無宿人国記 吉川英治 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)女被衣《おんなかぶり》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)一|艘《そう》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)琦 ------------------------------------------------------- [#3字下げ]女被衣《おんなかぶり》[#「女被衣」は大見出し] [#7字下げ]一[#「一」は中見出し] 「蒲団は――お炬燵《こた》は――入れたかえ」  船宿のお内儀《かみ》さんだ。暗い河岸《かし》に立って、いつもの、美《い》い声《こえ》を、張りあげている。  息が、白く、冬の夜の闇に見えた。  寒々と更《ふ》けた大川の中で、 「おう」  と、船頭の答えをきくと、かの女は、河岸づたいに、五明楼の庭へ戻って、 「あの……船のお支度が」  と、女中へ告げた。  上杉家の国家老、千坂兵部《ちさかひょうぶ》は、茶屋の若主人や、廓《なか》から送ってきた女たちの小提灯《こぢょうちん》にかこまれて、ひょろりと、手拍子に、 [#ここから2字下げ] さても見事になあ 振って振りこむ花槍は 雪かあらぬか さっさ ちらちら白鳥毛 振れさ どっこい [#ここで字下げ終わり] 「お履物《はきもの》を――」 「殿様、おあぶない、肩にお手を」  兵部《ひょうぶ》は、眸のながれたような眼で、明りにつれて、海月《くらげ》みたいに、ふわふわとうごく、無数の女の顔を、見まわして、 「――船は、どこじゃ。船は」 「庭に、船は上がりませぬ。お履物をはいて、河岸の桟橋《ふなばし》まで、おひろいを」 [#2字下げ]さても是非なや  兵部はまた、広間に聞える槍踊りの丹前節に、低声《こごえ》をあわせて、 [#ここから2字下げ] ――なびかんせ 台傘、立傘、恋風に ずんとのばして しゃんとうけたる柳腰 [#ここで字下げ終わり] 「きゃーッ」  前へ歩いて行った女の小提灯が、ふいに、人魂みたいに、宙へ躍った。――と、一緒に、後のすべての灯りと、人影も、 「あっッ」  と、悲鳴をあげて、ばたばたと、兵部を捨てて、逃《に》げ転《まろ》んでしまった。 「――な、何とした事。これやひどい、此方《このほう》、一人を置いて」  兵部は、よろめいた腰を、とんと、庭石へ落して植込みの闇を見つめた。――すぐ、うしろが大川の水であるために、黒い人影が二つ、眼の前に立っているのが、くっきりと、分った。  じっと、兵部の眼が、それへ行くと、二本の白い刃が、だまって、彼の方へ迫って来た。兵部は、心のうちで、すぐ、 (来たな!)  と、眉間《みけん》に、直感の熱痛を感じて、同時に、 (いつか、来るはずのものが来たのだ。赤穂の浪士――かれらの刺客《せっかく》だ。もうやむを得ん)  と、静かな、覚悟の中に、策を、そしてまた、執るべき態度を、考えていた。 [#7字下げ]二[#「二」は中見出し] 「ふいに、驚かせて、失礼いたした。――ちと、お訊ねいたすが」  案外だった。――その言葉のていねいなのに。  のっそりと、兵部に近づいて来たのは、浪士らしくない。肩や、袖の、綻《ほころ》びから、痛々しい血汐をにじませている。蒼白な顔に、鬢《びん》をみだし、一人は十手を、一人は白刃をさげていた。 「町方じゃの」  兵部がいうと、 「左様――」と、肩で、喘《あえ》ぎながら一礼して、 「たった今、この庭へ、二十七、八の浪人が、女の生首《くび》をかかえ、血刀を引ッさげたまま、逃げこんで参ったのを、御承知はあるまいか」 「存ぜぬ」  と、兵部は、無駄だった気がまえを弛《ゆる》めて、 「――狂人かの」と、訊ねた。 「いや、狂人ならとにかく、正気を持ちながら、毎日、廓《さと》や盛り場で、喧嘩をしては、狂人ほど人間を斬る奴。町方も、ちと持てあましておる男で」 「ふむ……それが、女の生首を抱えてとは」 「実は、この堀の涙橋に」と、同心は、兵部の人物と、軽い誘《さそ》いに、つり込まれて、 「――江戸唄の師匠をしておる、里次《さとじ》という女があります。今申した浪人者はそれと、だいぶ深間《ふかま》で、何でも、二、三百石の知行《ちぎょう》を、その女一人のため棒に振ってまで、国元を、出奔してきた程な仲だったらしいので。――だが女は男の不身持と、斬ったの、殺したのと、血なまぐさい行状ばかり見ているので、愛想《あいそ》もつき、恐《こわ》くもなって、近頃は、町道場の林崎という男をひき入れておった訳です」 「む……」 「だが、一方の浪人と、どうして手を絶《き》ったものかと、今夜も、林崎や悪友のならず者が、里次の家へ寄って、飲みながら話しておると、伊勢詣《いせまい》りに行くといって、五日ほど前に、家を出た浪人が、台所から、ふいに、今帰って来た――というが早いか、一瞬の間に、居合した七人ばかりの――それも江戸ではかなり有名な林崎や、ごろ剣客を、ばたばたっと一人も余さず、たたっ斬って、最後に、女の生首《くび》を片手に」 「わかった」  と、兵部は、もう興味がないように、 「それから先は、お察しできる、町方は、飛んだお怪我、はやく、手当をせぬと、この冬風に」 「かたじけない。御免を」  と、二人の同心は、彼にいわれて、急に手傷の痛みと、場合とを、思い出したらしく、何か、囁《ささや》いて出て行った。  そこに、腰かけたまま、兵部は、手を鳴らして、 「女ども、女ども」  しかし、誰も来なかった。ただ、気のつよい船宿のお内儀《かみ》だけが、 「は……はい」  と、四阿亭《あずまや》の蔭で、寒さと、恐さに顫《ふる》えながらも低く答えた。 「お前は、そこにいたのか。――羽織を脱いで、貸してくれい」 「羽織は、着ておりませぬ」 「いかさま……では、いや、あれにある、伊達羽織《だてばおり》を」  兵部が、指さしたのは、羽織ではない。小座敷の窓に掛けてある、派手な、女小袖だった。お内儀が、それを外《はず》して来て渡すと、 「――頭巾には、ちと、綺麗《きれい》」  と、呟《つぶや》きながら、ふわりと、後ろへ投げた。  闇が、咥《くわ》え込むように、小袖はすすすと、丁字《ちょうじ》の葉蔭へ、うごいて行った。――内儀は、さっきから、見まいとしているそこの物に、また、慄然《りつぜん》として、唾をのんだ。  初めから――かの女は、知っていた。  それは、役人より早く、女たちの眼を、吃驚《びっくり》させた影だった。みんなが、きゃっといって、逃げる突嗟《とっさ》に、兵部の後ろへ廻って、屈《かが》み込《こ》んだのである。兵部は、とたんに、刺客《せっかく》の一人かと――鋭い眼を投げたが、同心との対話のうちに、何もかも、解けたらしく、知らぬ顔を装っていた。  けれど、気のつよい、船宿のお内儀の背すじを凍らせたのは、その人影でも血刀でもなかった。――それは、兵部が同心と話している間に、極めて、ひそやかに、ある目的を遂行していた暗闇の動作である。作業である。  憎むが如く、笑うが如く、また泣くが如く――そこに屈んでいた人間は、女の生首《くび》を、手から、転がして、また頬摺《ほおず》りをした。そして、すばやく小柄《こづか》をもって、丁字《ちょうじ》の根を、掘りかえして、生首《くび》を埋《い》けてしまったのだった。  ――そこへ。  絢爛《けんらん》な女小袖が、ふわと、落ちたので、男は、それを頭からかぶると、 「武士のお情け――」  四尺ばかり、進んで、兵部のすぐ後ろへ、ひたと、両手をついた。 「どなたか存ぜぬが、忘れはいたさん」 「――無事な所まで、此方《このほう》の船で」 「それは、あまり」 「いや……」と、兵部は立って、 「内儀」 「はい。今――お提灯《あかり》を」 「足もとは、水明り、それには及ばん。やがて、万字屋から、家来どもが、引揚げてくるであろうが、此方は、船で先に下屋敷へ――と、よいか、最前の、言伝《ことづ》てを」 「覚えておりまする」 「そして……」  と、自分の後ろから、小袖を、女被衣《おんなかぶり》にして、忍びやかに、尾いてくる者を顎《あご》で指して、 「夢――人には告げるな。――わしの浮気を」 [#7字下げ]三[#「三」は中見出し]  両河岸《りょうがし》は、霜《しも》が白い。  灯《とも》さない屋形船《やかた》が一|艘《そう》、氷をすべるように、大川を下って行った。 「――寒かろう、はいってはどうだ」  中の兵部は、こう、外へ声をかけた。  小袖をかぶったまま、鷺《さぎ》のように、舳《みよし》に屈んでいた男は、振り向いた弾みに、刀の鐺《こじり》を、かたんと、屋形の角に音をさせて、 「何、ここで……。すぐ其処の百本杭《ひゃっぽんぐい》あたりで、降ろして貰おう」 「まあ、そう申すな、炬燵《こたつ》の火も、ちょうどよい加減、酒も温《あたた》まっておる。はいって、一献《いっこん》やってはどうじゃ――河千鳥の声をさかなに」  それを、兵部《ひょうぶ》の独《ひと》り語《ごと》のように、外の男は、そら耳にうけて、じっと、暗い川波を見つめていたが、 「オッ、寒いっ」  と、思わず、くさめを一つして、小袖で口を抑《おさ》えた。 「風邪をひくぞよ、一角《いっかく》」 「えッ?」  男は、そう言った兵部の声を、疑うように、 「俺を、一角と知っているおめえは?」 「うとい奴じゃの。たとえ、わずかな間でも、禄を食《は》んだ旧主の声を、忘れる奴があろうか」  舷《ふなべり》に、身を這《は》わせて、小障子の隙間から、中を覗いていた一角は、途端に、 「あっ、しまったッ」  弾《はじ》かれたように、突っ立った。そして、河へ飛び込もうとするのを、兵部の手が、鐺《こじり》を掴《つか》んで、 「何で逃げる。――たとえ路傍の人間であろうと、危急を救われた礼も述べずに、姿を消すが、作法か、武士か」 「――面目次第もございませぬ」  屈み込んで、がばと、顔を伏せた。その手を、兵部は、すくい取って、ずるずると中へ、 「清水一角と申したの」 「はっ、御、御意にござります」 「たしか、村上寛之助の推挙で、上杉藩の剣道方に、一年か、二年……。あれは、何日《いつ》頃であったかの」 「もはや、四、五年前、流浪中の事にござります」 「只今も、流浪中ではないのか」 「はっ」  一角は、穴でもあったらはいりたかった。なぜこの人に救われたかを後悔するのだった。 「そちの仕官中に、国許《くにもと》で、一、二度見かけた事がある。腕のたつ武士と、噂をきいていたが、いつの間にか、此方《このほう》の在府中に出奔したという事じゃった」 「この姿で、お目にかかったのが、残念にござります。どうぞ、御慈悲をもって、このまま、お見遁《みのが》しを」 「見遁せとは」 「何事も、お訊《たず》ねなく。――犬でも助けたと思《おぼ》し召《めし》て」 「卑下《ひげ》いたすな。若い時代の過《あやま》ちは、生涯の評価にはならぬ。その慚愧《ざんき》をなぜ有為な身に、すぐれた腕に、鞭《むち》とせぬか」 「立ち直って、身を固めたいと念じながら、持ったが病《やまい》、自暴《やけ》から自暴へ、持ちくずした身の傷は、癒《なお》るどころか、殖えるばかりで、今後のことも今となって、その冷《ひや》っこい川風の中で考えてみると……」 「それや、無理もない。惰性《だせい》というもの、そこに、転機が来なければの」  兵部は、つぶやいて、酒瓶《ちろり》のくびを抓《つま》んだ。一角へ、杯を与えて、 「ひとつ、飲まんか」 「恐れいります。御大身のお酌《しゃく》では」 「あとも、燗銅壺《かんどうこ》についておる。では、そちの手酌にまかせて」と、膳ぐるみ、押しやって、 「――だがの一角、もうこの辺が、考え所ではないかの。人間も年三十に近いとなれば」  炬燵ぶとんへ、兵部は、顔を横に当てて、うつうつと、何か考え込んでいるふう。大きな宿題が――苦労が――胸にあるらしい。そういえば、才識に経世に、米沢《よねざわ》の宝といわれたこの人にも、めっきりと老《ふ》けてきた影がみえる。――いかに、事の内容が容易でないかを、その眉が、語っている。何か、尠《すく》なくもそれは、主家上杉藩の浮沈にもかかわる程な。 [#7字下げ]四[#「四」は中見出し]  で、実は。  この三月でいい出府を、彼は、二月《ふたつき》も繰上げて急に、国元の米沢から上ってきたわけだった。問題の重点は、世間からも注意されている吉良上野介《きらこうずけのすけ》の身についてである。いうまでもなく、上野介の夫人は、上杉家の当主|綱憲《つなのり》の母にあたる――吉良家と上杉、これは、断《き》っても断れない関係のものである。  上杉家では――いや藩の輿論よりは、太守の綱憲自身が、しきりと聞える、赤穂浪士たちの潜行的な噂に対して、 (もし、父を討たれては)  と、躍起となった。 (そして上杉家の名折れ、謙信以来の武門の恥、どうかせねば)  と、江戸家老の沢根《さわね》伊兵衛に謀《はか》って、 (飯倉《いいぐら》か――桜田か――いや白金の下屋敷が、最も、堅固)  と本所から上野介の身を夜陰、そこに移して、秘密の上にも、秘密を守って、警戒していた。 (大事! 社稷《しゃしょく》の危機)  と、兵部は、その、余りにも無謀な――浪士と上杉家との対立を敢てする策に――驚いて国元から駈けつけるとすぐ、綱憲に、その失計を説きたてた。  社稷《しゃしょく》か父子の情かである。一人の上野介か、上杉家全藩の生命かである。  綱憲も、その非を覚って、兵部の諫《いさ》めどおり、また上野介を、本所の彼自身の邸《やしき》に戻した。だが、兵部の心は、それだけに、負担を感じている。公然とはできない吉良邸の警戒に、赤穂の浪士たちの行動が、潜行的になればなる程、水も洩れてはならないのである。  何よりも、彼が第一に、 (さて、人間はいないものだ)  とつくづく、当惑したのは、上野介の身辺を警戒するにたる腕のしっかりした人物だった。 (剣客などは、いくらでも)  と、ふだんは考えられる江戸にも、さてとなって、求めると、実に、その人がない。  町道場で、相当に、認められている人物でも、ひそかに交渉させてみると、 (吉良の屋敷では)  と、断るのが、多いし、上杉の藩士を詰《つ》めさせては、赤穂との対立になるし、素姓の知れない人間は、敵方の諜者を入れこむ惧《おそ》れがある。  今――およそ兵部の眼鏡《めがね》で、八、九名の浪人を抱えて、付け人にさせてはあるが、とても、まだ安心はできない。赤穂の浪士たちに対しては、物の数でない。  で――兵部は、そういう点で、ふと、清水一角の名を、思い出した事があったし、また、米沢の国元にも、藩士でさえなければ、眼ぼしいのが、二、三名はいるが……などと炬燵《こたつ》ぶとんへ、横にした頭の中で、船の揺れを感じながら眼をふさいで、じっと考えつめるのだった。  今夜なども、飲めない酒を飲んでまで――また、老いと苦悩の、億劫《おっくう》な気もちをも曲げて、花街へ、人を招んで、おかしくもない夜更かしに帰るのも、みな、上野介のために、幕府側の人々を、手なずけておくためだった。 (これが、自分が大石の立場であるなら、ふえる白髪《しらが》も、苦労|栄《ば》えというものだが……)  と、心で、自嘲しながら、ふっと、頭をもたげた時、 「――殿様、百本杭《ひゃっぽんぐい》で」  と、船が、急に舵《かじ》をまげていた。  冷たい杯を置いたまま、じっと、俯向いていた一角が、すぐ首を出して、 「お、着けてくれ。――俺はそこで」  と、立ちかけると、兵部が、 「いや、そのまま、行け、着けてはならん」  と、船を河心へ返させて、一角へ、顎《あご》で、陸《おか》の人影をさしていった。 「さすがに、町方というものは、鼻がきくの。あれを見い、根気よく、河岸づたいに、この船を尾《つ》けてくる」 「あ……」  一角は、小障子を閉《た》てた。  船が、永代《えいたい》に着くと、橋袂《はしたもと》に、迎えの灯が待っていた。千坂の家来たちに囲まれて、そこから近い兵部の下屋敷へはいってゆく浪人を、清水一角と、はっきり分っていながら、町方とその捕手たちは、どうにも、手が下《くだ》せないで、 「ちッ、忌々《いまいま》しいなあ」  と、睨《にら》まえて見ているだけだった。 [#3字下げ]首の番[#「首の番」は大見出し] [#7字下げ]一[#「一」は中見出し]  ゆすり、辻斬、ばくち場荒し。一角の兇状は、一つや二つの首では足りない。 「一歩でも、出て来たら」  と、町方は、意地にもなって、 「千坂の屋敷から、半年でも一年でも、眼を離すな」  と、伏せを撒《ま》いて、張込んでいた。 「物騒だが……其方《そち》ならば」  と、当の兵部は、召使から邸外の様子を聞いて、苦笑しながら―― 「急ぐことゆえ、今宵にも、米沢表へ」  と、あれから急に、旅立つことになった一角へ、餞別《せんべつ》とはいえない、かなりな額の金を、こっそりと、渡した。  旅といっても、一角は、相変らずな着ながし一枚、もう寒明《かんあ》け、寒さもここらが関と、多寡《たか》をくくって、 「では、いずれまた」  と、貰った編笠を、横に抱いて、書院の縁に立った兵部の姿へ、目礼を。兵部はそこから、うなずいて、 「確《しか》と、そちを見込んで」  と、特に、見込んで――に力をいれて、 「……頼んだぞ」  といった。  ひらりっと、庭戸を押して、一角は、裏門の外へ走っていた。――と、すぐばたばたっと附近から雁《がん》のように立った跫音を、兵部は、知っていたが、黙然と、空を見ていた。家来たちも、主人の気持のまま、じっと、問わず聞かずに、黙っているよりほかなかった。  だいぶ、間《ま》を措《お》いてから、やはり不安でならないように、兵部は唐突《だしぬけ》に、 「誰か、見届けて来い」  と、いいつけた。  やがて、およそ半日も経って、やっと帰って来た家臣の口から、彼が、難なく町方のかこいを衝《つ》いて、一気に、板橋口から街道を北へ、立って行ったと聞いて、 「――そうか」  と、初めて、ほっと、脇息《きょうそく》に、気づかれを、落して、 「人は使いよう……。一角も、こんどは胆に沁《し》みて、立ち直ったとみえる」  頼もしげに、そしてまた、一つの心の負担をも、軽くしたように、呟《つぶや》いた。 [#7字下げ]二[#「二」は中見出し]  春だが、寒かった。  山の襞《ひだ》には、雪が深い。 (四年ぶりだ――)  と、数えながら、一角は、笠のつばを上げて、板谷峠《いたやとうげ》の上に立った。  そこから、米沢城下の町、川、橋、黒い天主、さまざまな思い出の一廓を見出すと、なつかしさ、などという常人のする感情は、すぐ消えて、 (しまッた。なぜ俺は、兵部《ひょうぶ》の手に――)  と、いつか、屋根船に救われた夜と、同じ後悔を、ここでも、苦《にが》く繰返して、 「思えば、飛んでもねえ事を、頼まれてしまった」  と、呟いた。  自分では、摺《す》り切れてしまったと思っていた武士根性が、まだ幾分か、どこかに潜んでいたかとも苦笑されて、 「うまく、兵部に抱き込まれた。――だが、どうせ、どう捨てても転んでも、惜しくはねえ体だから、いいようなものの……」  城下へはいった一角は、その翌日、藩の湧井《わくい》半太夫と青砥《あおと》弥助をふいに訪ねた。どっちも、一角が仕官時代の旧友ではあり、また、米沢では――いや奥羽の剣人としては、五指のうちに数えられる若者たちだった。 「どうしたんだ? 一角」  ふたりは、眼を瞠《みは》って、彼を迎えた。  お互いに、飲《い》ける口《くち》を知っているので、松川岸の隣松亭《りんしょうてい》へ行って、 「まあ、久闊《きゅうかつ》は、酒から」  と、すぐに、寛《くつろ》ぎあった。 「――風の便りに、江戸にいるとは聞いていたが」 「いや、面目ねえ、相変らずといいてえが、尾羽《おは》打《う》ち枯らしてこの姿だ」 「勿体ないものだね、貴様ほどの腕をもって」 「そいつがかえって、世の中を、真っ直ぐに歩くにゃ邪魔らしい」 「どうだ、吾々も尽力をするが、もう一度、御奉公しては」 「今さら――」  と、苦笑して、 「実あ、こんな体でも、売れ口はついているのだ。それも、俺にゃ相当な条件で」 「そいつは、目出度い話だ、どこへ」 「相手の名をいう前におめえ達にも、相談があるが……。どうだ、乗るか」 「吾々は、藩に籍のある体、そうままには」 「そこは、万々、心得ての上だ。――五年約束で、前金を一人あてに、二百両渡す、ある時期がすんだら、ちゃんと、藩籍へもどして、今の禄より、加増もしようという、うめえ話だ。悪かあねえだろう」 「誰だ、相手というのは。――どこの藩だかそれを先に」  青砥《あおと》が、少し乗り気になると、湧井は、笑い消して、 「あまり話がうま過ぎる。一角、久しぶりに来て、人を担《かつ》ぐのも、程にしろよ」 「なに、嘘だものか」  懐中《ふところ》から、百両の封金を、一つ、二つ、三つ――と眼の前へ転《ころ》がして、 「見てくれ、手金さえ、持って来ている」 「ふふむ……」 「いくら、腕はできても、こう泰平つづきでは、軽輩のうだつが上がる時はねえ。――それを、どうだ、近頃にしちゃ、耳よりだろうが」 「――つまり、俺たちを、召抱えたいというのか」 「まあ、そんなものだ。肉縁の者を捨てて、脱藩してくれというのだから」 「それで、五年後には帰参させて、禄も増すというのは、どういうわけだ。合点がゆかぬが」 「そこが、相談。うん、といえ」 「だが先に――」 「いや、先にゃ、話せねえ。――何しろ、洩れたら」 「では、誓う」 「脱藩をか」 「いや、他言を――」 「友達を、疑いたかあねえが、これだけは。――何しろ肉縁を捨てるほどな、覚悟のいることだしまた、家中へも、秘密だ。ぜひとも、うん、といって貰わないうちは」 「じゃ、俺は……」  と、青砥《あおと》が、言いかけるのを、湧井《わくい》はあわてて、 「待て待て。――返辞はいつまでか」 「早いに、越した事はねえ。明日《あした》のうちにでも」 「じゃ、明夕《みょうせき》までに、熟考して」 「花沢屋に泊っているから、そこへ、返辞をしてくれ、待っているぜ」  と、一角は、二人に別れて、宿へ帰った。 [#7字下げ]三[#「三」は中見出し] 「なぜ、俺ほど、やくざな人間が、兵部に頼むといわれた時、いやだと、断りきれなかったろう?」  宿屋の一間で、腹ン這いになりながら、一角はまたしても、同じ悔いを、胸の中で、呟いた。 「やっぱり――彼女《あいつ》の魂が、おれを国へ……」  ぽろんと、銀脚《ぎんあし》の釵《かんざし》を、指先から落して、 「お里のにおいが」  と、ぞっと、背中に寒いものを、感じた。  まだ、女の髪油《かみあぶら》が、生々《なまなま》と、曇っている。見つめていると、ありし日の女の姿が、ぼっと、眸にひろがって来る気さえする。  かっと一時の感情で、自分の手に斬《か》けた里次の釵《かんざし》――。その生首《くび》をつかんで、堀の茶屋へ逃げこんだ際、あの突嗟《とっさ》に、生首《くび》は、丁字の木の蔭に埋《い》けたのであるが、釵は、釵だけは――自分が殺した程な女なのに、何となく、捨てきれずに、肌へつけて、持っていた。 「――いけねえ、どう考えても、お里の弟だ。その木村丈八郎へ、直《じか》に会って今度の事を話すのは、気が咎《とが》める。……おれが、お里を誘拐《かどわ》かして、連れ出した事は、いまだに、知らねえらしいが」  そこへ、女中が、 「おふたり連れで……。湧井《わくい》様、青砥《あおと》様と仰っしゃるお方が」 「お、来たか」  あわてて、釵をふところに、 「――通してくれ」  青砥弥助と、湧井半太夫は、 「よくよく、思案してみると、今の世の中では、軽輩者《けいはいもの》は、生涯つとめても軽輩者、百金の手当があれば、肉親の者の保証は充分になる。――うん、と言おう。抱える相手を明かしてくれ」  と、同意の返答だった。 「有難い、それで俺も顔が立つ」  ふたりへ、百金ずつの金を渡して、 「実は、貴公たちをお抱《かか》えになるのは、当地でも、噂になっているだろう、赤穂の浪士に狙われている吉良殿だ」 「げっ、あの吉良か」 「表立って、上杉藩から、剣士を引き抜いて、吉良の首の番に、付けるわけにも行かねえ。――で、妙な縁で、俺が、国家老の千坂兵部《ちさかひょうぶ》様から頼まれて、この米沢表から、湧井半太夫、青砥弥助、木村丈八郎――と、こう三人を、引ッこ抜くことを頼まれたというわけだ」 「なるほど、じゃ、千坂様の才覚なのか。――それで、謎は解けたが、あの吉良の首の番は、少し、世間へ」 「それは、誰も考えるが、やはり一つの上杉家の奉公――五年という年を限っての話だし」 「もうひきうけた事だ。嫌とはいわん。――けれど、もう一名の木村丈八郎へは、話がついたのか」 「いや、まだ丈八郎へは」 「あれ程、急いでおるのに」  非常な苦痛のように―― 「丈八郎へは、貴公たちから、懸合《かけあ》ってくれまいか」 「む……話してもよいが」 [#7字下げ]四[#「四」は中見出し]  痛いものを怺《こら》えるような眼を、ふと、反《そ》らして、 「たのむ、是非」  と、一角は言った。――ほんとに、腹の底から、頼む、という語韻で、 「実あ、あの男だけが、ちと、俺にゃ苦手なのだ」 「何か、弱味でも、あるのか」 「丈八郎は、おそらく、知るまいと思うが、あれの姉のお里」 「ム。米沢きっての美人だった。――不思議と、あの家すじには、美人ばかり生れる」 「今さらいうのも、懺悔《ざんげ》めくが、同藩の市岡へ、嫁《とつ》ぐ約束になって、結納《ゆいのう》まですんでいたあの女を、婚礼の間際《まぎわ》に隠したのは、俺だ、この一角なのだ」 「えっ? ……。じゃあ、嫁ぐのを嫌って、川へ、身を沈めたというのは嘘か」 「川|縁《べり》の下駄も、遺書《かきおき》も、俺のさせた狂言で、うまく国許をずらかってから、彼女《あいつ》は、江戸で女師匠、俺は、持ったが病《やまい》の博奕《ばくち》、酒。……四年のあいだ苦労をさせたが、つい先頃、風邪《かぜ》が原因《もと》で、死なしてしまった」 「ふーむ、そうか。じゃあお里は、江戸で貴公と暮していたのか」 「そんな、こんなで、今さらあれの弟の丈八郎へ、いくら兵部様の名指しといっても、俺からは、ちと」 「なるほど、尤もだ。――そして御家老の兵部様が、木村丈八郎へお眼をつけなすッたのも、遉《さす》がに、鋭い。年は若いが、あれなら、吉良殿の付人《つけびと》として申し分はない。腕では、赤穂の浪士のうちでも、丈八郎ほどなのは少ないだろう」 「だが、今の話は、貴公たちだけに、打ち明けたのだ。――行っても、丈八郎には、どこまで、俺とお里の事は内密に」 「いいとも、もう先でも、諦めていること、何も好んで……。それよりは、吉良殿の方の一件を」 「すぐ、行ってくれるか」 「吉報を、待っていろ」  翌日は――と首を長くしていたが、沙汰がない。次の日も、二人は、見えなかった。 「こじれているな、話が」  そう感じて、一角は、なお二人から返辞のいいことを祈った。自分の役目ばかりでなく、もし、兵部の秘策を明かして、先が、聞き入れない場合は、首にして、帰らなければならないからだった。 「お里を手に斬《か》けたさえ、後では、いい気持ではないのに、その弟まで、万一にも」  と、考えると、祈らずに、いられなかった。――どうか、難なく、丈八郎が、吉良家へ身売りする事を、承知してくれればいいがと。 「そうだ、返辞を待っている間に」  顔を、笠でかくして、彼は、急に思い立ったらしく、宿屋を出て行った。  すぐ、分った。  城下の南郊、梅が、ふくらんでいる。生前に、お里から聞いていた木村家の菩提寺《ぼだいじ》である。 「む、ここか」  と、探しだした、一つの墓。  あたりを見廻した。――梅花《うめ》が明るい。  今日まで、肌に、抱いているにも、捨ててしまうにも、気にかかって、このまま、なお持っていると、病気にでも取ッつかれそうな気がしていた簪《かんざし》を――あの里次の生首《くび》のにおいを持つ簪を――、そっと、墓石のそばの土中へ、ふかく、差し込んだのである。  悪夢を、封じたように、 「ああ、これで、さっぱりだ」  と、一角は、掌《て》の土をたたいた。  春の雲が白い。――紅梅が紅い。  からん、からん、と笑いたいように、心が軽くなった。 「気一つだ」  だらだらと、丘を降りて来た。  すると――麓《ふもと》から、若い、一人の女が、上ってくる。 「オヤ、何処かで?」  と、初めは、そんな程度の注意だったが、両方から近づくにつれて、 「やっ?」  愕然《がくぜん》として、喉でさけんだ。  何ものかに、押し返されるように、彼は、たたたと、後へ戻った――いや蹌《よろ》めいた。そして、樹の蔭にかくれて、あらい息を、肩で、 「不思議だ、お里が来る、お里が?」  ――と、一角にしては、おかしいくらい、あわてて、顔いろさえ変えて、呟いた。 [#3字下げ]美人系[#「美人系」は大見出し] [#7字下げ]一[#「一」は中見出し] 「丈八郎という男は、今時の、若いに似あわぬ一徹者《いってつもの》だ。二人が、何と説いて聞かせても、金で身売りなどとは、剣士の恥。たとえ、一時の方便でも、藩へ無断で、脱走するなどとは、以てのほか――とばかりで、俺たちも、口をすッぱくして通ったが、匙《さじ》を投げた。あれは、諦めものだぞ」  宿へ帰ると――青砥弥助に湧井のふたりが待っていて、一角の顔を見るなり、こう言って、 「どうする?」  と、彼の決意を聞くのだった。 「じゃ、兵部様の腹中を、洩《も》らしたのだな」 「少しは、格好《かっこう》を話さなければ、所詮、耳をかす男ではないもの」 「しかたがねえ。話が、不調とあれば、首にして、江戸へ連れて帰るだけの事。――貴公たちは、先へ、発足《ほっそく》してくれ。そして、兵部様へ、丈八郎の方は、百に一つ、見込みが難しいとお告げしておいて貰いたいが」 「承知した」  その晩のうちに、湧井と青砥は、脱藩して、城下から姿を消してしまった。――軽輩だけに大した余波もないらしいが、一角は、後に残って、これからが、仕事だと思った。 (丈八郎を、暗討《やみう》ちするか――もう一度、ぶつかって、心を翻《ひるがえ》させてみるか――)  に、彼は、迷った。  五日目ぐらいには、宿をかえて、宵になると、番士小路の木村丈八郎の家の附近をうろついていた。丈八郎は、米沢城の乾門《いぬいもん》番士、禄《ろく》は、高々百石たらずである。夜勤《よづめ》交代で一日おきには、家にいない事になるらしい。 (討つ気なら、造作《ぞうさ》はねえが?)  一角は、そう考えたが、毎夜のようにのぞく彼の家に、留守をしている二人の姉妹《きょうだい》を見ると、そんな気もちは失せて、 「成程、青砥弥助が言っていたが、この家は、美人の血統《ちすじ》だ」  と、感心した。  自分と逃げて、江戸で終ったお里は一番娘であった。そのお里に、まるで、生写しに、似ているのが、いつぞや、墓地で見かけた、二番娘のお八重。――三番目のお信《のぶ》は、十五、六か、まだ、至ってあどけない小娘で、これは少し丸顔、兄の丈八郎の方に似ている顔だ。 「――どう見ても、お里そっくりだ。いくら姉妹《きょうだい》とはいえ、ああも」  機《おり》があったら、口をきいて見たい気がした。  墓地で、ふいに会った時は、場所も場所だし、自分の気持も、妙に尖っていたので、そんな心は出なかったが――。  夜と、昼も、彼はお八重の顔を頭に描いた。――お八重か、お里か、けじめのない一つの眸が、いつも、彼の前にちらついた。 「はてな、俺は恋を? ……」  一度思った女は、きっと、命がけでも取ってきた一角の経験と興味が、また、春と一緒に、胸の中に、頭を擡《もた》げだした。水っぽい春の月――風のぬるい春の晩が――妙に彼の血を駆り立てた。  だが、恋はしても、恋には悩まない一角だった。いや、悩んでいる時間すら持たない男だった。押《おし》というか、自信というか、ぶつかってゆく。――その手で、お里も、ほかの多くの女をも、経験してきた彼は、やがて、お八重がよく町医の関口|琦庵《きあん》の所へ通うのを知って、ある夜、わざと、 「お里どの。お里」  と、呼びとめた。 「え?」  案のじょう、お八重は、びっくりした眼を、彼に向けて、 「――姉の名を、お呼びになって、貴方様は」 「や、人違い。――余りよく似ているので」 「どこかで、お見かけしたような?」 「四年ほど前に、浪人した清水一角」 「あ、よく姉がお噂をしていた……」 「そのお里どのが慕《した》わしく、旅のついでに、そっと、当地へ立ち寄ったが、今ではどこに」 「姉はもう果てました。ちょうど、あなたが御浪人なさった頃に」 「えっ、死んだ……。それは、ちっとも知らなかったが」 「私たち姉妹《きょうだい》ほど、薄命なものは、ございませぬ。姉のお里も、嫁ぐ先が心に染まないで、身を投げたのでございますし、私も、嫁ぐとすぐに良人《おっと》に死なれて」  もう、美人薄命が真に近いように、美人は多淫《たいん》であるという言葉がほんとなら、お里も、その一人だったし、このお八重も、そうではないかと、一角は、肩をならべて歩くうちに、勝手な異性観を、描いていた。  人なつこい――柔らかな感じ。そして、男のことばを、怖ろしく、異性的にうけて、蠱惑《こわく》に反射してくるお八重を、彼は、幾十人もの女を手がけた経験から、 「これは、思いのほか、手なずけ易い。……それに出戻りの女は」  と、もう甘い香を――雪国の女の特有な肌を――官能の中に弄《もてあそ》んでいた。 「いち度、お訪ねして、いろいろと、伺いたい事もあるし……」 「ええ、どうぞ」 「また、何かと、話したいこともあるが、実は、この間うち、脱藩した青砥弥助の口から、弟御へ、ちと、内密を洩らしてあるので、一角が、訪ねては」 「丈八郎ならば、この頃は、相役が病気なので、たいがいな夜はおりませぬ。……お信はいても」  と、お八重の求めている気持は、眼で分った。一角は、編笠の中に、暗い笑みを、泛《う》かべながら、 「では、近いうちに」  と、彼女を、辻に捨てて、ぷいと横丁へ曲がってしまった。 [#7字下げ]二[#「二」は中見出し]  渡り鳥が、夜ごとに空をよぎって行く。 「女庭訓《おんなていきん》で育った武家娘なんて、男にかかると、から、意気地はねえ」  一角は、つぶやいた。  反撥のある、妙に強気な、江戸の女を知ってから、お里に、不足を覚えたように、そのお里に似ているという、ほんの、軽い出来心だった彼の悪戯《いたずら》は、お八重を、自分のものにした夜から―― 「俺も、物好き」  と、彼を、微苦笑させた。  美人にはちがいないが、お八重は、癆咳病《ろうがい》だった。――そういえば、死んだお里も、よく、悪い咳《せき》をしていたが――と考えると、丈八郎の家系には、その血のあることが、慥《たしか》である。美人系は、一つの、病系なのだ。 「旦那様、あの、お手紙が」  宿屋の女中が、取次いできたのを、一角は封をきらないで、 「少し、風邪ぎみで、寝ているといってくれ」  すぐ、お八重の文字と分るのであるが、――一角は、五、六度の遊戯で、もう何の感興も燃えなかった。同時に、この頃は、前のお里のことも、ふッつりと、頭にこだわらなくなった。 「べら棒な。――ほかに男をこしらえた女、俺が手に斬《か》けて、成敗したのは、当りめえだ」  明くる日もまた、女中が、 「旦那様」 「また、手紙か」  根負けがして、彼は、次の夜にお八重をたずねた。――しかし、勃然《ぼつぜん》として、かれの気持は、その日から一変していた。 「丈八郎に出会ったら一討ち!」  と、むしろそれを、希望していた。  が、その夜も、丈八郎は留守で、裏の木戸には、末娘のお信が立っていた。この娘《こ》は、また何というほがらかに出来ているのか、出戻りの姉にいいつけられて、いつも、恋の番をしているのである。  お八重は、彼を見ると、 「まあ、憎い……」と、膝《ひざ》に、恨んで、 「あんなに、お手紙をあげたのに、たった一度の御返辞も下さらないで」 「いつか、遅く帰った時から、風邪心地で寝ていたのだ」 「でも、返辞を書くぐらいな事……。それ程なお心も、私には、ないのでございましょう」  ああ、平凡だ。  尠《すく》なくも、一角が経験した女の数では、こんな会話では、欠伸《あくび》を感じる。  でも――無碍《むげ》には、あしらえなかった。出戻りのお八重は、丈八郎の留守の間を、貪《むさぼ》るように戯《たわむ》れた。  すると、外にいたお信が、 「あっ、兄様が!」  ばたばたっと家の中へ、駈けこんで来て、姉へ告げた。 「帰って来ました。兄様が」 「えっ、丈八郎が」  お八重は、ふるえ声で、 「あなた。はやく……。裏口から」  一角は、うごかなかった。後ろの脇差へ飛びついて、片膝を立てたのみである。お八重は、顔いろを――身の置場を失って、意味の聞きとれない言葉を発しながら、一角の手をつかんで、無理に、無性《むしょう》に、 「ここにいては。裏! ……あっ、いけない、そこの納戸《なんど》へ」  一角は、その手を、振り払って、 「――退《ど》いていろッ」 [#7字下げ]三[#「三」は中見出し]  途端に。  ばさっと、庭先の連翹《れんぎょう》の花が、嵐みたいに揺れた。垣を踏みこえて来た激しい物音から、一箇の人影が、縁側へ、躍り上がった。 「――おのれっ、一角だな」 「おっ、木村丈八郎か」 「人の噂は、嘘でなかった。近頃、城下をうろついている犬みたいな浪人が、わしの留守へも、忍んでくると言っていたが、おのれ、何しにここへ――」  と、鐺《こじり》を上げて、ぶるぶると、右手の拳《こぶし》に、鍔音《つばおと》をさせた。 (この男か)  と、一角は、そういって、ジリジリと前へ迫ってくる鋭い眉目《びもく》を見上げた。彼の淡い四年前の記憶では、まだ竹刀《しない》をかついで、よく道場通いの途中で見かけた前髪の小童《こわっぱ》であったが、今仰ぐと、二十歳《はたち》か、一か、末娘のお信の方に似てやや丸顔な、唇《くち》の大きな、そして、健康にはちきれている逞《たくま》しい青年だ。 (……ウーム、なるほどできるな)  直感的に一角も、ぴりっと、構えを、呼吸《いき》を、反射しながら、 「丈八!」  と、威圧的に、あびせて、 「いつぞや、青砥弥助と湧井半太夫の両名から、貴様に伝えたことがあろう」 「だまれ、この場合に。――それを問うのではない、何で! 何の用があって! 女ばかりの留守を狙《ねら》って」 「それは、てめえの姉に訊《き》け。おれは、お八重の媚《こび》に釣られて来たまでの戯《たわ》れ男《お》」 「な、なにっ」 「しかも、こっちは旅の人間、不義をあらだてては女の損――まあ、それは後の裁きにまかせる。――俺は、さし当って、会ったが幸い、てめえに糺《ただ》す一言がある」 「恥知らずめ」  丈八郎は、憎悪そのものの眸を、俯《う》つ伏《ぶ》している姉へも投げた。が、すぐそれが、一角の眼を見ると、よけいに、焔《ほむら》となって、 「不義を見つけられて、居直る所存だな」  と、罵詈《ばり》した。  あざ笑って、 「てめえは、まだ、女を知らぬな。そう野暮に、棘立《とげだ》つものじゃない。俺の聞きたいという一言は、いつぞやの返答。――どうしても、嫌か。――千坂兵部殿の苦衷《くちゅう》を買って、吉良家へ行ってやる気はないか」 「賢明人の御家老様が、何で、おのれ如き素浪人に、そんな大事なお打明けなさるものか。よしまた、真《まこと》であるにもせよ。丈八郎には上杉家の藩君がある。――ばかなッ。脱藩して吉良殿の付人に、身売りなどとは、思いよらぬ沙汰だ」 「では、どうあっても、嫌か」 「とっとと、この米沢から退去すればよし、いつまでも、うろついていると、命はないぞ」 「待てっ。――俺のいう事を先にいうな。命がないぞとは、こッちの切り札。千坂殿の密策を聞かしたからには」  立つ――同時に、 「丈八郎、命はもらった」  と、鞘《さや》はうしろに飛ぶ、刀身は前に、そして、一角のからだは畳一枚、踏み出していた。 [#7字下げ]四[#「四」は中見出し]  風を切って――横に。  ばすっと、丈八郎が一角の出ばなを薙《な》いだ。 「あっッ……兄様っ」 「お信、あぶない」 「やめて! やめて!」 「ええ、邪魔」  と、妹をつき倒して。――柄《つか》を持ち直して。 「さあ、来い一角」 「おう、退《ひ》くな」 「何を」  ち、ち、ち、ち……と刃と刃の先が鳴り合った。  押す。もどす。――丈八郎は、挑《いど》みかけた。――フウッと、一角の技《わざ》に引かれて、はいると一気に、 (この顔ッ)  と、真っ向を睨んで、斬りつけた。  だっッと、一角は、退がった。背なかを、襖《ふすま》にぶつけたので、襖は、次へ倒れた。ベリッと、それを踏んで、よろめくと、 (しめた)  と、丈八郎は、盲目的に、躍って、揮《ふ》り下ろしたが、一角は、反対の方へ、ぽんと、飛びかわして、 (それは柱だっ)  と、罵倒《ばとう》した。  丈八郎の刀は、斜《はす》かいに、隅柱へ斬りこんだまま、抜けなかった。とたんに、うしろへ一角の刃を、感じたので、手を離して、振り向くせつなに、さっと、真っ赤なものが、自分の腕にも、胸にも、部屋にも、眸いっぱいに見えた。  ウーム……と、誰か、分らない呻《うめ》きがながれた。行燈《あんどん》は、消えて、倒れた弾《はず》みに、ころころと、灯皿が白い煙の糸をひいて、独楽《こま》みたいに、部屋を廻った。  ウウム……と、二度目の苦鳴を聞いたとたんに、 「あッ――お信が」  と、発狂したように、お八重がさけんだ。  丈八郎も、一角も、はッと気を抜いて、 「おうっ?」  と、跳びひらいたまま、一瞬、茫《ぼう》となって、畳に、もがいている意外な犠牲者の影を見つめたが、丈八郎は、自分を目がけた一角の刃が、弾みに、罪のないお信を斬ったことに、気がついたので、 「妹の仇っ」  と、喚《わめ》いて、 「――動くなっ、そこを」  と、小脇差で、突っかけた。  組長屋である、裏の屋敷でも、隣でも、深夜の物音にさわぎ出した様子である。一角は、書院窓を蹴やぶって、縁から、飛び下りた。  盗賊。――盗賊。  そんな声が、八方に聞えて、彼はよけいに戸惑ったが、うしろから、 「卑怯ッ」  と、よぶ丈八郎へ、 「後日っ」  と、言い返して、木戸へ、肩をぶつけて突き破るがはやいか、地を躍って、深い闇へ、魔形《まぎょう》に似た提《さ》げ刀《がたな》の光を、何処ともなく、晦《くら》ましてしまった。 [#7字下げ]五[#「五」は中見出し] 「――斬られたと? だ、だれが」 「盗賊ではないのか」 「灯りを。――どなたか、灯りを先に点《つ》けてください」  組長屋のものが寄って、そこに、ぶち撒《ま》かれた鮮麗な血と、お信の、むごい姿とを、見た時は、いつのまにか、姉のお八重は家の中にいなかった。  勝手口の戸が一枚、開いていた。――恥かしい! と丈八郎はくちびるを噛んだが、人々が、驚きと、焦燥《しょうそう》に、気づかずにいるので、口に出さなかった。 「――助かる。背すじだ、薄傷《うすで》だ」  来あわせた老人が、お信の黒髪を、膝にかかえ入れて、白晒布《しろさらし》を、勢いよく裂いているのに、丈八郎は、初めてわれに返って、 「た、助かるでしょうか」 「切ッ尖だからの。もう二寸、肩へはいったら。――焼酎《しょうちゅう》を早く、焼酎を」 「お信っ。お信っ……」  丈八郎の眼はうるんでいた。  医者がくる。お信は、意識をひらくとすぐ、 「姉さんは……」  と、ほそい声で、訊ねた。 「そんな事、訊いてくれるな」  夜具の下で、手を握りあって、丈八郎とお信は泣いた。――淫《みだ》らをしたお八重こそあの場で、斬られてしまえばとさえ思うのだった。 (お八重さんが見えない――) (男と逃げたらしい)  組長屋から、家中へ、そんな噂が、ぱっと立った。  傷は、日にまして快《よ》くなって行ったが、お信も、それを心に病《や》むらしかった。兄に対して、何か、悔悟《かいご》と、叱責《しっせき》を、恟々《おどおど》と待つ気ぶりも見える。 「兄は留守がちだが、お前は、いつも家にいたのだ。あの一角と、姉と、不義のほかに、何か事情《わけ》でもあったのではないか」  丈八郎が、ある日、こう問いつめると、 「いいえ」  と、お信は、首を振った。 「ふいに、兄様が帰るとか、人が訪ねてくるといけないから、外を見ていよといわれて、いつも、垣根《かきね》の所に、立っていただけです」 「そうではあるまい、何か、他に仔細があろう。言え。兄は、どんな事があっても、お前には、怒りはしない」 「じゃ……」と、お信は、考えて、 「何もかも、話しますけれど、兄様、怒ってはいやですよ」 「む……」 「一番上の――お里姉様を殺した人は、あの一角じゃないでしょうか」 「えっ。どうして」 「でも、私は知らなかったけれど、お八重姉さんが、そう言いました。だから、私も今に、きっと、あの一角に殺されるのかも知れないって。――それでも――殺されても関《かま》わないから、私は、あの人を忘れることはできないと、私にだけ、口ぐせに、言っていました」 [#7字下げ]六[#「六」は中見出し] 「不審だな。一番上の姉のお里は、同藩の市岡|氏《うじ》へ、嫁ぐ約束になった時、それを嫌って入水《じゅすい》したのだから」 「いいえ、嘘です。――それもこれも、一角のつけ智恵で、ほんとは、江戸へ行って一緒に暮しているうち、一角に、殺されたのです」 「どうしてお前は、それを、はっきり言える」 「お八重姉さんが、この間、拾って来た物があるんです。うちのお墓のそばに、差し込んであった銀の釵《かんざし》、不思議に思って、寺男に聞くと、三十近い浪人が姉さんのお詣《まい》りをする前に、埋《い》けて行ったというではありませんか。それが、一角なのです」 「お八重は、自分の姉と、そうした悪縁のある一角と知りながら、なぜまた、あんな男に引きずられて……」 「だから、私にも、お八重姉さんの気持はわからない。なん度、泣いて、意見をしたか知れませんが」 「血だなあ」  丈八郎は、ほっと、重い吐息をついて、 「――争えないものは、血すじだ、親から生みづけられている人間の血の運命だ。――お信、その釵はここにあるか」 「いいえ、お八重姉さんは、お墓から、それを見つけて来た日から、肌身に離したことはありません」 「そうか。……いやそうだろう。あの銀の釵なら、二女《ふたり》の母親が、若い頃に挿《さ》していた品、その釵が、淫奔《いんぽん》な血とつき纏《まと》って、お里に愛され、お八重にまで持たれて行った――怖ろしい気がする」 「兄様。いま仰っしゃった二女《ふたり》の母とは――それは、私たちのおっ母さんとはちがうのですか」 「亡父《ちち》の過失《あやまち》。わしも、深くは知りとうないし、きょうまで、姉妹《きょうだい》の気持にけじめは持たなかったが、異母胎《はらちがい》じゃという事は、さる人から、聞いていた。――その母という人は、美人ではあったが、癆咳《ろうがい》で、若死にをしたという話も……」  夜具の襟が、さめざめと、ふるえるのだった。丈八郎は、 「泣くな」  と、宥《なだ》めて、 「おまえと、わしは。……おまえと、わしだけは。ほんとの武士の子だ、武士の娘だ」  と、蒲団ぐるみ、抱きしめた。  そこへ、裏町の――軽輩な家中へ内職の仲継《なかつ》ぎをしている老人が、見舞に来て、憤然と、 「丈八郎殿、貴公、とんだ濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》をきておるぞ」  と、尖った拳《こぶし》を、膝において、いうのだった。 「何事ですか、この、丈八郎の冤罪《えんざい》とは」 「貴公、清水一角から、金を取っておるか」 「ばかな」と、一苦笑に、 「なんで、彼奴《きゃつ》のごとき、人非人から。――恨みこそあれ、金子《きんす》などを」 「ところが、世間は、そう視ておらん。――例の、湧井と青砥の二人が、脱藩した事から、貴公にも、疑いがかかっておる。一角とぐるになって、米沢藩の腕利《てき》きを、他藩へ引きぬいたのだと申しおる。――でなければ、お八重どのが」  と、硬骨老人も、そこだけは、少し、遠慮していうように、 「――一角について、逃げるわけもないし、それを、兄たる丈八郎が、黙って見ておる理《わけ》もないと。――ま、一理あるな。そう申しおる」 「ウウム……左様でござりますか」 「処分せいとか、斬れとかいう声が高い。もし、重役が、家中の声に動かされると、切腹とくる。絶家、物笑い。――わしは近所に住んで、御気性も知っておるで、犬死にはさせとうない。逃げたらどうだ、今のうちに」 「あなたまでが、拙者を、左様な、卑怯者と……」 「いや、逃げるといったのは、わしが悪い。冤《えん》を雪《そそ》ぐのだ、潔白を立てるのだ。――それには」 「は」  と、丈八郎の眼が光った。 「一角の首を、米沢へ、引ッさげて帰藩する。それより潔《いさぎよ》いことは、あるまいが」 「有難う存じます。よくこそ、御注意を」  で、――なくとも、燃えるような憎悪。血こそちがえ、姉の仇《あだ》。  彼の家も、それから、ここ二、三日の後には、住み手のない空家となった。まだ、狼藉《ろうぜき》の夜の足痕《あしあと》の残る、裏庭の連翹《れんぎょう》の花は、春をいたずらに、みだれて咲いて――。 「若いな。……は、は、は」  その二人を、門口から見送った朝、何か、意味ありげに、こう笑って、吾家《うち》へはいった老人は、これまた、俄《にわ》かに、旅支度をして、いつの間にか、米沢からいなくなっていた。 [#3字下げ]いなずま八荒[#「いなずま八荒」は大見出し] [#7字下げ]一[#「一」は中見出し] (おや? ここでも会った。――妙に何処でも会う老人)  と、思うまに、駕《かご》のタレを刎《は》ね上げた一角の姿を見つけて、先でも、同じように、 (おや)  と、いう眼いろを閃《ひらめ》かせた。  涼しい木蔭では必ず会う。酒を売る所、三味線のある所、この老人に、出会わないことはない。 「駕屋、一汗拭け」 「ありがとう存じます。――旦那あ、短気だから堪《たま》らねえ、この炎天に、こんなに飛ばしたこたアありませんぜ」 「心太《ところてん》でもすするがいい、ああ、ここは涼しそうだ。老爺《おやじ》、床几《しょうぎ》を借りるぜ」  須賀川《すかがわ》並木の一軒茶屋。  松の根がたに、駕を置かせて、ずっと日蔭へはいると、さっきから、馴つッこい顔を向けていた旅商人《たびあきんど》の老人が、 「おっと、と、と。旦那あ、其処は」 「なんだ」 「よけいなお世話のようですが、さっき掛けた女衆が、嬰児《あかご》に粗相《そそう》をさせたんでまだ、尿《しし》で濡《ぬ》れている筈で、――お値だんは同じ事、こちらへ、お腰かけなさいまし」 「そうか、女衆の粗相ならよいが、嬰児のでは、あやまるとしよう」 「はははは。飯坂《いいざか》では、だいぶお賑《にぎ》やかなことで」 「二、三度、温泉壺《ゆつぼ》の中で、ぶつかったな」 「旦那も、覚えておいでになりますか」  ぷっと、煙草《たばこ》の火玉をふいて、風に、ころがり出したのを、雁首《がんくび》で抑えながら、 「足かけ二月《ふたつき》、永い御湯治《ごとうじ》で。――てまえが、仙台から、会津福島の花客《とくい》を、ぐるりっと、一廻りして来ても、まだ御滞在と聞いたには驚きましたな」 「何屋だい――老人は」 「どう見えますかの。町人には、相違ございませぬが」 「そうだな……。黒焼屋《くろやきや》か」 「さすがに、女向きな所を仰っしゃる。だが、違います」 「薬屋でもなし、呉服屋でも」 「だんだんお近くなりますな。実は、その辺――繭仲買《まゆなかがい》の銀六と申して、こ覧の通り、秤《はかり》一本、腰にさしたのが飯の種です。出店は、諸国の桑《くわ》ある所、住居は、繭の中とでもいいましょうか、いやもう、のん気な風来商売で、歩いてばかりおりまする」 「繭買か。なるほど」 「いやですぜ、顔を見て。――顔がさなぎ[#「さなぎ」に傍点]に似ているなんぞは」 「人間のさなぎ[#「さなぎ」に傍点]は、老人《としより》ばかりじゃねえ。俺なんぞも、若いさなぎ[#「さなぎ」に傍点]の方だろうよ」  と、自嘲をうかべた。 「御謙遜《ごけんそん》で」  と、銀六老人は、首を振って、 「どうして、飯坂あたりの夜ごと日ごと、酒よし、女よしの、あのぶん流し振り、いやもう、恐れ入ったものでした」 「ひどく、感心するな」 「いたしますとも、真昼、北上川の温泉壺《ゆつぼ》の中に、白い首と、旦那の首と、二つならべて、河鹿《かじか》を聞いているなんざあ、言語道断」 「よくねえ老人《としより》だ。いつのまにか、俺の悪い所ばかりを、覗《のぞ》いていやがる」 「は、は、は、は。それからまだ――福島から来ていた後家殿を何して」 「もう沢山」  と、焼酎《しょうちゅう》の茶椀をさしあげて、 「亭主、代りを」  しゃべっているまに、軽く五合はのんでいる。 [#7字下げ]二[#「二」は中見出し]  近頃は、酒が、水みたいに飲めるのである。 (自暴《やけ》に、身を腐らすというものは、底のねえものだ)  と、一角は、自分で自分の早い転落を、あきれた眼で、ながめられた。  千坂兵部《ちさかひょうぶ》に、 (人間も三十に近いとなれば――)  と、心機の一転を啓発されて、江戸を、立った頃は、もう底まで行ったやくざ者と、自分の堕落《だらく》を嘆いたものだったが、今を省《かえり》みると、それから更に、一歩も二歩も、やくざの沼に辷《すべ》り込んでいる。 (己惚《うぬぼ》れではなく、人並以上の腕を持つ一角が――)  と、腐ってゆく、身の脆《もろ》さを、殊に、若さを、口惜しく思わぬでもないが、どうにもならない――宿命的なものが、折角、志した米沢でも、尾《つ》いて廻った。  第一の原因は、木村丈八郎の話の不調。それから、こっちの密策が洩れたこと。お八重が、うすうす自分とお里の秘事を知ったらしいこと。清水一角ともあるものが、罪もない小娘を、過《あやま》ってでも、斬った事。  一つも、いい事はない。 (千坂兵部へ、何といって、顔をあわせよう。――見込んでといわれて、米沢へ。――ああいけねえ。男が、男に、見込んでといわれる程、苦手なものはねえ)  悶々《もんもん》として、あれからの一角は、旅が、捗《はかど》らなかった。悪い原因は、もう一つある。それは懐中《ふところ》に、兵部から貰った多分な金があることだ。  で、つい―― (ままよ)  と、酒。女。――若い骨が、腐るまでと、五十年の道中を、たった、三月か半年に、縮めようと努力している一角だった。 「どれ、そろそろ」  と、腰を上げると、繭買《まゆかい》の銀六老人が、 「今夜は、白河で」 「いや、陽いッぱいに、大田原までは、のせるだろう」 「ついでの事に、夜旅をかけてもいい。今市《いまいち》とまで、突っ走りとうございますね」 「行くか、交際《つきあ》え」  異存はなかった。  駕へ、酒をつませて、今市を指して飛ばした。夜を越して、草露に濡れた駕が、へとへとに疲れて、酒と白粉の宿場へ、抛《ほう》りこまれたのはその翌日――。  三日ほど遊んでいるうちに。 「驚いた老人《としより》だ。酒も強いが、何ていう芸人だろう。してみると、俺などは、極道《ごくどう》にかけると、まだまだ嘴《くちばし》が青いのかも知れねえ」  と、繭買の銀六老に、一種の尊敬をもってきた。猥談《わいだん》、酒談、博戯《ばくぎ》、悪事と諸芸、道楽の百般にわたって、この老人の該博《がいはく》さは、驚くべきものだった。――といって決して一角を、女たちの前で、子供あしらいにするではなく、実際に飲んで遊ぶとなればなお、面白い。彼自身が、苦労も何も忘れているばかりでなく、相手をして、ほんとに、顎《あご》を外《はず》して遊ばせるのである。 「なぜ、おめえは、秤量《はかり》なんぞを、腰に差していねえで、幇間《たいこもち》にならなかったか」  と、一角が、上わ唇を舐《な》めあげて聞くと、 「あいつが、楽な商売に見えますかい」  と、老人は、一蹴に答えて、 「それよか、旦那あ、なぜ一本ですむ物を二本差して、窮屈《きゅうくつ》がっているよりも、さらりと、博奕打《ばくちうち》にでもならないのか、わしゃあ、ふしぎ……」と、真面目にいった。  女たちが、話の深味を、はきちがえて、 「博奕《ばくち》ならば、今、日光には、大きな賭場《とば》ができていますから、私たちが、男だったら」 「そうそう」と、老人は、膝を打って、 「陽明門の御修築で、諸国から、職人たちが集まっているせいだろう。あれはすばらしい。日光の賭場を知らずに、博奕は語るな。旦那あ、どうですな」 「行こう」  思い立つと、すぐだった。  気まぐれではない――ここの払いをしてみると、一角は、もう底の透いてみえる持ち金に、少し、心細さもあったのである。 [#7字下げ]三[#「三」は中見出し]  あぶら蝉《ぜみ》、みんみん蝉、日光山がジイ――ッと啼いているようだ。 「馬鹿なやつじゃねえか。あれが、ほんとの、自暴《やけ》のやん八」  香りの高い檜《ひのき》の板を、削り台にそろえて、十人ばかりの大工が、絹よりうすい鉋屑《かんなくず》を舞わせながら、 「ふふむ、あの浪人者か。山の大賭場《おおとば》へ割りこんで、素ッ裸に、取られたっていうなあ」 「素人《しろうと》のくせにしやがって、諸国の親分が出張っている盆へ行って、商売人の金を取ろうっていう量見が、第一、押しがふてえ」 「だが、毎日、そっちこっちの工事場で、寝てばかりいやがって、邪魔になってしようがねえな」 「先へ行く路銀も失くなったんだろう。賭場《とば》をのぞいちゃ、金をゆすッて、ああして、酒ばかり食らってやがる。――まさか、左官や塗師《ぬし》の手伝いもできず、侍もああなっちゃお仕舞だな」 「叱《し》ッ……。やたらに、大《で》けえ声を出すな。眼をさますぞ」  鉋音《かんなおと》を止めて、職人たちは、後ろを見た。板小屋の横の板束の上に、清水一角は、涎《よだ》れをたらして、寝ていた。  連れの銀六老人は、いつともなく、別れたものと見える。 「ううむ……」と、寝返りを打って、あぶなく、板束の上から、転がりかけて抱きついた。  毛脛《けずね》が、出ている。鋸屑《おがくず》だらけな髷《まげ》が、そッくり返っている。二寸ほど鞘辷《さやすべ》りしている大刀の刀身も、賭場で、勝負をしてしまったのか、あわれにも、竹である。 「態《ざま》あねえな」  職人たちは、べっと、唾《つば》をして、鉋《かんな》に腕の縒《より》をかけ初めた。 「おう、何をしているんだお八重、はやく来ねえか」  向う側の参道並木――杉や燈籠《とうろう》で鬱蒼《うっそう》として、人影は見えないが、胴間声《どうまごえ》で、こう呶鳴《どな》っている者がある。  板小屋の横をのぞいた女の顔が、それへ、あわてながら、 「はい、今すぐに――」と、答えながら、一角の寝すがたへ、何か、結んだ紙片《かみきれ》らしいのを、抛《ほう》りつけて、ばたばたと連れの方へ、駈けて行った。  ひら、ひら、と白い結び文は、鉋屑《かんなくず》といっしょに舞っていた。  今、眼をさましたのか、寝ているはずの一角の眼は、赤く濁った眼を開いて、じっとそれを見ているのだった。今、通りすぎた男女《ふたり》の足数でも心に測っているように。  やがて。  むっくりと起きて、それを拾った。読むとすぐ、裂いて、袂《たもと》に突っこみながら、 「ああ、喉が渇《かわ》いた」  と、まだ幾分か、宿酔《しゅくすい》の眼まいを感じるらしく、ふら、ふら、と御手洗《みたらし》の方へあるいて行った。  風が、山をうごかしてきた。喬木の魔形《まぎょう》が雲のはやい空に揺れて、唸っている。足場の人影は、あわただしく、活溌になって、木ッ葉や、鉋くずが、地に舞った。 「ちょっと伺います。――職人衆、仕事のお手を止めて、恐れ入ります」  仕切帳でも包んであるのか、小風呂敷を腰から前へ結んで、矢立に、道中差、千種《ちぐさ》の股引《ももひき》を見せて、尻端折《しりはしょり》をしている、若い商人《あきんど》ていの旅人だった。 「――来るぜ、ひと夕立」  と、雪脚《くもあし》に趁《お》われて、ばたばたと、片づけ仕事に慌《あわ》てていた大工たちが、 「なんだい。物売りなら、明日《あした》来ねえ」  いい加減に、答えていると、 「いえいえ、てまえは、縮布屋《ちぢみや》の手代で、物売りではございません」と、若者は、ていねいに挨拶をし直して、 「伺《うかが》いたいのは、実はこの日光の御普請場《ごふしんば》に、賭場《とば》があるそうで」 「おい。邪魔だな、あぶねえぜ」 「はいはい、相済みません。――その賭場に、十日ほど前から、清水一角という浪人が、遊びに来ているという事を、ちらと他《ほか》から耳にしたのでございますが、どなたか、御存じでございましょうか」 「知らねえよ、一角なんていうな」 「でも、慥《たしか》な所から……おかしい。間違いはないような話なのですが」 「幾歳《いくつ》ぐらいな浪人だい」 「やがて三十近い――どこか凄味《すごみ》のある痩《や》せた男でございます」 「じゃ、あれじゃねえか。縮布屋《ちぢみや》さん、あの板屋の横に、昼寝をしていたが」 「えっ」  と、身をかわすように、縮布屋は飛び退《の》いて、 「――何処に?」 「おや、いつのまにか、見えねえようだ。何処へ行っちまったのか」  すると、一人が、 「あの浪人者なら、たった今、町から帰《けえ》ってくる途中で打《ぶ》つかったが、何か、一本槍に、宇都宮街道の方へ、急いで行ったぜ」 「え、宇都宮の方へ。――そうですか、いや大きに」  縮布屋の手代は、そう聞くと、笠を持ち直して、まっしぐらに、神橋《しんきょう》の方へ、走ったが、姿を見つけると、橋の袂《たもと》から、 「あっ兄様。ここに」  と、十五、六の順礼娘が、 「分りましたか」  と、側へ駈けてきた。 「おお、お信。よろこんでくれ」  と、息の弾みにも、その欣びを昂《たかぶ》らせて、 「相手は、分った。やっぱり、ゆうべそっと報《し》らせてくれた人の告げは、嘘ではなかった。……しかし、あれは誰だったろう」 「ほんとに、不思議な。――今朝|旅籠《はたご》を立ってから、ふと見ると、兄様の菅笠の裏に、そんなお告げが書いてあったなんて。……まるで神様が」 「いや人間の字だよ」と、縮布屋《ちぢみや》は、笠の裏を返して、読み直しながら、 「お前は、そうして順礼姿、わしは、縮布屋の丈八と身なりまで変えて、こうして相手の一角を狙《つ》けているなんていう事は、旅先で、知ってる者はない筈だが? ……」  ぽつと、雨が、顔に触った。 「オオ」と、丈八は、落着かない眼を空に、 「今、普請場できいた話には、その一角は、たった今ほど、宇都宮の方へ行ったというのだ。――お前は女の足、わしと一緒には、駈けきれまいし、といって、ここで一歩の差は、百里の差になる。……ああ困ったな」  と、焦心《あせ》り顔に、つぶやいた。  すると、さっきから、森の薄暗がりに、黙然と腕を拱《く》みあわせて、こっちをながめていた繭買《まゆかい》の銀六老人が、のそ、のそ、と歩いて来ながら、 「丈八さん、お信どのは、わしが預っておる。そんな事に、気をひかれずに、早く相手を追ッて行きなさい」 [#7字下げ]四[#「四」は中見出し] 「やっ、御老人」  と、丈八はびっくりして、 「あなたは、米沢の裏町にいた――」 「まあ、そんな事は、どうでもよい。実は、貴公たちが、発足《ほっそく》して後、わしも江戸の親戚《みより》に急用が出来てな」 「もしや、ゆうべのお報らせは」 「実は、おせっかいだが、わしの教えた事だ。今市へ泊った晩に、相宿《あいやど》の者からひょいと聞き込んだので」 「存ぜぬために、お礼も申さず」 「いやいや、こッちに都合のわるい連れがいたので、わざと、お会いしなかったのじゃ。――だが、今聞けば、一足ちがいで、ここを立ったという事。はやく行かっしゃい、時遅れては」 「では、お信は、まだあの傷手《いたで》の病み上がり、どうぞ」 「ああ、心配しなさるな。どうかけ違っても、わしが、ひきうける」 「安心しました、それでは」 「一角も、剣を把ると、名だたる腕利《てき》き。ぬかりはあるまいが、油断はせまいぞ」 「その儀は」  と、初めて、明るい一笑を投げて、丈八は、宙を翔《かけ》るように、街道を急いで行った。  みだれる雲――疾風《はやて》の叫び――行《ゆ》く方《て》は宵闇《よいやみ》ほど暗かった。時々、青白くひらめく稲妻が眸《ひとみ》を射、耳には、おどろおどろ、遠い雷鳴《かみなり》がきこえてきた。       ×   ×   × 「あっ――傘が」  と、男女《ふたり》は、柄《え》を持ちあった。  び、び、び、と傘の耳を鋭い風の戦慄《せんりつ》と、雹《ひょう》みたいな雨つぶの音が、横に、なぐッて行く。  鹿沼《かぬま》の、博奕打《ばくちうち》、玉田屋の酉兵衛《とりべえ》は、この一夏で、日光の出開帳《でかいちょう》から上げた寺銭の大部分を、今、連れてゆく、孫のようなお八重の身代金に、投げだしたといわれていた。  お八重は、今市の茶屋へ、出たばかりな女だった。道中悪にかどわかされて、そこへ、捨て売りにされただけに、素人《しろうと》くさいのと、武家出の女という事が、酉兵衛の心をうごかした。金で、花街《まち》から抜くとすぐ、中禅寺の乾分《こぶん》の家にあずけて、時折、 (どうだ、景気は)  などと、そのお八重を連れて、二人で、見せびらかしにでも歩くように、賭場《とば》へ出ることもあった。  で、一角とも、場所で、二度か三度は、会ったはずである。――だが、お八重は、噯《おくび》にも、彼との事などを、酉兵衛《とりべえ》に洩《も》らしている気遣《きづか》いはなかった。  きょうは、細尾の身内に、祝い事があるので、山を降りた。お八重は、それをどんなに待ちかねたろう。酉兵衛が、駕でというのを、何のかのと、歩かせて来たのも、彼女の考えからだった。 「みろ、言わねえ事じゃねえ。ぽつぽつ、降ッて来たじゃねえか」 「でも、相傘なら、いいじゃありませんか」  傘の蔭から、お八重は、時々、後ろを気にしていた。そして、跫音を感じると、 「あらっ」  と、不意に、傘の手を離して、それを、追うように見せて、身を交《か》わした。 「あぶねえ。大谷川《だいやがわ》へ墜《は》まるなよ」  雨に、眼をつぶりながら、振向いたとたんである。蓑《みの》を、頭からかぶって、向う見ずに駈けてきた男が、どんと、胸いたへ肩をぶつけて来たと思うと、酉兵衛の脇差の柄《つか》へ、手を伸ばした。 「何をしやがる」 「かッ!」  蓑を刎《は》ねた浪人者の顔を、酉兵衛は、あっと、一眼見たきりだった。ずばっ――と片手なぐりに、肋骨《あばら》へ斬り下げられて、 「ウーム……」と、真ッ赤なものを吐く爬虫類《はちゅうるい》みたいに、手も足も縮め込んで、雨の中を、転がった。  どぼうん――と大谷川に、飛沫《しぶき》が立った。  激流は、人間の血あぶらと、背なかだけを見せた丸っこい死骸とを、一瞬のまに、流して行った。 「しばらくだったなあ……」  一本のやぶれ傘の中で、男女《ふたり》は、笑い顔をながめ合って歩いた。雷光《いなびか》りが、絶えず、白い雨を見せて、睫毛《まつげ》のさきに閃《ひらめ》いていた。 [#7字下げ]五[#「五」は中見出し]  きょうまで、どんなに苦労をしたろう、探したろう、そして、寝る間も――というような事を、女は、雨も雷鳴《かみなり》も――濡《ぬ》れる冷たさも、うつつに、昂奮《こうふん》してしゃべった。 「金は」  一角は、お八重が、いい加減、言いくたびれるのを待って、 「――持って来たろうな」 「金なんか……。江戸へゆけば、思案の上で、どうにかなるでしょう。路銀さえあれば」と、帯を、ちらと覗いた。 「じゃ、支度をして来なかったのか」 「ええ。……だって、とても乾分《こぶん》たちの眼があって」  女は、一角の期待していた重点には、まるで、無関心のように、 「でも、私は、嬉しい」  と、傘の柄にある男の手を、上から、痛いほど、重ねて握りしめた。 (馬鹿。馬鹿。馬鹿)  自分へか、女へか、一角はむらむらと、やり場のない、怒りを感じた。――まるで食い違っている女と自分とが、こんな吹き降りの中を、一本の傘で、歩いている物好きさが! (金なのだ。俺がいま欲しいのは。――江戸へゆけば、兇状だらけ。千坂の屋敷以外には、身のおき所もねえ体)  だが、足は、この日光街道は、まっ直ぐに、中仙道から江戸へ向いている―― 「ちッ」と、思わず、唇をゆがめて、 「ああ、酒がさめた。酒が恋しい」 「そんなに、この頃は、飲むのですか」 「半日も、一刻《いっとき》も、酒がなしじゃいられねえ」 「私が、側にいるようになったら、そんな毒なものは、もう飲《あ》げない。そして可愛がってばかりあげる」  一角は、ふいに、傘の下を、脱け出した。 「あら、何処へ」 「居酒屋だ」  戸を細めている真暗な居酒屋の軒下に立って、一角は、枡《ます》をうけ取った。樋《とい》の雨水が、ざっざと、背なかを打つのであった。  ぐうっと、眼をねむって一息に―― 「おお、美味《うめ》え。――亭主亭主、もう五合」  一升の冷酒《ひや》は、一角の体温をほどよく温めた。あきれて、後ろへ立っているお八重へ、 「オイ。銭を払え」  お八重が、帯の間から数える小銭を見て、彼は、さらに、女の貧しさを憎んだ。それは、二晩の旅籠代《はたごだい》にもたりない。 「面倒だ――剰銭《つり》は――こう亭主、剰銭の分だけ、追い足しに」  さすがに、酔《よい》が、いっぺんに、発して、一町ばかり歩く頃から、雨が、逆さに降ッてるように見えた。 「濡れますよ。傘の中に、はいっていないと」 「ええ、小うるせえ」  と、女の手を、肩を振って、振り落して、 「――てめえは一体、どこへ行く気だ?」 「あんな事をいって。江戸へでしょう。そして、私には、お里姉さんのように、江戸唄のお師匠様にはなれないけれど、針仕事ぐらいはできるから」 「だれが、そんな夢を見ろと言った。一角は、天下の無宿、おめえなどと、巣を持つ土地さえありゃしねえ。――ばかばかしい、金でも持って来るかと思やあ……」 「清水さん。おまえ、それは本気で」 「本気も嘘もあるものか。元々、一角は、浮気者だ。浮気者なればこそ、禄にありついたと思うと、そいつに身を破る。こっちの身を破らせておいて、女は、後じゃ恨みつらみ……。それを思うと、酒は可愛い。おれはこれから宗旨をかえて、生涯酒を無宿の女房ときめる。……へッ、へッ、へ、へ。よくもここまで俺も……は、は、は」 「何が……何がおかしいのですえ。……じゃ清水さんは、初めから私を」 「あたりめえだろう。てめえも、武家の出戻りでありながら、ただ、行きずりの一角に、すぐ手を出せば乗るなんざ、女庭訓《おんなていきん》を外れている。身から出た錆《さび》」 「な、なんですッ」 「おっ――あ、あぶねえ、食いつくのか」 「口惜しいっ……。く、口惜しいっ……」 「泣け泣け。肩なら、いつまででも貸してやる。……おお、何か落ちた、髪《あたま》の物が」  お八重は、雨の中へ、手をのばして、 「あ……姉さんの罰《ばち》」 「姉さん?」 「――堪忍して、堪忍して」  と、拾った小さい物を、抱きしめた。  ぎょっと、彼女の手へ、一角は――酒と血とを、交ぜたような、どろんとした眼を、すえて、 「何だ? ……それは」 「釵《かんざし》」 「畜生ッ」  雨が――きゃあッ――という悲鳴を吹き攫《さら》ッた。  小脇差で、たった一打ちに、お八重の首を、ぶらんと、斬って伏せた一角は、どっどと、雷《いかずち》にあわせて鳴る大谷川の激潭《げきたん》のふちを、蹌々《そうそう》と――踉々《ろうろう》と――刃の血を、雨に、洗わせながら歩いて行く。  どこの追分で、道をちがえたか、それとも、裏街道と、早まって、先へ追い越してしまったのか、縮布屋《ちぢみや》丈八は、とうとう、一角の姿を見出さなかった。 [#3字下げ]吉良家の人々[#「吉良家の人々」は大見出し] [#7字下げ]一[#「一」は中見出し]  江戸らしい。どうしても。  あらゆる物証からも、六感からも、丈八はそう教えられて、日ごとに、江戸中を探していた。  初秋の二百十日過ぎ。――町には、祭りの提灯《ちょうちん》、花車《だし》、シャンギリの音が――そして空には赤とんぼが、江戸の秋を染めている澄んだ日だった。 「御用っ」  左衛門橋を、ばらばらっと人が――声が飛んでった。  砂利場の砂利に、腰を下ろして、 (銀六老人にも、あのまま、別れっ放しだが、お信は、守っていてくれてるだろうか。あの物堅い老人ゆえ、安心は安心だが)  と、すこし疲れた面もちに、考えていた縮布屋《ちぢみや》丈八は、 「何か?」  と、橋の跫音に、顔を上げた。  とたんに――一箇の物体が、視線をかすって、橋の袂から、河へ。――と思うと、どぼうんと、白い飛沫《しぶき》が、丈八の顔にまでかかった。 「石?」  と、丈八は、思ったが、橋の欄《てすり》に、足をとめた町方や、捕手や、弥次馬の群れは、 「飛びこんだ、飛びこんだ」 「あの辺に――」 「水がうごいている」  わいわいと、指さしているうちに、町方同心が、指図をする。捕手たちが、そこらの舟へ飛びうつる。竿《さお》で突く、鉤《かぎ》を投げる。 「――はてな?」  丈八だけは、その人々が、みんな視力の錯覚にかかっているように見えた。で――何気なく、そこを離れて、橋袂《はしたもと》から、欄干《らんかん》にかけて、背中ばかり並べている群集の空地を見ると、今、捕手たちが追い込んで来た元の方へ、ふところ手にして、にやりと、笑いを歪《ゆが》めながら戻ってゆく男がある。  ごくッ……と、丈八は、喉《のど》に生唾《なまつば》をつかえさせた。似ている! と思う直感と、たしかに! という直感と、一時に、十文字に、胸をつきぬいて、大きく心臓が呼吸した。  場所――地の理――尾《つ》けまわして、ちょうと、黄昏頃《たそがれごろ》。  どこの仮巣へ帰るのか。  祭りの赤い宵空に、夕月の映るを見ながら、竹屋河岸の酒屋の軒ばを出て、ぶら、ぶら、と火除地《ひよけち》の桐ばたけを、一角は、よろめいて行った。 (よしっ、今だ)  と見て、丈八が、 「待てっ。一角っ」  と、するどく、ぶつけて、突嗟《とっさ》に、前へ突っ立つと――分らない――朦朧《もうろう》と靄《もや》でも隔てて見るように、 「だ、誰だ」 「酔をさませ。木村丈八郎だ」 「来たかっ、丈八」 「米沢への江戸|土産《みやげ》に、その首を貰った」 「ばッ、ばかなッ。……わ、笑わすなよ、丈八。俺こそ、貴様の首がぜひとも入用だ。江戸への、米沢土産に、てめえの首をぶら下げてゆけば、ちと、閾《しきい》はたかいが、一時の身の置き場はある」 「だまれ、姉の怨みも」 「それで来るなら、それもよし、返り討ちだぞ」 「何の」 「くそうッ」 [#7字下げ]二[#「二」は中見出し]  ちかッと、青い夕月の光が、脇差の刃に刎《は》ねた時、一角の体は、肩を落して、豹《ひょう》のように、丈八のふところに、はいっていた。  だっッ、と足で搏《う》った。 (不覚)  と、丈八は、柄《つか》がしらで、一角の小手を突いたが、とたんに、足が浮いた。――投げ――食ったな――と宙で感じると、逆さまに見える敵の影を、 (おのれっ!)  と、払ッた。  びゅっと、風の立つような勢いで、一角は後へ跳んでいた。でも、切っ尖は、彼の睫毛《まつげ》から、三寸とは、離れていなかった。  とたんに丈八は、見事に五体を、抛られていたのである。本能的に、刀だけは、ぴたっと、前へかまえていた、そして、一角はと見ると、大刀は抜かず、小脇を払って、あれが、ほんとの一角の眼か――と見られる凄《すご》い眸を、ジッと刃のみねから真っ直ぐにつけている。 「止めろっ。おいっ! あぶない!」  突然、誰か、こう呶鳴った。  そして、一角のうしろからも、丈八郎の後ろからも、むずと、抱きすくめた者がある。 「や、青砥《あおと》弥助」 「おう、湧井《わくい》半太夫じゃねえか」  丈八郎も、一角も、同じように驚いた。そして、互いに、叫び、悶《もだ》え、抱きとめている手を振りもいで、挑《いど》みあうのを抑えながら、 「待てっ、任《まか》せろ。――御家老もおいで遊ばしている事だ。御家老に対しても」  と、二人は、必死に制した。 「え。千坂様が」  さらに、意外に衝《う》たれているまに、青砥は、手をあげて、 「駕、駕」  と、桐ばたけの蔭の灯を呼んだ。  飛んできた、町駕が二つ。――湧井は、無理やりに、 「さ、はいってくれ。討つとも、討たれるとも、とにかく、話はお屋敷で」  微行《しのび》の塗駕が、すぐそばを通った。提灯《ちょうちん》のしるし、まぎれもない、千坂家のものである。  その後に尾《つ》いて、 「――早く、早く」  と、湧井半太夫と、青砥弥助とは、駕を急《せ》き立てて、たッたと駈けだした。そして、真っすぐに浜町の千坂家の下屋敷へ。  祭りを見せるといって、馬喰町《ばくろちょう》の旅籠《はたご》から、お信を連れて、出あるいていた繭買《まゆかい》の銀六老人は、お信には、分らぬ、知れぬ、とばかりいっていた丈八郎の行動を、どうして、そう心得ているのか、 「さ、見つかった」  と、火除地《ひよけち》へ、急いで来たが、案外な――という顔をして、 「はてな、何処へ」  と、遠ざかった駕を、必死に、追いかけて行った。  だが――それがやがて、千坂家の表門へ、駕通しに、ずっと呑まれてしまったのを見届けると、 「ああ、しまった!」  と、何もかも、泡沫《ほうまつ》に帰したように、しばらく、茫然と、厳《いかめ》しい門扉《もんぴ》を眺《なが》めていた。 「どうも、しかたがない。――やはりそれだけ、千坂兵部の手が大きいのだ。お信さんや……」と、振り向いて、 「お前も、いろいろ、苦労をしなすったね。だが、これからは、大きな人物のふところで、雨にも、風にもあたるまい。木村丈八郎の妹だといって、そこの家をたずねなさい。……何、わしかい? わしはまあ、遠慮しよう。じゃ、御機嫌よく」  と、お信を置いて、それなり、風のように姿をかくしてしまった。 [#7字下げ]三[#「三」は中見出し]  呉《ご》と越《えつ》と、仇《あだ》と敵《かたき》とが、こうして一つの釜《かま》の飯を食う、食うのが、間違っているか、宿命なのか。  本所松坂町の吉良家の侍部屋で、もう一年と幾月かを、思わず暮してしまった丈八郎は、 (なんと、人間は、ふしぎな生きもの)  と、感ぜざるを得なかった。人がではない、自分がである。自分の変化がわからないのである。  一つ釜の飯の同化力はおそろしいものだ、と思った。――この、吉良殿の首番としてごろごろしている侍部屋には、今、十一人の剣客がいる。自分もそのひとり、清水一角も、その一人だ。 「――たのむ。お家のために、吉良殿ではない、上杉家の社稷《しゃしょく》のために」  あの、直江《なおえ》山城以来の人物といわれている国家老の千坂兵部が、軽輩も軽輩――とるにたらない若輩《じゃくはい》の自分へ、 「私怨は、わすれてくれ。わしが、たのむ」  と、手をついたではないか。手を。 (衝《う》たれずにいられるか)  丈八郎は、否《いな》やなく、 (一角とは、桐ばたけで、刺《さ》し交《ちが》えたと思って、吉良殿へ、参りまする)  と答えたのだった。  ところが――初めは、朝夕に、顔をみるさえ、影をみるさえ、むらっと、殺意に燃えた一角が、誰より、一番ふかい自分の友だちになっている。一つ釜の飯の感化なのか、今では、憎もうとしても、憎めない。 「さあ来い。酒を賭けるか」  と、毛脛《けずね》をむきだして、脛押しをしている一角。酔えば十一人の部屋を、ひとり顔に、寝ている一角。 「よく、無宿者が集まりやあがったぜ。ここは、人間のさなぎが寄った無宿人の国だ。どうだい、今日は、おれが、貸元になるから、無宿者の真似をして、遊ぼうじゃねえか」  飲むか、寝るか、女ばなしか、する事がないので、大びらに、博奕《ばくち》なども初めるが、自分の首の番をしてもらっている吉良殿は、弱身があるので、 「左様な事は、相成らぬ」  とも、いえなかった。  丈八郎は、たった一つの希望、お信のことだけを、時折、思いだしたが、その将来は、千坂兵部が誓ってくれている。何の、思いのこす事はないのである。 (いつでも)  と、死を待つ、さわやかな気持が、非常に、彼を自由にした。どんな遊戯《ゆうぎ》、どんな、見下げるような浪人とも、楽につきあえて、面白く、相手の人間性を見ることができた。  ――殊に一角に対する考えは、前とは、まるで変っていたし、一角も、やや心の落着きと、その居所を得たというのか、だいぶ、荒《すさ》んだ影がとれてきた。 「雪だ」  というので、まかない方へ、 「こん夜は、鮟鱇鍋《あんこうなべ》を出せ。酒も、よけいに」  と、それを、十一人でとり囲んで、ぐっすり寝込んだ晩だった。まさに、十二月の十四日である。  屋根の雪なだれ――かと、思っていた物音に、耳をすますと、陣太鼓。  がばっと、真っ先に、一角が、 「丈八郎」  と、蒲団を刎《は》ねて―― 「起きているか」 「お……。いぶかしいぞ」 「来たっ。は、は、は、は。丈八郎、俺は、なんだか、嬉しくってたまらない。とうとう来た――俺の、俺の待ちかねた日だ。ぬかるなッ」  もう、青砥《あおと》弥助も、湧井半太夫も、十一人すべてが躍りあがって、 「赤穂の浪士、何ほどのことがあろう」  長押《なげし》の槍へ、手をのばす者、日ごろ、稽古《けいこ》をしていた、半弓の弦《つる》を鳴らす者――。 「丈八郎! 俺と一緒に働け」  一角は、一枚の雪戸を蹴ってさけんだ。眼を射《い》るような白夜の光が、さッと、室内へ冷たい空気をふきこんだ。 [#7字下げ]四[#「四」は中見出し]  裏門、表門。――室内へ、庭口へ。  烏のような人数が、どっと、なだれ込んだ。誰が将、誰が某《なにがし》とも、わかたない。  付人《つきびと》側の十一人、鳥居与右衛門、須藤与一、左右田《そうだ》孫八たちは、みるまに、奮戦して、ばたばたと討死した。  一角は、朱《あけ》になって、 「丈八郎、いるか。――丈八郎」  と、たえず、彼を呼びながら、 「けなげな、赤穂の浪人、清水一角のいるからには、ここは一歩も」  と、奥書院にかよう、中門に立った。 「推参ッ」  と、萩垣《はぎがき》の横から、槍が走った。――若い、赤穂浪士の一人だった。 「うぬ!」  だっと追って、片手に大刀を、左手に、小脇差をもって、飛びかかった。雪をもった、松の梢が、間へ、ばさっと落ちた。 「矢頭《やとう》。あぶないッ」  それを、ささえるように、がっしりと、武装をした一人が、さけんで、 「――赤穂の旧藩士、奥田《おくだ》孫太夫重盛、一角どのへ、参る!」  と、槍をくりのばした。 「何ッ」  ふと、声に覚えがあったので、片手を、上段に、ふり向いた一角は、鉢金《はちがね》の下とはいえ、あざやかに見える敵の顔に、 「あッ? 老人」  と、ど肝を抜かれて、叫んだ。  敵は、笑って、 「繭買《まゆかい》の銀六、お覚えか」 「さては、老人、赤穂の廻し者であったな」 「むろん、米沢あたりにも、一人や二人の間諜《かんちょう》は。――これも、尽きぬ御縁」 「おっ、よい敵だ」  半弓の矢が、どこからか、飛んで来た。二、三合、刃まぜをする間に、奥田孫太夫は、あっと深股《ふかもも》を抑えて、 「残念ッ」と、いいながら、雪の上に、腰をくだいた。 「弱いぞ、銀六。――いや奥田老人」  振りすてて、走り去ると、奥田老人は、 「卑怯卑怯、返せ、一角」  と、どなった。  乱れ髪に雪を――全身に血を、浴びて、一角は、斬りまわった。もう、白い雪と、赤い血としか、何ものも見えなかった。人影と見れば、双方から、ぶつかッて、刃をあわせた。 「――おッ、そこにいたか」  池のふちに、苦戦の丈八郎を見出して、 「――助太刀ッ」  と、味方へ、気勢をつけて、その群れへ、斬りこんだ。  誰か、雪を真っ赤にして俯ッ伏していた赤穂方の一人が、ふいに見た、一角の足を、刀でなぐった。 「ええッ、此奴《こいつ》」  踉《よろ》けながら、後ろへやった刀が、かつんと、鉢金に弾んだと思うと、鍔から三、四寸の所から、折れて、氷柱《つらら》のように、すッ飛んだ。  しきりと、室内から、半弓を射て、味方を助ける者があった。――また、ひと群れが、庭木戸から、押しもどって、どっと、雪が、まっ黒になるほど、紛雑《ふんざつ》する。 「丈八……俺を……丈八……俺を……」  そこを、斬り破って、刀を杖に、よろめいてゆく一角の顔は、もう、あらかた血と、青い皮膚だった。  木村丈八郎の腕を、自分の脇の下へ、かたく抱きこみながら、 「さ。……どこか。……何処でもいい、人眼にかからない、所で、俺の首を……斬れ……。斬ってくれ」 「しっかりしろ! 一角、まだ、まだ」 「いや、御奉公はした。千坂殿への奉公はした。……貴様だって……立派だ……立派に頼まれただけの事はやった。上野介《こうずけのすけ》の首なんか、千坂殿だって、いつかはと、覚悟はしている。ただ……上杉家の立場が……ただそれだけだ。討て、はやく、人の来ないうちに」 「もう、そんな私怨は、千坂殿のまえで忘れた約束だ。俺は、斬らん。――二人で、もう一度、赤穂の浪人の中へはいって、斬り死にをしよう。なあ、一角」 「いけねえ。……それでは、俺の気がすまない。この雪の夜を、こんな、誂《あつら》え向きな晩を、さばさば……と」  彼は、雪をつかんで、唇《くち》に入れた。 「――赤穂の敵は、立派だなあ。戦いながら、惚々《ほれぼれ》した。武士《さむらい》はやっぱり武士に、成り切らなくっちゃ、嘘なんだ。丈八……貴様あ、立派な武士になれ」 「ばかなっ、俺も、今夜は死ぬ身――」 「よせ。吉良の庭に、犬死するな。庭ざかいの塀を越えて、上杉家へ、駈け込め。――千坂殿が、きっと来ている。千坂殿は、きっと、貴様の生きて帰ってきたのを欣ぶ!」  丈八郎は、初めて、一角の眼に、涙というものを見た。口へ押しこんだ、雪をかみながら、濡れた睫毛《まつげ》を、しばたたくのである。 「……さっ、斬れ、おいっ。頼むから、きれいに、斬《や》ってくれ。年三十にならねえうちに、生きるに持てあましたこの首を」 底本:「治郎吉格子 名作短編集(一)」吉川英治歴史時代文庫、講談社    1990(平成2)年9月11日第1刷発行    2003(平成15)年4月25日第8刷発行 初出:「中央公論 夏季増刊号」    1932(昭和7)年 入力:門田裕志 校正:川山隆 2013年1月23日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。