寒い日のこと 小川未明 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)冬《ふゆ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)一|度《ど》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#地付き] -------------------------------------------------------  それは、もう冬《ふゆ》に近《ちか》い、朝《あさ》のことでした。一ぴきのとんぼは、冷《つめ》たい地《つち》の上《うえ》に落《お》ちて、じっとしていました。両方《りょうほう》の羽《はね》は夜露《よつゆ》にぬれてしっとりとしている。もはや、とんぼには、飛《と》び立《た》つほどの元気《げんき》がなかったのです。  昨日《きのう》の夕方《ゆうがた》、彼《かれ》は、この山茶花《さざんか》のところへ飛《と》んできました。さびしくなった圃《たんぼ》の方《ほう》から夕日《ゆうひ》の光《ひかり》を身《み》に受《う》け、やってきて、この美《うつく》しい、紅《あか》い花《はな》を見《み》たときに、とんぼは、どんなに喜《よろこ》んだでありましょう。 「まだ、こんなに、美《うつく》しい花《はな》が咲《さ》いているではないか。そう悲《かな》しむこともない。」と、思《おも》ったのでした。  彼《かれ》は山茶花《さざんか》の葉《は》の上《うえ》に止《と》まりました。そこにも、あたたかな夕日《ゆうひ》の光《ひかり》が、赤々《あかあか》として輝《て》っていました。 「このごろ、あなたたちの姿《すがた》を見《み》ませんが、あなたは、おひとりですか?」と、山茶花《さざんか》はとんぼに向《む》かって、たずねました。 「みんな、もういってしまったのです。」と、彼《かれ》は、答《こた》えたが、さすがに、そのようすは、さびしそうであった。  ほんとうに、いつのまにか、こんなに、寂《さび》しくなったろう。ついこのあいだまで、やかましいくらい鳴《な》いていたせみもいなくなれば、またとんぼの影《かげ》も見《み》えなくなったのでした。 「あなたは、どうして、ひとり残《のこ》ったのですか。」と、山茶花《さざんか》は、けっして、悪《わる》いつもりではなく、思《おも》ったままをたずねました。 「私《わたし》は、まだゆきたくないのです。もっと遊《あそ》んでいたいのです。こうして、美《うつく》しい花《はな》が咲《さ》いているのですもの……。」と、とんぼは答《こた》えた。  山茶花《さざんか》は、夕日《ゆうひ》に、赤《あか》い花弁《はなびら》をひらめかしながら、 「花《はな》といいましても、私《わたし》は、冬《ふゆ》にかけて咲《さ》く花《はな》なんですよ。あなたのお友《とも》だちで、私《わたし》の姿《すがた》を見《み》ないものがたくさんあると思《おも》います。」といいました。  とんぼと山茶花《さざんか》は、それから、四方山《よもやま》の話《はなし》をしているうちに、日《ひ》はまったく暮《く》れてしまった。花《はな》は、闇《やみ》の中《なか》で、とんぼを見《み》ることができなかった。その晩《ばん》は、前日《ぜんじつ》よりもさらに冷《つめ》たかったのであります。  翌日《よくじつ》、山茶花《さざんか》は、あたりが明《あか》るくなったときに、とんぼの止《と》まっていたあたりを見《み》ますと、そこには、小《ちい》さな影《かげ》が見《み》えなかった。どうしたのだろう? と、花《はな》は、思《おも》ったのでした。  うすく湿《しめ》った、地面《じめん》に落《お》ちたとんぼは、もう話《はな》しかけることすらできなければ、その身《み》を運命《うんめい》にまかせるより、ほかになかったのでした。やがて、ありが、それを見《み》つけたら、自分《じぶん》たちの巣《す》の方《ほう》へ引《ひ》いてゆくでありましょう……。  このとき、お嬢《じょう》さんが、窓《まど》から、山茶花《さざんか》を見《み》ていましたが、げたをはいて、庭《にわ》へ出《で》てきて、木《き》の下《した》に立《た》ったのです。 「日当《ひあ》たりがいいから、まあ、よく咲《さ》いたこと。」といって、花《はな》を指《ゆび》さきでつついていましたが、ふと足《あし》もとを見《み》て、そこに、とんぼが落《お》ちているのに気《き》づくと、 「まあ、かわいそうに……。」といって、お嬢《じょう》さんは、拾《ひろ》い上《あ》げました。 「きっと、昨夜《ゆうべ》、寒《さむ》かったので、飛《と》べなくなったのだわ。」  彼女《かのじょ》は、どうかして、とんぼを元気《げんき》づけて、飛《と》ばしてやりたいと思《おも》いました。もし、自分《じぶん》の力《ちから》で、それができたら、どんなにうれしいであろうと思《おも》いました。 「太陽《たいよう》が出《で》て、あたたかになって、力《ちから》がつきさえすれば飛《と》べるわ。」と、お嬢《じょう》さんは、いいました。そして、とんぼも、どんなにか飛《と》べることを願《ねが》ったでありましょう。  お嬢《じょう》さんは、寒《さむ》さのために、飛《と》べなくなったとんぼを唇《くちびる》のところへ持《も》ってきて、温《あたた》かな息《いき》を幾《いく》たびも、幾《いく》たびもかけてやりました。とんぼは、体《からだ》があたたまると、元気《げんき》づきました。 「さあ、飛《と》んでおゆき。」  お嬢《じょう》さんは、最後《さいご》に、もう一|度《ど》、あたたかい息《いき》を吹《ふ》きかけてやりました。とんぼは、彼女《かのじょ》の手《て》の中《なか》で、強《つよ》く羽《は》ばたきを打《う》ったが、つういと、ふいに大空《おおぞら》を目《め》がけて飛《と》び立《た》ちました。  もはや、空《そら》には、太陽《たいよう》の光《ひかり》と熱《ねつ》とがみなぎっていました。とんぼは、ちょうど昨日《きのう》、屈託《くったく》も知《し》らずに、遊《あそ》んでいたように、圃《たんぼ》へ降《お》りると、そこで、ぼんやりと、また一|日《にち》を過《す》ごしたのでした。  とんぼにとっては、この一|日《にち》は長《なが》かったのであります。しかし、その日《ひ》もいつしか暮《く》れかかったのでした。彼《かれ》は、どこを見《み》ても、友《とも》だちの影《かげ》を見《み》なかった。それをひじょうにさびしく思《おも》いました。  昨夜《ゆうべ》よりも、もっと冷《つめ》たい、強《つよ》い風《かぜ》が、どんよりと曇《くも》った空《そら》の下《した》を吹《ふ》いていました。とんぼは、しっかりと棒《ぼう》の先《さき》に止《と》まって、風《かぜ》に吹《ふ》き倒《たお》されまいとしていた。このとき、風《かぜ》は、とんぼに向《む》かって、 「早《はや》く、あなたも、お友《とも》だちのいるところへおゆきなさい。私《わたし》が、つれていってあげましょう……。」と、とんぼの耳《みみ》にささやいたのでした。  とんぼは、嵐《あらし》の言葉《ことば》にふるえて、黙《だま》っていました。その晩《ばん》、とんぼの小《ちい》さな魂《たましい》は、青《あお》い、青《あお》い空《そら》を、上《うえ》へ、上《うえ》へと駆《か》けていました。遠方《えんぽう》の、清《きよ》らかに輝《かがや》いている星《ほし》の世界《せかい》へと旅立《たびた》ったのであります。  星《ほし》の光《ひかり》は、それを迎《むか》えるように、にこにこと笑《わら》っていました。そして、うるんだ、美《うつく》しい目《め》で、じっと、下界《げかい》を見下《みお》ろしながら、 「来年《らいねん》の夏《なつ》まで、ここへきて、ゆっくり休《やす》むがいい。そしてまた来年《らいねん》になったら、そちらへ旅立《たびた》つがいい。」といったのでした。  そんなことも知《し》らず、お嬢《じょう》さんは、木枯《こが》らしの吹《ふ》く晩《ばん》に、窓《まど》のところで、ピアノを弾《ひ》いていました。ストーブのそばには、土《つち》を破《やぶ》ったばかりのヒヤシンスの鉢植《はちう》えが置《お》いてありました。この草《くさ》がすがすがしい空色《そらいろ》の花《はな》を咲《さ》くときは、春《はる》になるのでした。  冬《ふゆ》と春《はる》とが、隣《とな》り合《あ》わせになって、もう間近《まぢか》にきていました。月日《つきひ》の流《なが》れは、このように速《はや》かったのでした。いま、お嬢《じょう》さんは、無心《むしん》でピアノを弾《ひ》いていましたが、ふと手《て》を休《やす》めて外《そと》をながめますと、雲切《くもぎ》れのした空《そら》に、ぴかぴかと光《ひか》る星《ほし》が、葉《は》の落《お》ちつくした、林《はやし》のいただきに見《み》えたのでした。そして庭《にわ》に咲《さ》いた山茶花《さざんか》が、ガラス窓《まど》をとおして、へやから射《さ》す燈火《とうか》に、ほんのりと白《しろ》く浮《う》いていました。 「そう、そう、今朝《けさ》、拾《ひろ》って、逃《に》がしてやったとんぼは、今夜《こんや》も、寒《さむ》いが、どうしたでしょう……。」と、お嬢《じょう》さんは思《おも》いました。  この世《よ》の中《なか》にいるときは、西《にし》から、東《ひがし》へと飛《と》んで歩《ある》いたとんぼの羽《はね》は、もはや、いらなくなった。それを嵐《あらし》は、おもしろそうに、もてあそんでいたのです。  そのうちに、嵐《あらし》は、だんだんきちがいじみてきた。しまいに羽《はね》を捲《ま》き上《あ》げて、空中《くうちゅう》を落《お》ち葉《ば》といっしょに、吹《ふ》き飛《と》ばしたのでした。  お嬢《じょう》さんは、ふと、窓《まど》の外《そと》に、ちらと光《ひか》るものを認《みと》めました。なんだろうと思《おも》って、見《み》たときは、もう、闇《やみ》の中《なか》に消《き》えてしまったが、それは、とんぼの羽《はね》だったのでした。 [#地付き]――一九二七・一〇―― 底本:「定本小川未明童話全集 6」講談社    1977(昭和52)年4月10日第1刷 底本の親本:「未明童話集4」丸善    1930(昭和5)年7月20日 ※表題は底本では、「寒《さむ》い日《ひ》のこと」となっています。 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:へくしん 2022年1月28日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。