するところ、大連を起点として満鉄沿線及び東支鉄道は満洲里に至る。尚ほ長春吉林間、奉天新義州間を往復し、また大連へ還る。即ちこの満蒙風物唱成る。うち二百十一首を録す。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] [#改ページ] [#1字下げ]遼東春寒[#「遼東春寒」は小見出し] [#3字下げ]東鶏冠山 寒月《かんげつ》は谷を埋むる屍《しかばね》にまた冴えたらし或《ある》はうごくに 命《いのち》にて一人一人と跳び入りしまた声もなし塹《ざん》の深きに 息はつめて死角《しかく》に対《むか》ふ敵味方この塁《るゐ》の中に敢て憎みし 春ならぬ寒靄《かんあい》にしも日は照りてこの低なだり小松繁かり 春寒き旅順の港見おろしてましぐらに駛《はし》る自動車今あり [#3字下げ]大連、碧山荘 [#5字下げ][#1段階小さな文字]碧山荘は華工の収容所なり[#小さな文字終わり] 碧山荘《へきざんさう》冬の日向《ひなた》を来《く》る影の濃くしづかにて担ふ水桶 影つけて日向|選《え》り来《く》る荷かつぎの肩かへにけりたぶつく水桶 [#4字下げ][#1段階小さな文字]その裏山[#小さな文字終わり] 人だかり大蒜《にんにく》の香《か》のはげしきは中《なか》分きかねつ旅に来てあり 春山《はるやま》と山をうづむる大群《たいぐん》の苦力《クリー》さもあれや空は霞まず 軽業《かるわざ》の子らひるがへる柱より光る春かもや山はとよもす 鳴くまでは白霊《パイリン》の籠《かご》手に据ゑて爺《とと》ぞ居りける春のひねもす 春なれや苦力《クリー》の爺《とと》は呆《ほ》け笑《ゑ》みて十尺《とさか》の煙管《きせる》吸ひくゆらかに くらくらと牛の頭《づ》煮たつ大釜の湯けぶりにしもや夕日ま赤き 丸揚げと揚ぐる魚《さかな》は手づかみに早や投げ入れて安けきごとし [#4字下げ][#1段階小さな文字]大連図書館にて[#小さな文字終わり] はげしかるピゴーの漫画をかしとし泣きて遊ばむ旅にあらぬを [#3字下げ]金洲 冬来り城壁《じやうへき》の上に立つ影の我にしもあるかひとり見おろす 岱宗寺《たいそうじ》咽ぶ胡弓の音《ね》は引きてまだ薄日なり寒《かん》はゆるまず [#3字下げ]熊岳城 熊岳城《ゆうがくじやう》雁《かり》わたるなり仰臥《あふぶ》しに春寒き外《と》の砂湯にぞをる 望児山《ばうじさん》吹き曝《さ》らす風の風《かざ》さきは仰向きに臍《へそ》の寒き砂湯や 砂湯にてかじる林檎は喇嘛塔《ラマたふ》の風寒きからひた紅《あか》き噛む 春はまだ河原の砂湯上寒し風邪ひかぬまとそこそこあがる 枯野行く幌馬車《マアチヤ》の軋みきこえゐて春浅きかなや砂塵《さぢん》あがれり [#3字下げ]湯崗子早春 湯崗子《たうこうし》凍《し》むる竝木の間《あひ》にして帽子《マオツ》の赤きつまみが行くなり 湯崗子氷は厚し我が買ひて赤き山樝子《さんざし》をかき噛《かじ》りつつ [#3字下げ]遼陽 仰ぎ見てさむざむとある白塔《はくたふ》の薄日なるなり巣くふ鵲 騾《ら》と馬と竝び曳き行く荷の車|焼鍋《ランチウ》ならし甕《かめ》高く積む 泥濘《ぬかるみ》は薄日の土囲《どゐ》に片避《かたよ》けて人影|顕《た》つかそのほつほつに 寂びつくし楊《やなぎ》も土囲《どゐ》もあらはなりこの冬の日の道をひろふに 冬楡《ふゆにれ》にしらしらとある日の在処《ありど》土囲《どゐ》曲り来て我は仰ぎつ 黒豚の仔豚走り出《で》陽は寒し観音寺山の表《おもて》を来《く》れば [#改ページ] [#1字下げ]奉天南北[#「奉天南北」は小見出し] [#3字下げ]奉天北陵 鵲《かささぎ》の声行き向ふ北の晴《はれ》北陵《ほくりよう》の空に雲ぞ明れる 太宗文皇帝の陵《みささぎ》とふ北陵はけだし松の陵《みささぎ》 霊廟《みたまや》の南おもての日のあたり氷は池にかがよひにける 牌楼《パイロウ》の影は日向《ひなた》と閑《しづ》かなり狛犬《こまいぬ》が見ゆうしろなで肩 奉天北陵の壇道《だんだう》を踏みのぼり来てひえびえとよし春の松風 寒空《さむぞら》にい照り映《うつ》ろふ黄の甍《いらか》目もあやにしてここは霊廟《みたまや》 森ふかし対ひ衝立《ついた》つ石獣《せきじう》の影多くして音無かりけり 陵《みささぎ》のこの松かげに人をりて茶をたつる湯気のほのぼの寒し 風鐸《すず》の音《おと》四方《よも》に起りて春あさし隆恩殿に向ひて歩む 朱砂《すさ》の楼隆恩門に我が向ふ内庭《うちには》さむし斑雪《はだれ》吹く風 帝王のただに践《ふ》ましし玉《ぎよく》の階《きだ》我ぞ踏みのぼる松風をあはれ 丹《に》の柱《はしら》黄金甍《こがねいらか》の端《つま》にして寝陵《しんりよう》は見ゆ円《まろ》き枯山《からやま》 鳶の声澄みつつ舞へれ陵《みささぎ》の槐《ゑんじゆ》は枯れぬ墳《つか》に槐は 角楼は石階《いしきだ》狭《せま》し傍《わき》のぼる高壁《たかかべ》の内外《うちと》雪こごり積む [#3字下げ]瀋陽東陵 ひむがしのたふとき山の陵《みささぎ》の松|邃《ふか》きところ古《ふ》りし霊廟《みたまや》 陵《みささぎ》の山のおもての浅茅原《あさぢはら》いたくも荒れぬ松は邃《ふか》きを 松が枝《え》に粉雪《こゆき》ちらつく日の曇《くもり》何鳥か啼けりあはれ陵《みささぎ》 反《そり》高き磴道《とうだう》を来《く》る人ひとり東陵《とうりよう》はげに冬によき山 山水に青丹瓦《あをにかはら》ぞ古りにける美豆良《みづら》の唐子《からこ》描《か》かばこの前《まへ》 茶膳房雪ちらつけば鵲《かささぎ》の声うちみだり松に来《く》るかに 鵲の飛ぶ影見ればふりみだる雪おもしろし黒と白の翼《はね》 誰《た》がこもる庫裏《くり》の障子ぞ廂這ふ煙《けぶり》はしろしほのぼのの湯気 [#3字下げ]撫順 露天掘ま澄みか碧《あを》き空際《そらぎは》を音とどろきてまだ余寒なり 天を摩す鉄のパイプの太腕《ふとうで》に重油ながれ落つる音は聴くべし 三月は石炭壁に沁む雪の斑雪《はだれ》が碧し輸炭車湯気|噴《ふ》く 炭層《たんそう》に千歳《ちとせ》うづもる蓮の実も芽を吹き花の日に匂ふちふ 家の苞《つと》卵ほどなる大きなる瑪瑙の玉は妻に賜《た》ぶべし 青きもの摘む子らならし笊《ざる》寄せて石炭殻は指に掻き除《そ》く [#3字下げ]長春近づく 黒煉瓦焼く火の火口《ほぐち》夜は見えてけしきばかりを寒《かん》ゆるぶめり [#3字下げ]長春駅 日は黄なり屯積《とんづみ》高き豆粕に噴き立つる汽車の煙影引く 鉄の鑵《かま》の大き機関車まおもてを鐘うち振れり為すあるごとし 国際列車とどろ湯気噴く鑵鳴《かまなり》のじんじんと澄みて待つあるごとし [#4字下げ][#1段階小さな文字]移民の群[#小さな文字終わり] 曠野《あらの》行く四等車といふに面《かほ》群れて生きたかりける冬も頼《たの》めし [#改ページ] [#1字下げ]鵲と楡[#「鵲と楡」は小見出し] [#3字下げ]公主嶺 公主嶺馬駆る見れば裸馬《らば》にして著ぶくれの子が風あふり来る 寒々《さむざむ》と屯《たむろ》し移る羊にて端《はし》驚けば皆|騒《さわ》めきぬ [#3字下げ]汽車は北へ 旅人《たびと》我《われ》汽車の窓べを飛び過《す》ぐる木の葉のごとし風に追はれぬ 群れにけり曠野《あらの》寒きにぶしゆぶしゆと黒豚づれが土饅頭《どまんぢゆう》食む [#3字下げ]十三時 家の影隣に映り冬日なり表《おもて》しめたる村のひそけさ 端《つま》の反《そ》り同じ影もつ家どなり春先《はるさき》といふに寒き陽《ひ》にあり [#3字下げ]浮雲 [#1段階小さな文字]一間堡にて[#小さな文字終わり] 幽《かす》かに我は見るなり浮雲の二塊《ふたくれ》三塊《みくれ》野の空のはてに [#4字下げ][#1段階小さな文字]難民ならし[#小さな文字終わり] いづくへ行く群ならむ空低く雲黄なる野に人つづき見ゆ [#3字下げ]或る枯野 ただに見る影と日向の曠《ひろ》き野につづく楊《やなぎ》のすがれ木にして 冴えにけり楊《やなぎ》は玄《くろ》き根の土に春の温《ぬく》みの未《いま》だいたらず ちかぢかと我は眺むる野の日向遊ぶ唐子《からこ》の影走りをる [#3字下げ]冬楡 墨にして或《ある》は匂はむ枯山《からやま》の楡《にれ》のほづえの細描《ほそがき》の線 冬の楡の繁《しみ》みにほそき髪の毛は梳櫛の歯に梳《す》く細みなり 冬に観る楡の寒けき墨いろは毛描の線に描《か》かば描くべし [#3字下げ]冬楡 [#1段階小さな文字]その二[#小さな文字終わり] 冬楡《ふゆにれ》のしみみか黝《ぐろ》きほづえには鵲《かささぎ》らしき巣もあらはなり しばしばも見つつ越え来つ枯山《からやま》や楡《にれ》と楊《やなぎ》の寒き日の色 [#3字下げ]寒きびし 条《すぢ》ほそく隙《ひま》漏る冬の日の光鵲の巣は枝にこごれり 寒林《かんりん》に石廟《せきべう》小《ち》さきこのあたり糞叉子《フンチヤーツ》掻きて人暮れ早し 石壁《せきへき》の銃眼《じゆうがん》透《とほ》す空のいろ高粱稈《カオリヤンがら》は積みて冬なり 氷閉ぢきびしくしろき川ひとつただにかびろき枯原は見ゆ [#3字下げ]或る野の夕光 くだら野の窪処《くぼど》の氷ほの青し日の夕かげの近づきにけり 日おもてと家群《いへむら》なごむ畑なだり高粱《カオリヤン》の根はよく鋤きにけり 夕日照る枯山《からやま》なだり地に引きてその木がたもつ影のしづかさ 車挽きて騾《ら》と驢馬《ろば》と行くしづかなる夕かげの野に我も在るなり 夕光《ゆふかげ》の疎林におよぶ野の平《たひら》音きしませて行く車輛らし 平《たひ》らけく枯野《からの》に明《あか》る夕光《ゆふかげ》の遠及《とほおよ》びつつ寒しともなき 行くものの何とはなけれ移りゐてうらめづらしき夕光《ゆふかげ》のいろ 夕光《ゆふかげ》のかくうらなごむ枯野《からの》には色すらも声に顕《た》ちて匂はむ [#3字下げ]根黍 朝光《あさかげ》の此方《こなた》ゆ射せば縞目なす高粱《カオリヤン》の根は雪のごと見ゆ 畝竝《うねな》みの冬枯《ふゆがれ》根黍《ねきび》はてしなし夕かげ明《あか》く満ちにけるかも 落つる日に我がひた向ふ野の原は光しみつつすぐろなる土 朝出でて一往復《ひとゆきかへり》鋤くのみに日の赤く落つるここは大陸 地平より根黍鋤き来《こ》し大き人今|正面《まとも》なる入日に赤し [#改ページ] [#1字下げ]興安嶺を越ゆ[#「興安嶺を越ゆ」は小見出し] [#3字下げ]興安嶺を越ゆ [#4字下げ][#1段階小さな文字]落葉松[#小さな文字終わり] 興安嶺黒く繁《し》み立つ落葉松《からまつ》の林は寒し雲の上《へ》に見ゆ 雪の線|劃《かぎ》りて黒き落葉松の群落《ぐんらく》はよしほそき木の梢《うれ》 谿なだりしづもる雪の片空は木群《こむら》が黒しほそき落葉松 落葉松の木群《こむら》が梢《うれ》に立つ霧はかがよふ谿の雪解くるなり [#4字下げ][#1段階小さな文字]札蘭屯を過ぎて[#小さな文字終わり] 岩膚の岱赭に蒼む色見れば斑雪《はだれ》の雪解《ゆきげ》下滴《したた》りにけり [#4字下げ][#1段階小さな文字]山中[#小さな文字終わり] 興安嶺越えつつぞ思ふこの山やまさしく大き大き山脈《やまなみ》 日をつくし大き螺状《らじやう》にのぼるとき興安嶺は深しと思ひぬ [#4字下げ][#1段階小さな文字]白樺樹林[#小さな文字終わり] のぼり来て眼も澄みにけり雪の原に白樺の林しみみ光れり 谿《たに》の秘所《ひそ》雪の山原に細り立つ白樺の幹は光|発《さ》すなり 細木原しろく直立《すぐた》つ白樺の木はだは清し雪の上《へ》に立つ [#4字下げ][#1段階小さな文字]雪線[#小さな文字終わり] ここ過ぎて雪は空より新たなり山ぎはの線はいふばかりなし 北の秀《ほ》の雪に思へば霾《つちふ》らし低居《ひくゐ》る雲よ遠く来にけり 雪の襞《ひだ》眼もすさまじくなりにけり天《あま》そそり立つ黝《くろ》き岩角《いはかど》 山の秀《ほ》や真澄みて青く流れたる稜線《りようせん》の空を飛ぶ翼《つばさ》あり 春あさき黄と青磁との蒙古の市《いち》海拉爾《ハイラル》あたりよき気流なり 興安嶺くだりつくして野は曠し赤き落日《いりひ》に汽車はま向ふ [#3字下げ]哈爾賓《ハルビン》 [#4字下げ][#1段階小さな文字]松花江[#小さな文字終わり] 松花江《スンガリー》解氷《かいひよう》未《まだ》し橇にして船腹《ふなばら》赤き際《きは》まで馳《はし》る 松花江《スンガリー》の鱸《すずき》凍《こほ》れる春早き哈爾賓《ハルビン》の朝の市《いち》に行くなり [#4字下げ][#1段階小さな文字]太陽嶋[#小さな文字終わり] 霧ふかし頭《づ》よりかぶれる紅《あか》き布《きれ》牛乳の壺をかかへたるらし さすらへば命に換ふるなにものも売りつくしけりその愛《かな》しきを 詣づらく朝の弥撒《ミサ》にし毛の紅《あか》き産子《うぶご》抱《だ》き来て母貧しかり 太陽嶋夕づく塔に鳴る鐘の影ひたすらや振りにつつあり [#4字下げ][#1段階小さな文字]墓地[#小さな文字終わり] 露西亜びとは都大路の見とほしに先づ墓地を定め寺うち建てぬ 露西亜びとはみ墓楽しと花植ゑて日曜は来る椅子しつらへぬ [#4字下げ][#1段階小さな文字]キタイスカヤ[#小さな文字終わり] キタイスカヤ昼のほのほ[#「のほのほ」に傍点]と職待つと手斧《てうな》かたへに人い寝こけぬ 春早し何の刷毛《はけ》かも丈《たけ》なるを鳥毛と立ててベンチにはゐる 街の角冬は日向とひろげたる襤褸《ぼろ》のつぎはぎに老媼《おうな》らありき 脛《はぎ》の線颯々と行くいつくしき高踵靴《ハイヒール》見れば春早むなり [#4字下げ][#1段階小さな文字]旅情[#小さな文字終わり] 木製の羽《はね》折る黒き大鴉旅にし冬は買ひてかかへぬ 秋林《チユウリン》を出て来て思ふ露西亜の血と朝鮮とまじり少女なりにし [#4字下げ][#1段階小さな文字]流離[#小さな文字終わり] [#2段階小さな文字](白系露人のさまざまをまた)[#小さな文字終わり] 国破れ人はさすらふ毛ごろもの氷の粉屑《こくづ》吹きよごれつつ 凍傷《とうしやう》の膝に藁巻きゐざりける爺《をぢ》さが富める外套は見よ 酒みづき白髪《しらが》嫗《おうな》は前伏しにその戸の段《きだ》に白夜《はくや》こごえぬ 弾く手には破《や》れ手風琴も鳴るらめど盲目《めしひ》眼は開《あ》かず白夜《はくや》昼ならず [#3字下げ]松花江支流 橋がまへとどろ退《そ》くまもしづかなりわが汽車ゆ見る結氷《けつぴよう》のいろ 声はして夜の汽車の外《と》に消えにけり今|発《た》ちたるは蔡家屯ならむ [#改ページ] [#1字下げ]沙漠の移動[#「沙漠の移動」は小見出し] [#3字下げ]四平街 聞くだにも寒き鴉のま冬には空うづむとふ街に見あげつ 我が聞きて声泣くごとし夜酒|欲《ほ》る自《し》が外《ほか》にまた影もあらぬを 声|荒《あら》ぶ幌馬車《マアチヤ》疾駆し星近し三寒《さんかん》にしてひびく暁 [#3字下げ]鄭家屯郊外 外蒙古西吹きあげて東する沙漠の大き移動をぞ思ふ [#4字下げ][#1段階小さな文字]註、蒙古の沙漠は東へ東へと移動しつつありと云ふ。[#小さな文字終わり] み冬の夕かげあかき砂《すな》の原|空眼《そらめ》薄らに駱駝来れり 蒙古びと駱駝追ひつつ夕べなり早駈けに乗る驢馬の後尻《あとじり》 霾《つちふ》らす黄沙《わうさ》の平《たひら》ただならず日は朱《あけ》に澱《をど》み蒙古犬吼ゆ [#4字下げ][#1段階小さな文字]註、霾るとは遠く沙塵の黄濁するを云ふ。[#小さな文字終わり] ひた駈けに黄沙《わうさ》の原を乗り進む蒙古の騎馬は後《うし》ろ見ずけり 毛ぶかくて両《もろ》の耳蔽ふ蒙古帽彼ら怖れずその眼の光 黄沙《わうさ》の原騎馬走る見ればおのづから直《ただ》に専《もは》らに道とほりけり 蒙古児《モンゴル》陀羅海《トルカイ》低き沙丘の起臥《おきふし》の涯《はて》しもしらね草枯れにけり 蒙古風吹きもつくすか石積みて山はただ一つ低きオボ山 眼を放つ草原《さうげん》の枯れ涯《はて》もなし牛跳躍す落つる日の前 放射光《はうしやくわう》日は金色《こんじき》に凪ぎにけり地平に寒き梢《うれ》の冬楡 未開放地《みかいはうち》目も遥かなり牛馬豚羊まさしく小さくい群れ移ろふ [#ここから1段階小さな文字] [#ここから4字下げ] [#ここから25字詰め] 註、未開放地とは蒙古の主権を以て、未だ他国人(支那人をも含む)に開放せざる土地なり。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] [#4字下げ][#1段階小さな文字]行く行くに一つの部落あり[#小さな文字終わり] 真名井《まなゐ》わく沙漠のかげのひと屯《たむろ》ただにあはれに家居しにけり [#4字下げ][#1段階小さな文字]宿舎にて[#小さな文字終わり] 鄭家屯落つる日赤し畳にはざらつく砂の数光りつつ [#3字下げ]傳家屯にて 傳家屯《フウカトン》夕かげ暗し地に低き土の家群《やむら》の煙あげつつ [#3字下げ]赫爾洪得 赫爾洪得《ハラハンテ》夕日の照りにうつら出て駱駝|黙《もだ》居り高き砂山 [#4字下げ][#1段階小さな文字]蘇支交戦の直後なり[#小さな文字終わり] 赫爾洪得《ハラハンテ》廃墟の窻に見とほして落日《らくじつ》赤し汽車はひた行く [#3字下げ]地平の落日 此所《ここ》にして地平は高しはろばろに雲居垂れたり日の落つる雲 雲かとも山かとも思ふ地の黝朱《うるみ》蒙古は曠《ひろ》し日も落ちはてぬ 雁《かり》わたる青磁の透る空のみぞ地平に残り砂山《すなやま》暮れぬ 外蒙古雪のこるらし秀《ほ》に浮きて遥けき山は島のごと見ゆ [#3字下げ]砂丘つづく 砂窪に泡だちしるき雪のいろ夕光《ゆふかげ》にして今は解けつつ 柔らかと砂山の雪の薄ねずみ夕棚雲《ゆふたなぐも》の色ふくみゐる 砂窪に火照《ほで》り沁み入る日の暮は眼をつぶるまもけだし匂へり [#3字下げ]塩包 影ここだアンペラ小積《こづ》む塩包《しほづつみ》いま逆光に赤き日はあり [#3字下げ]満洲里 [#4字下げ][#1段階小さな文字]風車丘[#小さな文字終わり] 蘇満国境春冴えかへり砂山の低山《ひくやま》斑雪《はだれ》また吹き曝《さ》れぬ 満洲里《マンチユリイ》風車《ふうしや》片破《かたや》れ吹き曝《さ》るる残雪《ざんせつ》の丘に寒《かん》ぞきびしき 砂寒き低山《ひくやま》の裾を来《く》る駱駝|後先《あとさき》の影が夜明《よあけ》いばえつ 暁星《あかぼし》や上眼《うはめ》駱駝はみ冬月|庫倫《クーロン》よりかもこりもこり来《こ》し 風車丘《ふうしやきう》ここにし立てば西伯利亜の低山つづき雲こごる見ゆ [#4字下げ][#1段階小さな文字]駱駝の宿[#小さな文字終わり] 内蒙古春おぼろならず早やい寝て駱駝が宿は月に鎖《さ》したり 駱駝づれ月夜寒きに膝折りて高粱稈《カオリヤンがら》の下ひびくらし 影|多《さは》に瘤ある駱駝膝は折りいづ方となき上眼《うはめ》してあはれ [#改ページ] [#1字下げ]南満春来る[#「南満春来る」は小見出し] [#3字下げ]吉林 旅にして春塵《しゆんぢん》しげししばしばも熱きしぼりに面《かほ》をあてつつ ([#割り注]二首汽車の中にて[#割り注終わり]) 熊出でて昼立ち歩《あり》く森の街《まち》敦化の雪も春は解《と》けなむ 漣や筏を洗ふかがやかし解氷期近き松花江《スンガリー》見ゆ 流氷《りうひよう》に添ひつつ笑ふ漣の春かがやかに果しらぬなり [#4字下げ][#1段階小さな文字]北山にて[#小さな文字終わり] 春霞むここに花咲き我が居らば武陵《ぶりよう》桃源《たうげん》の思あるべし 北山《ほくざん》はのどけきみ山まろ山の低山《ひくやま》よろひ匂よき山 風の音|喇嘛《ラマ》塔の背に起りしが春山なれや照りつつ止みぬ 昼霞|青丹《あをに》瓦のしづもるは春山ゆゑにかがやかにして [#4字下げ][#1段階小さな文字]旅舎[#小さな文字終わり] 旅やどり匂やかなる窻の外《と》の夕かげは見て何をとも待つ [#4字下げ][#1段階小さな文字]三人の満人の姿夢に襲ふ[#小さな文字終わり] 幽魂《いうこん》の来り哭《な》くなる夜のほどろ春寒《はるさむ》にしも酒やさめにし [#3字下げ]南満春来る [#1段階小さな文字]吉林長春間[#小さな文字終わり] 飲馬江《インマホウ》その水のべに飲む馬の白きが匂ふ霞となりぬ 雁《がん》の群今かへるらし雪のこる遠山《ゑんざん》の空をわたりて過ぎぬ 榑挽《くれひき》は反《そ》るとかがむと手もゆたに大鋸《おが》の長柄《ながえ》を対《むか》ひ揺り挽く 木叉子《ムウサアシ》頬にあてて佇《た》つ藍の服木根にも春はかがよふらしき 氷解け春の池塘《つつみ》は遠目にも漣の刻み一面なれや 春いでてこぞり耕す鍬の刄《は》は漣なしてかがやき連れぬ 春昼《しゆんちゆう》や根黍かがやき黒豚の仔豚連れ走りよき霞なり 春は今農用馬車の野に見えて二頭三頭四頭早や前駆けぬ 見てよきは春の広野に輝きて耕馬《かうま》がたもつ揃ふ足竝 [#3字下げ]春夕 土糞《トオフイヌ》掻きほけくらす人居りて春あたたかき夕光《ゆふかげ》珍《めづ》ら 春ゆふべ野焼の跡に佇める白き馬見れば尾に遊ぶかに 春の野は唐子《からこ》抱《いだ》ける母も出《で》て夕陽こもれるよき空気なり 春夕《しゆんせき》はひとり野《の》歩《あり》く馬をりておのづから帰る道知るらしき 早や点《とも》し物恋《ものこほ》しかる灯《ひ》のいくつ満洲にして春は幽《かす》けき [#3字下げ]本渓湖 天霧《あまぎ》らし降る雪見れば鵲や早や群れ飛び来《く》いづこよりとなく 鵲は雪ふり乱る空にして色まぎれなし飜《かへ》り羽《は》ばたく 春雪《しゆんせつ》のひと降りゆゑに飛び乱る鵲の羽もつやに顕《た》つめり 本渓湖影清らなり春雪《しゆんせつ》の後冷《あとびえ》にして空の晴れたる [#3字下げ]五竜背 衣《きぬ》そそぐ水にかあらし芽楊の外面《そとも》光りて波紋のみ見ゆ 疲れけりとろむ蛙の音《ね》は聴きて五竜背《ごりゆうはい》温泉にどかと足投ぐ 田は鋤きてまた冷《ひ》えたらし土の端《は》に斑雪《はだれ》の色の明れる見れば [#3字下げ]国境の春 解氷《かいひよう》の渦巻きすごき黄の濁り鴨緑江はむべ大河なり 一夜《ひとよ》に春いたりけむありなれ河《がは》氷張り裂けてとどろきにけり 鴨緑江照りひろびろしあきらかに流氷《りうひよう》を追うて材《き》を流すなり 鋼橋《かうけう》の遠き正面《まとも》ゆ来《く》る子らが衣手|紅《あか》し目に近づきぬ 春まさに国の境《さかひ》の大き河氷とどろけば冬果てしなり [#3字下げ]遼陽の春 春霞む白塔《はくたふ》ならししらしらと我が見る方に今ぞ見えつつ [#3字下げ]湯崗子の春 湯崗子遠く来りてあはれあはれ鴛鴦《をしどり》の湯にひとり浸るも うちこぞり湯《ゆ》川にとろむ蟇《ひき》のこゑおろかながらに春ぞふけたる 娘々廟《ニヤンニヤンメウ》かすむ日|紅《あか》し見て居りてここらは低きいくつ枯山《からやま》 鞍山《あんざん》はまことよき山よく枯れてよき鞍型の春さきの山 [#3字下げ]金洲を過ぎて 大和尚山ねもごろ霞む麓べは春かたまけて紅梨《ホアンリイ》の花 [#3字下げ]旅終る 山すそに桃の花さく大和路に茫漠とありし我が旅果てぬ [#改丁] [#ページの左右中央] [#5字下げ][#中見出し]夢殿[#中見出し終わり] [#改ページ] [#ページの左右中央] [#ここから1段階小さな文字] [#ここから5字下げ] [#ここから25字詰め] 昭和三年初冬、国醇会の一行と正倉院拝観に赴く。その所産、「春日の鹿」「正倉院御物抄」。 翌々五年春、満蒙旅行の帰途妻子と奈良に遊ぶ。その所作、「奈良の春」。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] [#改ページ] [#1字下げ]春日の鹿[#「春日の鹿」は小見出し] [#3字下げ]三笠山 まとに見る三笠の山の朝霧はまさしく寒し奈良に来てあり 三笠山冬来にけらし高々と木群《こむら》が梢《うれ》をい行く白雲 鳥毛雲《とりげぐも》風吹き乱りみ冬なり三笠の山のここや裏岨《うらそば》 [#3字下げ]正倉院前 朝ぼらけ春日野来れば冬木には二段《ふたきだ》白く霧ぞ引きたる 森の手に寒き校倉《あぜくら》足|騰《あが》り正倉院は今ぞ大霜 [#3字下げ]春日神社 山茶花の朝霧ゆゑに傍《かたへ》行く鹿《か》の子の斑毛《まだら》いつくしく見ゆ 耳朶《みみたぶ》の中白《なかじろ》の鹿子《かのこ》雫して朝見あげゐる山茶花の霧 [#3字下げ]公園 頼めなく夕かがやかし神無月《かみなづき》わかくさ山の日あたりのいろ つれづれとつくばふ鹿のいくたむろ夕光《ゆふかげ》の野にあらはにぞ見ゆ 鹿のかげほそりと駈けて通りけりかがやき薄き冬の日の芝 冬薄日うらなく遊ぶ鹿の子のうしろ蹤《つ》きつつ我も寒かり [#3字下げ]二月堂 二月堂つくばふ鹿のつれづれと目も遣るならし寒きこの芝 秋の鹿群れゐ遊べど寄り寄りに立つもかがむも角無しにあはれ [#3字下げ]猿沢の池 冬ちかき池のほとりの夕日向うつらとどまり鹿ぞ立ちたる [#3字下げ]春日野 夕日洩る木の間に見えてかぼそきは連なき鹿の影ありくなり 鹿のこゑまぢかに聴けば杉の間《ま》の一木《ひとき》の黄葉《もみぢ》下明るなり 群の鹿とよみ駈け来る日の暮をひたととどまり冬は幽けさ 春日野の夕日ごもりとなりにけりさむざむと立つ鹿の毛の靄 [#3字下げ]夜の小路 いつまでかもとほる鹿ぞ夜の街《まち》の家竝《やなみ》の庇霜くだるなり 庇間《ひあはひ》や奈良の夜ふけに顕《た》つ影の大きなる鹿のもそと来てあり [#3字下げ]池をへだてて 猿沢の柳の眺めさびにけり余光|暫《しば》ある興福寺の塔 池向ひ築地《ついぢ》に明る冬の陽《ひ》のけ寒き下坂《くだり》鹿|歩《あ》りき見ゆ [#改ページ] [#1字下げ]正倉院御物抄[#「正倉院御物抄」は小見出し] 鳥頭《とりがしら》漆胡瓶《うるしのこへい》かすかなりしろがねの鏁《くさり》うつつにぞ曳く 臈纈《らふけち》の花文《けもん》の象《ざう》はましろくてただに浄《きよ》らの命|寂《さ》びたり [#5字下げ][#1段階小さな文字]鳥毛立女屏風 一首[#小さな文字終わり] 樹の下《もと》に出《い》で立つ女《をみな》丹《に》の頬《ほ》して陽《ひ》は豊かなる香《かぐ》はしき空 ほのぼのと貴き昼は我が入りて宝蔵の古りし墨に思はむ 金銅《こんどう》のこごる鳥首《とりくび》水瓶《みづがめ》の口ほそうしてみ冬なるなり 雑塵《ざつぢん》の遠世《とほよ》の裏《つつみ》うち透かし吾れ命あれや光り息づく をとめ子の紅牙《こうげ》の尺は花鳥《はなとり》の目もあてにして稚《をさな》かりけり 黒柿の蘇枋の絵箱|山水《やまみづ》のながらふる音はしろがねに描《か》く [#改ページ] [#1字下げ]奈良の春[#「奈良の春」は小見出し] [#3字下げ]法隆寺にて [#ここから1段階小さな文字] [#ここから5字下げ] [#ここから25字詰め] 四十日にわたる荒涼たる我が満蒙の旅は、寧ろこの法隆寺を美しく見むためなりしが如し。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 日の照りて桜しづけき法隆寺おもほえば遠き旅にありにき 朱砂《すさ》の門春はのどけし案内者《あないしや》の煙管くはへてつい居《ゐ》る見れば 春日向人影映る東院の築地《ついぢ》がすゑに四脚門見ゆ [#3字下げ]夢殿 菫咲く春は夢殿日おもてを石段《いしきだ》の目に乾く埴土《はにつち》 夢殿に太子ましましかくしこそ春の一日は闌《ふ》けにたりけめ 夢殿や美豆良《みづら》結ふ子も行きめぐりをさなかりけむ春は酣《たけな》は 日ざしにも春は闌《た》くるか夢殿の端反《はぞり》いみじき八角円堂 [#3字下げ]春日神社 馬酔木《あしび》咲く春日の宮の参《まゐ》り路《ぢ》を蝙蝠傘《かうもり》催合《もや》ひ子ら日暮なり 夕寒き庇のつまに影あるは燈籠吊れり雨のふりつぐ 春日の夕闇の廻廊《わたり》行くほどはほの明《あか》りありて霧の春雨 梛《なぎ》の葉にふる雨見ればしらしらと含《ふふ》む馬酔木《あしび》も夜の目には見ゆ [#3字下げ]大仏 [#5字下げ][#1段階小さな文字]灌仏会に参りあはせて[#小さな文字終わり] 大仏殿にほふ霞の外《と》に据ゑて灌仏堂は小さき花御堂 [#改丁] [#ページの左右中央] [#5字下げ][#中見出し]浜名の鴨[#中見出し終わり] [#改ページ] [#ページの左右中央] [#ここから1段階小さな文字] [#ここから5字下げ] [#ここから25字詰め] 昭和七年十月、遠州浜名湖畔鷲津に遊ぶ。「浜名巡航」「本興寺林泉」成る。 翌八年一月再び鷲津の本興寺を訪ふ。「続本興寺林泉」「白須賀」続いて成る。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] [#改ページ] [#1字下げ]浜名巡航[#「浜名巡航」は小見出し] [#3字下げ]鷲津より 冬すでに雲は低きを船立ててうち出《で》来にけりひびくみづうみ [#4字下げ][#1段階小さな文字]館山寺内外[#小さな文字終わり] 館山寺《くわんざんじ》松山|穏《おだ》し湖《うみ》を来てここは小春の入江さざなみ 秋晴の入江の水戸のさざらなみ鷹一羽来り屋《や》の上《へ》にはをる この船をすでに追ひぬきうち羽振《はぶ》く鷹いさぎよし西北《にしきた》の晴 [#4字下げ][#1段階小さな文字]引佐細江[#小さな文字終わり] 奥の瀬の引佐細江《いなさほそえ》の冬水照《ふゆみで》り船入り進む音はじきつつ [#4字下げ][#1段階小さな文字]波切といふところにて[#小さな文字終わり] ほの寒き鹹《しほ》と淡水《まみづ》の落合は蛤の渚《す》もあはれなるべし [#3字下げ]浜名の湖 遠つあふみ浜名のみ湖《うみ》冬ちかし真鴨《まがも》翔《かけ》れり北の昏《くら》きに 冬いまに居つく秋沙鴨《あきさ》か波切の汭渚《うちす》の潟に数寄る見れば 冬の湖《うみ》に見てゆく鴨の沖べにはつぶつぶとひたり羽音すらなし 風や冬とよみ飛び立つ大族《おほやから》総立《そうだ》つ鴨の羽ばたき凄し すれすれに波の面《も》翔《かけ》るひと列《つら》はすべて首伸べぬ羽ばたく青鴨 羽ばたき頻りにして鎮《しづ》もらぬかなや立つ波を北へ翔《かけ》る鴨南へ来《く》る鴨 乱り立つ鴨の羽音の高処《たかど》にはすでに幾羽か小さく飛ぶ影 [#改ページ] [#1字下げ]本興寺林泉[#「本興寺林泉」は小見出し] [#ここから1段階小さな文字] [#ここから5字下げ] [#ここから25字詰め] 鷲津の本興寺は法華宗の古刹にして、その林泉の幽寂なる、譬ふべきなし。池にのぞみて、懸樋あり。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] [#3字下げ]所望されて、一首 水の音ただにひとつぞきこえけるそのほかは何も申すことなし [#3字下げ]林泉を、また 水の音聴きつつをればこの林泉《しま》に満つるこほろぎの声もしづけき 蓮の葉の水に影おとすうしろには低き土橋《どばし》ありて榑《くれ》の橋桁 このごとき閑《しづ》けき林泉《しま》の日あたりはただに眺めて坐りてをあらむ 物寂びてなにか豊《ゆた》けきここの林泉《しま》よく聴きてあれば朝はしづけさ 朝曇うち対《むか》ふ山の後空《あとぞら》も眼にしたしかり鴨の飛ぶ影 本興寺の庭はこれかとさもこそと観てを居りけり十月末なり [#改ページ] [#1字下げ]続本興寺林泉[#「続本興寺林泉」は小見出し] [#3字下げ]山内 高野槙|喬《たか》く竝《な》み立つ冬の晴《はれ》君が御山にのぼり来にける [#1段階小さな文字](日瞻上人に)[#小さな文字終わり] 夕《ゆふ》早き庫裏《くり》のはひりは日たむろと築地《ついぢ》めぐらして朱《あか》き中門《ちゆうもん》 [#3字下げ]懸樋の音 水の音ただにひとつぞきこえけるふたたび籠りみ冬にぞ聴く 水の音まさにひびけり聴きてゐて夕かげ近き冬のこの林泉《しま》 池の面《も》に落ちつつとほる水の音|懸樋《かけひ》は冬のものにぞありける 樋《ひ》より池に落つる清水《しみづ》の音にしてひとところただにうち凹めつつ [#3字下げ]林泉矚目 さむざむと石《いは》に映《うつ》るはみ冬づく水の影ならむ観つつ幽けき 刈りこみて段《きだ》おもしろき細葉槙《ほそばまき》ふゆの日ざしのあたるともなし 群葉《むらば》張る蘇鉄のそよぎ今見ればひたとしづもり寒き日のいろ 鳥の羽の冬毛《ふゆげ》の雲ひとながれみづうみの方は空ぞ晴れたる 山茶花のはつかにのこる梢《うれ》のいろ面《おもて》冷えながら檜葉《ひば》と親しさ 土の橋かかり低きに糸檜葉《いとひば》のほそぼそと垂れてみ冬ありける 糸檜葉の垂《しだ》り枝《え》見れば汀《みぎは》にも夕光《ゆふかげ》および暮れがたみあり いづく洩る冬の日ざしぞ赤松のそこばくの幹いとど明れり 風さむく椎の葉さわぐ林泉《しま》の山や松の木立はこぼれ日のして 客殿の角型《すみがた》屋根にさすあかりつくづくとあふぐ西も寒かり 短日《みじかび》の寒きこずゑの後《のち》あかり鳶《とんび》くだり来《く》羽根|撓《たを》りつつ [#ここから1段階小さな文字] [#ここから5字下げ] [#ここから25字詰め] 俗に文晁寺といふこの寺には、文晁の四季の大壁画あり。就中春の絵ことにめでたし。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 春の山しづもる見ればおほどかににほひこもらひ墨の画《ゑ》の山 橋の上《へ》を友がり恋ふる人のかげ雪しろきゆゑに墨画おもしろ [#1段階小さな文字](冬)[#小さな文字終わり] [#3字下げ]余響 [#5字下げ][#1段階小さな文字]玉葉坊を俗に坂寺といふ[#小さな文字終わり] 坂寺の高垣見れば槙垣に山茶花まじりいつくしき靄 文晁|寺《でら》まかで来つつも犬の仔《こ》の戯むるる見ればこれも冬の画《ゑ》 常霊山本興寺より湖水に向ふひとすぢ道唐辛子赤く掛け干しにける [#5字下げ][#1段階小さな文字]近藤医院の横を過ぎて後に消息す、一首[#小さな文字終わり] 槙垣にまじりて赤き南天の二えだ三えだ目にしまつりぬ 岸寄りに湖《うみ》も暮るるか太郎鴨の首さし向けて浮くあはれなり きこきこと湖沿《うみぞひ》まがるひとくるま唐辛子積めり赤きその束《たば》 雪虫の飛びつつ曇る水の空雪にかもならむけだし幽《かす》けさ [#改ページ] [#1字下げ]白須賀[#「白須賀」は小見出し] [#4字下げ][#1段階小さな文字]遠州浜名郡白須賀[#小さな文字終わり] [#ここから3字下げ] [#ここから1段階小さな文字] 白須賀は昔の宿《しゆく》、 ただ白し、ものさびて、 その蔀《しとみ》、はひり戸、 なべてみな同じ障子。 ただわびし、軒竝《のきなみ》の 同じ型、 出て、はひる人すらや、 同じ影。 音も無し、なにひとつ、 埃づくものもなし。 草屋のみ、 弱き日のあたりたる。 いづこぞ遠江灘、 灘見坂ほどちかくて、 薄ら曇る低き空を 風も来ず。 冬ながら、その屯《たむろ》、 ほのなごむ家がまへ、 ここ過ぎて、きびしくも、 おもほえず、寒しとも、 白須賀は旧街道、 朱の鶏冠《とさか》ふりたてて 軍鶏《しやも》は居《を》れども、 そは暮のひとあかりのみ。 [#ここで小さな文字終わり] [#ここで字下げ終わり] とほつあふみ浜名の郡《こほり》日はぬくし坊瀬越え来てここは白須賀 おなじ冬おなじ蔀《しとみ》の日のあたり白須賀はよし古りし白須賀 ここ過ぎてなにか現《うつつ》のけほどさよ物はたく音も立ちて止《や》みたる [#改丁] [#ページの左右中央] [#5字下げ][#中見出し]富士五湖[#中見出し終わり] [#改ページ] [#ページの左右中央] [#5字下げ][#1段階小さな文字]昭和七年、妻子と共に晩秋の富士五湖に遊ぶ。[#小さな文字終わり] [#改ページ] [#1字下げ]富士五湖[#「富士五湖」は小見出し] [#3字下げ]山中湖 よく響く冬は暁ふる雨のただに一色《ひといろ》の音ぞ立ちたる うち黄ばむ落葉松《からまつ》見れば狭霧立ち氷雨《ひさめ》ひびかふ時いたりけり 山中湖あかつき近し落葉松や目もさむざむと向ふ雨霧《あまぎり》 針樅《はりもみ》に氷雨《ひさめ》うちひびきいさぎよしことごとの雨よすがしとを見む 暁《あけ》の雨冷えとほる玉の野葡萄《えびづる》のふたいろの玉は瑠璃よ紫 落葉松《からまつ》もしみみ黄葉《もみ》でぬ木《き》の立《たち》のまこと直《すぐ》なる繊《ほそ》き葉の神 冬向ふ繁《しみ》み落葉松《からまつ》氷雨《ひさめ》ふりいたもにじめり寒き落葉松《からまつ》 [#3字下げ]河口湖 鵜の島は紅葉しにける岩はなに兎出てゐてぬくとき秋や 鵜の島と舟子《かこ》が呼ぶなる湖《うみ》の島兎跳ねつつ鵜の鳥はゐず 湖《うみ》の島い照る紅葉に遊べるは耳|後《あと》へ垂れて番《つが》ひ野兎     § 秋の晴|湖面《こめん》にあそぶ紋白蝶《もんしろ》の影ひとつ見つつぽんぽん舟行く [#3字下げ]西湖 西湖の熔岩壁を立つ鳥の羽ばたきを聴けば間隔《かんかく》正し み冬づく西湖の鱸《すずき》よく冷えて釣られたりけり徹《とほ》る気先《きさき》に 西湖はしづかなる湖《うみ》瓦焼く煙《けむり》のぼりゐて秋の色あり [#3字下げ]精進湖 [#5字下げ][#1段階小さな文字]パノラマ台にのぼりて[#小さな文字終わり] 尻高に子が乗る後《あと》をその母と馬はすすめつよき紅葉なり ここよりぞ富士は裾野の見わたしと水照《みでり》しづけき四つの湖《うみ》見ゆ 青木|繁《し》む富士の裾原風|乱《みだ》り行きはしる雲の絶ゆるまもなし 雪の富士|秀《ほ》に現はるる立ち待つと将た寒けかり繁き天雲《あまぐも》 [#4字下げ][#1段階小さな文字]帰路湖畔にて[#小さな文字終わり] 精進湖雲あし赤く日暮なり写真とらすと家族《うから》馬|竝《な》む [#3字下げ]本栖湖 本栖湖《もとすこ》は奇《くし》ふる湖《うみ》、霧ふかく、水皺《みじわ》幽かに、青木立神さ びせす、渚ゆく人かげも見ず、風ふけばひろごる面《めん》の、 影《かげ》日向、黒くあかるく、をりをり映る。 [#3字下げ]同じく [#5字下げ][#1段階小さな文字]パノラマ台より俯瞰す[#小さな文字終わり] 本栖《もとす》の湖《うみ》かがよふ見れば水皺《みじわ》立ち霧ながれをり流るとなしに 本栖の湖雲|去来《ゆきき》してみ冬なりこちごちに光るしろがねの面《めん》 一色に幽《かす》けかるなり時じくをみづうみの面《めん》へ吹きおろす雲 雲の遠に南アルプスと思ふ雪かがやき列竝《つらな》み本栖湖暗し み冬の雲もこごるか我が湖《うみ》と木立神さび黒く隠《こも》らふ [#改丁] [#ページの左右中央] [#5字下げ][#中見出し]初夏北越行[#中見出し終わり] [#改ページ] [#ページの左右中央] [#ここから1段階小さな文字] [#ここから5字下げ] [#ここから25字詰め] 昭和四年六月、新潟、今町、国上、出雲崎各地に遊ぶ。吟懐三十四首。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] [#改ページ] [#1字下げ]初夏北越行[#「初夏北越行」は小見出し] [#3字下げ]新潟 夏すでに砂丘の光おぎろなし弘法麦の筆の穂のいろ 砂山の茱萸《ぐみ》の藪原夏まけて花了りけり真砂《まさご》積む花 海荒く砂丘のい照り涯《はて》し無し燈台が見ゆ赤き燈台 港には装《よそひ》ましろき船いくつ夏はさやかに雲流れ見ゆ [#4字下げ][#1段階小さな文字]松原、日光療院裏にて[#小さな文字終わり] 数珠茅《じゆずがや》に夕づく日ざし柔《やは》らなり穂のまだ伸びぬ青き数珠茅 [#3字下げ]北越沿線 挙《こぞ》り出《づ》るこの国原の田植どき植うるかぎりが田にとよみつつ 挙《こぞ》り出《で》て苗ひき植うる田植笠早やおもしろしうなかぶしつつ 日おもてのたも木に霧《き》らふ夏がすみ植うる田も見ゆ早苗田も見ゆ 山里は家の南の田竝びを皆出て居らし植ゑそめにけり [#3字下げ]今町郊外 弥彦《いやひこ》の夏山霞ただならず国上《くがみ》は末にうち低みつつ おほかたは田を植ゑ竝《な》めぬ道の手にたもの若葉の照り交《か》ふ見れば 赤々とこくれんぐわしの毛は垂れて田へ行く子らに朝そよぐなり [#4字下げ][#1段階小さな文字]註、こくれんぐわしは唐もろこしの方言。[#小さな文字終わり] [#3字下げ]国上行 草繁き山いくつある小峡《をがひ》とて蛙のこゑのよくひびきつつ 乙宮のおもての田居に鳴く蛙|日光《ひかげ》しづけき山片附けば かへるでのさ青《を》の明りにうつら来る植女《うゑめ》がひとりまろき菅笠 山方《やまかた》は国上《くがみ》へかかる道の端《は》にぬきて竝べぬ涼し早稲苗《わさなへ》 植ゑそめて山田の畔《くろ》の昼餉どき童《わらべ》らとよみ早やあがり来る あしびきの山田の田居に日竝《ひなみ》下《お》り隣り植ゑたり田竝びの友 あな清《さや》け小田の山田は植ゑなめて目にもみどりの風そよぐなり ゆきかへり見つつましけむ国つぶり揺りおもしろき田うゑ菅笠 ありやとも求《と》め来て思ふ道の端《は》に君が置きたる黒き鉢の子 [#4字下げ][#1段階小さな文字]五合庵の蹟にいたる[#小さな文字終わり] 国上山《くがみやま》のぼりつつ来し杉むらを松風の音《おと》ぞ吹きしづみたる 蔭山の夏の小峡《をがひ》の桐の花咲きにけるかも群杉が木間《こま》 国上《くがみ》の片山蔭の桐のはな遠く蛙の鳴くがしづけさ まさしく閑《しづ》けかりけり桐の花の咲きあかる上に松の音して 風そよぐ板屋楓《いたやかへで》の二三もとここの庵《いほり》も夏いたりけり 山かげの君がいほりの跡どころ楓《かへで》あかれり青蛙《おをがへる》鳴き 早稲田《わさだ》には雨けぶるらし真木山のこの見おろしも蛙鳴きつつ [#3字下げ]出雲崎良寛堂 出雲崎は良寛堂の夕つかた網かいひろげ人かがみ居《を》る 出雲崎夕浪|明《あか》し我がひとり君がみ堂に詣でゐにけり 一色《ひといろ》とうしろに蒼き夏の潮角の御堂はいつくしくして この御堂夕かげながら詣で来て廂のつまの反《そ》りのすずしさ この御堂夕照りあかし穏《おだ》しくはしづけさのかぎりたもちたらなむ 出雲崎この夕凪のはるかには日かげ現《うつ》しき佐渡ヶ嶋見ゆ [#改丁] [#ページの左右中央] [#5字下げ][#中見出し]木曾長良行[#中見出し終わり] [#改ページ] [#ページの左右中央] [#ここから1段階小さな文字] [#ここから5字下げ] [#ここから25字詰め] 昭和二年八月、一子隆太郎を連れて木曾川、恵那峡、養老、長良川等に遊ぶ。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] [#改ページ] [#1字下げ]木曾長良行[#「木曾長良行」は小見出し] [#3字下げ]犬山、白帝城 ちかぢかと城の狭間《さま》より見おろしてこずゑの合歓《ねむ》のちりがたの花 閑《しづ》かなる城とおもふをあはれなり日でりはげしく合歓《ねむ》ぞほめける 入母屋《いりもや》の甍ににほふ合歓のはな犬山の城は白く久しき [#3字下げ]鷹 蹴爪に岩角《がんかく》をつかむ鷹一羽その下《しも》つ瀬ぞ青《さを》に渦巻く 岩角《がんかく》に鷹|黝《くろ》くゐる夕焼がいつまでも見えてこの水早し [#3字下げ]犬山より木曾川を下りて 合歓《ねむ》の花移ろふ見れば夏川や河原のい照り時過ぎにけり 花火過ぎ水にただよふ椀殻《わんがら》は鳰の鳥よりなほあはれなり 水車|船《ぶね》瀬々にもやひて搗く杵のしろくかそけき夏もいぬめり [#4字下げ][#1段階小さな文字]笠松の四季の里にて[#小さな文字終わり] ふたいろの花さるすべりおほよそに月夜はしろしあかず遊ばむ 夏の夜は短き藤の実の莢《さや》のはつかに明けて風いでむとす [#4字下げ][#1段階小さな文字]雀のお宿にて[#小さな文字終わり] 松が根にそよぐ小萩のあはれさよ莚しき竝《な》め子ら昼寝《ひるい》せり [#3字下げ]恵那峡 こごし巌《いは》恵那金剛に涌く雲の照りしづかにて久しかりけり 堰《せ》きあまる水量《みかさ》梢をうちひたし空ちかづきぬ峡《かひ》のふところ 朴ならむ岩石層に吹きあつる風ことごとく光葉《てりは》飜《かへ》せり [#3字下げ]養老 [#1段階小さな文字]菊水楼にて[#小さな文字終わり] もてなしと杉の木群《こむら》に篝焚き渓流の音に添へにたりけり 開《あ》けはなちい寝《ぬ》るみ山の短夜は養老の滝の音しらみつつ [#3字下げ]長良 舟べりに羽ばたきあがる鵜の鳥を篝照らしておもしろき夜や 腰簑に風折《かざをれ》烏帽子《ゑぼし》綱さばく鵜匠は夏のものにぞありける 我が物とさばく檜綱《ひづな》のはらはらに鵜匠は鵜をぞ浅夜《あさよ》あつかふ 黒き鵜は嘴黄なりそち向きに水切りて羽うつ火映り見れば ほうほうと鵜を追ふ声の末消えて月の入るさの惜しき横雲 [#改丁] [#ページの左右中央] [#5字下げ][#大見出し]下巻[#大見出し終わり] [#改丁] [#ページの左右中央] [#5字下げ][#中見出し]童子群像[#中見出し終わり] [#改丁] [#1字下げ]成城学園を思ふ歌[#「成城学園を思ふ歌」は小見出し] [#ここから1段階小さな文字] [#ここから5字下げ] [#ここから25字詰め] 昭和八年四月、東都成城学園大いに紛擾す。その職員、父兄両派に分れ、抗争数月に及ぶ。教育界に於ける未曾有の不祥事なり。当時、隆太郎小学部六年に在り。篁子同じく二年に在り。即ち父兄たる故を以て、我が正しとする信念により行為す。抑〻この学園たる沢柳政太郎博士総長たり。小原国芳氏その初より主として参劃経営するところなり。同博士死後、新総長小西重直博士の下に校長小原氏専らその経綸を尽す。この年初夏、総長の辞任と共に、つづいて校長を引責せしむ。その理由とするところまた故なきにあらざるべきも、小原氏に対するその道を失し、遂に教育の本義を誤る。我が立ちたる所以なり。録長歌四首短歌八十八首。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] [#3字下げ]雑草に思ふ [#1段階小さな文字]序歌[#小さな文字終わり] 荒地菊《あれちぎく》花咲きほこる道の端《はた》子を思ふ父の濃き影|佇《た》ちぬ 竹煮草《たけにぐさ》粉《こ》にしろくふくこの日でり堪ふべしや我も省《かへり》みなむとす 相憎む輩《ともがら》がうへに思ひいたりしみじみとあり日の照る庭に この原や草深百合《くさぶかゆり》の草ぶかに匂ひこもらひ昨《きそ》はありにし ([#割り注]沢柳先生を憶ひて[#割り注終わり]) 成城学園また子ら行かず雑草《あらくさ》の花咲きほこり早や文月《ふづき》なり [#3字下げ]小原校長送別会 [#ここから1段階小さな文字] [#ここから5字下げ] [#ここから25字詰め] 四月某日、荒涼たる校長送別会なるもの開かる。父兄その理由を知らず。ただ一部の理事及び財団の刻薄に驚く。蓋し直感すること深し。挙り起ち遂に流会す。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] ひと鉢の草の花だにすゑなくに昼|冷《すさ》まじく師を儺《やら》ふとす 追ひ儺《やら》ふ下心《した》はさもあれやいふ言《こと》は皆うやうやし聞きのよろしさ 事はてむ憤《いきどほ》らくも現《うつつ》なり父母よ見よこは正眼《まさめ》なり [#3字下げ]母の館 [#5字下げ][#1段階小さな文字]母の館は児童の母たちの建設するものなり。感慨深し。[#小さな文字終わり] 母の館《くわん》窻は開けど照る月の来り坐らむ椅子ひとつ無し [#3字下げ]母の館父兄会 [#5字下げ][#1段階小さな文字]父兄遂に立つ、四月三十日なり。[#小さな文字終わり] 言挙《ことあ》ぐと胸ぞ迫りて泣きにける父と母の声はみな誠なり 空見つつ何の言葉ぞ手ぶりよく説きは巧めど胆《きも》に響かず [#1段階小さな文字](長田博士に)[#小さな文字終わり] [#3字下げ]小学部 [#ここから1段階小さな文字] [#ここから5字下げ] [#ここから25字詰め] 五月十二日、小学部職員、父兄を招集し、その態度を声明す、一に結束固し。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 一に成城教育の精神をうち建つるもの小学部なり我疑はず 上衣《うはぎ》ぬぎ汗みづくなれやかく歎きしかく言挙《ことあ》げ君ひたすらに ([#割り注]内田訓導[#割り注終わり]) いふ言《こと》は拙けれどもひたおもて眼は輝けり下心《した》哭《な》けるなり ([#割り注]斎田訓導[#割り注終わり]) [#3字下げ]我が子 子の太郎声はあげつつ帰りたり我が先生を正しと言ふなり 我が太郎まこと直《すぐ》なりや幼なくもただに師を見る眼はまじろがず 心よりその師よしとし疑はぬこのをさなさに父我泣かゆ [#3字下げ]我が立つは [#ここから25字詰め] 此の立つは私《わたくし》ならず、人ひとり守《も》るとにあらず、皇国《すめぐに》をただに清むと、正しきにただに反《かへ》すと、心からいきどほる我はや。まさやけき言立《ことだて》か彼《か》は、ゆるすべき邪《よこしま》か其《そ》は、己《おの》が子のためとは言はじ、すべて世の子らをあはれと、胸張り裂くる。 [#ここで字詰め終わり] [#4字下げ][#1段階小さな文字]反歌[#小さな文字終わり] この道よただにとほれりこごしくも敢てい行くに何かはばまむ [#3字下げ]正しきを [#ここから25字詰め] 正しきを正しとせずば、照る日さへ子ら疑はむ。まさやけき明《あか》しとせずば、かぎりなく澄む月にすら、闇かとも子らはまどはむ、安寝《やすい》しなさね。 [#ここで字詰め終わり] [#3字下げ]母の館父兄大会 [#ここから1段階小さな文字] [#ここから5字下げ] [#ここから25字詰め] 五月十四日、母の館に再び父兄大会を開かむとす。事前三沢校長の命により、その扉に釘うつ。後漸く開会す。小原前校長来り初めて辞職事情を釈明す。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 声絶えて道に言はずも父母の子を思ふ誠ただにとほらむ 人の子は棄てて清くば道芝の塵だにも如《し》かず風の埃に 多摩川にさらす調布《たづくり》さらさらに何ぞさらりと棄てて去りにし この子らぞ父よ還《かへ》れと祈るなる還り来ませや何も言はずて [#3字下げ]この子ら [#ここから1段階小さな文字] [#ここから5字下げ] [#ここから25字詰め] その後、紛糾、遂に休校令下さる。而も学生は皆登校し、自学自習すること常のごとし。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] この子らを見つつ歩《ある》けば地は灼《や》けていや日は暑し影がしるしも この子らがボールかつとばす音さへやま空にひびき痛々《いたいた》し我は ほがらかに子らはあるべし畏《おそれ》無く心揺り遊び常すこやかに きびしく今は鍛へむ事しあるかかる日にこそ光るべきなれ [#5字下げ][#1段階小さな文字]女学生自学、自ら出て体操す。[#小さな文字終わり] 馬鈴薯のうす紫の花ゆゑにわづかに堪へて子らは足踏む [#3字下げ]反動の教員たちに [#5字下げ][#1段階小さな文字]何ぞ、暴動もせざる子弟をば師を脅迫せりと誣ふる。[#小さな文字終わり] 日のもとに父打つおのが子らありと悲しみてよき空もあるらし 道は説け言《こと》は繁くもしかれども生《いき》の命に触るる無くば如何に [#3字下げ]真実を観よ [#5字下げ][#1段階小さな文字]事はただに単純なり、学園のこの空を見よ。[#小さな文字終わり] 雲《くも》しろくいゆきわたらふ夏の空|松蝉《まつぜみ》の声ぞここにしづけき 誠あらば神も哭《な》くべしこの声やしづかにはあれど父の声なり この子らは共に遊ぶを遊ぶ無しその母と母の何憎みする [#3字下げ]六月三日 [#ここから1段階小さな文字] [#ここから5字下げ] [#ここから25字詰め] 長き休校の後、この日連袂辞職したる三沢校長初め三十数名の高等及び中学部の職員たち乗り込み来る。前警視総監長岡隆一郎氏校長室にありて何事かを指揮したるものの如し。私服正服の警官四十数名監視、反小原派の帝大教授、その夫人、竝に父兄等活躍す。あはれ学園も末なるかの如く感ぜらる。かくひたざまに自由教育を善からずとするこの圧迫は如何。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 何すとかここにわが来《こ》しこの父は子を思ふゆゑに寄るべなく来し 手を面《かほ》に涙もろなるこの爺《をぢ》さ父なるならしとみに老いにけり [#1段階小さな文字](奥田老)[#小さな文字終わり] 夏|旱《ひでり》子を思ふ母の戸に立つと寄り寄りにゐて泣きもあへなくに 子の母ぞ照る日|明《あか》きにかくばかり行きもまどひぬ面《おも》ほそりして 子の母の今のなげきは道芝の照る日に萎《な》えて地《ぢ》しばりの花 [#3字下げ]ある日の朝礼 [#ここから1段階小さな文字] [#ここから5字下げ] [#ここから25字詰め] 三沢校長脱帽せず、而も国家合唱の半に、中止を命じ、タクトを揮へる指揮者杉先生を壇上より突き飛ばす。「非国民」の声起る。合唱なほ粛々たり。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 国の歌君が代歌ふしづかなるこのひとときは譬ふるものなし [#3字下げ]三沢校長辞職 よしなき言立《ことだて》やげに退《ひ》くにさへ何か一言《ひとこと》は言はねばすまず 潔き人は退《ひ》くべし棄てざまに吐き棄つる言《こと》は蓋し徹《とほ》らず [#3字下げ]三会堂にて [#5字下げ][#1段階小さな文字]最後の父兄大会なり。[#小さな文字終わり] ひたおもて君が直《すぐ》なる言挙《ことあげ》は聴《きき》いさぎよし心に徹《とほ》る [#1段階小さな文字](加納子爵)[#小さな文字終わり] 涙共に下るこの声この子らぞ愛《かな》しとは思《も》へ亦聴き難し [#1段階小さな文字](学生委員)[#小さな文字終わり] [#3字下げ]ある夜の父兄実行委員会 [#5字下げ][#1段階小さな文字]経過深憂に堪へず、奔命に疲る。[#小さな文字終わり] 我《われ》に無し日はも夜も無し心ぐくただに思ふは子らが額髪《ぬかがみ》 事しありて君とこそ行け我どちは音|清々《さやさや》し響かひ行かむ ([#割り注]加藤武雄氏に[#割り注終わり]) 夜のほどろ疲れ帰りて力無し山方《やまかた》早く蝉の啼くもよ 夜の田には蛙ころろぐ聴けよ聴けよあはれなるものは声ころろぎぬ [#3字下げ]師を売る者 [#ここから1段階小さな文字] [#ここから5字下げ] [#ここから25字詰め] 小原氏遂に告訴さる。その告訴の主は某氏なれど、その策謀の何れにあるかは歴然たり。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 日は照るを将た安からし師と頼む市に引き出て早や放《はふ》り売る 夏早やも棘に花さく覇王樹《さぼてん》の琉球びともすべなかるらし ([#割り注]某々両先生に二首[#割り注終わり]) 国びとは心|直《すぐ》なり梧桐《あをぎり》の青一色に表裏《おもてうら》も無し その子らはかくも歎くを石うつと師父《ちち》なる人を将た縛《いま》しめぬ [#5字下げ][#1段階小さな文字]この憤りを、四首[#小さな文字終わり] 焼き鉄《がね》よはやるひづめに蹄鉄《かね》うつと己《し》が踝《くるぶし》も火もて焼きそね 眼の白き生《なま》の鰯は簀《す》に竝《な》めて日乾《ひぼし》あまぼし串に刺せちふ 鈎爪《かぎつめ》の脊骨曲りが鈎形《かぎなり》に歩《あり》きはらばひ石の下掘る 陰《かげ》ふかき醜《しこ》の土竜《もぐら》が土《つち》やぐらたたきうちこぼち日に曝《さら》すべし [#5字下げ][#1段階小さな文字]職員某々氏も亦他の職員を訴ふ。[#小さな文字終わり] 朝なさな机ならべてありけらし今|譏《そし》り合ひて子ら教へをり [#5字下げ][#1段階小さな文字]告訴せられたる榎本、福上、小野三氏謹慎を命ぜらる。[#小さな文字終わり] 何頼め降らす石かも草ごもり家居る際《きは》は香すらえ立てず [#3字下げ]風に立つ [#5字下げ][#1段階小さな文字]心弱き職員たちに[#小さな文字終わり] [#ここから25字詰め] 腰弱のへろへろ、正しきを何なづむ。骨無しのとろとろ、立つべきを何|呆《ほ》けつる。深山《みやま》の一木檞《ひときかし》の、風に立つ樹思へや。 [#ここで字詰め終わり] [#4字下げ][#1段階小さな文字]反歌[#小さな文字終わり] 男子《をのこ》なれふぐり締めこそひよろ腰のへなへな臀《ゐしき》むしろうつべし [#3字下げ]照る日に [#ここから25字詰め] 悪しきは沙汰過ぎたり。悪しきを見過ぐすもの善《よ》からじ。弱きもの詮無し。照る日に、この明《あか》きに、何|怖《お》づる、人びと。五月《さつき》の、白雲のいゆきしづけ松むら、その姿思へや。 [#ここで字詰め終わり] [#4字下げ][#1段階小さな文字]反歌[#小さな文字終わり] 清明《さやけ》かるけだし稀なり自《し》がためと草のいきれを汗して歩《ある》けり [#3字下げ]女学部に対する圧迫いよいよ加はる 清《すず》しかもその新月《わかづき》の眉あげて敢然と立つ少女ら見れば 藤棚の藤の葉とほる日のひかりつくづくと土《つち》に見つつあらむか 少女らははげし日中も舎《いへ》居らず池のべ求《と》めて秘読《ひそよ》みにけり 朝なさな清《さや》にのぼりし足音の早やたどたどし泣きて行くかに [#3字下げ]或る母たちに 賢《さか》しくもをみななりけり言ふことは早や愛《かな》しけど己が子をのみ 言立《ことた》ててつぶさにはあれ女子《をみなご》や背戸の春日に牛売り損ふ よき母は清くありこそ照る月の子を抱きつつ草に立つかに [#3字下げ]口あくるもの [#5字下げ][#1段階小さな文字]朝夕しきりに文書にて誹謗する者あり、煩堪へがたし。[#小さな文字終わり] あなうるさ草につくばふ下闇の蚊喰がへるが咽喉《のんど》鬼灯《ほほづき》 [#3字下げ]狐狸 [#5字下げ][#1段階小さな文字]横議の士続出し、新聞利用またしきりなり。[#小さな文字終わり] 日のまぎれ我は直行《すぐゆ》く野の道を横さ走りて鼬《いたち》目翳《まかげ》す ま日照りを夜の陰草《かげぐさ》にたぶらかす狐《きつ》のやからは犬に噛《か》ましめ [#3字下げ]小原国芳氏におくる歌 物言ひて清《さや》けかるべし天つ日に事あらはなり隠すよしなし 身ひとつにただに命をこめにける自《し》が学園は他《ひと》のものかは 夢なりや縦《よ》しやかなしき我が業《わざ》と君楽しみき悔いむ何無し 事すべて私ならず道|直《ただ》に公ありて徹《とほ》り行くべし 世に憂ふ人が言挙《ことあげ》まつぶさに言ふことはよし多く私 悪しとなす言《こと》の僻事《ひがごと》しからずば神にありなむを人なりき君も [#3字下げ]再び 憂ふ無き君たはやすし事々につくづくと思《も》へばよく投げにけり 大味も程にこそよれ幾塩と薩摩の鰤《ぶり》よ塩つよく沁め 君|繞《めぐ》る人も実《さね》なし必ずも言ふらくただに下心《した》に思はず 時により教へ賜《た》ぶなり世に憎み荒ぶる言《こと》も聴きて畏こさ [#3字下げ]感深し [#ここから1段階小さな文字] [#ここから5字下げ] [#ここから25字詰め] 師、子弟、父兄、これこの学園の三位一体となすものなり。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 三つの円この触れ合の全《また》けくもしかもほのぼのとよかりけるもの [#ここから1段階小さな文字] [#ここから5字下げ] [#ここから25字詰め] 昭和七年三月、女学校卒業式直後、小西、小原、銅直、金子諸先生同乗の自動車、電車と衝突し、転覆す。今に於て感深し。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 因《もと》し無き災いはなしこの道や心そろはざれば皆くつがへる [#4字下げ][#1段階小さな文字]既に遅る[#小さな文字終わり] 挙り立つなほし遅《おく》れき何をしかい行きためらふおぞの父母 還るなき人を待つよは落鮎や多摩の瀬合に朝《あした》釣るべし 諸人よかもかくもなし香《か》にこもる草深小百合省みななむ [#4字下げ][#1段階小さな文字]児玉新総長に、一首[#小さな文字終わり] 静かに観君はますべし善き悪しき後《のち》つぶさなりその秋《とき》俟《ま》たむ [#3字下げ]人々よ、真に思へ 草の原に蒼くいただく天《あま》つ空げに事も無し大きむなしさ 天地とむなしかるべし身ひとつに何物も無ししかく生きなむ 思ひしみつくづくと人はありけらし朝起きてそよぐ草の葉を見よ [#3字下げ]恩讐を越えて 夜ふかく今に思へば善き悪しきすべて遥かなり額《ぬか》垂るる我は [#改ページ] [#1字下げ]童形[#「童形」は小見出し] [#3字下げ]秋夜童女像 月あかしひと日吹き去りし風速のとどろなりしか今は気《け》もなし 女《め》の童《わらは》あかき石榴《ざくろ》を掌《て》に置きてゐやまひ正し九九をこそよめ 髪いらふ童女《どうによ》が笑顔かぐろくも艶《えん》だちにけり父をうち見つ 額髪《ぬかがみ》のかなし女童《めわらは》うつら読み眶《まぶた》垂《た》りをり燈《ひ》をあかく置き 女《め》の童《わらは》肩に頬をあてうつら振る垂髪《たりがみ》黒し肩にしばしば ねむからばまこと寝よとしかきおこし燈《ひ》は明《あき》らけし女童《めわらは》を母は 硝子戸の燈映《ひうつり》見ればスエタアぬぐ紅ゐの童女《どうによ》眠気《ねむげ》なりけり [#3字下げ]秋夕 [#ここから25字詰め] ひたすらよ これの女童《めわらは》、文字書くと 習ふと書きぬ。その鳥の 鳥によく似ず、その魚の 魚とも見えね、あなあはれ 鳥や魚や、巧まずも なにか動きぬ、その影《かげ》象《かたち》。 [#ここで字詰め終わり] [#4字下げ][#1段階小さな文字]反歌[#小さな文字終わり] このゆふべ空やはらかし物の葉にさだかにはあらぬ狭霧なづさひ [#3字下げ]制帽 [#ここから25字詰め] 中学生、我が子の太郎、道ゆくと、読むと、坐ると、箸とると、帽かむりゐる。制帽よ制服よただに、金釦しかとはめゐる。うれしきか小学卒へし、中学やしかほこらしき。蘇枋咲くと、樗《あふち》そよぐと、霜置くとあはれ、一学期二学期よとあはれ、日の照ると、雨ふると、風ふくと、寝《ぬ》ると起きると、制帽かむる。 [#ここで字詰め終わり] [#4字下げ][#1段階小さな文字]反歌[#小さな文字終わり] はつ霜とけさは霜置く門の田に晩稲《おくて》の黄ばみ見つつ子は居り [#改丁] [#ページの左右中央] [#5字下げ][#中見出し]風騒四部唱[#中見出し終わり] [#改丁] [#1字下げ]薤露[#「薤露」は小見出し] [#3字下げ]沼津薤露行 [#ここから1段階小さな文字] [#ここから5字下げ] [#ここから25字詰め] 若山牧水の七週年に際し、哀傷の新たなる、遂にこの追懐吟一聯を成さしむ。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] [#4字下げ]一、[#1段階小さな文字]その庭[#小さな文字終わり] 水の音常は幽《かす》けき庭ながら人入り乱りたづきあらなくに まとに見て松が枝|黝《くろ》き日のさかりしばらくは聴かず蝉の声すら やり水のちろろとくぐる篠の根も眼には光れど心には観ず [#4字下げ]二、[#1段階小さな文字]瓢と仏[#小さな文字終わり] うち見には瓢《ひさご》枕に仮寝してただにとろほろと人ぞ坐《ま》したる この仏いまだ酔ひ臥し安らなりおのづからいつか起き出《で》まさなも うたた寝ゆ或《ある》は目ざめてたほたほと振らす瓢か酒をこほしみ [#4字下げ]三、[#1段階小さな文字]その人[#小さな文字終わり] 胸を張りて朗らなりける歌ごゑの君なりしかも塵もとどめず よく遊び常に愛《め》でにし山水とさやけかりしかとどこほる無く [#4字下げ]四、[#1段階小さな文字]火葬場へ[#小さな文字終わり] 狩野の川瀬にすむ鮎の若鮎の今かさ走りにほふその子ら 霊柩車火にほろびたる街ぬけてひたに香貫の道|駛《はし》りつつ かきおろす柩《ひつぎ》にうごく日のひかり夾竹桃は今ぞくれなゐ [#4字下げ]五、[#1段階小さな文字]伊豆大仁穂積忠宅に宿る、義弟山本鼎と伴なり[#小さな文字終わり] 油もてすべなゑがくか芋の葉を露のまろびて落つるその玉 すべはなし風にかがやく芋の葉をゑがく油絵われは観てをり [#4字下げ]六、[#1段階小さな文字]三津の浜にて[#小さな文字終わり] 群れつつを生簀《いけす》の鰯子《しこ》の片寄りにそろひさ走りめぐりやまぬかも 船にして網くりたたむ子らがこゑ夕焼の頃はとみに勢《はや》りぬ 三津《みと》の浜ゆふさりつかた出《で》ありくと絵を描《か》く友の傍《そば》に寄りゆく [#3字下げ]茅ヶ崎南湖院 [#ここから1段階小さな文字] [#ここから5字下げ] [#ここから25字詰め] 昭和九年四月十八日、大手拓次君病歿、妻と行きて告別す。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 南湖院|潮騒《しほざゐ》ひくし春もやや闌《ふ》けにつつありて人は果てたり 臨終《いまは》まで我をたのめと沙汰せよと待ちまけし君をひとり死なしぬ 死顔の神さぶ見れば灯《ひ》をつけて揺るるコードの影か隈だつ [#3字下げ]電気火葬 [#5字下げ][#1段階小さな文字]仏は義妹富子の母刀自、落合火葬場にて。昭和九年晩春。[#小さな文字終わり] [#4字下げ][#1段階小さな文字]1[#小さな文字終わり] 継ぎおこる電気火葬の火のとどろ聴きつつすべな舎利ひろひ分く この仏えにし深からずつつましく舎利は挟みて春|雨間《あまま》なり この骨片《こつぺん》息づく見れば下|紅《あか》く仏はいまだ燃えていませり 目にとめてうち白《しら》みゆく骨《こつ》の火気《ほけ》箸につきあはせ拾ひつつあはれ さらさらと骨粉をあけ夕さむし隠亡《おんばう》はよにも手馴れたりけり [#4字下げ][#1段階小さな文字]2[#小さな文字終わり] 迎ひ立つ軍帽ひとつまぶかなり何か立ち待つその焼がまを 火に葬《はふ》る今を盛《さか》りの音聴けばおほかたは早やもほろびたるらし 電気火葬の重油の炎音立てて猛《たけ》るたちまちを事は果てたり [#4字下げ][#1段階小さな文字]3[#小さな文字終わり] 手を洗ひつくづくと見る向う雨山の桜しろく咲きたる [#3字下げ]若き誰彼 しみじみと堪へてゐれども身のほとり数死にけり若きともがら かがなべてあはれよと思ふ春かけて幾人《いくたり》か死にし我が眼さらずも 若人《わかうど》は身をいたはらずほとほとに疲れつつ来しつひに死にせり [#改ページ] [#1字下げ]風懐[#「風懐」は小見出し] [#3字下げ]冬夜酔歌 [#ここから1段階小さな文字] [#ここから5字下げ] [#ここから25字詰め] 昭和七年の冬のことなり。深夜、池上町なる斎藤瀏将軍を驚かし、遂に暁にいたる。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] ことさら我|名告《なの》らずも夜のふけてとどと叩くは酒の神と知れ この夜寒《よさむ》とどと襲へば戸はあけて眼をこすりをらす我なり将軍 夜風の旋風《つむじ》なし入るおぞや我酒出させ早やとうちころびぬる 冬の夜もとよもす酒の友どちはおろかしくしてかなしなかなか [#5字下げ][#1段階小さな文字]蝿をどりなるものを仕りて[#小さな文字終わり] 冬向ふ蝿の日向の舌ねぶりあはれ手ぶりにまね申すなり [#3字下げ]五十九議会 [#ここから1段階小さな文字] [#ここから5字下げ] [#ここから25字詰め] 五十九議会大に紛擾し、窻硝子を破り、遂に流血の醜状を曝らす。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 一茎の草の葉にすらひざまづく心は思へ彼等知るなし 朝雲の大き御気色《みけしき》かすかだに仰ぎまつらばただに涙ならむ 今朝やぶる硝子のひびき寒《かん》きびし畏《かしこ》き方にきこえずあらなむ 血を流し汝等《なれら》あるべし音のみかその頭割《づわ》りよき醜《しこ》の鉢金 陣笠と電燈の笠と何そちがふ凍《し》みつくはただに冬の蝿のみ [#3字下げ]歌人の或る向に 言《こと》さへぐ何の楽しみ争ひて声音《こはね》高きが多く怖《お》ぢつつ 闇|怖《お》づる弱き奴《やつこ》が空声《からごゑ》を毛の荒ものの如くふるまふ [#3字下げ]よそ事ながら 女弟子もつものにあらずしみじみとかく思ふゆゑに身を退《ひ》く我は 師をうやまひ弟子をかなしむ遮莫《さもあらばあれ》外《ほか》ならぬかもよ男女《なんによ》てふもの [#3字下げ]短歌朗吟 ほのぼのと歌ひあげゆく声きけば暢《のび》うらがなしうつくしき揺り 現《うつ》しくも恍《ほ》れたる春のゆふなげきおのれ揺りあぐる声の羨《とも》しさ よく歌ふ春もあらねば我やはた歎《なげ》きわぶなり声の揺り聴き 歌ふとし声に巧まば流るべし物のかなしき心知りてな うちあげて朗らなりける我が友の牧水のこゑの今もおもほゆ 歌ふこゑ澄みぬる際《きは》よすべからく梁《うつばり》に塵もとどめざるべし [#改ページ] [#1字下げ]春宵[#「春宵」は小見出し] [#3字下げ]春宵東金囃子 中空《なかぞら》に紫あかる月夜雲九十九里の浜の春のしづかさ 月や春、北之幸谷《きたのかうや》の村方《むらかた》を舞ふ獅子舞の笛もこそ行け ひたしやぎり月に吹く子が横笛は口もて吹かず腰ゆすり吹く 口あけてくわんと鳴らした頭《づ》のひねり獅子はおもしろ家《や》に躍り入る 東金《とうがね》の茂右衛門どのといふ謡《うた》は春の朧のものなりけらし [#3字下げ]月夜暮春調 水ぐるま春の月夜の野平《のだひら》に音立ててをり遠かすむ森 夏向ふこの夜すがらに月は照り水車しづかや米を搗く音 月夜立つる水車の音は夜ごもりとかすむ草田の低みより立つ [#4字下げ][#1段階小さな文字]嶋田旭彦病篤しといふ[#小さな文字終わり] 音ひびく春のおぼろを人すでに意識すら無しと月の曇りを 月おぼろ草田の堤歩み来て今は聴きをり蟇を蛙を 夏すでに月の堰《ゐぜき》の遠近《をちこち》に蛙啼きつつ水幅《みはば》明るむ マチ擦《す》りて子らとうかがふ砂利道に杉菜のみなる露のこまかさ 風そよぐ蓬のうれ葉裏見せてしろき月夜を田へ下《お》りるなり [#3字下げ]KONZERT [#5字下げ][#1段階小さな文字]或る夜の音楽会[#小さな文字終わり] 大きチエロ立ち擁《かか》へつつ夜は明《あか》し押しあてて弓《きゆう》のいまだしづけさ 立ちかかへ脊丈をあまるチエロの棹|新人《しんじん》はかなし指にそだたく 四人《よたり》立ち揺り弾くチエロの四つの胴張り厚うして響き合ひにけり 立ちかまへ擁《かか》ふるチエロは黄褐の女体なり弓《きゆう》のかいなづる胸 チエロの胸ひたかきむしり平《たひら》なり揺り曳きにけり灯《ひ》に光る弓《きゆう》 チヤイコフスキー交響曲第六ロ短調「悲愴」なり香蘭のことをいつか思《も》ひゐき [#改ページ] [#1字下げ]永日[#「永日」は小見出し] [#3字下げ]永日 薹《たう》に立ち葉牡丹の花のどかなりうつら飛びめぐる虻と蜂と蝶 葉牡丹は薹立ちほけて日が永し花さきにけりちらら黄の花 [#3字下げ]康徳皇帝を迎へ奉る 国を挙げて声はとよめどしづかなり神と聖《ひじり》のみ手とらす時 日のもとに我が大君とみそなはし春のあしたの山ざくら花 [#3字下げ]軍刀の歌 [#ここから1段階小さな文字] [#ここから5字下げ] [#ここから25字詰め] 陸軍の依嘱により大陸軍の歌成る。恰も日露役三十年記念に際し、昭和十年三月十四日附、軍刀の贈を受く、靖光の新刀なり。その歌に曰く、 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] [#ここから1段階小さな文字] [#ここから3字下げ]  大陸軍の歌    1 青雲《あをぐも》の上に古く、 仰げ皇祖、 天皇の大陸軍、 道あり、統べて一《いつ》なり、 建国の理想ここに、 万世、 堂々の歩武を進む、 精鋭、我等、 我等奮へり。    2 盤石《ばんじやく》と誓《ちかひ》堅く、 守れ軍紀、 天皇の大陸軍、 勅《ちよく》あり、律は儼たり、 奉公の誠常に、 一心、 烈々の士気は徹《とほ》る、 身命などか、 などか惜まむ。    3 旭日《きよくじつ》ののぼるごとく、 揚げよ国威、 天皇の大陸軍、 風あり、軍旗燦たり、 大陸の血河すでに、 征戦、 赫々の誉高し、 忠勇曾つて、 曾つて範あり。    4 六合《りくがふ》を家と広く、 布《し》けよ平和、 天皇の大陸軍、 道あり、東亜我あり、 国防の一線ここに、 満蒙、 生生《せいせい》の秋《とき》ぞいたる、 決然、敢て、 敢て当らむ。 [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 大君《おほきみ》の大御軍《おほみいくさ》の行くごとく日はさしのぼり茜旗雲 この賜《た》ぶは陣太刀づくり靖光《やすみつ》の鍛へに鍛へ魂こめし太刀 我が歌をよしと嘉《よみ》してたまひたる陸軍大将の太刀ぞこの太刀 白絹《しらぎぬ》の袋紐とき柄《つか》がしらさしいづる見れば黄金づくりの太刀 この太刀の柄《つか》の猿手《さるで》に結《ゆ》ひ垂らしあなゆゆしかも朱《あけ》の緒の揺《ゆ》り 柄鞘《つかざや》の黄金の桜|三《み》つ明《あか》り大将刀ぞ褐《かち》の糸巻 心澄みて抜き放つ太刀春浅し眼は釯《きつさき》にそそぎゐにけり よく反《そ》りてにほふ焼刃のこの気先《きさき》新刀は清し冴えに冴えたり 丈夫《ますらを》やなにか歎かむ皇国《すめぐに》の軍《いくさ》ならずも歌をもて我は 大将刀父のみ前にとり捧げ言ふことはなし今日はをさなさ [#4字下げ][#1段階小さな文字]隆太郎に[#小さな文字終わり] 此の太刀は皇国《すめぐに》の太刀|胆《きも》むすびうちにうちし太刀ぞ心して守《も》れ 神ながら清く明らけきひた心りゆうりゆうと振る太刀に子ら見よ あさみどり満天星《どうだん》の芽の日に映えて新刀はよし一《ひと》ふり二《ふた》ふり うち粉叩き叩きつつゐつ此の太刀の清《きよ》の明りぞ花と照り合ふ [#4字下げ][#1段階小さな文字]或る人に[#小さな文字終わり] 大将刀抜き放ち瞻《まも》る我が笑顔写真ニユースに見しといふかや [#4字下げ][#1段階小さな文字]洩れ承りて[#小さな文字終わり] 日の真昼我が大君はきこしめし今いさぎよし大陸軍の歌 [#改丁] [#5字下げ][#大見出し]巻末記[#大見出し終わり] [#ここから1段階小さな文字]  昭和十四年十一月十三日、寒波しきりに到つて、私の眼底は痛む。立冬既に過ぎて、この私の薄明の視野には、やうやうに我が頼む光と影とが消えつつある。私は今、口述しつつ、この巻末記を妻に書き綴らせてゐる。  心貧しくしてかの春の日の夢殿を思ひ、その高貴と知性とに本来の郷愁を感ずるこの私は、抑々何であらうか。  童女の朱衣がいまだにこの網膜に映像するのに、私の短日は微かに邃い。  曾つての夏、雲海の上に出でて、飛翔し飛翔した私は、かへつて郷土のまことに触れた。  あながち歌に遊ぶとはいはない。かの夢殿の霞にやんごとなき籠りを籠りとせられた終日《ひねもす》の春を慕ふものである。少くとも私の道に於て私は楽しんでゐる。  齢知命を踰えて、いつまで稚い私であらうか。          § 『夢殿』は、前集『白南風』の姉妹歌集である。即ち『白南風』が、大正十五年暮春、小田原より東京谷中天王寺墓畔に転住して以来、馬込緑ヶ丘、世田ヶ谷若林、砧村大蔵、等に亘る東京生活の所産であるに対し、本集は、殆同時代の覊旅の旅を主として採録した。尚、覊旅以外の人事生活篇「童子群像」「風騒四部唱」等は彼の集の「砧村雑唱」の続篇たるべきもの故是に附加した。姉妹集たる所以はここにあるのであるが、ただ年代に於てその直後、雑誌『多磨』の創刊に到る迄の、略一年間の延長がある。  尤も覊旅歌としてはなほ『白南風』と『多磨』の期間に「白良」以外「伊豆の初夏」、「音・光・風」、「雪冠」、「渓流唱」、「水戸唱」、「河童早春賦」等の創作があつたが、これらは編輯の都合上次の集に譲ることにした。  さてこの『夢殿』は主たる覊旅歌を上巻とし、副たる人事生活篇を下巻とした。  本集の内容は左の如くである。 [#ここから2字下げ] 白良     長歌 一  短歌一七    富士五湖   長歌 一  短歌二四 郷土飛翔吟    一七   二五三    初夏北越行          三四 郷土と雲海     四    九五    木曾長良行          二一 覊旅小品      一    四八    童子群像      六    九七 満蒙風物唱         二一一    風騒四部唱          九〇 夢殿             四二    巻末に             一 浜名の鴨           四九  計  長歌 三〇  短歌 九八二   総計 一〇一二 [#ここで字下げ終わり] 『白南風』に於て、その生活年代と、製作年月が必しも同一でない如く、本集に於てもそれらの相違がある。而もいづれも生活に準じて、編纂せられた。つまり『白南風』時代である。従つて本集は昭和二年八月より昭和十年三月に到る期間の覊旅及び身辺生活に資材を得たものであるが、その製作は昭和二年より同十四年七月に到つてゐる。  また『白南風』がその編纂に志して以来新に感興の昂騰に乗じて殆その半に達する補作を得たるが如く、本集も亦「郷土飛翔吟」、「郷土と雲海」、「満蒙風物唱」等の大連作を初めとして、「覊旅小品」「夢殿」「木曾長良行」の諸篇に亘り、凡そ六百余首の新作を追加するに到つた。この最近六月より七月上旬へかけての日夜行に因るものである。その他旧作に於ても、削除すべきは割愛し、抄録の分も更に改訂を敢てした。又新作の分もその後の推敲に於て聊か面目を改めたかと思ふ。  茲に煩を避けて一一に是等に就き解説をしないが、白秋年纂『全貌』その他今後の私抄について彼我対照して戴ければ幸甚である。  前述の如く、この『夢殿』は『白南風』の姉妹歌集である。これらは楯の両面の如きものであつて、いづれもが私のものであり、同時代のものである。かの『白南風』を通じて私の歌風に変化がないことを速断した向きは、この『夢殿』と綜合して改めて見直して欲しいと思ふ。歌風に変化がなかつたのでは無く『白南風』の編纂の法が、かくあらしめたのである。 『白南風』と『夢殿』、一は静であり一は動である。或は観照に、或は叙情に、その時々に於て私は常に自由に自らの変化を変化としてゐる。  ただ本集を読んでくださる方に願ふことは、これらの一首一首につきぢかに触れて専らに味つてほしいのである。而してまた一首を中にした四方の空間をも楽しんで欲しいことである。また作者の丹精そのものを読者その人のものとして、その鑑賞にその時を割いて欲しいのである。  本集の編纂がその年代に五年も遅れたことは、雑誌『多磨』の創刊と共にひたすらに前進を続け、過去を顧る余裕も無かつた為であつた。既にその後作歌も千三百首に上つてゐる。これらは眼疾の前後に別つて、いづれ二冊として順次に刊行する予定である。  編纂方法に就ては、上巻の覊旅歌は略倒叙の形態をとり、下巻に於てはその内容について分類し、その篇毎に年月の順を概ね正しくした。  全体を通じて最も旧き作は、「木曾長良行」の犬山城や、水車船、四季の里等の景情であり、最も新らしきものは、「飛翔吟」の雲海の一連である。歌風について云へば、眼疾以後の今日のものの多くが前時代のものと交錯してゐる。  終りにこの歌集『夢殿』は、往年の『雀の卵』編纂の当時私と苦楽を共にした鎌田敬止君が、この度八雲書林を創立するに当り、その需めに悦んで応じた。そしてまた大に柔らかに悩まされたが、それにしても私の度を超えた推敲の習癖はまた其人に煩瑣と困惑とを与へたに違ひ無かつた。  巻頭の朱衣の童女像は、永瀬義郎君の筆であつて私の永く愛蔵するものである。その童女の面貌が私の篁子に似通つてる節もあり、その篁子をまた人人が呼んで夢殿となしたことから、この歌集はこのやうなものとなつた。 [#ここで小さな文字終わり] [#ここから3字下げ] [#ここから15字詰め] 狭霧立つ櫨《はじ》の木群《こむら》の深みどり我が水上《みなかみ》はわけて哀《かな》しき [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] 底本:「白秋全集 10」岩波書店    1986(昭和61)年4月7日発行 底本の親本:「夢殿」八雲書林    1939(昭和14)年11月28日初版発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※小見出しよりもさらに下位の見出しには、注記しませんでした。 入力:岡村和彦 校正:光森裕樹 2014年11月14日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。