私本太平記 湊川帖 吉川英治 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)面《めん》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)安間|了現《りょうげん》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)〻 ------------------------------------------------------- [#3字下げ]面《めん》[#「面」は中見出し]  まだ葉ざくらは初々《ういうい》しい。竹窓の内までが、あら壁もむしろも人も、その静かな、さみどりに染まっている。 「…………」  正成はさっきから赤鶴《しゃくづる》の仕事にしげしげと見とれていた。天野沢《あまのさわ》の金剛寺前に住んでいる仮面打《めんう》ちの老人で――越前の遠くから移住してきた者だと、この道にくわしい卯木《うつぎ》夫婦から聞いている。はじめにここへ彼を案内したのも、卯木の良人の治郎左衛門元成だった。  それからは、まいど金剛寺へ来るごとに、 「赤鶴《しゃくづる》、すこしのま、邪魔させてもらうぞよ」  と、正成は遠慮しながらも、よくこの小屋へ立ち寄った。  細工場はいちだん低い土間《どま》になっている。のみを砥《と》ぐ砥石やら木屑《きくず》やら土器の火入れなど、あたりのさまは、らちゃくちゃない。――しかし人のあるなしも打忘れて仮面《めん》を彫りにかかっている一老翁のすがたと呼吸をじっとみているうちに、正成もいつかしら共にのみを持って一刀一刀に精魂《せいこん》をうちこめているような境地にひきこまれるのがつねだった。――そして、いいしれぬ忘我のこころよさを内にさそわれてくる。 「……翁《おきな》は幸福な」  と、うらやまれずにいられなかった。  ただに幸福なばかりでなく、彼の仕事はのこる――  卯木の良人も言っていた。「赤鶴一阿弥《しゃくづるいちあみ》は近ごろの稀れな名人です」と。  しかも賃銀は、一作の仮面《めん》も、なお一俵の玄米《くろごめ》にもならぬ程だそうである。でも不足顔ではない。充ちきっている。しかもこの芸魂の物はあとにのこり、世々の人を愉しませるにちがいない。  翁はそれがよろこびでこう老いも知らない燃焼《ねんしょう》に日長もわすれているのだろうか。いや、そんな名利もまったくないのかもしれぬ……。ないだろう、無我な仕事ぶりにはそんなふうなどみじん見あたらない。  正成は、つい、かえりみる。じぶんらの武門、武士というもの、それらの世界の人間はどうか。  ――こうしているあいだじゅう、彼は何かはずかしさにしびれ、自身がこのへんの領主であるなどは、思ってみるのも辛《つら》かった。なぜ武門には生れたろうか。ひそかな悔いすらおぼえるのだった。  いやいや、とまた思う。――この仮面《めん》打ちの老翁にしろ、語らせれば、人間の子、その生い立ちから、この年まであるいてきた世路《せいろ》の途中では、さまざま、涙なくては語れぬような過去も持っているかもしれない。おそらくはそうだろう。――生国にもいられず、こんな他国へ来て、孤独をこうしてひとり侘び暮らしているからには。 「……それにしても、なおまだ正成ごとき者よりは、ましか」  彼が、そんな雑念に、ふと、竹窓へ目をそらしていたとき、一阿弥もまた、老いの腰をのばしていた。そして正成のその横顔を、土間のむしろから、じっといつまでも見上げていた。なにか物言いたげな、しかし言い難そうな口もとだった。  自分の横顔になにを仮面師《めんし》の赤鶴《しゃくづる》は見ているのか。  正成は見られていることに気づいていた。赤鶴の目はその手に持っている仮面《めん》を彫る鑿《のみ》その物のようだったのである。が、正成は元々彼の素朴を愛していたからべつに咎《とが》めるふうでなく、 「……赤鶴。なんでおまえはそのように、さっきからわしの顔を見つめているのか」  と、ただ訊ねた。  すると、赤鶴一阿弥は、ひどくハッとしたらしい。領主へたいして意識なくついしていた自分の不作法から我に醒《さ》めて、あわててその眸をやりばなくしながら、 「いえ、べつに」  と、言い吃《ども》ッて。 「おゆるしなされませ。わざと、お見上げしていたわけではございませぬ。ついその、仮面師《めんし》のわるい目癖《めぐせ》というものでございましてな」 「目癖。……ほう、仮面師の目癖とはどういうことか」 「仮面打《めんう》ち根性《こんじょう》と申しましょうか。どのようなお人へも、ぼんやりとただお顔を見てはいられないのでございまする。長年、仮面《めん》打ち一ト筋に生きてまいりましたせいか、人さまさえ見れば、すぐそのお顔を生き手本と見て、不遠慮な眼《まな》ざしを凝《こ》らしてしまうことが、つい毎々でござりまして」 「なるほど」 「媼《おうな》を見れば、媼の目皺《めじわ》。荒くれを見れば荒くれの眉。かなしみ、よろこび、哀楽《あいらく》の色。女性《にょしょう》も餓鬼《がき》も貴人も乞食《こつじき》も、仮面《めん》打ちの目にはみなありがたい生き手本でござりますれば」  こう聞いて、正成はまたひとつの感銘をかさねた。なろうことならこの老翁と小屋の木屑でも焚《た》いて一ト晩かたりあってみたいほどな興味をもった。けれどままならぬ身であったのはもちろんだし、ちょうどそのときも、彼の帰りの遅いのを案じてのことだろうか。――水分《みくまり》の方から馬で安間|了現《りょうげん》と桐山小六の二人がここへ向って飛んで来る姿が、道のはるかに見えていた。  外の葉桜に駒をつないで、さっきから、おあるじが立つのを待っていた郎従たちは、 「殿。殿。……何やら急なお迎えの者がこれへ見えるようでございます」  と、はやそのことを、小屋の内の耳に入れ、正成もまたそのしおに、すぐ外へ出て来て、近づく家人の姿を待っていた。 「了現か。何事だ」 「おう、これにおいでなされましたか」  小六と共に、馬の背からとびおりて―― 「ただいま、水分《みくまり》の方へ、都からのお使いが御到着なされました」 「はて、さきごろも見えられたが、武者所の三善《みよし》殿か、長井殿か」 「いえ、このたびは、ご勅使にござりまする」 「ご勅使」  屹《きっ》と、響きのひろがりに、身をつつまれたような姿勢で。 「どなたを以《もっ》て?」 「されば、洞院《とういん》殿のおん弟、実夏卿《さねなつきょう》とうかがいました。とりあえず、客殿《きゃくでん》にて、しばしおくつろぎをねがい、龍泉さま(正季《まさすえ》)へも即刻お告げ申しておく一方、かくはお出先へまで」 「そうか。すぐもどろう」  正成は、駒の鞍《くら》わきへ寄って、片手をかけた。  あわただしい数日が、水分《みくまり》ノ館《たち》を中心に過ぎていた。  都からみえた洞院ノ実夏《さねなつ》が、この家へ勅をもたらして帰ったあの翌朝からの、うごきなのである。――とくに龍泉の正季は、来るべき日が来たものと近郷の同族間をかけまわり、自邸の家人もみな赤坂城に移して、 「このたびこそは、一期《いちご》の大戦となるだろう。未練をあとにのこして立つな」  と、出陣のしたくを励まし、また、郷土の兵には、郷土に残る家族との名残りを努めて惜しませていた。  赤坂城の復旧はまだ六、七|分《ぶ》しかできていず、工事は半ばなのだった。しかし近郷の同族は、数日のまに、ぞくぞく、これへ集合していた。ここを起点に、兵庫|表《おもて》へ発向ときまったもので、さきに洞院ノ実夏《さねなつ》が、正成へ、  勅のお召  と、つたえて来たみことのりへの応《こた》えだったのはいうまでもない。  ところで、当《とう》の正成は、なお赤坂城へも姿をみせてはいなかった。すべては水分《みくまり》ノ館《たち》のおくから弟の正季、祐筆の安間了現、久子の兄松尾|季綱《すえつな》らにさしずしていた。そして、居ながら金剛、葛城《かつらぎ》の山波が望まれる彼の居室は、いつものようなひそけさで、今日は爺《じい》の左近をよんで、なに思ったか、 「蔵帳《くらちょう》一切をこれへはこべ」  といいつけていた。  彼は、それらの検見帳《けみちょう》から、領下の戸帳《こちょう》や蓄備倉《ちくびそう》の表《ひょう》や年貢控《ねんぐひか》えなどを克明《こくめい》に見終っての後。 「爺、おととしかな、ひどい春の別《わか》れ霜《じも》と、そして夏はまたひでりで、この山里が、えらい不作にみまわれたのは」 「いえ、あれはもう、さきおととしのことでございましょう」 「そうか。するとここ両三年は、まず百姓も、少しは息をつけたわけよの」 「ま、何かと、よんどころない軍需の御用は徴《ちょう》せられておりますなれど」 「む。この大乱がおさまらぬかぎりは、百姓にも楽をさせてやりようはない。……したが、今度という今度の一戦では、いやでもこれをさいごに世の覇者《はしゃ》を決し、いわば大風一過《たいふういっか》の世となるだろう。そしたらむごい兵糧米の加役なども徴《ちょう》するにはおよばなくなる。せめてここの領下の民にもはやくそうしてやりたいものだ」 「なかなか、きのうきょうの聞えでは、西からのけわしい風雲、さようにうまくまいりましょうか」 「わからんの……爺《じい》」 「爺も一期《いちご》をかくごしておりまする」 「いや、そちは残れ、あとも大事ぞ。……この蔵帳の要務なども、家職のそちよりほかに預けおく者はない。ともあれ、世も小康《しょうこう》と見えたら、館《たち》の費《つい》えなどはツメても、まず百姓の年貢《ねんぐ》を先に下げてやれよ」 「こは、何を仰せかと思えば、いまわしい、後々のおたのみごとなど」 「さむらいの門出、あたりまえなことでしかあるまい。正成もぼつぼつ心じたくだが……。さて、南江備前は、どうしたろうな」 「まことに、もう戻ってもよいじぶん。……いや今夜あたりは、馬にムチ打って、吉左右《きっそう》、これへもたらしてまいりましょう」  理由なくおちついていたわけではない。じつは心待ちがあったのである。むしろ正成の心は、気が気でないものだったかもしれなかった。  その急使は、洞院《とういん》ノ実夏《さねなつ》がここへ臨んで勅をつたえた当夜の真夜中、すでに正成の或る密命をうけて、河内からみなみの遠くへ、馬をとばしていたのだった。――一族のうちでは、もっとも寡言《かげん》だが重厚な人物といわれる南江備前守正忠に、正成の甥《おい》、楠木弥四郎もついて行っている。  どこへ?  とは、正成と爺のほかには、たれも知らない。  しかしその夜からかぞえてもまだきょうは六日め、さきの返答をえて返るには距離から考えてもむりである。……爺の左近は正成が見終った沢山な簿冊《ぼさつ》を両手にかかえてひとまずそこをさがってきた。そして納戸《なんど》へむかって主屋《おもや》の大廊下をまがりかけると、 「じい」 「じい!」 「それ、なに」  たちまち、次男の正時、三男の三郎丸(正儀《まさのり》)。それに卯木の子の、まだ四ツでしかない観世丸までが、一しょになって彼の足もとにからまって来た。 「オオ、これはこれは」 「じい、逃がさないぞ」 「見つかりましたな」 「見せて。それを」 「これはだいじな御書類でござりまする」 「うそだい」 「いえいえ、和子さまたちが御覧になってもつまらぬものでしかございませぬ。けれど御領下の百姓やお家にとっては大切な物なので、ただいま、納戸《なんど》の御書類棚へちゃんと納めに行くのでございますでな」 「でも、絵本だってあるんだろ」 「そんな物はございませぬ」 「あるよ」 「ございません」 「あるじゃないか」 「あ」  爺が身をかわすまに、抱えていた簿冊《ぼさつ》のあいだから、すばやい子供の手が、チラと彩色《いろ》の見えた検見《けみ》絵図の一帖をさっと抜きとって、もう下でひろげだしていた。のみならず爺は抱えていた山も下へ崩してしまッて、怒りもならず、拾いあつめながら。 「さ。和子さまたち。お返しください。絵でも何でもございますまいがの」 「じい。そっちのは」 「ほれ。こちらのは、このとおり、なおつまりません」 「もっと、下のだよ」  爺の左近はもてあまして、もうなすままにまかせていた。すると、ひと間から出て来た卯木《うつぎ》が、小走りに、 「ま……。観世丸までが」  と、そこへ来て、まず一ばん小さいのから順々にあやして、ともかく、爺を無事に逃がしてくれた。  その代り彼女は三人にまといつかれて、元の部屋へは帰れなかった。で、ぜひなく庭へ遊びにつれ出して、「そっちへ行ってはあぶない」また「こっちで騒ぐとお兄さまのお勉強の邪魔になる」などと走り廻って見ているうちに、どこかで、誰か、 「卯木さま。卯木さま」  と、呼ぶような声がする。  ふと見ると、侍長屋と庭ざかいの垣の外から、金剛寺前の仮面作《めんつく》り師、赤鶴一阿弥《しゃくづるいちあみ》が、こちらを覗いているのだった。 「ま……」卯木はそこの木戸をあけて「おめずらしい。赤鶴さまではございませぬか」  一阿弥は小腰をかがめた。 「はい。めったに外へ出ぬ不精者でございまするが、今日は」 「なんの御用で」 「じつは、先日てまえの小屋へ、御領主さまがお立寄りくださいましたせつ、あとで気づいたのでございますが、お忘れ物をしておいでなされましての」  と、一阿弥はふところの物を、捧《ささ》げるように、卯木の掌《て》へ手渡した。  錦《にしき》の小さい金入れの巾着《きんちゃく》で、こがねか銀が入っているのかもしれなかった。たなごころに、ずしりと重い感じがする。 「ほんに、これはおやかた様のお持ち物にちがいありませぬが」 「あなたさまから殿さまへ、よしなに、お返し申しあげてくだされませい。用事というのはただそれだけのことなので」  と、さっそく帰りかける姿へ、卯木はあわてて、 「でも、ちょっと待っていてくださいね。すぐ来ますから」  と、彼女はそれを持って、元の庭のうちへ小走りにかくれた。  卯木の目を離れた幼子たちの姿は、もうどこにも見えはしない。彼女は西の対《たい》の屋《や》へあがって行った。そしてしばらく室内で正成と話していたが、まもなくまた垣の外へ戻って来て。 「赤鶴《しゃくづる》さま。どうもお待たせいたしました」 「なんの、なんの」 「正成さまの仰せには、これはお忘れ物ではないとのことでございますよ」 「はて、そんなわけはございませぬ。たしかにこれは」 「いえ……御承知の上、つまりあなたへ差上げる思し召で、わざと置いてお帰りになったのだそうですから」 「えっ?」  と、彼女のさしだす物へ手を振って。 「めッそうもない。そのような物を、わたくしめが、いただくいわれはございませぬわい」 「ですが、おことばでは――たびたび赤鶴の小屋へ立寄っては、仕事のさまたげをしたことゆえ、さだめし迷惑なことであったろう、と」 「どういたしまして、てまえの拙《つたな》い仮面《めん》作りを、どこがお気に入ってやら、一心に見ていただき、その都度《つど》、いつも張り合いを覚えたほどでございまする」 「では、その御褒美のおつもりなのでしょう。いッそありがたくいただいておきなされませ。そして、いちばい御精《ごせい》をこめて、いつかいちど佳《よ》いお作《さく》を打って、お目にかけたらよいではありませんか」 「……なるほど」  一阿弥は、やっと得心がついた容子で、その物をおしいただいた。そしてふところ深くへ仕舞ってからもういちど庭ごしの遠くの屋根へお辞儀していた。 「そのおことばで、じつはいま抱いている思いを申しあげてみるのですが、ありがたいこの御恩施《ごおんせ》をもって、ならば、ぜひ彫り上げてみたい一作がないわけでもございませぬ」 「春日《かすが》へでも納めたいと希《ねが》っているお願《がん》かけの仮面《めん》ですか」 「いえ。ここのおやかた様のおん生顔《いきがお》を、ぜひ一つ写してみたい料簡《りょうけん》でございまする」 「え?」  と卯木《うつぎ》は目をみはった。 「おやかた様の生顔を仮面《めん》に写してみたいというのですか」 「……で、ござりまするわ」  はなしが自己の仕事となると赤鶴のひとみは、壮者のような張《は》りを持って、それまでの卑下《ひげ》などはもうどこにもなくなっていた。 「やってみたい! 今日まで歩いてきた世間の中の、どこにも見たことのないお顔ですわい! 鑿《のみ》にかけて、自分の力だめしに彫ってみたい」  うわ言《ごと》に似たつぶやきと共に歩きだしてもいるのである。卯木もひきずられるように小道の横へ入っていた。一阿弥はそこの真ッ黄色な山吹の叢《むら》を見ると、 「ごめんなされい」  と、山吹の黄に染まった平たい石にこしをおろした。 「どうしてですの?」と、卯木もそこへうずくまりながら、追い打ちをかけて「……どうして、赤鶴《しゃくづる》さま、そんなお望みを持ったのですか。おやかた様のどこがそんなに?」 「いや、おわかりはいただけますまい。しごくありふれた世間なみのお顔といってよろしいのでな。……けれどさき頃ふと、手の鑿《のみ》も不作法も忘れて見入られ申しまいたのじゃ。……めッたにあるまじきふしぎな御人相をお顔の一枚下のお顔にたたえておられる。赤鶴《しゃくづる》の目だけがそれを見つけだしたと思うてくだされい。とにかく、異相とは見えぬが一種の御異相」 「それを、もっとくわしく、わかるように、仰っしゃってはくださいませぬか」 「さあ? のう……」と、目も眉もひとつにふさいで。 「ゆたかな、慈悲のおん相《そう》にはちがいない。けれど阿修羅《あしゅら》もおよばぬすさまじい剣気を眸に持っておいでられる。したがその猛も貪婪《どんらん》な五欲には組み合わず、唇と歯には智恵をかみわけ、鼻、ひたいに女性のような柔和と小心と、迷いのふかい凡相をさえお持ちであらっしゃる。卑賤《ひせん》の親とは慕われようが、決して貴人の相《そう》とは申されぬ」 「…………」 「いやいや、言い違《たが》えた。貴相ではあるが、その貴相は、福禄のそれではなく、堂上におごる人のそれともちがう。どうみても我利我欲の強さには欠けている。では私《わたくし》の自我心はないのか。それもちがう。おそろしい大自我、いわば大私《たいし》といったような御自分の自信はなんぴとよりもお強く巌《いわお》みたいにその貌心《ぼうしん》の奥に深く秘めてはおられる」 「…………」 「これは稀有《けう》なお顔じゃわい。たまたま人間の中に生れた一個のめずらなおひとがここの御領主であったわえと、つい、仮面作《めんづく》りの根性から、そのせつ、見惚《みと》れ申したことでおざりまいた。……だが、ただひとつ、どうにも気がかりなことがありますわい」 「気がかりと仰っしゃるのは」 「申すまい。……いや、あなたさまだけには、そっと申しあげておいたがよいか?」 「なにをです。赤鶴さま、聞かせてください」 「てまえは人相|観《み》でおざりませぬゆえ、中《あた》らぬかもしれず、中らぬことを祈ってはおれど、御領主さまのどこかには、可惜《あたら》、死相の翳《かげ》がみえまするで……」 「まッ、不吉《ふきつ》な!」  卯木はおもわず小さい叫びに似た声で。 「おやかた様に死相の翳《かげ》がみえるなんて……。そ、そんなこと、思うだに、いまわしい! 赤鶴さまえ! 予言者でもないそなたに、何でそのようなことが、言い断《き》れるのですか。分るのですか」  顔の色まで変えて、彼女は彼の呪師《じゅし》めいた言を、そのからだから振り払うように抗議する。怒《いか》ッてさえ見えるのだった。  赤鶴もこれにはとむね[#「とむね」に傍点]をつかれたらしい。仕事の話となると、いつもすぐ仮面作《めんづく》りの権化《ごんげ》となってしまう半喪心《はんそうしん》の状態から、ただの貧しい一面の仮面彫り職人に返って、急に、雄弁だった舌の根もどこへやら、 「いえ。け、決して」  と、どぎまぎ、吃《ども》ッた。 「た、ただ、そんな気がしたと、申しあげて、みたまでで」 「だって。時も時です。いくら世情にくらい仮面《めん》作りのあなたでも」 「わ、わかっておりまする。きのうきょう、御領下の駒音でも」 「……でしょう。……この御本屋でも、赤坂城でも、ご出陣のせまっている今。わたくしたちの端までが、どうぞ、いくさに勝って、おつつがないお帰りの日があるようにと、胸のいたむほど、祈っているときだというのに」 「……申しわけございません」 「ああ、打ち消されても、なにやらもう」 「どうぞ、お気にかけてくだされますな。世事学問、何ひとつ知るではない仮面師風情《めんしふぜい》のたわ[#「たわ」に傍点]言《ごと》よとおぼしめして」 「でも、赤鶴さま」 「へい」 「ほんとに、あなたには、おやかた様の翳《かげ》に、どこかそのようなものが感じとれるのでございましょうか」 「ごかんべんを……」と、一阿弥は、もう骨のない頸筋《くびすじ》の持主みたいに「ついつい、つまらぬ戯《ざ》れ言《ごと》を口にしますので、村人からも、あれは半気狂いじゃ、ほら吹きよと、とかく嫌われておりまする私なので」 「ではほんとに、しんからそう思ったわけではないのですね」 「いけません」と、あたまをかかえ、そして腰を浮かせながら――「どうかもう、それにはお触れ下さいますな。お忘れくださいまし。はい、このとおりおわび申しあげまするで」  いかにも悄《しょ》ンぼりした姿で彼はひょこひょこ帰り途へ歩きだしていた。その背は彼女のひとみの中にかすんでいた。彼女にはうすうすながらこんどの戦にのぞむ正成の心がわかっていないこともない。とくにいつもの発向とちがってこの数日をまだ御本屋のおくから起たずにいるなども、なにか後々のことまでを何くれとなく処理しておいでになるのではないかなどと女心の察しもしていたところなのである。  ――やがて、彼女も主屋《おもや》へ帰った。そしていつものように、釜殿《かまや》の大土間で夕餉《ゆうげ》働きをしている女童《めのわらわ》や下部女《しもべおんな》にさしずなどしていると、遠い所の表門で、あわただしい駒音がひびいていた。  爺の恩智左近や、そのほかの侍たちが、すぐ駈け出て「――お待ちかねぞ、すぐ奥へ」と、いう声などもせわしない。思うに、紀州の遠くへ使いに行っていた南江備前守と楠木弥四郎たちが、昼夜わかたず、急いで帰って来たものにちがいない。 [#3字下げ]別《わか》れ霜《じも》[#「別れ霜」は中見出し]  待ちかねていた者たちの帰りを、正成はいまたそがれ時の燭《しょく》に見ていた。  甥《おい》の弥四郎と、南江備前守とで、もう一名は途中の和泉《いずみ》から使い先へ加わって行った――これも一族の和田|修理亮《しゅりのすけ》助家だった。 「えらかったであろ」  正成は、いたわって。 「助家も紀州田辺まで同道してくれたか。大儀だったな」 「いえ。……お力添えの足しにもならず、やはり田辺に入ることはさえぎられ、切目《きりめ》ノ宿《しゅく》の別当《べっとう》の御別院にて、別当|定遍《じょうへん》どのの代表と称せられる法橋殿《ほっきょうどの》にお目にかかり、御当家よりの要旨を申し入れ、まずは懇談だけはとげて、たちかえりましてござりまする」 「では」  正成の声の裏には、予想されていたものと、なかば、淡《あわ》い失望の容子とが交叉《こうさ》していた。 「このたびも、ついに田辺までは、立ち入れぬわけだったのだな」 「なにせい、切目ノ王子より内は、熊野三山へかけて、きびしい領界の制を布《し》いておりますことなので」 「ぜひもない。さきには、田辺へ降《くだ》られた勅使すら別当には会えずに立ち帰ったとやら聞いておる。……したが、切目の法橋《ほっきょう》との会見では、正成から要請《ようせい》の一条、容れられそうか、あるいは、まったく見込みもなさそうか」 「その儀は」  と、備前守正忠が、 「決して、望みなきではございませぬ。とくに切目の法橋は、たしかな宮方お味方の一人《いちにん》と見奉ってござりまする」  と語をつよめた。 「……そうか」  正成はしかし、頼みの一端も達しられたとしている容子ではなかった。といって暗然たる翳《かげ》でもない。ただ過去、また今、いつも難しい対熊野勢力への思いをふたたびしているのである。  船、船、船  田辺が持つ熊野水軍  正成がいま望んでやまないのはそれだった。  だが熊野三山のうちも、決してこの時乱に一つではなかった。朝廷がた、尊氏がた、その内部勢力は、ま二つに割れていた。  すでに、過去においても、大塔ノ宮が、御潜行中の身を、いちどは、熊野にかくそうとなされた日もあったが、やはり事むずかしく、切目ノ王子から吉野の奥へ引っ返された例さえある。  まして今は、東上中にある足利軍が、断然たる優勢ぶりを、海陸にとどろかせているのである。――名だたる熊野海賊とよばれる水軍と海上の耳目をその勢力下にもっている田辺、新宮、那智の三山がこれに無関心でいるわけはない。  おそらく、尊氏からも、すでに筑紫を発するまえから、あらゆる招致《しょうち》の手段は、すでにしつくされているであろう。  もちろん、朝廷からは、数度におよぶ詔《しょう》も勅使も降《くだ》っている。  が、その反応は一こうにみえていないし、正成の観察では、すこぶる心もとなかった。彼が派した田辺への働きかけも、この期《ご》における彼の前提戦略として、どうしても、よそにはしておけぬことだったのだ。  要するに――  熊野水軍の向背《こうはい》は、どっちとも、これを俄に予断することはむずかしい。  帰するところはこれからの戦局次第だ。大勢のいかんによって微妙なうごきを見せ出すことであろう。――正成はそう観る。――そしてこれ以上な策もいとまも今はあるまいと、腹をきめたようだった。 「……ですが」  と、三名のつぶさな報告も、やがて終りかけてから、甥の楠木弥四郎が、 「田辺の別当《べっとう》をめぐる一群の熊野衆には、尊氏方あり、日和《ひより》見もありですが、われらがお会いした切目ノ法橋《ほっきょう》どのは、われら楠木党へきつい肩入れの御仁《ごじん》でございましたな。なあ助家どの」  と、あとをまた、助家のことばに譲《ゆず》った。 「されば――」と、助家はうけて「万が一、別当どのが怯《ひる》んで、朝廷方へお味方せぬばあいには、一味同心だけをすぐって、一船陣を作り、尊氏が兵庫へせまる日、かならずこなたは紀伊水道から摂津《せっつ》ノ沖へ出て、御加勢に加わりましょうと、その法橋どのは、かたく申しておりまいてござりまする。……そして、頼みと思われる家々は」  と、指を折った。  日高南部ノ荘の小山党、または愛州党。  潮崎の潮崎党。  神宮領の湯川、色川党。  なお、鵜殿《うどの》党、何郷の党と、十|指《し》にあまる熊野武族の名が、かぞえられた。  もし、それだけの党の舟軍でも相違なく御味方に参《さん》じてくれるものならば――と、正成は祈りにも似る一縷《いちる》の希望をそれにかけずにはいられない。けれど弥四郎、助家らがいうていどの約言に、あまりな期待をもちすぎるのは兵略として、すこぶるあぶないことでもある。努めて抑止していなければ大蹉跌《だいさてつ》を見まいものでもない。もとより正成は、うなずき、またうなずき、胸におさめていただけだった。 「まずは、なすべきこともなし、正成のこころもきまった。疲れたであろ。備前、ほか二人もやすむがいい」 「せっかくな御使命も、ご期待ほどにはまいりませいで」 「いや、満足満足」 「では御出陣も」 「あすのうちか。ともあれ、こよいは充分に寝ておけよ」  その三名が立つと、正成はすぐ、弟の正季《まさすえ》、義兄の季綱《すえつな》、ほか安間、和田、橋本、神宮寺などの一族中のおもな者七、八名を赤坂城へよびにやった。――いや正季、季綱などは、この夕、すでに館《たち》の内に来て、正成がよぶのを待っていた。  やがて。  一同の席は広書院に変えられ、人出入りを断ち、燭《しょく》は更《ふ》けていた。――そして熟議をとげ終ったこの人々の影が、また赤坂城へもどって行ったのは、もう真夜中ぢかいころだった。  帰りしなに、正成から、或ることづてをうけていた正季は、城内へはいるとすぐ、妹の卯木《うつぎ》の良人、服部治郎左衛門元成を、武者溜りからよびだして、 「なにかは知らぬが、兄上がお待ちしておいでになる。朝を待たず、こよいのうちにという仰せ。すぐ御本屋へ伺ってください」  と、立話で告げていた。  治郎左衛門元成は、いまではまったく、楠木家の家族のひとりに溶《と》けこんでいる。  卯木《うつぎ》とのあいだには、四ツになる観世丸という子も生《な》し、妻とその子は、水分《みくまり》ノ館《たち》に養われていたので、正成とともに、戦場へおもむいたり、都にとどまったりする期間はあっても、郷《さと》へ帰って来れば、帰るたびにきわだって大きくなっているわが子を見るのが愉しみの一つであった。――そしていつか数年は夢と過ぎていたここちだった。 「はて、何の御用だろう? この深夜に」  と、彼は思った。  彼も一部将として、とうに赤坂城の武者溜りの内に詰《つ》め、いつでもと、出陣を待機していた一員なのである。  が今。正季のことづてを聞いたので、彼はほどちかい水分《みくまり》の御本屋へさっそく馬をとばして行った。  そして、爺の左近へ、 「元成でございますが」  というと、爺もすでに、 「お待ちかねでおられます。さ、さ、そのまま」  と、取次もなく、すぐ正成のいる広書院へみちびいた。  その気配に、内から、 「治郎左か」 「はい」 「おくへ来てくれ。ここでは広すぎる」  と書院の横へ、正成の声が先に出て行った。渡りの板をわたる時の、暗いなかでの掛樋《かけひ》の水音が寒々しい。そこから一だん踏むと茶堂めいた小部屋があった。灯一ツ、夏隣りの湿気の多い夜気の中にゆらめいていて、もひとり誰か、先にいて、坐っていた。  卯木であった。  卯木もともに呼ばれていたのだろうか。元成は、何とはなくはっとした。おなじように、良人を見た妻のひとみも静かな胸騒ぎを彼にみせた。  が、元成は、妻と並んでも妻は目のうちにないようなかたい行儀で。 「何の御用でございましょうか。龍泉どのからお呼びと聞いて、さっそく駈けまいってござりますが」 「じつはの……」  正成はしばらく措いた。心の奥から妹夫婦の揃った姿を、しげしげと今、見るふうだった。 「わしは明日出陣するが」 「はっ」 「ついては、治郎左。こよいのうちに命じておく。そちは残れ」 「えっ?」 「いまここで具足を解くがよい。そして元の武門の外の芸能者、雨露次《うろじ》に返ることをわしからすすめる。……卯木にも異存はないはず。夫婦《ふたり》して、よう行くすえを話しおうて、これからの世を歩むがいい」 「な、なにを仰せかとおもえば……。この元成へ、あとに残って、ほかの道を歩めとは」 「激すな。……治郎左。……観世丸もああして無心な育ちをすくすくとしておるではないか。つねにはなかなか思うても口には出ぬ。が、いまはと正成が申すことだ」 「おことばですが、御出陣の列から洩れるなどは、この期《ご》において心外です! 余りといえば心外にござりまする」  と、元成は身を俯伏《うつぶ》せてさけび、卯木も顔を袖にかくして泣き伏した。 「なぜ!」  と、正成はきびしく。 「治郎左、なぜ心外なのか」 「でも、元成とて、命を惜しむ卑怯者ではございません。そう見られるのは、口惜しゅうございまする」 「命を惜しむことがなぜわるい。畜生のように惜しめと正成が言ったわけではあるまいが」 「…………」 「死ぬであろう戦場へおもむくのも、じつは命を愛《いつく》しむわが命がさせていると、この心のあやしさ、正成もまた観《み》きわめておる。――いま、そちたち夫婦《ふたり》に、武門の外へ返れというのも、むなしく生きろというのではない。そちたちには二度とえられぬ命を大事につかってゆく別な道があったはずだ」 「……仰せ。ありがとうはござりまするが」 「わかったか」 「ですが、やはり明日の御発向には、ぜひともお供にお加えくださいまし。……卯木、そなたからもようお願いせい。……御一族あますなく、挙《あ》げて、兵庫の難へ。しかも、聞きおよぶところでは、足利方は数万の大兵のよし。このたびこそは、決死の御出陣と知れきっているものを、なんで私ひとりあとに残って、おめおめこの郷《さと》を去られましょうか。……もとの芸能者に返って生きてなどいられるものではございませぬ」 「兄上さま」  と、卯木もまた、 「どうぞ元成殿の切な願いをば、かなえて上げて下さいませ。良人を戦《いくさ》に見送る妻は、私ひとりではございませぬ。お姉ぎみ(久子)の身になっても……」  と、一しょに言った。そして泣き濡れるあいだにも、ふと卯木の胸には、赤鶴《しゃくづる》が自分へ言った、あのいまわしいことばが、自分の予感そのままな実感となって来て、一ばい悲しさがせぐられていたのだった。 「はて、ふたりとも聞きわけのない……」  正成は、叱った。 「そちたちは、元々、いぜんお仕え申していた女院の御所に浮名をのこして、生涯を巷《ちまた》のうちにと、御所をあとに逃げ落ちたときから、すでに周囲の絆《きずな》は断ち、また治郎左は、伊賀の服部家の跡目も武門も、とうに捨てた決心ではなかったのか」 「……はい」 「もう忘れたのか。――巷《ちまた》では名を雨露次《うろじ》とかえ、卯木もその遊芸人の妻だった。だが、浮草のような生活《たつき》の中にも、夫婦《ふたり》だけの生きがいを、また愉しみを、見つけかけていたのではなかったか。……そして芸の道に深く入るほど、そこに世間の人をよろこばしてまた自分も生きるよろこびを知り、一念、それを以て生涯しようという望みであったはずであろうが」 「…………」 「なぜその初《しょ》一|念《ねん》へ返れというのに素直に返らぬ。――正成は武門、しかし、正成の骨肉のひとりが、そのような道へ迷《はぐ》れ出たことを、かなしむどころか、じつはひそかに心ではよろこんでいたのだ。……ひとつ腹から出た妹ながら、ひとの数奇《さっき》のおもしろさよ、武門正成のうちからも、ひと粒の胚子《たね》が、あらぬ野の土にこぼれて、行くすえ、どんな花を世に咲かすことであろうか……などとも思われて」  夜は深かった。  千早川の渓水《たにみず》の音だけが、どこかに遠く―― 「卯木《うつぎ》……。そうだったな」  正成はなお、妹の方へ、その柔らかな目をそそいで。 「ちがうか。……この兄はそちたち夫婦の願望をそう観ていたが、思いすぎか」 「でも、あれからの世の騒がしさ、私どもの願いなどは、どこにも置くところはございませんでした」 「げに一ト頃は、この水分《みくまり》ノ館《たち》さえ焼き払い、千早の孤塁《こるい》に冬をすごし、草を喰べ、よくぞ生きてきたものよ。しかも、その籠城中に、そなたは観世丸を産んでいた」 「…………」 「可愛くなったのう。その観世丸と申す名も、そなたと治郎左とが長谷《はせ》へ詣《まい》って、いただいて来た童名じゃそうな。――自分一代は、乱麻《らんま》の世に会うてぜひもないが、この子だけは、芸能のみちに名をあらわすほどな者になし給え、修羅殺伐《しゅらさつばつ》な六道《ろくどう》の外に立つ者となさしめ給えと、親心、祈願の夜籠《よごも》りまでしてもどったとか……そのおり久子から又聞きに聞いてもいた」 「それにちがいございませぬ。けれどもう、望みは子の代《だい》にかけましても、私たち親どもは」 「捨てたのか、夫婦《ふたり》で誓った一生の道は」 「ぜひものう」 「なぜ捨てた。そのような弱い意志では、長谷への御願《ぎょがん》もあだ[#「あだ」に傍点]事でしかなかろう。子の代《だい》へかけてまでの願望となら、親自体、子の根になって未来を培《つちか》ってやらねばなるまい。命のかぎり、親も生きてやろうとはなぜしない」 「みすみす、あまたな人が、私たちのそばで死んで行きました。……千早のときでも、そのごの、お出先のいくさでも」 「だから……?」 「そのうえ、このたびはまた、御一族あまさぬお覚悟の戦立《いくさだ》ち。……良人だけが物具《もののぐ》捨ててよいものでございましょうか。また私だけが、久子さまや、ほか沢山なあとに残る女衆の悲しみをよそにしていられるものでもございませぬ。く、くるしゅうて。そ、そのようなことはもう」 「妹……」と、正成は彼女の身もだえをいたましげに。 「その切なさはわかる。だが、そなたでさえする苦しみは、またその責めは、正成がみなこの一身に負って征《ゆ》く。あまたの若者、沢山なこの郷《さと》の誰彼を、あえなく戦に送って死なせたのはこの正成だ。あたりの犠牲《にえ》にみずからを責めて苦しむのはよいことだが、それはそちたちの科《とが》ではない。強悪正成一人の罪としておけ……」 「…………」 「よいか、くるしむなればその心でなお一命を長らえて、次代の世の償《つぐな》いに生きて行くのが真に命を愛《いと》しむというものだ。武者にはそれもゆるされん。したが何の、そなたたちは一たん武門を捨てていた者だ。笑わば笑え、一時の人沙汰など、どういわれようが笑わしておけばよい」 「…………」 「いや、夜もふけた。正成には明け方までに、まだまだ、心忙《こころせわ》しいことがいくつも待っている。心得たろうな! 卯木、治郎左」 「…………」 「まだか。わからねばただ一語、勘当、ということばだけしか、あとはないぞ」 「あっ……」と、二つの顔は、いちど正成を見上げたが、ヒタと濡れつくようにまた咽《むせ》び伏していた。「わ、わかりました! ……。ようわかりましてござりまする」  やがて。もうそこには卯木も治郎左衛門も見えなかった。ふたりが退がってからまもなくである。妻の久子が来て、正成へ、 「あすはまた、ひとしお、お忙しゅうございましょうに」  と、寝所へ移るようにすすめていた。 「いや、あらましの手はずはなった。あすはもう立つばかりのこと……。久子」 「はい」 「あすの夜は、はやわしは征旅の途中、そなたは、留守の者をかかえて、そなただけのこの家《や》になるなあ」 「どうぞ、あとはお案じなされますな。いつまでもお待ちいたしておりまする」 「安心している。征旅に立つ身にとって、あとを安んじて行けるほど心づよいことはない」 「でも、その御安心を身に担《にの》うて、よいお留守をしているには、まだ、久子には何か力が足りませぬ」 「そうでない。そなたも凡《ただ》の女ではあろうが、しかし正成が日ごろにいうてあることだけは、よくわかってくれておるようだ。それでよいのだ。またの出陣となっても、あらためて申すことは、ひとつもない」 「ですが。……あの、いま申してもよろしゅうございましょうか」 「なにかまだ」 「はい」 「いうたがよい」 「せっかくお寝《やす》みのおさまたげになってもいけませんが、あすとなっては」 「正行《まさつら》のことか」 「きょうも独り泣き暮れておりまする」 「この父に、戦に連れて行けと申すのだったな」 「正行にせがまれて、この母も共に、ぜひこのたびは初陣《ういじん》にと、きのうもお願いいたしましたが、待て、考えておこう、と仰っしゃったきりなので」 「明朝、そなたからよう諭《さと》せ。このたびは留守していよと」 「では、かないませぬか」 「こんどは初陣の童子などをつれて行けるような生やさしい戦ではない。日頃の戦場とは大いに違う。それらの仔細は、そなたにもわかっているはず」 「それはもう、よう申しきかせたのではございますが」 「ききわけないのか」 「母のことばでは」 「……よし。わしから明朝言ってきかせよう。正行も十五、男の子だ、そうあっても一概には叱られまい。ところで……久子、卯木《うつぎ》から何か聞いたか」 「いえ、まだなにも伺ってはおりません」 「じつはの。……妹婿《いもとむこ》の治郎左は、あすの発向の列から外《はず》すことにした」 「それはまあ」 「よかったと、そなたも思うか」 「わたくしからもお願いしたいほどでした。ありがとうぞんじまする。さぞ卯木さまも」 「いや夫婦《ふたり》にとれば、ただよろこびにもしておれまい。ひとの誹《そし》り、うしろ指、さらには前途、芸道の修行も長くけわしかろう。だが、ここは絆《きずな》を断《き》って卯木夫婦を武門の外へわざと勘当同様に追いやったのだ。……そなたも情にひかれてはならぬ。正成が立ったあとでは、素気なく、笠一ツずつを持たせて、この郷《さと》から早よう追い出してやるがよいぞよ」  その晩は寒かった。  わけて屋《や》の棟《むね》も下がるという丑《うし》ノ刻《こく》をすぎると、山里のつねでもあるが、五月というのに冬のような気温の急下に肌もこごえそうだった。  久子は、いちど良人を寝所へ送ってから、いつものように子供らが枕をならべている対《たい》ノ屋《や》のわが寝間へひきとっていた。が、余りの冷えに、また起きて、みずから納戸《なんど》のうちの夜具《よのもの》を一枚かかえ、ふたたび正成の寝所へもどって、そっと寝顔をのぞきながら、ふんわり、それを良人へ着せかさねた。  そして、それなり久子はそこにいた――  といっても、暁までは、つかのまであった。  長い生涯も短いといえばいえる。短夜《みじかよ》のさらに短い一ときも、あるいは、百年のちぎりを一瞬のかたらいに込めて夫婦の二世までをその純朴な情愛の仲ではかたく信じ合えていたかもしれない。  情痴な、奔放な、また荒婬な世の男女の性戯だけが、ふかい性の真髄味を知るものとはいえないようだ。  かたちのうえでは至って艶色に遠く、心のあやでも、無表現としか見えないような仲でもそのふたり以外には窺《うかが》いえない別な性の神秘と高い感激とが人知れず愛持されていただろう。開放的な男女が性を遊戯にして踏みしだいているのとちがって、素朴な男女のそれの方がむしろ絶対境な秘園の同化と甘美な泉を汲《く》んでいたかもしれなかった。よく唐宋《とうそう》の詩人などが歌いあげている――比翼《ひよく》のちかいとか、同穴《どうけつ》のちぎり、鴛鴦《えんおう》の睦《むつ》み――などという言葉にあたる永遠をかけた不変の愛とは、つまり遊戯の中にはないものである。敬愛し合う男女の素朴な祈りと生命のみが知るものだった。――また河内の山間に古い或る一つの大屋根の下の、まだ明けきらぬ閨《ねや》の内には、あったろうかとおもわれる。  まもなく……  金剛から水越峠の遠山が、くっきりと、晨《あした》の線を描いていた。 「ほう」  早起きではいつも一番の爺の左近が、遣戸《やりど》をあけて、その赭《あか》ら顔《がお》を東の空へあげたとたんに、こう独りでつぶやいていた。 「霜だわえ! 五月にしてはめずらしい今朝の霜だ」  それからすぐ、彼は侍部屋から下屋《しもや》へまで、何かどなり廻っていた。  いやいつもならば、厩《うまや》から雑人長屋も、それからの物音なのだが、今朝はあながちそうでもない。あらためて、 「御出陣だぞ。今日だぞ」  と、いちいち爺からいわれなくても、中間《ちゅうげん》から下部《しもべ》女のはしにまで心構えはできている。  卯木や久子も奥向きだけでなく、釜屋《かまや》から厨房《くりや》へまで出て、はたらいていた。――館《やかた》じゅうの清掃も今朝は日ごろとちがう丁寧《ていねい》さであった。それは幼い三郎丸や観世丸にも映《うつ》って、しきりに子供らをはしゃぎ[#「はしゃぎ」に傍点]廻らせる。――正成はそれを見て笑いながら、いま、湯殿から身浄《みぎよ》めをすまして一室へ入って行った。  すでに陽がさしのぼる。  久子は化粧した。子たちにも着飾らせた。そして主屋《おもや》の中央の部屋には、型のごとく、出陣の式のカチ栗や昆布《こぶ》の折敷《おしき》に、神酒《みき》、土器《かわらけ》なども運ばれていた。  久子の今朝は花やかに見えた。化粧も日ごろよりはやや濃目《こいめ》である。また裲襠《うちかけ》は彼女がこの家に嫁《とつ》いだときの物で、もちろん派手になりすぎてはいる。が、意識してそれも用いたらしい。  出陣の式の調《ととの》えはすみ、正季《まさすえ》をはじめ、内輪のおもな面々も揃ッていた。邸内は隈《くま》なく水を打ったように、このきれいな式の場を中心に、朝陽の顔と、正成の姿だけを待っていた。 「姉ぎみ」  と、正季はそっと訊ねた。 「兄上には、なおまだ、お支度中でございますか」 「ただいま、お仏間でいらっしゃいまする」 「ほ、では今朝はお朝食もこれからですな」 「いえ、お身支度も何も、とうにおすみでいらっしゃいますが、正行《まさつら》をお仏間の内へよんで、なにかいまお話中のようなのでございまする」 「あ……。正行と」  正季は、うなずいて。 「いや、そうか、そうでしたか!」  爺の左近は、そばでふとおもてを庭面《にわも》へそらした。時ならぬ朝霜はもうあとかたもない。けれど爺は洟《はな》をすすっていた。 「お、お見えなされた」  居ながれていた一族の誰彼はすわり直した。――書院の廊をわたって、正成が来る。黒革にもえぎ[#「もえぎ」に傍点]縅《おど》しの地味なよろい、そのよろい下の白い襟《えり》もとが、肌着だけでなく、そこはかとない清潔さを象徴していた。うしろからは、正行が、ややうつむきかげんに父に添ってあるいてくる。  正成が坐った。  みな座にひそまる。  土器《かわらけ》が手から手へ送られた。式は単純であった。無言の儀式といってよい。 「…………」  正季はそのあいだ正行を見まもっていた。泣き腫れた瞼《まぶた》の紅さが可憐で叔父として何か言ってやりたい気に駆られてならなかったからである。けれど自分の意は兄の心にそむくものであろうとして慎《つつし》まれた。自然、正行にもその思いやりがつたわっていたのだろう。折々|俯《ふ》し目《め》をあげては正行も叔父の唇もとへ頼みをかけるふうだった。しかし正季はついに何も言ってくれなかった。 「では」  正成はすぐ起った。  大玄関へかけて洞窟が開かれたような光と家《うち》じゅうの人影が奔《はし》り出た。卯木は観世丸を、久子は三郎丸と正時をかかえ、大勢の家人のあいだで良人の背を見送った。が、正成は一巡それらのたくさんな顔をながめ廻しただけだった。もう駒寄せへ出てその姿は郎従たちの上に高くそびえ、すぐその手綱を館門《たちもん》の外から右へむけていた。 「…………」  そこで、彼はちょっと、目をとどめた。駒寄せ桜の下に丸腰の男が低く腰を折っていた。治郎左衛門元成だった。が、水の中から上げた顔のように元成の目は濡れていた。正成もまた、無言だった。いうところはなかったのであろう。軽い駒足はたちまち彼を赤坂城の門へ運んでいた。  正成は、即日ここを立って、まず京都へ向った。天皇にお別れをつげるために。――また正季は、なお河内、和泉《いずみ》の遅れた兵を召集して、兵庫への途中で兄の正成と合流する約になっていた。 [#3字下げ]献言《けんげん》[#「献言」は中見出し]  都の内は暑かった。  もう夏景色といっていい。  が、雨期は低迷気味で、薄日照りのムシムシする日がつづいていた。――正成は五月十九日入京のむねを御所へ届け、一たん六条の宿所《しゅくしょ》へさがって、召《めし》の御指示を待ちかまえていた。  すぐ朝《ちょう》から達しがあった。「二十一日早朝に罷《まか》れ」との内示である。  同日、その場からただちに兵庫へ出勢すべしとの朝命とみてまちがいはない。もとより万端の準備に欠けている正成ではなかった。けれど彼はなお、その一日を、  これでいいか。  ほかにみちはないか。  と、河内を出るときから固めていた心がまえにもさらに反復をかさね、あらゆる思慮をめぐらしていた。  また。  ――刻々と東上中の、足利勢の情報もあつめていた。  すでにきのうあたり、海上の敵数千ぞうは、室《むろ》ノ津《つ》をうずめ、陸上軍も、福山、三石《みついし》を抜いて、破竹《はちく》、播磨《はりま》ざかいへ迫《せま》ッて来つつあるという。  宵の頃だった。  かねて情報集めに放っておいた、八木弥太郎|法達《ほうたつ》の部下が、摂津の昆陽野《こやの》(伊丹《いたみ》)から馬をとばして来て、 「新田どのの軍勢は、白旗城のかこみを捨て、加古川の陣も抛《なげう》って、ぞくぞく兵庫へひきあげ中のよし。何せい、諸所の崩《くず》れ、尋常《じんじょう》ではありません」  と、正成へ報じていた。  ここへ入るほどな戦況なら宮中へもすでに聞えているだろう。またそれは人心にも映って、この晩はムシ暑い蚊うなりもてつだい、洛中、寝ぐるしい夜を人々は送った。  しかし正成は、さして焦慮《しょうりょ》を抱いたふうでもない。――参内の二十一日の朝は、早くに物具《もののぐ》を着け、さて、門を出るさいに、初めて甥《おい》の楠木弥四郎にたずねていた。 「昨夜じゅう、今か今かと待っていたが、住吉からは、何の連絡も来なかったな。――ついに切目《きりめ》の法橋《ほっきょう》の舟軍は、いまだに影を見せぬものか」 「住吉へは、助家殿(和田)が行っておりますことゆえ、もし熊野の水軍が、お味方の援けに、海上へ見えたとあれば、早馬をもって、すぐにも吉報を告げてまいりましょうが」 「弥四郎」 「はっ」 「正成は参内の後、主上においとまを申しあげ、おそくも午《ひる》ごろには、都を離れよう。――助家の早打ちと行きちがうやもしれぬ。――で、そちは住吉へ駈け、もし熊野水軍の来援《らいえん》がわかったなら、すぐ西国街道の途中へそれを知らせてこい」 「かしこまりました」  弥四郎がただ一騎去るのを見送ッてから、正成は扈従《こじゅう》の一隊と三百騎ほどをつれて、花山院の内裏《だいり》へうかがった。  兵馬は宮門の外にのこして、正成ひとり、内へ通った。――ここは二条|富《とみ》ノ小路の旧皇居より一ばいまたお手狭である。正成が南庭《なんてい》の寝殿《しんでん》をそこに仰いだとき、はや後醍醐は彼をみそなわして、この日特に、御簾《みす》を高くあげさせておいでになった。  階《きざはし》のすぐ軒下を、  砌《みぎり》  という。  正成は、近うと召されて、その砌のあたりに、平伏した。  しげしげとそそがれている天皇のおひとみを、彼の背は恐懼《きょうく》のうちに感じている。――また御簾《ぎょれん》をはさんで居ながれている公卿たちの目も、みな息をためて、正成の容子に、洞察をはたらかせているふうだった。 「…………」  このような視線も、むりはない。正成がおもてを冒《おか》して、みかどへ直々《じきじき》に強烈な諫言を奏《そう》したのは、つい二月ごろのことである。  そのさい正成は言った。  ――しょせん新田殿では人心の収攬《しゅうらん》もおぼつかない。武家の人気《にんき》は否《いな》みようなく尊氏へかたむいてもいる。  もし真に天下の乱をおなげきならば、ここは何事もしのんで、まず新田殿を排《はい》し、そして尊氏をお召しになり、戦をやめて、よく尊氏をお用いになるしか泰平の道はありますまい。――まして尊氏にも朝《ちょう》へ尽した功労はあったのですから、と。  しかし、この諫奏《かんそう》は、そのとき居あわせた堂上すべてから笑いを買って、  狂人の言よ!  と嘲《あざけ》られ、かえりみられもしなかった。――そしてそれから今日、まだ百日もたってはいない。――だのに、ふたたびその狂語の人を召して、これに朝廷の浮沈を、おたのみにならなければならぬ危急となったのだから、なんとしても、公卿たちには鼻白めくものがあり、とかくこそばゆ[#「こそばゆ」に傍点]げな良心が各人の口をおもたくしていた。もちろん、天皇にしても、かつての正成の言を、お忘れであろうはずもない。 「河内よな、罷《まか》りしは」 「……はっ」 「そのご、からだのすぐれぬよしを聞いていたが、よろしいのか、近ごろは」  公卿たちがだまっているので、おことばは直《じき》に出ていた。正成にはいッそお親しくそれが感じられた。並み居る堂上たちを越えてはわるい気もしたが率直に彼もおこたえ申した。 「さして病というほどな病ではございませぬ。申さば、世病《よや》みと申しましょうか、河内におりましても、世の風騒に心も安からず、とかく人にはさよう沙汰されるものとみえまする」 「世病みとか。ならば、わが身もおなじようなもの。尊氏の東上、山陽道一円のおもしろからぬ戦況など、安からぬことではある。河内、そちもいちいち耳にしておるであろうが」 「は。聞えのままには」 「足利の兵力は、海陸数万の大軍であるという。――新田も敗退の余儀なきほどとあれば、その強力さも思いやられる。――そちはゆらい新田とは不仲のような聞えもあるが、いまはそちの力を待たではおれん。義貞を援けて共に賊のふせぎに当れ。それとも新田の麾下《きか》につくのは快《こころよ》しといたさぬか」 「こは、思いがけぬ御諚《ごじょう》にござりまする。人の沙汰やら存じませぬが、何で将帥《しょうすい》のよりごのみなどいたしましょう。すべては、御軍《みいくさ》の下、この正成もみかどの一兵でしかございませぬ」 「では」  と、後醍醐は、 「河内、そちにおいては、新田へ隔意《かくい》をふくむ心は、まったくないと申すのだな」  正成も、かさねて、 「さらさら、存じの外《ほか》です。一つ御旗《みはた》の下、まして今、外敵をひかえ、さような違和を内に持ってよいものではございませぬ」  と、お答えした。 「たぶん……」  と、おうなずきの下に。 「とるにたらぬ噂とは思うていたが、将と将とのあいだに、もし、さような反目《はんもく》があるとせば、これは三軍の亀裂《きれつ》、ゆゆしいひが[#「ひが」に傍点]事《ごと》だ。案じられぬわけにゆかん。とくに正成ほどな者を、なぜか義貞も、今日まで、自軍の片腕にとは求めて来ず、またそち自身がさきに申した諫言《かんげん》に照らしてみても、両者の同陣は、いかがあろうと、公卿みな、懸念いたしておったところぞ」 「ご宸念《しんねん》をわずらわし奉り、いちいち、申しわけもございません」 「いやなに」  と、後醍醐は、このとき、急におことばの調子をおかえになった。帝王らしい本来の大どかな御態度にかえって。 「さよう恐懼《きょうく》して、わびるにはおよばん。――さきの諫言も、いまにして思えば、そちの達見《たっけん》、ひとつの大策ではあった。また、そちの私《わたくし》なき、誠忠のほとばしりと、酌《く》んでもおる」 「はっ、ありがとうぞんじまする……」  うれしかった風である。声がうるんだ。  正成は、その御一語だけで、もう充分な気もちだった。初めて笠置《かさぎ》に召されたとき、「恃《たの》みにおもうぞ」とまで仰せられた御信頼にたいして、いささかは、おむくいを成しえたかと思い、ふと胸のどこかでホロとしたものらしかった。 「為次」  と、みかどは、公卿へむかって、用意の物をと、うながされた。  二条為次と、中院《ちゅういん》ノ定平とが、階を降りて、正成のまえに賜酒《ししゅ》の三方《さんぼう》をすえ、また一ト振りの太刀を賜わった。 「河内、そちがまいるからには、たとえ足利の大軍いかほどあろうと、もはや安心いたしておるぞ。かならず尊氏兄弟を撃《う》たではおくまい。とくに、義貞とは隔意なき作戦を打合せ、何事もよう談合の上いたすように」 「はっ」  正成は深く頭《ず》をさげて。 「お心づかい遊ばしますな。あくまで、新田殿のおさしずに従い、充分、御軍議をうけたまわっていたしまする」 「たのもしい。では、ただちに出陣いたすがよかろう」 「こころえてござりまする。――が、願わくば」 「何か?」 「なお一言、正成が存ずる所を、お聞き上げたまわるなら、思いのこすことはございません」 「申してみい。新田にたいして、そちも何か、肩を並べうる権威の望みでもあるか」 「ゆめ、さような僭上《せんじょう》ではございません。ただこの御戦《みいくさ》を、いかにせば、勝目《かちめ》としうるか、それのみにござりますれど」 「そちが馳《は》せ向っても」 「はい。勝目はなきように思われまする……」  公卿たちは、みな、  不吉な  と、色をなした。  またしても正成が、と言いたげな目《まな》ざしである。――彼らの先天的な武士軽視には修正しえない何かがあって、 「河内!」  と、たまりかねたように、四条|隆資《たかすけ》が言った。この隆資は、千早籠城のさい、正成と共に、主将として、金剛山の上にこもっていた公卿なので、正成とは気心もよく知っているはずの者だった。 「――いつにない其許《そこ》の弱音《よわね》、正成がまいっても勝目がないとは、なんとしたことばだ。しかも君前《くんぜん》、しかも今日の出陣を前に」 「お怒《いか》り、ごもっともではありまする。けれど、君前なればなおのこと、歯に衣《きぬ》きせたそら言《ごと》は申しあげられません」 「まだ敵も見ぬうちに」 「いや、おことばですが、戦ッてみねば勝敗の分らぬようでは、兵家ともいえませぬ」 「はアて? ……。千早、金剛では、あの小勢で数万の寄手《よせて》をさえ、寄せつけなかった楠木|兵衛《ひょうえ》ノ尉《じょう》が、今日はなんとしたことか。……いつもの正成ともおもわれぬ」 「げに、あのころは、日本じゅうの武士が、北条の悪政に倦《う》み、朝廷の御宣言《みのり》にはみな大きな望みをかけて、新しき世を仰ぎのぞんでおりました」 「…………」 「千早の戦いなどを、事大に、言い囃《はや》されるなどは、正成にとり、面映《おもは》ゆいことでしかありませぬ。あの善戦をなしえたのは、時の御稜威《みいつ》、また時の人心が支えたもの。――何条《なんじょう》、正成一個のとぼしい智略や力などでありましょうや」 「おう、それほどな謙虚《けんきょ》を持つなら、なぜふたたび、御稜威を負って、千早の勇猛心を、さらに振ッてみせんとはしないのか」 「いや、もはや人心は、残念ながら、数年前のものではありません」 「変ったと申すのか」 「申すは憚《はばか》りながら、建武の御新政に、望みを失い、結局、武家は武家の棟梁《とうりょう》を立てて栄えるに如《し》かずと、ここ大きく狡《ずる》く変ってまいりました。それが、尊氏をして、わずか二た月のまに、あのような挽回《ばんかい》をさせたものにございましょう。されば、何が怖ろしいといって、そうした衆の志向の潮《うしお》ほど恐《こわ》いものはなく、それには勝つ術《すべ》もなしと存じた次第にござりまする」 「ただそれだけで、戦う気も萎《な》えたのか」 「いや、事実も証明しています。このたび発向にあたり、河内、和泉《いずみ》の領下一帯へ、出馬の令を触れ廻しましたが、思いのほか、武士どもは寄ってまいりません。これを千早金剛の頃にくらべれば、こうも人心が変ったかと、疑われるばかりです」 「…………」  後醍醐は、この間《かん》、黙然と聞いておられたが、このとき初めて、み気色《けしき》をうごかして、 「河内。よく申した。いちいち、うなずけぬことではない。……しかし、いまさら論議のときであるまい。作戦としては如何《いか》に? 一|挙《きょ》、足利勢を粉砕する策はないのか。それを聞かせい」 「――作戦は如何に、との御下問にござりまするか」  正成は身をただした。  いまこそ、うそをいってはならないと思う。――恐懼《きょうく》しているばかりが臣子の道ではない。お気に入っても入らなくても、虚勢や粉飾《ふんしょく》に事実を曲げて、聖断《せいだん》を晦《くら》くしたてまつるべきではない――と、これは河内を出るときからの彼のかたい胸裏《きょうり》であった。 「はい、正成が申しあげたい儀も、一にその作戦のほかではございません。まず、結論からさきに申すなれば、急遽、ここの皇居を、もいちど、都の外に遷《うつ》し、主上には叡山《えいざん》へ御動座あらせられますよう、伏しておすすめ申しあげます」  はばかりなく、こういう言を吐くときの彼は、まるで別人の観《かん》がある。公卿たちにはそれが、身のほど知らぬ臆面《おくめん》なしに見えもしたろうほどだった。 「なに」  と、はたして、後醍醐には、 「では、都を空《あ》け放して、ふたたび、叡山へこもれと、そちは申すのか」  と、すくなからぬお驚きと、またありあり、ご不満な御気色《みけしき》だった。 「さようでございます」と、正成はいよいよ、ことば静かに。 「――ここ幾日、さまざま按《あん》じてみましたが、尊氏に勝つには、それしか、よい戦法はありませぬ。まずいかなる作戦も、今日《こんにち》にいたっては、彼の強大を打破るわけにゆきません」 「なぜか! なぜそのように尊氏を恐れるのか」 「さきにも申しあげましたように、彼には時運が幸《さいわ》いしており、その人の和、地の利、天運のよさは、恐れずにおられませぬ」 「地の利? 兵庫は味方にとってさほど不利か」 「兵庫とはかぎらず、いずこにてもあれ、このさい、彼の大兵をふせぎ得る地はありますまい。――なぜなれば、お味方には、まったく、水軍の御用意がないのです」 「いや、尊氏を九州へ追い落したさいには、わが方にも優勢なる水軍があったはず。それらは今日《こんにち》、どうしておるのだ」 「あの折、もし新田殿が、都へのご凱旋《がいせん》などなく、筑紫《つくし》までもと、尊氏を追いつめて行きましたなら、御勝利は確《かく》たるものとなっていたでしょう。……しかるに、惜しいかな、敵に時を与えてしまいました。……ためにまた、宮方の船手もすべて各自の国々へ離散し、今日《こんにち》ではもう招いても、召《めし》にこたえて来る船はありませぬ。せめて、熊野の水軍でも、ご加勢にまいればと存じますが」 「来《こ》よう。かならず、熊野の船手は」 「いえ、そのような不確《ふたし》かなものは、戦略の上に恃《たの》んでもいられませぬ。――むしろ、ここは御聖断が第一です。わざと尊氏を都の内へひき入れ、われらは摂河泉《せっかせん》の糧道を断ち、また、新田殿や千種《ちぐさ》殿は、京の山々に拠《よ》って、ときには出て戦い、折には引き、洛内の敵に、安き眠りも与えぬなら、やがて足利勢も、もがき出しましょう。自解をおこしてくることは明らかです。必勝の策は、これ一つしかございません。なにとぞ、御英断を願わしゅうぞんじまする」  すると公卿たちのあいだで、このとき、 「もってのほかな!」  露骨に、反対した者がある。  坊門ノ清忠だった。 「一戦にもおよばず、敵に都をあけ渡せとは何事か。察するに正成は、戦場へ立つのを厭《いと》うておるな」 「こは、なさけない仰せを承《うけたまわ》るものです。坊門殿には、さいぜんからの正成の言上《ごんじょう》にお耳をそらしておられましたか」 「だまんなさいッ廷尉。たとえ魔の軍たりとも、御楯《みたて》の王軍が行くところ、なにほどの抗戦《あらが》いをなしえようぞ。――かつては襲来《しゅうらい》の蒙古《もうこ》の外兵十万を、博多ノ浜に葬《ほうむ》ッた例《ため》しさえある。――それを、尊氏|来《きた》るの風騒《ふうそう》に怯《おび》え、たちまち都を空《から》にして、みかどの蒙塵《もうじん》を仰ぎなどしたら、それこそ、いよいよ武士どもを思い上がらせ、世の物笑いとなるのみだわ。……愚策《ぐさく》、愚策」  と、清忠は肩をゆすッて笑い、そして列座の千種|忠顕《ただあき》や四条|隆資《たかすけ》らと、ふた言《こと》み言ささやきあっていたふうであったが、やがて、その居ずまいを、こころもち玉座の方へ向けて、 「おそれながら」  と、笏《しゃく》を正して、奏上していた。 「王師《オウシ》ニ天命《テンメイ》アリ、宜《ヨロ》シク外ニ防《フセ》ゲ――とは古来の鉄則かとぞんじまする。――事ただならずとは申せ、三軍はまだ健在ですし、金吾義貞も、前線にまかりおること。さだめしその新田とて、頽勢《たいせい》の恥をすすがんものと、心をくだいておりましょう。――さるを一廷尉の言をおとりあげになって、御動座などあらせられたら、王軍の将士は、それだけでも戦う気力を失い、ひいてはお味方の違和を大にし、敵を利するばかりのことかとぞんじられまする」 「…………」  いずれを採《と》るか。後醍醐はお迷いらしい。  しばらくは、仰せ出でもなく、公卿たちの説に、お耳をかしておられた。  千種《ちぐさ》、四条、中院ノ定平ら、あらましは、清忠説を支持してやまなかった。――正成の言を「なるほど」と、素直に聞いたらしい人々もなくはなかったが、しいて発言はしていない。……で、御心《みこころ》も結局は、傾く方へ傾いて行った。いつ、どんなばあいでも、策を積極的にとることの方が、強く、たのもしく、また正しくも聞えがちなものである。とくに後醍醐の性格としても、一時でも敵を都に入れるなどの策は、み心に合うものでなかった。  ――まもなく、正成は退出した。いやさいごのお別れを告げて、即座に、前線へ立って行ったのである。  彼は、このときにおいて、「もう、これまで」と、ひそかな死を独り意中に決したものと、後世、忖度《そんたく》されている。 [#ここから2字下げ] 策ヲ帝閣ニ献ジテ 達スルヲ得ズ 豈《アニ》、生還《セイクワン》ヲ期セン [#ここで字下げ終わり]  などと、頼山陽《らいさんよう》は謳《うた》い上げた。しかし、玉座《ぎょくざ》を拝して、やがて花山院をさがって行った姿には、どこにもそんな悲壮感はなく、悪《わる》びれても見えなかった。だから、それを見送っていた公卿たちも、数《かず》ある武将のことなので、正成もまたその中の、凡《ただ》の一個に過ぎないものとしか見ていなかった。 [#3字下げ]桜井《さくらい》の宿《しゅく》[#「桜井の宿」は中見出し]  今朝から、六条の原に屯《たむろ》していた一軍がある。  加茂川|堤《どて》に近かった。  そこらには、染屋《そめや》の干し場もあって、紺掻《こんか》きの男や女たちが、いつまで立ち去らない菊水旗の兵馬をながめて、 「はてね、あの衆は、いくさに征《ゆ》くのとは違うのか?」  と、あやしんでいた。  戦場に立つ兵士といえば、かならずわいわい喊声《かんせい》をあげている。前の晩から飲みとおして酒気のさめてない者すらある。そういう狂噪《きょうそう》の兵を見つけている庶民には、彼方の菊水旗の一群が、ひどく活気のない、弱そうなものに見えた。 「だが、あれは河内守さまの御人数だろうが」 「そう。菊水の旗は、よそにはない」 「ならば、どこぞへ、御宿所替《ごしゅくしょが》えをなさるのじゃろ」 「どうして」 「けさ、六条の御門前を通ったら、ご家中が皆して、大掃除をしておられた。戦に立つものなら、何も悠長に、あとの掃除などして行かっしゃるはずはあるまい」  なるほど、そんなことか、と染屋の男女はもういぶかってもいなかった。ところがやがて午《ひる》ごろ、べつな一隊がまた大路《おおじ》の方からくだって来た。そのなかには正成の姿が見えた。――花山院の皇居からたったいま退出して、これに待っていた一|勢《ぜい》と、ひとつになったものだった。  正成をここに迎えると、 「殿」  と、ばかり彼のそばへすぐ大勢の部将たちが、むらがっていた。  南江備前守正忠  佐備ノ正安  和田五郎|正隆《まさたか》  安間|了現《りょうげん》  隅屋《すや》新左衛門など、いちいちは、あげきれない。なかでも、神宮寺太郎|正師《まさもろ》は、 「いかがでしたか、主上のみ気色《けしき》は。また、ご首尾は」  と、たずねていた。  その正師《まさもろ》とおなじように、彼の宮中における首尾を如何にと案じていたここの者は、すべての目で、正成のくちもとを見まもりあった。――うすうすには、正成の覚悟も、重大なけさの参内の内容も、察しとっていたらしいのである。 「されば……」と、正成は寄りたかる子らへ聞かせるように―― 「主上には、ことのほか、ごきげん麗《うるわ》しく、御酒をたまわり、また一ト振りの御太刀《みたち》をも正成へ下された。いや正成一個にとどまらず、すべてわが一族へふかいお恃《たの》みをかけおわすもの。一同の面目と思うてよかろう」  そして、すぐ、 「正師。貝《かい》を」  と、命令に移った。  この原にあるものが、正成の持つ総勢だった。あわせて六、七百騎。これをかつての新田左中将が発向したときの偉観にくらべれば、比較にならぬ小勢である。  しかし、ひとたび貝の音に、その陣制がぴし[#「ぴし」に傍点]と揃うと、序列、歩調、ひとつのものが揺《ゆ》るぎうごくようだった。――染屋の干し場にいた男女も――その秩序美に見とれていた。しかも静かに、人知らぬまのように、この菊水の一勢は、都のひるをあとに、西へ立って行った。  この二十一日の朝――  正季《まさすえ》は、枚方《ひらかた》から、淀川を北へ、渡っていた。  兄正成よりも二日|遅《おそ》く、彼は河内の赤坂を立った。  それというのも、正成の出陣までに揃う予定数だった領下の諸武士が、意外に集まりがわるく、その糾合《きゅうごう》に手間どっていたためにほかならない。  が、それにしてさえ、なお四百余人――五百に足らぬ兵しか応じて来なかった。正季は腹をたてて、それらの卑怯者を、後日、きっと思い知らすぞと、ののしッたが、いまはそんな処置をとっているひまさえない。 「いや、龍泉どの。これでよいのだ。集まるほどな者はみな集まっておる。決して来るべき者が洩れたのではない」  松尾刑部|季綱《すえつな》は、そういって、なぐさめた。  元々から、楠木領として、楠木家の召集しうる動員力は、せいぜい千二、三百人にすぎないのであり、赤坂城の合戦から千早籠城のさいに見ても、実勢力の限界は、わかっていた。  それが、所期の予定数よりもはなはだ不足に思われたのは、建武の恩賞で楠木家の領地も、河内和泉へわたって、急に大きくなっていたからだ。  けれど、新領の武士は、まだ必ずしも、楠木家と運命を共にするとまで、ふかく結ばれている者どもではない。いわば新領主の下に、ぜひなく併合されただけのものだ。――折ふし、尊氏の優勢が、日ましに世上へ流布《るふ》されているときでもある。彼らが、なかなか腰を上げて来ないのも、道理である。無理はない、と季綱はいうのであった。 「叔父御は」  と、正季は苦笑した。 「いつか、わが兄上に似ておいでられたな。そんなことは正季にもわかっています。……けれど、御戦《みいくさ》はなんのためだ。まこと、この国の武士なら、みかどの御楯《みたて》、一身の利害などは、かえりみてもいられぬはず……」  正季の意気はちっとも変っていない。元弘《げんこう》の若公卿が説いていたような高い理念を、いよいよ胸に磨《と》いでいた。だから腹が立つのであった。ふだんでも人をみれば、この国の皇統をほこり、勤王の道を力説していた。――それが、かえって、人を遠ざけ、近ごろの武士|気質《かたぎ》からは、一|徹《てつ》なかたくな者と見られがちな点なども、彼は全然、意にかけていなかったのだ。  ――さて。それらはともかく、彼が枚方《ひらかた》から対岸へ渡ったのは、そこの西国街道で、兄正成の軍を待つためだったが、まだ正成の兵馬は見えない。  で、彼は、 「桜井《さくらい》ノ宿《しゅく》へ行け。そこで兵馬を休め、兄上のお出で合せをお待ちしよう」  と、道をなお、小一里ほど、北へとった。  山崎の麓《ふもと》である。水無瀬《みなせ》ノ宮《みや》の址《あと》があり、古い宿駅《しゅくば》の一つがあった。西のいくさといえば、いつも軍馬は、このへんを往還《おうかん》するので、荒《すさ》びた軒の人々は、剣槍《けんそう》を見ても、驚くなどのふうはなく、かえって、よいお花客《とくい》として、蠅のように、酒売りの男どもや、籠を頭にのせた販《ひさ》ぎ女《め》などが、すぐ寄りたかって来るのであった。  その兵馬を、桜井に屯《たむろ》したのは、正成を待つ以外、正季にべつな目的もあったらしい。  駐軍の事を終ると、彼は、叔父の松尾季綱に、 「往返《おうへん》、二タ刻《とき》とはかかりますまいから」  と、何処へかいそいで行った。  従者には、中院ノ雑掌《ざっしょう》俊秀と天見《あまみ》ノ五郎常政を連れ、ふたりを案内に、山崎の海印寺から一里半ほど北へのぼっていた。 「このあたりが、もう大江の山です」  と、さきに立って行く俊秀が言った。――丹波|篠村《しのむら》へ通じる峠に近いのである。  正季は、久しぶりな師のすがたを胸にえがいていた。この大江山でも、河内の奥にいたときのような山荘の戸をひそと閉じておいでか、などと。  もういうまでもなく、彼が訪ねようと慕って来た人とは、その後、この地に隠棲《いんせい》したと聞いている兵学の師、毛利時親なのである。――この春、時親の河内の旧居においてあった蔵書一切を荷駄にして、大江へ送りとどけたときから、いちどお会いして、その高説を伺いたいものと思っていたが、つい今日まで折なく過ぎていたものだった。 「……これが、老師とのお別れになろうもしれぬ」  正季《まさすえ》には、今生《こんじょう》の別辞をつげたい心もある。  なおまた、この一期《いちご》にたいする覚悟や兵学上の意見も問いたい。  まだ世もこんな兵塵《へいじん》とならないうちに今日あることを予言していた人だった。そして山荘へ集まり寄る若者たちに、来《きた》るべき兵革を説いて、心の武装を植えつけていた時親でもある。かならずここにいても、大勢を観望しながら、わけて尊氏の東上を前にしては、卓抜《たくばつ》な戦略なども持っているにちがいない。――正季は、明日の戦いのためにと、急に思い立って来たのだった。  けれど、彼の希《ねが》いは、むなしいものとやがてわかった。――案内の天見ノ五郎と俊秀とが、 「ここですが」  と、一|見《けん》ただの山家にすぎない垣の枝折《しおり》を指さしたが、内には人の気配もなく、そこから呼んでも叩いてみても、おうという答《いら》えはなかった。  するうちに、かさこそと、藪隣《やぶどな》りのあばら家から、一|媼《おうな》が出て来て「この庵《いお》のあるじなら、とうにもう、ここにおいでられませぬ」という。そしてまた、行った先も、帰るか否かも、わからぬという話であった。 「はアて? どちらへ」  正季はがっかりした。  急にあたりの松風が耳につく。俊秀と五郎は、あきらめきれぬように中へはいって、茅屋根《かややね》の下の破《や》れ戸《ど》を覗きまわった。――と、思わぬものがそこにひかえていた。一匹の蟇《がま》だった。逃げもするふうではないのである。むしろこれへ入って来た闖入者《ちんにゅうしゃ》の来意を問わんとするかのような態度だった。またどこか、吐雲斎《とうんさい》の毛利時親の風貌を思わせるようなところがなくもない。 「ぜひもない。残念だが、引っ返そう」  やがて去りゆく三人の影にも、蟇の背にも、空の松からこぼれ降る陽が血みたいに赤かった。  三騎して山道を海印寺の辺まで降りかけて来たとき、さきの俊秀が、正季をふりむいて、 「お。京方面から、山崎の下へさしかかって来る一軍が見えます。もしやおやかたの御本軍ではありますまいか」  と、指さした。  あるいは? と思われた。いやまぎれない菊水の旗幟《しるし》がすぐわかった。で、正季たちは、ふもとの西国街道で駒をおりて待っていた。――近くにある破《や》れ築土《ついじ》は、水無瀬《みなせ》ノ宮の址《あと》らしく「伊勢物語」に [#ここから2字下げ] むかし、惟喬《これたか》の皇子《みこ》 山崎のみなせといふ所に 年ごと、桜の盛りには おはしましける [#ここで字下げ終わり]  とある、その平和ないい時代の桜も、今は藪だたみに見るかげもない老い木や朽ち木となっている。  ほどなく、正成の七百騎は、これへ近づいて来た。そして先駆の兵から、 「龍泉どのが、お迎えに見えておられます」  と、聞いた正成は、 「お、お」  と、正季へほほえみかけ、そこからは馬上の姿を並べて、もうついそこの、桜井ノ宿の夕煙を望みながら共に駒をうたせていた。 「正季。桜井へは、いつ着いたの」 「は。午《ひる》やや過ぎに」 「では、だいぶ待ったな」 「いや兄上のお出で合せを待つ間にと、思いついて、大江の山に、時親先生をおたずねしておりました。ところが、はや、おいでではございません」 「お留守か」 「いえ、庵は住み捨てられ、どこへとも、お行方はわからぬそうで」 「ははは。火放《ひつ》け人《びと》が、火に追われて、逃《に》げ端《ば》を失うているような。……そのような老師を、正季もまた、何でお訪ねして行ったのか」 「お会いいたせば、あの老師のこと。なんぞ良い兵法の理なり、または妙策でも、伺えようかとぞんじまして」 「そちもわしも、時親先生には、幼時から多くを学んだ。御恩はふかい。しかし今日のことは、兵学の図式などではまにあわん。お会いできなくて、かえってよかった。老師ご自身、この大乱やら世の逆潮には、おそらく狼狽しておいでであろう。……正成、正季にむかって、かくすべしと、明示ある教えなどを、お持ち合せあるはずはない」  もうそこの煙をこめた一村落の夕闇に、蚊うなりのような人馬の喧騒がしていた。さきに屯《たむろ》していた正季の兵に、また正成の七百騎が到着したので、たちまち往来《みち》も木蔭も馬息《うまいき》れと人影でうずまった。 「御宿営は、そこの桜井寺に設《しつら》えておきました。まずはおくつろぎを」  宿《しゅく》の駅門から山ぎわの方へ一、二町。薬師如来の一堂がある。桜井寺の境内だった。 「のちほど、お願いの儀もありますゆえ、あらためて、またお伺いすることにいたします」  何か、ここまでの間には、言い出しかねていたことらしい。そういうと、正季は、いちど自分の幕舎《とばり》のほうへ帰って行った。  むうんと、暑い。  木蔭は青葉|蒸《む》れがする。それなのに、夜営の諸所ではバチバチ篝火《かがり》をたいていた。防虫のためだろう。月もなし、風もない。  全陣の将士は、晩の兵糧《かて》に、かかっていたが、その一ト騒《ざわ》めきの初更《しょこう》が過ぎると、 「眠れ」  と、諸所の屯《たむろ》を、部将の声が通って行った。――青葉のあいだに、やっと、水っぽい二十日月が顔を出している。  が、正成はなお、楯《たて》の上にあぐらして、いま駅門に馬をつないだ和田助家と楠木弥四郎の報告をうけていた。大鎧《おおよろい》は脱いで、うしろに置き、そこにはまた、童武者の蔦王《つたおう》が、居眠っていた。 「そうか。……まずそうあろうかとは、思われたが」  正成は、一語、そう呟いたきりだった。――この助家は住吉にとどまって、なお執拗《しつよう》に、紀州の切目ノ法橋《ほっきょう》との連絡をもちつづけ、田辺水軍の来援をうながしていたのだが、それも今は、絶望のほかなしという今夜の結論だったのである。 「休むがいい。そしてもう、住吉にも戻るにはおよばん」  すぐ、入れかわりに。 「兵全員の軍簿《ぐんぼ》が調べあがりましたが」  と、安間了現が、簿冊《ぼさつ》を手に、入って来た。 「どれ」  と、正成は手にとって。 「正季のつれて来た後陣の者とあわせて、兵数、すべてで一千一百七十四名か」 「意外に少のうござりまするが」 「このうち、病人、不具者などは、おるまいな」 「三名の病人と、足跛《あしな》え、片目の者など不具者十一、二名がおりまする」 「なぜ、はぶかぬ」 「それらの者は、かつて金剛千早の日にも、共に籠城した輩《やから》です。いくさに耐えぬほどな不具でも病気でもないと言い張り、どう諭《さと》しても、ききいれません。このたびこそは、わがおやかたにも決死の御出陣とうかがわれる。その戦にお供がならぬほどなら、ここで刺しちがえて死ぬなどと申しおるようなわけで」 「さまでに」  と、正成は、うるみ声で、兵の簿《ぼ》にあたまを垂れた。そうした純烈なものを知ると断腸《だんちょう》の責めに衝かれるらしい。謝する言葉もないふうだった。が、そのまま了現の手へ、簿《ぼ》を返して、 「兵数は、意外に多い。多すぎる。明朝、あらためて一考しよう」  と、言った。  陣務に次ぐ陣務で、幕僚の出入りがつづいていたせいか、正季はまだ姿をみせていなかった。――まだといっても、はや時刻は夜半近い。――木々の雫《しずく》の音に、青葉蔭もいつか冷え冷えとし、にぶい月明りの下には兵も馬も深い眠りのひそまりにおちていた。  正成も横になりかけた。  するとまた誰か、陣幕《とばり》の外へ来てたたずんだ気配である。五、六名の武者らしかった。しかし内へ入って来たのは、ただ一人の小冠者《こかんじゃ》の影であった。遠くにかしこまって、手をつかえている。見れば、河内に残して来たはずの正行《まさつら》だった。 「ほ。……」  正成はつい微笑を持った。  何しに来た?  と、理性の父であろうとしても、見ればやはり、目のうちにも入れたいような眼になって、その相好《そうごう》だけでなく、両のあぐらの膝までを和《なご》ませて、 「正行ではないか」  と、言った。 「はいっ」  正行は、かたくなっている。小柄なからだを、なお小さく両手をつかえ、父に叱られるであろうことを、その姿は、覚悟しているふうだった。 「お父上。おゆるしください。おあとを慕って、無断、御陣中へ来てしまいました。母と共に留守しておれとの、おいいつけではございましたが」 「いつ参ったの」 「きょうです」 「一人でか」 「いえ、叔父ぎみ(正季《まさすえ》)とご一しょに河内を出ました」 「……だろうな。たそがれ、正季が申した言葉の端、さようなことでもあろうかと思うていたわえ」 「でも、叔父ぎみを叱らないでくださいませ。私がむりにお願いしたのです。あのように、お諭《さと》しをうけて、一たんは思い断《た》ったのですが、また、どうしても思いきれません。それで、叔父ぎみにおすがり申し、たッて連れて来ていただいたのです」 「母へは」 「え、母ぎみにも」 「母はそなたが父を追ってゆくことを、承知したのか」 「はい」 「そうではなかろう。正季がしいて説きつけたのであろう。あの正季の一途《いちず》を以て」 「ですが、母ぎみも、それほどまでに正行《まさつら》がいうならばと、お泣きにはなりましたけれど、しまいにはおこころよく、初陣《ういじん》なればと、この具足やら身支度も、お手ずから私に着せてくださいました。……そして仰っしゃるには、そなたも十五、年に不足はない。たって父ぎみに付いて行くほどなら、父ぎみの御最期もよう見とどけよ。父のお名をはずかしめるなと」 「久子までが」 「え」 「言ったのか」 「はい……」  父の大きな吐息《といき》が正行にもこのとき耳にわかる気がした。それほど正成の眉は、子にとって何かむずかしいものに見え、かたわらの扇をとって、藪蚊《やぶか》を追い、その半開きの扇のさきで、 「正行」  と、招いていたのに、すぐそのそばへ寄って行くのも、恐《こわ》いように思われた。 「もそっと、こっちへ来い。父のそばへ」 「はい」 「もっと、寄れ」 「は」 「正行……」  父の大きな手が、肩に乗った重さに、正行は体じゅうがじんと熱くなった。また正成の手は、まだ成人の骨格をさえしていない少年の肩の小ささを感じながら、その白紙のままといっていい純真な烏帽子《えぼし》顔にある黒い二つのひとみを、飽かぬほど、見つめるのだった。 「よく来たのう、正行。……それはうれしい。だが、連れては行かれん。そなたは明朝、河内へ帰れ」 「えっ。――帰らねばなりませんか」  正行は、父の腕に絡《から》んだ。  しがみついて。 「なぜです。なぜ正行は、お父上の戦について行っては」 「いけない」 「ど、どうしてです」 「河内を立つ朝、よく言っておいたはず」 「でも、こんどは、お父上も生きては還《かえ》るまい御戦《みいくさ》。死を決めての御出陣だと聞きました」 「たれから」 「叔父ぎみが。また母ぎみもそのようなお覚悟のご容子です。おなじ初陣なら、お父上と一つ陣で。おなじ死ぬなら、お父上と共に死にとうございます」  正行は、泣きもしていなかった。  この少年には、死がどういうものであるか、死がわかるほど、生もわかっていなかった。それだけに多感で純白な心は、父母の姿やら周囲の悲壮な戦の門出にその激血をつきつめられているのらしい。生き物の哀《かな》しさを、正成はこの子に見ずにいられなかった。 「よしよし、よく言った……」  思いのほか、父の言がこう優しかったので、正行は、甘え心が出て、どっと、いっぺんに涙をこぼした。両手で顔をおおったとおもうと、声をもらしてしゃくりあげた。 「さむらいの子、そうなくてはならぬところ、健気《けなげ》さはうれしいぞ。したが、正行よ。死ぬだけがもののふの道ではない。いや、もののふが一番に大事とせねばならぬのは、二つとない生命《いのち》だ。いかなる道を世に志《こころざ》そうと、いのちを持たで出来ようか。されば、さむらいの、もっとも恥は犬死ということだ。次には、死に下手というものか。とまれ人と生れたからには、享《う》けた一命をその人がどう生涯につかいきるか、それでその人の値うちもきまる」 「…………」 「そなたはまだ浅春《せんしゅん》の蕾《つぼみ》だ。春さえ知ってない。夏も秋も冬も知っていない。人の一生にはたくさんなことができる。誓えばどんな希望《のぞみ》でもかけられる。父と共に死ぬなどは、そのときだけのみずからの満足にすぎん。世の中もまた定まったものではない。易学《えきがく》のいうように、時々刻々、かわって行く。ゆえにどんな眼前の悪状態にも、絶望するにはあたらぬ」 「…………」 「それなのに、父は死のたたかいに行く。行かねばならぬ。これは父がいたらぬからだ。みかどの御為とは申しながら、かくならぬ前に、もっとよい忠誠の道を、ほかにさがして、力をつくすべきであった。いや心はくだいたが、この父にそこまでの能《のう》がなく、ついにみずからをも窮地に終らすほかない今日とはなったのだ。……そのような正成に、若木のそちを共につれてゆくことはできぬ。そなたは正成のようなおろかしい道を践《ふ》むな」 「…………」 「まず、あと淋しかろう母に成人を見せてやれ。この後は、ふるさとの河内一領を保ちえたら、それを以て、僥《しあわ》せとし、めったに無益な兵馬をうごかすでないぞ。ただ自分を作れ、自分を養え。そして一個の大人となったあかつきには、自然そなたとしての志も分別もついて来よう。その上は、そなた自身の一生だ。身の一命を、いかにつかうかも、そのときに悔いなき思慮をいたすがよい」 「…………」 「わかったか、正行」 「…………」 「わからぬのか」 「…………」 「これほど、理《ことわり》をわけて父が申すのに、なお得心がつかぬとは、そなたもほどの知れたやつ、頼もしからぬ子ではある」 「…………」  正行は顔を上げたが、何もいえなかった。父から頼もしくないといわれたのが一途《いちず》に悲しそうで、ただ、けいれんする唇へ涙を吸っていた。それが、まだ三ツ四ツ頃の、あどけない泣き顔そッくりに親には見えた。  いまは親の身にとっても、心を鬼にして叱ッて帰すのが、絆《きずな》を断つに、いちばんやさしいこととは思う。  正成も知らないではない。しかし今生《こんじょう》これきりと知る生別を本心でもない偽りの怒面《どめん》で子を追いやるには忍びなかった。――で、それからも正成は、じゅんじゅんと子を諭《さと》し、そしてほどなく、楯に敷かれた毛皮の上に正行を寝かせ、自分もつかのま、そのそばでまどろんだ。  短夜はすぐ明けた。  遠方此方《おちこち》の幕舎《とばり》で、はや、将士の起き出る気配がする。正行は、どこかで顔を洗ってもどって来た。深くは眠れずに過ごしたのだろう。今朝もまた、瞼は赤く腫《は》れあがっている。  父はと見れば、正成はもうその将座に、数名の幕僚をよんで、何事かをさしずしていた。その将たちも忙しげにすぐ去って行く。正行は、いつもの家庭の朝のように、父の前へ来て、朝のあいさつをした。 「眠ったか」 「はい」 「そして、今朝になって、どう思うの。父が申したことばは、あやまりであろうか」 「いえ……」  正行は、言った。 「よくわかりました」 「おう」  ニコとして。 「それでこそ、正成が子、ようわかってくれた。うれしいぞ」 「ですがお父上」 「む」 「正行も成人して、そして勉強した上、ひとかどの大人となりましたら、自分の思うところを、思いのように、世に働いてもよろしいのでございましょうね」 「それはよいとも――」正成はいわざるを得なかった。「それまでを、たれにも阻《はば》める力はない。自分の一生は自分の創《つく》るもの」 「おことばを守って、いちばい勉強いたします。自分を作ることに励みます。母ぎみにも御心配をかけないように」 「やれ。それで思い残すところはない。母もさぞ、ほっとしよう。ぜひなくそなたを放したとはいえ、母の心も正成の心と違うてはおらぬはず。はやはや、今日は河内へ帰って、なぐさめてお上げせい。わけて正成が亡い後は、世にひとりの母。また、そなたは、幼い弟たちの兄でもある。たのむぞよ、正行」 「はい……」  と、多感な子はまたすぐ涙を催しかけた。が、そこへ兵糧の朝餉《あさげ》が運ばれて来たのを機《しお》に、正成はそれ幸いに、さいごの貧しい野戦食を正行と向いあって摂《と》りながら、幕舎《とばり》の外へ命じていた。 「たれかある。正季《まさすえ》のとばりへ参って、正季を呼んでこい」 「おめしですか。兄上」 「正季か。ま、坐れ」  と、正成は、楯《たて》の座のしとねを分けて。 「正行のことだが」 「そのことでは、私からも申しあげねばなりませぬ。じつは御出立のあと、余りの不憫《ふびん》さ、また健気《けなげ》さに、これまでお連れして来ましたが、やはりお供はおゆるしないそうで」 「はや、聞いたの」 「じつは心がかりのまま、昨夜、み幕舎《とばり》の外にいて、委細は伺うておりました。……よほど私からも、共々お願いをと、疼《うず》きおりましたが、じゅんじゅんたるお諭《さと》し。しょせん、うごかし難いお心と察しまして」 「ならば、くわしくいう要もない。正行はよう得心した。さっそく今朝、帰してほしい」 「ぜひもございませぬ。では、たれかを従者につけて」 「いや正行のみならず、これなる兵簿《へいぼ》のうち、およそ三百余人、正成がそれぞれの名の上に印《しるし》しておいた。それらの者も正行に添えて、郷里へ帰せ」 「え?」  正季《まさすえ》は、簿《ぼ》を受け取って、仔細に見てゆきながら。 「兄上、これは総勢一千二百余人のうち、四分ノ一弱、なんでお返しなされますか」 「正成が亡きあとは、旧領はおろか、河内の寸土を保つのさえ容易でなかろう。また正行のためにも、しかるべき者、いくらかは残しおきたい」 「それにしても」 「いやなお、み戦《いくさ》のためにもあらず、正成に殉《じゅん》ずるでもなく、領主の命ゆえと、すすまぬながら、ぜひなく応じて来た将士もある。それらの者とはここで別れるに如《し》くはない。今日以後、正成と連れ立つ者は、さいごまで、正成との同行を悔いとせぬ者だけにかぎる。簿《ぼ》に印《しるし》した以外の武士でも、帰るが望みという者あれば、こころよく、今朝《こんちょう》、放ちやるがいい。そう言い渡せ」 「はっ」  正季は立った。兄の覚悟は十二分察知していると思う正季だったが、この朝ほど、その静かな心の底に冷やと触れたことはなかった。正季にすれば、おなじ決死の覚悟ではいても、まだ多分に、足利勢を破って、勝つ望み、生きての望みを、捨ててはいず、また捨て切ッた覚悟ではなかったのである。  まもなく、正成も立って。 「馬を!」  夜営は、一瞬にたたまれ、桜井寺の角から西国街道へ、先駆はすぐ流れ出している。  そこを曲がるとき、正成は、ふたたび正行を辻に見た。小さい姿は茫とした顔して佇《たたず》んでいた。現実の必然やこの酷《むご》い流れが一小冠者の思慮には余るものらしかった。  たちまち、苛烈な空間が父の背と子のあいだをみるまに遠ざけていた。――と思うと、この朝、列伍に外された帰郷組の将士のうちから、とつぜん「おやかたさま! おやかたさまアっ」と、死線に目をつぶるように追ッかけてゆく兵がワラワラあった。二十人、三十人とつづいて、それは埃りをあげて正成のあとを追い慕った。それを見ると、正行もまた本能的に駈け出しかけた。が当然、まわりの者に抱きとめられ、初めて、わあっんと、ほんとに声をあげた。狂気かと思われるような暴れ方でもだえ泣きに泣き狂った。 [#3字下げ]この半夜《はんや》[#「この半夜」は中見出し]  義貞。ここへきての彼には、思いやられるものがある。まったく彼の昨今は精彩がない。  かつては、時の氏神《うじがみ》のように、その英姿を、世上に仰がせたほどな彼が、こんにち、この敗退に次ぐ敗退は、どうしたことかと、疑われる。  とくに、こんどは、官軍六万をひきい、山陽山陰十六ヵ国からなにを徴用してもよい管領権までを賜わってきた左近衛《さこんえ》中将義貞なのだ。それが都門を出た三月いらい――きょう五月二十四日――のこの日まで、ほとんどなんら義貞らしい片鱗もみせてはいない。  辱《はじ》を知る  また、名を尊ぶ  なども人いちばい意識に濃《こ》い彼で、時流の武人どもからいわせれば、旧《ふる》い武将型と笑うかもしれないほど名を重んじ、またつねに源家の嫡流《ちゃくりゅう》たることを、ほこり高く持《じ》している義貞でもある。――それだけに、きのうきょうの、彼の焦躁《しょうそう》には、人しれぬものがあったろう。  おもうに。――このところの彼を支配していたのは、彼の健康ではなかったか。すでに、都を立つまえから彼は持病の瘧《おこり》をわずらっていた。それも癒《い》えぬうち征途についていたのである。戦陣のむり、雨期の悪天候など、いらい、彼の体のすぐれぬものがあったといえぬふしもなくはない。 「やんだなあ、雨は」  義貞は、つぶやいた。自分では健康をそこねているなどと意識しているふうではなく――ただ夜来《やらい》の風雨には辟易《へきえき》したらしく、生田《いくた》ノ森《もり》に兵馬をさけ、自身も社殿のうちに一夜をしのいだ。そして二十四日の今朝、 「やんだわ!」  と、五月の空の、雲のきれまを仰ぎながら、門廊《もんろう》のあたりまで歩いて来て、 「瓜生《うりゅう》、瓜生っ」  と、人を呼んでいた。  声は大きい。いくぶん、癇気《かんき》はあるが、不健康ではとても出ない声である。顔いろに冴えがなく、どこか澱《よど》みがあるのはぜひもない。――加古川を総退却していらい、よく眠ったのは、ゆうべが久しぶりなのだった。 「おお、おめざめで」 「保《たもつ》か。――内門《ないもん》の廊の袖に床几《しょうぎ》をおけ。そしてすぐ軍議をひらこう。昨夜らいの物見の情報も聞きたい。――義助をはじめ、堀口、大館《おおだて》、江口、世良田《せらた》、居あわす者はみな寄れと申せ」 「はっ」  瓜生保が駈け去る。  まもなく、脇屋義助の手にぞくす将のほかは、あらまし集まってきた。  ただ、義助はなお、足利勢のうごきをたしかめるため、ゆうべの風雨の中も、須磨口から兵庫の浜にとどまっていた。彼の姿を欠いた軍議は、とかく根本の方針までは立てえなかった。 「まず措《お》こう。義助もまだ来ておらねば」  と、義貞は、やがて一おう軍議を打切った。  この兵庫へ入ったのは、昨二十三日のこと。加古川からは多くの負傷者をかかえ、悪天候には、はばまれ、秩序もなく、なだれこんだ形にすぎない。  ここを決戦場として、足利の海陸勢を迎え打ち、一挙に粉砕する。――とは、この退却を転進と称《うた》って、全軍を励ましていた合言葉だが、 「――さて今朝《こんちょう》、ここにある総兵力は、どれほどか」  と、義貞がたずねたときには、諸将のたれからも、明確な答えは聞かれなかった。みな自分自分の部隊だけはほぼ兵数もつかんでいたが、総括的なこととなると、たれにもわからないのが、けさの実状なのだった。  そこで、 「さっそく数えあげよ」  と、義貞は、綿打《わたうち》ノ入道、里見義胤らにその奉行をいいつけ、それも、 「午《ひる》までに」  と、時を限《き》った。  こういうあいだにも、義貞は須磨方面にふみとどまっている脇屋義助の前線へむかって、伝令をとばしては、 「足利|直義《ただよし》の陸兵はいま、どの辺まで来つつあるか。また尊氏の水軍は?」  と問わせたが、 「いずれも、まだ確かなるところは」  と、義助の手もとにも、まだ的確な情報はないような返答だった。――で、おそらくは、と義貞をめぐる幕僚たちも、こうした説にかたよっていた。 「きのうの風雨には、お味方もさんざんになやまされましたが、敵とて、おなじことだったでしょう。……わけて尊氏の海上勢は、播磨灘《はりまなだ》の風浪にさえぎられ、しょせん、室《むろ》ノ津《つ》は立ちえなかったにちがいない。……とすれば、はやくても、沖に影をみせるのは、あしたのことか」と。  かくて、午《ひる》ごろ。 「ざっとではござりますが」  と、里見、綿打の二奉行が、全兵力の略簿《りゃくぼ》を作って、義貞へ呈しにきた。  みれば、総締め、  二万騎  にもすこし欠けていた。  当初、六万と号していた官軍である。はやくも脱落者が多かったのだ。しかし義貞は、 「よしっ」  と、それに大きくうなずいた。なお残っているほどな者は精兵中の精兵だ。ござんなれと、彼の腹はできたのである。  すると、午やや過ぎ、義助から早打ちがあった。 「尊氏の水軍は、きのうの風雨も冒《おか》して室《むろ》を出たらしく、もう先駆の船影が、明石海峡のくちまで来つつある由です」と。 「すわ」  と、陣はいろめき立った。思い思いな所へかけて、沖を見やる人々の顔はいずれも硬《こわ》ばっていた。――が、まだ何も見えはしていない。兵船らしい一|隻《せき》もなくにぶい波光をたたえた五月の海が夕を待っているだけである。  じつに、こんなときだった。――楠木正成、正季《まさすえ》以下の急援部隊がこれへ着いたのは。――そしてこの一軍も、夜来《やらい》の風雨とぬかるみに悩んで、泥のようになって来たのは同様だった。  尊氏の水軍近づく――  の報に、義貞も幕僚たちと共に掖門《えきもん》の外に立って海上を眺めていたが、 「そうか。敵影はまだ明石海峡の西か。……ではまだ見えぬはず」  と、呟いていた。しかしその目はなおも、和田、兵庫、生田、西ノ宮の長い汀《なぎさ》にわたる明日の攻防修羅の作戦図をじっと思いえがいているふうだった。  そこへ、楠木河内守正成の到着――と聞え、またまもなく、総門外の額田為綱からも、 「ただいま、河内殿の一勢が、御門外に到って、着到の届け出でにおよばれましたが、いかがなされまする?」  と、問い合せてきた。  義貞はたずね返した。 「して、河内守が引きつれてまいった兵のかずは?」 「一千にはちと欠けるやもしれません」 「なに、それしきの小勢か」 「はっ」 「さるに、何を手間どって」 「いや、箕面《みのお》、昆陽野《こやの》のあたりからは夜どおしの雨風に打たれ、河内殿以下、人も馬も、泥人形のようなおすがた。これでもよほどお急ぎあったものとうけたまわりました」 「ム。それもあろうか」  義貞は、一考して。 「こうしよう。その態《てい》たらくではすべ[#「すべ」に傍点]もあるまい。しかるべく、人馬を休め、のちほど、社家の一|殿《でん》でお目にかかろう、と」  為綱は去った。  そのあと、義貞は、門廊の床几《しょうぎ》にかかって、さしせまる乾坤《けんこん》一|擲《てき》の戦いをどう戦うべきか、よろいの高紐《たかひも》におや指をさしはさみ、ひとり唇をかんでいた。  なによりも彼はいま兵力の不足を感じる。  当初、尊氏の東上ときいても、わずか二タ月ほどな再起の準備、どれほどな兵力を狩りえようと、たかをくくっていた風でなくもない。――ところが近接すればするほど、予想外な大兵とわかり、また東上の途上、その兵員はふえるばかりのようでもあるのだ。  で、彼は急遽、都へむかって、予備軍の急派を、ひんぴんと、要請《ようせい》していた。すでにそれはぞくぞく着いて現地軍のうちに編入されており、楠木正成の来援なども、その要請によるもののほかではない。ただ正成のばあいは、その来ることが、はなはだ遅かった。義貞にはややそれもまず気にくわない――。  しかし、殿上《てんじょう》からの、べつな通達によると、正成は河内から直行せず、親しくみかどにお別れをつげて立ったという。そのことは、義貞にまた或る不安をいだかせていた。  何をまた、正成が奏したろうか。  義貞はあれいらい、正成なる者に、決してまだ釈然《しゃくぜん》とはしきれていない。――あれいらいとは、もちろん義貞が西征の途《と》に立った三月、正成が直々《じきじき》に、みかどへ諫奏《かんそう》し奉ったというそのことである。  正成はお諫《いさ》めして「このさいは、新田殿を退《ひ》かせ、尊氏をお招きあって、尊氏とおはなし合いになることが、もっとも万全な御方針かとおもわれます」と、切々《せつせつ》申しあげたという。――義貞は当時聞いていた。彼の耳はこれを忘れていない。  右衛門ノ佐《すけ》脇屋義助が、 「しゃっ。いよいよだぞ」  と、これへ馬をとばして来て、床几場《しょうぎば》で義貞と会っていたのは、陽もやや西のころだった。 「兄上。ここらからはまだ見えませんが、高取山から望みますと、まさに数千|艘《そう》といえる敵の水軍が、明石と淡路島とのあいだを、魚群のように遡《のぼ》ってくるのが、あざらかに見られました。あわてるには及ばぬまでも、諸陣はみな戦気立ッて、御司令を待ちおりまする。備《そな》えはいかにしたものでしょうか」 「おちつこう」  と、義貞は、弟の語気に、わざと一語を措《お》いて。 「敵の陸兵は?」 「おなじく、明石街道の磯道を、友軍の船脚《ふなあし》と見合せながら進んでおり、やがて大蔵谷へ近づくばかりにございまする」 「すると、それが大蔵か塩谷に着き、また海上の敵がこの沖あいにかかるのは」 「まず、夜でしょう。それも宵うちでありますまいか」 「敵にも用意はいる。勝負は明日だな。明けがたか」 「まず、それとみて、まちがいありますまいが、お手配は」 「さいぜん堀口貞満から、第一の布令《ふれ》は、各陣へ廻しておいた。すでにあれによって、うごく者はうごいていようが」 「が、なお、第二の御陣|布令《ぶれ》があるはずと、うけたまわっておりますが」 「さいごの布陣は、敵の動静のいかんにもよる。臨機、もすこし様子を見きわめてからにしたい。……それに」  と、義貞はここで、正成の到着を、弟へ告げた。そして、殿上からの飛達にも、正成と隔意なき作戦上の談合をとげよとあるから、一おうは正成の意見も聞こうと思う、と言った。  すると義助は、はたしてそれを一笑の下にふして。 「いまごろの馳《は》せ参《さん》じさえ、ちと懈怠《けたい》と思われるのに、ぼッと[#「ぼッと」に傍点]出の河内の新守護などが、何の策を持ちましょうや。なるほど、金剛千早ではめざましい善戦をした者かもしれません。けれどあれは自領の一小局地の戦い」 「む」 「ここの大局では、戦場の規模《きぼ》、戦いのかけひき、雲泥《うんでい》のちがいです。すべて堂上方のみでなく、世上の武士も、ちと楠木の名を買いかぶッてはおる。どう見ても義助には、あの正成に、韓信、張良の智謀の片鱗《へんりん》もあろうとは思えません」 「しかし」  と、義貞は抑えた。自分の言いたい以上、弟が言ってしまったからである。 「意見として聞きおくぶんには聞くもよかろう。また、義貞の狭量《きょうりょう》よと、人にいわれるのもよろしくない。……とまれ正成と会うて後、明日の備えはきめる。そちは大事をとって、ひとまず陣地を和田の辺まで下げておけ。夜に入らば、なお打合せの使いを、交《か》わすであろう」 「では、お待ちいたしまする」  いつか生田ノ森は、ひぐらしの音《ね》に暮れていた。浜といわず、山野といわず、いたる所の地を馳け鳴らしていた終日の駒音もやんで夕一|瞬《とき》の静かな白い星があった。――その下をいま、正成の姿は、生田の一門から義貞のいる社家の方へ歩いていた。  義貞は、あぐらして、ゆったりと、上座にいた。  が、正成を見ると、 「お、河内どのか。陣中のことだ。へだてはよそう。ずっと、ずっと」  と、席を分けた。社家の客殿《きゃくでん》である。迎えは義貞からやったので、あすの打合せかたがた、こよいの兵食を共にしようということだった。 「ちと、遅着《ちちゃく》を」  と、正成はまずわびた。 「桜井に一宿、芥川《あくたがわ》も日和に過ぎつつ、あれから降られ通しましてな」 「西国街道がぬかッたひには、二日路《ふつかじ》が三日もかかる。ま、上をお脱《と》りなさらぬか」  上をとは、大鎧のこと、義貞はすでに胴巻だけのくつろぎになっていた。  夕凪《ゆうなぎ》の暑さに加えて、ここの蚊うなりは猛々しい。侍臣のすすめに、正成も上をぬいで、後ろにおいた。  あれから夕方まで、生田川の川原では、正成の部下がみな裸になって、みそぎするように汗を流したり泥土の具足を洗っていたが、正成もまた、そうして来たのか、よろい下着にも、汗ジミのない白い襟もとを涼やかにのぞかせていた。 「河内どの。遅くはない。大詰のたたかいは、まず明日か。よい日にお見えあって、義貞も心強う存じ申す」 「なにほどのお力にもなりますまいが、ひきつれてまいった一千は、みかどの御楯《みたて》となって死ぬぶんには悔いを持たぬ、笠置《かさぎ》、千早いらいのつわものばかりです。あすこそは、敵のもっとも強手《つよで》に当ッて、日頃の国恩におこたえ仕りたいと存じておりまする」 「よういわれた。義貞の希いも、一に朝家《ちょうか》のご安泰のみ。もし世が逆賊の手になど渡らば、この国のすがたはない。……しかるに」  と、彼はつい口に出した。いうべきでないと、心で制止しながら、止められなかった。 「――このさい朝廷は、義貞を退《しりぞ》け、尊氏と和して、時局を収拾《しゅうしゅう》すべきであると、賢者《けんじゃ》顔して、堂上へ献言した、おかしげな小才子も、先頃にはあったという。ははははは。河内どのには、何と思われるな」  正成は針でさされたように片目をしばだたいた。そしてニコとした。もちろん、義貞の笑いとは、まったく質のちがった苦笑ではあった。 「いや何、左中将どの。その献言した者とは、ほかならぬ私です。この正成にございまする」 「御辺だと。――」と、義貞は片方の膝を大きく構え直して、聞き捨てならんとして見せた。 「まず……」  正成は一こう反射をうけていない。彼の怒色を見ても、自分はくつろぎ切った姿でいる。――そして、それらのことについては、こよい、自分からすすんでお話したいところであったと言い、 「それもこれも、ただ朝家のお為と、たくさんな人命の犠牲《にえ》を惜しむばかりに申したことで、決して、尊氏をおそれ、左中将殿にお恨みがあって、讒《ざん》したわけなどではありませぬ」  と、どこまで淡々としたことばの調子を外《はず》さなかった。  義貞にはわかっていない。  が、正成は人知れずもう死をきめていたのである。  いかに死すべきか  死の価値だけが彼には大事なのであって、感情上のこと、生還のこと、すべてさらさら胸のすみにもない。で自然、義貞へも、心の小細工などは持つ要は何もなかったのだ。――ただ、ありようありのまま、義貞とあしたの戦略をよくはなしあっておこう。そしてそれには、主将の義貞にいささかなわだかまりがあってもいけないと考え、そのもつれ[#「もつれ」に傍点]を解こうと努めるものにすぎないのだった。 「あのころは」  と、正成はなお言った。 「――何は忍んでも、尊氏と和すことが、天下万民のため、朝家《ちょうか》御安泰のため、また、新田どの御自体のためにも、最善であると思い、それは今でも誤りであったとは考えませぬ。けれど、きょうは早や大いに異《こと》なり、尊氏と和せば尊氏に服すことになりましょう」 「しれたこと」  と、義貞は、上将が下部の将にいう口調そのまま―― 「逆賊の性根《しょうね》は幾皮|剥《む》いても逆賊ときまったものだ。尊氏と義貞とは、朝家に誓いたてまつる根本の信念でも、またいかなる点でも、倶《とも》に天をいただかざる仇敵《あだがたき》。這奴《しゃつ》を生かしておくうちは世の乱はしずまらん」 「ごもっともです。それに異論はございませぬ。さきに私のした不つつかな献策が、なお御不快をのこしておられますなれば何とぞ、御勘弁ねがいます。このとおり深くおわび仕りまする」 「いや何、そうあらたまって、おわびには及ばん。とうに、水には流しておる」  と、義貞も思慮に返って。 「さようなこと。主上がお取上げあるはずもなし、また、義貞も一笑にふしていたことのみ。……だが、河内どの」 「は」 「問いたいのは、御辺《ごへん》の戦意。――そも御辺にはいかなる勝算をお持ちか」 「もしここに水軍の備えがあればと存じていますが」 「ないゆえに、ここは苦戦とのお考えだな。まずは弱気か。しかし諸方へ檄《げき》はとばしてある。あすにも、わが水軍が沖に見えぬとはかぎらぬのだ」 「が、それもまにあいませぬときは」 「精鋭二万、なお義貞の下に、尊氏必滅の意気を燃やしておる。そして楠木勢の参陣も見たいまだ。――総じて、汀《なぎさ》の戦いは、陸地の兵に強味がある。――舟で来る敵は、こなたの二倍三倍の兵力をそそいでも、勝目はうすい」 「しかし、海上の敵は、自分の好む地点を戦場として駈け上がりうる利を持っていまする」 「それとて、気づかいはない。敵の船手のうごき次第で、こなたも臨機自由に、騎馬隊をいずこへでも馳《は》せ向わす。わが騎馬隊は、関東武者のほこり。連戦の疲れはあれ、まだまだ、尊氏ずれに辟易《へきえき》するようなわが麾下《きか》ではおざらぬよ」  そのとき、外のほうで、 「オオ見える! 見えてきた」 「足利の水軍が!」 「ああ、あれか!」  と、口々に騒《ざわ》めく兵の声があらしのようにわき揚ッていた。 「……来ましたな」 「そうらしい」  ふたりは顔を見合せた。  義貞がさきに立ち、つづいて正成も席を立った。  そして廊《ろう》の角にたたずんだ。――すでに宵。青ぐろい斑雲《まだらぐも》のすきまが星を打ち出している。  摩耶《まや》、ひよどり越え、高取山、栂尾山、すべての山勢が並び立った下の野や丘や幾筋もの河口に、遠く近く、わびしい民家が散在して見え、長い曲浦《きょくほ》の線がうねうねと白い。 「…………」  が、それらの事物は、或る一焦点を、あきらかにさせる巨大な額縁《がくぶち》としてあるにすぎない。  義貞は息をのむ。正成も凝視のままだった。ふたりの間には声もなかった……。  なるほど、足利方で数千ぞうと称《とな》えているのも誇大ではない。じつに、おびただしい船かずである。  ちょうど、それはいま、明石海峡をひがしへ出離れ、一ノ谷、須磨《すま》の沖あいあたりで、一せいに、いかりを下ろしているらしくおもわれる。  とくにまた、こよいの足利軍は、示威的な意図もあってその一船一船には、篝火《かがり》の数《かず》のかぎりを焚《た》かせていた。その景観の状は、 「梅松論」に、 [#ここから2字下げ] 艫《とも》、舳《みよし》、 ともす篝火《かがり》は、 浪を焼くかとぞ 見えて赤し [#ここで字下げ終わり]  とあるその通りであったことだろう。そしてなお、 [#ここから2字下げ] 明二十五日 兵庫合戦のお心じたくあり 御談合の事共 海と陸とにかけて、 夜中 御使の往復 たびたびに及ぶ [#ここで字下げ終わり]  ともある、その使者舟の影も、沖と岸とのあいだを、火の紐《ひも》のように、もう往返《おうへん》しだしているのが、眺められる。  うたがいもなく、すでに足利|直義《ただよし》の陸上軍も、大蔵谷のあたりまでは来て、その行軍を、ひしめき、ひしめき、駐《と》めていたにちがいない。――要するに足利勢の海陸幾万は、 「いつでも」  と、はやこれへ挑《いど》んでいるとしていい態勢だった。  義貞は、元の座へもどった。そして燭《しょく》を運んできた社家の者に、酒をさいそくしていた。ふたりの前には、まもなく、酒瓶《しゅへい》と折敷《おしき》が供えられた。 「河内どの。折からこよいの二人には、よい肴《さかな》ではあるまいか。平家のむかしと聞く千僧供養とやらの燈籠《とうろう》を見るよりはまだ美しい沖の景物。……眺めをさかなに、ひとつ酌《く》もう」 「まことに。涼夜《りょうや》の一杯は、生けるしるしありとか言いますな。心ゆくまでいただきましょう」 「そして、あすの夜は、尊氏兄弟の首をさかなに、さらに祝杯をあげたいものだが」 「はははは。おなじことを、こよい尊氏の船中でも、直義の陣中でも、申し合うていることでしょう」 「直義は暴勇のみ。尊氏は政略だけの男。いずれも恐るるには足らん。ただ兵数だけが、われよりはるかに超えておる。それにたいする河内どのの戦法はどうか。よい奇略があるなら聞きたいものだが」  正成は、顔を振った。 「なんで正成にかくべつな奇略などありましょう。ただあすは御指揮のもとに全力をつくすほか何も所存《しょぞん》してはおりませぬ」  しかし、義貞は、それを彼のひかえめな言い廻しとみて。 「おたがい遠慮はよそう。忌憚《きたん》のないところが聞きたい。義貞もいう。そして最善の作戦を練《ね》らねばならん」 「守勢のお味方に、しかと御用意のできるのは“応変《おうへん》”のみです」 「つまり布陣か。応変自在の」 「は」 「すでに、あらましの配備は、ひるのうち諸陣へ申しわたしてある」 「その、ご意中の図は」 「ま。……こうだ」  と、義貞は床に扇のさきで曲線を描いてみせた。――須磨から駒ヶ林の浜、和田ノ岬、また湊川口と――守備の要地要地には扇の要《かなめ》を止めて、 「ここに四千、ここに二千。ここには千五、六百騎。――脇屋義助を浜手の大将とし、なお随所には、御辺のいういわゆる応変自在の遊軍を、千騎、五百騎ずつ、その間《かん》に置く」  と、説明する。  正成はいちいち頷いて。 「そこで陸地の敵には?」 「ム。足利直義の進路か。――それへは越後新田党の強兵をあたらせよう。――細屋、烏山《からすやま》、大井田、籠守沢《こもりざわ》、羽川、一の井などを主力に、武者所の諸勢をそえて、決死の者およそ七千を向けて打ちくだく」 「御本陣をどこに」 「さしずめ、陸手《くがで》と海手《うなで》の両方面へたいして、司令によい所といえば……。まず兵庫の中を一条まっすぐに通っておる西国街道のほどよき辺か」 「まことに、綿密《めんみつ》な御軍配、それ以上はございますまい。が、そのためにかえって、どこもかしこも、守線の薄い弱味がなくもございませぬ」 「というて、どの方面にせよ、手を抜いてよい線はない」 「陸勢の攻め口には、山の手、西国街道、磯道づたいの三|道《どう》があり、――また海上の敵は、随所、すきを目がけて上陸して来ましょう。――よほどな御工夫があっても、ここはおぼつかなく思われまする」 「じゃによって、御辺の思案を訊くのだが」 「第一に危ないのは、御本陣です。以上のおくばりでは中軍にある御身辺は素裸にひとしく、もし敵の山手勢か水軍の一部に後ろを断たれたら、孤軍、何ともなりますまい」 「ぜひもない! その時はその時よ。大義のため、義貞もここに果つるなら、それも本望。何を恐れようや」  義貞は激してきた。彼らしい発色が酒気をまぜて、耳の根を染め、同時に正成もややことばを強めていた。 「いや総大将のおん身、そう軽々しくては相なりませぬ。――またお味方は、お味方にとって有利な浜戦に主力をそそいで戦うべきで、せっかくな精鋭を七千もさいて、直義の防ぎに当てるのは、おろかなことです。その一半をお旗本の固めにおき、他もみな海面の敵に当てて、敵に一歩も地を踏ませぬほどな防備こそしかるべきではないでしょうか」 「ばかな……」  義貞は苦笑した。ついでに、苦々《にがにが》と杯を仰飲《あお》って。 「では、訊くが、河内どの。いったい陸路の敵には、たれが防ぎに当るのだ。そこは開け放しておけとでも申すのか」 「何条《なんじょう》、さような」 「でも、味方のすべてを、浜手に廻してしまったら?」 「いや、これをごらんくだされい。さいぜん、ここへ伺う前、まだ夕明りのまま、あちこち駒を遊ばせて、ざっと懐紙《かいし》に写しとってまいった、兵庫の地の見取り図ですが」 「ほ? ……」と、義貞は手にとって。 「ここに、会下山《えげさん》として、特に、印《しるし》のあるのは」 「湊川のやや上流《かみ》の方。山の手から申せば、ひよどり越え、夢野の南。そこに四面どちらからでもよじ登れるような一段丘がございまする」 「む」 「ねがわくば、あすの正成の陣地には、ここを給わりとうぞんじます。さすれば、足利|直義《ただよし》の主力を、そこに引きつけ、お味方の御主勢がその全力を、海面の敵の防ぎにそそぎ得るよう、努めまする」 「楠木勢一手でか」 「もとよりです」 「だが、わずか一千たらずの兵で、いかなる奇略をもって?」 「奇略などは何もございません。ただ死力。正成一族の祈りをもって、支《ささ》え得るかぎり……」 「広言は吐かぬ御辺だ。千早の例にみても……。だがよく、さようにまいろうか」 「いや、会下山《えげさん》とは、掌《て》のひらに乗るような孤立の丘。千早の奇蹟などは、思いもよりません。ただ主軍のための時を稼《かせ》ぐ――それも幾刻《いくとき》か――には過ぎますまいが。しかし御武運よろしくば」 「そうだ。尊氏の舟手を、いたる所で、叩きつぶせば、ひるがえッて、直義をも一敗地にまみれさすのは至難ではない。直義の軍を、よく楠木の一勢で、半日もささえ得ていてくれるなら」  義貞は再々に機嫌が変った。荒天の雲のように、不安と勝気と、また焦躁と剛胆とが、去来《きょらい》しぬいていた風である。が、颯然《さつぜん》とその心は窓が開いた。すすんで苦戦中の苦戦に立つことを申し出た正成の態度に、過去のわだかまり一切は吹き払われていたのであった。  もともと情熱家である。情誼と共に武将型の単純さもある義貞だった。疑わないとなると、彼は正成に、心からな感激を惜しまず、すなわち、あすの作戦は、大略、正成の希望にもとづくものとなった。でなお更けるまで、微細な打合せをとげていた。  ――正成は晩《おそ》く帰った。  めったにはそう過ごさぬ酒だが、この半夜は、かなり飲んだようである。「――かならず義貞とよう談合をとげよ」とお言葉のあった後醍醐の仰せつけにも、これで違背《いはい》はないとする満足も心にあった。何もかも、彼の心は涼しかった。愉しかった。おそらくそういったら、彼以外の者は、それを彼の虚偽と顰蹙《ひんしゅく》するであろうほど、人知れずそれは彼のみが本懐《ほんかい》としていた境地だったのだ。 [#3字下げ]日輪分裂《にちりんぶんれつ》[#「日輪分裂」は中見出し]  尊氏は船底で目をさました。浪枕、莚《むしろ》の上で。  二十五日だ。さてどんな今日一日になるであろうかを、すぐ思わずにいられない。  ゆうべはこの本船で、おそくまでの各船隊の船将会議。また陸上の直義《ただよし》からも夜ッぴて諜《しめ》し合せの使いがくりかえされ、具足のまま、横になったのはもう明け近いころであった。  がば[#「がば」に傍点]と、起きて。  四、五段の船そこ梯子《ばしご》から上に上半身を出す。とたんに、眼もとを顰《しか》めた。まだ海上はいちめんな狭霧《さぎり》だが、大きな旭日と、波映《はえい》の揺れに、物みな虹色《にじいろ》に燃えていたのである。 「お目ざめ!」  近侍たちは、彼のために、たちまち艫《とも》の一部にお嗽《うが》いの設けを置く。――尊氏はその小桶《こおけ》の水で顔を洗い、碗《わん》の水をふくんで海面へぱッと吐いた。  すると、すぐそばの一船上で、 「わはははは」 「あははは」 「ははは」  と、武者輩《むしゃばら》のさかんな笑い声だった。高ノ師直の部下だろうか。ひょうきんな男がいて、合戦開きの吉兆舞《きっちょうまい》だとか言いながら、仲間の大勢に、道化《どうけ》た長柄踊《ながえおど》りをして見せているところへ、お座船の艫《とも》に、尊氏のすがたを知ったので、あわてて船虫のように物蔭に隠れ込んだのを、大勢が笑いこけていたものだった。 「……?」  尊氏には、何のことだかわからなかった。しかしわからぬままに彼も笑っていた。そしてふと、元結《もとい》のゆるみに、自分の髪の根もとをつかんで、 「ここを締め直せ」  と、近侍たちのほうをみていいつけた。 「はい」  するとすぐ、敏捷《びんしょう》に、いつもの耳盥《みみだらい》と櫛《くし》とを持って、彼のうしろに小膝を折った小武者があった。  尊氏の髪を手がける者は、ずっとこの者ときまっている。指の細さ、櫛の使いよう、どうしても女であった。女武者であったのだ。 「棗《なつめ》――」  と、尊氏は髪をあずけながら後ろの手へ話しかけた。 「そなたは、まだこの船中にいたのか。室《むろ》ノ津《つ》で降りよといっておいたのに」 「はい」 「なぜ降りぬ?」 「殿のお髪《ぐし》を仕《つか》える者がなくなります」 「髪などは武者でもする」 「でも、どこまでもお供をして行きたいのでございます」 「おかしなやつだの。こわくはないのか」 「え。すこしも」  髪の根がキリと締まる。彼女はすぐ退がってゆく。尊氏はまた咎めもしない。陣中に飼われている一羽の小禽かのようにそれを見ている。  かつては、少女の一念で、尊氏の寝首を掻こうとして、寝所をうかがい、逆に、捕《つか》まッてからは、まったく尊氏に服しきッているような旧北条遺臣の娘であった。こういう者までが、今日の戦列――尊氏を繞《めぐ》る彼の陣にはいたのだった。彼には何か、これだけの人、つまり軍勢を、味方にひきつける魅力か何かがあったには相違ない。  実兵力、五万以上は、確実にあった。  一番|貝《がい》が海陸で鳴った。二番貝、三番貝と、すべて準備のあいずらしかった。  やがて卯《う》ノ刻《こく》。  午前六時だった。  ど、ど、ど、ど……と尊氏のいる本船で激烈な陣太鼓の音がとどろき、串崎舟《くしざきぶね》の一そうからは、のろし[#「のろし」に傍点]が揚がった。  わああっ、わああっ……と海陸あわせて鬨《とき》の声《こえ》がおこったのは、いよいよ敵へ進撃となった武者ぶるいの刹那感《せつなかん》にもよろうが、ひとつには尊氏の搭乗《とうじょう》している旗艦のうえに、燦《きら》めくものを見たせいだった。 [#ここから2字下げ] このとき 将軍のお座船には 錦のみ旗に日をゑがきて 天照大神 八幡|大菩薩《だいぼさつ》 と金文字に打ちたるを 高く掲《かか》げられ…… [#ここで字下げ終わり]  とは「梅松論」の記《しる》すところ。淡路《あわじ》の沖、瀬戸五十町ほどを、波間もみえぬほど、大小数千|艘《そう》のふねが、一時に、ひがしの一方向へ白波《はくは》を噛んでゆくさまは、古記録の誇張をしても、なお、およばないほどだったろう。  この水軍の先陣は、細川|定禅《じょうぜん》を大将として、弟の帯刀先生《たてわきせんじょう》、ほか四国諸党の、およそ五百余|艘《そう》――  すべて舳艫《じくろ》を、敵の和田ノ岬《みさき》から兵庫へ向けて、左方の陸地を望みながら、徐々に、接岸をさぐッて行く。  それを先にたてて。  尊氏の水軍本隊は、まっ黒に見えるほどな群影を作って、やや沖あいを、半海里ほどあとから東進していた。 「おお」  尊氏は、その中の一船楼から、たえず全海域と、陸地をながめ廻していた。 「よしっ。天候もわれに幸《さいわ》いしている!」  と、思った。  降りぬいたあとだけに、空は拭われたように青く、大気は澄み、西は鉄拐《てっかい》山、横尾山、高尾、再度山《ふたたびさん》、ひがしは摩耶《まや》、六甲まで眉にせまるほど近くに見える。その西部の一端にいま、妖しいキラめきを持つ蟻《あり》の大群みたいな列が、これも東へ東へと漸進《ぜんしん》してくるのがわかる。  進軍令と同時に、磯の垂水《たるみ》――塩谷――須磨――妙法寺川――へと行動をおこしていた陸勢の三万余騎である。――尊氏は目も放たない。  そのうちに、この大軍列は、幾ツに断《き》っても生きている爬虫類《はちゅうるい》のような分裂を見せて三ツにわかれ、各自各方向へ、そのカマ首をさらに刻々と敵へせまらせていた。  すなわち、途中から山道へ入って行った一支隊は、斯波《しば》高経のひきいる山手勢であり、また浜のなぎさを一ト筋に駈け出したのは、少弐頼尚《しょうによりひさ》以下の、筑紫《つくし》の兵、三千余騎にちがいない。  そして、その二方面のまん中を、足利|直義《ただよし》の本軍が、大手隊として、敵を圧するばかりな旗鼓《きこ》で押しすすんでいた。「太平記」のことばを借りれば、 [#ここから2字下げ] あな、おびただし 二《ふた》つ引両《びきりやう》 輪違《わちが》ひ 四《よ》ツ目《め》結《ゆひ》 左巴《ひだりともゑ》 旗さまざま 雲霞《うんか》の如く寄懸《よせか》けたり [#ここで字下げ終わり]  であった。  が、尊氏の注意はひたすら敵陣にあった。――とくに会下山上《えげさんじょう》にひるがえる菊水の旗に眸をとめた。  沖あいと、会下山とは、かなりな距離だ。  彼方、山上の旗の紋章が、さだかに肉眼でわかるはずもない。尊氏が船上からそれを菊水と観《み》たのは、直感だった。目で知ったわけではないのである。 「師直《もろなお》」  と、そばを振向いて。 「義貞もさすがよ。三|道《どう》からの、こなたの攻めを予想して、要所には堅く三陣を配しておる」 「浜べのいたる所や磯松の間には、チラチラと敵の騎馬や歩卒が見えますが」 「いや、あれはみな遊動隊にすぎぬ。兵法でいう“紛《まぎ》れ”と申す敵の擬勢《ぎせい》だ。あきらかに敵の主力は、和田ノ岬《みさき》の一軍団、湊川の上《かみ》に見える会下山の一隊。――また、会下山と和田ノ岬との中間にある大軍勢。それら三ツの陣所こそ、敵のかなめ[#「かなめ」に傍点]と思わるる」 「して、いずれへ御上陸を図《はか》られますか」 「まだ、まだ」  尊氏は、つよく呟く。  そしてそこの狭い船やぐらの内を檻《おり》の獅子みたいに巡りながら八方を観望していた。――味方の陸上軍の歩速――特に山手隊のうごきと、全船列の船脚《ふなあし》とを見合せて、 「ちと迅《はや》いぞ。迅いッ、迅い!」  と突如、艫《とも》の舵手《だしゅ》や帆綱番の上へどなった。  櫓櫂《ろかい》だけの兵船も多いが、身うごきの重い大船はみな帆力《ほぢから》を借りていた。とかく船列は一致しない。何しろ、お座船からの命令一下では、ただちに敵前上陸へ移る将士をどれも満載している。勢いどの船といえ、先陣を気負ッていた。 「――賢俊御坊《けんしゅんごぼう》」  と、尊氏はまた、いつもそばにおいている陣中僧の日野賢俊へ訊ねていた。 「たしか、会下山の後ろ側には、旧《ふる》い古道《こどう》が一トすじ通っていたと思うが?」 「さよう。その古道をへだてて夢野、ひよどり越えの山中へ続いています」 「すると前面の西国街道からも、背後の古道からも、周囲はたやすく登りうるわけ。つまり二つの街道を扼《やく》して立つ孤立の丘と言い得るな」 「されば、彼処《かしこ》に立てば、十方、望みえぬ所はなく、敵にとっては、絶好な陣場です」 「そう思われるが、ではなぜ、そこに義貞が床几《しょうぎ》をおかず、楠木勢がおるのであろう? 御坊はあの陣容を見て、そこをどう思うな」 「や。会下山にある敵は、楠木でしょうか」 「河内守正成にちがいない。なぜなれば旗数《はたかず》が少なすぎる。それに正成以外には、小勢であんな地形に拠って、脚下にせまる大軍を、毅然《きぜん》と、待ちすましうるほどな将はおるまい」 「では、新田の本陣は?」 「義貞のおる所は、丘のすそから、和田ノ岬との、ちょうど真ん中」 「二本松」 「お。彼処《かしこ》を二本松と呼ぶか。……あのあたりに燦々《さんさん》と見ゆる大軍こそ彼の床几場《しょうぎば》。……しかし総大将たる義貞が低地に陣して、なぜ一部将にすぎぬ正成が、全戦場を下に、最も大事な、高地に兵を布《し》いているのか。……それが分らん。あれだけは“紛《まぎ》れ”の計とも思えぬが?」  海は吠えた。舷《ふなべり》を叩いてわめく。陸地の敵も鬨《とき》をあわせて吠え返す。  しかし、陸上の騎馬歩兵が、弓弦《ゆづる》を並べて待ちかまえると、海上の船列はあざけるように敵を外《そ》らして、その舳艫《じくろ》を東へ東へ、移動して行ってしまう――  すると浜べの敵影も、波打ちぎわを伝《つた》ッて、追ッ駈け追っ駈け、罵った。  海は嘲笑《わら》う。陸《くが》は怒《いか》る。  どこも白沙青松《はくさせいしょう》だ。そして渚《なぎさ》は長い。寄手《よせで》は好む所へいつでも敵前上陸を敢行《かんこう》できる。だからあせる要はない。岸をさぐりさぐり、敵を揶揄《やゆ》し、翻弄《ほんろう》し抜いている。  すべて、尊氏の指揮だった。――味方の山手隊、街道隊、浜べ隊の進み工合と睨みあわせていたのである。かくて駒ヶ林をひだりに、刈藻川《かるもがわ》の川尻沖まで来ると、時刻は辰《たつ》ノ刻《とき》(午前八時)になっていた。強烈な炎日《えんじつ》を予告するかのように、陽《ひ》は澄みきり、彼方の会下山も、呼べば答えもしそうな近距離に見えてきた。 「……ああ、そうか!」  尊氏の胸はこのとき、われしらず呟いた。敵の陣容が、また正成の心事《しんじ》が、やっと腑《ふ》に落ちたものらしい。  正成の今日あることは、今さら瞠目《どうもく》するにはあたらなかった。先に河内へ密使にやった右馬介から、正成の心は、すでに聞かされていたことだった。  そのせつ、右馬介《うまのすけ》を通して「もし尊氏に力をおよせ下さるなら」と、利を以て説かせても、耳をかすふうではなかったというし、さらには「尊氏とて、皇室を思う心は一つ。ただ現帝に代えて、持明院統《じみょういんとう》の君を立てて、世を安きにおかんと思うばかり……」と伝えたことばにたいしても、正成はこうつよく答えたということではないか。 「総じて、尊氏どののお考えは、御自身の身から出たもので、国のため、諸民のためなどから出たものではない。その称《とな》えるところも要は理くつだ。大君を国柱《くにばしら》とし、大君に仕え奉るとは、衆知の理を超えた理の磨きあいにほかならぬ。さなくば、こうした国姿《くにすがた》も、ただ皇室を利用する悪徒によって乱の因《もと》をなすばかり……。さればそのてん尊氏どのなども、まさに乱臣賊子の一人。正成とはまったく異《こと》なる道をあゆむお人だ。あかの他人だ。ゆくすえまでも、正成の敵ぞとおつたえあるがよい」と。  ――尊氏はそれをいま思い出す。こんな辛辣《しんらつ》な言を彼はたれからもむげ[#「むげ」に傍点]に浴びせられたおぼえがない。  それだけに彼は、ただの悪罵でない正成のその言伝《ことづ》てを、よくぞと、負け惜しみでなく感じたほど、深刻に心に痛く、また反対に、爽《さわ》やかな気分でも聞いたことだった。……。 「その正成なら、今日の戦いには、こうあろうはず……。あわれ、みずから死地を求めて会下山《えげさん》に拠《よ》ったとみゆる」  なぜだろう、彼にもわからない。じいんと胸が傷んでいた。敵にまわしたくない敵、しかも七生までの敵ぞと自分へ宣言して会下山に立った敵。にもかかわらず、彼はなお、正成が憎めぬのみか、立派だ! とさえ思うのだった。 「右馬介、右馬介っ」  船やぐらから、下の舷《ふなべり》をのぞいて、尊氏は急に呼んでいた。  すぐ、右馬介はそこへ駈けあがって来た。  尊氏のいいつけは、彼の耳のそばでささやかれたので、どんな内容かは、おなじ船《ふな》やぐらにいた、師直《もろなお》、賢俊《けんしゅん》、ほか幕僚の諸将にもわからなかった。  右馬介もまた、 「こころえました」  とのみで、忙しげに、ふたたび自分の持場の舷《ふなべり》へ駈け降りて行き、そしてまた、 「おっ。……あれは?」  と幕僚たちが、はるかな山の手の煙を見つけて、一せいに立ち騒ぎだしたのもそれと同時といってよかった。 「合図だ! わが山の手勢の」 「それよ、それに相違ない」 「大殿、大殿」  と、口々に、 「斯波《しば》高経の隊が、はや高取山を越え出て、大日堂《だいにちどう》の下に着いたことを、約束どおり彼方で報《しら》せておりますぞ」  尊氏も、もちろん見ていた。その一点を凝視して、 「大日堂は、会下山の西、半里ほどか」 「半里もございますまい」 「よしっ……」  尊氏は言った。そして胴《どう》ノ間《ま》を覗きこみ、旗番の士へ大声で、命令をくだした。  ――旗合図! 予定の旗合図を掲揚させたものだった。  すると、先陣の船列の中から武者声が空へあがった。――細川定禅の大小五百余|艘《そう》はもう遅すぎる感でこの命令一下を待ちかねていたのである。  急に、角度を切って、その船列の尖端《せんたん》は、和田ノ岬《みさき》の南寄りのなぎさへ接岸して行った。――磯松のあいだに高い燈籠台《とうろうだい》がそびえている。――はやくも飛沫《しぶき》があがり、矢が飛び交《か》い、敵味方の喊声《かんせい》が、三ヵ所ほどの浪打ちぎわで、つむじを巻いた。 「乱声《らんじょう》、乱声っ!」  尊氏は、軍鼓《ぐんこ》の武士をこう励ました。鉦《かね》、鼓《つづみ》、ささらの如き打棒《だぼう》、あらゆる鼓舞《こぶ》の殺陣楽《さつじんがく》が、彼のお座船ばかりでなく、定禅《じょうぜん》やほかの船上でも狂気のようにとどろき鳴る。  しかし、そこには、思いのほかな大兵がいた。  新田一族の、大館氏明《おおだてうじあき》、宗氏の手兵三千が、あらまし、密生した小松原のかげに潜んでいたのである。  そのうえ、駒ヶ林から浜づたいに駈け慕ってきた騎馬隊があり、また、後詰《ごづめ》には、二本松の義貞の本陣からも、経ヶ島附近にある脇屋義助の陣からも、たちまち、これへいくらでも応援が可能であった。 「退《ひ》けッ。退けい」  俄に、督戦《とくせん》の乱声《らんじょう》は、退《ひ》き鉦《がね》にかわっていた。  序戦まず第一回の敵前上陸は、むざんな失敗に帰《き》したのである。――陸上へ躍りあがったものの、新田がたの重囲に持ちこまれて、あなたこなたで、みすみす討死をとげてしまった者、二百余人。――いわば尖端を切った一船隊は、まるまる殲滅《せんめつ》されて退いたのだった。  もちろん、足利がたの浜の手、少弐頼尚《しょうによりひさ》の一軍は、すでに駒ヶ林へその先駆《せんく》を突ッかけて来、直義《ただよし》の本軍も、西国街道を、驀進《ばくしん》していた。だが正面には、二本松を中心とする重厚な鉄の陣地、新田義貞の主軍がある。  戦機。――  それはいま、午前十時ちかい天地にしいんと孕《はら》まれていた。 「なんで退くのか」 「みすみす岸を踏みながら、俄にまた、退《ひ》き鉦《がね》とは」 「わが将軍(尊氏)も、臆《おく》し過ぎる」 「これほどな戦、序《じょ》の口《くち》、二百や三百の兵が打たれたとて、そのたびに退き鉦を鳴らしていたら、しょせん、敵前への上陸など思いもよらん」 「しかも、犠牲は犠牲のままとなッて、あえなく、犬死させることではないか」  先陣の五百|余艘《よそう》――  その艨艟《もうどう》の中にある細川|定禅《じょうぜん》の船上では、定禅をめぐッて、四国党の諸将が、はなはだしく、憤慨していた。  もっと、ことばを露骨にしていえば、つまり尊氏の指揮がなッていない! ということであったらしい。  これは、むりもないことにも見える。  せっかく接岸して、しかも二百余の味方はすでに殲滅《せんめつ》されてしまったのだ。――ならばいッそ息も抜かずに、五百、七百、あるいは千、二千――と犠牲を惜しまず、渚《なぎさ》を部下の屍《かばね》で埋めても、叱咤《しった》をつづけるべきであったろう。それでこそ初めて上将の指揮というもので、突破の口が開けるかもしれないのである。  ――だのに、どういうわけか、尊氏は、そのかんじんな機に退き鉦を打たせ、自身のお座船以下、数千|艘《そう》を、みな意気地なく、沖へ乱れ退かせてしまったのだ。 「ご料簡《りょうけん》の程が分からぬ」  と、一部の激昂《げっこう》も、当然ではあった。がしかし、これが単なる指揮の臆病さによるものだろうか。尊氏に何かの考えがなかったわけでもないらしい。  その証拠には、そんな最中。尊氏は、いつのまにか、自身乗っていたお座船を捨て、ほかの一船へ乗りかえていたのである。  それとは、味方の各船でさえ、たれも気づかないうちであったが、ほどなく先陣の四国勢――細川定禅の船へ――尊氏から伝令舟が漕《こ》ぎよせて行き、こう軍命をつたえていた。 「先陣ハ、和田ノ岬《ミサキ》ヲ巡ッテ、左岸ニ沿《ソ》イ、兵庫港(経ヶ島)ヘ、上陸セヨ」  そしてまた、 「ツヅイテ、日輪ノ旗ヲ中ニ、本軍ハ紺辺《コンベ》(神戸)ノ東ヘ突進スベシ。シカシソレニハ一切、加勢無用」と。  伝令はその二ヵ条だった。 「それっ」  と、これをうけた先陣は、全船列を立て直して、すぐ上陸をくわだてた。  ――が、そこは義貞の弟脇屋義助が、強兵数千を布《し》いて、ござんなれと、待ちかまえていた浜べである。  当然、なぎさの激闘は猛烈をきわめた。ぶつけて行く船《ふね》々々――。しぶきと、血うめきと、剣戟のつむじ、まさにこの世の修羅だった。  すると、また千|余艘《よそう》。  ここの沖あいを東へすすんで行くのが見える。天照大神、八幡大菩薩と、金文字で打出した日輪旗が、中の一|檣頭《しょうとう》に燦々《さんさん》とかがやいている。それこそ尊氏の乗船、足利方の本軍と、新田方には見えたであろう。 「やや、敵はわが後ろを断《た》つ策とみえるぞ」 「敵の本軍が後ろへ廻る!」  義助もそれを見たし、二本松の小高い所に腰かけていた義貞も、これを知った。――敵将尊氏のこのうごき方は、義貞として、むろん看過《かんか》できないものだった。  由来、新田の本営は、華美だった。  大将義貞の派手好みにもよるが、下部の将士にも禁軍意識がつよかった。皇室の親衛軍たるを誇って、どこか他の武門を見くだしている風がある。  けれど、一ト頃の新田十六騎の颯爽《さっそう》も、越後新田党の猛士卒の面目も、それが、禁軍の華麗を装備に持ってからは、まったく、昔日《せきじつ》のような目ざましい戦闘ぶりは、どこへやら失われていた。そしてただ、  錦の御旗  それのみが、彼らの上に、驕《おご》ッた耀《かがや》きを放っていた。  ところが、その錦の御旗の光輝も今度はなんとなく淡《うす》らいで見える。なぜなれば、賊軍と呼び慣《なら》わしてきた足利勢もまた、水軍の一|檣頭《しょうとう》に、日輪を打ち出した錦の御旗をかかげており、  ――そちらが官軍なれば我も官軍なり  我が賊ならそちらも賊  と、明らかに同等な名分を、宣揚《せんよう》していたからだった。 「太々《ふてぶて》しさよ!」  と、義貞は今朝から、二本松の陣地にあって、尊氏が坐乗《ざじょう》しているにちがいない、その船列中の本船の一|檣頭《しょうとう》を、睨《にら》みとおしに、睨んでいた。  そして吐き出すように、 「あの薄あばた[#「あばた」に傍点]が、やりおりそうな狡智《こうち》ではある!」  とも罵ッた。  その位置する陣地――西国街道の二本松とよぶところは――湊川(旧・湊川)を西へ渡ってすぐ、和田ノみさきから塩打山の低い砂丘《さきゅう》を左にひかえ、右には正成の会下山《えげさん》を擁《よう》し、いわば大手の関門を作《な》すものとしていい。そして彼は約八、九千の精兵を厚くおいて、 「来《きた》れ。目に物見せん」  としていたのだ。  つまり右翼《うよく》に、正成。  左翼に、和田ノ燈籠台の大館氏明《おおだてうじあき》、経ヶ島の脇屋義助。  陣容として、鉄壁である。もし陸上だけに限られた対戦ならば、たとえ数倍の足利勢でも、これはちょっと破り得なかったろう。  だが、当《とう》の怨敵《おんてき》尊氏は海上だった。自然、義貞の注意はしじゅう海上へ引かれていた。――するうちに、序戦、ここの正面へ当って来たのは、少弐頼尚《しょうによりひさ》を主将とする筑紫《つくし》諸党の兵――つまり浜の手隊の先鋒《せんぽう》だった。  これに時を合せて。  和田ノ燈籠台への、上陸作戦がおこなわれ、上陸した足利勢二百余人は殲滅《せんめつ》され、尊氏の本船以下、すべて沖へ逃げ退《の》いたが、やがてのこと、 「や、や?」  義貞は、なにか愕然《がくぜん》と、海上へ向ってさけんだ。  敵の一部は、兵庫へあがる姿勢にあるが、また一半の分裂船隊は、和田、兵庫の岸もすててはるかひがしの――義貞の位置からすれば――ずっと後方にあたる生田の川口の方へむかって団々《だんだん》と突進していた。 「あれを上陸《あが》らせては!」  と、彼は左右の将へ叱咤をつづけた。 「一大事だ、一大事だぞ! わが後ろを断《た》たれよう! いやそれのみか、よく見ろっ。あの中には、尊氏もおるであろう。這奴《しゃつ》の乗船と見ゆる偽錦旗《にせきんき》を押し立てた大船も急ぎおるわ!」  危機  それは今だと、義貞は思ったのである。  からだじゅうの毛穴が燃え、汗に眼がかすんだ。  もし、尊氏の水軍本隊が、生田の辺に上陸したなら、さしずめ味方は腹背《ふくはい》に敵だ。  後ろに尊氏。――そしてもう前面には、少弐|頼尚《よりひさ》の浜の手隊や、足利|直義《ただよし》の街道隊もせまっていた。どうしようもない。そうなってからでは、挽回のしようはない。 「保《たもつ》っ、保っ」  と、旗本の瓜生保《うりゅうたもつ》をよびたてて彼はすさまじい語気でただちに命じていた。 「ここでの退《ひ》き貝《がい》は敵に気勢を揚げさせるばかり……。そちは馬をとばして、味方の陣頭にある江田行義、世良田《せらた》兵庫、篠塚伊賀、額田《ぬかだ》為綱、綿打《わたうち》ノ入道らに、布令《ふれ》まわれ」 「はっ、なんと?」 「義貞はここの旗本、細屋、大井田、烏山《からすやま》、羽川、一の井、籠守沢《こもりざわ》などの手勢すべてをひきつれて、一せいに生田《いくた》か御影《みかげ》あたりまで陣を退く」 「えっ。御退却で?」 「いや、退却でない。尊氏めを追ッかけるのだ。――あれ見よ、尊氏のおる水軍の一群は、遠く、こっちの後ろへ廻らんとするらしく、生田、御影《みかげ》の辺へいそいでおる」 「しゃっ、あれですか」  誇らしげに、偽の錦旗二た旒《すじ》を翻《ひるがえ》してゆく一船こそ、尊氏が坐《ざ》す親船。――以下、千余艘とみゆるあの大兵が、わが後ろへ上陸《あが》ったら、味方は窮地におちいるほかないぞ。――それゆえ、義貞は陣を転《てん》じて、尊氏の上陸を迎え撃《う》つ」 「して、先陣にある方々は」 「徐々《じょじょ》に、義貞のあとを慕って、退《さ》がれと申せ」 「では総勢、二本松を捨て去るのでございましょうか」 「そうだ。すでに賊将尊氏は前面にいない。が、全力を向けて尊氏を撃たねばならん。あとの直義や筑紫《つくし》、四国勢などは、物のかずではない。はやく行け。おおそこの新兵衛、氏政、相模介《さがみのすけ》らも、共に義貞のむねを味方の陣頭へ布令廻《ふれまわ》れ」  こう前線へ伝令を放ち、また、左右の幕将にもおなじことを命じ終ると、義貞はよほど気が急いたものにちがいない。たちまち、そこの中軍を挙げて、生田の辺まで引き退《さ》がって来た。いや、義貞にすれば、退《ひ》くにあらず、転進の意気だった。  けれど事実上、すでに義貞の本陣はひいたのである。で、二本松の一地点を固守することはもう意味がない――  前線の諸将、篠塚、江田、綿打、世良田などの隊もぞくぞく彼を慕って来て、そして総力六、七千騎、 「賊首尊氏に見参《げんざん》!」  とばかり渚《なぎさ》で待った。  それに対して、海上の大船団は、生田の川尻から御影《みかげ》の浜へわたって、盲目的に、その舳《みよし》を砂へ乗しあげて来た。白浪の見えるかぎりの浦曲《うらわ》に小さい無数な人馬の影が戦闘をえがき出した。――しかし、この中に尊氏はいなかった。指揮者は高《こう》ノ師直《もろなお》であった。そして尊氏その者は、和田ノ沖で乗りかえたべつの船にとどまり、はやその頃は、敵影もない駒ヶ林の磯から、らくらくと、無血上陸を成しとげていたのであった。 [#3字下げ]隣りなき丘[#「隣りなき丘」は中見出し]  どこよりも風がある。  どこよりもここは高い。  正成の床几《しょうぎ》は、その会下山《えげさん》の上でも見晴らしのいい所におかれ、今朝から静かな姿をすえていた。  この日、旧暦《きゅうれき》の五月二十五日は新暦の七月十二日にあたる。  花崗岩帯《かこうがんたい》の白い粗《あら》い土質が空のかがやきをハネ返して、かぶとの眉廂《まびさし》にてかてか火照《ほて》る。――時はまだ午前九時半ごろか。――だのに草のある所は草いきれが燃え、ふもとから丘の中腹をうずめている馬の背の波は、いななきも揚げずぐッたりしていた。すべてここではまだ一矢《いっし》の矢うなりも聞えない。耳につくのは、幾旒《いくすじ》もの――  菊水の旗 “非理法権天”の旗  それの旗風だけだった。  が、ここにある約九百余人の者は、山海《さんかい》の涼風にひとり眼をほそめているような静かな山上の人を知ると、なんとなく自分らもすべてをまかせ切ったおちつきの中にその姿勢を柔軟《にゅうなん》なものにしていられた。なおまた、 「騎馬の士は、みな馬を下りていよ。すこしでも馬にはらくをさせておけ」  という正成の注意でもあったので、物見、伝令のほかは、みな鞍《くら》をおりていたことでもあった。かくてまだ、  満《まん》を持《じ》す――  というまでにも、正成は脚下《きゃっか》の陣へ、一令だに下《くだ》してはいなかったが、心もからだも自分と一つものにそれを見ることができていた。  ――丘の右翼、夢野口には――正季《まさすえ》をかしらに、天見ノ五郎、中院ノ雑掌《ざっしょう》俊秀、矢尾ノ新介正春など、多くは日ごろ正季の手に馴れている若い将士を配し、また、丘のふもと、左翼方面へは、志貴《しき》一族をさきに立て、二陣に和田五郎|正隆《まさたか》、同苗《どうみょう》助康、八木ノ入道|法達《ほうたつ》、神宮寺|正師《まさもろ》などの――いくさの駈引きにも騎馬戦にも屈指《くっし》な者をすえていた。  すべて、それらは、正成がゆるし、また、正成へゆるしている、一心同体の人々だった。――が、なお味方であって、別個な隊が見えなくもない。しいて義貞がこれへ加勢に添えた一軍で、その中には、九州の菊池武重の弟、菊池|武吉《たけよし》などもいた。つまり客将としてである。  しかし、正成にすれば、きょうの戦に、客将をおく場所などはない。菊水旗の下は、一死を誓った者のみの、真空の陣地である。人は知らず、ここは死を笑って享受《きょうじゅ》できる人間たちだけで坐ろうとしている菩提《ぼだい》の一山《いっさん》なのだ。――せっかくな義貞の配置や客将の菊池武吉には気のどくだが、おそらく正成は、加勢の兵力など、兵の数《かず》には入れていなかったであろう。 「やっ?」  ぬッと立って、後ろで叫んだ者がある。正成の甥、楠木弥四郎正氏だった。 「いよいよ、敵がよせてきました。山手、街道、浜づたいの三|道《どう》から――。オオ海上にも」 「む、来たな」  しかし正成は、なお、ゆとりあるものとして、南々西《なんなんせい》一帯の海から山へ眼をすましていた。刻々、風は凄気《せいき》を孕《はら》み出す。午前十時をやや過ぎる。やがて和田の上陸戦、浜の手勢、山手隊の喊声《かんせい》まで、一時にこれへ聞えていた。 「弥四郎っ。――左翼の先鋒《せんぽう》へつたえろ」  初めての命令だ。  正成は、床几を離れて。 「須磨口から驀《ま》しぐらに、街道をすすんでくる一軍こそ、足利|直義《ただよし》の主力。だが、あわてるなと申せ」 「はっ」 「彼方に見ゆる蓮池のあたりを、直義の手勢がこえて、あらまし近々と寄るまでは、味方はただ駒を踏まえて待て。――正成が次にくだす指揮をかたく待てと、触《ふ》れろ」  あっと、弥四郎が駈け下りてゆくとすぐ、 「四郎兵衛っ、四郎兵衛」  うしろの群れから、岡田四郎兵衛|友治《ともはる》をよび出し、正成はつづいて、右翼への二ノ令を発していた。 「峠から峠を越えて、彼方の大日堂まで迂回してきた敵の山手隊は、おそらく、かしこの部落で、一ト息いれているだろう。――正季に急げと申せ! 逆に、われから驀進《ばくしん》して、休息中の敵を突け! と」  命じ終ると、正成は数十歩、丘の南の端《はな》のほうへ歩いていた。すると、童武者《わらべむしゃ》の蔦王《つたおう》が、おやかたさま、おやかたさま、と彼のそばへ駈けよっていた。正成の顔の汗を見たからであろう。腰にさげていた青竹の水筒《すいとう》を解いて、 「お水を」  と、さしだした。  正成はニコとして、ひとくち飲んだ。そして青竹を彼の手に返しながら言った。 「蔦王はあまり水を飲むでないぞ。五月の水は腹によくない」 「はい」 「そして、そちはここから正成の使いに行け」 「え、どこへです」 「東国へだ。そちの父、河原ノ入道は、わが一族の左近蔵人《さこんのくろうど》正家にしたがって、常陸《ひたち》の久慈郡《くじごおり》、瓜連《うりつら》ノ城と申すところにおる……。そこへまいって、きょうまでのこと、そちの父へも正家へもようつたえるのだ。わかったか」 「…………」 「なぜ泣く。正行と共に河内へ帰すべきを、きょうまでは連れて、そちの望みもかなえてやったものを。すぐここを去れ。オ、これを持って」  と、なにか手の中に入るほどな小さい物を渡した。路銀であろうか、守り袋に秘めた書状でもあろうか。蔦王には眼にも見えなかった。そのうえ彼は、恐ろしい一|喝《かつ》をあたまの上で聞いた。叱られたのである。思わずびくッと、正成の背を見た。が、正成はふり向きもしてくれない。蔦王は、会下山《えげさん》の北の崖を、泣きながら、ころげ下りて行った。  もう南がわの山すそは、人馬の地鳴りと虚空《こくう》のあらしだった。――怒濤の敵勢は、一群の騎兵隊を以て、二本松の義貞の中軍へ当りながら、依然、主動力はここの丘へむけていた。――こここそが、第一の強敵、楠木正成、正季《まさすえ》のある陣地と、もちろん初めからの主目標として、近々と、挑《いど》みかかって来るもののようだった。  すでに、敵とのあいだは、幾町の距離でもない。  が、なお正成は、全戦場へ目をくばっていた。――そのころ和田ノ燈籠台《とうろうだい》へ上陸をくわだてた尊氏の水軍は、一部、序戦の殲滅《せんめつ》にあって、総勢船列をみだしながら沖へ逃げ退《ひ》いていたのだった。――正成はいま、機を見つけた。  正成が、機は絶好と見たのは、一時にせよ、尊氏の水軍が沖へ退いたからには、今なら挙げて、友軍義貞と共に、足利直義の主軍を、この会下山と二本松との両方から挟撃《きょうげき》できる――。そう観《み》たからのことだった。  しかも、驕《おご》りきった敵は、初めのうちこそ「名にしおう楠木」「うか[#「うか」に傍点]とは寄るな」と、警戒のいろだったが、次第に、 「たかの知れた小勢」  と、衆をたのみ、 「あれしきな丘、楠木とて、何ができよう。山の手勢に功をゆずるな」  と、あとからあとから、後陣が先に出て、いつか相互の顔も分るほど、近々、迫り寄っていたことでもある。 「射浴《いあ》びせろ」  正成は、あらかじめ備えていた弓隊の上へ、まず命じた。 「射ろッ。あるかぎりな矢を射尽《いつく》せ! 一ト矢も手に残しておくことはないぞ」  一ト矢も余すなとの令は、思いきった令である。瞬時の後は、弓も弓隊も不用だということを意味している。また、射つくしたら弓は手から捨てよ、ということでもある。  弓も、数百|弦《げん》が一時に唸《うな》ると、爆風に似て、矢道《やみち》は黒い噴霧《ふんむ》のようだった。  それにたいして寄手《よせで》はもちろん矢戦には応じえない。かぶとを伏せ、よろいの袖をたて[#「たて」に傍点]として、這いかがむ。数歩、駈けのぼっては、また、草むらや山肌にへばり[#「へばり」に傍点]つく。  ころがる。かさなる。  突ッ立って、なにか絶叫するかとみるまに、ぶッ仆れる。  しかし、さすが先頭を争ッてくるほどな敵はどれも猛者《もさ》だった。怯《ひる》むどころか、血を見て初めて真面目《しんめんもく》をあらわすかのようなのが、すべて会下山の南を埋めた。それが誰々とも旗差物でもよくわからないが「……ここに御手分《おんてわけ》ありて」と誌《しる》す梅松論の一|項《こう》には、 [#ここから2字下げ] 下御所《しもごしよ》(直義《ただよし》)のもと 副大将は 高《かう》ノ越後守|師泰《もろやす》なり 以下、尾張守|師業《もろなり》 大友、三浦介、赤松 ほか播磨《はりま》、美作《みまさか》、備前 三ヶ国の総軍勢 おん供につき従ふ―― [#ここで字下げ終わり]  とみえ、足利方でも、精鋭中の精鋭をよりすぐッたもので、人数の明記はないが、陸軍の主力である、一万以下ということはない。まさに楠木勢の方は、その十分の一以下だ。  いやそれも、全部をこの西南面の崖にそそいでいたのではなかった。正成の旗本までをあわせても、せいぜい六、七百騎をこえてはいない。――そして初手《しょて》の防戦につかった矢数《やかず》にしろ、もちろん、かぎりある物だった。 「かかれッ」  彼がこの号令を発したときは、彼自身も、一頭の黒鹿毛《くろかげ》にまたがっていた。そして弥四郎の手から受け取った長柄《ながえ》を持つと、 「弥四郎つづけ。みんな来い。この機を外《はず》すな」  と、崖下へむかって真ッ逆さまに駈けおりていた。もとより待機しぬいていた楠木勢の全部は、より早く、土砂崩《どしゃくず》れのように敵中へなだれ入り、あとの丘には、一兵も置き残してはいなかった。  地形上、どうしても、寄手の序戦の不利はぜひもないが、それからもなおさんざんに、直義の大軍勢が追いくずされたのはどういうものか。  強い。  あるいは一方が、  弱かった。  そんな単純なわけのものではないようだ。  一方とて功名手柄に命を賭けているものだ。が、ただ楠木勢の一人一人は何物も求めていない。正成の姿と菊水の象徴とに一死を託しきっていた。いわば非力の勇というしかなく、たとえば無名の一歩兵までが、名だたる敵将の鞍《くら》にしがみついて、それを馬上から引き落すなど、ふつうの戦場常識ではありえないことが随所に起っていたのである。それが足利勢をして魔魅《まみ》か鬼神のような恐れを覚えさせ、逃げ足立てたことだった。かつまた、大部隊の弱点として、なだれ出すと、自己混乱をも巻きおこし、それに刈藻《かるも》川やら蓮池の湿地帯をうしろにしていたので、一万以上の人馬がすべてその秩序をうしなってしまい、会下山から蓮池まで、見る見るたくさんな犠牲を諸所に捨てたものだったろう。  正成は待った。  奮戦、また奮戦しつつ、じつに心のうちで待った。  近くの二本松の陣地から友軍の義貞が、この機に呼応《こおう》して、敵の直義の側面へ突いて出てくることをである。  もしこのとき、義貞がそれを敢行していたら、浜手といわず、街道といわず、足利勢がここでうけた損害はけだし重大だったに相違なかった。――ところが惜しいかな、そのときすでに義貞は、二本松をあとに反対な生田のほうへ退きだしていた。――なぜか? 義貞に戦機をつかむ活眼がなかったからともいいきれない。――むしろ、義貞にすれば、正成の突入こそ、無謀、無兵略な独走のみと、叱《しか》りたい。  いや。  立場を変えていえば、尊氏の水軍戦略が、みごと、図《ず》にあたっていたのである。――いちど沖へ去った水軍の二大船団が、兵庫、生田方面へ、上陸態勢をみせだしたので、義貞は愕然《がくぜん》、後ろを怖れ、それを追って、それへ立ち向わざるをえなかったのだ。  そのためには、友軍の楠木勢を、孤児同様、敵中に捨て去る形にはなるが――それもかえりみていられないほどな義貞の心理であったには相違ない。  が、正成は、 「それもよし!」  と、いまは友軍の協力もあきらめ澄ましていた。しかもなお、追撃は変えず、「直義を獲《え》よ!」というのが、彼の全部下への命令だった。「かかる大乱の二張本は、尊氏直義。その一張本は、目前にいる!」と、さけんだ。彼がこんな阿修羅となって乱軍中を奔馳《ほんち》したなどは初めてのことである。元来、正成は打物取ッての武勇の質ではなく、阿修羅は哭《な》いていたのだった。  彼以下、楠木勢の一念に、大将足利直義も、あぶなく斬獲《ざんかく》されかかった。――蓮池のほとり――馬は斃《たお》れ、直義は馬から抛《ほう》り出されたりした。その危機一髪《ききいっぱつ》を、薬師寺十郎次郎なる者が、彼を、自分の馬に乗せて須磨口へと逃がしたのである。そして十郎次郎は戦死した。もし、この者がなかったら、直義もどうなっていたかわからないほどだった。  さんざんになって、直義《ただよし》の軍は、いちど須磨方面へ、鳴りをひそめた。  山手隊も苦戦  と聞えたからであるらしい。  その迂回路へ向った斯波《しば》高経の山手軍は、なにしろ、二つの峠をこえて、狭隘《きょうあい》な道をムリにすすんで来たことなので、人数もそろわず、しばし大日堂の部落で、馬を休めながら、おくれがちな味方の後続隊を待っていた。  するうちに、 「敵だッ」  と、騒ぎ出した。  部落の中からである。  というのは、部落の三方四方から火を放った者があったからだ。これはすでに夜明け前から潜入していた乱波《らっぱ》(しのび)の仕事であったらしい。この古街道《こかいどう》を敵が須磨から迂回してくるものと想定すれば、当然、大日堂から妙泉寺へかけての部落は、敵がもっともその兵馬をおくところになる。  楠木|正季《まさすえ》は、機をつかむに敏《びん》だった。大江時親流の兵法をよく駆使していたともいえようか。早くにこの附近へ乱波《らっぱ》を入れておき――その煙を見つつ、彼の急襲隊は、会下山を離れて、もうついそこまで来ていたのだった。  が、正季の手勢もわずか四百たらずである。ただここでは、本隊正成の戦闘よりも、多少、有利な立場で敵の虚《きょ》をついていた。――もとより部落の住民はみな避難しており、猛火のうちに悲鳴狼狽の極をみせた人馬はすべて敵と見なしてよかったであろう。――敵の斯波高経も、ほどこすに術《すべ》もなかった。――退《ひ》くにしては、古街道の山路はせまく、それにまた、あとからあとから押してくる味方ともぶつかりあった。で勢い、四分五裂、上へ下へ、蜘蛛《くも》の子のような乱離《らんり》をみせだしていた。 「散るな。散らばるな」  正季は、少数の力の極限を始終考えて、 「上へ逃げる敵は見のがせ。やがて下へ下へと、敵を追い降ろして行こうぞ。……あれ見よ、兄者《あにじゃ》の一勢が、はるか彼方の街道から蓮池のあたりに見える。……兄者の軍に迷《は》ぐれまいぞ」  やがて、妙泉寺坂の上から敵を駈けちらす。死の谺《こだま》、呼び交《か》う絶叫――。そして味方は一陣に寄り集まり、たえず地勢を考えていた。頭上の敵は嫌い、高地から低地へと、戦い戦い、長田村のほうへ降りて行ったものだった。――ときに陽《ひ》はもう中天《ちゅうてん》にあって、地熱はおもてを焦《や》き、汗は塩になって、どの顔も眼ばかりがらん[#「らん」に傍点]としていた。血、泥、草ぼこり、およそ傷を持たぬ人も馬もなかった。  けれどまだ意気は高い。決して全能を消耗しきってはいない。正成の隊と一つになるまではである。正季にあってはそれが当面の作戦なのだ。そして究極には、兄と一つに死の座をえらぶことだった。 「兄はどうしたか?」  低地へ入ると、蓮池の水は、もう遠望もきかなくなった。しかしここは長田村、距離はさっきよりずんと近くなっているはずである。――兄上っ、と呼んでみたい。しきりにそんな衝動がこみあげていた。はや御最期か。虫の知らせか。と疑いたくなる。気づいてみると、天地はこのとき、奇妙なほどしいんとしていた。わすれていた蝉《せみ》の声《こえ》だけがわあんと耳に甦《よみがえ》っている。  刈藻川《かるもがわ》の上流だろう。水を見つけた炎の兵は、われがちに駈け寄って流れを吸《す》う、汗を拭く、また血を洗う。 「五郎。この間に」  と、正季は、天見ノ五郎へ、 「兄上の手勢はどのへんにあるか。またいま、敵の形はどうか。高見して来い」  と命じていた。五郎はすぐ彼方の小高い所へ駈け行き、渇《かわ》きを医した兵は、ふたたび、ザッザと無口に歩き出していた。――するうちに、味方の殿軍《しんがり》三十騎も追いついてきたが、 「敵の山手隊は支離滅裂のまま、今のところ、この道すじを追って来る敵もありませぬ」  と、いう。 「よしっ」と、正季は「――ならば一ト涼みしてよかろうぞ」  と、附近の木蔭で兵馬を休めた。長田神社の森だった。  次いで、五郎の報告も、ここで聞く。  それによると、二本松にはもう友軍の本陣は見えぬ、とある。そして西国街道に沿《そ》う民家には火が放たれ、いちめんな薄煙のため、直義の軍も、菊水の旗のありかも全く見とどけにくい。――が事によったら双方とも、一時、宿場の火勢をさかいに、遠く引き分れているらしくも思われるとのことだった。 「して、尊氏の水軍は」 「あらまし、はるか東の、生田方面の岸へ、攻め上ったように望まれまする」 「さては、それに引かれて、義貞は二本松も捨て、あわてて生田へ退がったものか?」  正季はここに、孤軍の感を、ひしと胸に持ったらしい。どこにも、菊水の旗は見えぬという。兄はなお生きているのだろうか。あるいは早や玉砕か。いずれにしろ、義貞と共に退くはずはない。 「ぜいたくな」  彼は、自嘲に変った。 「いくさなのだ。兄と共に、枕をならべて死にたいなどは、ぜいたくな望み。死に遅れたなら、死に遅れただけのことをして、あとからお跡を追って行こう」  まもなく、長田神社を出て、その兵馬は依然、南へ潜行をつづけていた。すると彼方から炎天下を、 「御舎弟《ごしゃてい》さま」 「龍泉殿」  と、手を振ッて来る四、五騎があった。  隅屋《すや》新左、恵美《えみの》正遠、河原九郎正次など、いずれも兄の手勢の者だ。――すぐこのさきの一叢《いっそう》の林に、正成以下みな旗を伏せて、しばし戦機を見つつ一ト息入れておられるという。 「オオではまだ御健在か」  よろこぶ正季を、新左や正遠たちは、 「やわか。なかなか」  と、笑い合いながら、先に立って、 「おやかたさまこそ、山手の戦い、正季の血気、いかにせし、とお案じ顔で、お待ちです」  と、駈け出した。  行ってみると、そこの一叢林《いちそうりん》は、そのまま会下山の西の裾へつづいている。――すでに敵の直義《ただよし》とも、浜手側の少弐頼尚《しょうによりひさ》の隊とも、十数回におよぶ激戦に激戦を交わして疲れきッた正成の麾下《きか》は、さすが惨《さん》として、血みどろでない者はなく、その兵数も、半分以下にまで減ッていた。 「正季《まさすえ》、無事か」 「お。……兄上、正季こそ、死に遅れたかと存じていましたが」 「なんの、死の座は一つと、約したはず」 「本望です。して、お手勢は」 「見るとおり、きびしく減った。が、あわれただの一人も、むなしくは打たれていない」 「いや正季の一勢は、まだいささか健《すこ》やかです。多くは失っておりません」 「双方合せれば、なおここに五百騎余は数えられよう。それをもって、さいごの一戦を図《はか》ろうと思う。ま、こう来い、弟」  樹林の中を、明るい方へ出て行った。そして会下山の中腹といってよい木も無い傾斜をまたやや登って。 「正季」 「は」 「一瞬、鳴りの鎮《しず》んだわけが読めたか。ま……彼方を見い。生田、三ノ宮、御影《みかげ》まで、渚《なぎさ》も黒う足利勢が上陸し終った。――そして新田殿の軍兵は、ことごとく、あれへ駈けつけ、会下山から西、われら以外には友軍も見えん」 「左中将殿(義貞)も、よほどあわてたものと見えまする。――われら会下山の陣を、敵中におきすてて」 「いや、楠木勢へも、共に退《さ》がれと、連絡はしたのだろうが、一ト頃の乱軍だ、伝令も何も、届かなかったに相違ない」 「とにかく、首尾よう、尊氏に打勝てばよいが」 「まず望みはない」 「正季にも、そう思われます。しかるに何で、所期の作戦を俄にかえて退かれたのか」 「それも、過ッてはいない。左中将どのは、あれでよいのだ。あれでよい」 「……とは、どういう御意中で」 「必定《ひつじょう》、新田勢は総くずれを来《きた》そう。そして好まぬことながら、左中将どのも都へさしてムチ打って落ち行くしか途もあるまい。わしは元々そうあって欲しかったのだ。正成亡きあと、主上後醍醐のきみを守護したてまつる大将といえば、やはり左中将新田殿のほかにはしかるべきお人も見えぬ。……ゆくすえ、尊氏の勢いがさらに大になるを思えば、なおさらのこと」 「ですが、全軍をあげて、生田の渚《なぎさ》へ駈け向った新田どの。尊氏と見たら意地でも退けますまい。元々からの宿敵、かつは播磨いらい、負けを重ねている面目上、乱軍を掻き分けても、尊氏と一騎打を挑《いど》む御所存ではないでしょうか」 「いや」  正成は薄《う》ッすらと顔をゆがめた。その眸を回《めぐ》らして、須磨方面へ、心を移しながら、 「尊氏は、生田へ向った水軍のうちにはいない」 「えっ、ではどこに?」 「日輪の旗を立てた大船の一つに乗って、彼処《かしこ》に上陸すると見せかけて、じつは別な船に乗って須磨沖にとどまり、やがていとやすやす、駒ヶ林の浜へ一勢をひきいて上陸した。――そして駒ヶ林の宝満寺こそ、いま尊氏がいる本営とおもわれる」  すべて正季には意外だった。それでは義貞の意図は全然|空《くう》を打ッたことになる。が、それでいいのだと正成はいう。そしてただ正季にも、尊氏の無血上陸ぶりだけが敵ながら見事と思わざるをえなかった。息をのんでその宝満寺とやらを、視野に求めるばかりだった。  それと注意してよく見れば、尊氏が上陸直後の陣地、宝満寺の屋根は、会下山から直線距離で十数町、蓮池からでは南へ六、七町、いちめんな磯松と白波のあたりにたしかめられる。  正成は、語気をこめて。 「見よ正季、かしこに、尊氏がおるとは、楠木党にとり、思わぬ武門|冥加《みょうが》ではあるまいか。われらに死に花を誇らすため、わざわざ、目さきへ上陸しおったようなものだ」 「まことに!」  と、正季も応《こた》えた。身のうちにうねる血のたぎりを、彼方の一焦点へじっとそそいで。 「望んでもない、死出のみやげです。直義ばかりか、尊氏をもここに見つけ得たなど、なおわれらの武運も、見捨てられたものではありません」 「そちの手に残す二百余騎、わしの麾下《きか》に余す三百たらず、あわせて五百騎、一丸《いちがん》火の玉となって、足利兄弟に目にものをみせてくれようぞ。世に不逞な叛心をいだくことの、いかに罪深く、成り難きかを、天に代って思い知らせてやらねばならぬ。正季、みなを呼べ。――兵すべてここへ集まれと声をかけろ」  正季はすぐ、伸び上がって、 「おううい……」  と、口に手をかざした。下の森へ向って、ことばと手合図で、集合の令をつたえた。  みるみる、全員が木蔭を出て来て、正成正季のいる会下山の一つの瘤《こぶ》から中腹の山肌へわたってまっ黒に集まった。――正成はそれらの将士へむかって、いま正季へ言ったことばを、もいちどくりかえした。――そのうえで、今朝来《こんちょうらい》の善戦を謝し、すでに十数合の戦いをしてきたこと、かつは陽《ひ》も中天《ちゅうてん》を過ぎて来、いかに死力をしぼりきっても、肉体の精力にはかぎりがある、おそらく次の突撃が、みなとも最後の別れになるだろう、と告げた。 「……が、しかし、討死にする所は違《たが》えても、あの世ではまたすぐ会おう。今生《こんじょう》、あくまで生を一つにし、この迂愚《うぐ》な正成について、このどたん場まで、共に志《こころざし》をかえず、最後まで悲風のみな菊水旗の下を去らずにいてくれたこと、なんといってよいか、正成にはいま、ことばもない。すまぬなどと尋常なことばを以てしたら、かえって皆には不本意だろう。なにもいわぬ。ただ一同をこう拝《おが》む。……けれど死に当って、もいちど心に銘じておいてくれ、決してみなを犬死にはさせぬ。世は長く人の生は短い。その永遠にかけてここの生命を無意義にはさせまい。われら短い儚《はかな》い者を久遠《くおん》のながれにつなぎとめて後世《ごせ》何らかの鏡《かがみ》となって衆生に問《と》おう。世をうらむこともない。わしたちは、そうした宿縁宿命の下に、この土《ど》に生れ合せた者どもであったとみえる。……では行こう。尊氏の陣中まで。あわよくば、尊氏の首、直義の首、いずれなりと、わが槍先に梟《か》けて、日月《にちげつ》いまだ堕《お》ちず、と世へ叫べるかもしれまいぞ」  みんな顔を押し拭った。汗である、涙である。そしてそれは血と泥とでよけい異様な形相《ぎょうそう》になった。炎天下、青い虫がキチキチ飛んでいるだけな一瞬を破って、五百余の眸は、正成のおもてから、彼方の宝満寺のほうを望んで、一せいに、異様な声をわああっと揚げた。久遠《くおん》の宇宙へ、今を呼びかけるような声だった。 [#3字下げ]七生人間《しちしょうにんげん》[#「七生人間」は中見出し]  いま、尊氏のまわりには、わずか二、三百ほどな小勢しかみえなかった。  敵の注視を生田方面へそらしめて、ここへ悠々と無血上陸をとげるためには、目をひくほどな船数《ふなかず》をあとの海面におくわけにはゆかなかったし、また、尊氏に付いていた幕僚の諸将も、あらましはみな、敵の義貞を生田へおびきよせて打ち叩くべく、尊氏のそばを去ってここにはいなかったものなのである。  が、屈強《くっきょう》な旗本輩《はたもとばら》や陣中僧の日野賢俊らはもちろん一刻もそばを離れてはいない。そして、上陸地点からやや北方の、ひがし池尻《いけじり》村の宝満寺の林間に、ひとまず仮の床几《しょうぎ》をすえ、ただちに須磨方面にある直義《ただよし》との連絡をはかる一方、さきに陸上の浜手隊をあげて新田軍を追いしたって行った少弐|頼尚《よりひさ》からの反《かえ》り伝令の報告などをききながら、寸時の休息をとりかけていた。  と。その床几の人の前へ、 「ご一服」  と、女武者の棗《なつめ》がいま、ひざまずいて、一|碗《わん》をささげていた。  寺門のうちへ走って、庫裡《くり》から請《こ》い求めてきたものでもあろうか。 「お。白湯《さゆ》か」  と、尊氏が碗を手にふくんでみると、それは梅香湯《ばいこうとう》だった。梅酢湯《うめずゆ》に甘味を加えてよく雨期明けや暑中にくすりとして禅家などで用いているものだった。 「これはうまい。ときにより、どんな甘露もおよばぬな」 「おなかにおよろしいものと聞いております」 「そうだ、船中の蓄え水には孑々《ぼうふら》がわいていた。これで腹の中の孑々も死ぬだろう。……だがまだ」  と、彼はすぐ立って、数歩あるいては数歩もどり、心でしきりと待つものでもあるか、たれへともなく、つぶやいた。 「はて、介《すけ》はどうしたのだ。介はまだ見えんではないか」  その右馬介は、彼の命で、とうに沖あいからひとり本船を抜けてどこへともなく姿を消しており、その行く先は大殿のほか誰が知りましょうや――と賢俊は思った。そしてなにか口に出しかけたが、 「五郎っ」  そのときまた、尊氏は、旗本の一人へむかい、こう高い木のこずえを仰いで命じていた。 「あれへのぼって、物見いたせ。とくに会下山の方をよく見い。すでに、かしこには菊水の一|旒《りゅう》もさっきから見えぬと申すことだったが、なおそのとおりか。さなくば、楠木勢はいまどこにあるか」 「はっ」  と、畠山五郎は木の根へ駈けた。そしてその敏捷なすがたが、高い枯れ木の天《て》ッぺんへよじのぼって行くのにひかれて、ついみな顔を空にしていた。  するとその耳もとへ、ド、ド、ド、ドッと迅《はや》い馬蹄のひびきが林間をつたわって来た。はっと一角の兵隊は反射的にそれへ立ちむかった。すぐ木《こ》の間《ま》がくれに見えた六、七騎の者は味方の士とはわかったが、口々からこれへ投げた声は、容易な急、容易なさけび方ではなかった。 「お備えに、抜かりはなきや」 「楠木勢五、六百騎、一団となって駈けまいりますぞ」 「ここに将軍(尊氏)のおわすと知って、決死、捨て身の懸《かか》りを以て、斬り込んでくるものと見られますっ。ご油断あるな!」  山手でも平野でも、楠木勢はあえて自暴的な激突を再三再四くりかえして来、はや、あらかたは自滅し、残余の兵などは再起してくる気力もないはず。すでにどこにも旗影の見えぬをみれば、あとはチリヂリ摩耶《まや》方面へでも影をひそめたものではないか。  たった今である。  こんな情報すら聞えていたばかりなのだ。それだけに、みな耳を疑った。事のとつぜんは、青天の雷《いかずち》、まさにそのもので、 「なに、楠木?」 「楠木勢だと」  と、一陣二百人ほどは、尊氏のまわりをかこんで、凄風《せいふう》の中に、そそけ立ッた。  なにしろ、補充の軍は来ていず、ここには水軍の将士のみなので、騎兵隊の備えなどはない。いわば本営にして本営のかたちもまだ作《な》さないうちにこの驚きだったものである。 「来たか」  唇《くち》のうちで言ってるかのような尊氏の眉だった。が、これをたれより意外としなかったのも彼だろう。思うらく、正成である。かくもあらんかとおよそ予感すらもっていたかもしれなかった。 「伊豆っ、上杉伊豆」 「はッ」 「指揮いたせ、わしに代って旗本の配置をとれ」 「はっ」 「頼春、おるか、細川頼春」 「これに!」 「そちは、浜づたいに馬をとばして、直義の陣へ、急を告げろ」 「うけたまわりました」  すぐ、頼春は馬の鞍へ手をかけた。すると、賢俊が、一兵一騎も惜しむように、 「あいや」  と、尊氏へむかって、早口に言っていた。 「つい今、下御所《しもごしょ》(直義)のおん許へは、三河ノ三郎を急がせました。ここへ将軍御上陸の儀は、すでに連絡ずみのこと。また物見も知らせておりましょう。されば、電光石火の御来援は、お使いなくとも、お気づかいはございませぬ」 「そのことではない」  尊氏は叱るがごとく言った。  そして、ふたたび頼春へ、 「必定《ひつじょう》、正成兄弟はここをさいごの死所とえらび、残る兵をもって、死にものぐるいの一戦をとげに来たものと思わるる。――が、機鋒《きほう》を交《か》わして、柔軟にあしらいおき、十重二十重《とえはたえ》のうちに撃つは何の造作でもない。だが、正成はころすな。なるべくは生けどれ。その令を、直義へつたえおくのだ。ここの面々もこころえおけよ」  と、言った。  一とき、意外な感を衆に与えた。しかしそれ以上に、騒然と研《と》がれていた武者ぶるいとも狼狽ともつかない硬直のうえに、楠木方との対決におちつきと自信とをもたせた。そしてもう配置についた将士の目にも耳にも、前面から地を翔《か》けてくる驟雨《しゅうう》のごときものがはっきりとつかめていた。敵の顔も見えた。  その顔たるや、一兵一兵、足利方の陣には一つもないような形相《ぎょうそう》の者ばかりだった。具足《ぐそく》、膝行袴《たっつけ》などボロボロである。白昼降りて来た天魔の兵かとさえあやしまれる。木《こ》の間《ま》をくぐり、野を駈け出し、あるいは、白浪の飛沫《しぶき》から湧き出したものみたいに、わあっと浜辺の方から吠えかかって来る菊水の一|旒《りゅう》と一隊もあった。  裏一帯は磯浜なので、尊氏以下、宝満寺の本営では、楠木兵が海から突いて来ようとは考えられもしなかった。  それゆえ、虚《きょ》をついて、尊氏へ迫るには、楠木方として、これ以外な手はなかったであろう。――なぜなら、会下山から一団火の玉となって吶喊《とっかん》するにせよ、ただの正攻法では、直接、尊氏へは近づき難かった。――途中、蓮池附近にはなお高《こう》ノ師泰《もろやす》の手勢がみえ、須磨口には直義の軍勢がいる。たちどころに、そのうごきを発見されて、側面からの大圧襲をくうであろうことはみえすぎていた。  これはしかし、避けようもないことで、覚悟の前としなければならぬ。がただ、 「尊氏のふところにもいたらぬうちに、事終っては無念至極」  と、正季《まさすえ》だけは軽兵七、八十人をつれて、芦叢《あしむら》をくぐり、刈藻川《かるもがわ》の川尻に敵がおき捨ててあった一群の小舟をつかって、苦もなく宝満寺裏へ突いて出たものだった。  従って、尊氏のいた所は、せつなに敵味方入りみだるる剣槍《けんそう》の場と化し、尊氏が用いていた床几がすッ飛んでいるだけで、尊氏のすがたは見えない。  代りに、尊氏の近侍、石堂十馬、仁木|於義丸《おぎまる》、同義照、畠山五郎、佐竹|義敦《よしあつ》などが抜きつれて、阿修羅《あしゅら》の菊水兵を相手に火をふらして防ぎたたかい、血けむり、地ひびき、組んずほぐれつの肉塊《にっかい》、すでに相互とも幾十の死者を出し、寺の一端、また附近の民家からは、火の手があがった。  同時に、前面からも、打ち振る菊水旗の幾すじかが林間の上に見える。しかし乱戟《らんげき》の下、すぐ旗竿は折れ、旗手も抜刀しておめきの中に加わっているらしい。正成のすがたはどこか。弥四郎正氏はどこを衝《つ》いているか。一面な煙もみなぎり、しょせん、見さだめのつくような視界ではない。  もしこのとき、前面から正攻で来たこの手の菊水兵が、さらにもう小半町ほども、宝満寺の寺域《じいき》へ肉薄しえていたら、あるいは尊氏をして、 「いまは?」  とばかり身をおく所も失わせていたことかもしれない。  だが、ここでは上杉伊豆の懸命な指揮のもとに、桃井修理、大高伊予、須賀左衛門、三浦介の族権《ぞくごん》ノ九郎らが総力をあげてふせぎに立ち、時にはその一端をやぶられても、たちまち、追ッかけ追ッとりつつんで、からくも、わずかなまを持ちささえていた。――するうちに、もう松ばやしの西の端れ――西国街道へつづく平野には、足利直義の軍兵がまっくろにあらわれていたし、蓮池方面からも、高ノ師泰《もろやす》隊の騎兵一団が、 「すわ、一大事」  と見たかのごとく地を蹴ッてこれへ来る。  ぜひもない。これまでだ。正成にとっては所期のとおりな様相となったにすぎない。  前面、側面、また後ろ。敵を見ぬ一面もなくなっていた。包囲はしだいに圧縮され、吹きまくる殺風のあいだに、はや残り少なくなってきた楠木方の将士は、たがいに戦友の影を求め、兄は弟をよび、弟は兄をよび、呼《よ》び交《か》い呼び交い、しぜん、吹き溜められるように、せまい一窮地へと追いつめられた。  がくんと、戦力が落ちたと知ったとたんには、残る味方同士が、ひとつに、かたまり合うことすらが、困難中の困難だった。  でも、 「兄者《あにじゃ》ッ」  と、正成を見つけて、駈けよって来た正季《まさすえ》には、あやしくも、よろこびにちかい、いや歓喜の極限にひとしい声があった。 「いたか」  と、見つけた迷子を見るように正成も言った。 「弥四郎は」 「こ、ここですっ」 「正隆《まさたか》、正遠、正光らもおるな。逸《いっ》しはしたが、尊氏もきもにこたえたはず、直義とて同様。このうえは雑軍《ぞうぐん》端武者《はむしゃ》の手を待って死ぬはおろか」 「おうっ、ほかへ行きましょう。一同打揃ッて、心しずかに、さいごを」 「そうだ、血路をひらけ」  その正成の駒を、親のごとくみなおおいつつんで、ひた走り北のほうへ駈け出した。――と知った敵軍は、野面《のづら》いッぱいに唸《うな》りを揚げて、巡り巡り、行く手を断《た》つ。 「突ッ込みましょう! 薄いところへ」  正季は兄のうなずきを見た。  と、弥四郎正氏が、 「おやかたも、龍泉どのも、蹴ちらし蹴ちらし、ただ駈け通って行ってください。しんがりは、私がする!」  と、さけんだ。  敵はその持つ大兵力と驕《おご》りとにゆるんでいる。一方楠木勢は百人にも足らぬ少数となっていたのに、正成以下の者が獅子陣のごとき縦隊をあげて突ッ込んで行くと、さっと、大きなどよめきが水を割ったようななだれ[#「なだれ」に傍点]を見せた。もちろん、それがそのままではない。たちまち、鏘々戟々《しょうしょうげきげき》、渦まく乱戦と血しぶきへの移行となっていた。が、それも一陣の旋風に似て、突破は瞬時に成功していた。 「もうそこです」 「そことは」 「会下山《えげさん》」  正季、正成のあいだに、きれぎれ、そんな声も流れた。そして正成の馬は、遅々《ちち》として、この頃から進まなかった。馬上の人にも馬にも矢やら刀キズの血が生々しい。しかしそれだけのせいでもない。――殿軍《しんがり》にのこった甥の弥四郎正氏と十幾人の者は、ついに一人もあとから追ッついては来ないのだった。  弥四郎はこの時に戦死した。  そのことは、足利方の内にあった播磨の人、広峰|昌俊《まさとし》が後日の“申状《もうしじょう》”の中に見え、それによれば、昌俊は、敵の楠木弥四郎とさんざんに斬りむすび、わがかぶッていた兜《かぶと》の吹き返しを左右二遍まで切られるほどな苦闘だったが、ついにこれを討ち取ったものとある。  ここではないが。  次のこともまた、この日の合戦のほかではありえない。  安芸の人、石井七郎|末忠《すえただ》なる者が、正成の麾下《きか》にあって戦死していた。けれど、この石井末忠は楠木一族でもなし正成直属の武士でもなかった。菊池武吉などと共に新田の手から配されていた客将だった者である。つまり軍監の一将だ。だからいやなら観望しているも自由であり、義貞と共に退いても人に笑われはしない。だのにすすんでこの日、菊水旗の下につき、殉死的な戦死をとげたことだった。  会下山、さいごの死所は、そこを一蓮《いちれん》の台《うてな》にして――と、暗黙のうちに、一同これへ目ざして来たらしい。  くるしい。たれの呼吸も奄々《えんえん》と見えぬはなかった。からだじゅうに干乾《ひから》びた黒い血や生々と濡れ光ッている鮮血は負ッていたが、どこが痛いと知る感覚はなく、ただもうせつない。  そして、いまは、山上の風恋しげに、 「敵が来ぬまに」 「一刻もはやく、かなたで」  と、一蓮の丘の死の座へと、喘《あえ》ぎ喘ぎ、辿《たど》っていた。  が、馬も疲れきッて、ここでは傷負《てお》い馬などもう一歩も前へ出ない。正成は鞍《くら》を下りた。ほかの将も騎の者はそれに倣《なら》って馬を捨てた。そして追いやるにみな鼻ヅラを撫でて宥《いたわ》り放つふうだった。こんな中であったが冗談に「達者で暮らせよ」と、尻を打ッてやった者もある。だが馬も跛行《びっこ》をひいて駈け下りて行ったとおもうと、すぐ草むらに仆れ、そのまま起ち上がらないものもあった。 「…………」  愁然と、それへ一顧《いっこ》の憐《あわ》れみを送っているもあり、また「はや身軽」と勢いづいて登って行く者もある。すると、その先頭でとつぜん大きな声があった。「敵だッ!」と下へ教える。山上にはすでに斯波《しば》高経の山手隊の一部がいてそこを占領していたのである。彼らは矢ごろを待ちすまし、急に一《いっ》せい射撃に出たものだった。  だ、だ、だッ、と正成、正季以下みな一団に白い土砂《どしゃ》ぼこりを揚げて駈けまろんだ。――射程距離からはすぐ脱しえた。――とはいえ一方の直義《ただよし》軍も大きな扇開《せんかい》の形を見せつつその一端はもう湊川の下流《しも》にまで到《いた》っている。  湊川は、いわゆる旧湊川で現在のよりはずッと東を流れていた。そして水は細く太く幾すじにも岐《わか》れ、河原は渺《びょう》として広かった。 「や、や、兄者《あにじゃ》。生田の方からもまた、これへ向ってくる一勢がありますぞ」 「あるな……」正成も見た。そして笑った。「いくらあっても同じこと。察するに、宝満寺のけむりを望み、尊氏の一大事ぞと、あわてて馳《は》せつけて来た細川定禅の一手であろう。正季」 「はっ」 「山手へ落ちよう。まだ山の手は敵も手薄」  河原づたいに、湊川を、流れとは逆に、 「北へ、北へ」  と、言い交わしてあるいた。  かえりみれば、七、八十人。一群の迷い鳥が尾羽を吹かれて行くに似ていた。  それはもうまったく無力同様な群れとみてか、水を渡るとき、会下山をかけおりて来た斯波隊の二、三百騎が横から挑《いど》みかかッて行った。  しかし、ひとたび菊水兵の結束に触《さわ》ると、一体一心の七、八十人は山谺《やまこだま》も呼ぶ吠えをなして、猛然、死力の奮いを示し、さしも功に逸《はや》る大勢な武者輩《むしゃばら》も、例外なしに、死神の翼の下から逃げ惑うて逃げ散るか、でなければ、水や河原の草を紅《くれない》にした。  だが、いぶかしいのは、これらの小うるさい小隊の追躡《ついしょう》ではなく、もっと目に余る、そして遠くにある、大軍のうごきだった。なぜか、じりじりとその遠巻きを圧縮して来てはいるが、俄に、近づいて来るふうでもない。  なぜ、足利勢は寄って来ようとしないのか。  恐れているのか。  いや完璧に我を遠巻きにし終っているあの大軍だ。なにか軍令による一致であるにちがいない。  正成は覚《さと》った。  それこそ、尊氏が示威と宣言以外のものではあるまいことを、である。  どこかにいる尊氏が、自己の全将士へ令して、 「正成には、もはや軍のすがたはない。からくも一族数十名が、さいごの死所を捜し歩いているにすぎず、今や袋の中の鼠も同じものだ。せめて死に場所を得させてやれ。無下《むげ》に彼らの首を争わず、ただその自滅を静かに見とどけておればよい」  と、している結果ではあるまいか。  正成は思う。敵はわざと自分らに時を仮《か》して、いかに死ぬかの、自滅を見物せんとしているのだろう。――きょうの合戦では、たえず尊氏の胸に、正成が在《あ》ったように、正成の胸にも、尊氏が在った。  いつか、同勢は湊川の川原をはなれ、北の山壁を望みながら、道も登りへかかっていた。  途中、正季《まさすえ》は敵の捨てた折れ弓を見つけて、 「たれか、あれを拾うて、兄上へ差上げい。おくるしそうだ。弓杖《ゆんづえ》にして行かれるといい」  と、言った。  ここへ来ては金剛千早の日の古傷《ふるきず》もあわせて痛んでいたかもしれない。正成はさっきからすでに跛行《びっこ》を曳いていたのである。で、弓杖を持つといくぶん姿勢を直してほっと先頭で一ト息していた。すると、かたわらの灌木帯《かんぼくたい》のうちから、とつぜん、躍り出した男がある。鉢金《はちがね》だけの素兜《すかぶと》に腹巻をしめた軽捷な敵だった。――すわっと周囲の者は正成を庇《かば》ッて一せいに立ち向いかけたが、それいぜんに、その者は地へ坐って両手をつかえ、 「しばらく! しばらくおとどまりを。それがしはこの春、河内へおたずね申しあげた者。あの折の右馬介と申す者。暫時《ざんじ》、河内殿へ……拝顔のおゆるしを」  と、絶叫に近い声で周囲の血相へ訴えていた。 「おう……」正成は、すぐ前へ出て「それよ。そちは過ぐる頃、尊氏の使いとしてみえた、密使の男だの」 「されば、その一色右馬介でございまする。ふたたび、主君尊氏の意をおびて今日《こんにち》、これへまいりました」 「この期《ご》に何を」 「ついに、事、かくのごとくには成り果てましたが、主君尊氏には、なお、まいちど楠木殿のお胸をただしまいれと、あくまで、過ぐる日の密使のお旨《むね》を、おあきらめではございませぬ。御未練《ごみれん》なのです。……すでにあなた様にも、かくまで御本分を遂《と》げられたこと。翻然《ほんねん》と、あのさいの条件もそのまま、ここで御受諾はいただけませぬか」 「降伏せいとの旨か」 「まずは」 「はて。不思議な使いを受けるものかな。正成においても、まずはあの時申したことば以外に何も答えは持ちあわさん。疾《と》う疾う、立ち去って、尊氏へ申されよ。好意は謝すが、正成のいまは、すこぶる本懐、なんの御斟酌《ごしんしゃく》にはおよび申さぬ、と」 「いや、決して」  と、介《すけ》はなお、懸命になって、正成を説《と》いた。 「主君尊氏は、ただの降伏をあなた様へ強《し》いるわけではありません。またその御信念をかるく見るのでもございません。ただ楠木殿というお人を惜しむの余りです。なにとぞ」  と、彼はまたも手をつかえ直した。それを見ても、彼が尊氏から受けて来た“最後の命《めい》”のいかに厚く真実なものであるかは疑う余地もなく分る。 「……主君尊氏は申します。きょうのことは早やきょうの合戦で定まった。しかし、世の治《おさま》りはなお容易でない。楠木殿のようなお人こそ、ぜひ、明日《あす》の国事には必要なのだ。死なせてならぬお人なのだ、と」 「かたじけない」  と、正成は笑った。 「だが名分はどうあれ、それは正成が尊氏へ降伏したものとなることに変りはない。現朝廷を破却し奉り、我意を以て、ほかの皇《きみ》を立てんとする大逆人に何で正成が同調しようか。さほどにみずからの非を知るなれば、ただちに全兵力を解いて、尊氏自身、都へのぼり、みかどの闕下《けっか》に伏して罪を待てと申されい」 「では、どうありましても」 「おろかな念入れだ。はや去れ。ここの者はみな気が研《と》げておる。ことばの端でも間違うと、そちの身もあぶなかろうぞ」  正成のいう下から、まわりにいた面々は、槍、刃《やいば》をつきつけて、 「行けッ」 「見くびるな。こやつ」 「いのち欲しさに、いまさら尊氏の尻につくようなわれらではない」  と、物凄く罵《ののし》ッた。 「ああ、ぜひもございませぬ! これ以上はもはや」  介《すけ》は嘆《たん》じた。そして身をひるがえすやいな、湊川の川尻のほうへ逸散《いっさん》に駈け去った。――同時に、彼の姿が、或る一合図を、足利勢のすべてへ告げていたことでもあったか。  それまで鳴りをしずめていた遠巻きの軍が、俄などよめきを揚げてヒタヒタと包囲の輪をちぢめて来るようだった。もちろん、あらためて覚悟を持ち直すほどなこともない。正成たちは、喘《あえ》ぎ喘ぎ、なお石コロ道をのぼって、 「おお、かしこに小さい部落が見える。あれへ籠《こも》って」  と、一せいに駈けこんだ。  そこは安養寺山の背で、附近には楠が多く、俗に楠谷ともよばれている。正成は部落の口で、しばらく東をながめていた。――生田の浜脇《はまわき》から神社の森へかけて展開していた新田義貞の陣も、いまはあとかたなく、敗北の総なだれを、はるか御影《みかげ》の彼方へ没してしまい、あとには、足利勢らしき散兵の動きだけしか望まれなかった。 「義貞は無事に落ちた――」  正成は、そう見とどけていたことであろう。それを一つの戦果とながめて、「これでよし」と、独りうなずいたかのようでもあった。そして、墓場のような部落の内へさしかかると、先に偵察をかねて走り込んだ隅屋《すや》新左、宇佐美正安らが、駈け戻って来て、こう告げた。 「ここはまったく無人の部落、敵の一兵も見えません。そして時宗《じしゅう》の道場にや、住僧もいぬ古びた小寺がございました。おやかたをまん中に、一同で腹を切るには究竟《くっきょう》な場所と、御舎弟さまには、はやそこで、お待ちうけにございまする」  ――そこへ、と、正成はまた歩いた。郎従たちは自分の疲労や深傷《ふかで》は忘れて、跛行《びっこ》をひいて歩く正成の一歩一歩をいたわりつつんだ。それは神に従ってゆく使徒のような信念と静かな眸とにかがやいている一ト群れの血泥に見えた。  道は部落へはいり、墓場みたいな土小屋が両側に見かけられるが、人影はどこにもなく、みなもっと山奥へ逃げかくれてしまったものであろう。軒かたむいた戸《こ》ごとから逃げ惑って行ったらしい嬰児《あかご》のボロ布《き》れやら食器の破片などが、そこらに落ちているのも傷々《いたいた》しく目に沁《し》みて、正成は自分がそれらの加害者であるような罪の意識に問われずにいられなかった。 「ア。おあぶない」  ふと、正成がころびかける。いま死ぬ人、そして同じ運命に就《つ》く自分たちでもあるのに、隅屋《すや》新左や和田正隆は、あわててその両わきを扶《たす》けささえた。部落の横丁から道はゴロタ石をたたんだ石段となっており、上では、正季《まさすえ》が待ち、中院ノ俊秀や矢尾常正らも先に来ていて、 「しばしお待ちを」  と、正成へ告げ、そして正季もこう言った。 「兄者《あにじゃ》、敵はまだ彼方です。この近傍《きんぼう》には見当りません。ごゆるりとお支度あっても、よろしいかと思われます」 「……ここか」  正成は呼吸をやすめた。茅《かや》ぶき屋根の一|宇《う》の堂が前にある。なるほど、村人たちが念仏講に寄りあつまる時宗《じしゅう》の道場でもあろう。門ともいえぬ形ばかりの入口には、大きな柿の木の若葉が繁茂していて、そこらの日蔭の湿地には青白い花屑や萼《がく》がいッぱい散り腐《す》えていた。 「まだか」  と、正季が内へ訊く。 「すみました」  と、兵の声が内でする。  余りに堂は荒れていたので、先に道場の大床を清掃させていたものらしい。正成は弟の用意をうれしく思った。ずっと入って、南面の濡れ縁に立ち、何か安心に似たものを覚えた。  ここに立つと。  海は真正面に、会下山から湊川を右に、東の花隈から御影《みかげ》方面も一望だった。だが、黒い真綿《まわた》のような薄煙の膜《まく》が所々の視野をさえぎり、やや西へ傾きかけた日輪も、それをとおして、あかがねのような、ふしぎな赤さを呈していた。  或る年の、或る月の夜には、ここで念仏講の部落の男女が、鉦《かね》をたたき、経文《きょうもん》を諷《ふう》し、念仏踊りに夜すがら法楽してもいたろうにと、正成は、ここを自分らの死所に借りることの罪深さを痛感した。けれど、一族枕をならべる最期の座として、またとなく、ここは気に入った。ここに如《し》く所《ところ》はないと思った。 「おゆるしを」  と、正成は胸のうちで言った。道場の奥なる貧しい壇《だん》の阿弥陀像《あみだぞう》へまず拝をしていたのである。それを見ると、みな正成に倣《なら》って、下へ坐った。――同勢七十余人、大床《おおゆか》はあらまし、いっぱいだった。――正成はそのまんなかにあぐらを占《し》めた。するともう、折々敵のどよめきが聞えてきた。それは潮の足なみに似、しかも、四面にせまるものだった。 「……あれは?」  と、人々は急に眸をせわしくした。敵の喊声《かんせい》はまだ遠くだが、死ぬのもなかなか心忙《こころせわ》しい風騒《ふうそう》だった。 「正季。われら一族みなここの一堂で自刃の態《てい》と知れば、敵も無下《むげ》に襲《よ》せてはまいるまい。とは思うが、念のためだ、堂の外に、物見を立てよう」 「こころえました」  と、正季はすぐ二、三の者へ命じかけた。すると正成が、 「いや、その物見の者はわしが選ぶ」  と、言い、 「選ばれた者は、決して、異議は申すまじと、誓って欲しい。そしてただちに、床《ゆか》を立て」  と、かさねて言った。 「まず、神宮寺の新判官正房」 「はっ」  正房は、いわれたとおり、すぐ大勢の中から立った。 「安間|了現《りょうげん》」 「おうっ」 「次に、八木ノ入道|法達《ほうたつ》」 「は」 「岸和田ノ弥五郎|治氏《はるうじ》」 「はっ」  人々は怪しみだした。正成はなお指名をつづけ、大床を見まわしては、止まるところもない風なのだ。そして七十余人のうちもう二十名ほどは立たされている。立って茫然たる面《おも》もちだった。――なぜこんなにも、多くが物見に必要なのかと、ついに、八木ノ入道が質《ただ》しかけた。  正成はその質問も無視してなお二、三の指名をつづけ、初めて答えた。 「――以上の面々は、外に出て、敵が近づいたら、命を保《たも》って、ただちにここを退散いたせ。そしておのが国々へ落ちのびて行くがいい」 「こは、何事かと思えば」  と、指名された面々は、くちおしげに、立ったまま、その姿を、辱のように、言い哮《たけ》ッた。 「あまりな仰せつけです。われらをば、命を惜しむ意気地なしと、おさげすみか、はたまた、お憐《あわ》れみか、いずれにしろ心外至極ッ。おやかた初め、ご一族枕をならべての御自害をあとに、なんでおめおめ生きてふるさとに帰れましょうや」 「ま、おちつけ。初めに誓ッてくれと申しておいた、決して異議は申すまじ、と。……異議を立てる者は、たとえ正成のそばで死のうと、今生《こんじょう》未来、正成と共に在《あ》る者ではないぞ。いま名ざした面々は、それぞれ国に多くの老若を抱えている者、またはここに再起の望みなき深傷《ふかで》の子息や兄弟をのこしておる者、いずれにもあれ、正成の眼で、死ぬにおよばず、なお長らえ、あとを嘱《しょく》したい者ばかりなのだ。……そちたちが、生きてすることはなお果てなく多かろう。落ちてくれい。さあれ、途中の難もはかり知れぬが、生きるかぎり生きのびて、ふるさとの後図《こうと》のために余生を尽せ」 「…………」 「命じる!」  次の一|喝《かつ》に、人々は耳を打たれた。正成の声とも思われぬほどそれは大きな音声《おんじょう》だった。 「敵の大軍は、まもなくここの部落へ乱れ込もう。落ちてゆく道は谷ぶところ[#「ぶところ」に傍点]より山を這うて布引《ぬのびき》ノ滝へ出る一路しかあるまいぞ。はやく出ろ、ここを去れッ。正成の最期をさまたげるな。正成に心しずかな死を遂げさせい」  なお、何かさけび、なおまだ、死の執念に膠着《こうちゃく》して、うごきもしない者たちへ、 「ならんッ」  と、正季《まさすえ》もまた、どなった。 「おいいつけに反《そむ》くか。おことばは軍令だ。以上、お名ざしの面々は、寸時もここにいてはならん。ご最期のさまたげをするな。さ、出ろ出ろ」  と、押し出すように大床《おおゆか》の外へ追いやった。  一瞬は、生木《なまき》の裂かれるような声々だった。しかし、うむをいわせず、堂外へ追いやられた“除外組”の二十余人も、やがては観念して物見についたことらしい。ほどなく裏手の崖から屋根ごしに、大声で内へ急を告げているのが聞えた。 「はや、敵の先手は、部落のそとまで、近々と迫り寄っておりますぞ!」 「いや、それは先手の騎馬、部落の口を、西ひがしへ、駈けちごうているだけのこと!」 「こちらに計りあるものと恐れてか、べつに、忍び忍び、這い近づいて来るわずかな兵が見えるばかり……」 「火の手は、部落はずれの一軒家が、いま煙をあげた様子」 「しかしやや遠くは、物々し大軍です。生田の上から、湊川のかみに至るまで、およそ二万ぐらい、雲霞《うんか》のようにここを遠巻きに、徐々、近づきつつありまする!」  やがて、それらの声も、ぷつんと断《き》れた。  シュシュッと、同時に、矢うなりの響きがどこかを走ッてゆく。堂の屋根や附近に矢が突きささッたようでもあった。これはどこか、物見の目もとどかぬ至近距離にまで、敵の兵がすでに潜《くぐ》り込んできた証拠と、誰の肌にも突き刺さるような感があった。 「正季、あれを見い。何とも赤い日輪だなあ」 「まこと」 「静かだ、じつに静か」 「ふしぎです、敵の大軍が、なぜこんなにも、念入りな大事をとって、攻めかかって来ないのか」 「網の中の魚だ、しかも大魚と、たのしんでいるのかもしれぬ、敵はな」 「尊氏でしょう、這奴《しゃつ》の嗜虐《しぎゃく》、やりおりそうなことではあります」 「いや、敵の腹はどうあるとも、末期《まつご》に、このゆとりをえたのはありがたい。見おさめの落日《らくじつ》も心しずかに眺められる」 「兄者《あにじゃ》! ……」と、正季は突《とつ》として何かに胸をつかれたらしく。「長いあいだ、わがままを申しました。かくのごとき末路《まつろ》へお誘いいたしたのも、私のせいだったかもしれません。血気、やむにやまれぬ我武者《がむしゃ》の私の」 「ばかな」  冷たいほどな正成の唇もとだった。 「かほどな大事、たれに引かれてするものぞ。正成をしてこうさせたものがあるとすれば、それは正成が生れると共に身のうちに持たせられていたものだ。そちのいう、やむにやまれぬものだった。けれどこの国に生れ、いささか、この国に報いえた生とすれば、惜しくはない。……いや、時移してはいられまい。正季、一|蓮《れん》同行《どうぎょう》の輩《ともがら》、ここに在《あ》るは何人か」 「五十一名にございまする」  見わたしながらそう答えた。どの顔も、静かであった。余りにも澄みきって、非情にすら見える面色が一様に覚悟のていで居流れていた。 「五十一名か」  その一人一人を、正成は傷《いた》ましげに眺めやった。もったいないと、心でおがむかのような眸だった。 「可惜《あたら》、よき世に生れ合せていたら、みなひとかどの男、子にも妻にも祝福されていたろうものを」  どこかで、蜩《ひぐらし》が啼く。  部落を包む数万の敵も、ここの大床《おおゆか》にも人はないかのようだった。しいんと張りつめた板敷きに五十一人の膝が二列に並び、そのあたりへ、申《さる》ノ刻《こく》(午後四時)ごろの薄ら陽《び》がななめにさして、それがなお血曼陀羅《ちまんだら》のような色光を加えていた。 「ここだけではない。今朝から正成の旗のもとに死なせた者数百人、金剛千早の日からかぞえれば、さらに数千」  それらの無数な精霊《しょうりょう》に内心で直面するとき、正成はいつもそそけ立ッた面《おも》もちになる。ひとりの犠牲も無《む》にしてはと詫びるのらしい。そして彼の手は具足の緒《お》を解き、おもむろに腹巻を脱いで横においていた。 「はや、ご用意ぞ」  と、知った人々は、思い思いに、坐り直した。或る者は、対《むか》い合った。刺し交《ちが》えを気組んで刀のさやを払った。  正季もまた、腹巻を解いて、手に短刀を抜く。そして兄の顔を横に見た。今生《こんじょう》の別辞から今日までの思い出が、微かに笑うかとも見えるその顔の中にあった。 「兄者、おさきに!」 「急ぐな、正季」  正成はまだ迫られている容子でもなかった。ゆったりと死寸前の心を心のうちで遊ばせているかのようにさえみえる。 「こころみに訊きたい」 「なにをです」 「人が死すときの一念はあとにひくものとか聞いておる。正季はいま何を思うか」 「なにも思い残しはありません。ですがただ一つ、次の世も、いや七生までも生れかわッて、国にあだなす逆賊を撃たんものとはぞんじます」 「七生人間にか、七生鬼にか」 「はい、鬼となっても! 兄者のお望みは」 「輪廻《りんね》がくりかえすものならば、わしも七たびでも人間の子に生れたいが、鬼にはなれぬ。願いはそちとかわらぬが」 「悲願と悲願、どこがどうちがうのです」 「家の小庭には花を作り、外には戦のない世を眺めたい。七生、土をかつぎ、土をたがやす、土民の端くれであってもよい。衆の中に衆和をよんで、土かつぎも幾百年の積もりをなせば、やがては浄土を築《きず》きえようか。あわれ、仏から見れば罪深い業《ごう》の子だろうが」 「そんな未来、しょせん夢ですっ。兄者の夢だ」 「夢でもあれ、祈らずにいられない。正成正季の白骨も、これまでに死なせた敵味方の万骨も、祈りの供物《くもつ》に天地《あめつち》へささげる! 正季、また一同も、天地《あめつち》へ祈れっ。みかどのおわす都の空へもそれを祈ろう。ひとつ同胞《はらから》、あらそいなき世を創《つく》らせ給え。ふたたびこの国の山野にあえなき無数の白骨を哭《な》かしめ給うことなかれと」  言い終らぬうちであった。堂のうしろでふいに、すさまじい人声がし、あきらかに敵と察しられる怒濤《どとう》が屋《おく》を揺すっていた。  すでに部落内へも、水の浸《し》み入るように、足利方の武者が潜入して来ていたにちがいない。  チラと――  敵の顔が、堂のすぐそばにみえた。で、裏手の崖《がけ》に伏して見張っていた“落ちのび組”の和泉ノ助康、安間了現、八木ノ入道|法達《ほうたつ》らは、 「すわ、来ているッ」 「敵だッ、敵が」  と、堂内の人々へ急を告げ、同時に、附近いったい屈《かが》まっていた敵人もまた、 「それっ」  と、すべて姿をあらわし、一せいに寺門や垣を蹴やぶッて、内へ突入しかけたものだった。  これを見ては、「ここにいるな、はやく落ちよ」と正成に叱られて堂外へ出ていた面々も、やわかとなって、この一宇の屋根をうしろに立ち退く気にはなれなかった。今生《こんじょう》これきりの感を声にふりしぼって、 「おやかたさまっ」 「龍泉《りゅうせん》どの」 「ご一同、ご一同ッ」  と、堂内へ呼びかけながら、急に敵を滅茶苦茶に薙《な》ぎはじめた。斬る、突く、そんな尋常一様なぶつかり方ではない。無数な小旋風《こつむじ》が人間を吹き転《ころ》がして、堂のぐるりを駈けめぐり、そして堂内の人々がしずかに果す自決の一瞬《ひととき》を必死に守りぬいていたのであった。  するうちに、もくっと、堂のうちから一条の煙がひさしを越えた。煙はすぐいちめんにひろがり、八木ノ入道法達が泣き声に近い声でさけんだ。 「おすましなされた。おやかたさま以下、はや、ご自決をおとげなされたもようだぞ!」  同時に、この煙は、敵の大軍勢をもさしまねいていた。須臾《しゅゆ》のまに、部落内は混み入って来た兵馬で揺れあい、渦まく吠《ほ》えの下からは、足利方でもゆゆしげな武将ばら[#「ばら」に傍点]が、はや先を争ッて、時宗《じしゅう》堂の屋根を目ざしてくる。――いまは何かせん、である。八木法達、安間了現ら二十余名は、正成みずからがして遂《と》げた荼毘《だび》の煙をあとに、北の谷ぶところへ逸散に駈けおりた。そして岩壁をよじ、山の背をつたい、布引ノ滝の方面へ落ちて行った。  いやこのばあい、それらはもう足利方でも重要視はしていなかった。要は楠木|左衛門尉《さえもんのじょう》正成の死一つの確認にある。その正成は決してここを出ていず、一族数十名と共に自刃したものとはすでにみとめられていた。けれどその首級《しるし》をあげて、尊氏へ、また世上へ、示すのでなければ、なおまだ公《おおやけ》な認証とはなりえない。  打物取って打ち合っての大将首ではないけれど、さしも正成の首である。襲《よ》せてきた武将ばら[#「ばら」に傍点]は、たとえ自決後の首にせよと、みな獲《え》たい心理にかられた。それをひッさげて、尊氏の君前へ実検にそなえる栄だけでも、武門|冥加《みょうが》、ほまれだとするらしい、争いだった。  だがもう内の大床《おおゆか》は黒煙をこめ、血か炎か、ピラピラ赤いものが眼を射るだけである。そしてわれがちに内へ躍り込んで行った面々も、みな咳声《しわぶき》にむせ返ってしまい「――火を消せ。火を消すのが先だッ」とばかり、あらまし濡れ縁から外へとびおり、むらがる兵を督《とく》しはじめた。  消火は早かった。なにしろ、兵の数と力である。火勢はおとろえ、黒煙もすぐ薄らいだ。 「よしっ、よかろう!」  待ちかねて、一人の将は、まっ先に堂内へ入って行った。高《こう》ノ豊前守(師久《もろひさ》)らしい。つづいて赤松円心や細川定禅らの家来もわらわらッと争ッて内へ飛び上がった。 「…………」  だが、彼らは、そこに立つやただ凝然《ぎょうぜん》と、大床の紅《くれない》に身も痺《しび》れ心もまったく打たれてしまった。  自刃していた幾十体の亡骸《なきがら》はすべて二列となってその列を乱しもせずにうっぷしていた。多くは割腹したていである。が、なかには刺しちがえて相擁《あいよう》すかのごとき形でことぎれているのもあり、悽惨、目もくらむばかりだが、しかしその一個一個は、自己を国に捧《ささ》げてくやまぬ犠牲の巌《いわ》のような死に徹している死顔を持ち、その血を以て、祈りを床に遺書しているような姿であった。 「……敵ながら」  師久が、つい、呟くと、 「みごとだ!」  と、他の諸将も、叫ばずにいられないような実感をこめて、大きくうめいた。 「すべてで、何人?」 「袖名をしらべて、書き上げよう。袖名の無い者は持物をみれば分る」 「が、まず正成は」 「そうだ、正成は」 「や、や。正成らしき者はこのなかに見えませぬぞ」 「何の、そんなはずがあろうか」 「でも、ここには弟正季が見事割腹いたしておるに、そばの一座はあいておる。血しおのあとだけで屍《かばね》はない」  諸将は騒ぎだした。ゆゆしいことである。責任上の狼狽だった。けれど理由はすぐわかった。消火中に兵の二、三が目撃したというのである。それはまだ堂内が黒煙|濛々《もうもう》のうちだったという。どこからか飛びこんで来た尾張殿(高《こう》ノ師業《もろなり》)が、たしかに、一個のなきがらを横ざまに引っかかえて、火の中を裏口からそとへ駈け出して行かれた。おそらくそれではないでしょうか、というのであった。  師久は、聞くと、 「すばやい、尾張殿」  と、舌を巻いたふうであったが、急にあとを諸将の処置にまかせて、馬にとびのり、部落の西へさして駈けて行った。  彼は師泰《もろやす》の子であり、師直《もろなお》の子の師業《もろなり》と共に下御所《しもごしょ》(直義)の手についていた。ところが今朝からその下御所の令には、正成の首は面目にかけてもわれらの手で挙《あ》げよという厳命だった。――つまり師業《もろなり》は忠実にそれを奉じたものだろう。師久《もろひさ》は、従兄弟《いとこ》にしてやられたとは思ったが、相手が赤松や細川ではなし、一族なので、くやしくはなかった。  すでに、下御所の陣地では、彼がそこへ行ってみると、直義《ただよし》はその師業と共に、正成の首級をたずさえて、尊氏の本営へ出向いたというあとであった。  そしてまた、尊氏の営《えい》は、さきの宝満寺を引きはらって、はやくも、逆瀬川の川尻のひがし、魚見堂へ、その本営を移したということでもある。 [#3字下げ]霧の中[#「霧の中」は中見出し]  そこはいま、無事平穏なこと、颱風の目のようだったが、じつは全風速圏《ぜんふうそくけん》の求心点といってよい。  尊氏のいる所であった。 「いくさも、はやそこそこか」  と観《み》た、見とおしのもとに、彼はこの魚見堂へ、本営をすすめていた。――逆瀬川《さかせがわ》と湊川の口が大きく海へくびれを作《な》し、附近の低い砂丘や小松ばらが、彼の床几場《しょうぎば》をかこっている。そしてすでに、きょうの天下分け目のたたかいを、その姿は、 「しすましたり!」  と、しているふうであった。また彼の多感が、彼の内に、しきりな感慨を誘っているもののようでもある。  とくに、ついさっき、右馬介がこれへ来て、その報告により、正成との最後交渉も切れたことを知ってからは、いちばい無口な表情をこわめていた。 「よしっ、それまで!」  と、そのとき、彼は語気つよく介《すけ》へ言い放った。猪口才《ちょこざい》なと、腹のそこから怒ッたとすら聞えるほどな語気だった。  が、そのあとは、なにか愉《たの》しまぬ色だった。かぶとを脱ぎ、汗などふいた。そして、ふたたびかぶとはかぶらず、汐焦《しおや》けした汗塩の面を、夕陽が射るままにさらしていた。  まもなく、前線の仁木義長から、かなりくわしい戦況がこれへとどいた。  さきに、生田方面でやぶれ去った敵将の義貞は、御影《みかげ》の求女《もとめ》塚にふみとどまッて、脇屋義助そのほかと共に、いちどはずいぶん烈しい反転をみせ、さすが新田党らしい死力も再三ふるッて来たが、多くはすでに戦意を失っており、義貞もついに、山崎街道をたどって、ひた走りに、都へさして逃げ落ちて行き、味方はすかさずそれを追撃中にある――ということの詳報だった。  こう急速とは、尊氏にも、予想外であったらしい。  彼は一将をえらんで、 「義貞が都へ逃げ入ったものなら逃げ入ったでいい。彼を追う騎虎《きこ》の勢いで、都へなだれ入ってはならん。山崎、芥川より先へは進み出るなと制しておけ」  と、すぐ軍命を持たせて、追撃中の味方へ、追ッかけの急使を派した。  そのころ、西陽はようやくうすれかけていた。――今朝の十時からいま午後五時ごろ――野に山に海に、まったく、たたかいは止み、あの阿鼻叫喚《あびきょうかん》は、どこへ掻き消えたか、そしてどこから来るのやら、冷ややかな夕風が、妙にうらがなしい薄暮をあたりへただよわせはじめていた。  そのとき、わらわらっと二、三名の将が、尊氏の床几《しょうぎ》へ来て、こう告げた。 「ただいま、正成の首級をおたずさえあって、下御所《しもごしょ》(直義)さまと、高ノ師業《もろなり》、師久《もろひさ》の両名が、御営門までおみえにござりますが」 「正成の」 「はい」 「首級を挙げて来たのか」 「そのよしにございまする。御実検は魚見堂の内でなされますか、それとも、ただちに御床几の下《もと》に持参いたしましょうやとのおたずねですが」 「そうか」  と、尊氏は、あらためて、自分へ言ってきかせるように呟いた。しかし、きっとなって。 「内へと申せ。実検は、魚見堂の内でしよう」  尊氏は、やがて魚見堂の方へあるいた。  そこも屋内ではない。  堂外の坪に幕《とばり》をめぐらした営中というだけのもの。すでに直義《ただよし》はそこへ来ていた。高《こう》ノ師業《もろなり》、師久をうしろにおき、尊氏の姿をみると、片手づかえに、こころもち頭をさげた。 「…………」  尊氏につづいて、大高《たいこう》伊予、桃井修理、佐竹|義敦《よしあつ》、また近侍の石堂十馬、畠山五郎、仁木|於義丸《おぎまる》なども、床几の左右にずらりと居ならぶ。――あたりはもうほの青い夕だった。だが、残照の雲は空のどこかをいつまで紅くただらしていた。 「さだめし」  と、直義がすぐ口をひらく。 「吉左右《きっそう》、おまちかねのこととぞんじて、とりあえず、正成の首級のみ、即刻、これに持参いたしました。……まずは、御実検を」 「見よう」  尊氏は、言ったが。 「ま、最期のもようから詳しく話せ。自刃か、それとも、なん人《びと》かが討ち取ったのか」 「いや、御命令にもとづいて、徐々に追いつめ、そのすえ、正成以下五十名は山手の一村にたてこもり、一堂の内に枕をならべて、みな自刃し果てたものにござりまする」 「そうか。……ならば正成も死所を得て満足したろう」 「いかがかは存じませぬが」 「さむらいの本懐《ほんかい》だ。ほかは?」 「同時に、建物へ火をかけて、刃《やいば》に伏したことなので、これなる師業《もろなり》が、正成の遺体を、そとへ取出すのもやっとであったような次第。……詳しくは、追ッつけすぐ、赤松や細川が、御報告にまかるものとぞんじます」  直義《ただよし》は、首包みを抱いて、すこし前へ進み出た。  重《おも》たそうに、下へ置く。  戦陣|匆忙《そうぼう》のさいだ。首は武者の母衣《ほろ》で包まれ、血糊《のり》がにじみ出している。  それを解いて、直義は右手で首のもとどりをつかみ、左の手を母衣の下へさし入れた。そして、片膝立ての体をななめ構えに、首級をささげ、屹《きっ》と、尊氏の熟視に供《そな》えた。 「…………」  尊氏は、見た。  息をつめている。そして、ひらいていた床几の膝も小さくすぼめ、両の手はただしく膝においていた。顔にはなんの感情の色ものぼっていない。無常感、それでもないようだ。ただマジマジと見入りながら、もう一言も交わすことのできない物質にたいして、何か、味気ない空しさでも抱いてるような彼に見える。  生前、しばしば会うことはあっても、親しい往来などは、ついぞなかった正成との仲だった。そのせいの無表情なのか。  それにしても、これほどな戦果を、これほどな名誉の首を、何と御覧あっているのか? 御満悦《ごまんえつ》ではないのだろうか? 直義もそうだったが、ほかの面々も、みな、尊氏の口もとばかり見つめていた。 「むむ! よい」  やっと、尊氏はうなずき終った。そして、 「こよいは、ここに置け。なおまた、白木の首台を設《しつら》えさせて、ていねいにいたしておけよ」  と、言いたした。  しかしそれからは、いつもと変らない尊氏だった。  やがてぞくぞくとこれへ見えた斯波《しば》、細川、赤松、高《こう》などの諸将をねぎらい、また細かい報告も聞き、とりあえず、宵には堂の内で、諸将と共に戦捷の乾杯をあげた。そして同夜、直義にはまた新たな軍命をさずけて、その場から前線の山崎へ、先発させた。  直義が山崎へ立って行ったのは、夜半近い。  とすれば、はや夜明け前か。  尊氏はふと目をさますなりその直義の顔をまぶたに持った。立ちぎわに、いやな気色が見えていたからだった。  あとで弟の身になって思ってみるとむりはない。  九州いらい、陸上軍の全責任をもたせて、山陽道を攻めのぼらせ、息つくひまもなく、きのう一日じゅうの大戦だった。――だのに一夜の休息も与えず、またすぐ山崎へ急行させたのだ。 「ひどい!」  と、恨んだに違いない。  しかし、義貞を追ッかけて行った味方が、騎虎《きこ》にまかせて都へ乱入などしたら始末におえぬ。先に、制止はしておいたが、一将の伝令などでは統御《とうぎょ》がつくまい。  それの心配からだった。 「それにしろ……」  と、尊氏は、愚痴なほど、独りくやんだ。なぜもっと、いたわってやらなかったか。  直義の軍功は、またその心労は、抜群である。一族、どんな将であろうと、彼が兄の自分につくしてくれた誠実と献身には遠く及ばない。――きのうの楠木攻めの処置にしてもよく自分の軍命を守って、正成の首級をも、大事にこれへもたらして来た。  だのに、出来《でか》したとも、あの折、言ってやらなかった。もし直義でないほかの将だったら、大いに、型のごとき賞《ほ》め言葉も出たのであろうが、弟にはついそんなことなど、いわなくても分っているだろうですませてしまう癖がある。――おれの癖だ。――尊氏は独りしばしばこんなくやみを胸では喞《かこ》つ。  ところで。  弟へのそんな表面の素気《そっけ》なさにひきかえて、彼は、正成の死にたいしては、味方の諸将もあやしむほどな鄭重さをもってあつかわせた。すでに昨夜のうち、白木の首台を設《しつら》えさせて、自分の幕舎のうちに祀《まつ》るがごとく据《す》えさせておく始末であった。直義からそれをいわせれば、このように味方といわず敵といわず、兄は他人にはじつにいい人だ、寛大さも、愚かといっていいほどだと、その情に添うよりは、その底なしの凡情ぶりを杞憂《きゆう》するにちがいなかった。  同じ感は、諸将にもあった。  今暁もである。 「大殿は」  と、彼らが、朝の伺候《しこう》に、魚見堂の内へ集《つど》って来ると、尊氏はすでに、暗いうちから外の幕舎《ばくしゃ》に出ているという。行ってみると、彼は、うすい白紗《しろしゃ》をかけた正成の首の台と対《むか》いあって、黙想していた。生前、尽しえなかったものを、死者と語り合ってでもいるかのように、ひとり床几にかけていた。  だが、一同の朝礼をうけて、朝の光の中へ立ち出ると、彼はいつもの尊氏だった。いや一ぱいな威と光彩を加えた戦捷の人、明日の大将軍その人ですらあった。  そして今朝第一の令は、 「真光寺の僧に命じて、正成の遺骸と、ほか五十体の一族とを、ねんごろに葬《とむら》わせよ」  と、いうことと、また、 「とは申せ、軍紀はまげられん。正成の首は、湊川の河原に梟《か》けろ。首札《くびふだ》は特に、この尊氏が自身で書く」  とも、言っていた。  その日、湊川の川原に、首札が立った。正成の首も曝《さら》されたはずではある。  だが、その実物を目撃した者はほとんどすくなかった。なぜなら、まもなく、たくさんな僧侶がここに立って、読経をあげ、首はていねいに首桶《くびおけ》に処理して、近くの真光寺の内へ捧《ささ》げて行ってしまったからだ。  尊氏の命で、僧所では同日、正成以下楠木一族の供養がいとなまれていた。もちろん施主《せしゅ》の尊氏もこれに臨んでいたことはいうまでもあるまい。のみならず、彼は供養が終ったあとで、 「介《すけ》……。そちならではだ。まいちど、河内へ行ってくれい」  と、寺の一室で、右馬介へこう託していた。 「つらい使いではあろうが、正成の首級を遺族の者へとどけてやって欲しい。ことばは何もいらぬ。ただ尊氏の意が通じればそれでよい。あとの所領やら今後の迷いに、遺族たちもひそかな安堵《あんど》はするであろう」 「かしこまりました」  介は、どうしてなのか、涙がこぼれた。  わけもなく、彼には、さむらいという者の住む世界が、儚《はかな》く、哀《かな》しくなってきた。それを、無常というだけには複雑すぎる。 「どうした? 介」 「はい。いや、おわらい下さいまし、ただ余りに、おなさけがありがたくて、つい」  介は、横を向いて、顔をこすッた。  この主君に、彼は十代の幼いときからつかえてきた。敵側の者は大逆無道の人といったりするが、そもそも、地蔵尊《じぞうそん》の申し子みたいなお方なのだ。けれど、この君へも、いつまで時が幸《さいわ》いしてゆくだろうか。弓矢の人には、朝《あした》がそのままの夕でない。正成ほどな徳のあるひとすらかくの如しである。……現に、なんらの恩怨《おんえん》なく、憎しみ合ってもいぬ正成とさえ、この決闘を否みなくさせられたではないか。……ああ、武門、ああ、さむらい。右馬介は、正直、つらいお使いをうけたまわったものかなと思った。いつになく気がみだれた。  あくる日である。まだ暗い未明のうち、彼は、ひそかに河内へ立った。  首桶の内の物は、夏なのでくさらぬように、前夜、細心なふせぎをほどこし、それは馬の前輪《まえわ》に結いつけて、あじろ笠、法衣《ころも》姿の馬の背だった。あたまは、きれいに剃髪《ていはつ》しており、それもこんどは、仮《かり》でなく、真光寺の内で得度《とくど》をうけていたのである。 「……はからずも、蓮生坊《れんしょうぼう》のこころがわかった」  彼は、道すがら、つぶやいた。遠いむかしの、熊谷蓮生坊の発心《ほっしん》と、その生涯も、きわめて自然に考えられる。だが彼には、心のあてとする法然《ほうねん》の門はなかった。さしあたってのつらいお使いをすませたあとの身の処置はどうしたものか、そこはまだ考えてもいなかった。  おなじ日、尊氏は、兵庫の全軍を再編成して、魚見堂を立ち、いよいよ、都へむかって進発していた。直義《ただよし》とは、山崎でおちあった。――都入りのこまかな軍議をとげたのである。――そのうえで、直義らの洛中攻めは、二十九日から開始され、尊氏は本陣を、八幡《やわた》の男山《おとこやま》の上においた。或る重大なものを、尊氏は八幡で待っていたものだった。  義貞、やぶれ終《おわ》んぬ――  王軍みな逃げ帰る――  等、々、々。朝廷はおどろきに打ちひしがれた。  震駭《しんがい》、狼狽《ろうばい》、喪神《そうしん》  どういっても、あらわしたりないほどだった。  さきに、正成が主上へなした献言を笑って、 「王師《おうし》に天命あり、よろしく外に防げ」  などと型にはまった豪語を吐いて、それがいかにも忠誠の熱意であるかのごとく肩をいからせていた側近の輩《やから》からして、足も地につかず、顔色もない。はやくも、内侍所《ないしどころ》や玉璽《ぎょくじ》を移して、ふたたび、主上を叡山へ渡御《とぎょ》しまいらすことであたまも智恵もいっぱいだった。また、いまとなっては、どう義貞を譴責《けんせき》してみたところで始まらない。  その日にしては、ここはなんたる静けさだろう。青い湖の底のようである。宣政門院《せんせいもんいん》の御所は、こんもりとした森のうちなので、昼でも、昼ほととぎすが聞かれるのだった。 「では、あなたも、すぐ叡山へお帰りにならねばなりませぬか」 「……どうもしかたがありません。もう、こんりんざい、弓矢は手にせず、一|沙門《しゃもん》の生涯を、みほとけと和歌の道にと、そうお願いして、父の皇《きみ》からもみゆるしを給わっていたのですが、こうなりましては」 「ほんに、どうしたらよい世なのでしょう。世の中を恨むべきではない、人間というこの魔性の者をみずから裁《さば》けと、あなたはさっき仰っしゃったけれど」 「それが、どうにも、できないんです、ことばではいってみても。……きょうもこれへ伺うまでは、宮中にいたのですが、人々の狂癲《きょうてん》ぶりをみるにつけ、あさましいとも嘆《なげ》かわしいとも、いいようがありません」 「そして、主上のご動座《どうざ》は、今夕ですか」 「ええ、お密《ひそ》かに、御車《みくるま》で皇居を出られ、途中で輿《こし》にお乗り換えあって、叡山へ、というお手順とか。いずれお姉宮へも、武者どもが輿を持ッて、お迎えにやってまいりましょう」 「でもまだ、こちらへは、なんのお知らせも来ておりませぬ」 「いきなりですよ。どうして、公卿たちにそんな道すじを踏《ふ》んでいる余裕などあるものですか」 「……では、いやおうなく、私も」 「はや、おしたくなされませ。せめて、離しともないお持物だけでも身に持って」  客の僧は、後醍醐の御子《みこ》、尊澄《そんちょう》(宗良《むねなが》親王)であった。すがすがと、痩せてお若く、和歌のおすきな、あの法親王なのである。  叡山《やま》を降りて、数日、宮中にあるうちに、この騒ぎに出会ったものだった。すわと、胸をつぶされて、すぐ山へ立帰ろうと思ったが、気にかかる姉宮の宣政門院《せんせいもんいん》をおもいだして、これへ立ち寄り、つい嘆《なげ》きのあまり、来《こ》し方《かた》、ゆく末《すえ》のことなど話しこんでいたのであった。 「……ああ、細かい雨が」 「降ってきましたか」 「折も折に」  小雨を知ると、ほととぎすは、池水の彼方で一そう啼き声をたかめだした。尊澄は、暮れぬうちにと、姉宮の門を辞して行った。巷《ちまた》は、白い霧だった。それが黒い霧に変ってゆく頃、都の夕は、俄なうごきをひそかにしていた。  御車《みくるま》でなく、鳳輦《ほうれん》だった。  金色《こんじき》の大鳳《おおとり》が屋根に翼《よく》をひろげている鸞輿《らんよ》ともよぶあの御輿《おんこし》である。  仕丁《しちょう》が大勢してそれを担《にな》いまいらせる。主上はまだあかるいうちに、花山院ノ内裏《だいり》を出られた。……が、天皇お一ト方ではない。女院、ご眷属《けんぞく》すべてである。武家の騎馬、上卿たちの牛車、ごった返して、はかどらぬまに、吉田山の下あたりで、霧の日はもう暮れかけていた。  主上、叡山落ち――  と、一般にわかっても、洛内には、なんの音響もなく、ただ霧の下にひそとしていた。万戸《まんこ》の庶民は、とうに家をすてて山野へ疎開していたのである。――そうした死の屋根の辻を、たまに戛々《かつかつ》と霧をついて行くものがあれば、それはすべて新田、脇屋などの騎馬武士だった。  警固は物々しい。  はじめ、堂上では、 「ただのおん輿《こし》で忍びやかに」  との説もあったが、義貞や千種忠顕《ちぐさただあき》の意見として、 「このさい、さながら御落去《ごらっきょ》のようでは、いやがうえ、士気を沮喪《そそう》させましょう」  と、堂々たる行装がすすめられたため、鳳輦《ほうれん》が用いられ、全公卿、全武士の供奉《ぐぶ》となって――  吉田内大臣忠房  竹林院ノ大納言|公重《きんしげ》  御子左《みこひだり》為定  四条|隆資《たかすけ》、同、隆光  左中将|定平《さだひら》  中御門《なかみかど》ノ宰相《さいしょう》宣明《のぶあき》  園の中将|基隆《もとたか》  甘露寺|左大弁《さだいべん》藤長  一条ノ頭《とう》の中将行房  坊門の清忠  等々の殿上《てんじょう》から、外記《げき》、史官、医家、僧門、諸大夫の女房らにいたるまでの総移動も同時となったものだった。  また、これを守るに。  新田左中将義貞、子息|義顕《よしあき》、脇屋右衛門ノ佐《すけ》義助、一子式部|大輔《だゆう》義治《よしはる》。  ――そのほか、大館《おおだて》義氏、堀口美濃守、江田、額田《ぬかだ》、烏山、羽川、里見、岩松、武田などの宗徒《むねと》の一族旗本からまた――在京の禁門軍、名和長年らの諸大名の兵力までをあわせ、およそ五万をこえるであろう軍勢がお道すじをえんえんとかため、すでにそのいちばん先の者は叡山東坂本に着いているかとさえ見えた。  ところが、なおまだ、待っても待っても、ついにこれへ御参加なかった、皇室のお方の一部があった。  本院の光厳《こうごん》上皇と、新院《しんいん》豊仁《とよひと》との、おふた方である。  この持明院統《じみょういんとう》の皇《きみ》は、さきに尊氏へたいして、尊氏が請《こ》うた宣旨《せんじ》を降下し、錦の旗をも与えていた。  そのことを、後醍醐が、御存知でないはずはない。  だからとくに今日は、監視をきびしくし、太田ノ判官|全職《たけもと》をして、はやくから御所をかこませ、いなやの仰せにかまわず、叡山へお供するようにと、すでに内々の御厳命であった。だのに、とうとう、これへはお見えにならずにしまった。  では、どうしたのかというに、本院(光厳上皇)には先ごろから少々|御不予《ごふよ》(病気)とのことで、太田ノ判官もぜひなく、御門の表でお出ましのしたくを長々と待っているうちに、いつか御所の内では、もぬけ[#「もぬけ」に傍点]の殻となっていたものだった。  尊氏にとっては、持明院統の光厳《こうごん》上皇こそ、かけがえのない御方である。  足利方の洛内入りが大事をとられていたのも、一に上皇のお身が気づかわれていたからにほかならない。  それだけに。現朝廷の監視下に注意人物とされていた光厳の御脱出は、よほど困難だったはずである。 「皇年代略記」やまた「太平記」などによると。  この日、お迎えに向った太田ノ判官|全職《たけもと》の強請により、本院(光厳)はぜひなく、法勝寺ノ塔の辺まで拉《らっ》して行かれたが、急にそこで、御病気を言いたて、わざと、後醍醐の叡山落ちの列伍からおのがれになったものといっている。  だが、これは少々おかしい。太田ノ判官が意識的に本院を逃がしたことでもなければ、つじつまが合わない。  やはり、めんみつな計《はかり》をたてていた足利方の潜兵が、太田ノ判官を出しぬいて、御所の裏門から、本院、新院のおふた方を奪取し去ったものだろう。――それには絶好な霧のふかい宵でもあった。――また当夜、諸所方々の夜空が、ぼうっと、妙に赤く見られたなども、それの巧妙な掩護《えんご》であったかもわからない。  またその脱出も、輿《こし》や牛車などによる悠長なものではなく、おそらくは足利方の武将が、各〻、駒の前ツボに本院と新院のおからだを抱《かか》え、引《ひ》ッ攫《さら》うように、霧の中を、八幡《やわた》へさして、飛ばしたのではあるまいか。  いずれにしろ、この夜、八幡における尊氏は、 「よかった。よかった」  と、自祝、禁じえない色だった。  さっそく、光厳上皇と豊仁《とよひと》親王を、みずからお迎えして、男山の一院にあがめ、侍座には、三宝院の賢俊《けんしゅん》を、お添え申しあげた。元々、賢俊は持明院統の臣下である。  やがてまた、三条の実継《さねつぐ》や日野中納言|資名《すけな》などもこれへ来て、奉侍《ほうじ》した。久我《こが》の前《さき》ノ内大臣もやってきた。  尊氏はさらに、都のすみに逼塞《ひっそく》していた前《さき》の左大臣近衛経忠をさがし出させて、なにかと、輔弼《ほひつ》の任を、このひとに嘱した。すべてそろそろ次代の朝廷づくりのしたくであった。――これをである。生前の正成が喝破《かっぱ》したのであった。尊氏の大逆であると。また、自分とは異《こと》なる道をあゆむ野望の人間であると。――しかし尊氏は、これが大義にそむくとは思っていない。正成の死は惜しむが、いまでも深く彼の死を愁《いた》んでいるが、正成の臣道よりは、自分の臣道のほうが、はるかに、徹《てっ》したものとおもっている。朝廷のおためにもよく、世のためだと信じていた。正成の理想主義を、あわれとは思え、自分が着々ときずいて来つつある現実的な大業の成果を疑ってみたことはない。 「犠牲は大きい」  しかし、である。 「いまにみよ、みんなよろこぶ。尊氏に感謝しよう。庶民も、武家も、公卿も、朝廷も」と。  六月に入っていた。  いよいよ真夏。  盆地の都は、まるで釜の中だった。――魏《ぎ》の曹植《そうしょく》の詩、七歩ノ詩さながらに、釜の中の豆と豆とは煮られていた。毎日毎日が苛烈《かれつ》な激戦の連続だった。 [#3字下げ]袖《そで》の色《いろ》[#「袖の色」は中見出し]  山上も死力であった。  叡山  そのものはすでに厖大《ぼうだい》な城塞《じょうさい》である。  後醍醐は、そのおわすところの大岳の大本営で、親しく、軍事を聞かれ、ときには、武士への軍忠状まで、ご自身、お書きになるほどな督戦《とくせん》ぶりであった。  士気はふるった。  ふるわざるをえない。  まして、義貞においてはである。主上のおたのみにこたえるところもなく、山陽いらいの敗けつづけなのだ。  わけて、湊川からこっち、彼の胸にはさすがたまらないものがあった。辱《はじ》もだが、ひとつには、 「いまとなれば、思いあたる。……正成は、この義貞の身代りとなって死んだにひとしい。あのさい、全官軍を無傷《むきず》に都へ立ち退かせ、そしてあくまで、後醍醐のきみを護《まも》りたてまつるようにと、後日を祈って――」  と、正成への、ひそかな慚愧《ざんき》を抱いていたことだった。事実、そう覚《さと》ってからの彼には、これまでにない純粋な献身ぶりがみえ、驕《おご》ッていたあの衒気《げんき》もいまは捨てて、一身これ現朝廷のため、また打倒尊氏の念に、燃えきっている姿にみえる。  しかも麾下《きか》には、万余の新軍勢を加え、山門の衆徒三千、さらに園城寺《おんじょうじ》の大衆までをかぞえてみると、義貞すらが、 「まだ、かくも、余力はあったのか」  と、その大兵力に、自信をとりもどしたほどであり、四明《しみょう》の嶺《みね》、大岳、西坂本、ひがし坂本、要路要路、目に入るかぎりはすべて自陣の旗だった。 「ご籠城《ろうじょう》は、せいぜい、ふた月か三月《みつき》のこと。かならず、洛中の足利勢は自滅しよう。……いやそれいぜんに、北畠|顕家卿《あきいえきょう》の奥州軍が、再度のおん大事と、御加勢に馳《は》せくだって来よう。近く北国勢もくる。阿波四国の宮方からも、密牒《みっちょう》が来ておる」  義貞は、どこの陣場でも、こういって、麾下《きか》の将士をはげました。勝たなければ、彼は生きていない気だろう。正成にたいして、かんばせ[#「かんばせ」に傍点]はない。主上へもおあわせする面目はない。決死の気《き》、秋霜《しゅうそう》のごときものがある。  六月五日ごろから、本格的な攻撃に出てきた足利軍も、ほぼ互角な、五万から六万ぢかい大兵力で、西坂本とひがし坂本の両面へせまっていた。  そのほか、せまい間道《かんどう》や、嶺《みね》みちでも、およそ敵兵の出没と、小ゼリ合いの見えぬ所はなく、夜もひるも、凄惨《せいさん》なこだま[#「こだま」に傍点]だった。とくに西坂本、ひがし坂本では、主力と主力との激突がくりかえされ、すすんでは、洛内に近い所の部落戦、河原戦、畑合戦など、酸鼻《さんび》をきわめた。  そして、いくさでは、しばしば、官軍方が、優勢だった。  けれど、そのときはいつも、多大な犠牲をともなっていた。六月七日の合戦には、早くも、千種《ちぐさ》忠顕と坊門ノ少将|雅忠《まさただ》らが、きらら坂や、糺《ただす》ノ辻で、討死した。  日本|開闢《かいびゃく》いらい  と、古戦記はこの大合戦をいっている。たしかに開闢いらい、こんな凶事はなかったろう。十数万人にのぼる人間が、敵味方にわかれ、京都という一小盆地の底で、夏じゅう、明けても暮れても、喚《おめ》き合い、殺しあっていたのであった。  六月のすえ、尊氏は八幡《やわた》から西九条の東寺《とうじ》へ移り、そこを総本陣、兼《けん》、本院新院の御所とした。  御所は、灌頂《かんちょう》堂に。  彼は、千手堂に。  軍令、政令、すべてはここからという形をととのえ、後醍醐の大本営叡山と、その対峙を真《ま》ッ向《こう》にしたものだった。  だが、七万の将兵とその陣場は百何十ヵ所にもわたっている。とうていここで統一のある指揮はとりえないし、戦は弟の直義のほうが上手なことを尊氏は知っている。わけて義貞の反撃はすさまじい。で、尊氏は直義へ。「おまえにまかせる。いちいち、わしの令に待たんでもよい」と、あらましは彼の采配《さいはい》にゆだねていた。  直義はつねに積極的だ。烈夏の下、炎熱の中、猛攻また猛攻をおめきつづけた。  あるときは、山上の大講堂|文珠楼《もんじゅろう》のあたりまで攪乱《かくらん》して、山門の皇居をさえ脅《おびや》かしたことすらある。  また、山徒を買収して、内からそむかせ、一山を混乱のどん底におとすなどの奇略も用いた。が、大岳の嶮《けん》がものをいって、いつも完勝にはいたらない。――いやそのたび、数百数千の犠牲をすてては逃げ降《くだ》るのがやっとだった。じたい戦法がムリなのである。ために雲母坂《きららざか》では、高《こう》ノ豊前守《ぶぜんのかみ》(師久《もろひさ》)以下、一族、部将格二十何名かを、いちどに亡《うしな》うなどの大難戦もあった。  見かねたのである。尊氏がついに令を出した。 「ひとまず、短慮な山攻めは、見合せろ」と。  で総勢は、洛中へ退陣した。  山上の宮方へは、このころ北国から四千の新手が馳《は》せさんじ、また、阿波四国の宮方も「お味方に」と京地へ着いて、阿弥陀《あみだ》ヶ|峰《みね》に拠《よ》っていた。  これらの好情勢に、いちばい、気をよくした義貞は、 「敵の底は見えたぞ」  と、攻勢に転じだした。一面は内野《うちの》から、一面は高野川、加茂川原づたいに、洛中を焼きたて、市街戦に入ることも何十度。――そして或る時などは――義貞自身、一万の精兵をひッさげて、敵中をけちらし、尊氏の本営、東寺《とうじ》の門前までせまって、弓に矢をつがえ、 「尊氏! 尊氏!」  と、呼ばわり、 「天下の擾乱《じょうらん》も久しいことだ。世上、これを皇統《こうとう》の争いともいっているが、またそもそもは、この義貞と汝《なんじ》との宿怨《しゅくえん》にもよる。相互して一身のために、万民をくるしめているよりは、どうだ、いっそのこと、一騎打ちの勝負をして、雌雄《しゆう》を決しようではないか。……いやか、おうか。出て来い尊氏。……こたえがないのは、さては恐れて、深くかくれているのか。さらば、義貞の弓勢《ゆんぜい》だけでも知ッておけ」  と、そこの門扉《もんぴ》へ、一|箭《せん》を射て引っ返した、などという一場《いちじょう》の勇壮なる話もある。  が、これは「項羽《こうう》本紀」にある支那軍談とそっくりである。おそらくはそれの模作《もさく》だろう。しかし義貞がこれほどな意気であったのはまちがいない。  かくて、民家から堂塔仏舎は惜しみなく毎日焼かれ、一日に敵味方の死傷数千と数えられる日もめずらしくなかった。そしていつか、天地の荒涼《こうりょう》は、血の秋だった。  殺し合いは日課だった。鼻は屍臭《ししゅう》に馴れ、血に飽いた人間は、さらに、次の物をギラギラした眼で捜しあう。  掠奪、輪姦、暴酒、あらゆる悪徳が、残暑のカビみたいに、敵味方の兵を腐蝕《ふしょく》しだした。「軍令」そんなものが、もう人間を規矩《きく》しうる現実ではない。  とくに、足利方は弱った。  いつか四|道《どう》の糧道《りょうどう》をふさがれ、洛内の食糧は極度に枯渇《こかつ》してきたのである。いまにして、後醍醐の帷幕《いばく》は、さきに正成がすすめた戦略を、実施させていたとみえる。  つまり“封じ込め策”だ。尊氏を洛中に入れて糧道を断《た》つ。――もしこれが、正成もまだ健在の、湊川以前におこなわれていたらどうだったか? 「正成あらば」  とは、なにごとにつけ、後醍醐の御思慕であったにちがいない。  だが、もうおそい。 「なにをしている、直義《ただよし》」  と一日、尊氏から叱咤《しった》された直義は、八月から九月へかけて、猛然とふたたび総反攻をおこした。――綾小路《あやのこうじ》の官舎に陣していた少弐頼尚《しょうによりひさ》、壬生《みぶ》ノ匡遠《まさとお》の宿所に陣する高《こう》ノ師直《もろなお》、上杉伊豆、仁木兵部、そのほかの部将も、総力をあげて、敵の宮方を、山上へ追いしりぞけた。  法勝寺も焼け、大覚寺も焼かれた。――八条|猪熊《いのくま》で、名和|伯耆守《ほうきのかみ》長年が斬り死にしたのも、このころである。  結城《ゆうき》、伯耆《ほうき》、楠木、千種《ちぐさ》  宮方の、三|木《ぼく》一|草《そう》、みな死に枯れた――と都人はいった。とまれ宮方勢も、士気は荒《すさ》び、内からはしばしば内応者が出、危機の兆《きざし》をあらわしていた。  とはいえ、まだ、瀬田、宇治、醍醐、淀、山崎にわたる“つなぎ陣”から、一軍は近江へ出て、近江の佐々木道誉を攻めるなど、毫《ごう》も、足利方の糧道|遮断《しゃだん》にたいしては手を抜いていない。敵ののど[#「のど」に傍点]首は必死で締《し》めている。  こういう中にあって。  東寺《とうじ》にある尊氏は、上皇に奏請《そうせい》して、国家的な、典儀《てんぎ》の大事を、執《と》りすませていた。  八月の十五日。  光厳上皇の皇弟、豊仁《とよひと》親王は、践祚《せんそ》された。 “践祚《せんそ》”とは、天子の位にのぼる式をいい、“即位”とは、それを百官万民に告げる披露の儀式をいう。だからまだ、布告の大礼までにはいたらないが、今日以後は、このきみを以て天子とするという、践祚の礼は、天地の神祇《しんぎ》に誓われたわけである。  北方の光明天皇とは、すなわち、そのお方だった。  いずれが正しく、いずれが正しくないといえるのか。なお、後醍醐には、ゆめ、御位《みくらい》を退くなどのお心はない。一国に、同時に、ふたりの天皇があるかたちとはなってしまった。  そしてなお、二つの天皇の下において、日々夜々、しのぎをけずる激戦はくりかえされていたのである。しかもいまや、双方とも、さいごの喘《あえ》ぎと、盲目的な断末魔の死力を以て。 「…………」  ここにいたって、尊氏には、この殺し合いの、果てしなさが、そろそろ、やりきれなくなり出していた。あえて、践祚《せんそ》ノ儀《ぎ》をとり行って二日後の晩であった。彼は、人知れず清水寺《きよみずでら》へ願文《がんもん》をおさめていた。  彼のその願文は、秘封のままで清水寺へ納められた。内容はたれにも知らされていなかった。――彼の心の秘密だからだ。――御仏《みほとけ》さえ知って行くすえおききとどけ給わるなら、としていた尊氏の願望だったにそういない。 [#ここから2字下げ]  この世は夢のごとくに候《そうろう》 尊氏に 道心《どうしん》 給《た》ばせ給《たま》い候て 後生《ごしょう》たすけさせたばせ給《たま》い候《そうろう》べく候  とくと 遁世《とんせい》いたしたく候 道心 給《た》ばせ給わるべく候  今生《こんじょう》の 果報《かほう》に更《か》えて 後生たすけさせ給《たも》うべく候 こんじょうの果報をば 直義にたばせ候て 直義を安穏《あんのん》に まもらせ給い候べく候 [#地から1字上げ](原文ハ旧仮名、又、少々補修)   建武三年八月十七日 [#地から1字上げ]尊氏(花押《かきはん》)  清水寺 [#ここで字下げ終わり]  おそらく、尊氏は身をきよめ、心を洗って、したためたことであろう。みじん、嘘いつわりを書く要はない。本心、彼は彼自身をこう打ちのめしていた。  しかもいまや一世を風靡《ふうび》している勝者だ。  九州を征服し、山陽山陰を掃《は》き、正成、義貞に勝って、思う皇《きみ》を御位《みくらい》に即《つ》かせ、身は大御所、大将軍とあがめられている栄位にある。  にもかかわらず、尊氏はこれに満足できなかった。有頂天《うちょうてん》になって驕《おご》れないのである。逆に、あさましいとすら自己を観照《かんしょう》されだしていたのだった。  こんなもの、あんなもの、観《かん》ずれば、夢ではないか。  ほんとの、よろこび、安住の境界《きょうがい》、それはどこにもない。真実の光に浴せる人間らしい“道心《どうしん》”こそ、いまは欲しい。  だが、なんでもできる自分の位置でいながら、その“道心”に会《あ》って、すがすがと生きる道にはどうしても出られず、修羅六道の中の大御所と立てられている身を、さて、どうしようもなく、ついこう明け暮れ戦ッている自分だった。  おたすけください――  尊氏の心の底のものは、み仏へむかって、さけばずにいられなかったものだろう。――一切は、弟|直義《ただよし》に譲《ゆず》ってよい。すでに、鎌倉を立ち、九州このかたも、直義へは、軍政、日常のおもなる権《けん》、あらましは彼にゆだねてあるが、このうえの名誉も栄花も俗世の果報《かほう》はみんな彼にやりましょう。どうか弟の安穏をお守りください。……そしてこの尊氏へは、果報に更《か》えて、なにとぞ、この餓鬼《がき》六|道《どう》のあさましい住家《すみか》から、ほんとうの人間のすみからしい安心の道へおみちびきくださいまし……。  こう願文《がんもん》のうえに自己の本心をさらけ出したときは、自然、そのわずかな間では、きっと尊氏の眼には、ぼうだ[#「ぼうだ」に傍点]と、掻き曇るばかりな涙がわいたことであろう。――だがそれを、清水寺へ納めたすぐあとでは――もう自己の分身のような直義へも、幕下《ばっか》の諸将へも、ゆめ、そんな本意は、顔の隅《すみ》にも出しておけなかった。  彼らの眼は血走ッていた。彼らの手は血ぬられていた。いよいよ、食うか食われるかの、きのうきょうの戦況だった。 「ただいま、彼方に」  と、近侍が告《つ》げた。 「師泰《もろやす》、帯刀《たてわき》の両将が、勝戦《かちいくさ》のよしを言上《ごんじょう》のため、坪《つぼ》の内へ来て、さしひかえておりますが」 「直義はいないのか」 「けさから鞍馬口方面の戦陣へ、お駈け入りでございます」 「いまゆく」  尊氏は奥を出た。そして千手院の北ノ坪(庭)へ降りて、そこの陣座へ腰をかけた。  あの願文を清水寺へ納めてからの直後の日である。  ――この世は夢。ただ道心を給《た》び給《たま》え――。と、祈る彼も本心なら、ここの床几で、軍事を聞くときの彼も本心だった。  入れかわり立ち代り、伺候《しこう》する諸将はみな戦場の血みどろで生々しい。窮極はどうあれ、尊氏もここでは自分を嘘《うそ》の皮膜《ひまく》でくるんではいられない。つまり彼は、極限の本心から極限のべつな本心へと、変っていた。その振幅《しんぷく》にうその意識はないのである。両面、どっちも一つ尊氏だった。 「――今暁《こんぎょう》、一手は鳥羽畷《とばなわて》にて。また一ヵ所は、祇園《ぎおん》門前にて、敵をうちやぶり、その手の大将、越前ノ松寿丸と、鑑岩僧都《かんがんそうず》と申す荒法師とを、いけどりましたゆえ、それの言上までに」  と、細川|帯刀《たてわき》と、高ノ師泰とは、こもごも彼の前に報告しだした。 「いけどりは?」  と、尊氏がきくと、 「両名は、即座に首切り、首のみをこれへ持参いたしました」  と、そのふたりは、事もなげに、答えた。 「なぜ斬ッた。いけどったものは、斬るまでのことはない」 「お叱りにはございますが、下御所《しもごしょ》さまの御厳達により、近来は、雑兵《ぞうひょう》たりといえ、捕虜はその日にみな斬ることにしておりまする。……なにぶんにも味方を養う糧米《りょうまい》すら、日に日に、洛中ではとぼしく相なッておりますので」 「直義の令か」 「はいっ」 「ぜひもない」と、尊氏はだまって、祐筆《ゆうひつ》に両者へ与える軍忠状を書かせ、今川|範国《のりくに》に袖判《そではん》させて「さらに励《はげ》め」と、ふたりへ授《さず》けた。  感状をもらった二将は、すぐ再度の獲物《えもの》を追う猟犬のごとく、いさんで東寺《とうじ》の門を出て行った。が、あとの尊氏の浮かぬ色をみた範国は、糧米の欠乏や、戦況の慢性的な膠着《こうちゃく》が、彼の憂いであろうと察して、種々、実状を説明していた。そして、それもまた熱心に聞く尊氏だった。  ここへきて、ふたたび、戦火の糜爛《びらん》がひろがり、範囲も西は山崎、鳥羽伏見《とばふしみ》。みなみは木幡《こばた》、奈良ぐち、阿弥陀ヶ峰。ひがしは近江から北は若狭路《わかさじ》にまでなって来たには理由がある。  叡山の行宮《あんぐう》から発しられた諸国への大号令が、ようやく、こたえをなして来たことと、慢性的な長陣《ながじん》となってきた中央の戦状をながめて、九州、中国、四国、紀南、北陸、全土の宮方がまた宮方へ起《た》ちはじめ、ぞくぞく、行宮《あんぐう》のもとへ馳《は》せさんじる武士もふえていたからだった。 「おや?」  それとは、まったく関連のないものだが、尊氏はふと、眼にとめて、範国へたずねた。 「範国、いまのは誰だ。いまここをチラと覗《のぞ》いて、彼方へ去った若い女は?」 「ぞんじませぬ」  範国は、言ったが、 「いや、造作《ぞうさ》もないこと、行って問いただしてまいりましょう。――この御営内へ、わけて戦時、え知れぬ若い女が、立ち入ってくるなどは、油断がなりません。敵の細作《さいさく》(まわし者)やらも知れぬこと」  と、すぐ足ばやに、軍幕《とばり》のそとへ出て行った。  まもなく、彼は、もどって来たが、言いしぶった。 「女は、怪しき者ではございませんが、ちとどうも」 「直義をたずねてきた女か」 「よう、ご推量で」 「直義ならぬわしの姿に、あのような、うろたえをして去ったものと察しられた」 「御意《ぎょい》。じつは、下御所《しもごしょ》さまのお文《ふみ》を持っており、お目にかかって、おうらみを申さいでは、と訴えますので、ならぬならぬ、さような儀が、この陣中で相なろうや、と説《と》き諭《さと》し、泣きまどうのを、ようよう、兵の手に渡して、追い返したような次第でございました」 「遊女か」 「いや、公卿の想《おも》われ者のような、いやしからぬ……」 「直義からやった文《ふみ》とかを、そちに見せたのか」 「は。みじかい御文言《ごもんごん》のはしに、一首のお歌がみえたばかりにございまする」 「その歌は」 「さ。その歌は」  と、範国《のりくに》は、小首をひねったが、わすれました、どうしても思い出せません、と言ってあやまった。  尊氏は、笑って。 「よしよし、あとで直義《ただよし》へ訊《き》いてやろう。この万里腥風《ばんりせいふう》のような血戦場の中で、直義にもそんな一面があろうとは、知らなかった。兄弟ゆえに、何もかもが、分りあっていると思い込んでおるのは、まちがいだな。いや、直義を見直したわえ」  不愉快に取るどころでなく、弟の秘事を愉しんでいる尊氏の容子《ようす》には、範国も意外だった。その後、はたして尊氏が、直義に訊いてそのことを、からかったか否かはどうも不明である。  だが、直義のこの一情事は、やがて公《おおやけ》な「新千載《しんせんざい》和歌集」の雑ノ部に載せられたことだから、ひとり尊氏と範国のみが知っただけではなかったろう。  その「新千載集」には、左兵衛《さひょうえ》ノ督《かみ》直義と、名もれいれいしく、こう見える。 [#ここから2字下げ] 建武の頃、おもひのほかの事によりて、筑紫《つくし》にくだりけるが、ほどなく帰り上《のぼ》りけるに、都に残しおきける女の、さま変へて、ひとに侍《はべ》りけるよし聞きて、詠《よ》みてつかはしける。  袖のいろの  かはるを聞けば旅衣《たびごろも》  立ちかへりても  なほぞ つゆけき [#ここで字下げ終わり]  いきさつを考えるに、つまり直義は、自分の九州遠征中に、女が生活のため、公卿か富裕《ふゆう》の物持かに、身をまかせてしまったと聞き、この苛烈な戦争中だが、業腹《ごうはら》が煮《に》えてたまらず、女の許《もと》へ、つらあてのような、忘れかねるような、男の迂愚《うぐ》を、自嘲してやったものにちがいない。  おそらく、尊氏は、何も弟へいわなかったろう。けれどいちばい、心では直義が好きになっていた。戦《いくさ》よ、早く終結を告げよ。あとの果報《かほう》は、すべて直義へ与えようぞと、一そう思った。 [#3字下げ]黒い紅葉《もみじ》[#「黒い紅葉」は中見出し]  直義《ただよし》はつねに誇りにみちている。おそれるものを彼は知らない。長期ないくさは、元からのその性格を、なお完全にまで、鉄の血の人間にしていた。  今暁《こんぎょう》。それは十月にはいったばかりのこと。  彼にひきいられた一軍は、血と泥と疲労にまみれた惨烈なかたまりをなして、瀬田方面から逢坂《おうさか》をこえてきた。――近江で大勝したのである。――だが、兵は凱歌《がいか》にわく気力もなかった。  鮒《ふな》と芋ガラと粟《あわ》とをかきまぜた雑炊《ぞうすい》ともいえぬ妙なものを暗いうちにススりあっただけなのだ。あかるくなった膳所《ぜぜ》の辺では、蓮池《はすいけ》を見かけて、われがちに蓮根《れんこん》をひきぬき、それを生でかじりかじり歩いたりした。  おおむね、勝てば勝ったところに敵産があり、かならず腹ぐらいは満たされたものだが、いまどきは、どこへ行っても一物《いちぶつ》すらない。食えるのは持っている馬ぐらいなものだが、それは敵の死馬でもかたく禁じられていた。もしゆるせば数万の餓兵《がへい》である。味方の馬をも食いつくしてしまわないとはかぎらない。 「がつがつするな」  直義は、言った。 「そのために、近江路の敵を追っぱらい、ことごとく、湖へ叩きこんだり、みなごろしにして来たのだ。――糧道《りょうどう》の一つはあすから開ける。――佐々木道誉、斯波《しば》高経らが、あとにあって、東海の糧米を、やがてどしどし輸送して来よう。これで洛中の士気はいちばい高まる」  山科では、死馬の腐肉《ふにく》にたかっている飢民《きみん》があった。木の実をさがす幽鬼のような山林の人影もみな避難民なのであろう。三条河原は屍臭にみち、全市はあらかた灰の野ッ原と黒い枯木の骨だった。だのに、都をめぐる山という山はあざらかに紅葉していて、余りにそれは美しすぎる。 「水でも飲め」  へた這《ば》るように、兵は河原で腰をおとした。休め、の令が出たからである。というのは、ここで直義を待ち迎えた高《こう》ノ師泰《もろやす》の部隊がある。そして彼と直義とが、人を遠ざけて、何か密談をかわす姿が、彼方で見られていたからだった。 「まことか、師泰」 「なんで疑わしきことを、わざとお耳に入れましょうか」 「でも、わしが近江へ打って出る日まで、さような御気振《ごけぶ》りは、少しもなかったが」 「秘事でもあり、お諮《はか》りしては、反論の出る惧《おそ》れもありとして」 「わしのいぬまに、あえて、お運びなされたと申すのか」 「としか、考えられませぬ。……ともあれ、ここ数日のあいだのことです。浄土寺の忠円僧正を介《かい》して、大御所(尊氏)より山門の行宮《あんぐう》へ、密々、和を請《こ》うの御上書がさしあげられたには相違ございません」 「して、お使いには何者が立ったのか。その密使には」 「東寺《とうじ》の長者、文観《もんかん》上人の侍者《じしゃ》です。それが浄土寺と東寺《とうじ》のあいだを、ひそかに往来いたしたもようなので」 「待て待て。坊主と坊主の行き来など、あるいは、祈祷事《きとうごと》かもしれんではないか」 「いや――」と、師泰は確信をもってなおささやいた。大御所尊氏がここ密々に和議をすすめているということをである。直義は顔色を変えだした。 「おられますか」  直義は、あらい息のまま、軍幕《とばり》を払って、さし覗いた。  千手院の営中である。  ただひとり、馬を東寺の門で捨てるやいな、あッけにとられる兵どもをしり目に、大股でこれへ来たものだった。  が、尊氏は見えない。  床几《しょうぎ》はあるが、兄の姿は見えないので、中門を入り、廊のそとから大声でおくへどなった。 「直義でおざる。直義、ただいま近江の戦場より帰陣いたしました」 「おう」  と、一房の障子の蔭で尊氏の声がした。 「帰ったのか、直義。あがれ、あがれ」 「土足です、血みどろです」 「かまわん」 「では、ごめんを」  ずかと上がって、机の前に、あぐらした。その机からして、むかッとせずにいられなかった。 「なにを、お認《したた》め中でしたか」 「日課をな」 「毎日?」 「ム。近ごろ地蔵尊《じぞうそん》を画《か》き習《なろ》うている。母上のくだされたお守りの地蔵尊をお手本に」 「まさか、絵描きになる御発心《ごほっしん》でもありますまいに」 「きつい語気だな。はははは。むりもない。……さて、近江路の合戦は、どうだった。佐々木道誉、よく近江を守って、孤軍奮戦してくれているようだが」 「あの、道誉すらもです。いまや食うか食われるかだ。全軍は生死の境、申すまではございませんが」 「峠は越えた。これ以上はたたかえぬ。敵も味方も」 「いや、これからでしょう。すでに七分の勝ち。それに近江方面の敵二、三千も打ちころしてまいりました。はや丹波口にも敵影はなく、阿弥陀ヶ峰に拠《よ》っていた奴ばら[#「ばら」に傍点]も味方が追っぱらってしまったよし……。いまや糧道《りょうどう》の枯渇《こかつ》は、われよりは、行宮《あんぐう》と義貞のほうに、瀕死《ひんし》の急を告げだしている。……そ、それなのに」 「直義、なにを泣く」 「ばかな、泣いてなどいるものですか。ただくやしいのです。兄上の……余りといえば、兄上のしッ腰なさが」 「和議の一条か」 「もちろんです」 「たれにきいた?」 「そんなこと、いかに、お密《ひそ》かにやろうとしても、できることではありません。いかにあなたが大御所のご地位にあろうと、血の中に立っている全軍が承知しない。今日までに命をささげた白骨が承知しません」 「だがの、直義。いくさの我慢《がまん》は何のためにする。よいしおに和をつかむためではあるまいか。いまは最もそのよいしおと尊氏は思う」 「可惜《あたら》、まるで御見当《ごけんとう》ちがいだ。敵の息の根をとめるのは、ここもう一ト押し。ゆくすえまでの、わずらいの根も、先ごろ践祚《せんそ》された新帝のおんためには、このさい、完膚《かんぷ》なきまで、たたきつぶしておかねばなりません」 「いや、そうまでしてはなるまい。むしろ、そうしては長き恨みを百年にのこす。わずらいの根絶には決してならぬ」 「だから、みすみす、この勝軍《かちいくさ》をすてて、われから降伏をねがい出たと仰っしゃるのか」 「なに、降伏?」  屈辱だ。直義には、がまんがならない。尊氏のにらまえる目を、より強く、はね返して、 「つまりは、降伏だ。降伏でしょうが」  と、言《い》い哮《たけ》ッた。 「どう飾っても、結局、降伏ということになる! こちらから和を請《こ》うたからにはだ! なんでそんな御卑屈《ごひくつ》に出るのか。直義にはわけがわからぬ。だいいち、あなたは、うそつきだ。ひとを、あざむいていらっしゃる」 「わしが、そちを」 「そうです。なんどあなたはこの直義へ仰っしゃったか。一切《いっさい》の権限《けんげん》はそちにゆだねる。政務軍事、おもなることはそちがやってくれと。しかるに」 「わるかった」と、尊氏は眼もとを和《なご》めた。自分をなだめているふうでもある。「いかんせん、かかることは、機密に運ばねば成り難い。事洩れては、全軍に不穏をよび、はては狂気の沙汰になる。収拾《しゅうしゅう》がつかぬ」 「これからでも、なりかねません。たとえ直義は、鉛を呑むおもいでこらえても、七万の将士、これが逆上して、どうすてばち[#「すてばち」に傍点]の矛《ほこ》を逆《さか》しまにしないとはかぎらない」 「万一、これが洩れたのなら、よく諭《さと》すがいい、なだめておけ」 「あいにく、さような都合のよいことばを、直義、持ち合せておりません。弓矢の手前、いうべきことばなど、あるものですか」 「いや、まったくは降伏でない。誘降《ゆうこう》の上書を奉ったものにすぎぬ。それをしも、悪推量《わるずいりょう》して、噪《さわ》ぎ立てする者あらば、斬ってしまえ」 「では、屈辱的な和議でないと、固く仰せられますか」 「そも、たれがそちへこの秘事を囁《ささや》いたの?」 「師泰ですが」 「物騒な男」  と、尊氏は、しいて苦笑してみせながら。 「感づいたものは、早や仕方もあるまい。が、諸将にまで、つたわっては、ゆゆしいめんどう。すぐ口どめしておけ」 「まこと、いまの仰せに、相違ございませぬなれば」 「降伏でないことか」 「はい」 「上書は、降《こう》をお勧《すす》めするこころでは書いたものだ。しかし、山上の皇《きみ》にも御体面というものがある。わけて豪邁《ごうまい》なる後醍醐のきみ。不遜《ふそん》な文言はことをこわす。ただ皇《きみ》が山を降り給うて、洛内への御還幸《ごかんこう》とさえなるなれば、それでよからん。……ま、名目などは、どちらでもいいのだ。しぜん、義貞のたちばはなくなる。義貞をはたき[#「はたき」に傍点]おとす。……それで事はさだまるとわしは思う。さだまったあとの始末はまたそちにまかせる。これは大人の役目だ、直義もだんだん大人になってもらわねばこまる」 「…………」 「それにはや、冬の寒さもやって来た。洛中の難民も、もとの住《す》み家《か》へ返してやらねば、この冬、幾万の死者が出ようも知れぬ。かつはまた、丹波の奥、梅迫《うめさこ》の山家に難を避けておられる兄弟《ふたり》の母上、わしの妻子らも、早う都へ迎え取りたい。直義は久しく会わぬ母者《ははじゃ》を見たいとはおもわぬか」  直義は、眸をそらした。両手を膝に、いつか、さしうつむいていた。  里《さと》ですらもう寒い旧暦《きゅうれき》の冬十月だった。山上の寒さは骨身《ほねみ》にしみる。  わけて、こがらしの吹きすさぶ夜は、大岳《たいがく》の木の葉が、御簾《ぎょれん》のあたりを打ッて、ともし灯《び》のささえようすらないのであった。三位《さんみ》の廉子《やすこ》や准后《じゅんごう》づきの女房らが、そのたび御座《ぎょざ》ノ間《ま》のおあかりに風ふせぎの工夫をしては、灯《とも》し直すが、つけると、またすぐ消されてしまう。 「もうよい」  みかどは、仰っしゃって。 「こうしていよう」  と、おあきらめの御容子で、暗黒の玉座の机に、夜じゅう沈思のお姿を凭《もた》せておられるなども、めずらしくないのではあった。  こんな晩も、どこかでは戦いがたたかわれている。  枯葉《こよう》のように、人が死に、家が焼かれ、山野では、無辜《むこ》の民が泣いていよう。餓死者すら出ているにちがいない。  お眠りになれぬ夜がつづいた。御衣《ぎょい》を解いて眠らずにいることだけでも、せめて何かへの、申しわけとしておられるのかもしれなかった。とにかく、めッきりお痩せになり、おひげものびた。ただ眼光だけがいよいよおん目のふちにくぼ[#「くぼ」に傍点]をつくって、炯々《けいけい》と、それはたしかに全生命力をあげてたたかっている者のみにある異様なるお眸だった。 「これしきの艱苦《かんく》などは」  後醍醐は、よく廉子には仰っしゃっている。 「のう、隠岐ノ島にいたあのころを思えば」と。  だがいまは、御自身だけの忍苦ではすまないのである。また後醍醐は、すでにこの戦局の非を、たれよりもよく知っていた。とうてい好転はむずかしい。寸前にあるのは破滅だけだ。餓死、全滅、すべての瓦礫化《がれきか》。およそ宮方色のものは一片の勢力たりと残されまい。そして次の世代はまったく自分の理想とは相反《あいはん》するちがった組織によって始まるだろうと考えられた。  尊氏の勧降《かんこう》は、じつに、こういうときになされたのだった。――もちろん、あからさまに「降《こう》を勧《すす》める」とはいっていない。密々に忠円僧正を介して、みかどの許《もと》へ、そっと上書された文意は、鄭重というよりは、むしろ至極、低姿勢なものだった。 [#ここから2字下げ] 臣 尊氏 さきに勅勘《ちよくかん》を蒙《かうむ》り 身を法体《ほつたい》に替《か》へて 死を罪なきに賜は らんと存ぜし処に 義貞 義助ら 事を逆鱗《げきりん》に寄せて 日ごろの鬱憤をはらさん といたすがゆゑに つひに 乱《らん》 天下に及び たるにて候ふ [#ここで字下げ終わり]  と、あくまで当《とう》の敵は義貞であるとしていた。――そして、義貞や君側の讒臣《ざんしん》を打つのが初志《しょし》でありますから、もし龍駕《りゅうが》を都へお還《かえ》しあるなら、よろこんで奉迎し、過去を問わず、大方の者は、本官本領に復《ふく》し、かつまた、 [#ここから2字下げ] ――天下の成敗《せいばい》は 公家《くげ》に任《まか》せ進《まゐ》ら せ候ふべし [#ここで字下げ終わり]  と、まで書きむすんでいるのである。が、もとより後醍醐は、尊氏の勧告を、その文字のとおりには決して御信用になってはいない。――いまの窮状ではこれをただ一つの活路と見、これに応ずる以外に再起の道はないと、深く、しかも密《ひそ》かに、御決意の臍《ほぞ》をきめていたものだった。  和睦《わぼく》の運びは、じつに、秘密裡《ひみつり》であった。近側ですら、その日にいたるまでは知らなかったほどである。  なぜ。というに、武家の奏上では、戦況は概《がい》して悪くない。われにも損害は多いが、敵にも、より以上の打撃は与えている。兵糧の欠乏も同様で、敵もやっと掠奪《りゃくだつ》で食いつないでいるのが実状だから、とうてい、この冬中は越せっこない――  こんなことのみ聞かされているのである。だから公卿のなかにも、なお必勝を信じている者が多かった。わけて坊門の清忠、洞院《とういん》ノ実世《さねよ》などは、それのコチコチであった。――しかし後醍醐は、かならずしも、義貞の奏上だけにたよって御判断はくだしていない。さすが大局《たいきょく》を観《み》とおして、とうに、第二のだんどりを御心のうちにえがいていたのである。  その結果、  和議《わぎ》 了承《りようしよう》  の御返事を、密々に、尊氏へおこたえになられたが、なお忠円僧正を介《かい》して、  還幸は十月九日  下山の龍駕《りゅうが》には、尊氏方からお迎えの軍勢が途中まで出ていること。等々々の手筈《てはず》まで、一切、諜《しめ》し合せもつけておられたのだった。  ところで。義貞は、まだ何も知らずに、ひがし坂本の彼岸所《ひがんじょ》の本営にいたが、その朝、 「はて、ふしぎな説を?」  と、判断に迷っていた。  ――というのは、洞院《とういん》ノ実世《さねよ》の使いと称する者が陣門へ来て、 「今暁《こんぎょう》、主上には、尊氏との和議によって、俄に、洛中へお還《かえ》りになることになりましたが、新田どのには、ご存知あるのか否か。……また、龍駕に供奉《ぐぶ》して行かれる御所存《ごしょぞん》かどうか。事あまりに唐突《とうとつ》ゆえ、お耳にまで入れておきまする」  と、告げたままで、その使いは、風のごとく、帰ってしまったというのである。 「なにかの、まちがいであろ」  義貞は笑ったが、しかし、不安を持たないわけではなかった。ただ事は余りに重大なので、さっそく、ふもとにいる弟の脇屋義助を迎えにやった。そのうえでと、思ったのである。  すると、すぐ、 「大殿、何ぞ御異状はございませぬか」  近くの陣所から一族の堀口美濃守貞満が来てたずねた。――貞満は、義貞から、云々《しかじか》のことで、いま義助を迎えにやったところだと聞くやいな。 「すわ、それこそ奇ッ怪事だ。なんとなれば、ゆうべから今暁のあいだに、江田ノ兵部行義と、大館《おおだて》左馬助|氏明《うじあき》のふたりだけが、いずこへか、陣所を移し去っておりまする。……どうも日ごろから、あやしき色のみえていた両名。みかどの下山と共に、敵へ内通《ないつう》に出たものでしょう。とすれば、帝の御脱出も、ただの風説ではありますまい」  この貞満は、坂東《ばんどう》武者の典型ともいえるような、一徹短慮な男だった。で、猶予《ゆうよ》はならずと言い、「――まずは、拙者が、見てまいりましょう」と、義貞の営から駈け出して行ったが、その顔色はもう恐ろしい憤《いきどお》りになすられていた。  行宮《あんぐう》の延暦寺根本中堂《えんりゃくじこんぽんちゅうどう》のうちでは、かねてからのおしたくだったが、今暁はもう暗いうちからの物騒《ものざわ》めきで、おめしになる鳳輦《ほうれん》も、きざはしの下の轅台《ながえだい》にすえられ、みかどの出御《しゅつぎょ》を、待つばかりのていだった。  やがて、しいっと、お出ましを告げる声が奥から流れつたわってきた。――と、洞《ほら》のような中堂の燈明をうしろに、背がお高いのですぐそれとわかるみかどの模糊《もこ》たる影が、生ける金剛像のように、ずしずしと歩んで来られた。そして、天やや明るい廊の大床《おおゆか》のさきに、そのお姿を立たせられた。  すると。  このとき、たれとはなく、すすり泣いた。はじめは、数名の嗚咽《おえつ》だったが、しだいに、廊の左右から階《きざはし》の下にまで、敷波《しきなみ》にヒレ伏していた公卿や舎人《とねり》にいたるまでの、すべての人影の咽《むせ》び声《ごえ》になっていた。  ――わけて、みかどをお送りして出た准后《じゅんごう》の廉子《やすこ》だの、親王方だの、あまたな女房たちは、中堂の蔀《しとみ》のうしろで、みな、おもてを袖につつんで、われもなく泣き伏しているさまだった。 「…………」  さすがに、みかども、みなの気もちを汲んで、どういって一ト言《こと》でもなぐさめてやったらよいか、それすらも見つからぬお立ち惑《まど》いの容子だった。その龍顔も、やや仰向《あお》に、しばし暗然としておられた。  表面、降伏とはいわれていないが、尊氏の勧《すす》めをいれて、いくさを休《や》め、ここの大本営を出で給う上からは、そしてあとの処置も御運命も敵まかせであるからには、どう繕《つくろ》っても、朝家《ちょうか》の屈辱たることにかわりはない。  人々は自分たちの力のおよばなかったことにも歯ぎしりして泣くのであったが、みかどこそは、その屈辱を、屈辱として、最もつらい御無念を嚥《の》んでいるものと思われ、なおさら、慟哭《どうこく》されてくるのであった。  それをそれと、公卿ぜんたいへお打ちあけがあったのも、つい昨夜のことで、一時は議論がわいて、たいへんなことだった。公卿間でさえ、こんな騒ぎであったほどだから、武家はもちろんまだ何も知っていない。いや知らされていない。  だからもし義貞、義助らがこれを知ったら、たちどころに、大混乱を起すにちがいなかった。――和睦《わぼく》となっては、義貞が存命しうる余地はまったくないからである。義貞ばかりでなく、これまで尊氏とよく戦ってきた者ほど、いいかえれば、朝家《ちょうか》のためと、一身を後醍醐にささげきた者ほど、やぶれかぶれの抗戦をあくまで主張するにちがいなく、はては、後醍醐のおん身を監禁してまでも、さいごのさいごまで戦ッて、全味方、一地で玉砕《ぎょくさい》することを以て、武家の本懐《ほんかい》だと、言い出すであろう。  後醍醐のもっとも怖れられていたことはそれであった。だから今暁はまず、少数の供奉《ぐぶ》だけで、すみやかに、かつ密《ひそ》かに、麓への御潜幸《ごせんこう》をとげることを主としていた。女院や女房たちもあとにのこし、そして義貞、義助らの武家は、事後において、数名の上卿《じょうきょう》からことをわけて説き伏せさせる御予定でいたのであった。……ところが、間髪《かんはつ》に、もうこれは義貞の方に洩れていたものだった。  それは、後醍醐が、泣きしずむ群臣の背にお目をとじて、階《きざはし》を一ト段、ふた段……と下の鳳輦《ほうれん》へ降りかけられたときだった。  どこかで、 「しゃッ。しばらく」  と、大声で吠《ほ》えた者がある。同時に、まるで野嵐を負った猪《いのしし》のごとき男が、 「おまちください!」  とばかり、そこへ来て、いきなり鳳輦の轅《ながえ》を片手でおさえ、片手を地につかえて、 「これは、新田の一族、堀口美濃守|貞満《さだみつ》にござりまするが、こんにちの俄な御動座は、そも何事でございましょうか。臣らはまだ、何もうけたまわってはおりません。まず! しか[#「しか」に傍点]としたその御理由を! まった御内議の仔細を、伺いたいものと存じます。さもあらねば、龍駕《りゅうが》をよそへ遷《うつ》しまいらすなどは、言語道断。貞満、太刀にかけても、おとどめ申さいではおきませぬッ」  と、すさまじい面色で、みかどへ迫ッた。  後醍醐も、せつなは、或る危険すらハッとお感じになったらしい。二タ段、三段、御裳《おんも》を避けて、階《きざはし》をあとへ戻った。が、すぐ御気性があらわれて、 「下﨟《げろう》っ」  と、大喝《だいかつ》のもとに、 「よくは理由《ことわけ》もわきまえぬ身をもって、推参《すいさん》であろう。おちつけ!」  と、たしなめられ、あたりの公卿もみな、身がまえを揃えて、一せいに、 「無礼なるぞ、貞満っ。ひかえろ、ひかえろッ。畏《かしこ》くも至尊《しそん》にたいし奉ッて!」  と、叱《しか》り浴びせた。  貞満は、とたんに、がくと首をたれた。日ごろの陪臣《ばいしん》意識が、ふと、よみがえると、やがて一途《いちず》だった逆上の色も青く醒《さ》めて、顔じゅう、ぼうだ[#「ぼうだ」に傍点]と流れる涙だらけにしていた。 「やれ、浅ましい。まったくもって、この慮外は、我を忘れた不埒《ふらち》にございました。……がしかし、これも憂国のほとばしりと、あわれ、み免《ゆる》しあらせ給え。じつは今暁、かすかなる噂におざれど、還幸《かんこう》の沙汰なす者あり、しかるに、主君義貞には、何も存じつかまつらず、余りに奇ッ怪なれば、これへ、実否をお伺いに参ったものにすぎませぬ」 「…………」 「まこと、いかなる仔細でございましょうか。見うければ、内侍所《ないしどころ》の御櫃《みひつ》、剣璽《けんじ》の捧持《ほうじ》など、はや御立座に供奉《ぐぶ》して、おん出でましのように拝されますが、もし、大元帥《だいげんすい》の大君が、ここに、おわしまさずとなったら、あとの義貞以下、われら将士は、捨てられた子も同様です。どう相なるのでございましょうや」 「…………」 「そも、また、義貞に、何の不義不忠があって、多年の粉骨砕身《ふんこつさいしん》も見捨てられ、こつねんと今日、大逆無道の尊氏へ、叡慮《えいりょ》をお移し遊ばされるのでございましょうか。ここが、われらには一こう合点《がてん》が相なりません! 去《い》んぬる元弘《げんこう》の年の初め、義貞以下、われら端武者《はむしゃ》にいたるまで、綸旨《りんじ》をいただき、忝《かたじけな》しと、心骨《しんこつ》に忠誠を誓ッてからは、関東の野には、屍《かばね》を積み、西国の風雨には、あらゆる惨苦をなめ、一族家の子、何万の死者をも出してきておりまする……。しかるに」  と、貞満はついに、男泣きに、声をのんで、咽《むせ》んでしまった。  貞満は、また、 「し、しかるにです」  と、涙を払って。 「いまさら敵に降参とあっては、死せる万骨にたいしても、われら、生きてはいられません。かつまた一徹《いってつ》な部下ども、荒くれども、これらも、何をしでかすか、自暴の極には分りませぬぞ」 「あいや、貞満」  頭《とう》ノ中将行房が、大床の端から諭《さと》した。 「心得ちがいいたすな。還幸は決して、御降伏ではないのだ」 「ばかな、仰せを」  それが、かえってまた、彼の忿怒《ふんぬ》を煽《あお》ったもののように。 「いかなる名分《めいぶん》にせよ、大元帥たる御方が、その行宮《あんぐう》を捨て給うて、敵手に、あとの御運《ごうん》をゆだねられるからには、降参ときまッている!」 「いや、至尊として、臣下の尊氏に、御降伏などというすじみちはない」 「さようなお考えは、あなた方だけのもの。武家世上では、そんな旧念など通用いたしません。まことまた、降伏なのだ。かくまで、一同身命をすてて戦いながら、なお戦いが振わぬのは、帰するところ、帝徳の欠如《けつじょ》か。輔弼《ほひつ》の悪さでおざるまいか」 「だまれっ、陪臣の身をもって、あまりと申せば、僭上《せんじょう》な」 「いいや、貞満はいま、全官軍の兵に代って物申しているのです。僭上などと日ごろの行儀《ぎょうぎ》は、知るところでございません。いずれにせよ、累年《るいねん》、忠義のみちを取って、臥薪嘗胆《がしんしょうたん》、かくまで奮戦してきた者どもを捨てて、なおどうあっても、敵へ御降伏に出られるものなら、もはやぜひもないことです。まず義貞義助以下、新田一族の者をこれに並べ、その首《こうべ》を刎《は》ねてから、出御《しゅつぎょ》のおふれ出しをねがいましょう。……いざまず、貞満の首からさきにお斬りくだされい」  むりもない。いちいち、理にあたっている。その罵言《ばげん》にも、返すことばはないのであった。のみならず、ほんとに、彼ら武家が怒ったら、どんな事態になることやら、はかり知れない。  公卿はみな、青白く黙り沈んでいるのみだし、後醍醐もまた、きざはしの半ばに釘ヅケにされた態《てい》で、この一個の荒武者を、どうするすべもなくお立ち恟《すく》みのままだった。  折もよく。むしろ、帝にとっても、今は、救いともいえるようなこの時に、 「おっ、左中将が」 「義貞が、子の義顕《よしあき》と」 「弟の右衛門《うえもん》ノ佐《すけ》義助も打ち連れて、三名これへ見えまする」  と、口々の声にながれた。  後醍醐は、さらに階《きざはし》を数段、上へもどった。そして茵《しとね》を待ち、茵にすわって、すぐ階下へ来てぬかずいた新田の父子兄弟三名をあらためて見た。 「オ、左中将よの。よいところへ見えた。後刻、そちの陣所の彼岸所《ひがんじょ》へ、儂《み》に代って、公卿たちをつかわすところであったが」 「はっ。おそらくは、さもあろうかと存じましたなれど、待ちきれずに、つい参りましてござりまする」  義貞は、かたわらの貞満の気息やその面色を見て、すでに貞満が、ここでどんな言語を吐き尽していたかを、すぐ感じ取っていた。辺りの視線や空気からも、すぐわかった。 「決して、おひき止めはつかまつりません。事、かしこくも聖断とありますからには」  義貞は、言った。  そして、なお。 「これなる堀口貞満も、おそらく一時の忿懣《ふんまん》にまかせ、御立座《ごりゅうざ》のまぎわを騒がせたものと思われますが、無骨者《ぶこつもの》の呶罵《どば》も、あわれと聞こし召されて、みゆるしあるよう、ひらにおわび申しあげまする。武辺者の一途《いちず》、この義貞すらも、これへまいるまでは、まったく逆上気味でござりました。……が、親しく、龍顔を拝しますれば……」 「…………」 「おそれながら、おん目のくぼみ、頬のおやつれ、義貞もかえって、身の申しわけなさが、先立ちまして、おわびのことばもございません。不肖なる私に、さきには左中将の顕職《けんしょく》をさずけられ、親衛の大任、禁軍の精《せい》、あわせて昭々《しょうしょう》たる錦旗をも給うていながら、征途のかどでに瘧病《ぎゃくびょう》をわずろうて、以後もはかばかしくなく、とかく心なき戦いのみをかさね、ついに今日《こんにち》にたちいたりましたるは、まったく、義貞のいたらぬところでござりました。いまにして思えば、楠木左衛門ノ尉《じょう》正成にも恥じられまする。で今日、龍駕《りゅうが》をお送り申しあげたうえは、なおここにふみとどまり、義貞一族も世に恥じぬ思うざまな最期をとげたいものとぞんじます。さあれば、これが今生《こんじょう》のお別れ。――ひとえに、ご聖運のひらけますよう、泉下《せんか》よりお祈り申しあげておりまする」  おちついていた。  まったく、おちつきぬいている義貞のことばであったので、後醍醐も、ほっとなされると共に、 「いや、義貞」  と、あやうく、お目をかきくもらせて、こう仰せ出た。 「還幸は一時の策に過ぎん。なんで新田を捨てる気などで山を降りよう。そちもまた、いささか儂《み》の心を汲《く》み誤っているのではないか。いや、そもそもから、事は、そちにも諮《はか》るべきであったろう。したが尊氏の感情として、そちの意見を入れてはしょせん和談はむずかしい」 「それは、むずかしいこと、よう心得ぬいておりまする」 「が、和談といえ、深い後図《こうと》の考えもあってのことぞ。いまは屈《くっ》しても末《すえ》に勝てば、負けではない。数日前、はや密かに四条、北畠の二名をここから落して大和へ走らせ、北陸へも、あらかじめ人を派して拵《こしら》えは命じてある」 「さてはそうでござりましたか、ではあくまでも御再起の御心《みこころ》のもとに」 「ここは目をつむって尊氏の驕《おご》るがままにしておこう。四方《よも》の官軍がふたたび起《た》ち上がるときを待つ。どんな怺《こら》えをしてもそれを待つ。されば、そちもここを脱《だっ》して北陸へ落ちて行け。……とは申せ、儂《み》が都返りのため、そちが逆《さか》しまに朝敵となり賊軍視されてはなるまい。ついては、朕《ちん》の位をこのさい皇太子に譲《ゆず》っておこう。そちは恒良《つねなが》と親王《しんのう》尊良《たかなが》とを陣中に奉じて北国にて再起を図《はか》れ。恒良に仕えること儂《み》のごとくにしてくれよ。いま、積年の辛苦《しんく》をかけたそちたち多くの軍士にわかれて、尊氏のもとへゆくのは、たえがたい悲しみと屈辱ではあるが、それをさえ儂《み》は忍んで行くのだ。そちもまた、忍んでくれい。……のう、義貞。得心《とくしん》がまいったか」  鳳輦《ほうれん》のお出ましは、夕方にまで延ばされた。  これ以上、主上にせまッて、叡慮《えいりょ》のお苦しみをみてもと、義貞も観念のほかはなく、ついに拝諾のお答えとなったものだった。  で、俄に。  その日じゅう、中堂《ちゅうどう》の行宮《あんぐう》は、武者、公卿、法師らなどの、せわしげなうごきに暮れた。どの顔も、逼迫《ひっぱく》した緊張と、敗戦をみずからみとめた、虚脱の色にまみれ、終日の会議、別宴もほどなく終って、どこかには、はや九日の宵月があった。  還幸《かんこう》の人数は、もう山を離れだしている。――供奉《ぐぶ》には、吉田内府をはじめ、公卿あらかたと、山徒《さんと》の道場坊|宥覚《ゆうかく》などもお供して行った。  むずかしい武家側とのはなしあいもまずついた結果なので、准后《じゅんごう》の廉子《やすこ》から女院、女房たちも、すべて一しょに下山することとなった。したがって列はえんえんとつづき、本間孫四郎や伊達《だて》の蔵人《くろうど》家貞などの兵が、先駆から列後までを見つつ順に麓へさがって行った。  その上を、黒い紅葉が、ひょうひょうと舞い降《ふ》っていた。風も落葉も、すべて、音をなす物は、哀しい悲歌の譜《ふ》となって、もののふの腸《はらわた》を、かきみださずにおかなかった。 「…………」  義貞は、遠く鳳輦がふもとへ沈み去るまでお見送りしていた。彼のうしろに立ちならんでいた軍兵の列もみな石の兵みたいだった。叡山の上は俄に寂寞《せきばく》な冬を来たし、風は霏々《ひひ》と肌を刺《さ》した。  その夜である。義貞は日吉《ひえ》の大宮|権現《ごんげん》にひとり参籠《さんろう》して、氷のような床《ゆか》に伏した。夜もすがらなにか一念の祈願をこめ、あわせて願文《がんもん》と重代の太刀鬼切とを、社壇へおさめた。 「…………」  ことばには出さないが、過ぐるころ、御影《みかげ》の陣所で、正成と一夜を語って別れ、そして会下《えげ》山上にあの菊水旗を見、また後に、正成のさいごの様をつたえ聞いてからの義貞には、何かつねに、心に恥じるらしいものがあるようだった。  それか、あらぬか。 「……このたびは、自分も」  と、翌朝の北国落ちには、彼にもかたく誓っていたふうがある。――すなわちその軍中には、皇太子|恒良《つねなが》、親王|尊良《たかなが》のおふたりを奉じ、洞院《とういん》ノ実世《さねよ》、同少将定世、三条|泰季《やすすえ》なども付きしたがい、総勢は約七千余騎。  同日。  阿曾《あそ》ノ宮は、山伏姿となって吉野の奥へ奔《はし》り、妙法院ノ宮|宗良《むねなが》は、湖を渡って、遠江《とおとうみ》方面へ落ちてゆかれた。――すべて離散の人もみな霏々《ひひ》たる枯葉《こよう》の行方と変りがない。  さて。北行した義貞の軍は、湖北の塩津へんで、もう敵襲に見舞われていた。――足利|直義《ただよし》の手配はじつに早かったものらしい。――で、やむなく道を迂回して、木《こ》の目《め》峠《とうげ》へかかったが、折ふし山中ではまた大吹雪に出会ってしまった。焚《た》く物がなく、泣いて弓矢を焚き、からくも兵糧を炊《かし》いだり一時の暖《だん》をとったが、なおおびただしい凍死者を出したほどな行軍難であったという。  そのうえ、途々では、のべつ敵の奇襲にあい、河野|通縄《みちなわ》、得能通言《とくのうみちこと》らが、数百の兵と共に全滅の厄《やく》に遭《あ》うなど、惨《さん》たる憂き目をなめながら、月の中旬、やっと越前|金《かな》ヶ|崎《さき》城へたどりついた。 [#3字下げ]龍と虎[#「龍と虎」は中見出し]  約束によって、鳳輦《ほうれん》をお迎えに出ていた直義《ただよし》の軍勢は、九日のまる一日、法勝寺ノ辻で待ちくたびれていた。午《ひる》ごろ、 「還幸《かんこう》は夜に延ばされた」  と、急につたえられて来たからだった。 「さては、後醍醐と義貞とのあいだに、なにごとか揉《も》めているな」  慧敏《けいびん》な直義である。  彼は、あらゆる変《へん》に応じうる万全な措置《そち》をとっていた。新田が自暴自棄となって、みかどを監禁し、玉砕に出ぬともかぎらぬ――ことまで予想にいれていたからだった。  が、さいわいに予想は外《はず》れ、その夜、たくさんな松明《たいまつ》にまもられた鳳輦の列は、やがて足利方の軍兵に迎え取られるところとなった。  直義は自身、鳳輦の前に、ひざまずいて、 「左兵衛ノ督《かみ》直義です。今朝来《こんちょうらい》、おまち申しあげておりました。兄尊氏もいずれごあいさつにまかり出でましょうが、ひとまず、花山院の御旧居へ、直義、ご案内つかまつりまする」  と、言上した。  みかどは、辱《はじ》と御我慢とを、垂れこめておられるような鳳輦《ほうれん》の内で、そのまま、 「直義か。よしなに」  と、一ト言、仰っしゃったきりだった。直義は、そのお声がまぎれない後醍醐であることをたしかめうると、ただちに駒を返して、列の先頭に立った。――万一、鳳輦の内の君が、替《か》え玉《だま》でもあっては――とする彼の周到《しゅうとう》な注意ぶりの一つがここにもうかがわれていた。  花山院の旧内裏は、宏大なる広さだけに、なおのこと、以来の荒れかたもはなはだしく、鬼気をすらおぼえるような冷たさと暗さであった。  ここに、後醍醐は、その夜からおかれた。ほとんど監禁といっていいかたちである。  かしずきには、廉子《やすこ》と四、五人の女房がゆるされただけでしかない。男といえば、老蔵人《ろうくろうど》すら遠い所の下屋《しもや》へへだてられ、四門はかたくとざされ、近侍の公卿もみな、旧官舎のような建物のうちへ押しこめられた。――そして、門内門外には、戦時同様な恐《こわ》らしき武者どもがかために充満していて、これは昼夜、焚火《たきび》をかこんで、すき勝手な雑言《ぞうごん》や笑い声をあげていた。  なか三日ほどおいて。  尊氏は、東寺《とうじ》の営《えい》からこれへ、お見舞にといって、参上した。  が、後醍醐は、およろこびの色でなく、初めのほどは「ちと、すぐれぬと申して帰せ」と、いわれたがまた。「いや会おうか」と、お考え直しのふうで、彼を待たれた。  侍座《じざ》の公卿の、ただ一人すら見えぬわびしい上《あ》ゲ畳《だたみ》に、胡坐《あぐら》し給うて、御衣《ぎょい》もいと古びたままなお姿だが、しかし、かつての御威厳をすこしも卑屈にはしておられず、むしろ意識的に、それを崩《くず》すまいとしているお構えがどこやらになくもなかった。 「…………」  尊氏はといえば、彼もまた、むかしと変る容子《ようす》はない。勝者が敗者に臨むといったようなおもむきはすこしも出さず、台座から一だん低いところに平伏して、俄にはことばもなかった。――後醍醐もものいわず、彼もいわず、ふたりは、ふたりの感慨の中にしばらくはそれそのままな態《てい》だった。  尊氏は、やがて言った。 「まことに、久しく龍顔を拝しませんでしたが」  と、平伏のままで。 「事態、よんどころなく、君辺《くんぺん》へも無断で、尊氏が都を立ち離れましてからわずか一年余でしかございません。……変りはてたこの皇居のさま。わけてもおん窶《やつ》れのはなはだしさ。……胸いたむのみにございまする。ひとえにみな君側の讒争《ざんそう》や臣らの悪しき輔佐《ほさ》のためか。とまれこれからは、み心大きく、治世済民《ちせいさいみん》をひたすらに、君にも御安堵あらせられますように」 「……。尊氏」 「はっ」 「まことのことを申せ。まことの腹を。そちは儂《み》が憎うてならぬはずではないか」 「何としてでございましょう?」 「儂は足利を絶やそうとしてまいった皇軍の天子。不幸にしてやぶれたが、もし勝っていたら、尊氏の首を三条河原に見、天下の害賊ここに亡ぶと、群臣の万歳をうけていたであろう。その後醍醐へ、そちはなんで、無用なことばをかざるのか」 「あいや、うそは申しあげておりません。おそれながら、尊氏は勝者です」 「そうだ、そちは勝者。儂《み》は囚《とら》われの敗者でしかない」 「なれど、きのうの大君《おおきみ》は大君でいらせられる。また元々、私とて、皇室をないがしろに観《み》た覚えはございませぬ。――わけて、たまたまの風雲に乗《じょう》じ、関東の野より、俄に、中原《ちゅうげん》へ兵馬を張って出た私への、かずかずなる御寵恩《ごちょうおん》やら、また人をも超えた御信任を賜わったことなどは、日は経《へ》ても、何で忘れておりましょう」 「…………」  後醍醐は、そういう尊氏を、しげしげと見ているうちに、ふと、お心を怪しまれた。御自身のふしぎな心の経過をだ。  元は、後醍醐も、新田義貞以上に、むしろ尊氏を、たのもしい者とお目をかけていた一ト頃があった。それは政略でも何でもなく、真実、人間的に、尊氏がどこかお好きであったのだ。  と同様に――。尊氏が、その頃の御恩は忘れておりません、といま言ったのも真実だろう。まことの声というものだろう。後醍醐は、彼の予期に反した低姿勢にも、ふともう、お疑いはもたなかった。初めは、わざと自分を辱《はずかし》めるものか? と、あえてそれに抗拒の風を示されていたが、おもむろに、御態度は柔《やわ》らいでいた。 「だが、尊氏」 「は」 「それなればなぜ、そちは早くも約束をやぶったのか。忠円僧正を介しての、そちの上書、誓文《せいもん》とは、事ごとに約が違《たご》うているではないか」 「ここの御待遇の儀でござりまするか」 「それのみでない。儂《み》が還《かえ》りさえすれば、侍側《じそく》の公卿、供奉《ぐぶ》の輩《はい》も、なべて過去を問わず、みな元の本官本領に復すとそちは申し出ていたはずだった」 「そのことは、弟直義に、よっく申しふくめてありまする。じつは、日ごろから、諸政軍事にわたるまで、煩瑣《はんさ》のあらましは、直義にまかせきっておりますので」 「いや、儂《み》は、尊氏の和議を容れてこれへ還《かえ》ったのじゃ。直義が対象の人ではない。しかるに、囚人《めしゅうど》にひとしいこの扱《あつか》い。これでも約を違《たが》えておらぬというか」  尊氏は、お怒りに逆ろうなく、あくまで低く。 「申しわけございませぬ。じつのところ、私すら眉をひそめたことでございました。さっそく、直義に申しつけ、近習もおそばに添えまいらせ、調度、火《ひ》の気《け》、供御《くご》の物《もの》、ご不自由なきようにいたさせまする」 「いや大事なのは向後《こうご》の約だ。そちは軍事から政治向きまで、弟直義にゆだねて、多くは自身あずからぬようにいうたが、そちの約定《やくじょう》によれば、天下の成敗は公家《くげ》にまかせ進《まい》らさん――と、明記しておる。その儀と、矛盾《むじゅん》はせぬか」 「もちろん、違背《いはい》はいたしません。けれど、東国の草莽《そうもう》より起《た》った古源氏《ふるげんじ》の裔《えい》、尊氏の寸心にも、ひとつの信条がござりまする。そして直義はもとより、足利一類の族党から志《こころざし》に大同して来た諸国武士どもの希望もまた、ことごとく、それの具現にありますゆえ、もし中道で、尊氏が初志を曲げるなれば、この尊氏を仆しても、第二の尊氏、第三の尊氏が出て、あくまで、それを世に果さんとするでしょう」 「武家大同の、その望みとは」 「申すまでもなく、基礎を武家におき、武家によるよき代を招来《しょうらい》せんものとしております」 「つまり幕府再建だの」 「さようです。ですが朝廷におかれては、遠き延喜《えんぎ》の制を慕《した》われ、一切を天皇親政のすがたに復古あるべしとて、先年、建武新政の大令をお布《し》きあらせられました」 「…………」 「が、それはあえなく、御失政に御失政をかさね、武家は申すにおよばず、庶民もなべて、よろこばぬ御世《みよ》づくりであったことは、事実において、おさとりあらせられたかと存じますが」 「いや、そうのみではない」  後醍醐は、つよくお顔にまで反撥の色をたぎらせた。  事、御理想の点になると、不屈《ふくつ》、少しも変らない信念を、かくそうとはなさらない。勝者の尊氏を前に、たちまち、あたるべからざる雄弁とはなられた。  烈しい御持論を、前提として、仰っしゃるのだった。決して、親政が悪かったのではない。建武の大業はほんの緒《しょ》についたものにすぎず、諸民一般は、目前の利害のみ追って、復古王政の実体に理解がなく、それに協力しようともしなかったためである。のみならずまた、内からは、そちのごとき武家の棟梁《とうりょう》たる者が、武士の不平をあおッて、かくは大乱に世を追いこんだものであろうが――と、逆にまた、きめつけられた。 「……。尊氏」 「はっ」 「そちは申したな。たとえ尊氏が仆れても、第二、第三の尊氏が現われますぞと。そちもまた、ようきもに銘じておくがよい。よしや儂《み》がここで潰《つい》えても、儂の意志をつぐ第二の後醍醐、第三の後醍醐がかならず出よう」 「あ。おそれながら」 「なんじゃ」 「お夢に過ぎませぬ。さすが御英邁《ごえいまい》ではいらせられても、大きな時の流れには」 「時勢に晦《くら》い?」 「は。あいにく時勢はその方向に流れてはおりません。仮に尊氏がやぶれ、義貞が勝ったといたしましょうか。その義貞も、時をえれば、必ず一|衛府《えふ》の大将ではおりません。やがては、幕府の将軍を、望むにきまッておりまする」 「…………」 「もし、義貞にかぎって、幕府を望む料簡《りょうけん》などはなき者と見ておわすならば、おそれながら、それこそは、大きな御過誤《ごかご》。武家の何物なるかを、まったく、ご存知ないと申せましょう」  尊氏は言った。後醍醐の雄弁を、こんどは彼が取って代ったかたちであった。 「朝廷にとって、古来《こらい》から、武家とは、まことに厄介ものにござります。これなくしては禁門の守りもならず、諸国の騒乱も抑《おさ》えられません。が、これも増上慢を恣《ほしいまま》にしてくれば、かつての北条の悪時代に見るがごとき、朝廷無視の暴状となり、その果てには、元弘《げんこう》初期のように、寄り寄り、若公卿《わかくげ》ばら[#「ばら」に傍点]の悲憤やら密会となって、君もまたついには、武家の膺懲《ようちょう》を思《おぼ》し立たれ、笠置《かさぎ》に籠《こも》り、隠岐ノ島に配所の月を見るなど、おん身に馴れぬ矢石《しせき》の御苦難をなされるようなことにもなってまいりまする」 「…………」 「されば、世を王朝の昔に復《かえ》さんとの叡慮《えいりょ》も御無理ではございませんが、いかんせん、世は変ッて、延喜《えんぎ》天暦《てんりゃく》のむかしの比ではありませぬ」 「なにが、むかしの比でないか」 「御覧じませ。諸国にふえた武士の数、諸民の生業《なりわい》のむずかしさ、従って、道徳までの変りよう。すべて近世は激変の中にゆれております。しょせん、都の朝令や、古い国司の制などで、よく治《おさ》めうるものではなく、それは、明け暮れの騒乱や訴訟にみても、よくおわかりかと存じまするが」 「まて。尊氏」 「は」 「儂《み》に政道の講義か」 「ではございませぬが。……さるがゆえに、一だんと、文治武備の制はむずかしく、わけても朝廷ご自体が、直接、武士を養い、武権を統御あるなどは、事々に、乱を生じやすく、容易でないことを、御賢察あらま欲しく存じる次第にござりまする。――さきに義貞を一例にあげましたが、義貞ならずとも、仮に時代の優勝者となって、諸国の武士からかつがれる武門最上の位置に坐せば、必然武府の権《けん》を持ち、すなわち、幕府ができてまいりましょう」 「じゃによって、おのれ尊氏に、幕府をみとめよと申すのか」 「御意《ぎょい》です」  と、尊氏は平伏した。心をかくそうとしなかった。 「武府の権は、これを尊氏に御一任願わしゅうぞんじまする。諸国の武士をしめくくって、朝廷をあがめ、忠誠を誓わせましょう。朝廷におかせられては、旧例に則《のっと》って、御文治のほかに出でず、内《うち》、御融和美しく、外《そと》、聖徳をもっぱらにし給うて、万民と共に、お楽しい弥栄《いやさか》な御代をかさねられますれば」 「あくまで、そちは儂《み》に幕府をおしつける心か」 「旧北条のごとき弊《へい》に堕《お》ちず、かならず、よき前例にしたがって、献身、朝廷にお仕えつかまつりたいものと存じまする」 「が、そちの請《こ》いを容《い》れることは、儂の信念をすてることだ。復古と王政の実現とは、儂の生命。なんとしよう?」 「いや、御理想のあるところは、きもに銘《めい》じて、尊氏直義共に、決しておろそかにはいたしませぬ」 「なにを以てそれを?」 「公武一和の真心をもちまして」 「ム。……。公武一和か。……ム。考えておこう」  後醍醐は、お疲れ気味に、ふたたび何の仰せもなかった。  尊氏も疲れに気づいた。なにか、龍と虎とが、嘯《うそぶ》きあッて闘ッたあとのような、はなはだしい気息の色を、後醍醐にも見、自分にも知って、 「ま。……いずれまた、よき折に、改めてまかり出ましょう」  と、ほどなく、御座《ぎょざ》のあたりを退がった。  そして、昼なのに、人声もない廻廊やうす暗い廂《ひさし》ノ間《ま》を通って、元の中門廊のほうへ彼が戻りかけてくると、ふと、細殿《ほそどの》の蔭から、誰かよびとめる者があり、それは蜘蛛《くも》の巣だらけな辺りとは余りにかけはなれた美しい粧いのひとだっただけに、思わず竦《すく》みを感じたほどだった。 「これは、どなたかとおもいましたら?」 「足利どの」  と、准后《じゅんごう》の廉子《やすこ》は、ひざまずいた尊氏を見つつ、破《や》れ御簾《みす》をうしろに、自分も坐った。 「訪う人もないこの幽居《ゆうきょ》の御所へ、勝ちほこる側《がわ》の将軍として、ようお訪ねくだされましたの。お話の模様は、蔭でうかがっておりました。あのような御諚《ごじょう》ではあっても、御心《みこころ》のうちでは、其許《そこ》の御真情を、おうれしく思《おぼ》しめされていたにちがいありませぬ」 「なにとぞ、あなたさまからも、叡慮《えいりょ》をおなだめおき給わりますよう。心からおねがい申しておきまする」 「ご気性として、ひとたび、お誓いあそばしたことを、事の中道でお変えになるなどは、なかなか思いもよりませぬ。けれど、足利殿がいう公武一和のかたちとやらで、あなたの心からな臣節を、ここでもし、真実、おしめしあるなれば」 「もとよりそれが私のなすべき道と信じております。証拠《しるし》のために、一端を申し上げておくなれば。……余の儀でもございませぬが、さきに践祚《せんそ》あらせられた持明院統の天子のお次には、ぜひとも、准后さまのお腹になる成良《なりなが》親王を推《お》して皇太子におすえ申しあげたいものと、いまからその案などを持《じ》しております。――持明院統と、大覚寺統と、相互から出て交代に御位《みくらい》に即《つ》く――という、あの皇室の御法則を正しく践《ふ》むべきだと思うのです。――いやそれも、後醍醐のきみ御自身が、さきには、お破りになっていた約束ですが」 「わかりました。それひとつでも、武に誇って、ただ覇権《はけん》をふるうあなたでないことはよくわかります。けれどあなたは政治の裏にいて、表に立つのは、つねに左馬頭《さまのかみ》(直義)どのではございませぬか。……ここの警固すべても、みな左馬殿|直々《じきじき》のさしずでしょうが」 「さようではございますが、私の意にそむく直義でもございませぬ」 「なれど、お上《うえ》にはなんとしても、左馬頭がおきらいなのです。左馬頭と申しただけでおいろの変るほどにです。左馬殿もまた事々に、ここのお扱いには、きびしさばかり、すこしの仮借《かしゃく》もおありでない」 「はて、さまで直義《ただよし》をお厭《うと》みとは、何が原因でございましょうか」 「すぐる年、鎌倉の牢獄で、大塔ノ宮を暗々《やみやみ》と虐殺しまいらせた者は、ほかならぬ直義と、それのみは、お忘れあそばすことのできぬお恨みなのでございましょう」  抉《えぐ》られたような苦痛を、尊氏は顔にみせた。  こればかりは申しわけないと、彼もつねに、そのことは、ひとから触れられるのも怖れていたほどであり、たしかに、後醍醐にすれば、なかなかお恨みの消されぬ一事であるにちがいない。  そして、その大塔ノ宮|弑逆《しいぎゃく》の一事は、たとえ直義がやったにせよ、尊氏の大逆といわれても、いいのがれるすべもなかった。また事実、直義は、兄尊氏の大望にとって、ゆくすえ最も怖るべき強敵は、この宮なりと、一途《いちず》に、あの虐殺をあえてしたもので、以後、それが足利方にはどれほど戦局を進めやすくし、逆に、宮方には大きな不利となってきたことか、はかり知れないものがあった。  で、尊氏も、今、 「……。その儀は」  とばかりで、いかにも苦しそうだった。 「直義のとがは、尊氏の罪です。いつかは、なすべきことをなして、きっと、おわびをつかまつるほかはございませぬ」  すると、廉子《やすこ》は、 「いいえ」  と、かえって、彼の苦憂をなだめるように。 「過ぎ去ったこと、それも足利殿へ糺《ただ》したとて、どうなりましょう。私がそれを申したのは、あなたを責めるの意味ではありませぬ。……思うところは、そうした左馬頭《さまのかみ》(直義)どのゆえ、ここの御警固は、余人に申しつけられて、左馬頭どのと、お上《うえ》(後醍醐)とを、おちかづけにならぬ方が、およろしいのではないかと思うのです」 「ははあ? 御所の守りは、直義ならぬ余人にやらすがよいとの御注意ですか」 「お上のみこころを和《やわ》らげて、仰っしゃるような、公武一和にまろく治《おさ》めてゆきたいとのお考えが実《じつ》ならば」 「いや、ありがとうぞんじまする。直義の処置は、よくお胸をふくんで、いたしましょう」 「女の差し出で口には似ますけれど。わらわは疾《と》くより内裏《だいり》にあって、足利殿へは、よそながらお肩入れしていたつもりではありまする。それも力およばず、むずかしい事態となって、敵味方となり別れ、お上にも、このようなかなしいお立場とはなられましたものの」 「なにかと、以前のお誼《よし》みなど、忘れてはおりません。されば、こうなりましても、御一統をみじめにはいたしますまい。ご安心なされませ」 「尊氏どの。……なにぶんとも、たのみますぞえ」  と、廉子は、いちばん言いたい所の哀訴を、女の情にこめて言った。  もう四十路《よそじ》にちかいはずの准后《じゅんごう》ではあるが、蠱惑《こわく》ともいえる艶《えん》な美はどこにも褪《あ》せていなかった。こんな廃宮のうちにいて、囚《とら》われの主上に侍《じ》していながらも、彼女はその身だしなみをくずしていず、むしろあたりが荒れているだけに一そう妖《あや》しいまでの皮膚の白さとこの世の人とも見えぬ粧《よそお》いとを、きらめかせて見せるのだった。  尊氏は、別れて、やがて花山院の廃宮から外へ出ていた。外の大気は明るく、武者陣の甲冑には、冬陽《ふゆび》が虹色《にじいろ》に陽炎《かげろう》していた。 [#3字下げ]破局[#「破局」は中見出し] 「なにっ?」  錦小路殿《にしきこうじどの》は言う。  昨今、ひとは直義《ただよし》のことを、そうよんでいる。  足利方で立てた光明院の朝廷は、さきごろ、押《おし》ノ小路《こうじ》室町《むろまち》の一劃を、里内裏《さとだいり》とさだめられた。  つづいて、尊氏も、その居《きょ》を、東寺《とうじ》から移して、三条坊門ノ御池《おいけ》におき、高《こう》ノ師直《もろなお》は一条今出川に住みついた。  ――そして直義は、錦小路に邸を持つなど、すべてこの室町一帯を中心に新しいひとつの“足利聚落《あしかがじゅらく》”が造成されかけていたのであった。 「師泰《もろやす》」 「はっ」 「後醍醐のお身まわりを、もっと、弛《ゆる》やかにせよとか、また給仕《きゅうじ》の公卿人《くげびと》をふやせの、朝夕の供御《くご》をよくせよなどとは、一体、誰が命じたか」 「もとより、一存などではございません。さきごろ、大御所お直々《じきじき》に、花山院の旧御所を、そっとお見舞いなされました折の、おいいつけにござりまする」 「なぜ、聞き流しておかないのだ。そちは兄者の命を重しとして、直義の命などはと、ないがしろにいたす気か」 「めッそうもない。じつはその折、わが眼の前ですぐいたせとの大御所の仰せつけに、やむをえず、公卿三名と、舎人《とねり》雑色《ぞうしき》など七、八名を囲《かこい》から解いて、お座所の内へ入れたような次第でして」 「もうよい。すんでしまったものはぜひもない。しかしだな、きさまも御所を見張っている警固頭《けいごがしら》なら知っていよう。いかに油断のならぬお方《かた》であるかは」 「されば、昼夜をわかたず、花山院のまわりには、武士を立たせ、篝火屋《かがりや》を設け、おさおさ警固はゆるめておりませぬ」 「にもかかわらず、先ごろは、囲《かこ》いを破って、公卿の二、三や、菊池肥後守が脱走して逃げ、宇都宮も出家に化けて遁《のが》れ去ったとあるではないか。――それらはみな、外部の敵と、なにか結びをもっているにちがいないのだ」 「二度とは、さような手落ちのなきようにいたしまする。――なれど、たくさんな押込《おしこ》め人《にん》のうちには、やぶれかぶれな不敵者もあって、警固の武士どもを顎《あご》で使い、われらの叱咤《しった》も、セセラ笑って、一こう始末におえぬ輩《やから》もおりましてなあ」 「たれだ、そのような奴は」 「たとえば、山徒《さんと》の張本、道場坊|宥覚《ゆうかく》のごとき者でございまするが」 「宥覚か。這奴《しゃつ》は、大塔ノ宮いらい、いつも山門の大衆をあげては後醍醐方へ走らせた張本人だ。見せしめに、斬ッてしまえ」  直義は、峻烈《しゅんれつ》だった。  何事もおまえにまかせる。  将来は、まかせたい。  といった尊氏のことばを、そのままうのみ[#「うのみ」に傍点]にしている彼の自己過信は、近ごろ、その兄をさえ凌《しの》ぐ増上慢になりだしていた。そして兄のような温情主義を以てしていたら、敵性勢力の再燃は必至《ひっし》とみていたのである。  ――で、まず道場坊|宥覚《ゆうかく》をひきだして、阿弥陀《あみだ》ヶ|峰《みね》のふもとで斬り、また、本間孫四郎ほか数名を、三条河原で首斬らせた。――そのほか、解官停任《げかんていにん》の公卿《くげ》ばら[#「ばら」に傍点]も、かたっぱしから、獄舎《ひとや》同様な囲《かこ》いに抛り込んで監視するなど、粛清《しゅくせい》のあらしは、一時、満都をふるえあがらせた。  尊氏は、なるべく、一切を弟にまかせようとして、彼の御池殿《おいけどの》へさしずを仰ぎにくる諸将にも、あらかたは、 「直義に訊《き》け。錦小路《にしきこうじ》殿に従ってせい」  と言い、すこしでも、直義の権威に、箔《はく》がつくようにしむけていた。  が、時には、まかすにまかせておけぬ事態を見て、急遽、弟をよびつけていることもあった。 「兄上、何か御用でしょうか。不在中に、錦小路へお使いがあったそうですが」 「オ、直義か。近頃のそちのやりかたは、どうも、行きすぎではあるまいかな」 「阿弥陀ヶ峰、また、三条河原などで、後醍醐のお附人《つきびと》らを、処刑いたしたことを仰っしゃるので?」 「それのみでなく、御幽居には矢来《やらい》をめぐらし、諸事のお扱いも、一倍きびしいままと今日も聞いた。……あれほど、師泰《もろやす》へも先日、お弛《ゆる》やかにいたせと申しおいたのに」 「それは、師泰からもききましたが、以《もっ》てのほかな御方針かとぞんじまする。なにも御存知ないゆえ、さようなお情けをもたれるのではありましょうが」 「何も知らぬとは?」 「後醍醐のお企《くわだ》てがいかに深いものかということをです」 「知らぬことはない」 「いや、御存知ないといえましょう。――さきに北陸へ落ちた義貞の軍へ、とくに皇太子|恒良《つねなが》を付けてやられたなどの秘事は、お耳に入っておりましょうが、伊勢、吉野方面などの、けわしいうごきは、直義もつい昨夜知ったばかりですから」 「……?」 「北畠親房は、吉野で何かを策しており、四条|隆資《たかすけ》は、しきりと、和泉河内の残兵をかりあつめ、また親房の一子|顕信《あきのぶ》も、伊勢で戦備をすすめているということです。そのほか、諸国にわたって、皇子《みこ》なるものが、再起をはかっておりますのに、どうして、それらのうごきと後醍醐とが、無関係でありえましょうや」 「それはあろう。だがの直義。末梢《まっしょう》にかまっていては、政治はできぬ。要は、根本《こんぽん》の君とおはなし合いをすすめるにある。そちのような覇力《はりょく》一方をもって臨んでは、せっかくな和議も無意義。また、尊氏が徐々にすすめようといたしておる君とのおはなしあいにも邪《さまた》げとなる」 「おはなしあい? それは、どんなことを」 「さきに践祚《せんそ》はあらせられたが、新帝の光明院へは、まだ、神器のお譲《ゆず》りはおこなわれていない。何せ、神器の授受《じゅじゅ》を見ねば、正しい天皇の御位《みくらい》が継承《けいしょう》されたとは申し難い」 「それは、後醍醐のお手もとにあるのでしょうが」 「そうだ。さればこそ、内々《ないない》、尊氏から切に、神器のお譲り渡しをおねがい申し出てあるのだ。さる折に、そちが事をこわしては困るではないか。……さっそくに、御待遇《ごたいぐう》を、弛《ゆる》やかにあらためろ。……なお、それでもきかぬならぜひもない。そちを解任して、花山院の御警固は、他の者に申しつけよう。……いや、そういたしたくないのでいうのだ。直義、そちもはや三十男、わからぬことはあるまいがの」  そのご、み心も和《なご》まれてきたものか、神器は、とまれ円滑に、後醍醐から、持明院統の新帝光明院へ、お譲り渡しになることときまった。  それの正式な授受は、十一月二日におこなわれた。  すなわち、剣璽《けんじ》(剣と鏡と天子の印)は、一条ノ右中将|実益《さねます》、揚梅《あげうめ》ノ右少将|資持《すけもち》らがささげて、御使《みつかい》にたち、沿道には、折ふし入京していた近江の佐々木|道誉《どうよ》の兵が、例の、派手やかな軍装で立ちならんだ。  ようやく――  焼けあとにも、庶民の小屋が目立ち、市《いち》も町屋《まちや》も、戦前に返りかけていた。久しぶり平和な景色を人々は見たと思った。  かくて、押小路|室町内裏《むろまちだいり》での、儀式がすむと、同日、後醍醐へは、  太上《だじょう》天皇  の尊号が奉られ、以後、先帝ということになった。  そしてここに、  光明天皇  は、あきらかな皇位をつがれたわけだが、それについて、もちろん後日の話だが、奇怪な説がのこっている。  渡された神器は、偽器《にせもの》であったというのである。「太平記」だけでなく、北畠親房の「神皇正統記」もそういっているし、洞院《とういん》ノ公賢《きんかた》の「園太暦《えんたいりゃく》」も偽器としているのだから、これを何とも疑いようがない。  だがもし、これがほんとに偽器であったとしたら、直義が、あくまで、後醍醐を謀略の人としていたことは無理でなく、かえって尊氏は、余りにも後醍醐へ人間的な親近感をよせすぎていたことになる。  しかし、このさいにおける尊氏は、偽器か本物か、そんな点には、いっこう頓着していなかったようである。  ただしく、先帝から新天子へ、儀式をもって、譲位《じょうい》のしるしを、授受あらせられたからには、物が何であろうと、それは問うにおよばない。  譲位は、事実で示されたのだ。――それでよい、としていたものと思われる。  しかも尊氏は、その直後に、後醍醐の一皇子、成良《なりなが》親王をあげて、 “光明天皇の皇太子”  と、なした。  おそらく、これを以て、彼は、後醍醐への忠誠をあかしだてようとしたのであろう。そして後醍醐もまた、たいへん、およろこびであったと「園太暦《えんたいりゃく》」は記している。  事実、その通りであったろう。――旧来の慣例を破ったのは、ほかならぬ後醍醐自身であったのだから、破棄されても仕方がないところを、尊氏のほうからすすんで、両統交代の制をみとめ、将来の帝位|継承《けいしょう》は、ひとり持明院統の君だけでなく、大覚寺統――すなわち、後醍醐の子孫も――帝位につく資格があるものと、はっきり、示したわけなのだから、これが、およろこびでないはずはない。  その立太子《りったいし》の式は、十一月十四日に挙《あ》げられた。――自然、花山院の御幽居もまた、一ト頃のきびしさを解かれ、ひいては、後醍醐と尊氏との仲も、次第に円満を加えてゆくかと思われた。――だが、天下の風浪はまだ高い。なかなか外界の世上は、そんな一小康《いちしょうこう》もしていない雲行きだった。  十二月だった。  まだ門松《かどまつ》や竹こそ見えないが、町にも何となく年暮《くれ》げしきが色めいて、 「やれやれ、何とか、正月もできそうか」  と、焦土に働く庶民たちにも、かすかな“生きの験《しるし》”がよみがえりかけていた。  家を焼かれ、無《な》けなしの財を失い、やっと疎開の山野から戻ってきた彼らには、これをたれに訴えるところもなく。「もう戦は、ふるふるだ」「内裏様《だいりさま》がどちらであろうと、わしらには何のかかわりもない」「ひどい貢税《みつぎ》や戦のない世でさえあるならば……」「それがわしらの氏神《うじがみ》だよ。わしらによい氏神なら、どちらであろうと、ついて行くよ」と、まずはそんな声のみだった。それも庶民の旺盛な生態のつねとして、きのうの災厄《さいやく》などにはクヨクヨせず、もう懸命に働き働き、冗談まじりにさえ言ってることだが、じつは彼らの悲泣も悲願もそれにはこもっていたのだった。  こんなさいに、尊氏が公布した政令十七条の  建武|式目《しきもく》  は、時をえていた。  つまり憲法である。 “足利幕府憲法”であって、これの公布と共に、  幕府ヲ京都ニ置ク  という根本も、あわせて声明したものだった。  おそらく、この十七条の制定には、尊氏も心をくだいたことだろう。僧の是円《ぜえん》や幾多の智識をあつめて、評議連日におよび、彼は、それらの憲法の起草委員たちへ、註文《ちゅうもん》をつけて、 「法は、なるべく、単純がいい。そして法の要は、人の嘆《なげ》きがなくなることだ。天下よく治まり、怨敵《おんてき》も不安をなくし、みな嘆きのない人の世となることを、立法の骨子、政治の主眼として、起草してくれい」  と、とくに言ったという。  彼は、頼朝を慕ったが、頼朝の厳罰主義はとらず、これまでの怨敵も、なるべく助けよという主旨を取った。  一例でいえば。  元弘《げんこう》いらい、敗者の側《がわ》になって、土地を没収された俄か浪人は、たいへんな数である。野望の謀反《むほん》や悪行のすえ亡んだ主家はぜひもないが、その下に使われていた被官《ひかん》や家来の小領地は、どしどし、元の所有者へ返してやれと、尊氏はいう。  また、式目の中には、“点定《てんじょう》”という一条がある。  これは、庶民がやっと建てた家を、官吏どもが、税金の未納や、ささいな違法をたてに、すぐ“検封《けんぷう》”という処分に出たり、ぶち壊《こわ》して追い立てるなどの苛烈《かれつ》な官権をいうものだったが、尊氏はこれも、貧民いじめの悪政として、かたく禁じた。  無尽(金融)を興《おこ》せ。土倉《どそう》(質屋)を早く再開させろ。そして訴訟はすべて、貧しい庶民の訴えから先に取上げてやれ。――などという制も、こんどの政令の特徴であった。  年暮《くれ》の町では、これらの好影響もあり、また余りに抑圧《よくあつ》された人間欲の反動からも、これまでにない活気と賑わいを見せていた。  すると、ちょうど師走《しわす》二十日の夕方だった。――どこからか来た一|駄《だ》の酒商人の者と、花山院の警固小屋の番士らとが、そこの門前で、何やら物議をかもしていた。 「へい。ですが、てまえは」  と、酒商人は、ひたすら頭ばかりさげていう。 「こちらがどんな御事情か、何も存じて来たわけではございません。ただ届けろと申されたまま、お届けに上がったまでで」  一斗入りの酒瓶《さけがめ》五個、荷駄につんで、花山院のお台所まで届けておけと、かねも先払いで貰っているというのである。  警固の武士どもは、しきりに鼻をヒコつかせながら、その馬の背を巡ッてみたり、また酒商人の風態《ふうてい》を下から見あげて。 「きさまは、どこの者と言ったッけな。どこから来たんだ」 「それは、さきほども」 「ええい。訊いたら答えろ。よけいなこと申さずと」 「石川からまいりましたンで」 「河内のか」 「へい」 「散所民《さんじょみん》の多い所だな」 「てまえは、散所民ではございません」 「たれが散所民といったかよ。あのへんでは、寺でも大量に酒を造るそうだな。天野山金剛寺など」 「てまえどもでも、その天野《あまの》酒を頒《わ》けていただき、いってみれば、まあ、その下請《したう》けの販《ひさ》ぎ屋《や》でございますが」 「では、これは天野酒か」 「へえ」 「ふウム」  と、ついまた、鼻を鳴らしあって、べつな一人がさらに質《ただ》した。 「して、これを、花山院の御幽居へ届けろと、頼んだ客というのは、何者なのだ」 「それがつい、お名も伺っておりません。後からすぐ追いついて行くというお約束なんでして。……へい。そのお人の見えるまで、ひとつ……お邪魔でない裏御門のすみッこへでも、酒瓶《さけがめ》をおろして、待たせておいては下さいませぬか」 「まだ粘《ねば》ッてやがる。わからん奴だな。おいッ、こらっ」 「へい」 「ここはな、とりこになった先の天皇さんが、おしこめられている御所なんだ。ならん、ならん、持って返れ」 「どうも、それはよわりましたなあ。じつは御所へおいてゆくのは三瓶《みかめ》で、あとは市《いち》の小酒屋へ卸《おろ》して帰るつもりでしたが、御警固さんたち、ひとつ、いかがなもんでしょうなあ。一ト瓶ぐらいは、お愛想《あいそ》に、そちらへお廻しいたしますが」 「…………」  みな黙った。目と目だけで何か言っている。つまりは、酒商人のキリ札《ふだ》が、急に効《き》きめをもったものらしい。  神器の御譲渡《ごじょうと》、立太子の挙式、つづいて建武式目の公布などがあってからこっちは、ここの警戒や扱いも、自然ずっと、緩和《かんわ》されていたときでもある。  その晩、また。御所を訪ねてきた侍があった。  ――自分はもと刑部省《ぎょうぶしょう》の一吏員で、大輔《たゆう》ノ景繁《かげしげ》という者であるが、御所にかしずいている女房からの手紙によると、正月も近いというのに、余りにおわびしそうな先帝の御起居ぶりである。――で、酒などたずさえ、ご起居のお見舞に、所領地から出てきた次第。なにとぞ、そっと、御所内に入ることをゆるして欲しいと、番屋中一同の者へ、ぬかりなく賄賂《わいろ》をしての頼みであった。  刑部《ぎょうぶ》ノ景繁《かげしげ》とは、何者かの変名だろうし、さきに御所内へ入りこんだ酒商人も、一味の徒《と》であったに相違ない。――それを警固武士はしごくのんきに見すごしていた。天野酒の大瓶《おおがめ》を番屋に持ちこんで、翌晩などは、みな酔いつぶれていたらしい。  このあいだに、御所内では、ひそひそ、 「首尾《しゅび》こそよし」  と、していたであろう。  ひるには、女官の新勾当《しんこうとう》ノ内侍《ないし》が、母の危篤《きとく》とかで、おはしたの女や小女房ら数名と共に、輿《こし》に乗って、外出していた。だがこれは、警固所へも届け出のあったことであり、武士たちも知っていたのである。  ――が、当夜。  宵《よい》すぎてからの妖《あや》しい一群の脱出者には、全然、気づいていなかった。  そのうちの主《しゅ》たるお人は、女房|衣《ごろも》をあたまから被《かず》いていたので、たれかは、夜目にもちょっと分らなかったが、しかしすぐあとに起った騒動によって、それが、後醍醐の君であったのは疑いもない。  じつに思いきった行動に出られたもので、薄氷《はくひょう》を踏み、つるぎの刃《は》を渡るにひとしい、冒険だった。  もしこれが、失敗したら、どうなったかは、想像に余りがある。――それゆえに、外部とのしめしあわせも、充分、抜かりのない用意のもとにおこなわれたことではあろう。――思うに、ひるま、新勾当《しんこうとう》ノ内侍と称して外出した女性たちのうちには、准后《じゅんごう》の阿野廉子《あのやすこ》もまじっていて、すでに彼女はさきにここを落ちていたものであったろうと想像される。  そして、女装された後醍醐のきみには、細川ノ権大納言|光継《みつつぐ》と二、三人の蔵人《くろうど》がつき添い、また、酒商人に化けていた男と、怪武士の景繁《かげしげ》とが、お手引きの案内にたって、御所の裏門附近の築土《ついじ》を、彼らの背なか梯子《ばしご》で、お越えになったものらしい。  すでに、この夜。築土の外には、数名の人影が、そまつな板輿《いたごし》、はだか馬などを寄せて、待っていた。  もちろん、これらの武士は、はやくから吉野や伊勢方面に蠢動《しゅんどう》していた宮方残党からの派遣者にちがいなく、 「しめた!」  と、そこの暗がりに、妖しい気勢を戦《そよ》がせていたのもつかのま、たちまち、龍を乗せた一朶《いちだ》の黒雲のように、この一団の怪影は、まだ宵の人通りもあった時刻だけに、かえって、洛内の人目を紛《まぎ》れ、すべて、行方をくらましてしまったのだった。 「や、や。なんだろう」 「お沓《くつ》の片方だ?」  定例の見廻りが、築土の下に、異状を見いだしたのは、すでに明けがた近かった。  それも、番屋衆では下級の者たちだったので、すぐ、お座所を点検してみるなどのこともせず、やがて遅い番所頭が出て来た頃に訴えたので、時は、充分に過ぎ去っていた。 「た、たいへんだぞ、これは」 「先帝がお見えなさらん」 「侍者もいない」 「しまッた!」  洛内じゅうは、当然、かなえ[#「かなえ」に傍点]の沸《わ》くような大騒動になった。  この突発事で、とくに緊迫した混雑を呈したのは、三条錦小路の辺で、当然、それは直義《ただよし》のいる一|殿《でん》から庭上にまでおよんでいた。  彼が、自邸で、  先帝の逃亡――  と、事の変《へん》を知らされたときは、すでに陽も高く、責任者の警固がしらや篝屋《かがりや》番の武士などは、もう首のない人間みたいに、階下の地上にヘタ這《ば》っていた。また、変を聞いて集まってきた諸将もみなただ狼狽の色でしかなかった。 「木幡《こばた》、奈良街道。……宇治川すじ、淀川一帯。さっそくに、手配は抜かッておるまいな」 「仰せまでもなく」  と、階下にある一群の武士の中から、ひとりが答え。 「およそ、街道という街道へは、騎馬の追手を派し、また細道へも、兵を放って、くまなく、捜してはおりますが」 「まだなんの手がかりも聞かれんのか」 「……。はっ」 「ふとしたら、義貞のいる金ヶ崎城へ落ちたか、なども考えられる。若狭《わかさ》街道や、龍華越《りゅうげご》えへも、追手をやったか」 「いや、そこまでは、よもやと存じまして」 「それが抜かりと申すものだ。北国ばかりでなく、伊賀甲賀の奥まで捜せ。伊勢へ落ちたと見られんこともない」  直義は、あきらかに、焦躁をつつんでいた。また一面には、兄の尊氏へたいする忿懣《ふんまん》を抑えきれずにいた。いうなれば、その忌々《いまいま》しさは、こうなのだった。  ごらんなさい!  このとおりだ。結果は。  これはみな、あなたの微温的な手心、つまり温情主義が、あだ[#「あだ」に傍点]に返って来たものでなくて何でしょう。  それをあなたは、政治だと言います。そして、軍《いくさ》によらず、力を用いず、努めて物事を話しあいの上で運ぼうとする御主旨のために、直義も服すしかなく、後醍醐の身辺も、いらい、仰せのままにして来たものだ。  どうです! いまはお目がさめたでしょうが!  直義はまだ、けさから兄に会っていないのだが、その尊氏の御池殿《おいけどの》の方へも、もちろん、高《こう》ノ師直《もろなお》らが駈けつけて、事は、さっそく報告されているにちがいない。そして、そも、兄がどんな顔してこの勃発事を聞き、また、仰天したことかと、見てもやりたいほどに思った。  けれどこんな言い方は、兄弟同士の、いわば感情の内訌《ないこう》に過ぎないもので、それを表面に出すほど彼もおろかな弟ではなかった。むしろ、表面では、 「帰するところ、直義の責任だ、わしの不覚だ。力をあわせて、詮議《せんぎ》につくせ」  と、あらゆる機関をして、八方へ追捕《ついぶ》を派し、その情報を待つしかなかった。  午後。――彼は自身で花山院の旧御所を検分に出かけ、そのもぬけ[#「もぬけ」に傍点]の殻の状態を親しく見てから、帰りの駒を、兄の御池殿の方へ向けていた。  後醍醐のお行方は、この夕にいたるもまだ、杳《よう》として何も聞えていず、直義は、無性に腹がムカムカしていた。これが、兄の顔を見たとたんに、つい爆発してしまいはせぬか、われながら途々、恐《こわ》い気もちだった。  尊氏の“諸事、直義まかせ”の方針はみな知っていたが、衆目はやはりここを、大御所とみて、事があれば、一族の重臣格は、招かずとも、すぐこれへつめかける。――そして御池殿の広間に寄合う。――とくに今日は沼のようなおもくるしい一日だった。  あの師直《もろなお》が、 「世情はまだ渾沌《こんとん》だわえ。夜明けるたびに、何が勃発しているか、油断もならん。イヤ、どえらい事になったものよ!」  と、猪首《いくび》を振って言った諧謔調にさえ、たれひとり苦笑も示す者はなかった。  そこへ。 「錦小路殿のお見え」  と、聞えてきたのである。人々は、必然な期待と色めきを持って彼を迎えた。  しかし、これへ臨んだ直義の眼も、ギラついていた。なす事もなく、ただこれにいる一同へすら、腹をたてているやに見える。――後醍醐の逃亡先は、いぜん分らん。かいもく知れん。――と、告げたのみで、 「ここに大御所はお見えでないが、兄上はまた、奥で、地蔵《じぞう》のお絵でも描いておられるのか」  と、かんで吐き出すように、言ったりした。  が、その尊氏は、彼を待っていたのであろう。直義が見えたと聞くと、やがて姿をみせた。そして、おもむろに、一同へむかって言った。 「すべてわしの目違いだった。何ら直義の手落ちではない。しかも、このたびのことは、後醍醐のきみの、御意《ぎょい》のままに出たことで、以後の責任はわれらにはない。一に自然の運《うん》であり御落去《ごらっきょ》であり、憂いは憂いだが、また、吉事《きちじ》ともいえるだろう」  まったく、いつもと変らない容子である。人々は、ことに直義は、兄は少しどうかしているのではないかと、ふと、あやしんだほどである。  が、尊氏は淡々《たんたん》と。 「思うてもみい。もし花山院の御警固があのままだったら、その負担は容易でなく、かつは、それには期限がない。また後醍醐のきみとて、生身《なまみ》でおわすからには、不予《ふよ》のお病気《わずらい》や万一などもないとは限らん。そのたびには、尊氏を憎む者から、この尊氏はあらゆるむじつ[#「むじつ」に傍点]の疑いと悪逆の名をかぶせられよう。さればとて、北条氏がやったように、遠国へお遷《うつ》しするようなまねは、断じてできぬ。結局、いかがしたものかと、じつは内々、悩んでいたところへ、思わざる今日の出来事だった。きみ、おんみずから、このんで、御落去あったこと。まずは天道《てんどう》のはからいと申すべきか。いずれにせよ、畿内《きない》あたりに御座《ぎょざ》あろうが、あとは自然と叡慮のままにおまかせ申しておけばよい。……さればさして、驚き騒ぐにはおよばん。むしろ不幸中の幸いと思うがいい」  これは、ひとつの解釈だった。しかし、たれにも思いいたらぬ解釈である。そして、掌中《しょうちゅう》の大敵を逃がしたなどと悔やむ色も狼狽《ろうばい》もまったくない。  こういう度量こそ、大器《たいき》のお人の腹であったかと、人々は、感にたえて尊氏をまた見直したということである。が、尊氏は何事もなかったように、 「直義。ほかに、よい話もあるぞ。あとで奥へ来いよ」  と、先に座を立っていた。 底本:「私本太平記(七)」吉川英治歴史時代文庫、講談社    1990(平成2)年4月11日第1刷発行    2009(平成21)年12月1日第25刷発行    「私本太平記(八)」吉川英治歴史時代文庫、講談社    1990(平成2)年5月11日第1刷発行    2009(平成21)年12月1日第27刷発行 ※副題は底本では、「湊川帖《みなとがわじょう》」となっています。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:門田裕志 校正:トレンドイースト 2012年11月9日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。