増長天王 吉川英治 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)峡谷《きょうこく》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)鈴木|杢之進《もくのしん》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#3字下げ]山目付[#「山目付」は中見出し] ------------------------------------------------------- [#3字下げ]山目付[#「山目付」は中見出し]  こんな奥深い峡谷《きょうこく》は、町から思うと寒い筈だが、案外冷たい風もなく、南勾配《みなみこうばい》を選《よ》って山歩きをしていると草萌頃《くさもえごろ》のむしむしとする地息に、毛の根が痒《かゆ》くなる程な汗を覚える。  天明《てんめい》二年の春さきである。  木の芽《め》の色、玲瓏《れいろう》な空、もえる陽炎《かげろう》、まことに春らしい山村の春。  肥前鍋島家《ひぜんなべしまけ》の役人、山目付《やまめつけ》の鈴木杢之進《すずきもくのしん》という色の黒い侍《さむらい》、手に寒竹《かんちく》の杖《つえ》をもち、日当たりのいい灌木《かんぼく》の傾斜を、ノソリ、ガサリ、と歩いている。 「どうも、さっぱり面白くないな」  といわんばかりな顔つきで、恰好《かっこう》な場所を見つけると、ドッカリ山芝へ腰をおろしてしまった。  膝を抱えると杢之進《もくのしん》、日向思案《ひなたしあん》に落ちこんで、山目付《やまめつけ》とは、何たる御苦労なしな役目だろうと、今さららしく、退屈の不平を数えた。  しかし、初めは城下詰の俗役《ぞくやく》をいとって、われから望んだ役目なのだ。が、さて、やってみると、毎日、皿山《さらやま》からこの大川内《おおかわち》の山一帯を、ガサリ、ノソリとあるいているだけの商売で、他国から御用窯《ごようかまど》の秘法を盗みにくる奴《やつ》もなければ、品物を密売する悪人もない。みな佐賀のほこり、御用焼《ごようや》きの色鍋島《いろなべしま》を克明《こくめい》に制作している、善良なる細工人《さいくにん》ばかりの山だ。  同時に、山目付の十手《じって》や大小も飾《かざ》り物《もの》同様になってあるくかがし[#「かがし」に傍点]に過ぎない訳にもなる。春の山に菌《きのこ》を求めているような役を、七、八年もやっていると武士らしい誇りや張合いはおろか、自分は人間だか兎《うさぎ》であるかについて、ちょッと考えて見たくなる。  何か波瀾《はらん》があればいい。  血の雨でも降るようなことが。  とまれ、余りにこの山は平和過ぎる。すぐ目の下の山間《やまあい》を眺め渡してみても、あっちの沢やこっちの山瀬に、四、五十戸の屋根が見えるが、それは皆、名陶《めいとう》色鍋島を焼く、御用細工人の陶器小屋《すえものごや》で、人間がいるとは思えぬほど、イヤに寂莫《せきばく》とした景色である。  平和に飽《あ》くと平和な光景が、見るも気《け》だるくなってくるらしい。  それが、杢之進《もくのしん》をいよいよ憂鬱《ゆううつ》にさせて、何か、波瀾の来たらんことを祈りたくなる。 「それを思うと久米一《くめいち》は偉いやつだ」  杢之進は、いつか久米一から聞いた怪気焔《かいきえん》を思いだして、いささか屈託《くったく》を慰《なぐさ》めようとした。 「いったわえ、いつか、あいつが。だめだだめだ若い奴らは、五年もこの山に棲《す》むとカサカサになって寒巌枯骨《かんがんここつ》のていたらくだ、陶土《つち》に脂《あぶら》も艶気《つやけ》もなくなってくる。そんな野郎は茶人相手の柿右衛門《かきえもん》の所へ行ッちまえ。おれの山から作りだす色鍋島は、煩悩《ぼんのう》もあり血も通っている、人間相手の陶器を焼くんだ! と。なるほどそれは一理あるな。だが後の言葉はなお久米一らしかった。べら棒《ぼう》め! と、こいつは、あの仁《じん》の癖《くせ》で、――西行《さいぎょう》とか芭蕉《ばしょう》とかいう男みてえに、尾花《おばな》や蒲公英《たんぽぽ》にばかり野糞《のぐそ》をしてフラフラ生きているような人間になって、ほんとの、生きた陶器が作れるかい。陶器ってえな冷やっこい物ばかりじゃねえぞ、恋女房の肌みてえに、暖かいものの筈なんだ? と。ははははは、無学の暴言かも知れないが、一家言《いっかげん》として聞いてもいい、とにかくあいつは活々《いきいき》した人間らしいな、この杢之進《もくのしん》に較べてみても」  立つと思う心もなく、フイとひとりでに立ち上がった。急に、久米一《くめいち》の細工邸《さいくやしき》へ、出かけてみたくなったのである。  そして、灌木《かんぼく》の枝を掻《か》きわけながら、ザワザワと低地へ下りて行きかけたが、何に眸《ひとみ》を衝《う》たれたのか、 「あ――」棒立ちに足をとめてしまった。  先の者も人の気配に、杢之進《もくのしん》よりはびっくりした様子。雉子《きじ》の雌《めす》雄《おす》が舞ったように、パラパラと沢の方へ逃げだした。  後ろ姿――どっちも美しい若人《わこうど》である。「罪なことをしたなア」  彼は、何だか余りいい気持がしなかった。これは退屈の憂鬱《ゆううつ》へ、少し刺戟《しげき》があり過ぎる。だが、こんなこともこの山にあった方が喜ばしいと思った。 「旦那《だんな》、鈴木の旦那」  その時、誰か後ろから呼びかけた声を聞いた。ふり顧《かえ》ってみると、久米一の細工邸にいる窯焚《かまた》きの百助《ももすけ》という男。 「なんだ、お薪山《まきやま》か? ――」 「いいえ、少し旦那のお耳に入れておきたいことがありましてね」  ばかに生《き》まじめな顔をして、寄ってきた。 [#3字下げ]秘法盗[#「秘法盗」は中見出し] 「今、あわてて逃げだした男女《ふたり》は、久米一の娘の棗《なつめ》さんと絵描座《えかきざ》に仕事をしている、兆二郎《ちょうじろう》という若造ですぜ」  と窯焚《かまた》きの百助、いまいましそうに鼻をこすった。 「ああ絵描座の兆二郎か、年は若いが、だいぶ仕事の筋はいいそうではないか」 「そりゃ絵筆も巧者《こうしゃ》でしょうが、女にかけてもするどい[#「するどい」に傍点]野郎で、いつの間にか、師匠の娘とあの通り乳繰合《ちちくりあ》っているんです」 「まあいいではないか、いずれ久米一も娘の棗《なつめ》に、婿《むこ》をとらねばならぬ身だ」 「え!」百助は不服なつら[#「つら」に傍点]をおさえつけて、「そいつをとやこういうわけじゃありませんが、どうでもお上《かみ》へ訴えなけりゃならねえことがあるんで、わっしは、そいつを旦那の手柄《てがら》にさせてえと思いましてね」 「訴える? 何をだ」 「あの兆二郎という奴は、たしかに御用窯《ごようがま》の秘法を盗みに来ている廻《まわ》し者《もの》ですぜ」 「百助、まさか、いたずらごとを申すのではあるまいな」 「こんなことが嘘《うそ》ッ八《ぱち》でいえるものですか。あいつはまだ十六、七の時、巡礼《じゅんれい》か何かに化《ば》けて、この山へ紛《まぎ》れこんできた他国者なんで、巧《うま》く久米一の気に入って、絵描座の細工人に成《な》り澄《す》ましたが、根からの巡礼で、ああ俄《にわか》に腕が上がる筈はねえ、きっと金沢の九谷《くたに》かどこかの廻し者で、色鍋島《いろなべしま》の錦付《にしきつけ》や釉薬《うわぐすり》の秘法を盗みに来たやつに相違ありません」 「しかし百助、それだけの理由では、兆二郎を御法度《ごはっと》破りと見なすわけに参らんぞ」 「だから、これから師匠の家《うち》まで、恐れ入りますが一緒に来ておくんなさい。あいつとわっしが対決して、きッと生白《なまじろ》い仮面を引っぱいでお目にかけましょう」 「では何か、そちが兆二郎に泥をはかせるから、拙者《せっしゃ》に立会ってくれというのか」 「親方の久米一にも聞いていて貰います。この山の鍋島焼きは、二百年来の秘密窯《ひみつがま》で、殿様初め佐賀城につぐ宝だとしているものだ。九谷《くたに》の者なぞに、窯築《かまつ》きの法や薬合せを盗まれて堪《たま》るものか。第一、そんな御法度《ごはっと》破りを出せば親方も同罪だ、わっしや久米一のためにも、ウントここで肌《はだ》を脱がなきゃなりません」 [#3字下げ]傲慢人[#「傲慢人」は中見出し]  黒髪山《くろかみやま》と谷川との間の狭い盆地に、陶工《とうこう》久米一《くめいち》の細工邸《さいくてい》があった。  大川内《おおかわち》四十軒の、捻土方《ねりつちかた》、窯焚《かまた》き、下働きなどの締《しま》りをしている鍋島家御用工人《なべしまけごようこうにん》、土塀囲《どべいがこ》いだが邸はかなり広い。  窯は盆地盆地に十数ヵ所、邸の裏山にも、一ヵ所ある。将軍家の献上品《けんじょうひん》や佐賀城のお道具だけを焼くお止窯《とめがま》だ。普通、諸国へだすものは、今も久米一の邸の側《そば》の日向《ひあた》りに、まだ火も釉薬《うわぐすり》もかけぬ素泥《すどろ》の皿、向付《むこうづけ》、香炉《こうろ》、観音像などが生干《なまぼ》しになって乾《ほ》し並べてあるそれだ。  しかし、これとて、その釉薬《ゆうやく》、築窯《ちくよう》、火法《かほう》、みな厳秘《げんぴ》洩《も》らすまじきものとなって、洩らしたものは磔《はりつけ》の掟《おきて》である。 「御免《ごめん》――」  立派な武士が久米一の邸を訪れていた。  佐賀の城下から来た鍋島家の奥用人《おくようにん》、刈屋頼母《かりやたのも》という侍。通されて奥へ入る。  奥では久米一、おそろしく華麗な部屋に、南蛮《なんばん》渡りの縞衣《しまぎぬ》を着て、厚い衾《ふすま》の上に大胡坐《おおあぐら》をかいていた。  粉黛《ふんたい》の粧《よそお》い凝《こ》らした美女が、彼の瘤《こぶ》のように厚い肩の肉を揉《も》んでいる。また一人の美女は久米一に煙草をつけて出し、また一人の美女が茶を運ぶ、それら脂粉《しふん》の香《か》と絢爛《けんらん》な調度《ちょうど》にとりまかれている陶工久米一は、左眼《さがん》のつぶれた目っかちで、かつ醜男《ぶおとこ》で、肥《こ》えてはいるが、年、六十から七十の間。  憎《にく》らしいほど、矍鑠《かくしゃく》としたものだ。  また人にも実に憎らしがられている。山の者はいうまでもなく、役人達まで、一人として彼を憎まざるものはない。久米一非常な傲慢《ごうまん》だからだ。誰にも屈《くっ》したことがない、誰へも傲倨《ごうきょ》に君臨する、ましてや芸術においては無論、天下の陶器師を睥睨《へいげい》している。  それでいて、城主を初め、役人や山の者までが、彼の前には、膝を屈《くっ》しなければならなかった。たしかに、久米一は名陶工であったには相違ない。色鍋島の絢爛《けんらん》艶美《えんび》な彫琢《ちょうたく》と若々しい光彩の漲《みなぎ》った名品が、この老いほうけた久米一の指から生れて、他の若い細工人《さいくにん》の手からは作り得なかった。  京の仁清《にんせい》、色絵《いろえ》の柿右衛門《かきえもん》、みな一派の特長がある。この山からだす色鍋島は、こう行くよりほかに道はないぞ、と彼はよく弟子の枯淡《こたん》になるのを叱りつける。  太守肥前守《たいしゅひぜんのかみ》の使者、奥用人の刈屋頼母《かりやたのも》は、この尊傲《そんごう》な工匠《こうしょう》の部屋へ通った。 「おいでなさい」  といっただけで、久米一、別に上座《じょうざ》も与えず、ただ肉の厚い膝を、いやいや直しただけである。 「相変らずお達者で祝着《しゅうちゃく》」  かえって、城主の使者が世辞《せじ》をいう。 「達者でござるよ。だが、もっと若くなるつもりだ」 「先日、殿からお贈り申し上げた朝鮮人参《ちょうせんにんじん》、どうでござります。召しあがりましたか」 「うむ、やってみたよ、あいつはきくなあ」 「そのうちにまた、厦門船《アモイせん》が入りましたら、お届け申すように取りはからいましょう」 「せいぜい、久米一のために、不老長寿の食い物を探してくんなさい。何しろ山にはロクな物はねえからの。おれが老《お》い込《こ》むと、色鍋島は亡《ほろ》びるぜ、つまりは、そっちの損にもなる」 「分っておりまする」使者の頼母《たのも》は、さっきからムカムカしている我慢《がまん》が、フッと顔に苦《にが》く出たので俯向《うつむ》いたが、ぴったり、胸を張って改まった。 「時に久米一殿」 「なんだな、殿様のお言伝《ことづて》か」 「左様。そのため俄《にわか》に参じた次第。ほかではないが、折入ってのお頼み、一世一代のお気組《きぐみ》で、御用登《ごようのぼ》りの窯《かま》にかかっては下さるまいか」 「はてな。御用窯にかかるのは、三年に一度の掟《おきて》、去年、三彩獅子《さんさいしし》と牡丹絵《ぼたんえ》の瑠璃花瓶《るりかびん》を焼き上げて将軍家と御城内へ一つずつやってある筈だが」 「さ、それについてでござる」 「気に入らねえのか」 「滅相《めっそう》もないこと、三彩獅子を御覧《ごろう》ぜられて、将軍家の御感《ぎょかん》一通《ひととお》りでなく、殿、御上府のせつは、偉い面目《めんもく》をほどこしたそうでござる」 「なアにお前、将軍家なんぞに、この久米一の仕事が分って堪《たま》るものか。ばかな、そりゃ大名の頭を撫《な》でそやしておく、お世辞《せじ》というものだ」 「いえ、決して世辞ではござりませぬで、御賞美の余り、もう一つ、黒木《くろき》の御書院《ごしょいん》へ置く陶器をという御懇望、ほかならぬお方のおねだり、いやとは殿も仰せ兼ねます。久米一殿、頼母《たのも》がかくの如く両手をついてお願い申す、お家のためと思うて一つおかかり願いたい」 「ははあ、分った」 「えっ……?」 「そりゃ将軍家へ行くんじゃあるまい。この久米一もそろそろ歳《とし》だ。いつぼけ[#「ぼけ」に傍点]るか分らないから、このへんで、一生一品《いっしょういっぴん》な物を作らしておこうという考えだろう」 「いや、まったく、左様なわけではござらぬ」 「隠しなさんな。よし、よし、おれも随分《ずいぶん》鍋島家には世話をやかせた、おれの傲慢《ごうまん》に腹を立って、切腹した家来まであるからな。それにいくら久米一だって、そうそう若さも続くまい、一つこれを最後に何かやって見よう」 「えっ、御承諾《ごしょうだく》下さいまするか……」畳を下がって礼をのべた。あたかも主君へ対する作法である。その上、夥《おびただ》しい金布《きんぷ》の贈物《おくりもの》を残して、刈屋頼母《かりやたのも》、大川内《おおかわち》の峡《たにあい》から駕《かご》を戻して行った。 「さあ、女ども、足を揉《も》め、足を」  久米一はすぐにゴロリとなって、前の若い女達を呼んだ。その女達は、伊万里赤絵町《いまりあかえまち》から、かわるがわる四、五人ずつ呼んでおく港の遊女で、朱塗《しゅぬり》の駕《かご》が山峡《やまあい》を通る日は、飽《あ》いた女が返されて、次ぎのみめ[#「みめ」に傍点]よい女が撰《えら》ばれてくる日だ。       ×   ×   ×  窯焚《かまた》きの百助《ももすけ》と山目付《やまめつけ》の鈴木|杢之進《もくのしん》、庭木戸から入ってきてこの態《てい》を眺めたが、格別《かくべつ》目新しいことでもないので、相変らずだな、と思って縁へ寄ってきた。 「親方、ちょっと起きておくんなさい。窯焚きの百助です」 「寝てやしねえ。なんだ?」と、久米一は横になっている体を腹這《はらば》いにして、擡《もた》げた首へ頬杖《ほおづえ》をついた。百助は癪《しゃく》に障《さわ》って、 「この老爺《おやじ》め、よくよく芸に慢心《まんしん》していやがる」  と思った。陶器作《すえものづく》りで一番大切なのは窯焚《かまた》きなのだ、窯焚きの手加減一つで、どんな名工の鏤心砕骨《るしんさいこつ》も、ピーンと破《や》れが入ってしまう。  だから、どんな雑物焼《ぞうもつや》きでも、窯焚きの待遇《たいぐう》にはハラハラするのが世間一般、久米一のように、腹ン這《ば》いで話すなんていう不作法は見たくも見られぬ例外だ。 「折入って、親方にちっと話があるんですがね」 「いってみねえな。よく今日は、折入ってという奴が続く日だ」 「鈴木の旦那」と後ろを向いて、 「一つわっしに代って、さっきの一埒《いちらつ》を親方に打《ぶ》ちまけて見ておくんなさい」 「よろしい」と山目付の杢之進《もくのしん》、久米一の気に障《さわ》らぬように兆二郎《ちょうじろう》の嫌疑《けんぎ》を話した。 [#3字下げ]恋燐火[#「恋燐火」は中見出し]  絵描座《えかきざ》と呼ぶのは、陶器絵かきの細工部屋《さいくべや》、奥の静かな一間《ひとま》である。  さっき、そこへ戻った菊田兆二郎は、何食わぬ風を装《よそお》って、香炉《こうろ》か何かに鯉絵《こいえ》の彩管《さいかん》をとっていた。  と、そこへ久米一の娘の棗《なつめ》が、少し色をかえて入ってきた。 「兆二さん」 「また来たのですか」 「嫌《いや》なの?」 「そうじゃありませんけれど、師匠の眼につきますからね」 「お父さんはいいのだよ。だけれど、困ったことが出来たようだ……あの窯焚《かまた》きの百助《ももすけ》と鈴木さんが来て、何だかお前に来てくれというのだけれど」 「どこへです?」 「お父さんの部屋に。鈴木さんはいい方だけれど、あの百助のやつ、ほんとに嫌《いや》な奴《やつ》だから、何をいいだすか知れないよ」 「いったら私《わたし》もいってやります。いつかお薪山《まきやま》へ、お嬢様を誘い込もうとしたことを」 「面《つら》の皮をむいてやった方がいい。だがね兆二や、向うで黙っていたら止《よ》した方《ほう》がいいよ」 「ええそりゃいやしませんとも」こんな気持で、兆二郎は何気《なにげ》なく、縁伝《えんづた》いに師匠の部屋の前に来て板敷の上へ畏《かしこ》まった。  まだ前髪《まえがみ》をとったばかり、青々とした月代《さかやき》に、髪油《かみあぶら》のうつりがいい。小刀を前差にして、袴《はかま》の襞《ひだ》をとった形、いかにも棗《なつめ》の眼をひいたろうと思われる。  窯焚きの百助は、虫酸《むしず》の走るような眼をくれて、いきなり側《そば》へ寄って行った。 「おい! 加賀ッぽう! 加賀の九谷《くたに》から来た兆二郎ッ」 「えっ」 「見やがれ、面《つら》の色《いろ》が変りやがった。汝《うぬ》はなんだろう、大聖寺《だいしょうじ》の前田の家来か九谷の陶器作《すえものつく》りの伜《せがれ》だろう。うまく化《ば》け澄《す》ましていやがるな」 「飛んでもないことを! ……百助さん私《わたし》は元江戸の者で、兄は浮世絵師の」 「止《よ》せよ! この窯焚きの百助はな、さんざん江戸でもゴロついていた事があるんだ。てめえみてえな色の生白《なまじろ》い泥人形が、江戸生れだなんて吐《ぬ》かしたって誰がまとも[#「まとも」に傍点]に受けるものか。その訛《なま》りは加賀ッぽう剥《む》きだしだ。前田の家来に違《ちげ》えねえッ」 「無態《むたい》なことをおっしゃって下さいますな。この兆二郎の身の上は、師匠もよく御存じでございます」 「やかましいッ。巡礼だか六部《ろくぶ》だかになりやがって、仮病《けびょう》をつかってこの邸《やしき》の前に倒れたなあうぬ[#「うぬ」に傍点]の手段だ。そんなことはこの百助が、三年も前から睨《にら》み貫《とお》しているんだぞ。さ、ここで泥を吐かなけりゃ、俺《おれ》と一緒に代官所へ来い。白洲《しらす》で、白黒をつけてやる」  ムズと兆二郎の襟頸《えりくび》を掴《つか》んだ。  ずるずるッと廊下を引摺《ひきず》って行こうとする。もの蔭《かげ》にみていた棗《なつめ》は唇の色を失って顫《ふる》えていた。  すると、煙管《きせる》を咥《くわ》えて、今まで黙然《もくねん》としていた久米一が不意に起《た》って、百助の腰をドンと蹴飛ばした。 「あっ」と、庭先へ打《ぶ》っ倒《たお》れた窯焚《かまた》きの百助。何か叫ぼうとしたけれども、ぬッくと、縁先に突っ立った久米一の形相《ぎょうそう》をみると、思わず骨身が竦《すく》んでしまった。  鈴木|杢之進《もくのしん》も、その血相《けっそう》には気をのまれた。よく山の者が久米一の傲慢《ごうまん》増長《ぞうちょう》を憎んで、かげ口に増長天王《ぞうちょうてんのう》と悪口をいっているが、かりそめにも、この大川内で窯焚《かまた》きの上手《じょうず》では右へ出る者のない百助を、足蹴《あしげ》にした憤怒《ふんぬ》慢心《まんしん》の今の姿は、まったく、増長天王そのものの相であると思った。 「た、短気なことをなされるな」  と杢之進《もくのしん》、とにかく割って入ったが、百助《ももすけ》は嚇《か》ッとなって、久米一の顔を睨み上げた。 「やい、な、なんで俺《おれ》を足蹴にしたッ」 「毒蛇といってあきたらねえ人非人《にんぴにん》、足蹴ぐらいは易《やす》いこったわ」 「人非人《にんぴにん》だと? おい久米一、汝《うぬ》はどれほどな名人だか知らねえが、余り慢心して気まで変にならねえがいい。御法度《ごはっと》を破って、秘法を盗みに、他国から住み込んでいる廻し者を、俺が見破ってやるのは、取りも直さず汝《うぬ》の落度《おちど》を防いでやることになるんだ。恩とは思わねえで、人を蹴飛ばす法があるかッ」 「やかましいわいッ」  はったと睨んで、久米一、そこに人なき如《ごと》くこう言った。 「おれの持つわざというものはな、自体こんな狭い山だけに、秘し隠しにされておしまいになるような小さな物ではないのだぞ。芸《わざ》の術が大きければ大きいほど、世にも響こう世間にも溢《あふ》れ出よう。それが当然の成行《なりゆ》きだわえ! だが兆二郎が加賀の廻し者だとは汝《おの》れだけの悪推量《わるずいりょう》、娘の棗に懸想《けそう》して、それが成らぬところから卑怯《ひきょう》な作りごとをして、仇《あだ》をしよう腹だろうが! ば! ばか者奴ッ」 「うーむ……」と百助、歯を食いしばって無念がったが、それは彼の毒心《どくしん》に、グサと入った匕首《あいくち》の言葉である。こめかみから額に、蚯蚓《みみず》のような青筋をみなぎらし、 「ちッ……畜生ッ、覚《おぼ》えていろ増長天王《ぞうちょうてんのう》め!」 「なんだと」 「う、うぬの陶器《すえもの》は、今日ッかぎりこの百助が手にかけねえからそう思えッ」 「勝手にさらせ」 「オオ久米一、手を切ッたぞ!」  眼に燐火《りんか》を燃えたたせて、真ッ蒼《さお》に怒った窯焚《かまた》きの百助、捨てぜりふを残してまッしぐらに馳《か》けだして行った。 [#3字下げ]ろくろ情[#「ろくろ情」は中見出し]  峡谷《たにあい》の山村に、春が過ぎ夏が過ぎ、山そのものが色絵錦《いろえにしき》の陶器《すえもの》のような秋になった。  近ごろ陶工《とうこう》久米一《くめいち》の生活は、がらりと打って変ってしまった。  何人《なんぴと》も覗《のぞ》かせぬ、細工場《さいくば》の陶戸《すえど》を閉めきって、一生一品の製作に精進《しょうじん》しているのだ。  彼が、これを最後として作りにかかっているのは、窯焚《かまた》きの百助《ももすけ》が、自分を罵《ののし》った言葉に着想を得た、増長天王《ぞうちょうてんのう》二尺|余《よ》の像である。  久米一は元より柿右衛門の神経質な作《さく》を嫌い、古伊万里《こいまり》の老成ぶったのはなおとらなかった。で、この増長天王にあらん限りの華麗と熱と、若々しさと矜《ほこり》と、自分の精血《せいけつ》を注《そそ》ごうとする意気をもった。  深沈《しんちん》たる真夜中。  陶戸《すえど》の中の久米一は、素地《そじ》を寄せて一心不乱に箆《へら》をとった。ミリ、ミリ、彼の骨が鳴って、箆《へら》の先から血が滴《したた》りはしまいかと思われる。  轆轤《ろくろ》にかかる彼の姿は、鬼のように壁へ映った。そして、夜をつみ、日をついで、釉薬《ゆうやく》染付《そめつけ》の順に仕事が進んだ。  ところが、人の寝しずまる頃になると、久米一は、物《もの》の怪《け》に憑《つ》かれたように、仕事のひとりごとを洩《も》らすのであった。  箆《へら》の秘伝、釉薬《くすり》の合せ、彼が今日までおくび[#「おくび」に傍点]にも出さない秘密を、みなブツブツとひとりごとに説《と》き明《あか》し、そして増長天王《ぞうちょうてんのう》の仕上げにかかっていた。  不思議な――? と思うと、またここに怪しいのは娘の棗《なつめ》の部屋。  夜ごと、一人の男が忍んでくる。  それが絵描座《えかきざ》の兆二郎《ちょうじろう》であることはいうまでもないが、その部屋へ入るとやがて、兆二郎の姿はどこかへ消えてしまう。そして、戸棚の上の天井板《てんじょういた》が黒い口を開くのである。  夜ごと、天井へはい上がった兆二郎は、屋根裏を伝うと、ソッと久米一の密室の上へかかり、そこに、苦心をして僅かに覗《のぞ》きうるだけの穴をあけた。  棗《なつめ》はその間《あいだ》、ほかの弟子が来ぬように見張っていた。兆二郎は天井の穴に目をつけて、息をのみながら久米一の仕事を凝視《ぎょうし》する。  と――やがての夜から久米一のひとりごとがはじまったのである。見ただけではわからぬわざの謎《なぞ》、そこへくると説《と》くのである。ああ、師匠は何もかも知っているのだ……色絵の秘法と同時に娘の棗《なつめ》をもゆるしてくれる心であったと兆二郎が、真っ黒な屋根裏で両手を合せたことも幾《いく》たびか。 [#3字下げ]輪廻篇[#「輪廻篇」は中見出し]  窯焚《かまた》きの百助《ももすけ》は、無論あのまま黙ってはいない。なお、執念《しゅうねん》深く、兆二郎《ちょうじろう》の疑点をいくつも探り、佐賀の城下へ出て密告した。  ところが、鍋島家《なべしまけ》の役筋の方では、訴えられて非常に弱った。殊に、刈屋頼母《かりやたのも》は極力それを揉み消し、百助と久米一との和解に努《つと》めた。  久米一の細工邸《さいくやしき》から、秘法《ひほう》盗みの罪人を出せば、その師匠の彼をも、同罪にしなければならない困難が一つ。  また、百助をここで怒らせてしまっては、無論久米一の御用窯《ごようがま》には火を入れないと頑張るに違いない。ところが、久米一ほどの名人の火入《ひい》れする窯焚《かまた》きはそうザラにあるものでなく、大川内《おおかわち》、伊万里《いまり》、有田《ありた》、三地《さんち》を通じてみても、今度の献上陶器《けんじょうすえもの》の火入れは、どうしても百助でなければ納《おさ》まりがつかない。  この困難が一つ。  そのいずれを欠いても、こんどの大事な製作ができないわけ、頼母《たのも》が狼狽《ろうばい》したのは無理ではなかった。  しかし、百助の方は、すべて莫大な金ずくで我慢させた。  いやいやながら久米一に詫《わ》びを入れその日に、いよいよ焼くとなった増長天王《ぞうちょうてんのう》の像をうけ取った。みると、さすがに倫《りん》を絶《ぜっ》したでき栄《ばえ》である。いかなる遺恨《いこん》も、憤怒《ふんぬ》も、久米一の芸術の前には、自《おのずか》ら頭を下げずにいられなかった。  その受け渡しがすむと。  もう代官所の方では、すっかり手配ができていた。 「それっ」とばかり、久米一の細工邸《さいくやしき》へ、捕手《とりて》の者を乱入させた。  何の苦もなく、久米一は直ちに縄を打たれてひきだされてきた。だが、その姿を一目見た役人や山の者は、一瞬に平常の彼にもっていた憎念《ぞうねん》を忘れて涙ぐんだ。  一心の芸術は、こうも人の精血《せいけつ》を吸ってしまうものだろうか。僅かな間に、久米一の痩《や》せ衰《おとろ》えたことは非常なものであった。糸を抜かれた蛾《が》よりも婆娑《ばさ》とした姿に変って、大言壮語も吐かず弱々《よわよわ》と佐賀の城下へ曳《ひ》かれて行った。  しかし、久米一より大事な罪人、絵描座《えかきざ》の兆二郎と、娘の棗《なつめ》の姿は、捕手が入った時すでに、影も形も見えなくなっていた。無論、逃げたのは山越えとみて、山目付《やまめつけ》鈴木|杢之進《もくのしん》が手配したが、遂に、網《あみ》の目《め》にかからない。  夕月のかかる前から、黒髪山《くろかみやま》の山ふところ、御用窯《ごようがま》に火が入った、まっ黒な煙か、峡谷から押し揚った。  そこに働いているのは窯焚《かまた》きの百助《ももすけ》。  彼は溜飲《りゅういん》をさげて、得意に盈《み》ちていた。 「ざまア見やがれ!」  ひとりで凱歌を奏していた。  しかし、彼の鬱憤《うっぷん》は、久米一の細工屋敷が没落し、彼が城下で磔《はりつけ》になるのをみても、まだまだ腹が癒《い》えなかった。彼奴《かやつ》が死んでも殺されても、まだ生きているもののあるのを知っている。  何かといえば、久米一のわざの魂。彼が色鍋島《いろなべしま》に残したかがやかしい名声だ。 「よウし……畜生」  百助は、その無形な名声をも殺す、恐ろしい一策を思いついた。  今、この御用窯の中には炎々たる高熱の火が入っている。そこには、久米一が、一世一代の製作、増長天王《ぞうちょうてんのう》が彼奴の命《いのち》を吹ッ込まれて、世に生れ出ようとする火炉《かろ》の胎養《たいよう》をうけているのだ。 「こいつを、満足に火からだすのも、暗《やみ》から暗にしてしまうのも、窯焚《かまた》きのおれの火加減一つじゃねえか! ウム!」と彼は思いついた悪智にうなずいて魔の笑いをもらした。  こうなると、百助の冴《さ》えた腕は、恐ろしい悪事の構成に利用される。彼は窯《かま》の中の陶器《すえもの》を、巧みに、火加減をもって悪作《あくさく》なものと変質させようとするのである。それも通常一般な窯焚《かまた》きが窯主《かまぬし》に仇《あだ》するような拙《つたな》い手法でなく、後に誰が見ても、その製作が久米一の手落ちなためで、火入れの故意《せい》ではないように見せるべく苦心をした。  で、彼は、わざと変則な火入れをした。  夜に入り夜が更《ふ》けると共に、太い火柱の影が、月の空へ突きとおって見えた。そしてすでに五更《ごこう》の暁に近いころ……。  今が大事な火加減のところである。  厚く築《きず》いた窯《かま》の土が、人間の血を日に透《す》かして見るように赤く見えてきた。ここに窯焚《かまた》きの懸命が入れば、陶器の増長天王《ぞうちょうてんのう》、焔《ほのお》の中から命《いのち》をもって、世に出たもうことになるのだろうが、百助は、元よりそれを呪《のろ》っている。仇《あだ》の胎児の死を眺めるような気持で冷然と、薪束《まきたば》の上に腰を下ろし、スパスパ煙草をくゆらし始めた。  たちまち窯《かま》の肌がドス黒く、火口《かこう》の焔も弱って真《ま》っ暗《くら》になってきた。久米一生涯の神品《しんぴん》も、今はどうなったか計られない。百助はそれを眺めてニタッ……と嘲笑《あざわら》った。  その時、不意に百助の後ろへ、黒い人影がソッと立った。 「おや?」  と、感づいて、ふり顧《かえ》った彼の真《ま》っ向《こう》!  颯然《さつぜん》と、蛍《ほたる》を砕《くだ》いたような光が飛んだ。あッといった時は、それが剣であったとみる眼も眩《くら》んで、窯焚《かまた》きの百助《ももすけ》、額《ひたい》を抑《おさ》えて、ダッ――と跳《と》びのき、満面《まんめん》朱《しゅ》になって、 「うウ! ……だ、誰だッ」  唇に流れこむ血を吹いて喚《わめ》いた。  青白い剣の尖《さき》は、それに何の答えも与えず、なおスルスルと追い詰めてきた。百助は必死になって、よろよろと逃げ廻ったが、また一人、飛鳥のごとく駈け寄った影が、抱きすくめた彼の脇腹へグザと短剣の切《き》ッ尖《さき》をえぐった。 「おお、火が消える」  相手が斃《たお》れたと思うと、それには眼もくれないで、二人の影がかいがいしく窯《かま》の前に働きだした。  お薪山《まきやま》から伐《き》りだした松薪《まつまき》の山を崩して、それを掴《つか》むと、火口《ひぐち》を屹《きっ》と覗いた若者。 「ええッ」  気合をかけてポーンと投げ込んだ。 「ええッ」とまたすぐに次の一本、また一本。今にも絶《た》えなんとしていた火の命《いのち》! 甦《よみがえ》ったかの如く赫々《あかあか》と燃え上がってあたりは光明昼のごとく真っ赤に照った。  百助《ももすけ》を斃《たお》して、一心不乱に窯焚《かまた》きをしている若者二人の影、その時、ありありと姿が読まれた。  絵描座《えかきざ》の兆二郎《ちょうじろう》と、久米一の娘、棗《なつめ》であった。  絵師兆二郎は元よりただの細工人《さいくにん》ではない。加賀大聖寺《かがだいしょうじ》の武人の血をうけ父は九谷陶《くたにすえ》の窯元《かまもと》である。多少の呼吸も心得ている上に、今は恩人最後の大業を、命にかけても焼き上げようとする一念があった。焦熱《しょうねつ》の懸命があった。  窯《かま》は音をたてて最高度まで焔をあげ夜はほのぼのと明けかけて来た。紅蓮地獄《ぐれんじごく》にふさわしい漆紅葉《うるしもみじ》の真っ赤なのが、峰から降り、窯《かま》の火《ひ》ッ気《け》に煽《あお》られて、飜々《ほんぽん》と空に舞い迷う。  やがて海嘯《つなみ》のような声が揚《あが》った。  山峡の細道を伝って、夥《おびただ》しい捕手《とりて》の数が黒髪山《くろかみやま》へ乱れ入った。が、捕手の目は、御用窯《ごようがま》の前に落葉に埋《うず》もれた百助の死骸を見出したのみで、棗《なつめ》の姿も兆二郎のかげも、遂にひねもすの山狩むなしく見ることができなかった。  ただ、二人をあきらかに見送っていた者は。  山目付《やまめつけ》の鈴木|杢之進《もくのしん》。  峰の頂《いただき》、伊弉諾《いざなぎ》の尊《みこと》の髪塚《かみづか》に立って、程近き間道《かんどう》を手に手をとって、国境《くにざかい》へ逃げてゆくふたり[#「ふたり」に傍点]の姿を認めたのである。  が、――しかし、杢之進《もくのしん》、その時、その若人たちの前途に、明るき春あれ幸《さち》あれと、祈る心は湧いても、無慈悲《むじひ》な飛縄《ひじょう》を飛ばそうとは、露《つゆ》ほども思わなかったのである。  久米一《くめいち》がいった。いつか窯焚《かまた》きの百助《ももすけ》を蹴落《けおと》した時に、「おれのわざはこんな山の中に封じられて終るような小さなものではないと。偉大なものは世の中へ溢《あふ》れ出ずにはいない」と。そうだ、ましてや杢之進の持つ弄具《おもちゃ》同様な十手や捕縄《とりなわ》で、その溢《あふ》れる力がせき切れるものか! ……  しかし彼の心が、再びこの山村の平和に退屈しても、なお、これ以上の波瀾《はらん》を欲するかしら? それは杢之進にも分らない。ただ当座は、一刻も早く陶器山《すえものやま》の静まるのを念じたに違いない。       ×   ×   ×  佐賀の城下で、陶工《とうこう》久米一《くめいち》が断罪となる日、彼の持窯《もちがま》――黒髪山《くろかみやま》の御用窯《ごようがま》も破壊された。破壊された中から生れた物があった。それは太守《たいしゅ》も、刈屋頼母《かりやたのも》も、まったく望みを絶っていた、増長天王《ぞうちょうてんのう》の陶器像《すえものぞう》。しかも一点の瑕《きず》なく彫琢《ちょうたく》の巧緻《こうち》染付《そめつけ》の豪華《ごうか》絢麗《けんれい》なこと、大川内《おおかわち》の山、開いてこの方《かた》、かつて見ない色鍋島《いろなべしま》の神品。さらに、焼きの上がりも無類であった。  鍋島肥前守《なべしまひぜんのかみ》は、山役人から、その欣《よろこ》ばしい報《し》らせをうけると、直ちに、久米一|助命《じょめい》の急使を走らせた。  急使は刑場へ間に合ってついた。  だが、久米一の助命はかいないことであった。なぜといえば、彼は、刑場へ来る途中、すでに、刀も待たず、枯木《かれき》の折れるように、死ぬともみえず老衰で死んでいた。  さて――話の結びに、彼の残した増長天王《ぞうちょうてんのう》はどこへ安置されたか、それを一言する。  天明《てんめい》四年正月早々。佐賀城から江戸へ向って、警固荷役に守られて送り出されたのが、久米一作の増長天王であった。届け先は、頼母が久米一に話した言葉と違って、千代田の城へは入らずに、時の権勢家《けんせいか》、田沼山城守意知《たぬまやましろのかみおきとも》の屋敷へ贈物とされることになった。  これは鍋島家が、山城守に睨まれていたことがあって、その機嫌をとり結ぶべく、心を砕《くだ》いた賄賂《わいろ》であった。賄賂といっては、久米一が作らぬだろうと、頼母《たのも》に旨《むね》を含《ふく》ませたのである。  ところが、増長天王を田沼山城の屋敷へ贈る手続きをしている間に、三月、江戸城|朝会《ちょうかい》の当日、山城守は悪政の酬《むく》いをうけ、殿中で刺殺《しさつ》されてしまった。  そのため、増長天王はしばらく江戸の上屋敷の秘庫《ひこ》にあったが、後に将軍|家斉《いえなり》に懇望《こんもう》されて、江戸城本丸に移された。しかし、それもやがてまた、幕府|瓦解《がかい》の兆《ちょう》をあらわした、安政六年の失火の時、本丸炎上の紅蓮《ぐれん》をあびて、遂に永遠の相《そう》を失い、もとの土に返ってしまった。 底本:「治郎吉格子 名作短編集(一)」吉川英治歴史時代文庫、講談社    1990(平成2)年9月11日第1刷発行    2003(平成15)年4月25日第8刷発行 初出:「サンデー毎日 春季特別号」    1927(昭和2)年4月1日 入力:門田裕志 校正:川山隆 2013年1月23日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。