なまずとあざみの話 小川未明 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)春《はる》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)二|本《ほん》 -------------------------------------------------------  春《はる》の川《かわ》は、ゆるやかに流《なが》れていました。その面《おもて》に、日《ひ》の光《ひかり》はあたって、深《ふか》く、なみなみとあふれるばかりの、水《みず》の世界《せかい》が、うす青《あお》くすきとおって見《み》えるように思《おも》われました。  この不思議《ふしぎ》な殿堂《でんどう》の内《うち》には、いろいろの魚《うお》たちが、おもしろおかしく、ちょうど人間《にんげん》が地《ち》の上《うえ》で生活《せいかつ》するときのように、棲息《せいそく》していたのであります。なかでも、小《ちい》さな子供《こども》たちは、毎日《まいにち》群《む》れをなして、水面《みずも》へ浮《う》かび、太陽《たいよう》の照《て》らす真下《ました》を、縦横《じゅうおう》に、思《おも》いのままに、金色《きんいろ》のさざなみを立《た》てて泳《およ》いでいました。そして晩方《ばんがた》、岸《きし》の暗《くら》いすみの巣《す》のあるところへ帰《かえ》ってくると、自分《じぶん》の親《おや》たちや、またほかの魚《うお》たちに、見《み》てきたいろいろのことを物語《ものがた》ったのでした。 「大《おお》きな船《ふね》がいったぞ。そのときは、おれたちは、波《なみ》の中《なか》へ巻《ま》きこまれようとした。やっと急《いそ》いでほどへだたった、安全《あんぜん》な場所《ばしょ》へ避《さ》けることができた。船《ふね》の上《うえ》では、ほおかむりをした男《おとこ》が、たばこをすっていた。」 「あちらの岸《きし》の方《ほう》には、人間《にんげん》が、いくたりも長《なが》いさおをもっていったりきたりしていた。お父《とう》さんや、お母《かあ》さんたちも、気《き》をつけんければならん……。」  あかあかと水《みず》の上《うえ》をいろどって、夕日《ゆうひ》は沈《しず》みました。水《みず》の中《なか》は、いっそう、暗《くら》く、うるわしいものに思《おも》われました。このとき、銀《ぎん》のお盆《ぼん》を流《なが》したように、月《つき》が照《て》らしたのです。 「おまえたちも、あんまり方々《ほうぼう》を遊《あそ》び歩《ある》かないほうがいいよ。日《ひ》が暮《く》れると、やっと安心《あんしん》するのだ。私《わたし》たちは、今日《きょう》も無事《ぶじ》に幸福《こうふく》に、送《おく》ることができたと思《おも》うのだよ。」と、魚《うお》の親《おや》たちは子供《こども》たちを見《み》まわしながらいいました。 「お父《とう》さんも、お母《かあ》さんもお休《やす》みなさい。」と、子供《こども》たちはいった。 「みんなも、つかれたろうから、よくお休《やす》みよ。」と、親《おや》たちは、答《こた》えた。そして、魚《うお》たちは、巣《す》の深《ふか》みへじっとして、静《しず》まったのであります。  このとき、ひとり、なまずのおばさんは、穴《あな》の中《なか》から出《で》て、だれはばかるものもなく、大《おお》きな口《くち》を開《あ》けて、水《みず》の中《なか》で、盲目《めくら》になって、まごついている虫《むし》どもをのみはじめたのでした。おばさんの頭《あたま》にさしている長《なが》い二|本《ほん》のかんざしは、月《つき》の光《ひかり》が水《みず》の中《なか》までさしこんだので、気味悪《きみわる》く光《ひか》ったのです。 「昼間《ひるま》は、いろいろな魚《うお》たちが、わいわいいっているので、うるさくてしかたがないが、夜《よる》は私《わたし》の天下《てんか》だ。」と、なまずのおばさんは、大《おお》きな口《くち》でぱくぱくやりながら、へびのようにしなやかな尾《お》をひらひらさして歩《ある》いていましたが、そのうちに、すさまじい勢《いきお》いで、うなって、体《からだ》を四|苦《く》八|苦《く》にもみ、ゆり動《うご》かすと、いくたびも水《みず》の中《なか》で転動《てんどう》しながら、どこかへ姿《すがた》をかくしてしまいました。  物蔭《ものかげ》から、このようすを見《み》ていた魚《うお》がありました。その魚《うお》たちは、小《ちい》さな声《こえ》でささやいたのでした。 「まあ、どうしたのでしょう?」 「あのしゅうねん深《ぶか》い、おそろしいおばさんが、あんなに苦《くる》しんだのを見《み》たことがない。なんでも、思《おも》いがけない敵《てき》のために、ひどいけがをしたのですよ。」 「それに、ちがいありません……。なんという物騒《ぶっそう》なことでしょう……。」  魚《うお》たちは、ますます小《ちい》さくなって、息《いき》をひそめてじっとしていました。  川《かわ》のふちに、あざみがつつましやかに咲《さ》いていました。終日《しゅうじつ》だれと話《はなし》をするものもなく咲《さ》いていたのです。ただ、自分《じぶん》の姿《すがた》の水《みず》の面《おもて》にうつるのと、おりおり、音《おと》もなく雲《くも》が、影《かげ》を水《みず》の上《うえ》に落《お》として過《す》ぎてゆくのを、ながめたばかりでした。  あざみは、咲《さ》いてから、まだ間《ま》のないときでした。ある朝《あさ》一ぴきのなまずが、すぐ目《め》の下《した》に、岸《きし》のすみに白《しろ》い腹《はら》を出《だ》して苦《くる》しんでいるのを見《み》ました。どうしたのだろう? と、あざみは、だまっていました。しかし、日《ひ》が明《あか》るく、水《みず》の面《おもて》を照《て》らしても、なまずは、おなじところに起《お》き直《なお》ったと思《おも》うと、いつのまにか、また白《しろ》い腹《はら》を出《だ》して仰向《あおむ》いて、もだえていたのです。 「どうしたのですか?」と、あざみの花《はな》は、ついに呼《よ》びかけました。  このとき、なまずは、起《お》き直《なお》ったところでした。 「ゆうべ、人間《にんげん》にやられたのです。もうすこしで水《みず》の上《うえ》へ引《ひ》き上《あ》げられるところでしたが、やっと糸《いと》を切《き》ってやりました。けれど、針《はり》がのどに残《のこ》っていて苦《くる》しくてしようがありません。私《わたし》は、もう長《なが》い間《あいだ》、この川《かわ》に生《い》きてきましたが、こんどばかりは死《し》ななければなりません。」と、うらめしそうにいいました。  あざみは、よく、なまずを見《み》ますと、なるほど、年《とし》をとっていました。小《ちい》さな魚《うお》たちが、気味悪《きみわる》がっているおばさんは、このなまずであるかと、しみじみとながめたのでした。しかし、あざみは、いま、この苦《くる》しんでいるなまずにたいして、同情《どうじょう》せずにはいられませんでした。 「ほんとうに、おいたわしいことでした。私《わたし》は、この岸《きし》に咲《さ》いて、あなたのお苦《くる》しみなさるのを見《み》るばかりで、どうすることもできません。」といいました。  なまずは、また白《しろ》い腹《はら》を出《だ》して倒《たお》れたが、やっと力《ちから》を出《だ》して起《お》き上《あ》がった。 「私《わたし》は、人間《にんげん》をうらめしく思《おも》います。この深《ふか》い水底《みずそこ》にすんでいる私《わたし》たちが、どんな悪《わる》いことを人間《にんげん》にたいしてしたでしょうか?」  なまずは、そういったことさえやっとでした。あざみは、なまずのいうことに、耳《みみ》をかたむけているうちに、人間《にんげん》が、自分《じぶん》を毒々《どくどく》しい、野卑《やひ》な花《はな》だといって、足《あし》げにしたことを思《おも》い出《だ》しました。そのとき、人間《にんげん》は、すみれの花《はな》をかわいらしい花《はな》だといってほめたのです。 「ほんとうに、いつ私《わたし》たちは、人間《にんげん》にたいして、にくまれるようなことをしたか。すべてが同《おな》じ花《はな》だのに、なぜ差別《さべつ》をつけなければならぬのか……。」と、あざみは、思《おも》ったが、口《くち》には出《だ》さずに、 「あなたのおうらみなさるのは、もっともです。」といいました。  あざみは、なまずの苦《くる》しみつづけた最後《さいご》を見守《みまも》りました。その日《ひ》の晩方《ばんがた》、なまずは、白《しろ》い腹《はら》を出《だ》したきり、もう起《お》き直《なお》りませんでした。小《ちい》さな魚《うお》たちは遠《とお》くから、この有《あ》り様《さま》をながめていたが、急《いそ》いでこのことを親《おや》たちに告《つ》げるために、姿《すがた》を消《け》してしまった。  二、三|日《にち》たつと、あざみの花《はな》は、黒《くろ》く色《いろ》が変《か》わってしまった。たまたま飛《と》んできたちょうが、これをながめて、 「この花《はな》は、病気《びょうき》だろうか?」といって、止《と》まらずに飛《と》び去《さ》ってしまったのです。  なやみと、うれいのために、あざみの花《はな》は、黒《くろ》くなってしまったのでした。  都《みやこ》からきた、植物学者《しょくぶつがくしゃ》が、この川《かわ》のほとりを歩《ある》きました。そして、黒《くろ》いあざみの花《はな》を見《み》つけてびっくりしました。 「これは、たいした発見《はっけん》だ。この花《はな》に、おれの名《な》まえでもつけてやろう。」と、喜《よろこ》んで、根《ね》もとから、あざみの花《はな》を切《き》ってしまった。  学者《がくしゃ》は、その花《はな》を帽子《ぼうし》にさしました。もっとこのあたりをたずねたら、新《あたら》しい、不思議《ふしぎ》な植物《しょくぶつ》が発見《はっけん》されないものでもないと、目《め》をさらにして歩《ある》いていました。 「なにか、新《あたら》しい発見《はっけん》をして、博士《はくし》になろう。」と、学者《がくしゃ》の目《め》は希望《きぼう》に燃《も》えていました。  ちょうどその後《あと》へ、昨日《きのう》のちょうが飛《と》んできて、 「あの気《き》の毒《どく》な、病気《びょうき》のあざみはどうなったろう。」と、みまったのでした。すると、むざんにも、だれにか、ちぎられてしまっていたので、ちょうは、あわれな花《はな》の運命《うんめい》に同情《どうじょう》せずにはいられなかったのです。  学者《がくしゃ》は、都《みやこ》へ帰《かえ》るため汽車《きしゃ》に乗《の》っていました。あざみの花《はな》を散《ち》らさないようにと、帽子《ぼうし》にさしていたが、窓《まど》によりかかっているうちに居眠《いねむ》りをしました。花《はな》は、もうまったくしおれかかっていたので、風《かぜ》の吹《ふ》くたびに、汽車《きしゃ》の窓《まど》から、過《す》ぎる村々《むらむら》へ、散《ち》って飛《と》んでゆきました。  原因不明《げんいんふめい》の軽《かる》い熱病《ねつびょう》が、村々《むらむら》へ流行《りゅうこう》したのは、その後《のち》のことです。しかし、日《ひ》がたつと、いつしかその病気《びょうき》も、あとかたなく消《き》えてしまいました。 底本:「定本小川未明童話全集 6」講談社    1977(昭和52)年4月10日第1刷 底本の親本:「未明童話集4」丸善    1930(昭和5)年7月20日 初出:「赤い鳥」    1928(昭和3)年5月 ※表題は底本では、「なまずとあざみの話《はなし》」となっています。 ※初出時の表題は「なまづと、あざみの話」です。 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:へくしん 2021年9月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。