私本太平記 世の辻の帖 吉川英治 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)罪《つみ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)一|勢《ぜい》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)咡 ------------------------------------------------------- [#3字下げ]罪《つみ》の暦《こよみ》[#「罪の暦」は中見出し]  先帝《せんてい》後醍醐《ごだいご》の隠岐《おき》遠流《おんる》。  二皇子の四国流し。  その日は近かった。あと二日ほどでしかない。洛中は車馬のうごきにも緊迫した時局が見えて、不気味な流言もまま飛んでいた。 「楠木《くすのき》はまだ生きている!」 「正成《まさしげ》はまだ死んではいない」 「赤坂落城のさい死んだとみせ、じつは大塔ノ宮と共にどこかで指揮をとっている」  時も時ではあり、熱病の熱が再発したように、この流説《るせつ》はぱっと拡がり、かつ一般に信じられていた。  六波羅のうけた衝撃は小さいものでない。  もし事実なら、洛中の諸大将などもまた、鎌倉表へたいして、面目もないわけだ。  彼らは赤坂落城と同時に「正成も火中に死したり」と公報して、いい気な“凱旋酒《がいせんざけ》”に酔っていたものである。だから口々に、 「流言《るげん》にすぎぬ」と、打消し、 「流言が作り出す亡霊だ、大塔ノ宮はともあれ、正成が生存しているはずはない」  と表面、平然を装《よそお》うていたが、しかし動揺のいろ蔽《おお》いえないものがあった。  それの証拠には、在京諸軍をあげて、洛外七道の街道口その他に非常の布陣が行われ出した。いうまでもなく、幻《まぼろし》の敵にたいする先帝奪回の封じ手だった。――高氏の一|勢《ぜい》などもまた、羅刹谷《らせつだに》を出て、大和口の三ノ橋に、こよいも篝火《かがりび》をさかんにし、非常の警備についていた。  その宵《よい》ごろだった。 「待てっ」  とつぜん、三ノ橋のたもとで、槍ぶすまを突きつけられ、ぎょっと立ちすくんだ旅人がある。 「どこへ行く?」  旅の男は答えた。 「京へ入ります」 「知れたこと、何しに行く」 「てまえ、具足師《ぐそくし》でございますので、さるお方の御宿所まで」 「ならん。ここ数日は、京口一切、夜中通行止めとある高札を見ていないのか」 「はて」  男は、ほかを見廻して。 「もしやここは、足利殿の御陣ではございませぬか」 「いらざることを申すな。何でもあれ、通すことはならん」 「ならば、高氏さまへお取次ぎ下さい。具足師の柳斎《りゅうさい》ですがと」 「えっ、柳斎」  末端の兵では、一色右馬介の顔は知らない者が多い。しかし柳斎と聞けば、しばしば殿が座辺に近づけている隠密と知っている。  まもなくその右馬介は、高氏のいる野外の床几場《しょうぎば》へみちびかれていた。高氏が彼と会うときはいつも人をそばにおかないのが例だった。だから右馬介の所在やその使命などは、ふたり以外に知る者もないのだった。 「なに。堺ノ浦から、宮方残党の者が、ここしきりに舟で山陽方面へ移動していると申すのか」 「はい。それもお耳に入れおきたく、また、巷《ちまた》の風説の如く、多聞兵衛正成《たもんびょうえまさしげ》の生存も、確かめられましたゆえ、一応お知らせにもどりました」 「そうだろう!」  高氏は膝を打った。じぶんの観測は中《あた》っていた。将は将を知る。独り愉快を禁じえぬらしい。 「かねて正成の人となりは、そちからつぶさに聞いていた。その正成が、小城一つ失ったとて、やわか、むなしく焼け死ぬものか。藁人形《わらにんぎょう》ではあるまいし」  柳斎、じつは右馬介の、隠密情報によると。  そのご大塔ノ宮は、吉野を根拠に、依然、宮方の士を募ッており、正成は一時、伊賀に身をかくしていたが、近ごろは、和泉、摂津の辺まで出て“幻の軍”を指揮している形跡がある。のみならず、はやくも奥金剛《おくこんごう》の山中には、第二の赤坂城の築塁《ちくるい》にもかからせて、  主上奪回  の目的と、宮方再起の日とを、かたく期している模様だとのことだった。 「さもあるはずだ」  高氏には、どれ一つとて、疑えもしなかった。  彼が、正成の人物をこう重視していたのも、戦前すでに詳《くわ》しい“柳斎情報”を握ッていたからではあるが、彼自身も、四月《よつき》にわたる畿内《きない》遊撃のあいだに、正成の郷土の衆望や人間の奥行きについては、かなりその真相を窺《うかが》いえていたからだった。 「では、このところ密々に、その正成と、山陽方面の宮方とが結んで、なにか謀《はか》っておる形勢と申すのか」 「さようです」  右馬介は、自信をもって、はっきりいった。 「――さきに備前で宮方に呼応した桜山|茲俊《これとし》は、一時|破竹《はちく》の勢いをみせ、またたくまに備中、安芸のあたりは、その配下かとみえましたが、笠置、赤坂の落城がきこえて、部下は離散し、茲俊は同国一ノ宮にて、それこそは紛《まぎ》れなく自刃して果て、火の消えた如く消滅してしまいました」 「むむ」 「したが、火だねは絶えず、近ごろまたも、桜山につづいて、備前には児島三郎高徳《こじまさぶろうたかのり》なる者が起り、瀬戸ノ海を隔てながらも大塔ノ宮、正成らと款《かん》を通じ、虎視眈々《こしたんたん》、機をうかがっておりますそうな」 「とすれば、島々の海賊、村上なども一部は宮方へ加担とみえるか」 「さ、そこまでは私の眼や耳ではとどきえません。が、堺のうごきから察するに、正成は、先帝の龍駕《りょうが》を奪うにも、しょせん、都附近では、事成りがたしと見て、遠く護送使の列が、備後《びんご》、美作《みまさか》の山中の行旅へかかる日、その願望を遂げんとするのではありますまいか」 「む! その手はあるな」 「されば、先帝の隠岐送りも、行く先、すこぶる危ないもので、おそらく、児島高徳の一類に楠木の与党も交《ま》じって、その途上に、手ぐすね引いて、おろうかと観《み》られまする」 「右馬介。そのこと、人にはゆめいうなよ」 「なんで、殿以外に」 「よしっ。なお、あさってのお道筋、摂津、兵庫の泊り泊りへも眼をくばって、異状を見たら、すぐ暗文にて、早馬を打て」 「こころえました。では、あわただしゅうございますが、ほかならぬ日、すぐお別れを」 「おお行け」  しかし、高氏はふと、彼の背へ、何かもいちど呼びかけそうにした。右馬介に訊けば、なんであの藤夜叉が、無断で一色村を出てきたか、くわしく仔細も分ろうにと、ふと迷ったからだった。  ところが、その時、伝令の大声が、三ノ橋からここの床几へ触れ渡していた。 「お目付《めつけ》の巡回です。軍監の佐々木殿が通られます……」  道誉の巡視隊は、れいの黄母衣《きほろ》組十二騎以下、歩兵五十人ほどをつれていた。  獄帝の島送りも目前なので、万一をおもい、軍監として一巡、諸所のまもりを見廻って来たものだろう。鳥羽、伏見をへて、いま大和街道口の三ノ橋までかかって来ると、 「オ。足利殿の持ち場だな」  呟《つぶや》いて、彼は道の真ん中でヒラと駒からとび降りた。  と、床几場から高氏の影が、大股に歩みよっていた。相互は、折目ただしい陣中の礼で対し合った。――あれ以後、小右京のいきさつは、どっちからもまだ、その蟠《わだかま》りを口にして解く機会もなくつい過ぎている。――が、そんな個人感情など、みじん胸にもないかのごとく、金属と皮革にくるまれた武門姿は、毅然《きぜん》と相対すことを不自然でなくすぐ持ちうる習性を身につけていた。 「ご巡察、ご苦労にぞんじます」 「いや、足利殿にも」 「さらには、隠岐へお立ちの準備も、あす一日。おたいていではありますまい」  道誉、それには答えず。 「大和街道からこの辺には、何も怪しいうごきは見えませぬか」 「は。いまのところは」 「京の内外、鉄桶《てっとう》のごときこの警戒には、さしも企《たく》んでいた残党どもも、ついに手も足も出せずに終ったものとみえる。したがまだ、あす、あさって、くれぐれお抜かりなきように」 「ご念にはおよばぬ」 「では。あさっては早や、それがしは先帝警衛の任について隠岐へ立つ。……高氏どの、これで当分お目にかからぬかもしれん」 「長途の旅、しかも容易ならぬお役目です。つつがなきお果たしを祈っておる」 「お。やがてまた、この窮屈な物を脱《ぬ》いで、ゆるりとお目にかかりたいものだ。さらば、ごめんを」  馬上にかえると、道誉は高い所から、もいちど高氏へ目礼《もくれい》をこぼして、黄母衣組以下をひきつれ、二ノ橋、一ノ橋と大宮大路を五条の方へ去って行った。 「…………」  高氏は、道誉の列が、闇と一つになるまで見送ってから、いちどは元の床几場の幕《とばり》へ向って歩き出していた。が急にまた、道の真ん中へもどって、 「おいっ、馬を貸せ」  と、並木の向うにいた部下の一将をさしまねいた。 「ご乗馬ですか。ただいま」  その者が、高氏の駒を曳きに駈け出そうとすると、高氏は、 「その馬でいい。そちの馬をちょっと借りるぞ」  とばかり、はや道誉のあとを追っかけていた。  彼は道誉と、このまま別れるに忍びなかった。型のごとき礼と、型のごとき陣前の言などは、何ら人間同士の出合いでもなし別れでもない。  たった今、柳斎の右馬介から、自分だけは、遷幸《せんこう》の途中にあたる中国路方面のけわしい情勢を聞きえている。  ひょっとしたら、道誉は、こんどの警衛の途中で、討死の厄《やく》にあうかもしれぬ。よし万死に一生をえても、彼の一大厄難はまぬがれ得まい。 「惜しい! あれ程な男を、むざと見殺しにするのは」  と、俄に彼は、目さきの小を捨てて、未来の大をつかみにかかっていたものだった。 「や。高氏の声らしいが」  道誉は馬をとめて待った。不審にたえぬかのような姿である。なんで高氏があとを追っかけて来たのか? と。 「佐々木どの、言い残した。一言告げたい。しばらく」  すぐそこへ来た駻馬《かんば》は、高氏の手綱にしぼられ、相寄ろうにも、急には自由にならなかった。 「用とは、軍のことか、わたくし事か」  道誉は、なにかを邪推していた。小右京の件は、早川主膳からとうに聞いていたろうし、それの鬱憤《うっぷん》はもちろん、高氏へふくむ意趣の根も胸くそ[#「胸くそ」に傍点]悪く突っ張っていたにちがいない。 「もとより軍事。しばし人を遠ざけていただきたいが」 「人を払えと?」  それにも、道誉はちょっと狐疑《こぎ》した。が、すぐ手をあげて「みんな遠くで、暫時、休息していろ」と、いいつけた。  大宮大路の暗い風は、二騎だけを吹いていた。道誉はなお、高氏がなにを言い出すかと、たぶんに感情を研《と》いでやまない。  だが高氏は何のこだわりもない風だった。先ごろ、ついこの辺で道誉の家来たちを懲《こ》らしたことも、以後、小右京の身を山荘にひきとっていることなども、忘れていた。――そしてただこの一怪物を、将来の用のため、自家の薬籠中《やくろうちゅう》のものにしなければと、ひそかに誓っていただけだった。 「道誉」  もう裸でいい。彼はわざと、友達としてそう呼んだ。 「おぬしのことだ、用意に抜かりはあるまいが、たった今、細作《さいさく》(隠密)から耳にしたゆえ、心配の余り告げに来た。護送使の任には、手勢どれほど率いて行く気か」 「千葉、小山、自分をあわせて、兵五百。小荷駄一小隊の予定だが」 「それや、あぶないものだ。少なくも千以上は引き具《ぐ》して行くがいい」 「なぜ」 「先頃来《さきごろらい》、宮方臭い者が、続々、堺ノ浦から山陽方面へ移動しているそうな」 「ふうむ」 「のみならず、備前の住人児島高徳らが、それと結んで、中国山脈の要地に待ち伏せ、隠岐送りの龍駕《りゅうが》を襲って、先帝を奪い回《かえ》さんと目企《もくろ》んでいるとも聞いた」  つい今し方、柳斎の右馬介へは「誰にも洩らすな」と口止めしていた一事を、高氏は、道誉にはみな告げてしまった。いかな道誉も、この好意は、恩とも感じるであろうと、自分なみに相手を量《はか》ったものである。  ところが道誉は、けらけらと笑い出した。その手は食わないといわぬばかりだ。しかし失笑を洩らしたのは、よくないと思ったらしい。俄に顔をあらためて、いんぎんに頭を下げた。 「ご注意、かたじけない。だがの高氏どの。広言には似たれど、山波の彼方の旅路で、やみやみ山家武者の待ち伏せに陥る道誉でもないつもりだ。お案じあるなよ、策なきにしもあらず、いずれ帰洛の後、あらためて御見《ぎょけん》に入ろう。ご辺《へん》こそ、ずいぶんお身大事にしておられよ」  自然、語気に陰性なふくみがあった。言いすてると、墨《すみ》を吐いた烏賊《いか》のように、道誉の駒影はもう高氏をおいて、彼方へ駈け去っていた。  駈け去りながら道誉はクツクツ内心で快味を覚えた。――後で、唖然と自分の駒を見送っているであろう高氏の顔が、彼にはおかしい腑抜け顔に描かれていた。 「這奴《しゃつ》。おれの機嫌をとるつもりだったな。ふざけるな。小右京の件を、それで帳消しなどとは虫がよすぎる」  もとよりこれは彼の胸だけのものである。やがて待たせておいた黄母衣《きほろ》以下の先頭に立って悠々と行く彼のうちに、そんな毒が在るとはたれの目にも見えない。  すでにその道誉は、洛内巡察もすませ、佐女牛《さめうし》の邸へ戻っていた。 「――まずは今夜も無事」と、自祝のくつろぎにかかっても、疲れは知らない肉体らしい。手にはすぐ杯、周囲には、女たちの香を立ちけむらせないでは、我に返った気もしないかのような彼だった。 「殿。……お憩《いこ》いのまに、早川主膳めが、そっとお目通りを願っておりますが」  黄母衣の一人、田子大弥太《たごおおやた》がおそるおそるこう言って来た。あんのじょう、主膳と聞くと、道誉の酒機嫌は一変した。 「あいつめが、なんでのめのめ、おれの前へ出られるのだ。出られるものなら出てみせい」 「はっ……」 「すぐる日、高氏にはよい恥を掻かされ、あげくに小右京の身まで奪われ去ッたという不始末者だ。腹も切らせずにおくだけでも、ありがたいと思うていぬのか」 「重々、自責しぬいてはおりまする。で、主膳めも、雪辱に肝胆《かんたん》をくだいたすえ、何かその儀について、お耳に入れ申したいことがあるよしで」 「執《しつ》こいやつだな。いやしかし、この道誉とて妄念は捨てきれん。さほどにいうなら聞いてやろう。ただしだぞ、万一またも失策《しくじ》ッたばあいは、有無《うむ》をいわせず頭を丸坊主にして、国元の寺へ左遷《させん》するぞと、先に言い渡してから面《つら》を出せ」  すさまじい命である。  佐々木の家中は、すべてこの主人の毒づき[#「毒づき」に傍点]には馴れていた。がまた、ときによってはこんな物分りのいい磊落《らいらく》で明るい主君もないとおもう。彼らはのべつ、それとこれとの差引き勘定の空間で、つい離れがたい主従のきずな[#「きずな」に傍点]にあるような家風だった。  音もなく、いつのまにか、遠くに平伏している者があった。 「……主膳か」 「はッ。そのごは」 「ま。一杯つかわす。ずんと寄れい。……何用だ、このどじ侍[#「どじ侍」に傍点]」 「おそれいりますが……」 「なに、人がいては都合が悪いか。では、女どもはみな立て。……ところで主膳、その腰抜け振りで、どう先ごろの雪辱をいたす気か」 「こんどこそ、きっと致さねば、一分が相立ちませぬ」 「羅刹谷から小右京の身を奪《と》り返す策でもあるか」 「いえ、羅刹谷へは、しょせん手が出せませぬ。それに代るべつな女性を、小松谷から奪って、ご鬱憤《うっぷん》に供えたいと存じますので」 「小松谷。小松谷といえば、探題仲時どののやしきだが」 「さようで」 「はて。そこの女性とは誰か」 「誰とおぼし召しますな」 「わからん。わかる筈はない」 「殿。……」  主膳はずっと膝をすすめた。そして指でたたみの上へ、  藤夜叉  と、書いてみせた。  藤夜叉が都へ来ている。それは彼も初耳だったようだ。  主膳の咡《ささや》きは、彼の悪酔をなお濃密なものにした。驚きと、ほろ苦い失恋の追想の中にである。  おそらく、今は女ざかりの熟《う》れ頃にあるであろうが、以前の稚《おさな》い田楽女《でんがくひめ》の藤夜叉を思うだけでも、彼の中には、ぼつ然と、かつての猥情《わいじょう》が再燃していた。それも往年の比ではない。この猥漢《わいかん》の色道年歴も一ばい長《た》けて来た今日だった。 「もともと、藤夜叉はおれがお抱えの田楽女だ。取り返したとて何が悪かろう」  就寝しても、彼は小右京と藤夜叉との肌を妄想の中でくらべていた。どっちの性も未知である。しかし藤夜叉を屈伏させてみることに伴《ともな》うほどな嗜虐味は、小右京の清麗さには期待できない。 「……ま、主膳めに、まかせておこう。這奴《しゃつ》もこんどは失策《しくじ》れまい」  瞼は眠った。  と見えたが、寝つかれぬ様で、またも、枕の位置などかえていた。 「……はや、あす一日か。隠岐までは渡海せぬにせよ、出雲《いずも》まででも日数はずいぶんかかる。しかも途中容易な気づかれではあるまいて。……だが、はからず旅帰りの愉しみが一つ出来た。主膳めの才覚で、首尾よく留守のまに事が成就《じょうじゅ》しておれば」  こんどこそほんとに眠りに入ったらしい。頬の黒子《ほくろ》まで寝顔の中で寝入っている。  三月六日だ。  明けるも待ちかねていたように佐女牛《さめうし》の邸は忙しげな物音だった。  道誉もはや起き出し、 「みな心得ておけよ。隠岐遷幸《おきせんこう》のご発駕《はつが》はいよいよ明日だぞ。あすの巳《み》の刻《こく》(午前十時)六波羅を立つ」  広縁から庭へ向って、庭上にあつめた黄母衣組の者や物頭たちへ告げていた。 「それとな、大弥太」 「はっ」 「さきには、当家の出勢百五十名と触れおいたが、ちと編成をかえるによって、さらに百名を加えて行くぞ。昼中に、新たな人数を動員しておけ」 「心得まいた」 「共に警衛の旅に赴《おもむ》く千葉、小山の両家へも、今より参って、増員をうながすつもりだ。春の日は永いなどと思うな。今日一日だぞ。――道誉はなにかと打合せのため、夜までは帰邸せぬかもしれぬ。しかし兵の装備はもとより、留守の配置など、すべて抜かりなくしておけよ」  そしてまた、 「そうだ……」と、横を見て、かろく言った。「主膳、そちは老臣|輩《ばら》をたすけて、留守役にまわれ。なにかと言いおいたこと、忘れるな」  すぐ衣裳を着がえる。  これがまたやかましい。京童《きょうわらべ》から“道誉羽織《どうよばおり》”とよばれている彼好みな改良仕立ての陣座羽織が幾通りもある。外出のたび、彼は自分で選ぶ好みでなければ着て出ない。  千葉ノ介の宿所、小山五郎左の陣所と、あすの事の談合にあるいて、午すこしすぎ、六波羅へ顔を出すと、待ちかねていたように、探題仲時が彼に告げた。 「いや、よい所へ。じつは獄舎《ひとや》のうちの先帝が、頻りに御辺《ごへん》をお待ちかねで、道誉、道誉と再三にわたッて侍側の者へごさいそくあらせられる由。どうも御辺でなければいけぬことらしい。恐縮だがすぐ伺って下さるまいか」 [#3字下げ]人霞《ひとがすみ》[#「人霞」は中見出し] 「公卿日記」によると、元弘二年三月七日の天気は、前夜から風もなく、晴れが予想されていたようである。朝のま、薄雲ひくく閉じて明けなやむかの如し、とあるなどは京洛の春のつねで、盆地の朝霞《あさがすみ》が、鶏鳴《けいめい》となってもなかなか朝光を空に見せずにいたものだろう。  まだその頃のうち。六波羅|殿舎《でんしゃ》の大屋根は墨を刷《は》いて、内苑の篝《かがり》はチロチロ衰えかけ、有明けの黒白《あいろ》もなお、さだかでなかった。  が。よく見ると。  主殿《しゅでん》の中門廊のほとりに、廊の欄《らん》へ寄せて、牛を外《はず》した一|輛《りょう》の女車がすえられてあり、ややはなれた所には、供の人々であろうか、ひれ伏した人影が、すべて声もなく、地へ滅入《めい》りこみそうにじっとしていた。 「…………」  あまりな静けさである。漏《も》らすまじと、御車《みくるま》のうちでせぐり[#「せぐり」に傍点]あげている苦しそうなお忍び泣きも、ありあり外にまで洩れ聞えていた。――で従者たちもみな、もらい泣きして、地に嗚咽《おえつ》をこらえているのだった。  車は、中宮(皇后)の常々召される青い檳榔《びんろう》の糸毛車《いとげぐるま》なので、内のおん方も、誰かと、ただすまではない。  中宮の禧子《よしこ》(後醍醐の正后)の君で、前の御簾《みす》も、まざまざ、捲き掲《かか》げられてある。 「……名残りはつきぬ」  こう聞えたのは、背のきみの後醍醐のお声だった。――帝の朧《おぼろ》な影は、そこの廊の欄を境に、手も届くばかりな所に見える。が数尺のへだては、絶対な鉄の隔離を掟《おきて》づけ、すがり寄って泣くのもゆるされない今朝のお別れなのだった。  いや。まだしもこれは、皇后の禧子にすれば、おもいがけない倖せとしなければならない。……しょせん、お目にもかかれまいと、ゆうべまでは野々宮の女院の深くにただ悲しみ沈んでいたのである。  ところへ、佐々木道誉と名のる大将がおとずれて、 「隠岐へお立ちのまえに、仰せには、中宮に一と目会わでは心残り、それ計らえと、この道誉へ畏《かしこ》きお頼みでした。が、院(新朝廷)のみゆるしを待つひまはなし、ぜひなく道誉一存にて、ご案内にまいった次第。ご疑滞《ぎたい》なく、すぐさまお身支度を」  とのことだった。  それはもう夜半すぎだったが、中宮はとるものも取りあえず、車にかくれた。そして道誉のみちびくまま夢心地に六波羅へ来たのであるが、急ではあったし、去年いらい、わが良人《つま》の帝《みかど》を見るのは百九十日ぶりのこと……。何から言ってよいやら、大事な時間は、むなしく刻《きざ》まれてしまい、ただ涙に過ぎるばかりだった。 「禧子。身を大事に。……この期《ご》にわが身のしてやれることは早や何もない。ただ内親王(二人の仲の女子)を身のかたみと思うて、つらい日を忘れて暮らせよ」  そこの後醍醐の影も、お一人ではなかった。警固の武士が、くろぐろと後ろに見える。恐《こわ》い耳があるのだ。かりそめな言葉の端も口には出せない。 「みかどにも。……どうぞ、おからだのみを。……そればかりが」  中宮は言いかけてはすぐ後も先もなく車の内の身もだえに消え入った。そしてもう鼓楼《ころう》で告げる卯《う》の刻《こく》(午前六時)の太鼓に胸を挫《ひし》がれた。 「時刻だ」  どこかで荒々しい声が告げる。 「中宮のお供たち。早や御車を返されい。ぐずぐずしていると道を塞《ふさ》がれるぞ」  空も明るむ。六波羅中は、黒い霞の中で、俄に活動し出すような物の気配だった。  いやおうはない。糸毛車の簾《す》が閉じられるやいな、わだちはもとへ旋《めぐ》っていた。中宮の慟哭《どうこく》そのままに、車の姿も、中門の外へ、揺れ揺れ消えた。  同時に。  中門廊の後醍醐の影も、黙然と、廊の奥へ消え行かれた。――昨日からのこと。お座所は、樗門《おうちもん》の獄舎から庁の主殿《しゅでん》の一室へうつされていたのである。  獄の垢《あか》、爪、理髪、お髯《ひげ》まで、すべて身浄《みきよ》めや衣服のかえはここで行われた。  もちろん、遠流《おんる》の宣告は、院(後伏見上皇)のお名をかりて、数日前に、果たされている。  そのさい幕府側では、おそらく素直なご承服はあるまいと観て、それのいい渡しには、甲冑《かっちゅう》の示威をも用いたほどだったが、案外、後醍醐は、 「そうか」  とのみで、莞爾《かんじ》ともなされなかったが、なんら逆鱗《げきりん》ともみえなかった。幕府側は、空《くう》を打った思いをして、 「さしも、今はこれ天命と、すべてを神仏にまかせられたか」  と、後では言ったものである。  事実、お身近な二人の侍者《じしゃ》にも、三名の妃にも、そううかがわれた。ひたぶる何かを呪《のろ》うが如く赤い濁りをおびていたおん眼のうちも、この頃は澄明な以前のものに返っており、折に柔和な笑みさえたたえられる。ひとつには女性の侍《かしず》きが和《なご》ませて来た効でもあるにちがいないが、朝暮に仏《ぶつ》を拝し、歌を詠《よ》み出され、とにかくお変りの態《てい》はあらそえない。 [#ここから2字下げ] つひにかく 沈み果つべき 報《むく》いあらば 上なき身とは なに生れけむ [#ここで字下げ終わり]  こうした獄中の詠《えい》もある。また昨日、百数十日のあいだを、獄舎虱《ひとやじらみ》と共に起居した所から、ここへ移って出られるさいにも、 [#ここから2字下げ] いざ知らず なほ憂き方の またもあらば この宿とても 忍ばれやせむ [#ここで字下げ終わり]  と、その獄へさえ、名残りを呟いておられたほどだ。これも並ならぬ風懐《ふうかい》だしお覚悟である。結果的に、帝にとって百余日の八寒《はちかん》の獄が、いやおうなしの、禅《ぜん》の床《ゆか》になっていたともいえようか。とまれ笠置以前のそのお人からくらべれば、一歩も二歩も帝王的な大人になっておられたのはまちがいない。 「……またいつ帰るか、帰る日もないか。今朝の朝餉《あさがれい》は都でのさいごの膳。わけていとしく美味かったの。……おそらくは、これも道誉の心入れか」  御食《みけ》がすむ。  女房たちが理髪を仕える。  御服《ぎょふく》は直衣《のうし》、指貫《さしぬき》、白綾《しろあや》のおん衣《ぞ》。  やがて三位ノ廉子《やすこ》がお冠をさし上げている庭前に人影がさした。今日を晴れと装った道中警衛の大将佐々木道誉であった。 「はや巳ノ刻(午前十時)にござりますれば、そろそろお立ち出でのご用意を」  御車の六波羅発門は、午前十時と布令《ふれ》出されている。まだ早めとは思われたが、道誉の催促を知ると、後醍醐はやおら、三人の妃、二人の侍者《じしゃ》をかえりみて、 「……いざ、行くか」  どこやら自嘲をふくむようなご眉色《びしょく》の下に、広縁へ出、そのままずかずか車寄せの上に姿を見せられた。  後醍醐が現われると、階下ではみな、ひれ伏したので、満庭《まんてい》、衆人の背の波だった。およそ綺羅《きら》な波映《なみば》えといっていい。 「…………」  帝は、思わずお眼をこらした風である。  南北の両探題から諸大将らのほか、公卿もたくさん来ていたからである。亡き父皇《ちち》後宇多《ごうだ》の世頃、その故院《こいん》に仕えていた古公卿《ふるくげ》もあり、はや新朝廷の内で時めかしている者もあった。――なつかしい顔、憎い顔、いちいちは拾いもえない。  が、その中にいた西園寺中納言|公重《きんしげ》や公宗《きんむね》を知ると、帝は後ろの妃たちへ、 「あれ見い、公重や公宗らも見えておるわ。これでは、今日も何やら、北山の花見にでも行くような心地よな」  と、微苦笑された。  それで妃の廉子《やすこ》や小宰相《こさいしょう》や、権大納言《ごんだいなごん》ノ局《つぼね》たちも、思い出したことだった。ちょうど去年の今日である。三月七日。  ――西園寺家の別荘、北山ノ亭に、花の行幸《みゆき》があった。  皇后《おおきさき》の禧子《よしこ》をはじめ、後宮の妃から宮々の姫ぎみも供奉《ぐぶ》し、公卿|大臣《おとど》といえば、この日のお供に洩れるなどは、千載《せんざい》の恥かのように思って、終日の花の宴に、あらゆる余興や媚《こ》びの百態を、御前にきそッたものである。  管絃、万歳楽《まんざいらく》、陵王《りょうおう》の舞まで出つくして、花の梢の夕月に、歓楽の疲れも淡く暮れるかと見えたころ、突如、後醍醐は引き直衣《のうし》のおすがたを椅子《いす》にかけ、横笛を取って、一曲吹いた……、そして、笛も裂けるほどな御興《ごきょう》のあげく、呵々《かか》と大笑して、おえられたが、どうしたことか、龍顔の酔も青白う醒めはてており、頬にはおん涙が見られたので、「……どうかなされましたか」と、み后たちが、いたわり寄ると「なんでもない、なんでもない……」と仰っしゃったまま、桟敷《さじき》の床に巨きなお体を横たえてしまわれた。そして宵すぎるまで花の下のお眠りからうごかなかった。  ――そんなことも、つい去年の春なのである。  何と迅《はや》い移ろいか。  人の変り方か。 「公宗、公重」 「はっ」 「今日は見送りに来てくれたか。して、どこまで参るな」 「鳥羽まで、おん供つかまつりまする」 「そうか」  後醍醐は、はや網代車《あじろぐるま》の内へ、お体の半ばを入れかけていたのだが、そこから、もいちど西園寺公宗、公重を振り向いて、 「どうだ、お汝《こと》ら」 「はあ」 「いっそ、隠岐まで供せぬか。めったには見られぬ大波の吠えや、絶海の島のさまざまが見られようぞ」  きびしいお戯《たわむ》れと、みなおぞ気[#「おぞ気」に傍点]をふるッた。西園寺家は人も知る持明院方(新朝廷)であり、幕府と昵懇《じっこん》な家すじである。公宗、公重らは声もなくおののいていたが、御車の内では、独りからからと笑うらしいお声がしていた。  花|埃《ぼこ》りだ。ひどい黄塵《こうじん》だ。しかし花見の喧騒ではない。 「増鏡」のいう、 [#ここから2字下げ] ――かくてしも 世に珍らしき見物《みもの》なり [#ここで字下げ終わり]  それを見損なッてはと、押し出して来た人出である。今朝の春霞《はるがすみ》は、人霞と変じている。  すべて、後醍醐の御車が通る道すじには、万一にそなえて、検断所の兵がすきなく配置されていたから、それを目あてに一般の男女もひしめきあっていればよかった。 [#ここから2字下げ] 六波羅より、七条を西へ、大宮を南に折れて、東寺《とうじ》の門前に、車をおさへらる。 物見車《ものみぐるま》、所《ところ》狭《せ》きほどなり。若きも老いも、尼法師、あやしき山賤《やまがつ》まで、(中略)おのおの目押し拭《のご》ひ、鼻すすりあへる気色ども、げに憂き世の極《きは》めは、今に尽しつる心地ぞする。〔増鏡〕 [#ここで字下げ終わり]  これで見ても、東寺附近の雑鬧《ざっとう》ぶりがわかる。ひとつには、ここは洛内外《らくないがい》の関門でもあるから、さいごのお別れを――と念ずる有縁《うえん》の人々が、馬、車を立て並べ、笠、被衣《かつぎ》、頭巾など忍び姿を群集に紛《まぎ》らせて、待ちかまえていたことでもあろう。  帝も、それを察しられたか、 「道誉、道誉」  と内からお声があって、 「――所願《しょがん》なある。しばし南大門の前で、車を駐《と》めい」  と求められた。  たえず車副《くるまぞい》のかたちで、帝のお近くにいた佐々木道誉は、すぐ馬を回《かえ》して、同役の千葉《ちば》ノ介《すけ》貞胤《さだたね》、小山秀朝らにはかり、それの配置を作った。  御車を南大門の正面にとめ、また、あたりの群集を遠くへ追い払って、自己の警衛軍一千余と、鳥羽までお送りしてゆく六波羅武者の弓箭《きゅうせん》千五百ほどで、そこの広前を大きく囲み、暫時、御祈願のあいだを待つことにしたのであった。  といっても、帝が御車を降りるふうではない。  車の内のままなのだ。いま、都門を遠く離れるにあたって、どんな御祈願をこめ給うのかと、しばし人霞の上の埃《ほこ》りも沈むかのように見えた。  ――すると、そのうつつない群集の中で、とつぜん、絹を裂くような女の声がした。しいんとしていた時だけにただ一《ひ》ト声《こえ》だったが何ともそれは異様に耳を搏《う》った。もちろん附近の無数の顔は、一瞬前後へキョトキョト不審を迷わせてはいた。けれど眼には何も触れなかったらしい。――群集は、また御車の方へ、伸び上がっていた。  ところが、すぐまたおなじ附近で、眉目《みめ》の美《よ》い八、九歳の少年が「……お母さま……」と、大声を発し、あたりの者へ「母者《ははじゃ》がいない……母者を捜して」と、手放しでオイオイ泣き出していたのだった。 「や、人買いか」 「かどわかしらしい」 「かわいそうに、この迷い子、どこの曹司《そうし》やら?」  だが、この小事件と言い合せたように、ちょうど、朱雀《すざく》方面からこれへ疾走してきた一団の騎馬があり、馬を跳《と》び降りるやいな、その十数人の武者が、いきなり群集を割ッて、どなり散らしつつ進んでいたので、迷い子の声も、人々の同情も、たちまち人波のうちに没してしまった。  何しろ今日のこの雑鬧《ざっとう》である。掻ッさらい、変態者の悪戯など、悪の跳梁《ちょうりょう》はもちろん迷い子も二、三にはとどまらなかったであろう。  だが、すべて市井《しせい》のそんな悪や小事件など、いまの為政者には耳の垢《あか》でもない。それよりは、 「殿《でん》ノ法印《ほういん》良忠をば、ついに捕えましたぞ」  と、聞えたことの方が、たちまち、ここのどよめきとなっていた。 「ここ数日らい、衣笠《きぬがさ》のおくに潜んで、先帝奪回をもくろんでいた一味の輩《やから》です」 「密告により、今朝、急に襲って、良忠以下、おもなる者五人を数珠《じゅず》つなぎにし、あとの烏合《うごう》は、目下諸所にわたって、追跡中でおざる」  いま加わった騎馬武者の一団は、これを送使《そうし》の大将道誉へ報じ終っていた。 「祝着《しゅうちゃく》、祝着」  道誉は、鞍《くら》を叩いて、 「幸先《さいさき》いいぞ、御車を遣《や》れい」  と、再び列を進め出した。  捕まッた殿ノ法印は、大塔ノ宮が片腕とたのんでいた豪僧であるのみならず、叡山という手の届かない巣にたてこもって、のべつ洛内を脅《おびや》かし、流言《るげん》をおこない、なんとも手を焼いていたものである。  だから、千葉、小山の二大将から部下全体も、 「この首途《かどで》に」  と、よろこんだ。前途を安堵《あんど》する色でさえあった。 「まだ安心は早い。――殿ノ法印は一人だけではないのだ。――これからの幾山河、幾百里、行くところに、べつな殿ノ法印があらわれるかもしれぬ」  じつの所、道誉だけは、はしゃぎ[#「はしゃぎ」に傍点]もしていない。一昨夜、大和街道巡察のさい、高氏から注意されたことばもある。  あれは嘘とも思えない。  堺あたりから、中国路の備前、備中などへは一衣帯水《いちいたいすい》の近くである。大塔ノ宮や楠木の息吹《いぶ》きが、海をこえて、中国の宮方を駆り、中国山脈のどこかに、後醍醐をお待ちして一戦をとげ、帝を奪い去るぐらいな計は、当然、ありうることだ。――それもしないほどなら、楠木はほんとに赤坂で死んだものと観てもいい。 「したが。……備前の住人、児島高徳とは?」  道誉はこの名を胸中に忘れていないが、さてどれほどな勢力を持つ武士なのか。また人物声望の如何《いかん》などまるで知るところは皆無《かいむ》だった。  ――いつか、御車と警衛の大列は、鳥羽の旧離宮についていた。  ここで小憩《しょうけい》がある。  予定として。  ここまで送って来た公卿および六波羅の弓箭《きゅうせん》千五百人は引っ返す。また、廉子たち三名の妃は、便殿《べんでん》に入って、化粧改めなどすます。「増鏡」に、 [#ここから2字下げ] ――割子《わりご》(弁当)などまゐらせけれど み気色《けしき》ばかりにてまゐらず [#ここで字下げ終わり]  とあるを見れば、帝も妃も、さすが、お箸《はし》も取られなかったようである。まこと、そぞろなお小休みに過ぎなかったものだろう。  ところで、道誉はその間に、 「大弥太、顔をかせ」  と、黄母衣組の一人田子大弥太を人なき所へ招き入れ、何事かを、細々《こまごま》と密命していた。  道誉はなお一通の書を、田子大弥太にさずけた。そして、 「ここは措《お》いて、早く行け」  と促《うなが》しながら、つけ加えた。 「道は舟路《ふなじ》がいいぞ。海上ならまたたく間《ま》だろう。書中にもくわしく認《したた》めおいたが、そちの口からも、源太左衛門へじかに、恩賞いかようにも計らわんと、よく利を以て説きつけろ」 「心得ました。では」  大弥太はすぐ立った。彼が、ふところにした書面の名宛には、  加治源太左衛門安綱どの  と、読めた。  はやくも途上の第一日に、道誉が備前の加治安綱へ、一使を送っていたなどとは誰も知らない。  また、鳥羽の旧離宮の内外、いまやその混雑さも、それどころでなかった。 「おう。捜していた、道誉どの、ちょっと代ってくれまいか。どうにも、ご逆鱗《げきりん》がはじまると、先帝のおなだめ役は、ご辺にかぎる」  小山秀朝と千葉ノ介だった。二人とも何か手を焼いたものらしい。訊《き》いてみると、こうなのである。  ここでの、小憩もすんだので、かねて用意の別な乗物を、便殿《べんでん》の下に供えて、帝の立座《りゅうざ》をご催促申し上げると、俄に、み気色がかわって「そのような、見すぼらしき乗物は、いやしくも後醍醐と仰がるる身を辱めるもの。獄裡《ごくり》の辱はしのぶとするも、長途、沿道の民草のあいだを、法師輿《ほうしごし》にひとしい物などに乗っては行けん」とあって、どうしてもお立ちにならない。  もっとも、六波羅からよこした輿も、ちとひどすぎる物だが、それにせよ幕府の“遷幸定目《せんこうじょうもく》”の規定には、鳥羽殿《とばでん》まではともかく、それより先は「道中、格別ならざる輿の事」という指示になっている。――で、どうしたもの? と千葉や小山らでは、扱いかねたものだった。  道誉はすぐ、小憩のお座所にあてた便殿の階下へ行ってみた。いちいち御簾調度《みすちょうど》などの供えもしないので、帝のお姿はあらわだった。なるほど御立腹のいろに仰がれる。 「おそれながら」  と、道誉は階下にぬかずいて、侍側の行房と忠顕《ただあき》の方へ言った。 「――お行く先は何せい遥か。しかも播磨路《はりまじ》からは、備中《びっちゅう》、美作《みまさか》、伯耆《ほうき》、出雲《いずも》、ほとんどが峠や九十九折《つづらおり》の山旅にござりまする。しょせん牛車などは曳かれません。風雨の日もありましょう。われら供奉《ぐぶ》の者もできるかぎり軽装をよしとします。なにとぞ、ここからは早や隠岐の配所《はいしょ》ぞと、ご観念あそばして、輿におゆだねくださいますよう」 「…………」  これでも、ご得心が見えないので、道誉はやや凄んで言った。いわば柔軟な強迫だった。 「とかく鎌倉からわれらへの厳達は、こんな手ぬるいものではございませぬ。馬の背に押しまいらせても、期日までに、彼方《かなた》へ着けとの厳命なのです。……が、いかでこの道誉が、さような非情におよび得ましょうや。ここはまだ六波羅も間近《まぢか》、先ではお宥《いたわ》りもできましょう。なにとぞ、おくみとり願わしゅう存じまする」  すると。――帝は、頷かれた。すぐお立ち出でになったのである。  何しても、幕府の武家意志なるものでは、後醍醐にたいして、みじんな仮借《かしゃく》も同情もしていなかったのは明らかだ。  しかし、新しい光厳帝《こうごんてい》にせよ、後伏見、花園の二院にせよ、血でいえば、支流も本流もない同じ皇室の後醍醐である。まして昨日の天皇を、今日軽侮するのは、とりもなおさず自身、皇室を辱めることでもあるから、余りな幕府処置には、ずいぶん、はらはらされたにちがいない。そこで、  せめて都門を離れるまでは。  と、六波羅から鳥羽までの道筋だけでも、衆目に酷《むご》たらしくないように、行装やその他に、新朝廷の配慮があったろうことは想像に難《かた》くない。  従って、鳥羽から先では、乗物から扱いまで、劃然《かくぜん》と、待遇がちがっていた。 「花園院御記」には、 [#ここから2字下げ] 御割子《オワリゴ》(中食)ノ後、鳥羽桟敷《トバサジキ》ヲ数刻ニテ出御、今度《コノタビ》ハ四方輿《シハウゴシ》ナリ。三方ノ簾《レン》ヲ捲カセラレ、女房三人ハ張輿《ハリゴシ》、武士数百騎、路頭、前後ヲ囲ム。 [#ここで字下げ終わり]  とあり、これで見ると、わざと先帝の姿を、行く行く人目に曝《さら》し歩いている風であり、侍者《じしゃ》の一条行房、千種忠顕《ちぐさただあき》の二人は、輿とも馬ともしてないから、歩かせられたのかもしれない。でなければ、徒歩と馬の背、半々というような態《てい》だったろうか。  いずれにしても、あさましい世の常の流人《るにん》送りと、たいした相違もなかったようだ。違いといえばただ、警固の軍兵が多かったことである。 [#ここから2字下げ] ――先帝は今日、津の国、昆陽《こや》の宿に着かせ給ひて、夕月夜ほのかにをかしきを、ながめおはします。  命あれば  こやの軒ばの月も見つ  又いかならむ  行く末の空 昆陽《こや》を出でさせ給ひて、武庫川《むこがわ》、神崎《かんざき》、難波《なには》など過ぎさせ給ふとて、御心のうちに思《おぼ》す筋あるべし。広田の宮のあたりにても、御輿《おんこし》とどめて、拝み奉らせ給ふ。葦屋《あしや》の里、雀の松原、布引《ぬのびき》の滝など御覧《ごらう》じやらるるも、ふるき御幸《ごかう》ども思《おぼ》し出でらる。生田《いくた》の森をも、とはで過ぎさせ給ひぬめり。湊川の宿につかせ給ひけるに、中務《なかつかさ》ノ宮(尊良《たかなが》親王)は、昆陽《こや》の宿におはしますほど、間近く聞き奉らせ給ふも、いみじう哀れにかなし。〔増鏡〕 [#ここで字下げ終わり]  ここに、一ノ宮|尊良《たかなが》の名があるのは、すでに後醍醐の立たれた翌八日、尊良、宗良《むねなが》の二皇子もまた京を発して、讃岐と土佐へ、別れ別れ、護送されて行く途中にあることをいったものなのである。  ゆうべは、父皇が泊まった昆陽の宿に、次の夜は、やはり流囚《るしゅう》の旅の二皇子が、同じ屋根の下に臥《ふ》されるなど、旅情、むごたらしいというほかない。  その一ノ宮は、福原から箱船で土佐の国へ送られて行ったが、もう一人の弟宮《おとみや》の宗良は、なおも陸路を追われ、須磨、明石からやがて播磨路《はりまじ》へ入っていた。  そして、十二日の頃。 「さきを行った後醍醐の御列は、今宵すぐ近くの加古川ノ宿にお泊りらしい」  と、ふとお耳にされた。  その宵。皇子宗良の一行は、播磨《はりま》印南《いなみ》のわびしげな一宿場、野口ノ里の教信院という念仏道場をその宿所としていた。 「……どうだろう、明日の海上の風向きは」  船出は高砂ノ湊の予定である。船検分などおえて、長井|将監《しょうげん》高広《たかひろ》は、宿へ戻りかけていた。  長井将監は、都でもずっと自邸に宮の身をお預かりしていた者であり、かつまた、これから宮の遠流先《おんるさき》――讃岐ノ国|詫間《たくま》の配所――までつつがなく送って行かねばならぬ重任を持つ身だった。 「いや大丈夫です。風もこのていどなら」  兵のことばに、将監は空へ面を上げた。三月十二日の月だが、月は乱れ雲にみだれて、月のかたちもない。 「……おれにも子はあるのに」  将監はふとそんな感を持った。何かしらいやな晩だった。はやく夜が明け、そして早く海上へ出てしまいたい気がする。 「や。……また遊女《あそびめ》どもが来ておるな。追っ払え、追っ払え」  将監はわざと物々しく宿営の近所でどなッた。  宿々《しゅくじゅく》では夜の女が、防ぎようもないほど、夜ごと、幕営へ色をひさぎに来るが、今夜はかたく戒《いまし》めなければならないと思う。なんとなれば、この播磨、備前などは、笠置に火の手が揚ッたさい、宮方|加担《かたん》の色をみせた武族がかなりあった地方なのだ。  天皇奪回も戒心を要するが、この道中では、皇子奪回の挙《きょ》もありえなくはない。 「いや、その惧《おそ》れは大いにある。折も悪く、すぐ先の加古川ノ宿には、ちょうど、先帝後醍醐の一行が昼からお泊りの由でもあるし」  寺とは名のみな、念仏道場の破れ門前に、陣幕《とばり》が見える。彼は物の具も解かず、今夜はそこで床几《しょうぎ》のまま居眠りでもして過ごすつもりだった。――夜明けて船へ宮を移してさえしまえば、船ではいくらでも眠られる、と。  が。まどろみかけるひまもなく、宮のそばに近くいる不寝《ねず》ノ番の一将が来て、またぞろ、彼の神経を研《と》がせた。 「どうも処置がございません。宵から宮は警固の武士へ、泣いて、お叫びつづけです。……武士の情けじゃ、ひと目、父のみかど(後醍醐)へ会わせてくれい、みすみす川ひとえ彼方のお宿にいるものを、と」 「しゃッ。その儀はならんといったのに、まだ駄々をこねておられるのか。一体誰が囹圄《れいご》のお耳へ入れたのだ」 「いや、加古川ノ宿には、こよい御父の後醍醐も、お泊りなりと、自然、ご存知あったらしく」 「ばかな。告げ人もないに、御承知のはずはない。せっかくなれど、武士一存では、お計らい申し上げかねると、再度ようお諭《さと》し申せ」 「それはもう、くりかえし、申し上げまいたが」 「でもまだ、手を焼かせて、おさまらぬのか」 「されば。将監にも子はあろう、親なれば、子の心がわからぬはずはないと、果ては、お声をあげて泣き狂うさま。どうにもはや、われら警固の者も、見て見ぬ振りは仕切れませいで……」  宮は、すでにこの夕方から、大将の長井将監にたいしても、嘆願しておられたのである。  父のみかどは、すぐ先の加古川ノ宿にお泊りとか。  囹圄《れいご》の父と、囹圄の子だ。  この生別は、永遠な、別れとなるかもしれないのだ。  もし今の機会を逸せば、じぶんの船は讃岐《さぬき》の彼方へ、みかどの旅は中国路の奥へ入ってしまうのである。お目にかかれる万に一つの機会は全く今しかない。夜明けるまでだ、一|期《ご》の今夜だ。 「あわれ。頼む……」  と、宮は切々《せつせつ》と警固の士へ訴えて、夜食の箸《はし》もお取りにならぬ有様だとある。  だから将監も、じつは逃げていたのである。だが、それは部下も同様だった。再三、持て余しては訴えて来る。で、ついに彼は不承不承、宮のいる念仏道場の床の一ト間へ伺ってみた。 「……?」  見ると、宮はそこにはおいでなくて、道場の隅のいぶせき茶汲《ちゃく》み部屋の窓へ向って、独り寂然と坐っておられた。  ここはやや高い所だけに、彼方の加古川ノ宿の灯が、一つの川を隔ててすぐそこのように見える。薄月夜の下にちらばッている灯影のどれか一つは、父のみかどのいます囹圄の灯ではあるまいか。  宮は、仮想の下に、 「父の君。子の宗良はここにおります」  と、その灯へ向って、叫んでいるようなお姿だった。 「……きのう兵庫の浦で、兄宮(尊良《たかなが》)にお別れした時も、身はズタズタな思いでしたのに、明日は父ぎみとも、この土《ど》でお別れせねばなりませぬか。なぜ私たちは、親子でいながら、ここの一水も自由に越えられぬ身なのでしょうか。人間の子でないのなら、こんな慕情《ぼじょう》にも溺れますまいに……宗良にはこの涙が止まりません。やはり人間の子なのでしょう……。宿命、恨むべきでないかもしれませんが、何で帝王の子には生れたるかと、口惜しゅうございます。余りに人の上の人にお生れあった親のあなたさままでが、つい恨めしくさえなって、どうすることもできません」  もとよりお声はない。しかし、ぼうと窓に見える宮の背の影に、それは窺われる。いやお姿が描いている。  将監は、そっと抜き足で、戻って来た。そして遠くの警固の組へ来て言った。 「何だ、しごく静かなご容子ではないか。物狂わしいご悲嘆だなどと、いちいち大げさに、告げてまいるな」 「いや、たった今、おしずまりになったもので、嘘をお告げしたのではありませぬ。あの茶汲み部屋に、妙な坊主がおりまして」 「なに。茶汲み坊主が」 「されば、その坊主が、何やら宮の前に出て、ぼそぼそお説教じみたこと長々申しおりましたが、そのうちに、ふとお諦《あきら》めがついたものらしいのでして」 「はてな、そんな坊主は見えなかったが?」 「いややがて、ふらりと何処かへ失せてしまいました。乞食僧まで寝泊りする念仏道場だけに、ここには妙な者が住みおりまする」  讃岐行きの船は、十数そう、前夜から高砂ノ浜の東の川口に用意されてあった。  夜が白むやいな、武士たちは、宮をうながし、 「いざ、お船へ」  とばかり、追っ立てるように野口の念仏道場をどやどや立ち出で、そして、はや浜べに佇《たたず》みあった。  馬も積む。武器、食糧などもかつぎ込む。  そして宮の船だけには、荒板の囲いが見えた。船牢なのだ。  そこの渡りの板へ向って、長井将監が、宮を拉《らっ》して歩いて行きかけると、そのとき遠くで眺めていた漁夫や女子供たちの間から、 「ア。しばらく」  と、近寄って来た見すぼらしい法師があった。  将監は、ぎくとしたらしい。その眼を、かどだてて。 「寄るな。何者だ」 「はい。これは念仏堂の懸人《かかりゅうど》にございまする」 「ははあ、では何か。……昨夜チラと耳にしたが、宮へむかって何かぼそぼそ話していたという、あの茶汲み坊主は、そのほうなのか」 「さようで」 「その坊主がまた、何でこれへ」 「じつは昨晩、ご悲嘆のさまを、見るに見かね、おのれの身一つさえやッとな乞食法師の分《ぶん》もわすれて、つい浮世いろいろな苦患《くげん》ばなし。苦患があればこそ、世も面白うござるものを、などと戯《ざ》れ交《ま》じり、お慰めを申したわけでございました」 「わしに説法はいらんよ。用向きだけを、はやくいえ」 「はははは、お気短な」  法師は動じもしない。武士など虫ケラともしていない不逞《ふてい》な風すらなくはなかった。 「宮さま」  あげくに、彼は将監をさしおいて、心から傷《いた》わしげに、宮の方へ向って頭を下げた。 「――昨夜、四方《よも》のお話しついでに、今朝までにはお捜しおいて、お餞別《せんべつ》にさし上げましょうとお約束しておいた物を、やっと捜させて、ただいま持ってまいりました。……どうぞ、配所の友として、いつまで可愛がッてやっていただきとう存じまする」 「ほ……。あったのか。これへ持って来てくれたのか」  宮はほほ笑まれた。  将監以下、武士たちにすれば、これは驚くべきことだった。宮がほほ笑まれたなどは――この道中はおろか、ついぞ見たこともないのである。のみならず、宮はうれしそうに、 「兼好《けんこう》。ありがとう」  と、礼をいって、ほろりとなされた御容子でもある。  さては、この坊主は、兼好という者か。兼好とは、どこかで聞いたようなと、武士たちは眼をそばめ合ったが、彼は頓着《とんちゃく》[#ルビの「とんちゃく」は底本では「とくちゃく」]なく後ろを見廻して、遠くに輪を作《な》している漁夫の妻や老幼の群れのうちへ、 「おおい命松《めいしょう》よ。命松丸よ。どこにおるのじゃい。いいつけた物を持って、これへ来い。何も恐《こわ》いことはない。持って来い」  と、呼びたてた。  おそらく、その命松丸は、何かに怯《お》じて尻込みしていたものだろう。おあるじの兼好法師に呼ばれると、初めて、 「はいっ」  と、元気のいい声を人ごみの中で答《いら》えた。そしてさも大事そうに両の手に目笊《めざる》を抱えながら彼の側へ馳けて来た。  野べの、嫁菜《よめな》やたんぽぽでも摘《つ》んで来たのか。  目笊の目には、青い物の色が、こぼれて見える。 「では、宮さま」  兼好は、命松丸からその小笊を受けとると、献上人《けんじょうびと》の畏《かしこ》みに倣《なら》って、うやうやしげに、宗良の前へ捧げて言った。 「……警固の武者方も、これまでならんとは申しますまい。どうぞお船の内へお持ちあって。……そして、昨夜もおものがたりいたした通りです。すべて天意のほかではございません。ただどうぞ、毎日の日と、お体とを、お愛《いと》しみなされますように」  すると。いきなり、横あいから長井将監が、 「なんだ、それは」  と、小笊の上へ顔を突き出した。そして、何かをおおっているらしい中の葉屑《はくず》を一トつかみ取って捨てた。 「……?」  ふと、彼は変な顔をした。  小笊の中には、まだ羽ネもよく生え揃っていない雀の赤子が一羽、寒そうにふるえていたのである。 「はははは。何かと思えば、やくたいもない!」  将監は急に、笑いが止まらないほど笑いぬいた。そして、宮が命松丸へ向って、餌やら飼い方など訊いておられるらしいその仲を割って、 「時刻です。……さ、ご乗船を」  と、渡り板へ追い立てた。  子雀の小笊を持った宮の姿は、待ちもうけていた武士に迎え取られて、すぐ船牢の鎖《くさり》の内へ鎖《とざ》されてしまった。ほんの顔だけを出せるぐらいな切り窓が一つ開いているだけだった。  将監もそれへ乗り込み、以下、人馬のすべても、ほかの十数そうに乗り別れる。空はすっかり明け放れ、雲雀《ひばり》がしきりだった。かくて、陣を作《な》した舟列《しゅうれつ》は、まもなく海上へ出て行った。  そのあと。  なんのわけも知るではなく、ただ物珍しげに見物していた里の男女もみな散らかってしまい、兼好と命松丸だけが、いつまでも雲雀のサエズリの下に腰をおろして、ぽかんとしていた。 「お師匠さん」 「……ウむ」 「もう行きましょうか」 「うん」 「もう船は見えませんよ」 「……ウむ」 「腰が抜けてしまったんですか。お腰が」 「ああ、半分抜けたよ」 「どうして、あんなお優しい親王さまが、流されて行ったんでしょうね。どこが悪人なんですか」 「わからないよ、世のことは」 「変だなあ。……じゃアなぜ、雀の子なんか差し上げたんです?」 「そっくり、お前と同じようなお方だからさ」 「わたしなんか、寝小便小僧だ。似てなんかいるものか」 「いや、あの宮は、皇子にこそはお生れだッたが、そして、やごとなき父ぎみや、立派なご兄弟も沢山におありなのだが、じつはおまえと同様な孤独なのだ。愛に飢えていらっしゃる。お前の方が、今はよッぽど倖せだろ」  兼好はやっと腰を上げた。 「どれ、今日は加古川ノ宿へ行かねばならぬ。命松、お前も行くか」 「連れてッて下さいますか」 「むむ。先へ走って、はやく朝飯の支度でもしておきなさい」 [#3字下げ]四《よ》ツ目《め》結《ゆい》[#「四ツ目結」は中見出し]  ひと晩でも、数百の兵が泊って行くとたいへんだ。教信院の僧たちも、今朝は、そのあとかたづけに、みな、てんてこ舞っている。  それもよそに。  念仏道場の片すみで、しゃあしゃあと朝飯をたべ、弁当までこさえて、命松丸の背に負わせているのを見ると、釜屋《かまや》働きの婆さんは、つい黙っていられない。 「おやまア。いいご身分だこと。兼好さん、今日はお花見かね」  と、からかッたものである。 「なあに、加古川ノ宿まで用達しさ。すぐ帰るよ」 「どうだか、知れたもんじゃない。兼好さんと来たら、出かけたがさいご、いつ帰るのやら、帰らぬのやら」 「困った風来《ふうらい》だ。まったくナ」 「じぶんでいってるから世話はないよ。ねえ命松さん。おまえも、えらい者をお師匠さんに持ったものさね。いったいこんなお師匠さんに付いて、何になるつもりだえ」  命松は、本気になって。 「くそ婆、ぶん撲《なぐ》るぞ」 「あれ、この寝小便たれまでが、一人前に何かいうよ。似合いのお弟子だったんだね」 「出て来い、こっちへ」 「おまえこそ、生意気をいうと、寝小便蒲団を背負わせ追ン出すからいい。居候のクセにして」 「ぬかしたな」  婆はすばやくどこかへ隠れた。そして婆を追ッかけようとした命松丸は、釜屋の土間の入口で、内からバッと水柄杓《みずびしゃく》か何かでしたたかに、水をぶッかけられていた。  兼好は腹をかかえて笑った。しかし結果を見ようとはしない。もう渡舟場《わたし》に近い裏門を出て、先に川原の方へ降りて行った。命松丸がよく自由自在に雀を飼うごとく、彼と命松丸との関係もそれに似ている。  しかしである。あの釜屋働きの婆が、ややもすれば、悪たれ[#「悪たれ」に傍点]つくのもむりはない。  ここの院主との旧縁で、ふと去年の暮から懸人《かかりゅうど》となって来たが、自分は、何の寺役を持つでもなし、命松丸ときては、あのとおり口達者で、悪戯《わるさ》ざかりだ。おまけに持病の夜尿症《やにょうしょう》では、朝々、婆の鼻を抓《つま》ませてばかりいる。 「都も少しはおちついたろう。そろそろ、古巣の吉田山へ帰ろうか」  この日頃は、思案していたところである。そこへ思いがけなく、流人《るにん》の宮と、警固の一行の泊りに会したわけだった。  兼好が夙《つと》に、宗良親王を存じ上げていたのは、所謂《いわれ》なきではない。――彼が後宇多院《ごうだいん》に仕えていたころは、宮もまだお稚《いとけ》ない皇子だったが、やがて妙法院へ入られ、叡山《えいざん》の座主《ざす》につかれた後も、歌の会などでは、しばしばお目にかかっていた。  宮は、ひとかどの歌人だった。後には“李花集《りかしゅう》”の御著すらある。 「その君が」  ――ああなんと無残な、と昨夜は、警固の眼をぬすんでのつか[#「つか」に傍点]のまながら、その痩せ肩を抱いて上げたいばかり、さまざまお力づけもしたのであった。  宮は涙のうちに、懐紙へ一と筆走らせた。ついに会うことをゆるされなかった父のみかどへ。「――兼好、あとでこれを、父のみかどへお渡ししてくれ」と、彼に託しておかれたのだ。  兼好はさっそく、今日、それをふところに、出たのである。  おいて行かれた命松丸は、やがて、追ッついて来て、 「わっ、待ってくれ」  と、いちばん後から渡舟《わたし》のうちへ飛びこんだ。  舟の中に笑いが起った。 「河童や、河童や」  彼を見てみなおかしがる。  みれば、彼の顔は、鍋ズミだらけだ。頭から水をかぶせられた腹いせに、釜屋の婆と、格闘でもしたあげく、またも負けて来たにちがいない。婆は強いのだ、命松丸など敵ではない。  兼好さえ、おかしくて堪《たま》らず、人前なので、ただそっと言った。 「命松。顔を洗え」 「はい」  命松丸は、尻を逆さに押ッ立てて、舟べりから顔を水へ臨《のぞ》ませた。顔を洗っている間、彼と一身同体に暮らしている“ふところ雀”は、彼の背中へまわって止まっていた。雀も濡れて、濡れ雀の姿だった。 「これで拭け」  兼好が布を出してやる。命松はそれでぐるぐる顔じゅうを拭き廻した。もとより大して変りばえもない。舟の男女はまた笑う。  おかげで渡舟《わたし》はすぐ着いた感じだ。印南《いなみ》の春は、麦の青、菜の花の黄、まっ平らな沃野《よくや》だが、すぐそこが宿場だし、さらに西にも川が望まれる。往時の加古川は、いく筋にも岐《わ》かれ、いずれがその称《よ》ぶところの加古川の本流なのか。  とまれ、後醍醐がお泊りの宿所は捜すまでもなかった。宿場一の大きな建物だ。杉林にかこまれた古い領家《りょうけ》屋敷といった風。 「ああよかった」  そこまで来て、兼好はほっとした。あちこちに軍馬が見える。幕営がある。まだ帝の駕《が》がお立ちになっていない証拠だ。もし早や先へ御出発のあとだったら、おあとを追っても、宗良の宮のお頼みを果たさねばならぬと考えていたのだが、まずは……と、おちつきをえたのだった。 「命松」 「はい」 「おまえな、あそこの杉林の横に見える木戸へ行って、番の兵に、訊いて来てくれい」 「何とですか」 「佐々木道誉どのがおいである御宿所は、どちらの木戸でございましょうかと。どうも諸所に木戸があるので見当がつかぬ」 「佐々木どのも御供なんですか」 「千葉、小山、佐々木どの。大将三名の御警衛と聞いた。何と物々しかろうが」 「およしなさい、お師匠さん。こんな所でつかまると困りますよ。命松もどうしていいかわかりません」 「なぜそんなことをいう」 「だっていつか、佐女牛《さめうし》のおやしきから帰ったあと、佐々木どのの御家来が、何べんも迎えに来たのに、それをすっぽかして、お師匠さんは、うるさいからと、旅へ逃げ出したんでしょ」 「そんなつもりはない。いや、よけいなことをいうな。はやくお訊《たず》ねして来い」  命松丸が帰って来る間を、兼好は街道の端に腰かけて、矢立の筆をとり出していた。なにか旅覚えでも書いているのか。  すると、その眼のまえを、一群の武士を従えたこの地方の守護職らしい格式張った騎馬の武家が、路傍の彼を馬上からジロジロ見つつ、森の内へ通って行った。  社家《しゃけ》の門、神社のかつお木[#「かつお木」に傍点]、森も奥まッた所に、四《よ》ツ目《め》結《ゆい》の紋幕がソヨ風にはためいている。  その社家の一室だった。 「いやおそれ入る。わざわざ、ここの旅中《りょちゅう》へ、お見舞とは、恐縮な」  道誉である。四ツ目結は佐々木党の定紋《じょうもん》だ。ここはつまり彼の旅舎か。  客は、さいぜん森前を、大勢して通った三十前後の武家で、 「なんの、父|重明《しげあき》が伺うべきでございますが」  と、そこへ広蓋《ひろぶた》に載せた種々《くさぐさ》な音物《いんもつ》に、一|嚢《のう》の砂金まで贈っていた。幕府内の有力な者が地方へ出れば、ところの地頭や守護は、あいさつとして、通例、こういう礼を執ってくる。 「久しくお会いしてないが、大安寺殿にも、お達者かの」 「いえ、父も早や年で」と、客はややくつろいで「――こんどのご道中には、ぜひ旅舎へうかがって、お目にかかりたいといっておりましたが、あいにく風邪をひき込みまして」 「それはいかんな。お大事になされよ。この道誉も、先帝のお身柄を、隠岐《おき》ノ判官《ほうがん》に渡してさえしまえば、身軽な旅。――帰途にでもまた、お訪ねください」 「父へ、申しおきましょう。……して、ここの出立は」 「それがさ」  と、道誉は、困ったような顔を見せて、 「先帝にも、馴れぬお旅路のせいか、ちと、ご微恙《びよう》での。……今日にもここは立って、日女道《ひめじ》(姫路市)の府までは行き着きたいと思うたのだが」 「では、お日延べで。いや、何かにつけ、ご辛労でしょうな。――して、出雲への道はやはり、日女道から杉坂を越え、美作《みまさか》、伯耆《ほうき》へと越えて行かれますか」 「ま。……どう行っても、難所《なんしょ》切所《せっしょ》はのがれがたい山路ばかり。土地《ところ》にあかるい者の、案内まかせといたしておる」 「万一、荷駄強力《にだごうりき》などが、ご不足でしたら、いくらでも加役馳せ向わせます。ご遠慮なく、大安寺の方へ、お飛脚下さいますように」  大安寺とは。備前の豪族、松田左近将監重明のいるところの地名である。当時まだ、現在の岡山市は、ただ一帯の砂丘でしかなく、その西方の笹瀬川に沿った大安寺ノ里に、松田一族の富山城があった。  使いとして、これへ来たのは、松田重明の一子、権《ごん》ノ頭《かみ》五郎|吉重《よししげ》で、用がすむと早々に、 「では、おいとまを」  と、辞しかける。  道誉もまた、 「重任の途中でなくば、一|献《こん》さし上げるところだが」  とのみで、しいて、引きとめようとはしない。  佐々木の家臣は、松田権ノ頭がすぐ帰りそうなので、それを待っていたものだろう。――道誉が、客をおくり出して、元の座へ帰って来るとすぐ、 「殿。ひょんな者が、訪ねてまいりましたが」  と、兼好法師の訪《おとず》れを彼に取次いだ。それは、彼にも意外だったに相違なく、 「浮かれ法師が。かかる所へ、今ごろ何しに」  と、舌打ちはしたものの、しかし、通せとは、すぐ言っていた。 「……これは、殿」 「ほ。兼好か」 「まことに、ごぶさたを」 「いや、よくもぬけぬけと。しかし、ここは佐女牛《さめうし》の館《たち》とはちがう。なにもいうまい」 「ごきげん斜めでございますな。小右京どののことを、いまだ根に持っておいでなので」 「頼みにならん御僧などを、頼みにしたのは、こちらの思わく違いだった」 「その通り、殿のお目ちがいと申すものでした。世の女は、すべて、おれならどうにでもなるなどのお考えは、あらためねばなりませんな」 「戯《ざ》れ口《ぐち》たたくな。ここは先帝のご幽室に近いぞ。道誉もまた、重任の身だ」 「されば、兼好も今日は、ぜひないお使いで参ったのです」 「よく使いを頼まれる御僧ではあるよ。して何事を」 「じつはゆうべ、野口ノ宿で、はしなく、皇子《みこ》の宗良さまによそながらお目にかかり……」と、兼好は言いながら、ふところの一書をとり出して、 「これを、父の帝《みかど》へ、とどけて欲しい。……せめてと、この兼好にお託しあって、今朝早く、牢船《ろうぶね》の上から加古川ノ宿を、いくたびとなく振り返りつつ、四国へ送られて行かれましたゆえ」  と、それの伝奏を、彼は切に道誉へ依頼したのであった。そして、道誉の承認をえると、 「今日は、これのみ。いずれご帰洛の頃を見はからッて、都であらためてまた、お目にかかりまする。どうかお旅先では、いちばいお気をつけられませい」  と、さっそくに暇《いとま》をつげ、兼好はすぐ帰ってしまった。  道誉はなにか、味気ないここちがした。  兼好と会えばいつも、酒をくんで、公務や世事をわすれるのが常である。こう、そッけなく別れたことなどめったにない。 「だが」  彼は自分の顔を想像してみる。  兼好に長居をさせなかったのも、先客の松田権ノ頭をそうそうに立ち帰らせたのも、この顔つきが追い立てたものだと思う。さりげなくしているものの、 「さて、これからの、但馬《たじま》、伯耆《ほうき》の山旅を、事なく、越えられるか否か」  に思いいたると、不安は、顔へ出ずにいなかった。  いうまでもなく、それは途中で後醍醐奪回を狙う宮方残党の嵐の前ぶれにたいする彼の予感にほかならない。  たとえば、今日の一客。――備前の松田権ノ頭なども、なにかここの幕旅《ばくりょ》や、警固の兵数などを、さぐりに来たものではないか。 「うさんな眼だった」  道誉は、充分疑っている。  しかし、備前、備後方面へは、さきに鳥羽から家臣の田子大弥太を飛ばして、すでに手は打っておいた。「――なおこれ以上、右顧左眄《うこさべん》していては、一歩もすすまぬ。まず対策は、その日その日に」と、彼はやがて、兼好に依頼された皇子のお便りを持って、侍者《じしゃ》の間《ま》へ、それを託しに行った。  そして、侍者の千種忠顕へ、ついでに言った。 「ここは明朝出立いたします。――先帝には、ややお疲れぎみとうけたまわるが、ちと猶予ならぬ事情もあれば、女房がたへも、さよう、お触れおき願いたい」  旅の旅舎《りょしゃ》でも帝の幽室は、もちろん、昼夜なき武士どもの目で囲まれていた。 「のう。佐々木の紋は、四ツ目|結《ゆい》とやらであるが、身のまわりは、四ツ目垣だの」  後醍醐はいわれた。  こんな自嘲のお戯《たわむ》れにも、三人の御息所《みやすんどころ》――三位ノ内侍|廉子《やすこ》、権大納言ノ局、小宰相《こさいしょう》――などはすぐ涙ぐむのであった。  しかしこの、おそばの三女性のあいだにも、微妙な感情の差は、ひそんでいる。 「小宰相には、心をゆるすな」  と、帝はあるとき、廉子に注意された。鎌倉の息がかかっている女とみてのご警戒なのだった。もとより廉子もとうに彼女へは一線を引いている。  いまし方。  帝のご座所には、忠顕が伺って、なにやらお伝えして退《さ》がった。きのうから、帝はご不予(病気)を口実に、一日でも長くここの逗留《とうりゅう》を延ばそうとしておられたらしいが、 「いまは、ならぬか」  と、おあきらめ顔と共、廉子だけを室へ召して、こうささやかれた。 「いま、忠顕が来ての話では、どうしても、ここは明朝出発するとの布令《ふれ》じゃそうな。女たちも身仕舞しておけよ」 「ではついに、お望みの皇子《みこ》(宗良)とのご対面も、かないませぬか」 「その宗良も、すでに今朝早く、高砂ノ浜を出たと、つい今、忠顕から聞かされての……。会えぬなら、ここにいてもせん[#「せん」に傍点]ないこととあきらめたわえ」 「でも、お疲れも」 「日ごと、日ねもす、輿《こし》にゆられて行く憂《う》さは、言いしれぬほどだが、しかし……」  と、後醍醐は、いちばいお声を低くした。 「……廉子。ひょっとしたら、笠置、赤坂の残党や中国の宮方が、山また山の長い旅路のさきで、身を待っているようなここちもする。何か一縷《いちる》の明りのようにそれが待たれる」 「ふたりも密かに申しておりまする。途中では何かの奇瑞《きずい》があるにちがいない。一天の君のこのような有様を見て、ただ一人の義人も現われ出ぬはずはない。かならずお救いを計る忠義な者が出るであろう、と」 「むむ……。それに警衛の佐々木道誉も、やむをえず、きびしい規律をしめしておるが、あわよくば宮方へ寝返りの色が見えぬではない。ともあれ、旅が山路へかかったら、つねに油断なく身を持っておれよ」  そのとき。  廉子の眼が、なにかを告げた。帝はすぐお口をつぐむ。――すると、障子の外を、裳《も》の人影が、さやさやと通って行った。やがて遣戸《やりど》の音に耳をすましていると、それは小宰相の居間へ入ったような気がされた。 「…………」  帝はまた、お手にしていた宗良の文《ふみ》に眼を落す。それは、懐紙《かいし》へ走らせた薄墨がきの歌でしかない。歌のほか、なんの消息の端も書いてはないが、帝はなんども、くりかえされた。  まもなく、灯がともる。  あすの夜は、日女道《ひめじ》(姫路市)の府か、今宿《いまじゅく》か。  そして美作境へ向っても、山陽道へ出ても、それから先は、一路出雲まで中国山脈の脊梁《せきりょう》と聞く、その山波が、誰の旅寝の夢にもあった。  道中、夕は早くに、朝は早立ちを本則としていたが、とかく妃たちの身化粧なども手間どって、早いその朝立ちは容易でない。  さらには、千に近い人馬である。それがすべて腰糧《こしがて》まで身につけて、宿を立つには、朝々一ト騒ぎであった。 「ちと、大兵すぎたな。この半数でも、足りたものを」 「京を立つさい、なぜか俄に、佐々木殿が増員をとなえたためだ」  千葉ノ介貞胤と、小山秀朝の二将は、今朝もまた、出立まぎわの喧騒に手をやいて、 「かかる有様では、やがて山間の旅へ入ると、いよいよ困ろう」  と、嘆じていた。  ところへ、何か道誉の打合せが来て、二将は、彼の待つ神社の横の幄舎《あくしゃ》へかくれた。そして出発を目前にしながら、道誉を中心に、鳩首《きゅうしゅ》、時を移しているふうだった。  とは知らず、 「まだか、出発の命は」 「今朝にかぎって遅いのは、どうしたわけ?」  馬を揃え、列を作って、兵はしびれを切らしている。  すでに、帝も輿にお身をまかされ、三人の女房らも各〻輿の内だった。――何か、火急な機密でも諜《しめ》し合わされていたものか。  さて、やがてのことである、やっと。 「立てっ。列を出せ」  千葉と小山の号令は伝えられたが、いつもよりよほど遅い発向となっていた。  道誉の騎馬もすぐ列前に現われて、帝のお乗物の側《わき》へ付く。  ご不予(病気)は、帝の口実とわかっていたが、しかし、終日の輿のお旅は、いかにお辛いか、誰にも、それのお察しはつく。  なにしろこの同勢と、輿のお旅では、一日五里がせいぜいである。六里をこえることは難しい。  その点、「増鏡」でも古典「太平記」でも、ここらはおよその見当で書いたらしく、道中の日時、日程などの記述は、どれもはなはだ不確実だ。――かりに増鏡などの日どりで行くと、一日十数里も歩いたわけになるが、とてもそんなに捗《はかど》りえないことは常識からもいうまではない。  で。加古川を朝出た帝の駕《が》が、その夕べ、着いたところは日女道《ひめじ》(姫路市)の姫山の丘かと見られる。  そこには、後嵯峨《ごさが》法皇のご祈願所、称名寺があった。堂宇《どうう》十四坊。まず申し分ない宿営の地といっていい。  そこへ着くと、すぐだった。  道誉はつぎの路次の予定を、警固の全員へ公示していた。 「――明日、道は今宿より西と南へ岐《わか》れるが、南の山陽道をとって、斑鳩《いかるが》を経《へ》、船坂峠をこえ、やがて美作、伯耆、出雲へと越え出るぞ。そのつもりで、明朝も早立ちの用意抜かりなくいたしおけ」  ところが、である。  翌、十四日の早暁、ここを去った列は千葉、小山のひきいる兵六百余と四つの輿《こし》だけで、佐々木道誉の一群は、なぜかあとに残り、ややおそく姫山を立った。  また、それだけでなく、姫山の西方半里の今宿から、道誉の人数のみは、さらに道を西へとって、播磨と美作の国ざかい、杉坂へ向って行った。――しかも、ほとんど休みなく夜を日についでの急ぎ方だった。 [#3字下げ]児島高徳《こじまたかのり》[#「児島高徳」は中見出し]  さきに贈り物をもって、備前の自領から加古川ノ宿に道誉を訪ねてすぐ去った松田五郎権ノ頭は、あの日、ふしぎな行動をとっていた。  その帰路、彼は近くの曾根ヶ浜へ出ると、乗りすてた馬を家来一同の手へ渡して、 「いいか。では、きさまたちはこのまま街道を船坂峠まで行って、三石村《みついしむら》で三日の後を待つのだぞ。またその間も、帝のお道すじには、間断なく、細作《さいさく》(さぐり)の眼をくばっておけよ」  と、いいつけた。  そして、すぐ、おのれ一人、かねて待たせておいた速舟《はやぶね》のうちに乗るやいな、両舷《りょうげん》の水夫《かこ》へ、 「行け」  と、命じた。  六挺の櫓《ろ》は、ただちに櫓声《ろせい》を揃えて波を切った。――播磨灘《はりまなだ》を西南へ、潮流にも乗せて、その舟影は、みるまに海光のうちへうすれて行った。 「風が変った。帆を張れ」  夜は夜で、追い風をうけながら、夜どおし舟もかしぐばかりな帆しぶきを浴びつづけて行く。  かくて翌日の午《ひる》さがりには、はや備前児島の外波崎《となみざき》をよぎり、五郎権ノ頭は、まだ陽のあるうちに、自領の吉備郡大安寺(岡山市・西郊)の富山ノ城へもどっていた。 「父上、戻りまいた」 「お、権ノ五郎か」  父の松田重明は、待ちかねていたふうである。いやここの城中全体が「権ノ殿が帰ったぞ」というそのことを焦点に、かたずを呑んだ空気だった。  加古川で見て来たあらましを、権ノ五郎は父に報告していた。重明はいちいち頷く。彼は、ややあから顔で、かっぷくのいい六十がらみの武将なのだ。 「そうか。帝《みかど》のご不予も、たいしたことではないのだな」 「は。お旅疲れは、もちろんでございましょうが」 「道誉は」 「いつに変らず、世辞のよい御仁《ごじん》。帰路には会いたい、父上へよろしくなどと」 「いやその世辞が油断ならぬ。よも、こちらの腹を見やぶられはしまいな。都ではいくたびも会っておるが、群《ぐん》をぬいて如才《じょさい》のない、そして炯眼《けいがん》な佐々木道誉のことだ」 「だいじょうぶ、察してはおりません。第一、いかに道誉が炯眼であろうと、大覚《だいかく》ノ宮が、わが家へ御避難あって、松田一族の外護《げご》をうけているなどとは、ゆめにも思っておりますまい」 「そうだ、宮にも、お待ちかねのはず。帝のご消息、そのほか、そちからじきじき申しあげるがいい」  父子は連れだって、さらに館《たち》の奥の、孤立した一殿へ入って行った。持仏堂だろうか、一僧が出て来て手をつかえ、 「さいぜんから、お待ちでおられまする」  と、すぐ方丈へ誘《いざな》った。  内にいたのは、年ごろ三十四、五の、眉秀《まゆひい》でた一人の法華行者《ほっけぎょうじゃ》であった。  大覚ノ宮と、松田父子があがめているのはこの人か。  からだの骨ぐみもよいが、唇は意志の強さをしめし、どこか、後醍醐のご風貌に似かようていなくもない。 「待っていた。ずっと入れ」  何と、その声がら[#「声がら」に傍点]までが、後醍醐にそっくりだった。  疑問から先にする。  大覚ノ宮  とは、いったい皇系のうちの誰なのか。  かりに世上へ問うても、六波羅でさえ「さような宮はおられぬ」と、否定するだろう。後醍醐の皇子《みこ》にも、そんな御名の皇子はない。  だいいち、皇子にしては、後醍醐とのお年が近すぎる。  しかし、この大覚ノ宮は、後醍醐の皇子のお一人たるには違いなかった。ただし俗にいう、養子なのである。  では、ご実父は、たれかといえば、ほかならぬ亡き後宇多の院だった。――院が上皇のころ、遊義門院姈子《ゆうぎもんいんれいこ》との仲にもうけられたお子なのだ。  その遊義門院は、よほどな美人であったらしい。――おん父は持明院統の天皇|後深草《ごふかくさ》であり、つまり皇女でおわしたが――後宇多は、大覚寺統のお立場もわすれ、熱烈な想いをその君へ懸けたとみられる。  事の秘密は「増鏡」の「つげの小櫛《をぐし》」の巻に鍵《かぎ》がある。 [#ここから2字下げ] ――皇后宮(姈子)も、この頃は遊義門院と申す。 法皇(後深草)のおそばにおはしましつるを、中《なか》の院《いん》(後宇多)、いかなるたよりにか、いと忍びがたく思《おぼ》されければ、とかくたばか[#「たばか」に傍点]りて、盗み奉らせ給ひて、冷泉ノ万里小路《までのこうぢ》殿におはします。 またなく、聞えさせ給ふこと、限りなし。 [#ここで字下げ終わり]  優雅に言いまわしてはあるが、これは一大事件だったにちがいない。  持明院統と、大覚寺統とは、帝位をはさんで、その臣下まで、真二つに対立し、百年、相容《あいい》れぬ間である。  それなのに、後宇多は、反対派の皇女を、人をもって盗み奪《と》らせたうえ、どこかへ隠してしまったらしい。――またなく、聞えさせ給ふこと、限りなし――と増鏡もいっているほど、以後の内紛や世間の取沙汰など、いかに喧《かしま》しかった事だろうか。  だが、どんな非難も、ものともし給わぬ後宇多の恋は、同書「うら千鳥」に、 [#ここから2字下げ] この程は、いどみ顔なる御方々、かず添ひぬれど、なほ遊義門院のみ志に、たちならび給ふ人は、をさをさなし。 [#ここで字下げ終わり]  と、はたからも見えるくらいな、ご熱愛ぶりだった。  が、さまでな君も、徳治二年ふとご病死された。花の命は短かった。ご悲嘆のあまり後宇多は落飾《らくしょく》(出家)されたほどである。またまったく、これいらいは老いこまれた。  なお、遊義門院には、生前、恒性親王《つねさがしんのう》という御子があった。しかし持明院派の御母ではあり、ほかに事情もあってか、この御子は、政治的な顧慮から、後宇多の実子の列には入れられなかった。――で、後年、後醍醐の皇子という態《てい》にして、系譜《けいふ》の上をつくろったものである。  ここで、あらためて、いうまでもないが。  後宇多は、後醍醐の実父である。だから後醍醐とすれば、ほんとは、母ちがいの弟なのだが、事情のため、認知されない父の子|恒性《つねさが》を、自身の養子にいれ、わが皇子なみに、傅育《ふいく》をさせて来たものだった。  とまれ、皇統の人の例にもれず、この恒性も、肉親的にはめぐまれぬ皇子であった。  おん母遊義門院にわかれたのは、十一だから、後醍醐の養子となっても、実父は、後宇多院と、知っていたろう。  そして青年期をまえに、大覚寺へ入り、やがて門跡《もんぜき》の座についた。――もしそのままであったら、それもまた、よいといえないこともない。  だが、時勢のあらしは、沙門《しゃもん》のうちの、そんな一帝系も、見のがしてはおかなかった。  後醍醐が、笠置へ奔《はし》るやいな、間髪《かんはつ》をいれず、大覚寺へも六波羅の手入れが襲った。――宮は身をもって敵の重囲からのがれた。  そして、どうかして、後醍醐のおわす笠置へ行こうとしたのである。だが、笠置は陥ち、赤坂城も亡び、六波羅の獄へと、日々捕虜がつづいて行く。  この前後、恒性《つねさが》は、山城の国|鶏冠井《かえで》の法華堂《ほっけどう》にかくれ、日蓮宗の日像《にちぞう》のもとで、名も大覚と変え、一法華行者となって、機をうかがっていたのだった。  しかし、すでに寸断され、また逼塞《ひっそく》した宮方の残党勢力とは、どうにも連絡のとりようがない。  で、ついに海をわたって、この備前へ来たのである。中国では、桜山|茲俊《これとし》が笠置に応じてのろし[#「のろし」に傍点]をあげ、それは破れたが、なお宮方の士は多いと聞くし、また日像のはなしで、 「備前の守護、松田重明は大《だい》の法華信者。それにあの辺には“お立義《りゅうぎ》”仲間の武士も多い。かつ鎌倉へは心から服していない者でもあるゆえ、宮が、ご一身を託すとお頼みあれば、一族をあげて、同心を誓うに相違ありませぬ」  とも聞いたからだった。  それが、去年の冬だ。  いらい松田一族は、この流離の宮――後醍醐の異母弟にあたる人――を擁して、日蓮宗の弘通《ぐつう》をおもてむきに、密々この地方の宮方結盟を計っていた。  また、この春には、 「先帝は隠岐へ、ご配流《はいる》ときまった」  と、聞えてから、笠置、赤坂の残党も海をこえて、この地方へ入りこんでいた。そして、 「先帝の御駕《ぎょが》が、中国路へかかるは必定《ひつじょう》。そのときには」  と、大覚寺ノ宮恒性を中心に、もう数十日も前から、今日のいたるのを、じつに手具脛《てぐすね》ひいていたのである。  ……密談、しばらく。いつか暮れた方丈の障子の内では、 「では、宮にもすぐさまお身支度を」  と、松田重明の声がほどなく洩れていた。  つづいて、その重明は、子息の権ノ五郎へ、 「このこと、高徳へも、さっそく告げたか」 「いや、舟路を来ましたので、児島殿とはまだ会うているひまもありません」 「お、そうだったな。誰を走らせよう」 「誰をと申しているまも面倒。いっそ、それがしが先へ駈けて伝えおきます。宮や父上には、あとよりおつづき下されい」  権ノ五郎は、ふたたび館《たち》の門から、馬をとばして、どこへか駈けた。すでに中国山脈の背は星だった。  わずか四里余の道。権ノ五郎の馬では一《ひ》ト鞭《むち》の距離といっていい。  でも、さすが馬の疲れに、五郎は目的の邑久郡《おうくのこおり》今木(現・今城《いまき》)までくると急に歩速をゆるめ、やがて向山の今木城のうちへ入った。  城といっても、やや堅固なただの古館《ふるだち》でしかない。  しかし、曲輪門《くるわもん》の内の人間は、あるじから末端の者まで、みな戦争支度の弓や白刃の中に在るのであった。――しかも篝火《かがり》などは用いず、部屋部屋の灯もうす暗い短檠《たんけい》や燭台ぐらいなもので、人々の足音や気配まで、ふだんよりひっそり静まり返っているだけ、なにかいい知れない鬼気のただよいすらあった。 「……いや権殿《ごんどの》。あなたの方は、それで上々《じょうじょう》といえよう。ところが、こちらの目企《もくろ》みは、そうかんたんにはまいらなくなったよ。月に雲とは、よくいったものだ」  さび声の、しかも沈痛な口吻だった。人をも遠ざけた一室のうちである。  かねてからの申し合せにより、彼が首尾をつたえて、大覚ノ宮や父重明とともに「すぐ起《た》つべし」と、うながしに来た人――これがその当面の人なのであろう。児島《こじま》備後ノ三郎|高徳《たかのり》だった。  口重《くちおも》げで、もの言いぶりも吶々《とつとつ》と、風貌からして、朴《ぼく》とつな武人である。年齢は四十がらみ。  どこにも才気ばしッた風のないだけ、内はかえって剛毅なのかも知れない。まるっこい栗色の顔だ、栗に長いモミ上げや大きな両眼を取ッつけたような容貌である。……分厚い肩を屈《かが》め気味に、しきりに考えてばかりいる。 「では、なんですか、備後どのには……」  と、五郎は煮えきらぬ相手の調子に、業腹《ごうはら》気味というよりは、若いだけにすぐ急《せ》きこんだ。 「この期《ご》におよんで、先帝の輦輿《れんよ》を奪いたてまつる計に二の足踏んでおられるのか」 「いや二の足ではないよ、権殿。やるからには、不覚があってはならんではないか」 「さ。それゆえこの五郎も、輦輿の御供の佐々木道誉を訪うとみせ、お道順やら敵の人数などつきとめてまいったのだ。さるに、なおまだ何を」 「それはよいが、和殿がいないここ数日のまに、いやな雲行きが飽浦《あくら》の空に見え出したのだ。気味悪い雲行きがの」 「なに、気味悪い」 「うん、なんとも不気味」 「飽浦といえば、加治《かじ》源太左衛門をさしてのことか」 「いかにも」 「はて。何で彼らが?」 「知るはずはない、かくまで密々に運んでいたこと。この高徳もたか[#「たか」に傍点]をくくっておりまいた。しかるに、児島(児島郡)の旧縁から今日の昼、密《ひそ》かに内通してまいった。――それによれば、事はいつのまにか、加治、飽浦、八浜などの備前佐々木党のあいだに洩れているという」 「…………」  これには五郎も色をかえた。無視できない何らかの支障をふと、彼にしても思わぬわけにゆかなかった。  備前佐々木党は、平家のころ、藤戸ノ渡しで軍功をあげた盛綱いらいの子孫であり、近江の佐々木道誉とは、宗家と庶流《しょりゅう》の関係もあるのみならず、この地方では幕府方の大勢力でもあるからだった。  宮方か。幕府方か。  この地方にもその向背《こうはい》ふたつの底流は変りなかった。とくに山陽道でも備前、備中の郷士には、いつ火を噴《ふ》くかしれないような活火山が厳存している。  大覚ノ宮と、  守護の松田一族。  宮方の主峰は、この二つと観ていいが、さかのぼれば、承久ノ乱に宮方へついて、いらいうだつ[#「うだつ」に傍点]のあがらぬ落ち目におちた不遇な武士や、蒙古《もうこ》襲来のさい、人的や経済的にもさんざんな消耗に疲弊《ひへい》したあげく、なんの恩賞もうけず、逆に、鎌倉幕府でうけ[#「うけ」に傍点]のいい大名が受領《ずりょう》にあずかって、この地方でもぐんぐん勢力を張って来るなどの結果から、漸次《ぜんじ》、領土をせばめられて、肩身をかがめているしかなかった不平武族が、「時こそ」と、笠置、赤坂の一挙に、その鬱屈《うっくつ》をふるい起《た》たせたものが、どれほどかかずしれない。  高徳もその一人だ。  備後ノ三郎とも呼ばれ、かつては備後守でもあった古い家柄だが、その備後の所領も、備前児島郡の本拠も、いまは失われて、彼の家のものではない。  わずかに、邑久郡《おうくのこおり》の今木《いまき》と、熊山の山間に、旧領の一部と、少数な部下を持っているにすぎない落魄《らくはく》の武士だった。  しかし、こんな微力な山間の落魄武士へも、先には勤王の士を召す密勅は早くから廻っていた。なぜなら元々彼の家は、皇室領のいわゆる“御領の武士”だったからである。――すべて彼にかぎらず、笠置挙兵のまえに発せられていた天皇の檄《げき》が行った先は、御願《ぎょがん》の社寺や、御領の武士があらましだった。  そのうえ高徳は、守護の松田父子を介《かい》して、大覚ノ宮にも拝謁した。――さらには今、後醍醐の輦輿《れんよ》がこの中国路の目のさきを越えて行く――。まさに千載《せんざい》の一遇《いちぐう》である。高徳が、宮や松田父子の計画に、身を賭《か》けて、 「きっと、帝を奪い返しておみせします」  と、忠誠を誓って出たのも、当然であった。  そこで万端の手筈はでき、こよい高徳の手兵を先駆に、今木から山陽道を北へすすみ、輦輿の通過する船坂峠に敵を待って、宿望をとげようとするものなのに、かんじんなその高徳が、急に、 「あぶない!」  と、観察を下して、腰を釘《くぎ》づけにし、容易に起ち上がろうともしないのだ。――理由をきけば、理は充分にあるが、しかし、権ノ五郎としては、いまさら思い止まる気などはみじん[#「みじん」に傍点]もない。 「なるほど、飽浦《あくら》の佐々木党、加治源太左衛門らが知ったとあれば、油断はならぬが、それにはそれの、後ろ備えを当てておけば、仔細はあるまい」  と、耳もかさず、 「ともあれここはすぐ立たねば、父重明や大覚ノ宮にも、はや大安寺の城を出ておられるし、時もおくれる」  と、せきたてた。  けれど高徳には、彼が気を揉むほどな反応は一こうに見えなかった。 「ま……もすこし待たれい。万一、その留守城《るすじろ》を襲われて、ここも、松田殿のお城も、飽浦佐々木党の手に落ちたら、せっかく奪い奉った帝をどこへお守りできようか。まもなく、もっと詳しい情報が入って来るはず。それを確かめてからでも遅くはおざるまい」  権ノ五郎は焦《いら》だった。 「備後どの。その細作《さいさく》(しのび)はいつ帰るのか。夜が明けるのではあるまいな」 「まさか」  高徳は鈍《にぶ》く笑う。笑ってあとは答えない。  この分別《ふんべつ》そうな団栗顔《どんぐりがお》がこの者の特徴とは五郎もとうから知っている。分別貧乏というやつだ。分別しいしい、そのくせ、積極的な四隣《しりん》から、伝来の領土もいつか少しずつ掠《かす》め奪《と》られ、いまでは先祖の遺産も、熊山の山間地方とここの今木に、半郡にも足りぬものを、やっと保持しているだけのこの土着武士。  それをなぜか、大覚ノ宮も、父の重明までが、 「真っとうな武人、力にもなる人物」  としているのが、五郎には元々からふしぎだった。裏切りの惧《おそ》れなどはない者だろうが、今夜のようなばあいには、じつにまどろい[#「まどろい」に傍点]、およそ非武人的なただの朴とつ漢にみえる。 「おう、細作《さいさく》の者が、戻って来たらしい」  ふと、高徳が呟いた。  その黒い人影は、庭木戸からこれへ入って来たのである。主人のほかな人影が室に見えたためか、男は、くつぬぎの辺に、だまって蟇《がま》のような姿をして、うずくまったきりであったが、やがて高徳から、 「して、どうだった。飽浦八浜の動静は?」  と訊かれ、その俊敏そうな隼《はやぶさ》の眼を、初めて額《ひたい》ごしにキラつかせながら、えて来た情報を、次のごとく報告しだした。  飽浦、八浜、妹尾《せのお》あたりに分れている備前佐々木党が、がぜん結束をみせて、 「すわ」  と、色めきを見せたのは、決して、今夜のこちらの機密が洩れたがためではなく、もう五、六日も前からの動きであった。  と、断定できる理由には、次のごとき事実がある。  佐々木道誉の一家臣、田子大弥太という者が、さきごろ輦輿《れんよ》に先だって、加治源太左衛門安綱のもとへ、道誉の密使として、着いている。  つまりは、道誉が、近江佐々木の宗家《そうけ》という立場から、備前佐々木党の諸家へ、利をもって、なにかの指令を下《くだ》して来たものにちがいない。  たちどころに、備前佐々木党は、浦々に兵船をそろえ、陸の要路にも、いつでも討って出られる戦備をととのえ、 「もし、今木の児島や、大安寺の松田勢が、輦輿のお道すじへ向って、その奪取《だっしゅ》を計るなら――」  とここ二、三日、鳴りをひそめている態《てい》である。  で当然、こなたが先帝奪回に逸《はや》ッて、そのお道すじの播州境へと、兵をくり出せば、彼らはすぐさま、二つの留守城《るすじろ》を急襲して出る。  さらにはまた、兵船をこぞッて、海づたいに船坂附近へ上陸し、輦輿を渡さじとする幕府方の兵に呼応して、味方を孤立におちいらせようとして来ることは、火を見るよりも明らかなこと。――ほぼ、飽浦を中心とする敵の構えはそのようでござりました、と細作の男は一気に述べ終った。 「ご苦労だった。退がっていい」  そのあと。  高徳と五郎とは、睨《ね》め合うように、どっちも黙りこくッていた。  容易でない。  どう考えても、事態は大きく狂ッたと観るしかない。 「どうする。権殿《ごんどの》」 「どうもこうもおざらん。大覚ノ宮も父重明も、はや大安寺の居城をすでに出ていよう」 「おひきとめせねばならん」 「いや、宮は思い止まるまい。父にしても、この期《ご》となっては」 「ここで言い争ってもぜひないことだ。あまり居城を遠く出られぬうち、ともあれ、お目にかかった上の対策とするしかあるまい」  高徳は立ち上がった。  五郎も気は急《せ》く。そして、共に門外へは出たが、高徳は、郎党わずかを連れたのみで、ここの今木城の兵をひきつれて行く様子はなく、 「あとを守れ。物見をおこたらず、たえず飽浦方面に満を持して、不意の攻めに突かれるな」  と、留守の将へくれぐれ注意して立つという入念ぶりであった。  一方。  この宵、松田重明はすでに千余の兵を動員して、居城の大安寺を立ち、やがて財田《たからだ》の辺もすぎていた。  子息の権ノ五郎と高徳らが追ッついたのは、もう山陽道の山せばまッた浮田の谷道へ軍がかかっていた頃だった。兵馬はここで俄な停頓をみせた。――宮も加えて、協議のためだったのはいうまでもない。  ここで、高徳の口から、備前佐々木党のうごきを聞かされた重明は、すくなからず驚きはしたが、 「やはり佐々木道誉、ぬけ目はない。さすがな者だ」  と、感嘆した。  そして、子息の五郎へ、 「そちが加古川ノ宿で会った道誉は、さあらぬ態《てい》に見えたろうが、なんぞ知らん、這奴《しゃつ》は何もかも、とうに見ぬいているのじゃよ。――下手には進めぬ」  と、結論をつけた。ざんねんだが、留守の城を突かれては一《ひ》トたまりもない。「引っ返そう」と、いうのである。  だが、五郎|権《ごん》ノ頭《かみ》は、あきらめきれない。  大覚ノ宮の心事もまた同様なのは、問うまでもなかった。一《いっ》とき、父子の間で激烈な論争が交わされた。あくまで事を決行しようという血気な子と、思慮を感情にうごかされない老父との衝突では、子が言い負かされるにきまっていた。 「いや、ここは高徳に、おまかせくださるまいか」  高徳が、それを救った。 「お引揚げの儀は、それがしからもおすすめする。したが、そのうちの、すぐれた兵百五十人ほどを、特に権殿へおさずけ下さい。自分にも屈強な兵六、七十騎は来合うはずゆえ、それをあわせて、船坂峠に輦輿《れんよ》を待ち、きっと帝《みかど》をわれらの手にお迎えしてみせまする」  だが重明は、それにも、うんとは頷《うなず》かない。  道誉以下、輦輿をまもる一千の兵は、鎌倉方でも精兵中の精兵と聞いている。玉砕も時にこそよれと、あやぶむのだった。 「もとより無謀に近いでしょうが、といって、全く絶望するにもあたりません。策はあります。充分、味方の利もあります」  なんの鋭さもない抗弁だが、高徳の吶々《とつとつ》という言には、五郎と違う粘《ねば》りがあった。ただの朴《ぼく》とつ漢《かん》とばかり彼を見ていた五郎は急に高徳を見直していた。  高徳は、なお説いた。 「――播州《ばんしゅう》備州の境、帆坂《ほさか》、船坂《ふなさか》の二つ峠は山陽道第一の悪路です。輦輿の人馬もそこでは行きなやむにちがいなく、かつはみな東国勢のこと、道は不案内にきまっている。味方はたとえ小勢でも、出没自在に、敵を死地におとしいれ、そして帝を奪い奉ること、やさしくはないまでも、不可能でありませぬ。――一死、以てこれに当る気なら」  あくまで、その団栗顔《どんぐりがお》は、おちついている。  訥弁《とつべん》は、ときにより、雄弁にまさるものか。ついに松田重明も、 「備後どのが、さほどに申すなら」  と、ついには彼の説にしたがい、手勢の内の百五十を、子息権ノ五郎へ与え、あとの総勢は、急遽、大安寺の居城へひっ返すことにきまった。  そのさいにも、部下のなかで、はしなくも一つの紛争が起った。  というのは。  かねて摂津、和泉からこの地方へ潜入していた笠置、赤坂の残党もかなり交じっていたのである。彼らはすでに苛烈《かれつ》な実戦を経験し、そして家や郷土もすてている者だけに、その闘志はつよく、すべてがこの一挙――後醍醐奪回の今日――に乗《の》るか反《そ》るかを賭けていた者どもだ。  だから、重明の命が、 「百五十人をのこし、あとは居城へ引っ返す」  と、つたわるやいな、まず彼らの間から、ごうごうと、非難不平の声があがった。事態の説明を聞かされた後も、 「ここまで来て、俄な臆病風《おくびょうかぜ》とは何事か」 「たとえ飽浦《あくら》の佐々木党が、どう討って出て来ようと、まず先帝を、われらの陣に迎え取れば、即座に、山陽山陰のお味方が、風《ふう》をのぞんで輦下《れんか》へ馳《は》せさんじるに相違ない」  などと理窟をこね、容易に服するいろも見えなかった。  これへも、高徳が立って、ねんごろに、戦いの利害と策を言って聞かせた。そして困難な飽浦との地形的状況なども説いて、 「分ったら、その意気であとに残る組へ入れ。そして高徳と共に来い」  と、言った。  当然、彼ら残党たちは、ほとんどが、高徳と五郎権ノ頭の手についた。さらには、大覚ノ宮もまた、 「わしも……」  と、すすんで船坂峠へ向う組に志望された。  こうして、大部分は主将重明と共に、元の居城へひきあげ、別れた百五十騎だけが、夜をかけて、北へ急いだ。  道はやがて、熊山の南、豊田ノ荘を通ってゆく。熊山は山陽道一の大岳だ。すると、その山間から和気川《わけがわ》に添って、松明《たいまつ》をかざした六、七十騎が、一陣にこっちへ向って駈けて来た。 「何者か」  わけを知らぬ笠置、赤坂の残党たちは初め大いに怪しんだが、それはみな児島高徳の親族、家の子たちとわかった。――豊田の地は、高徳にとって、祖先伝来の古郷土なのだった。  この熊山党をも入れて、およそ二百余騎となった一陣は、夜明けがた、和気郡片上の入り海のほとりで朝の兵糧を解きあった。目的の船坂峠は、騎馬ならあと半日の彼方にあった。  船坂峠は大昔のいわゆる“和気《わけ》ノ関《せき》”である。  播州赤穂郡から備前|三石《みついし》に入る国境であり山陽道一の険路でもあるので、ここでは源平争覇の時代から天下異変というとすぐ武族の充血や築塁《ちくるい》が見られ、とかく戦場にされやすい宿命の土だった。 「おそらく帝の輦輿《れんよ》は、今日か明朝と思われるが、こなたは小勢、平地では勝目もない」  高徳は言った。  片上の磯では、兵糧や馬の飼いも匆々《そうそう》に、またすぐ先へ急いだのだった。  かくて、麓の三石村へついたのは、巳《み》ノ下刻《げこく》(午前十一時)ごろ。  そこには先の日、加古川ノ宿で別れた権ノ五郎の家来十数名が先着していて、軍馬の埃りを遠くに望むと、 「や。来られた」  と、村口へ出て、みな首を長くしていた。  ここで一ト息入れながら、五郎は、待ち合わせていたその者たちへすぐ訊ねた。 「街道の様子はどうだ。輦輿の同勢は、あの翌日、加古川を出て、姫山泊りか、今宿《いまじゅく》だったか」 「されば、姫山泊りでございました」 「次の日は」 「斑鳩《いかるが》ノ宿《しゅく》」 「そして、ゆうべは?」 「てっきり那波《なわ》泊りと見ておりましたが、今日の船坂越えを控えてのせいか、夕道を延ばして、昨日は宵おそく、有年《うね》の光明寺と申す山寺にご宿泊です」 「なに、有年の山寺とな?」 「は」 「では、船坂峠からわずか二里余のさきではないか。山路の上、有年川《うねがわ》を越える難儀もあるが、朝立てば、やがて早や播州側の登り道へさしかかっているはず、こうしてはいられまい」 「いやまだ、お急ぎにはおよびません」 「なんで」 「またも帝のご不例か、前日の疲れか、同勢は今朝まだ有年の山寺を出てはおりませぬ」 「はてな?」  五郎は、俄には信じない。 「備後どの」  と、高徳を見て、 「聞かれた通りな情勢だが、昨夜は夜道までかけてきた敵が、この日和《ひより》を見つつ、今日は宿所に籠ったままとはいぶかしい。どう思われるな?」 「されば、兵法の語で“まぎれ”と申す一条がある。何によれ、疑心にとらわれるのは禁物だ。敵もこの険路へ向って、用心の“まぎれ”を布《し》いているものかもしれぬ」 「では、新手の物見を放って、もいちど、仔細を窺《うかが》わせてみるとしようか」 「それもよいが、こなたはこなた、かねて諜《しめ》し合わせておいた通り、地の利を峠の上に占めて、切所《せっしょ》難所に兵を伏せさせ、いつなりと慌てぬよう、ともあれ、布陣を先にしておく方が肝要であろうよ」 「いかにも」  それ行けと、馬はみな麓に隠した。一さんに徒歩《かち》軽装の早さで峠をのぼりつめる。  まもなく、東南は播磨灘《はりまなだ》から水島灘の碧《あお》を遠くのぞみ、北は佐用《さよ》、揖保《いいぼ》の山波を仰いでいた。高徳と五郎は二た手になり、兵を諸所に隠したり、物見を放ッて、ほぼ小半日、「ござんなれ」と、伏せていた。  峠は暮れた。夜になっては、なおさら何のうごきもない。  ただ折々には、有年《うね》方面の鯰峠《なまずとうげ》をこえ、ここの船坂峠へ走って来る人影があった。物見から物見への伝令だろう。有年に宿営している敵の様子はその微動までが刻々、高徳と五郎の耳へつたわってくる。 「さては、輦輿《れんよ》が通るのは、いよいよ今日だな」  朝となった。  峠の上はもう明るい。権ノ五郎は、夜どおし伏せていた露まみれな体を起して、高徳が隠れている陣の方へ歩いて行った。  が、兵に訊くと、 「備後どのは、まだ彼方の木蔭で眠っておられます」  とのことだった。  自分は気が立っている。そのせいとしてはいたが、でも五郎には高徳のそんな神経が「ても、悠長な」と舌打ちされた。で、べつな所に、大覚ノ宮をたずねてなお今日の合戦の手筈など、打ち合せていた。  兵糧もまた、今朝は午ちかくになって使った。頂上のここで炊煙《すいえん》を揚げては、つい二里彼方の敵の物見に発見される惧《おそ》れがある。そのため麓の三石で炊《かし》がせた物を持ち運ばせて食べるという入念ぶりで、今日も鳴りをひそめていたからだった。  が、ついに。――陽は午後に入りかけたのに、今日もなお、輦輿《れんよ》の人馬が有年の山寺を出たという飛報はここへ来なかった。五郎はようやく、焦心《あせ》り疲れと、疑惑を抱いて、 「はて。おかしい?」  自身時々、高い所に立って鯰峠から有年の方ばかりを眺めていた。  すると未《ひつじ》の頃(午後二時)である。さきの日、加古川の宿に残しておいた細作の一人が、まったく方角ちがいな美作《みまさか》の佐用《さよ》方面からここへたどりついて来た。彼はここの埋伏《まいふく》の陣を見るなり、こう叫んだ。 「とんでもない! こんな所へ幾日陣を伏せてお待ちあっても、無駄事です。天皇のおん輿《こし》とは道すじ違い、まんまと、敵にたばか[#「たばか」に傍点]られておりまするぞ」 「なに」  大覚ノ宮を初め、高徳や五郎も仰天して言った。 「なぜだ。ここでの埋伏は、なぜむだ[#「むだ」に傍点]だと申すか。輦輿《れんよ》は有年の山寺にお入りあって、昨日は旅を休み、今日もまだ動いては見えぬものの、確かに二里余の先に見えておる」 「さ。その輦輿には、お身代りの公卿が乗せられ、警固は、千葉と小山の二将だけで、まことのおん輿ではありません」 「や、や。では有年に来ておる同勢は敵の偽計か」 「されば、敵は今宿を立ち出るさい、その軍中に偽輿《にせごし》を舁《か》かせて、先に山陽道へ向わせ、あとの佐々木道誉は、残りの小人数で、まことの後醍醐の君を山輿に舁きまいらせ、作州街道をヒタ急ぎに、杉坂越えへ向っていたのでございまする」 「しまった」  五郎は、絶叫した。 「いま思えば、道誉めは初めからこちらの計を感づいて、裏を掻いていたとみえる。備後どの、こうしてはいられまい! すぐ杉坂へ追ッかけよう!」 「いや、それもどうかな?」  高徳は、憮然《ぶぜん》と、空を仰いでいる。 「備後どの。残念だが、仕方があるまい。何をお迷いか」 「でも、作州杉坂越えまでは、いかに急いでも、一昼夜の余はかかる」 「知れたこと。道のりなどは」 「しかし敵もふかく企んだ計略、なんで帝の輦輿におめおめわれらの追尾《ついび》をゆるそうか。こちらが行き着くまでには、杉坂、三日月村もこえて佐用ノ宿から因幡《いなば》へ出るか、津山を経て院ノ庄へといそぐか、二途いずれにせよ、猶予しているはずはない」 「いや、相手は輦輿や女房輿をつれていること。急いでも捗《はかど》る道のりは知れている。追ッかけ追っかけ、山の極みへまで追いつめてゆけば」 「ああ、権殿はお若いな」 「そういわるる備後どのはまた、分別すぎる。分別はまま大事を取り逃がす」 「が、脚下《あしもと》をごらんなさい」  高徳は、峠の下に望まれる播磨灘の一端を指した。 「昨夜らい、加里屋《かりや》(赤穂)ノ浦の辺には、幾十ともしれぬ兵船が入っている。思うに飽浦の佐々木党が、あれより兵を揚げて、ここの退路を断とうとしているもの。……また、一方には千葉、小山の敵をもひかえ、何で権殿のいわれるような独り勝手が出来ましょうぞ」  果たして、高徳の言ったとおりな事実が、麓の三石からも聞えて来た。――のみならずその時、大安寺の富山城からも、松田重明の早馬があった。早馬の者の言によれば、備前佐々木党の全面的なうごきが見え、事態は危急に迫っている。すぐ引っ返して、富山城の危急をまず扶《たす》けよ、というのであった。  それさえあるに、鯰《なまず》峠に立たせて、有年方面を監視させておいた物見の者が、怯《おび》え立って、みなぞくぞくと逃げ走って来た。 「ご一同、ご猶予はなりませぬぞ」 「いまにもこれへ見えましょう。敵の千葉ノ介、小山秀朝の東国勢六、七百人」 「はや有年川《うねがわ》を渡り、鯰峠の東谷から登りへかかっておる様子」 「輿《こし》は一つも見えず、騎馬も少なく、みな身軽な決戦いでたちで、その迅いこと、驟雨《しゅうう》のようです」  かたちは逆転した。  いつのまにか、ここの埋伏《まいふく》の陣は、逆に、敵の巧みな網のうちになっていたのである。 「もう、だめだ」  権ノ五郎が叫ぶ代りに、二百の部下が一せいに騒ぎ出した。 「犬死にすな」とも言い合うのだった。元々、松田の直臣でなく、いわば烏合の残党である。こうなると脆《もろ》い弱点を、高徳は初めから知っていた風である。だから慌てはしなかった。 「権殿。お退きなさい。この高徳にかまわず、一刻もはやく、大安寺のお父上をお扶《たす》けなされい」 「備後どのは」 「てまえは、一人で残る」 「え。お一人で」 「む。帝のおあとを慕うてまいる。そして幸いに、もし御座《ぎょざ》に近づきうれば」  彼がみなまでいわないうちに、大覚寺ノ宮も列を出て、高徳のそばに立たれた。 「わしも行く。……備後と共に、わしも帝のおあとを追うて、せめては、お力づけの一ト言でも申しあげたい。おさらばじゃ、権ノ五郎は敵に包囲されぬうち、少しも早うこの船坂を去るがよい」 [#3字下げ]院《いん》ノ庄《しょう》[#「院ノ庄」は中見出し]  播州《ばんしゅう》今宿《いまじゅく》(姫路市の西郊)から美作路《みまさかじ》の杉坂越えまでには、途中、夢前川《ゆめさきがわ》があり揖保川《いいぼがわ》の上流があり、たとえ身がるな二日路としても、らくではない。  まして大勢の旅だ。  さらには、後醍醐帝のほか、典侍の女性三名もそれぞれ輿《こし》のうちである。 「いそげ、ここ数日は」  しかし、どういってみた所で、輿は牛の足より遅い。二日目でやっと千本ノ宿。そして翌日は、どうにか杉坂を越えたものの、三日月村ではもう輿丁《よちょう》の者も、輿のうちの御方も、まったく疲れはてていた。  その代りに、佐々木道誉が帝に奉侍するさまは、かゆい所へ手が届くほどだった。  ひとつには、侍者《じしゃ》の行房と忠顕が、今宿からは、帝のおそばにいなかったせいもある。  三日月泊りの宵だった。  道誉は、宿所の仮《かり》の局屋《つぼねや》まで罷《まか》り出て、とくに三位ノ典侍|廉子《やすこ》に会った。 「いかにとはいえ、連日の山また山路。女性《にょしょう》がたには、さぞ空恐ろしゅう思《おぼ》し召すならんと、お察しいたしておりまする」 「いいえ、私たちは、忍ばねばなりません。ただ流離《りゅうり》の帝《みかど》のご心中はいかばかりぞと、山深むほど、何やら胸がつまって来るばかりです」 「したが、ここは早や都の人目も遠い美作《みまさか》の山中。およそな計らいなれば、道誉一存にても、何なりとしてさしあげられましょう。お気づかいなく、仰せ出しくだされたい」 「うれしく思います」  こころもち頭を下げて、 「みかどにおかれても、道誉が供奉《ぐぶ》の内におるは、憂いの中ながら、唯一の心頼みじゃと、仰せられておられまする」  それは廉子も思うことらしかった。境遇が人の情を感じやすくさせるのでもあろう。廉子は道誉をいつかしら「頼もしい者」と、見る風であった。  また、道誉にすれば「――将ヲ射《イ》ムトスレバ馬ヲ」であった。三人の典侍のうちでも、廉子はひときわ光っている。帝の寵愛も御意《ぎょい》も、じつはこの才女廉子の独占にあることを、彼の長《た》けた眼はとうに見ぬいていたのである。 「ときに道誉。其許《そこ》へお願いがあるのですが」 「仰っしゃってみて下さい。何事ですか」 「この三日月の宿所で、数日休息はなりますまいか」 「ま、もう幾日か、ご辛抱ねがわしゅう存じます。今宿で別れた千葉、小山らの別隊が追ッついてまいるまで」 「どうして、公卿の行房と忠顕には、べつな道を取らせたのでしょう?」 「それの仔細も、ほどなくお分りになりましょうが、とにかくここはご辛抱を仰ぎまする。そしてせめて、院ノ庄へでも行き着くならば、きっと、充分な御保養の儀を計らいまする。どうかこの道誉をお信じあって」  次の日もまた、いなやなく、帝も彼女たちも、山輿のうえの山旅だった。  道誉は、腹心の黄母衣《きほろ》組の十一騎に、輦輿《れんよ》の前後を守らせ、自身は、昨日あたりから、列の尾端に付いていた。  そしてたえず、後の道や横の峠路などへ眼を働かせながら、千葉、小山からの連絡はないか、あるいは児島高徳らの宮方が、突忽《とっこつ》として現われはしまいかと、とにかく今や彼の気くばりにも寸分の休みはなかった。  現今でも、作州街道の佐用、江見村、勝間田、そして富川《とがわ》(現・津山市)への道筋には、昔ながらの、  後醍醐帝|御駐輦《ごちゅうれん》ノ跡《あと》  なる名所や遺蹟の碑が、いたるところに残っている。 “お嗽《うが》ひ水”と称する清水や、“笠懸けの森”という伝説の地や、また帝が、山村の夕煙を見て、詠《よ》まれたとなす、 [#ここから2字下げ] よそにのみ 思ひぞやりし 思ひきや たみの竈《かまど》を かくて見むとは [#ここで字下げ終わり]  と、「増鏡」の“久米のさら山の巻”に見えるのはこの地などと、かぎりもない。  そしてその道順にも多少の異同はあるが、だいたい江見、湯《ゆ》ノ郷《ごう》を経て、勝間田附近をすぎ、やがて津山の院ノ庄へと、泊りをかさねたものと思われる。  ところが、その日は。  山国には特有なものだが、気まぐれな照り降り雨に出会って、とかく道は捗《はかど》らなかった。  馬さえ山坂ではまま辷《すべ》る。  まして輿《こし》を担《にな》う輿丁《よちょう》たちの足もとは容易でなかった。半里か一里ごとには肩代りしてゆくのだが、道はぬかるむばかりだし、山雨《さんう》は輿の御簾《ぎょれん》を打ッて、帝のお膝のあたりも冷たく濡れてきたにちがいない。 「おそれながら」  道誉は時々、その騎馬を、輦輿《れんよ》の横へ並べて来ては、馬上のまま輿の内へ奏《そう》していた。 「上《うえ》には、辛抱などと申す俗語の意味は、かつて玉体にご存じなかったことでしょうが、今日のみは、それを仰ぎ奉ります。なにとぞ、あと半日のお怺《こら》えを」  そしてまた、 「おそくも、今日明日には、院ノ庄へ行き着くはず。――先へ家来を走らせて、御着《ごちゃく》の上は、ゆるゆるお休みを賜るようにしてありまする。何はあれ、院ノ庄までのご辛抱にござりますれば」  と、これは廉子の輿へも言ったのである。なんど繰返すのかしれなかった。  そのうちに、時ならぬ雷鳴が、因幡《いなば》から伯耆《ほうき》ざかいの山岳を晦冥《かいめい》にして鳴りはためいた。山国のいかずちは、都のそれと一つにも思えない。――やがては風を孕《はら》んだ霧とも驟雨《しゅうう》ともつかない真っ白な水粒の怒濤が列を撲《なぐ》ッて吹き通って行く。――人馬はしばし、声を呑んで、立ちすくみに、行きなやむ。 「春雷《しゅんらい》だ!」  道誉は、狂う馬をしぼッて、 「長くはない。すぐ止もう、すぐ止もう」  ひとり声を嗄《か》らしていた。  はたして、まもなく雲《くも》の断《き》れまから虹のような陽がこぼれて来た。――見れば輿も人馬の列も、粉雪のような白い斑《ふ》に染まっていた。山国の遅桜《おそざくら》が、いまの一|過《か》の狂風に、どこからともなく散々《さんざん》に花をくだち降らしていたらしい。 「ああ、大きい景だ。こんな大観は都では見られぬ。まぢかな南の山は、久米の皿山。遠い雲の帯の上なるは伯耆《ほうき》の大山《だいせん》か。……これや上《うえ》にもお珍しかろ。輦輿《れんよ》を下ろして、しばし、御覧に入れたてまつれ」  道誉の命に輿《こし》を休めて、兵たちも、具足の袖など絞《しぼ》りあっていた時だった。後ろの方から一陣の兵馬が、それこそ、いま過ぎた驟雨がまた返って来たように、まっ黒にここへ向って近づいて来た。 「あっ、この一軍は?」  馬を持つ者は馬の背へ戻り、徒歩《かち》の兵は弓、長柄を持ち直し、「すわ」と、すぐ凄《すさ》まじい対峙を作った。 「騒ぐな」  道誉は制した。 「味方らしいぞ。千葉ノ介と小山秀朝が、山陽道から追ッついて来たのかもしれぬ」  やがて彼方からのものが近づくほど、道誉の頬には微笑がのぼっていた。  やはり待ちかねていたその手勢だったのである。しかし全部ではなく、小山秀朝とその一隊だけだった。 「やあ」  と、お互いは、相近づくなり、馬上から手と手を伸ばして握り合った。 「ご苦労だったな。小山」 「いや、御辺こそ」 「して、千葉ノ介は」 「一日ほどは遅《おく》れ申そう。あとの船坂峠に残って、念のため、殿軍《しんがり》しておる」 「では、予想にたがわず、土地の土豪や残党ばらが、山陽道の険路へ出て、帝の奪取を計っていたのだな」 「お察しは図星だった。しかし彼らの計のウラをかいた備前佐々木党のうごきも彼らのキモを脅《おびや》かし、またこのほうも、飽浦の加治安綱が、加里屋(赤穂)ノ浦へ加勢に上がった日を期して、一《いっ》せい兵をすすめたので、船坂峠のいただきに兵を伏せていた児島高徳、松田の権ノ五郎らも、事成らずとあきらめたか、やがてちりぢり軍を解き、いずこへともなく逃げ失せました」  と、小山秀朝は、こう状況を語ったうえで、 「……しかしなお、敵に再度の目企《もくろ》みがないとはかぎらぬゆえ、千葉ノ介は船坂に殿軍《しんがり》して、明日の夜ごろ、院ノ庄に追ッつく手筈となっており申す」  と、つけ加えた。 「やれ、やれ。……それでやっと今夜からは熟睡できよう」  こういったのは、秀朝の労にたいする謝意を、べつのことばで表現してみせたにすぎない。  およそ何が愉快なといって、自分の先見の策が図に中《あた》って、予想以上な奏功を答えに見た時ほどなものはあるまいと、彼はいま独りで謀略の快味に酔っていたのだった。 「もう急ぐこともない」  急に彼も疲れをおぼえたか、その日は、陽も早目に、福岡村の雲清寺に入った。  小山と共に帰って来た千種忠顕と一条行房のふたりも、その夕からは、帝の侍者《じしゃ》として、おそばに侍《かしず》いた。――だからこの二人から、帝もうすうすには、船坂山のことを、お耳になされたには違いあるまい。  そのせいか、ずいぶんなお疲れでもあろうに、雲清寺の行在所《あんざいしょ》では、帝のおん眉は明るかった。「――どこかには、わが身を見ている宮方がいる。このぶんでは行く行く再起の望みも難《かた》くはあるまい」そう一|道《どう》の光明を感受されておられたものか。  それもあろうが、折から雲清寺の夕桜もさかりだった。  忠顕はその一ト枝に歌を添えて、お部屋へささげた。後醍醐も彼へ“返し”の歌をお詠《よ》みになるなど、久しぶり、夜のお枕も、花の香の中だった。  朝。ここの朝桜もまたきれいだった。とはいえ、馬のいななきやら人声が早や騒々《ざわざわ》と朝の立ち支度を告げているので、廉子は、雲清寺の縁へ出て、 「道誉」  と、彼の姿を捜していた。 「やあ、召されましたか」 「オ、道誉、ちと約束がちごうてはいませぬか」 「はて、異《い》な仰せを」 「途々では、院ノ庄へ着いたなら、かならず両三日のご休養を……と、まいど申していたではないかの」 「されば、ここはもう皿山ぢかくではございますが、院ノ庄ではありません。院ノ庄とは、ここから西へ二里ほどの先」 「では、こよいのご宿所は」 「その院ノ庄です。……いやそれゆえの、ご不審でしたか。……何の何の、今日は昨日と違い、雷鳴《かみな》り雲も見えませぬゆえ、その二里ほどを、桜狩りしつつまいろうとの心ぐみにござります」 「おうそのような、優しい計らいであったのか」  廉子はよろこんだ。それがそのまま、帝の仮の御座《ぎょざ》へ奏上される有様を胸にえがきながら、道誉もべつに秘かな満足を自己に感じている。 「花の下道、ゆるやかに遣《や》れ」  その日は、道誉も秀朝も、馬は郎党の手に曳かせて、輦輿のそばに添って歩いた。 [#ここから2字下げ] 憂き旅と 思ひは果てじ ひと枝の 花のなさけの かかる折には [#ここで字下げ終わり]  こんな歌も侍者の公卿に口誦《くちず》さまれたほど、この日の道では、囚人《めしゅうど》と武士との間も、和《なご》やかだった。  久米の皿山を越えると、院ノ庄はもうちかい。そこには近郡近郷の飢饉年に備える倉院(蓄備倉)の役所がある。ひろい院庭には、見る人のない遅桜《おそざくら》がここにも雪のように散り敷いていた。 「いざ、お約束です。二日ほどは、存分、ごゆるり遊ばされい」  着くと、道誉は、侍者《じしゃ》たちへこう披露した。  彼の家臣が先着していて、ここでは何かと用意もととのっていたのである。第一は長旅の雨露に汚れぬいた鎧下着《よろいしたぎ》やら肌着をかえたいことだった。  もちろん、帝をはじめ、三人の妃や侍者たちのためにも彼は用意させておいた。また、つたえ聞いた近郡の地頭や、郷士、法師らの献物《けんもつ》もおびただしく、酒、麹《こうじ》、干魚、乾《ほ》し果物《くだもの》、さまざまな山幸《やまさち》が、行宮《あんぐう》の一部の板屋廂《いたやびさし》には山と積まれた。  お湯浴みなども、久々であり、湯殿をめぐる湯けむりのうちに、妃たちの溶く化粧のものの香や臙脂《えんじ》の艶《なま》めきが漂うなども、めずらしかった。それだけに帝や妃たちは「……はるけくも来つる」という無量な感を、ここでは新たにされたようでもある。 「もぐさ[#「もぐさ」に傍点]はないか」  廉子からの求めに、道誉はさっそく、土地《ところ》の者からそれを求めて御座へもたらした。やがて灸《きゅう》のにおいが行宮《あんぐう》の一間から洩れた。後醍醐のお背と三里へ、廉子が灸治してあげていた。  供御《くご》もその夜は格べつな御食《みけ》が進められ、山のわらびや川魚をさかなに、帝は三名の妃をお相手に深く酔われたらしい。侍者の催馬楽歌《さいばらうた》も嫋々《じょうじょう》と哀れに聞えた。  同じ夜のことだった。  院ノ庄の附近に、神戸《じんご》とよぶ部落がある。いわば村社といったものか。そこの森の神木を、高野明神とあがめ、そばに古い祠堂《ほこら》があった。 「……備後。星もだいぶ夜更けたようだの」 「あれが北斗でございますな」  二人は、堂の縁から仰いでいた。児島高徳と、大覚ノ宮とである。  事むなしく、船坂峠で一たん軍を解いて権ノ五郎とも別れた高徳は、後醍醐の御子(じつは異母弟)の大覚ノ宮と共に、あれから道もない和気郷《わけごう》の山奥へ分け入り、きのうの雷雨の頃は、蓑笠《みのかさ》着て、津山川の下流《しも》をいそいでいた。 「ひと目でも」  と、大覚ノ宮は、後醍醐を慕い、高徳もまた、 「つか[#「つか」に傍点]の間《ま》なりと、咫尺《しせき》に天顔を拝して」  と、自分たちのこの思いを、なんらかによって、帝のお胸へ、結んでおかぬことにはと、お道筋を先へ廻って、時刻をはかっていた今夜であった。 「大覚さま」  高徳は、立ち上がって、 「おそらく、行宮のまわりには、警固の武士が、夜すがら交代で見張っていましょう。高徳がさきに忍んで、在《おわ》す所を見とどけるまで、宮には、遠くにお身を潜めておいでなされませ」  笠や蓑《みの》を取って、大覚へ着せ、彼も半蓑《はんみの》に竹笠をかぶった。  やがて近づいた倉院の屋根は、雨上がりに似た深い夜靄《よもや》のうちに寝沈んでいた。――この晩、ふたりにとってはじつに絶好な機だったといってよい。――警固がわの武士も久しぶり気をゆるして心から疲れを慰していた夜であったし――あちこちの篝火もほんの明るみだけで、どこにも人影や剣光のうごきはない。折々、サヤサヤと花のこずえが鳴り、柵《さく》もない倉院の満庭はただ斑々《はだらはだら》な落花の静寂《しじま》であった。 「このぶんなら」  高徳は、大覚を物蔭にのこして、倉院の建物へ忍びよって行った。  警固の人馬はあらかた津山川の河原近傍から、蓄備の土倉の方に屯《たむろ》しており、ここの古建物の行宮も、いわば地方の郷役所にすぎない物、さして奥深いともみられない。 「お座所は、どこか」  屋《おく》の周囲を半ぶんほど巡って行くと、二つの建物をつないでいる高廊下が見え、そこの中坪らしい辺りで、ふと妻戸を開ける音がした。  高徳はすばやく高廊下の下に身をかがめた。が、紙燭《ししょく》をかざして、中坪の濡れ縁を通りかけた人影は、なにか不審なと、すぐ異《い》を感じていたらしく、ふと、たたずんだまま外を見ていた。 「……?」  廉子である。  しかし田舎武者の高徳が、彼女を三位ノ典侍廉子とはもとより知ろうはずもない。彼はただその高貴な容姿から見て、帝のお側近くに仕える御息所《みやすんどころ》のひとりに相違ないと思っただけである。いやそれだけでも、彼は咫尺《しせき》の間《かん》に天皇の御気配を感じて、もう五体のわななきを禁じえない風だった。 「たれじゃ」 「…………」 「警固の者か?」  彼女の男まさりな気強さも、高徳には、威厳に聞えた。  廉子は怪しんだ。 「異《い》な男よ。……立ち去らねば人を呼ぶぞえ」  ほんとに、呼び立てそうに見えたので、高徳はあわてて、 「あいや」  中坪の内へ、転《まろ》び込むように這いすすみ、ことばも早口に、 「ご不審ではございましょうが、決して曲者などではありませぬ」  と、笠を脱《と》って、平伏した。  一瞬は、さすがびく[#「びく」に傍点]としたが、彼女の白い手の紙燭《ししょく》は慄《ふる》えもしていない。むしろ、きつ過ぎるほどな眼《まな》ざしでさえあった。 「では、誰じゃ。佐々木や小山の手の者とも見えぬが」 「深夜、御寝《ぎょし》のあたりをお驚かせ奉り、重々の罪とは存じますなれど」 「余事は要《い》りません。ただ、何者なるかを、いうたがよい」 「備前|今木《いまき》の住人、児島三郎高徳と申しまする者」 「高徳とな……。耳にしたこともない名だが」 「もとより田舎武者。雲上《うんじょう》にまで聞えているほど名のある者ではございませぬ」 「その高徳とやらが、して、何しにこれへは」 「去年《こぞ》の冬から、備前にお渡りあって、守護の松田の内にお潜み中の大覚ノ宮を、これへご案内してまいりました」 「大覚ノ宮?」  紙燭が消えかかった。  眉をひそめた彼女の白い顔から肩のあたりへ、花が舞った。 「……大覚ノ宮などと仰っしゃる親王はおわさぬぞ。そちは曲事《くせごと》を申しておるの」 「や、おゆるしを。……うかと申し損じまいた。大覚ノ宮とは、世を忍ぶご変名。まことの皇子名《みこな》は恒性《つねさが》と仰せられます」 「えっ」  彼女はあきらかな驚きを全姿に見せた。――その恒性の数奇《さっき》な身の上は、後醍醐に次いでは、彼女ほど詳しく知っている者はない。 「高徳。それは真か」 「いや、ことばの上のみでは、なかなかおいぶかりも解《と》かれますまい。……おひと目、帝《みかど》に御対面なされたい一心から、これまでおあとを慕うて、彼方の木蔭に忍んで、みゆるしを待っておられまする。……なにとぞ、ご奏聞に入れて、しばしの御謁《ぎょえつ》を賜わりますように」 「ああ、そうであったか」  彼女は深い息のように呟いた。  高徳の眸にはその人のうごかぬ姿が、大覚ノ宮のまごころに、いたく打たれたものかと見えた。だが、廉子の胸はそう単純でない。めったに、ほかの皇子の行動になど打たれはしない。  彼女が腹をいためた実の皇子も幾人か都に残してあるのである。こうなっても、廉子は自分が生みまいらせた皇子《みこ》には未来の大きな夢をかけていた。女ごころはべつである。 「……控えて居やい」  彼女は高徳をおいて、濡れ縁の果ての妻戸のうちへすうと隠れた。――高徳は地に匍伏《ほふく》したまま、みゆるしを待っていた。いつまでも地の冷えに耐えていた。 「……はて?」  余りに長い。なんの音沙汰もいつまでもない。  彼はよく五郎などから「分別すぎる者」と笑われるほど、人には一応も二応も疑いをもってみる方だが、高貴な雲上の美女を疑うことまでは、知らなかった。  ようやく、彼もすこし変だと感じ出したらしい。それに足の痺《しび》れにもたえかねてきた。 「おかしいぞ。……いかがなされしか」  考えてみれば丑満時《うしみつどき》である。帝もご熟睡のさなかであろう。そのため、さっきの妃も、御夢をおどろかしかねていることでもあろうか。  彼は、あくまで善意にとったが、しかしお待たせしてある大覚ノ宮も気がかりだった。 「そうだ、この間にお呼び入れしておいた方が、宮もご安心なさろうし、時も費《つい》えぬ」  すぐ返って来る印《しるし》として、彼はわざと、そこへ竹ノ子笠をおいて去った。いや走ッた。  ところが、先に大覚ノ宮を待たせておいた桜の大樹の蔭にも、またその附近にも、宮の姿は見あたらなかった。――はっと、彼は不吉な感に振り廻されたが、声をあげて、御名を呼ぶわけにもゆかない。 「さては、余りに自分の来るのが遅かったため、宮にもどこかそこらを彷徨《さまよ》うておいでなのか」  彼はついおろおろした。花明りを歩き迷った。  と。これは当然、警固の眼にふれないわけはない。 「出合えッ」  どこかで鋭い声がした。  つづいて「曲者っ」と喚《おめ》いて来るのや、 「またか!」  と言ったような声もする。  高徳は、行動の意識もなく跳躍していた。木を楯《たて》に、眼をあらためて見るまでは、しまったと思う余裕もなかった。  着ている半蓑《はんみの》は針のように逆立った。兵が「――またか」と叫んでいたのは、もしか自分の来る以前に、宮はすでに警固の士に見つかっていたことなのではあるまいか。 「もし、そうだったら」  いやそうでなくても、万事休す、ともう観念をつけずにはいられない。彼は、らん[#「らん」に傍点]と動物的な眼をくばった。逃げる方向を嗅《か》ぐ動作である。土豪の本領がいま見えた形である。  つ、つっ、と後退がりに、楯としていた木の幹を離れかけると、包囲のいとまなく前方にだけ迫っていた兵は、 「逃がすなっ」  と、とたんに喚《わめ》いた。高徳が後ろへ走ると見たのである。  だが、逆だった。高徳は前へ猪突《ちょとつ》していたのである。だから不意をくった兵のかたまりは二つに割れ、風を持った蓑と剣影が走り抜けたあとには、はや二、三人がぶっ仆れていた。  しかし、この地ひびきも一|瞬《とき》だった。すぐ元のしじまに返って――ほどなく、追っかけて行った兵の群れが、空《むな》しげに戻って来ると、そこの四ツ目結の紋幕の外に、ひとり黙然と散る花に見恍《みと》れている将があった。 「なんだ。何事があったのだ。物々しげに」  道誉の声である。  兵たちは口々に、取り逃がした曲者の強《したた》かさを、彼の前に告げ合った。すると、道誉は哄笑した。 「いや、さほどな者でもあるまいがの。さいぜん捕えた乞食法師も、自身、入念に糺《ただ》してみたら、何のことはない、行宮《あんぐう》の献物欲《けんもつほ》しさに忍び入った物盗みと白状しおった。おそらく逃げた奴も同類だろう。捨ておけ、捨ておけ」  道誉はまた、兵たちへ訊ねた。 「もう、時刻は寅《とら》(午前四時)のころだろうな」 「いやそうはなりません。やっと丑《うし》の下刻でしょうか」 「そうか。千葉ノ介の一隊が、この夜半《よわ》にでも着きはせぬかと、つい眠りえずにいたが、ではまだ充分一ト眠りはできるな。……もう今のような飢えた献物盗みもやって来まい」 「おことばですが」 「なんだ」 「あとの歯がみではございませぬが、どうも逃げた曲者は、ただ者とは思えませぬ」 「ただ者でなくば、何だと申すか」 「ひょっとしたら、宮方の一類ではございますまいか」 「そうだったら面白いが、いかに不敵な宮方でも、一人二人でこの陣営へ忍び込むなどは考えられぬ」 「そう仰せあると、そのようにも思われますが」 「世に餓鬼《がき》ほど恐《こわ》いものはない。餓えた鬼は都でもまま命知らずをやる。まして貧しい山村のことだ、日ごろ蓄備の食糧がおいてある倉院などは、ゆらい鼠賊が常にねらい寄る所だともいう。……折ふし、お座所に近い板屋の納屋《なや》には、きのうから諸人の献物の酒やら食物が香《こう》ばしく山とばかりおいてあった。……餓鬼どもが身のあぶなさも打ち忘れて盗みに寄ったのはむりもない」  これほどに、主君が多弁にいうものを、なお、それに逆らってみる気などは、兵の誰にも起らなかった。彼らは道誉から「夜明けも近いぞ、眠っておけ」といわれたのをいい機《しお》に、それぞれの幕舎へ入って横たわった。  道誉も隠れた。その四ツ目結の幕の内は、倉院役人の私宅の一つか、とにかく、土上門《つちあげもん》やら芦垣《あしがき》もあって、彼はそこの田舎書院に、手枕していたものらしい。 「玄蕃《げんば》」 「は」  黄母衣の民谷玄蕃がそこへ来てぬかずくと、 「先刻、兵が捕えて来た怪しげな法師は、どこへやったな」  と、すぐ訊ねた。気がかりらしい訊き方でもある。 「は。あのまま彼方の納屋《なや》へ入れておきましたが」 「縄目のままでか」 「はい」 「連れて来い。なおまだ、調べ残しがある。縄目は解いて、連れてまいれ」 「こころえました」  立ちかけると、また急に、 「玄蕃、待て」 「は。何ぞ」 「いや、わしが納屋へ行こう。そしてな玄蕃、これはそちだけに申しつける。誰をも納屋へ近づけてはならん。……また、書院の燭《しょく》は消して、道誉は早や寝《しん》についた態《てい》にいたしておけよ」 「承知いたしました」 「これは極秘だ。主人から極秘の命をうけるのは、きさまにとって冥加《みょうが》だろうが。たれにも口は割るまいぞ」  にやと、道誉の顔の黒子《ほくろ》が笑った。それには反《そむ》くことの出来ない無言の威圧を感じるのは、腹心の黄母衣の者すべてで、ひとり玄蕃だけが主人に小心だったわけではない。  道誉の影は、荒れ庭のすみに見える低い土倉《つちぐら》の口へ呑まれるように消えていた。  夜明けがたの院ノ庄は、きのう以上な馬数《うまかず》や兵で埋まっていた。船坂に殿軍《しんがり》した千葉ノ介の一隊も今暁、ひきあげて来たものらしい。その上、 「きょう一日は旅も休みぞ」  と、行宮のお湯殿には、朝からの湯けむりも暢《の》びやかだった。なによりは、妃たちにすれば、 「……髪も洗える」  そのことすらが、よろこびだった。  いつか、都を出てから二十日に近い。もし内裏《だいり》なら、今ごろは、藤の花の匂う弘徽殿《こきでん》ノ渡殿《わたどの》にこの黒髪もさやかであろうと思うにつけ、妃たちは、粘《ねば》い汚《よご》れ髪に触《さわ》ってみては、女同士で、 「髪を洗いたい……」  と、口癖に言いあっていたのであった。  また、後醍醐も、 「昨夜は深々と何もかも忘れて眠った。寝酒のせいか」  と、いつになく、み気色もうるわしかった。 「いいえ」  廉子は言った。 「きっと灸治《きゅうじ》の効でございましょう。灸はきついお嫌いと仰せられますが」 「嫌いだ、灸は熱い」 「でも、お脚のむくみのみか、お背なども骨|露《あら》わに拝されまする。どうぞお続けくださいませ」 「まるで、そなたはきつい母親のようだの。子をつかまえていう母のようだ」 「ホ、ホ、ホ。お上《うえ》には私のような者もひとりはなければいけますまい。行くすえ、御開運の日が来ても、もしお上のおからだがお弱かったら何といたしましょう」 「わかった。つづけるよ」 「では、朝の間に」 「もうか」 「朝の灸治は、わけてよく効くと申しますから」  すぐ小さい香筥《こうばこ》をとり出した。それにきのうの艾《もぐさ》が入っている。有無をいわさず帝に迫って、彼女の白い手はもう御衣《おんぞ》のお背を脱がせにかかる。  しきりに、熱《あつ》……熱《あつ》……というような帝のおうめきが洩れていた。行宮《あんぐう》とは名のみな建物。すぐ障子一重の外は中坪だった。そのあたりで、さっきから人声がしていたのである。小宰相と権大納言ノ局も交じっているらしかった。そして、 「ともあれ、佐々木を呼べ」 「いや、もう見える頃」  などと忠顕や行房なども騒《ざわ》めいていた。  人々が寄って、いぶかり合っていたわけは、中坪の地上に、一箇の竹ノ子笠が捨ててあったことからだった。 「どうして、このような下郎笠《げろうがさ》が、お座所近くに捨ててあるのであろ?」  と、最初に騒ぎ出したのは小宰相ノ局で、 「もしや、宮方の者か」  と、彼女が問題にし出したため、捨ておけずとなって、すぐ侍者たちから、道誉を呼びにやったものらしかった。  しかし、やがてその道誉が姿を見せると、彼は事もなげに、中坪に立って笑った。 「……や、ここへも紛《まぎ》れ入りましたか。昨夜、小盗人が二、三|下屋《しもや》の献物《けんもつ》を狙いに這い込みましたゆえ、これは、そやつの物でございましょう。ご安心ください。ほかに別条はございませぬ」  すぐ、部下のひとりを振り向いて、道誉は顎《あご》でいいつけた。 「これ。……その穢《むさ》い下郎笠を、どこへな取り捨てろ」  事はかんたんに片づいた形である。それから、侍者や妃へ、こう告げた。 「今日はこの辺の地頭や里人《さとびと》どもが、帝のお慰みにと、さまざまな催しを設けて、お待ちしておりますれば、どうぞ御遊《ぎょゆう》のお身支度を」 「そうか」  忠顕の顔が、上で受けて。 「それはさだめしよい御気散《ごきさん》じになるであろ。道誉、そちの優しい計らいは、何かと、御叡感であらせられるぞ」 「いや、さまでには行き届きません。しかし隠岐への旅も、ようやく半途《はんと》、明日からはまた、非情な旅路です。どうぞ今日ばかりは心ゆくまで、一日の御休息を」  まもなく、中坪の声は、散って行った。  障子の内の、帝の灸治《きゅうじ》もほどなく終っている。  竹ノ子笠の怪は、廉子も聞いていたにちがいないが、帝のお耳には入れまいとするように、彼女は、中坪でのその人声をしいて紛《はぐ》らしていた風だった。  はや倉院の近くの馬場では、その日の催し事の太鼓がとどろに鳴っていた。――俄造りの桟敷に、帝以下、三人の妃と、忠顕、行房らの姿が揃うころには、馬場のまわりには、山国の群衆が、物珍らに、無遠慮な声など放って、わいわいと見物していた。  むりもない。  こんな山国の奥で、まざと、天皇や妃たちのお顔を見るなどは、彼らにすれば夢のようなことだったろう。しかも、どんな事情で輦輿《れんよ》がこんな所を越えて行くのやらも、また、帝《みかど》の流離《りゅうり》と聞かされても、みかどが流されるとはと、ただ首を傾《かし》げるだけな彼らだった。  その中に、ゆうべ辛くも逃げ果《おお》せた児島三郎高徳も、そ知らぬ顔して交じっていた。  今日は竹ノ子笠ではない。それに代る猟師頭巾。  腰の太刀はすでに、船坂落ちの途中でただの山刀とかえている。身なり足ごしらえ、どう見ても山家の猟師か郷士である。彼の団栗顔《どんぐりがお》がまたこの中で腕拱《うでぐ》みして交じっていても少しも異質には見えなかった。 「…………」  しかし、気がつく者があれば、眼光だけはただならぬものがあったはずである。 「……あの女御《にょご》だ。帝のおそばにいる一番|艶《あで》やかなあの女御がゆうべのお人にちがいない」  彼は胸で憎んでいた。  もしあのさい、彼女が自分を長々と待ちわびさせなければ、大覚ノ宮を見失うこともなかったはずだ。  また果たして、自分の切願を、帝のお耳へ取次いでくれていたのかどうか。 「覚えておこう」  高徳は、見物人の中を流れ歩きながら、それとなく聞き出した。――三位ノ局阿野|廉子《やすこ》と、今日の“笠懸け”に出る騎士の一人が教えてくれた。  やがてその“笠懸け十番”の競技がすむと、土地《ところ》の若い男女が花吹雪の中に山家踊りの輪をえがいた。  幾種の踊りのうちでも、わけて興《きょう》がられたのは、高野明神の“宇奈手神楽《うなでかぐら》”で、舞踊の筋は「今昔物語《こんじゃくものがたり》」のうちにも見える。 [#ここから2字下げ] むかし美作《みまさか》ノ国に、中参《ちゅうさん》、高野《かうや》と申す神まします。 神の体は、中参は猿、高野は蛇にてぞましましける。毎年に一度の祭りあるごとに、生贄《いけにへ》をぞ供へけるが、その生贄は、国人《くにびと》の未《いま》だ嫁《とつ》がざる処女《をとめ》をば、浄衣《じやうい》に化粧してぞ奉りける。 [#ここで字下げ終わり] 「今昔」のうちのそんな話は、まいど宮廷ではよく局の夜ばなしに語られていたものである。だから思わぬ僻地でその実演に触れたことが、帝にも妃にも一ばい珍しかったものであろう。  が、群集の中にまぎれ込んでいた三郎高徳の眼は、舞楽仮面《ぶがくめん》の中参《ちゅうさん》の眸のごとく桟敷《さじき》の廉子を遠くから睨《にら》まえていた。  かえすがえす、残念でならないのである。 「ああ、ここに一軍の手勢を持っていたならば」  と、痛嘆を禁じえない。  だが、徒手《からて》ではどうしようもないのだ。後醍醐へ近づく望みなどはもう思いもよらない。このうえはただ、大覚ノ宮の安否だけをたしかめて、またの時節を待つとしよう。それしかない。それにしても宮はどうなされたのか。 「よもや?」  彼にはまだ、宮が敵に捕まったとは信じられず、また、信じたくもない。もし事あらわれているとしたら、今日の警戒はもっと厳でなければならないはずだと、考えられる。 「いや、宮こそ高徳を、捜しておいでかもしれぬ」  彼の彷徨《ほうこう》などは、たれ知る者はない。そしていつか、終日の帝の御慰安の日も暮れていた。  夕桜の蔭はもう墨色《すみいろ》だった。しかし、なおまだ一|刻《とき》の名残りの酒もりが、帝座に武士も交じえて酌《く》まれていた。  その果てである。酒豪でおわす後醍醐もしたたかお酔いになったものだろう。……やがてのこと。儚い今日だけの歓楽も早や尽きたかのころ、妃たちの手にもおえぬ後醍醐の大きなお体を、ひとりの武士が抱え扶《たす》けながら、行宮《あんぐう》の方へよろよろ歩いて行くのが見えた。 「…………」  高徳は、まぢかに見た。  身を豹《ひょう》のごとく、木蔭の闇にかがめながら、後醍醐とその武士とが、襟くびに手と手を絡《から》ませあい、あだかも、日頃の酒友か何ぞのように、 「愛《う》い奴。あははは」 「愛《う》い君。ははは」  と、共に酔歩を愉《たの》しんで行く影を眼のまえに見て少なからず驚いたのだ。  武士は道誉なのである。  後醍醐は、しばしば、その道誉の襟がみをつかんでは、彼の入道頭をガクガク小突き廻しながら、こんな風な酒言も弄《ろう》しておいでだった。 「可惜《あたら》な奴よ。なんで汝《な》れは公卿に生れず、鎌倉武士などに生れついた。生れ直せ。まだ青い若入道、時しあれば、生れ直せぬこともないわさ」  それこそは、人の上の中参の魔王が、生贄《いけにえ》へ臨む刹那《せつな》を思わすような貪欲《どんよく》と魅力であった。大酔の態《てい》を仮りて仰っしゃってるには違いないが、さしもの佐々木道誉も、重さに痺《しび》れて、何度も、膝を折りかけていた。  夜も深まると、ゆうべのように、倉院の地内は、おぼろな篝火《かがり》と、舞う花ばかりな、しじまに返った。  だが、何かは厳しい。  輦輿《れんよ》もいよいよ明早暁に、この地を出発と、ふれ出されている。  そのせいか、花の蔭を行く剣光が終夜キラキラ巡っていた。――が、高徳は悄然《しょうぜん》と、津山川の方へ歩いて、ゆうべも寝た河原の簗小屋《やなごや》の内で長嘆していた。 「ああ、何もかも空しく終った。松田ノ五郎がいったように、おれはやはり分別者の分別損《ふんべつぞこ》ないという者だったか」  眼をふさぐと、帝の寵妃《ちょうひ》廉子《やすこ》が浮かぶ。また、大酔した帝と佐々木道誉とのふしぎな戯《ざ》れ言《ごと》があたまの中を通って行く。 「しょせん、おれは一|介《かい》の田舎漢《いなかもの》よ。何やら分らぬことだらけだ。したが、その分らぬ小智恵では、生《なま》じ帝座の繞《めぐ》りへ近づかなんだ方が、かえってよかったことかもしれぬ。……がただ、宮のご消息だけは何としてもつきとめねば、郷党どもにも顔向けならぬ」  いつか、彼はとろと眠っていたらしい。――はっと眼がさめたのは、どこかを行く馬蹄の音に驚かされていたのだった。 「や。明けかけている」  簗小屋を這い出すなり高徳は息をつめて畷《なわて》の方を凝視した。津山川の水面《みずも》もまだわかたぬほどな霞だし、空は白みかけたばかりだった。  けれど輦輿《れんよ》の護送の列は、もう院ノ庄を出て来たらしい。  まもなく、それは近くの堤へ蜿蜒《えんえん》とさしかかって来た。いくつかの輿、そのあとさきをつつんで行く騎馬の数十騎、道誉、千葉ノ介、小山秀朝。――高徳は草のなかに匍《は》ってかぞえていた。そして兵の一人一人からさいごの列が過ぎるまでは、身じろぎもせずにいたが、ついに大覚ノ宮を見いだすことはできなかった。 「おられぬわ」  不安とすべきか、安心とみていいか、彼はいずれとも解き迷った。捕われてはいないとも解せる。或いは、捕われてなお倉院に置かれたかとも考えられる。  高徳は惑いに駆られながらいつか倉院の広場へ来てあちこちしていた。重たげな花の露の下はまだほの暗く、いまは人ッ子ひとりの影もない。またなんらその人の安否とてもわからない。  が、ふと彼は、大きな一樹の前に佇んだ。 「……?」  桜の木肌が生々《なまなま》と白く削りとられている。のみならず、それへ墨書きがしてあった。樹脂の滲《にじ》みで読みづらく墨は散っている。いや高徳には、読むにはやっと読みえたものの何の意味か解しかねた。 [#ここから2字下げ] 天莫空勾践《テンコウセンヲムナシユウスルナカレ》 時非無范蠡《トキニハンレイナキニシモアラズ》 [#ここで字下げ終わり]  彼は立ち暮れた。  これで昨日から三つの謎に試されていると彼は思った。第一は廉子である、次は佐々木道誉だ、そしてまた、と高徳はただその詩句のような文字に見入るばかりだった。 「おおっ」  そのうちに、彼はあたりを忘れたような声を発した。詩句の意味が解けたのではない。これを書いた人に違いない者の姿を見たのである。その人は、さながら放心した人間のように、やや遠くの桜の根方に、独り膝を抱いてうずくまっていた。  それは、大覚ノ宮だった。高徳が捜しあぐねていたその人に間違いなかった。  彼の声に、宮も、 「あ。そちは?」  花の下の跼《うずく》まりから醒《さ》めたように、そして、なおどこかには、茫然としたものを脱しきれない顔でもあった。 「いったいどうなされたことでございますな。おとといの夜、ここでお姿を見失うてから、この高徳、どれほどお捜し申していたかしれませぬ」 「知れぬはず、佐々木道誉という者の手に捕われて、つい今暁まで宿所の土倉に籠《こ》められていたのだ。……放されたのも、たった今のことでしかない」 「して、それは誰の救いで?」 「いや放してくれた者も、その佐々木道誉」 「仰せの意味、よう解《げ》せませんが」 「されば、その道誉の心は、わしにも解《げ》せん。彼は鎌倉の重臣、しかも帝を警固して行く重責の大将でもあるに」  宮は、不審の中から、記憶をたどって、はなし出した。おとといの土倉の中のこと。道誉の調べ振りのこと。  まず第一の不審は、  なぜか道誉は、その取調べも、部将に委せず、部下の者へは「物盗みに紛《まぎ》れ込んだ乞食法師にすぎん」と称して、ただ宿所の土倉へ抛りこんだままにしていた。  しかし、その土倉の中では、じっさいには大覚ノ宮のこれへ来た目的から身の上までを、彼自身、宮の口からしかと聞きとっていたのである。  宮は観念され、何もかも包もうとはなさらなかった。――だから今暁、まだまっ暗なうちに曳き出されたときは「――打ち首か。六波羅送りか」と、すでに一命はあきらめ果てていたのだった。  ところが、道誉は人なき所へ宮を連れて行って、意外にも、こう言ったものではないか。 「帝駕《ていが》は、いますぐここをお立ち出でになります。自分の立場として、ご対面はゆるされませんが、何ぞ、叡慮《えいりょ》に達したい御一念があるなら、道の桜の小枝《さえだ》に、お歌でも書いて結んでおかれてはいかがですか。……おん輿《こし》の内ゆえ、ふとお気づきにならず過ぎる惧《おそ》れもありますが、そこは自分がふと知った態《てい》にして、叡覧《えいらん》に供えるように計ります。……その間、あなた様は物蔭にいて、よそながら御兄君《おんあにぎみ》(帝)の千里のさきをお見送りなされませ。そして以後はめったに、御幽居《ごゆうきょ》や都の争乱の渦にもお近づきなされますな。――時来たれば、道誉がきッとよい機《しお》に御対面の労も取りますれば」  すでに。  帝駕は行宮《あんぐう》を出るばかりな時なので、何を問い返しているいとまもない。宮はとっさに、傍《かたわ》らの桜の大樹の肌を削って、道誉の矢立の筆を借りうけ――天、勾践《コウセン》ヲ――の二行十字の詩句を半ば夢心地で書いたのだった。 「む。よいおん謎、これは武者どもには何の事やら解けますまい」  道誉は去った。しかし彼がそう言ったのをみれば、彼には“読《よみ》”も“意味”もわかっていたにちがいあるまい。  まもなく、輦輿《れんよ》がさしかかる。  道誉は早くも馬上の人と変って、輦輿の先を打たせて来たが、ここまで来ると、俄に駒を下りていた。同時に、侍者の行房や忠顕らも、みな何事かと、彼が指さす一樹のまえに寄り集まり、小首を傾《かし》げ合うのであった。 「なんと読むのか」 「なんのことか?」  武者どもはいうだけだった。  千葉ノ介や小山秀朝も一見には来たが、分ったような顔つきではない。いや道誉までが、 「何者の悪戯《いたずら》やら」  と、そらとぼけている。しかし、侍者の行房と忠顕のみは、それを胸のうちで、 [#ここから2字下げ] 天莫空勾践《テンコウセンヲムナシユウスルナカレ》 時非無范蠡《トキニハンレイナキニシモアラズ》 [#ここで字下げ終わり]  と、明らかに読んでいたのは、もちろんだろう。  こんな異朝《いちょう》の故事や、いちいちな辞解などは、いま宋学《そうがく》流行のなかにある宮廷人か、またはよほどな篤学者《とくがくしゃ》でもあるならいざ知らず、一般の鎌倉武者や土豪などでは、何の意味やら分らぬ方が当然といってよい。  詩句のいわれと、その解釈をすれば、こうなのである。  ――支那の遠いむかし。――周《しゅう》と呼んだ時代の末頃。  呉《ご》と越《えつ》と、二つの雄藩が、かなたの国では、両々|覇《は》を争ッて、併呑《へいどん》をうかがい合い、倶《トモ》ニ天ヲ戴《イタダ》カズ、とまで争っていた。呉人越人、同邦ながらたがいに憎しみあっていた。  が、越王|勾践《こうせん》は、会稽《かいけい》の一戦にやぶれて、呉王の虜《とりこ》になり、呉城の土牢に入れられて、幾年かすぎていた。  ここに范蠡《はんれい》という越の忠臣があった。主君の囚われをかなしみ、苦心さんたん、身を塩魚売りにやつして、ついに呉城の禁獄へ忍びこみ、魚の腹に一片の密書をかくして獄へ投げて逃げた。――あとで勾践《こうせん》が魚を割《さ》いてみると、なつかしや范蠡の筆である。主君よ、范蠡がおります、どんな辱に耐えても死に給うな、としてあった。  やがて時節は来て、勾践はもう叛《そむ》く力もない者とみられ、ゆるされて越の国へ還された。が、そのためには、最愛な美女|西施《せいし》を呉王へ献じなければならなかったが、范蠡は主君をいさめて、あえてその愛人西施をすら敵の呉宮へささげさせた。――そして呉王はこの天下第一の美人をえて大いに驕《おご》った。呉の良臣、伍子胥《ごししょ》の諫言《かんげん》も耳に入れず、荒婬《こういん》と、連日の宴舞に、国政もみだれ果てた。  ついに、待つ日は来たのである。  越軍二十万が、呉へ突入して来た。四隣の晋《しん》も楚《そ》も斉《せい》もいちどに起って、呉の領土を分け奪《ど》りにし、呉はついに亡んだ。――かくて越が積年の“会稽《かいけい》ノ辱《はじ》”をすすぎえたのは、ひとえに勾践《こうせん》の下《もと》に、ただひとりの范蠡《はんれい》があったによる――と、漢土の史書は日本にまで彼の名とその忠節とをつたえていた。 「……それよ。その故事になぞらえて、何者かが、後醍醐のきみを勾践に、自分を范蠡に擬《ぎ》して、この桜樹の幹へ、心を託し去ったものにちがいない」  忠顕と行房は、眼と眼を見あわせた。が、武士どものてまえ、口には出さない。  ひとしく、後醍醐も輿を出て、御覧になったが、凝視……そのままで何も仰っしゃるところはなかった。  ただ。臆測すれば。  ひょっとしたら後醍醐は、その筆蹟によって、或る肉親の一人に、思い当っておられたかもわからない。 「…………」  その間、ほの暗い花の木蔭に息をこらしていた大覚ノ宮は、なつかしさやら、なさけなさやらで、つい涙をつつみ、帝のお顔もしかと窺いきれぬまに、はや列はまたゆるやかに流れはじめていたのだった。  さるにても、わからぬのは道誉の心だ。 「高徳、そちはどう思うの?」  大覚ノ宮は語り終った。  そしてこの日、この二人も、やがて、院ノ庄を去って、もとの備前国へ帰って行った。 [#3字下げ]絶海[#「絶海」は中見出し]  院ノ庄から西へ三日路で、帝駕《ていが》は、難所の四十曲峠《しじゅうまがりとうげ》を越えていた。  やっと伯耆《ほうき》ノ国に入る。  日野川の上流に沿い、日ならず、出雲《いずも》街道は車尾村に出る。そこで一日、ご駐輦《ちゅうれん》の後、米子《よなご》から出雲の安来《やすぎ》をすぎ、さらに船で美保《みほ》ノ関《せき》まで渡られた。 「ああ、ここは早や」  外洋の風は荒かった。地蔵岬の一端に立たれて、帝はうたた、お眼をそばめる。 [#ここから2字下げ] さもこそは 月日も知らぬ 我れならめ 衣更《ころもが》へせし 今日にやはあらむ [#ここで字下げ終わり]  帝には侍者の一名から「もう今日からは四月です」と聞かれたので、思わずお口をついてこの歌が出たのであろう。月日も都も、余りにかすんで、かえりみても、かえりみきれぬ。  行宮《あんぐう》にあてられた三明院《さんみょういん》は「梅松論」に、 [#ここから2字下げ] 御座舟、美保ノ浦に着き給ふ。かりに、この津《つ》にありける古き御堂をもて、一夜の皇居となす。 [#ここで字下げ終わり]  とある、その古御堂《ふるみどう》か。  そしてここには、鎌倉の下知状によって、隠岐ノ判官清高が、帝のお身がらを引き継ぐため、大小幾十そうの船を艤して、早くから待っていた。  また出雲の守護、塩冶判官高貞《えんやほうがんたかさだ》なども、立会いとして、これへ臨んでいたので、三明院の野外は、時ならぬ兵の陣場となり、ふだん百戸に足らぬ浦の部落は、喧騒《けんそう》にあふれ返った。  折ふし、裏日本特有な波濤でもあったから、 「一両日は、風待ちせねば、渡海はなるまい」  と、観《み》られていた。  着御《ちゃくぎょ》の、その夜は休んで、あくる日、道誉は隠岐ノ判官佐々木清高を伴《ともな》って、御堂の縁の砌《みぎり》に、二人してひざまずき、 「さて。御警固の儀も、ここからは、それがしの手を離れて、隠岐の配所における一切まで、これなる清高が代って、朝夕、勤侍《きんじ》つかまつることと相なりますゆえ、道誉同様に、何なと仰せつけ下しおかれますように」  と、警固引き継ぎの言上とともに、清高を、帝座の人々へひきあわせた。  侍者の一人、千種忠顕は、 「おう、そちが隠岐ノ判官なるか。行く末たのむ」  と、上で言った。  そこの濡れ縁からすぐの、小暗い一室には、御簾《みす》もなく、後醍醐のお姿もあらわに見えていたのであった。  おそらくは、帝にしても「これから先、隠岐ノ島とやらで、儂《み》の監視役として付く武者とはどんな男?」と、かくべつな御心で、彼を見ずにはおられなかったことであろう。  しかし打ち見やるところ、清高は四十前後の平凡な武者で、そう強《こわ》らしげな男でもない。  のみならず、道誉とは同じ佐々木姓で、その祖も同じ近江源氏の定綱から六世の孫でもあると聞かされて、 「そうか。それや浅からぬ縁ではある。佐々木から佐々木の手に渡さるることならば」  と、一条行房も言い、物蔭にいた妃たちまでが、帝をかこんで、ほっといくらかは胸なで下ろした様子であった。  ここで船待ち三日。  いよいよ、帝以下、明日は美保ノ関を離れて島へ渡るときまった。  前日の夕である。隠岐ノ判官佐々木清高は、赤々と夕焼けに燃える船泊りの一|艘《そう》に立って、 「万一の惧れもある。お座船は二つに分け、一そうには帝と典侍らだけを乗せ、公卿二人へは、べつな船を仕立てろ」  と、海上の警戒にもおさおさ油断なく、また波路《なみじ》は長時間になるので、 「お付きの女房方のため、特に艫《とも》寄りへ、小さい板囲いを設《しつ》らえおけ。またお座所には夜具《よのもの》も入れ、波除けを忘れるな」  などと何かの指図に、忙しげな姿だった。  ところへ、道誉の姿が、岸の上から呼んでいた。 「おうい、隠岐どの」 「や、お館《やかた》でいらせられるか」  道誉は同族の宗家《そうけ》だし、鎌倉御家人の筆頭でもある。彼がこう、いんぎんなのは、自然だった。――で、今にしてみれば、鎌倉幕府の意のあるところも、うなずかれる。  つまりここまでの護送使の大将に、佐々木道誉が選ばれて来たのも偶然でなく、幕府の人選、なかなか配慮のあるところだったわけである。  出雲の守護の塩冶高貞も、また、島の守護代隠岐ノ判官清高も、みな佐々木一族の分流なので、帝の引き継ぎや今後の連絡なども、すべて道誉を以て当らしめれば、諸事好都合と判断された任命であったのだ。 「お館、何ぞ御用で?」 「こよいは、お別れの宴。いまのうちに、寸時、最後の打ち合せを遂げておきたいが」 「お。すぐまいります」 「いや、わしから行こう」  なに思ったか、道誉はもう船板を渡っている。  繋《もや》い合っているたくさんな船から船の舷《ふなべり》を跳び移って来て、 「ちょっと、お顔を」  と、人のいない一艘の方へ、清高をさし招いた。そしてただ二人きりで、赤い夕波の映《は》えを面に対《むか》い合って、 「隠岐どの」  と、何か道誉は、あらたまった。 「はっ」 「ご重任だなあ、これから先は」 「ぜひもございませぬ」 「察し入るよ。この道誉も、やっと肩抜けはしたが、しかし、これまでの道中では、いくたび薄氷《はくひょう》を踏む思いをなしたことかしれん。何地《いずち》にも宮方のうごめき[#「うごめき」に傍点]が見られたぞ。島でも御油断は相なるまい」 「覚悟しておりまする」 「いや、悲壮なご決意だの。しかし、遥《はる》けき島のことだ。鎌倉表や六波羅向きへは、道誉がよいように披露いたしておく。あまり難しく思わぬがよい」 「ひとえに、よしなにお願いつかまつりまする」 「む。何事によれ、島便りは、いつも洩れなく、この道誉まで報らせておくが何よりだな。……それと、ここだけの話だが」  道誉はあたりを見廻した。  中央の実情にはまったく晦《くら》い隠岐ノ清高をつかまえて、この夕、道誉が、何を咡《ささや》いていたかなどは、誰知るはずもなかったのだ。ところがここに、ふたりの舟中の長話を遠くに見て、密かに、いぶかっていた者がある。やはり同族の塩冶判官高貞だった。  塩冶高貞は、隠岐ノ清高よりずっと若い。が、この地方の現職では彼の方が上位だった。  清高は、隠岐の守護代にすぎないが、彼は出雲守であり守護職でもある。簸川郡《ひかわごおり》塩冶城《えんやじょう》にいて、その祖も同じ佐々木の末流だ。 「はて。ただ二人、あんな船の中で、何の密語を?」  彼は、おととい以来、道誉がとかく自分をよそに、清高ばかりを談合相手としているのが、気にくわなかった。  ひいては、両者の間《かん》におこなわれた帝の引き継ぎにも、疑いを抱いていたものだった。 「よし、そしらぬ顔して、こよいの態《てい》を眺めていよう」  その宵は、三明院のうちで、心ばかりな別宴があることになっていた。  一夜明ければ、帝の御船は島へ。――道誉以下は元の都へと、立ち別れるのだ。  ほどなく、その道誉と清高も、連れだって来て、三明院に姿を見せる。また、千葉ノ介貞胤だの、小山五郎左衛門秀朝などは、おもな部将をつれて、すでにもう、庭むしろの上に、あぐらして居流れていた。  庭には篝火《かがり》、上の古御堂のうちには、磯風をふくむ小暗い短檠《たんけい》の灯。  帝と妃たちは、そこの明滅のうちに、お姿を見せており、公卿ふたりは、縁にいた。 「三日の月が……」  と、忠顕は憮然《ぶぜん》と仰いだ。  武者たちも、仰向いている。都へ帰る者ですら、家郷《かきょう》遠くの感にとらわれているらしい。お声はないが、帝の感慨はいうまでもないだろう。外洋の波音が、ここへまで打って来る。 「道誉」  一条行房が縁から呼んだ。 「お召しあらせられるぞ。近う寄れ」 「はっ」  道誉は、庭むしろを立って、そこの下にぬかずいた。後醍醐は心から彼に別れを惜しむふうだった。 「長の旅路を」  直々、ねんごろなおことばのあった末に、 「わけて、そちの肩など借りた、院ノ庄の花の一夜は忘れ難いぞ。覚えておるか」  意味ありげに仰っしゃった。 「なかなか忘れはおりません。生涯忘れることではございませぬ」  道誉は、答えた。  それから、お杯を賜わった。もちろん、彼だけではない、順次、千葉ノ介から小山に賜わり、隠岐ノ清高からさいごに塩冶高貞へも賜わった。  高貞は心の眼をくばって、終始、鎌倉の代官たる自分を持《じ》していた、というよりも帝のおことばといい、道誉と清高のあいだなども、仔細に、猜疑《さいぎ》していたのだった。  宴は、更《ふ》けてゆき、この夜も、後醍醐はおそばの廉子《やすこ》が案じるほど、いくたびか大杯をかたむけられた。そして、やがては御自身、琵琶を抱いて、弾《だん》じられた。琵琶の音《ね》は、玄々淙々《げんげんそうそう》、人々の酒腸《しゅちょう》をいちばい多感にした。  その琵琶は、帝が六波羅におわしたころ、中宮《ちゅうぐう》(皇后の禧子《よしこ》)からお獄舎《ひとや》のうちに献じた物である。遠く、中宮へお別れを告げるお心もあったであろうか。  ほどなく、行宮《あんぐう》の宴は罷《や》み、武者たちもみな思い思い、野陣へひきとって、寝しずまった。  そのあとは、暗い浪音だけだったが、いつとはなく行宮の古御堂を抜け出て、裏の林のうちへ、すうっと消えこんで行った女性がある。  典侍《てんじ》のひとりの小宰相《こさいしょう》であった。 「……塩冶《えんや》か」  すると、木蔭にうずくまって、さっきから彼女を待っていたらしい者が、 「はっ。高貞でございます」  と、同じような小声で答えた。当夜の宴も果てて人みな立ちかけた混雑間際に、高貞は、その小宰相からふと意味ありげな結び文《ぶみ》を受けとっていたのである。子《ね》ノ刻《こく》、ひそかに裏の松林で待てとしてあったのだ。  かねて。  小宰相ノ局は、ほかの二人の妃とちがって、後醍醐とは反対派の現帝に仕える堀川大納言の姪《めい》であり、内々、鎌倉の息がかかっているものとは、高貞も鎌倉下知状で知っていた。 「小宰相さま。何か、かくべつな御用でもございまするか」 「そもじを、二心ない者と見て、頼んでおきます。明朝、御船がこの浦を離れたら、鎌倉表へ、すぐこの状を、飛脚して給わるまいか」 「おやすいこと」  と、高貞は、預かって。 「ご秘報でございますな」 「そうです」と、彼女は充分、高貞には信をおいているものらしく、彼には包むふうもなかった。 「――ここへ来るまでの、道誉の仕方には、道中|腑《ふ》に落ちぬことばかり……。また、隠岐ノ判官清高にも、不審がみえる」 「あなたさまにも、ご不審が抱かれましたか。今夕もその清高と道誉が、海上へ出て、長いこと船で密談などしておりましたが」 「油断はならぬ。先々、島からも便りをしましょう。その都度《つど》、そもじの手から密々に、鎌倉表か六波羅へ早打ちを飛ばして給《た》も」 「こころえました。たとえ、隠岐の清高に、どんな異心がありましょうとも、この塩冶判官に二た心はございませぬ」 「やがて、小宰相だけは、都へ呼び還されることになっています。そのあかつきには、そもじの忠節を、朝廷から鎌倉表へも、よしなに披露いたしましょう。いわば出雲は隠岐の見張り口、抜かりのう、たのみますぞ」  彼女は、彼をのこして、やがて元の古御堂の一房へ、音もなく消えた。  その、夜《よる》ノ御殿《おとど》のあたりから、仮《かり》の御息所《みやすんどころ》の部屋部屋には、廉子の枕や、権大納言ノ局の黒髪も、それぞれ、みじかい仮寝を磯風の屋《や》の下にひそめていたが、まもなく暁の鳥の音《ね》に、はや人々は醒まされていた。  すでに、陽も昇る。 「海《うな》づらは、めずらしい凪《な》ぎです。ご渡海には上々な日。島におわせられても、朝夕、み気色《けしき》うるわしく、お過ごしあらせられますように」  おしたくもすんだと見ると。  道誉は、さっそくに、出《い》でましを触れ出して、行宮の庭から、さいごのお別れを言上していた。  帝以下、お徒歩《ひろい》で、磯の船泊りへ向われた。そしていよいよ御船へ移ったが、ここに一つの挿話がある。  あわれな、その一挿話というのは、こうである。  後醍醐のあまたな御子のうちに、瓊子内親王《たまこないしんのう》という姫ぎみがあった。おん母は藤原為子。  かの土佐に流された一ノ宮|尊良《たかなが》や、讃岐へ流された宗良《むねなが》も、ひとつおん母であるから、二皇子のじつの御妹にあたるわけで、その年、十六歳であったという。 「島とやらへ、わが身も、行きたい。島へ行きたい」  おん母の為子は、とうに世に亡いお人であったから、姫は孤独にたえなかった。侍女にせがんで、父皇《ちち》のおあとを慕い、ついに都を出てしまった。  かよわい足で、しかもはるかな旅を、どんな人々に付き添われて来たろうか。とにかく表向きは、 「先へ行った三位ノ局の女童《めのわらわ》です」  という態《てい》に装《よそお》って、ひたすら父のみかどのあとを追い、やっと米子の辺か、この美保ノ関へ来て、追いついたといわれている。  しかし、もとより姫のいたいけな願いが、かなえられるはずもない。  また親しく、父皇と会って、さいごのお別れを遂げたらしいような記録もない。伝説として残っているのは、米子市附近の安養寺にある五輪ノ塔だけである。  所伝によれば、身の孤独と、世の荒《すさ》びに、すべてを見失った十六のおとめは、この地で黒髪をおろして一|宇《う》の庵主《あんじゅ》としてついに果てられたというのである。 「新葉和歌集《しんようわかしゅう》」には、このお妹へ、兄なる尊良《たかなが》の皇子から、 [#ここから2字下げ] ――元弘の初め、世の乱れ侍《はべ》りしに思ひわび、様など変へけるよし聞いて、瓊子《たまこ》内親王へ申しつかはしける [#ここで字下げ終わり]  と題して、 [#ここから2字下げ] いかでなほ 我れも浮世に そむきなむ 羨《うらや》ましきは すみ染めの袖 [#ここで字下げ終わり]  と、贈られたのに対し、瓊子からは、その返歌《かえし》に、 [#ここから2字下げ] 君はなほ 背《そむ》きな果てそ とにかくに 定めなき世の さだめ無ければ [#ここで字下げ終わり]  と、こたえられた二首なども見えるが、果たして、いつ何処でというようなことまでは、明確ではない。  ただ、はっきりいえることは、その朝四月の初め、美保ノ関を離れた船上における父皇の万感のうちには、瓊子のおもかげも、ふとお胸には泛《う》かんでいたにちがいあるまいということだけだ。  しかし、この父皇には、余りに、かえりみる恨事や、未来夢が、多すぎている。いたいけな一姫ぎみだけへ、そのおん涙は、瀝《そそ》ぎきれない。  むしろ、かすみゆく出雲の岸や、大山《だいせん》の彼方を見て、 「きっと、帰るぞ」  と、ひそかな誓いを、その眼《まな》じりに、睨《ね》め捨てておられたのではあるまいか。 [#ここから2字下げ] 大船二十四艘、小舟共は、数も知らず、遥《はる》かに押し出すほどに、いま一霞《ひとかすみ》、心細う、まことに二千里の外の心地もする……。〔増鏡〕 [#ここで字下げ終わり]  かくて、後醍醐は、絶海の孤島へ、追いやられた。  佐々木道誉以下、これを見とどけた一軍は、即日、元の道を、急ぎに急いで、都へ向って帰っていた。 [#3字下げ]夏隣り[#「夏隣り」は中見出し]  都では、さきに幕府が立てた新帝(光厳帝)の御即位をいそぐと共に、年号も、この四月二十八日をもって、  正慶  と、改元《かいげん》していた。  改元は、朝野《ちょうや》の一新と希望の下におこなわれるもの。――だがこれは、後になってみてのことだが、まことに、めでたからぬ分裂改元の始めとなった。  なにしろ、隠岐の後醍醐も「退位する」とは決して仰せ出てないことである。  で宮方の者は、こんどの改元を無視して、いぜん元の“元弘二年”を通して行ったので、ここに、一|土《ど》の民に二つの年号があるという畸形な世紀をこの国に以後六十年も見る端緒《たんしょ》とはなったのだった。  けれど、時の流れの遠い行先は、誰にも見えない。この四月の新緑が、またたくして紅葉になるまでの、わずか半年先の変化すら予想してみる風はなかった。  ひたすらに、新朝廷を繞《めぐ》る公卿の門は、常春《とこはる》の世を見たように、はしゃいでいた。 「さぞかし、今年は加茂の御幸《みゆき》(五月の祭)も人出を見よう」 「本院(後伏見)、新院(花園)一品《いっぽん》ノ宮、女院方まで、みなお揃いでお出ましとか」  家々では、物見車の塗りかえをさせるやら、女たちは女たちで、晴れ衣裳を拡げ出しては、藤、山吹、卯の花、撫子《なでしこ》、とりどりに取り散らし、色襲《いろがさ》ねの品評《しなさだ》めに、今から憂き身を窶《やつ》し合うなど、およそ持明院派の公卿で笑いの洩れぬ門はなかった。  もし、時の大河の外にいて、大きな俯瞰《ふかん》をする者があるとしたら、そんな婦女子から堂上のすべてをもくるめた人々の浮游をながめて、  ああ、魚に河は見えない。  無知でそして憐《あわ》れなもの、それは魚とおなじ人間という名の生き物か。  と、憐《あわ》れに観たことにちがいなかった。         ×       × 「さて。やっとこれで」  と、佐々木道誉は、水を得て泳ぎ出したように呟いた。「……これで自分の身には返ったものの、しかし、どうやら心はゆるせぬぞ」  たった今、彼は、六波羅ノ庁から馬上で出て来た。身装《みなり》も長い旅のままである。  すでに、彼が大任をおえて、帰京したのは、かれこれ十日も前だった。しかるに、私邸に戻る儀はゆるされず、そのまま禁足の厄《やく》に遭《あ》い、今日まで庁にとどめられていたのだった。  そして、鎌倉の指令が、やっと今日、探題の許へとどいたものと見える。 「一応、ご帰館はさしつかえない。しかし、再度のお沙汰までは、自邸において、謹慎《きんしん》あるべしとの上意でおざる」  という命なのだ。  何か、旅先の処置が、鎌倉の嫌疑となったにちがいない。道誉には、もちろん心あたりもある。  だから唯々《いい》として命に服し、にんまりとその申し渡しもうけて、 「かしこまり奉る」  と、いま庁を馬上で出て来たのである。いささかの不平も昂奮もしていない。 「玄蕃《げんば》。羅刹谷《らせつだに》の下を行け。七条を廻って帰ろう」  口取りの民谷玄蕃に、彼は急に、道をかえさせていた。  この辺。  昼ほととぎすの声ばかりだ。  道誉は、羅刹谷の下に馬を止めて、 「なるほど」  ひっそりと青葉若葉の積み重ねられた一つの峰を、ややしばらく仰いでいた。  ひと頃、ここにいた足利高氏も、また、在京諸大将の大半も、もうあらかた、関東へ引揚げ去ったとは庁でも聞いていたのだが、なんとなく、来てみたかったものらしい。 「あの小右京も、高氏に連れられてか?」  それも眼で見届けたい一つであったが、ほかにも、彼は高氏にたいして、旅行以前に、ちと複雑な復讐を敢《あえ》てしていたことがある。  帰京いらい、気に病まれていたのである。「やはり彼とは将来、手を握って行かねばまずい」という見地からだ。 「こんどの旅で広く見わたしても、高氏ほどな男は、まず見あたらん。未来の運を賭《か》けるなら高氏しかない。――その高氏と、多寡《たか》が女出入りで、意趣を抱き合うなどは愚かであったよ」  翻然《ほんぜん》と、彼は呟きを抱いて去った。そして七条の河原を西へ渡り、やがて、佐女牛《さめうし》の自邸へ帰っていた。  主人の道誉が、鎌倉の譴責《けんせき》とやらで、帰京早々、十日ちかくも六波羅の内に“足どめ”をくっていたことでは、佐女牛の衆臣すべてが、不安と不平に打ち沈んでいた折だったので、 「おお、ご帰館だ」 「おつつがなく」  と、つたえ合うやいな、その夕は、家中初めて、眉をひらいた色めきだった。  道誉は、一同へ酒を振舞った。そして留守をねぎらい、長途の供をした将士にも、それぞれ、手当など分け与えたが、 「しずかに飲めよ。まだ、身の嫌疑は晴れたわけではない。これからも当分、道誉は謹慎の身、いずれ鎌倉表から、何かのお沙汰があるまでは」  と、自身はおくへひき籠《こ》もった。しかし、家臣の眼からは、どこにも、主人の不平らしさが見えなかった。  こうして、佐女牛の屋敷は、加茂の祭が過ぎても青葉に深く門を閉じて、一切の訪客を謝し、もちろん、道誉自身は一歩の外出もしていない。 「殿」  留守をつとめていた腹心の早川主膳には、主人が何で鎌倉のご不興を蒙《こうむ》ったのか、心外でならないらしく、いまも、道誉が昼酒に鬱《うつ》を放《や》っているその席で、 「察するに、何者かが、先ごろの旅先から、鎌倉殿へ讒訴《ざんそ》でもしたことではございませぬか。何かお心当りでも?」  と、主人の胸へ、自己の不満をたたいていた。 「うるさい」  道誉は、昼の酒気を、青白く眉にみなぎらせた。 「もういうな。無為《むい》にこうしているのではない。おれにもここへ来ては考えがあることだ。……それよりはな、主膳」 「は」 「弱ったぞ、ちと逸《はや》まッた」 「逸まッたとは」 「例の女のことだ」 「藤夜叉のことでございますか」 「それよ」  と、道誉は杯も手に忘れたまま、しばし、その煩悩を、うつろな顔に描いていた。 「おれの、旅の留守に」  自分の痛い部分へ、自分で触るように、道誉は口しぶりながら、主膳へ訊き出した。 「藤夜叉……。どうしておいたな。どんな風か」 「は。ご出立の前に、密々、仰せつけおかれたように、抜かりなくしておきました」 「抜かりなく?」  よくしたとでも賞めることか、道誉は言った。 「ふウむ。そうか。……だがあのさい、何とそちに、いい残して行ったかな?」  これには主膳も、あいた口がふさがらない。  もっとも、あれは三月七日の直前だった。  先帝護送の大役をおびて、都を立ち出るまぎわでもあったから、主君道誉のあたまも、何やかや、大変だったには違いない。  しかし、である。  そんな大変な中ですら忘れずに「きっと、しておけよ」と、命じられたことではないか。  で、主膳としても、思い切った御命令とは思ったが、主命モダシ難シ、であった。非道な行為と承知のうえで、主命を果たしていたのである。  その日、東寺《とうじ》の前でのこと。先帝お見送りの大群集が押しあっているちまたであった。  かねがね、藤夜叉を尾《つ》け廻していた主膳と一味の若侍は、彼女を攫《さら》ッて、佐女牛のやしきの内へ隠してしまった。――あの雑鬧《ざっとう》のうちで、一瞬、母を見失った幼い少年が泣き叫んでいたのは、まさに藤夜叉が、彼らの魔手に会って、もう姿を消していた時だったものである。  おそらく、不知哉丸《いさやまる》と藤夜叉の母子は、あの日を、都見物のさいごとして、近く三河の一色《いっしき》へ帰るつもりでいたのであろう。――だのに、母に迷《は》ぐれた不知哉丸は、その夕、検非違使《けびいし》から小松谷の仲時の邸にとどけられていた。そして、それからも藤夜叉の行方には、ずいぶん捜査の手も尽くされていたらしいが、ついに分らずじまいの形で、今日にいたっていたものだった。 「殿。……今となって、なぞ俄なご後悔でございまするか」  主膳は、不服の余り、言いつづけた。 「後はかまわん。たとえ、足利と喧嘩になろうと、こちらにも文句のあること。おもしろい懸合いになるぞとまで、あのさいは、きつい御命《ぎょめい》でございましたのに」 「さればよ、理窟はないでもない。元々、藤夜叉は当家が抱えていた田楽女《でんがくひめ》だ。いわば高氏が当家から奪ったものよ。それを奪い返しても、苦情はないはずと、考えていた」 「いや、殿には、高氏が小右京を奪うなら、小右京の代りに、藤夜叉を……との烈しいお怒りであったように存じますが」 「それもあったな」  まるで他人事《ひとごと》みたいである。ひそかな自己嫌悪が、あくまで、それに密着するのを恐れてでもいるらしかった。 「まったくは、その意趣だった。しかしな……主膳、藤夜叉も今では、ただの田楽女とはわけが違う。高氏との仲には、子さえもうけている女。そうだ、子の許へ帰してやろう」 「えっ、せっかく理不尽をしのんで、ここへ取り籠《こ》めておきましたのに、その藤夜叉を」 「そうだ、家来を付けて、三河一色村へ送り返してやれ。じつの所、女苦労など、うるさくなった。藤夜叉にもはや執心《しゅうしん》はない」 「ほう? ……では」  相手は主君である。腹を立てられぬ腹いせ[#「腹いせ」に傍点]に、主膳はそのあきれた顔を、わざと大げさにしたものだった。 「殿には、全く藤夜叉に、ご執心はないものなので?」 「ない」  道誉は言い放ってから、 「いまは執心というほどでもない」  と、少し濁した。 「これは、意外な」 「なにが意外だ。藤夜叉にしろ、小右京にしろ、醜女《しこめ》であったら、つまらぬはなし。つまりは美女であればこそ、業《ごう》が煮《に》えると申すものだ」 「それや、仰っしゃるまでもございませぬが」 「……とすれば、美《い》い女などは、天《あめ》が下《した》、二人に限ったものではない。またさほど、女ひでり[#「女ひでり」に傍点]に渇《かわ》いている道誉でもなかろうが」 「ならば、もう主膳などが、何も申しあげる儀はございません」 「いいか。さっそく、藤夜叉の身は、一色村へ返してやれよ」 「が、その前に、お会いにもなりませぬか」 「そうだな?」考えこんで、 「やはり、いちど、なだめておかねば、まずかろう。こちらの乱暴も悪かったと」 「しかし、高氏の方にも、胸に覚えがありましょう。乱暴は五分と五分です」 「まあよいわ。とにかく、明早朝、従者四、五名付けて、三河まで送ってやれ。……そして、そうだな、夜食の折、山吹ノ亭へでも連れて出ろ」  池の向いに、井出ノ山吹を写した離亭《はなれ》がある。道誉は、そこを茶堂としていた。  ここのところの謹慎中も、彼は蓄えの茶壺《ちゃこ》など解いて、茶を賞したり、花を挿《い》けたり、書を読み香《こう》を焚《た》くなど、酒以外にも、何か独り楽しんでいた。――だから、そんな一面だけをここで見れば、彼には“君子《くんし》ノ風《ふう》”があるといっても、おかしくない。  池には、初蛙《はつかわず》の片言が、ケロケロ聞え出している。  藤夜叉は、痩せていた。 「……えっ? では明日、三河へ帰してくださいますか」  彼女の身は、陽当りのわるい一室に、二人の老女の監視のもとに、道誉の留守中、軟禁されていたのである。  なんで、こんな理不尽な目にと、日夜、怨んでいたが、今は、 「ありがとうございまする」  と、早川主膳の前では、つい涙ばかりだった。 「いずれ、くわしいことは、殿からまた」  主膳は、すぐ去った。  主膳にすれば、何ともここは不面目な立場である。しかし、彼女はそんな彼を責めている眼のいとまもなかった。ただもう、 「不知哉丸はどうしていやるか。ともかくも、ここを解かれて、帰ることさえ出来れば」  と、それだけで、胸はいっぱいなのだった。  そして、明日の旅支度から、夕化粧まですました頃、ふたたび主膳が姿を見せ、彼のあとに、みちびかれていた。 「では、手前は退がりますが、殿が離亭《はなれ》の内でお待ちです。どうぞ、彼方の渡りから、山吹の内へおすすみを」  道誉は、湯上がり姿であった。  白い衫衣《すずし》に、唐団扇《からうちわ》を持ち、からだを斜《しゃ》に脇息から、藤夜叉の姿を眺めていた。 「蚊が入る」  手の唐団扇のうごきは、そのためらしい。早い季節の蚊が、どうかすると、プーンとかすめる。 「藤夜叉、後ろを閉めて、こっちへ寄れ」  池《いけ》の面《も》の縁の方は、簾であった。藤夜叉はいわれるまま、通いの妻戸をしめて、恐々とすこし前へすすんだ。 「久々だな」  藤夜叉は、自分の膝の痩せを、見つめていた。口惜しさも、二重である。が、耐えることしか、ここでは胸に持てなかった。  道誉の領下、近江の田楽村《でんがくむら》にいた頃の幼いあたまに、この人を、 「ご領主様」  としていたものが、どうしても、いまだに、どこかの恐れにある。  それに、いまでも当時の一座の衆や、義父の花夜叉は、この人の扶持《ふち》に養われているのである。 「非道な人、悪魔のような悪戯《いたずら》を好む人」と憎んでみても、それはひそかな唇を噛むのみだった。 「主膳から聞いたか」 「はい」 「悪かったの」 「…………」 「昔は昔、いまは足利殿と、子まで生《な》しているそなたをな」 「…………」 「怒るなよ。これには、仔細もあることだった。とはいえ、ふた月の余も、そなたを押し込めおいたなどは、言語道断」  まるで、家臣の不埒《ふらち》でもあるかのように、 「家来どもはいつまでも、そなたを昔どおりな、わが家の抱え田楽と思い誤っているらしい。それがつい、間違いの因《もと》」  ともいって、いたわり抜く。  白々しいとは憎みながらも、憎み切れぬ程なやさしさに、いつか、藤夜叉も、ややなだめられていた。その上、伊吹の昔ばなしだの、不知哉丸のことなどを、問い出されると、女ごころは、つい、恨みを、迷《は》ぐらかされもする。  また。ここには酒もない。見えるのは、茶具、香炉、書架《しょか》の書巻などであったから、何となく気もおちつき、道誉の人柄までが、これまでになく優雅に思えた。  やがて、灯を見たので、彼女が退がりかけると、 「いやまだ宵だ。せめて夜食を共にしてゆけ」  と、道誉はとめる。いつか自身で自身を持ち迷っているらしい。  昼には、酒が入っていた彼だ。それからの夜膳の酒に、道誉はまた、べつな美味さを追いはじめた。もう藤夜叉が、立とうとしても、立たすことではない態《てい》だった。 「もひとつ」  と、酌《つ》がせ、また彼女へも、 「なぜ、うけぬ」  と杯を強《し》いて、夜が更けるなどは、意にもない。  こうなると、その酔眼には、女の美が、ただの女体としてのみ映ってくる。彼にある是非ない残忍なものが、しきりに杯を吸い、また藤夜叉の窶《やつ》れた美に、密《ひそ》かな舌なめずりを思うのだった。  藤夜叉は、身をずらせた。少しずつ、後ろへと。……そして、女が女の身をまもるときの姿態《しな》を硬《こわ》めた。 「はははは。藤夜叉」  急に、道誉は相好《そうごう》をくずしてみせた。といって、女のこまかな用心は解けようもないのである。 「思い出すぞ」  しかし、もう竦《すく》んで動けない生き物を前においているように、道誉は自信にみちていった。 「そなたが、そうして見せると、一そう伊吹の頃の小娘がこの眼に甦《よみが》えされてくる。おれを嫌って、そなた、伊吹ノ城から跣《はだし》で田楽村へ泣いて帰ったことなどあったな」 「…………」 「あとで聞けば、あの頃すでに、そなたはたった一夜の客の高氏に、身をまかせていたのだそうな」 「と、殿」 「高氏の噂はいやか」 「い、いいえ。もう、おいとまを。……晨《あした》の旅じたくもございますから」 「まだ、朝には間がある。三河へ返してやることはきっと返す。いまは子持ちの女、一生側におくとはいわぬ」 「仰っしゃるとおり、子が待っておりまする。それを思うと」 「身も世もあるまい」 「それまで、ご推量のくせにして、余りといえば、ご無態な」 「無態、理不尽。すべていわれなくても心得ておる。だが藤夜叉、よっく胸に手をあてて考えてみろ。そなたも悪い」 「な、なぜでございまする?」 「いかなる女も、ままにならぬ女はなかった。伊吹ノ城でも、この都にいてさえもだ。ところが、自分の召抱えている田楽女《でんがくひめ》の……それも小娘ずれのそなたにだけは、したたか、道誉の沽券《こけん》をきずつけられた。忘れようにも、ともすれば、忘れられぬ」 「おゆるし下さいませ。もう遠い前のことなどは」 「むむ、いつまで、こだわッていたくもない。けれどおれと高氏とは、なぜか女のことでは、ふしぎに妙な宿敵の巡り合せになってくる。それには男の意地も手伝う。……いや、そんなことは聞かすにおよばん。おれはどうしても、いちどはそなたを、ぞんぶんにする。せずにおかぬ」 「…………」 「ややもすれば、この業《ごう》が煮えたぎるように、そなたの体のうちへも、道誉という男を烙《や》きつけねば、一生、妄執《もうしゅう》は晴れやるまい。藤夜叉、これほど男からいわれたら、もう眼をふさいでもよいであろうが」 「……な、なにを、仰っしゃいます。いくらむかしのご領主とはいえ」 「ばかな」  するどく直って。 「領主。そんなものを鼻にかけて、誰が、かほどに手間をかけて女を口説くか。そなたの養父、花夜叉の一座にしろ、以後も変りなく召抱えているのをみても思うがいい。道誉はただ男としてだ」 「あっ。たれかッ」  彼女は、妻戸へ肩をぶつけた。  しかし、道誉は見ていた。あわてて捉《つか》まえようとはしないのである。  そこが開かないのを承知だからでもあるが、なぶるほど、狂うほど、また悲しむほど、女の美が増すのを知って待つかのような、彼のいわゆる男根性なのだった。  そこの物音は、すぐ止んだ。と共に、灯も消えている。  おそらく、侍部屋の一つにまだ起きていた早川主膳は、池向うの離亭《はなれ》に聞えた藤夜叉の叫びも耳にしたことにちがいない。 「……?」  が、もちろん、彼は近寄らなかった。  ただ、離亭の辺の、黒い山吹の茂みと、さざ波もない池水を見まもりながら、ほっと、自分の気の弱い吐息《といき》に、気がついていたに過ぎまい。  何がそこで起ったかは、主膳でさえも、怪しげな想像図に眩《めくる》めくほど、分っている。 「……ひどいことをなさるもの」と、主君の獣欲ぶりに舌を巻く。  いや主君の好色は驚くに足りないが、その豹変《ひょうへん》ぶりには、ただあきれるばかりなのだ。――あんなにまで、昼には後悔して、早々に藤夜叉の身は三河へ返してやれ、と言っていたかと思うと、たちまちに、これである。  陰森《いんしん》な、何か、やりきれないほどな、短くて長い気のする刻々《こっこく》が過ぎている。……ケロ、ケロロ、と池の初蛙もまた啼きだしていた。  主膳は立ちしびれた。  けれど、いくら佇《たたず》んでいても、離亭《はなれ》の内は、それきり何の気配もしない。すべてはそれで終ったように感じられる。それはマナ板にのせられた一個の白い女体が、あの異常な閨技《けいぎ》をほこる主君のうでに、思うさま分解され変質されているような光景を彼のあたまに執《しつ》こく染めていたのだった。――だが主膳は、そういう目にあった幾人もの女が、やがてはみな主人の局に、生《い》け簀《す》の美魚のごとくよろこんで飼われているのを眼に見てきた。女とはそういうものかと、今夜も思わざるをえなかった。  すると、ほどへて、 「おや?」  とつぜん、彼は庭をななめに走って、池尻の木蔭に、身をかがめていた。 「……藤夜叉か」  彼が耳にしたのは、離亭《はなれ》の裏かと思われる辺に聞えた二度目の異様な響きで、とたんに、鹿のような迅い影が、築山の笹叢《ささむら》を突いてどこかへ消えていたのである。すぐ裏へ廻ってみると、果たして、亭のうちは狼藉だった。破られた妻戸が欄《らん》に仆れかかり、上着やら帯やら、女のものが、室内から縁へかけて乱れていた。 「殿っ……。殿。何事かこれにございましたか」  すると、暗い中で、道誉が、ものうげに言っていた。 「主膳か。……眠たい。母屋《おもや》の寝所へ行って寝るぞ。こんな物、取り片づけておけ」  キラと、室内から氷の欠けみたいな物が、主膳の足もとへ飛んで来た。  主膳が拾い上げてみると、それは鞘《さや》のない懐剣だった。女の護身のそれも、無念そうに、ただ白い刃のままだった。  つづいてまた、道誉の声で、 「……塀は高い、門には寝ずの番がおる。藤夜叉も朝になれば、庭のどこからか、泣き顔を拭って姿を見せるにちがいないのだ。そしたら、そちがまた、ようなだめて、こんどは本当に三河まで送ってやれい。もう用事はすんだ。明朝は、あいさつにも及ばぬぞ」  そう聞えたと思うと、道誉はもう、離亭《はなれ》を後ろに、母屋の方へ渡っていた。  自分はなかった。ただ生きようか死のうかと、闇のかぎりを、走りつづけている息のくるしさだけがある。  だからこそ、あの佐女牛の邸の高塀もやすやす越えられて来たのだろう。木へよじ登り、梢《こずえ》のさきから外へ夢中で跳び下りていた藤夜叉だった。  走るうちに、 「死んでしまえば……」  川音は彼女を少しおちつかせた。  帯もせず、肌着に下紐だけだった。田楽村の野性な一少女頃の潜在を、道誉の野獣の爪にかきむしられて、はしなくも、その本質が彼女の血に甦《よみが》えっていたのかもわからない。 「……畜生」  と、彼女は風に唇を噛んだ。それは足利殿の想《おも》い女《もの》とも見えない狂女の眦《まなじり》だった。世の姫君そだちの女性とは根本からちがっている。たとえば、走るにしても、気の狂《ちが》ッた白鷺《しらさぎ》が汀《なぎさ》に何かを探し廻るような迅さであった。  でも、高氏のことだけは、 「殿に合わせる顔はない」  と、胸に忘れず、そして、 「……子のある身で」  という辱に、体じゅうを焦《や》かれていた。この汚れた母の体で、何でふたたび不知哉丸を膝に抱けようかと、一|途《ず》に思いつめているのらしい。  元々、田楽親方の花夜叉が、人買いから買ったか、親なし子を貰って来たかして、とにかく、一座の花形にまで、育てて来た藤夜叉なのだ。教養のありなしをここに問うなどは無理である。彼女は生れただけの女なのだ。……ただ天性の美と踊りの妙技だけを持っている。  今、思えば。  高氏はそんな彼女を、つい、自分たちの社会へ引き込む科《とが》を犯《おか》していた。  そもそもは、子を生ませたことが是非ない方向をとらせたのだが、その後悔から、高氏は彼女を鎌倉におかず、またその生みの子も、嫡系に入れ得ずにある状態なのだ。わけて人知れぬ大望を抱く高氏にすれば、彼女の無教養が、未来には逆な不幸にならぬかぎりもないことは、ふかく惧《おそ》れていたにちがいあるまい。  しかし、こんどの科《とが》は、彼女自身が、われから招いたものだった。無断で子を連れて、こんな都の、しかも殺伐《さつばつ》な時に出て来たことが因《もと》である。今となっては、どう道誉を憎んでみたところで、虚空《こくう》に答えもないのだった。         ×       ×  一条ノ末、相国寺裏の裏町。  どこ一軒、起きている灯もみえない真夜半《まよなか》を、三、四人の童《わっぱ》が、 「たいへんだよっ、誰か来ておくれよ、人が死ぬよ」  と、わめいていた。  ほど近い吉田山の法師の庵から、いつものように、ほかの童《わっぱ》と、高野川の落ち口へ、夜網を懸けに行っていた命松丸も、その中に交じっていた。 「なに。女だって」 「身を投げたのか」  大人たちは、彼らの後から、わらわらと駈け出した。河原には、ほかの子らも騒いでいる。たった今、加茂の早瀬へかけて、女の姿が、浮きつ沈みつ流されて行ったと言い騒ぎ、 「こっちだ、こっちだ。こっちに見えたよっ」  少し下流《しも》の方では、べつな童《わっぱ》が、どなっていた。 [#3字下げ]木霊《こだま》[#「木霊」は中見出し]  京の吉田山には、命松丸ひとりを留守において、兼好《けんこう》が、伊賀を歩いていたのは四月半ば頃で、その間に彼は、 「ちょっと、お門《かど》を通りましたから」  と、名張《なばり》街道に沿う小馬田《こまた》の服部家《はっとりけ》の門に姿を見せている。  だが、うさん[#「うさん」に傍点]な旅法師とでも見られたのであろう。門の小者は、奥へ取次いでもくれなかったし、それに不平顔もせぬ兼好もまた、 「いや、べつだんな用事でもござりませぬ。お夫婦《ふたり》とも、ご息災とさえ伺えば、それで祝着《しゅうちゃく》。ただよろしくおつたえを」  とのみ、飄《ひょう》として、すぐ立ち去ってしまったという。  それと、あとで聞いて、 「なぜ、ひと言、わらわにまで取次いではくれなかったのですか」  と、卯木《うつぎ》が、家来どもの疎漏《そろう》を悔やむと、良人の服部治郎左衛門元成も、 「それは、惜しかったの」  と共に喞《かこ》ッて、なろうものなら呼び返したくも思ったが、すでにその人は、西か東か行く先も知れないというし、かつは邸内にも、ほかに容易ならぬ“滞在客”を抱えていたので、 「まあ。またいつか、お目にかかって、おわびをする時もあろうよ」  と、夫妻は忘れることにして過ぎた。  ところで、小馬田は、伊賀山中の一庄で、服部家はこの地の小領主なのだった。  元成は、いちど武士を捨て、家も勘当の身だったが、養父の死後、呼び返されて、ぜひなく、当主の跡目をついでいた。でもなお、妻の卯木も彼も「――どうかして武門の外に」という初志は変えないものの、事情はそれをゆるさない。  去年の笠置《かさぎ》、赤坂の合戦へは、この伊賀からも、たくさんな参加者があったし、以後も宮方と鎌倉方とが、暗黙裡《あんもくり》に、ねめあっている現状なのだ。  そして、そんな中での小地主の服部家も、表面、どっちつかずに命脈を支えているが、しかし妻の卯木とは切ッても切れぬ楠木家との関係から、じつは、赤坂落城以後の楠木家には、この家こそが唯一の“たのむ木蔭”となっていたのである。  一時、都あたりで、 「正成死せり」  と沙汰された頃も、当の多聞兵衛正成《たもんびょうえまさしげ》は、この小馬田に身をかくしていたのであり、その後も、風の如く来ては、また、風の如く伊賀の外へ去っている。  それだけではない。  なお今年になっては、奥金剛《おくこんごう》の多聞寺《たもんじ》に避難していた正成の妻子たちが、山づたいに、伊賀の卯木を頼って落ちて来た。――さきに正成が捨てた金剛山のふもと下赤坂《しもあかさか》の城に、北条方の武族、湯浅定仏《ゆあさじょうぶつ》が入ったので、たちどころに、山上の避難者だった正成の家族らは、危険にさらされて来たのであった。  もういうまでもないが。  二月頃からこの小馬田へ来ている容易ならぬ“滞在客”とは、その正成の家族なのである。つねに良人の居所さえも知れないうえ、幼な子三人を抱え、わずかな家臣らと共に、これへ身を寄せていた久子以下の、亡命の眷属《けんぞく》たちであったのだ。  すると、この四月中旬となって。  その者たちの上に或る吉報が、河内から聞えて来た。  それは、正成の弟正季から来た密書のうちに見えた消息だった。  文意は、ざっとこうである。 [#ここから2字下げ] およろこび下さい。下赤坂の一城は、やっと先頃、われら郷党の手で奪《と》り回《かえ》しました。 従って、もう金剛のお住居にも、ご不安はございません。 さだめし多聞丸《たもんまる》たちの幼い者も帰りたがっておりましょう。 近日、お迎えとして、正季が兄に代って参《さん》じますから、諸事、お物語りは、そのせつに。 [#ここで字下げ終わり] 「爺《じい》。……爺はいませんか」  久子は、これを読むと、室に坐っていられなかった。  すぐこのよろこびを、爺の恩智左近へもと、呼んだのだった。 「なんです、母上」  声を知って、すぐ庭に見えたのは、多聞丸で、 「爺ならいま呼んで来てあげる」  と、すぐ裏山の方へまた駈け去った。  どこにいても、多聞丸だけは、居る所にひとり楽しんでいる。その姿は久子の救いでもあったし、今日までは、いつも涙をせぐられる一つであった。  彼女は、爺の左近や南江正忠などに、消息を告げ、晩には、卯木《うつぎ》と元成の夫妻へも、それを示して、 「おかげでした」  と、これまでの庇護をふかく謝した。何といっても、故郷に帰れる、良人にも会える、そうした女心は、つつみきれない。 「けれど、どうして、いちど幕軍の手に落ちた赤坂城が?」  と、元成には、俄に信じられない容子もあった。  それは久子に付いている爺や南江正忠なども同様に、多少な疑いを覚えていたが、やがてそれから数日後、楠木正季の一隊が、彼女たち眷属《けんぞく》を、これへ迎えに来た日となって、 「やはり真《まこと》だったか」  と、一切は解けていた。  正季の話によると。  鎌倉方の湯浅定仏は、赤坂の焼け城を修築して、そのあとに入り、それもほぼ竣工《しゅんこう》したので、先ごろらい、しきりに兵糧を運び入れていた。  この情報をえた正成は、どこからか姿を郷里にあらわして、近郷にひそむ残党を糾合《きゅうごう》し、弟の正季に一計をさずけ、 「抜かるな」  と、その夜、赤坂へ向う兵糧運搬の人夫数百人を、途中で不意打ちさせたのだった。  すべてを奪い、即座に、味方の大部分が人夫の姿に化けた。また兵糧|俵《だわら》のうちには、武器を隠し入れて、わざと追われた様を作《な》しながら、わっと、城門内へ逃げこんだものである。  城兵は「すわ」とばかり打って出て来る。正季たちの少数は、これを城外で迎え討つ。  そのすきに、城内では、すでに入り込んでいた人夫姿の味方が、ぞんぶんに暴れ廻り、内外呼応して、難なく、改修されたばかりの赤坂城を手に陥れ、湯浅定仏以下の敵は、いのちからがら和泉の自領へ退散してしまった――というのである。 「ですから、いまは金剛山の砦《とりで》の工も、半ば出来、ふもとの赤坂城も、お味方の内にあり、河内は旧にまさる鉄壁となりつつあります。お帰りあっても、はや何のご心配はございませぬ」  と、正季の意気は高かった。  正季の迎えの兵に、久子付きの恩智左近以下を加えると、人数は百人からになる。  服部家の朝は大混雑だった。幼い多聞丸や二郎丸なども、 「河内へ帰るの?」  と、わけもなくただ、はしゃぎ廻った。  疎開先から、もとの家郷《かきょう》へ帰るのだ。めでたいに違いない。けれど卯木《うつぎ》夫婦は淋しげであり、久子が三郎丸を抱いて輿《こし》に乗るまぎわまで、別れを惜しみあっていた。 「では久子さま、おすこやかに」 「お。お夫婦《ふたり》も」  久子は、輿から顔を出して、なお、祈るように言った。 「ここだけは、いつまでも、平和な山里でありますように。そして、よい嬰児《やや》が生れたら、お夫婦《ふたり》して河内へ見せに来てください」  まもなく、人数は小馬田ノ庄を立った。伊賀の山々をうしろに、名張街道を初瀬の方へ降《くだ》ってゆく。  伊賀から河内の金剛山へは、桜井や高市《たけち》あたりの駅路《うまやじ》も通るが、ほぼ山づたいに往還《おうかん》できる。  しかも、時局の争乱などは、全く、どこに在るかのようだった。――衰亡は末梢から枯れるというが、北条幕府の過敏な神経もここらにはほとんど見えない。  途中では、万一の変も覚悟していた正季だったが、旅はつつがなく、やがて四日目の昼、金剛山に帰り着いた。  頂上の転法輪寺《てんぽうりんじ》には、松尾刑部やら、なつかしい顔が、大勢待っていてくれた。刑部は久子が嫁いだ時の媒人《なこうど》である。みな宥《いたわ》りぬいてくれる。  けれど、久子は何となくまだ充《み》たされなかった。 「わが良人《つま》は?」  そっと刑部へ訊いてみた。 「おう、正成殿にも、そのうちお見えにはなりましょう。ここしばらくは、妻子の顔も見られぬと、仰っしゃってではござりましたが」 「では、麓ですか。赤坂のお城にでも」 「いや、いや」  刑部は辛《つら》そうに顔を振った。 「赤坂を奪《と》り回《かえ》した後も、おやかたには、席あたたまるお暇も見えません。先頃、吉野の大塔ノ宮をおたずね申しあげて、一たんここへお帰りでしたが」 「今は」 「密かに、摂津の天王寺辺に、出ておられるかと察しられまする。おん方やお子たちの無事を、すぐそこへ早打ちして、ご安心にそなえましょう。……何ぞ、ついでに、奥方にも一ト筆お便りをなされませぬか」  刑部は、硯箱《すずり》を取り寄せた。なしうる唯一の慰めとするように。  しかし、久子は筆をとらなかった。良人とは、かねて誓っていたこともある。――帰っては来たけれど、ここは良人が骨を埋めるといっていた戦場だった。一族、赤坂へたてこもる日、水分《みくまり》の家庭は焼き払っていたのである。 「幼い者も、みな無事ですと、それさえお告げ給われば」  彼女は、そこから少し降りた多聞寺《たもんじ》へ移って、その晩からまた、かねて良人にいわれていたとおり、ただ平凡な母親の任だけを任としていた。  が。ここは金剛山の八合目だ。なんの轟《とどろ》きか、山は毎日、鳴っていた。  金剛山の上に近い小部落は古くからあったらしい。 “茅屋《ちがや》”の名が古く、千剣破《ちはや》は当時の宛字《あてじ》である。後々まで“千早《ちはや》”がひろく通っている。 [#ここから2字下げ] 谷、深きこと、東百丈、西七十五丈、南北もまた嶮《けは》し。 ただ東南の間に、ほそき一径の坂路《はんろ》を見るのみ。元弘の年、廷尉正成のおこす所にして、南河内十七城の根城《ねじろ》となす。〔河内志〕 [#ここで字下げ終わり]  毎日毎日、雲の中に聞えるとどろな山鳴りは、すなわちこの砦造《とりでづく》りのためだった。  地相は、ひと目にも、  不落《ふらく》の嶮《けん》  と、うなずかれる。  ここに、正成はいつのまにか縄取りしていた。  それも麓の赤坂に、湯浅定仏の軍が入りこんでいた間は、彼も姿を見せず、土木も中絶されていたが、さきごろその湯浅勢を追い出して、元の赤坂城を奪回するやいな、急速にまた工を起し出していたのである。そして、五月に入っては、いよいよその築城も目に見えてすすんでいた。  時々、四山のしじまを破ッて、大石が谷へころげ落ちてゆく。巨木が伐《き》り仆され、その樹間から、はや組み上げられている丸木作りの城楼の一部が見える。 「おおういっ」  どこかで、さっきから、上へどなっている者があった。 「正季どのは、そこか。正季どのは、おいでないか」  しかし、彼方の音響は、何百人もの声を交じえ他念もない。彼は、呼ぶのをやめて、一つの坂道を喘《あえ》ぎかけた。すると上で見ていたのか、正季の姿が駈け下りて来た。そして二人とも、どこかへ隠れた。  彼は、摂津から来た正成の伝令だった。その指令の結果にちがいない。  まもなく、正季は、多聞寺の内に、久子をたずねて、 「兄正成殿から、火急、軍勢をつれて、四天王寺へ参会せよとの、急命がございました。留守もしばらくの間です。ここはお動きなされますな」  と、暇を告げて出て行った。  千早、赤坂のほか、国見、猫背山、金胎寺《こんたいじ》などの峰々でも、同時の砦《とりで》工事が急がれていたのである。それらの各所からも兵を引き抜いて、正季は、三百余名の兵を合せ、 「何かは知れぬが、戦機らしいぞ。四天王寺まで、夜を通せ」  と、当日のうちに、河内野を西へ、一陣、急ぎに急いでいた。  そして、真夜半すぎ。  平野街道へかかると、南の百舌野《もずの》方面から来る百人足らずの、一小隊にぶつかった。 「敵か?」  相互が猜疑《さいぎ》して、ねめ合った。  これまでには、六波羅の川番所や、鎌倉方の地頭領も当然、駈け抜けていたわけだから「すわ」となったものである。 「逸《はや》まるな、まず問うてみろ」  正季が言ったとき、彼方の隊からも一人出て来た。  味方とはそれですぐ知れた。  彼らは、奥大和に散在している宮方の郷士たちの由で、 「楠木殿の御陣に加わるため、馳せつけてまいる者」  と、それぞれ名のる。  このほか、同夜をさかいに、各地から四天王寺へ急いだ兵は、なお大小幾十組となくあった。  まだ「大坂」という地名はなく「難波《なにわ》」とよび、また、「小坂《おさか》」といっていたその頃から、四天王寺は堂塔四十幾ツの輪奐《りんかん》を聚《よ》せた大曼陀羅《だいまんだら》の丘だったが、ここの「秋ノ坊」までは立ち入る人も稀れだった。  秋ノ坊は、食堂《じきどう》から北の方にある一建物で、  四天王寺|公文所《くもんじょ》  とも呼び、大昔の小野妹子《おののいもこ》いらい、世襲になっているという寺司職《じししょく》の私邸が、木の間隠れに、しずかだった。 「……では、これで」  正成は今、そこの奥を辞して、外へ出て来た。  そして送って来た後ろの者へ、重ねて、 「もう、おひきとりを」  と恐縮して、立ちどまった。  別当職の一人であろう。彼はそこでも、正成にむかって、厚い礼をくり返し、 「ご戦勝を祈っておりまする」  と、心から言った。 「ありがとう存じます。ただ、ご加護を力に」  二人は、立ち別れた。  もう梢《こずえ》には初蝉《はつぜみ》が聞える。正成の具足姿に、青葉の木洩《こも》れ陽《び》がチラチラして行く。  こんな武装で、彼が別当職を訪ねたのは、初めてなのだ。――それ以前から、摂津に来れば、ここに寝泊りもし、わけてこんどは、二十日も前から、天王寺村|界隈《かいわい》に身をひそめていて、しばしば、ここに姿を見せたが、いつも布直垂《ぬのひたたれ》の凡装で、 「どこの田舎武士」  と、人もかえりみぬ風采を常としていた。  だが、先ごろから彼の潜伏していた荒陵《あらばか》一帯の村々に、いつとはなく、諸方の野伏《のぶせり》が寄って来て、自然な水溜りへ水が嵩《かさ》むように、それが千人ちかくにもなって来ては、もはや六波羅密偵の眼も、紛《まぎ》らしようのない、隠然たる浮浪勢力と見られるに至って来た。  そこで、今はと、正成は公然、武装し、彼らにも武器を取らせたものだった。  六波羅にいわせれば、かかる人間どもは、ことごとく、不逞、浮浪の輩《やから》に過ぎないものだが、正成にとれば、みな、  一つ心の残党  だった。  笠置、赤坂の惨敗や、後醍醐の流離を見ながらも、なお初志を変えずに、地下の合言葉をつたえ聞いて、集まって来た者どもなのだ。  そして、ここに彼が、戦略上の一つの橋頭堡《きょうとうほ》を目企《もくろ》むにいたったのも、要は、さきに四散した残党たちの結集を図《はか》るにあった。――もしこのまま時期をすごせば、諸国の宮方も、霧消《むしょう》してしまうにちがいない。冷《さ》めた熱をふたたび熱火にするには容易でない。  でも彼は、作戦上、ここを橋頭堡の地と選んだが、四天王寺の輪奐《りんかん》は、兵火の外におきたいものと考える。――密々には四天王寺からいろいろ援助をうけていたが、表面はあくまで“寺院中立”の原則を称《うた》って門を閉じておられるように――と、彼はその旨《むね》をいま別当職まで申し入れて来たところなのである。 「おお、おやかた」  老臣の安間了現《やすまりょうげん》だった。  ちょうど正成が東門を出てきたとき、正季の着到が、彼からこれへつたえられた。 「了現」と正成は歩みも止めず「正季はいま着いたのか」 「は。意外にお早いことでした」 「さすがだな」  弟らしい、と正成も思った。夜をとおして来たなとも察しがつく。 「兵は、どれほど連れて?」 「着到帳に、三百二十七名とお記《しる》しでございました」 「では、河内の留守の者、あらかた引《ひ》き具《ぐ》して来たとみえる」 「ほかに、奥大和の者ども、八十余名も、同時に着陣しましたので、また新たに四百余名を加えたことに相なりまする」 「そうか。……すると、現在の総数は?」 「お待ちください。ここ連日、増加しておりますので」  と、安間了現は、よろいの袖から、小綴《ことじ》のふところ覚えを取り出して、口のうちで読んだ。 [#ここから2字下げ] 五月十一日 着到  和泉党 百四十六人  金剛寺僧   九人  散所衆  四十五人 十三日深夜  備前国ヨリ帰参ノ衆  島々ノ海上衆   合セテ二百二十人 十四日  吉野郷士、高野僧       三十八人 [#ここで字下げ終わり] 「了現、もうよい」 「は」 「ざっとの数でよろしいのだ」 「ご本陣の数、ご舎弟の兵など、すべてを合せ、はや二千に近づいておりまする」 「充分だ」  正成は足を早めた。そして四天王寺からすぐの夕日ノ岡へその姿はのぼっていた。  そこの勝曼院愛染堂《しょうまんいんあいぜんどう》が、彼の本陣とする所かとみえる。といって、ここにもたくさんな将士は見えなかった。ほとんどは、低地一帯の聚落《じゅらく》のうちに隠されているのらしい。  正季もまた、兵は遠くにおき残して、彼一人、やがて安間了現にみちびかれて、愛染堂の兄の床几《しょうぎ》の前へ来ていた。  こう会うことも、兄弟ながら、たまたまらしく、会うと、話は尽きない様子だった。  まず、正季からは。  千早の築塁《ちくるい》の捗《はかど》りが報告された。また、久子や多聞丸を伊賀から引き取って来たことなども耳に入れて、 「みな、元気でおります。それに河内の領民どもも、よく砦《とりで》の工に力を協《あわ》せてくれますし、今のところ、後顧《こうこ》には何のご心配もいりません」  と、告げた。  しかし正成は、弟のいうが如くには、諸方面とも、楽観していない面持ちだった。これは正成の持ち前というしかない陰翳《いんえい》だろうか。妻子の消息などにも、ただ頷《うなず》いてみせただけで。 「正季。じつは一戦の所存をきめたぞ。あぶない賭事《かけごと》を、われから仕かけるには似るがの」 「いずれはと、覚悟して馳《は》せつけました」 「京、六波羅はようやく手薄。ここらで、諸国の同志を意気づけるため、一度、のろし[#「のろし」に傍点]を打ち揚げておかねば、せっかくな気運も、一時だけで、霧散《むさん》してしまおう。……何といっても、みかど(後醍醐)のご遠島は、宮方の大きな沮喪《そそう》であったからな」  正成は、なお言った。 「……が正季。一戦はのろし[#「のろし」に傍点]にすぎん。君(後醍醐)は隠岐へ流されても、われら宮方はなお健在なりと、それが諸州へとどろけばいいのだ」 「わかりました、よう、ご意図のほどは」 「無二無三、勝とうとするな」 「さりとて、負けてもならず」 「勝ちに逸《はや》れば、大敗を取る公算も多い。……すでに、ここの勢《ぜい》も二千とかぞえて、旗奉行の了現《りょうげん》は誇っておるが、あらましは散所《さんじょ》の浪人や、烏合《うごう》の輩《はい》。元々、たのめる武士はいくらもおらぬ。それが、真の味方とまで固まるには、時が要《い》る」  この日あたり、六波羅軍が、すでに京を発し、難波《なにわ》へいそいだとの飛報が、しきりに、天王寺|界隈《かいわい》を騒がせていた。  天王寺を中心とする荒陵《あらばか》の聚落《じゅらく》には、こまかい庶民の屋根が、低地低地に密集している。そしてここにも散所民《さんじょみん》の生態がそっくりあった。しかし施薬院《せやくいん》、療病院、悲田院《ひでんいん》など、彼らのための施設は、荒れはてていた。  もともと、聖徳太子の草創になる四天王寺は、ただの殿堂仏教の道楽ではない。この低地帯にむらがり住む貧者のために考えられた社会救済を、輪奐《りんかん》の美に権化《ごんげ》したものだった。  中央の敬田院《けいでんいん》を寺の本部とし、施薬院では薬をめぐみ、療病院へは、業病の男女や行き仆れを収容した。また、悲田院では職のないものに職を与えなどして、いわば仏陀《ぶっだ》をめぐる和楽の仏都《ぶっと》を理想したもの。  けれど、その機能も、源平の世頃にはすでに見られず、わけて鎌倉治世も紊《みだ》れきッたこの頃のような乱世になっては、全くあとかたもなくなっていた。残っているのは、いたずらに美しい四門や堂塔だけである。いくらいい物を持っていても、その持ち方を知らない人間をあざ笑うように、森にはよくいう天王寺鴉《てんのうじがらす》が何万となく棲息していて、朝夕わいわい暮らしている散所民の屋根と、その原始的な生態を競ッているような騒々しさであった。 「やっ、貝の音だ。丘の愛染堂で、貝の音がする」 「それっ、大江へ行け。ご合図だぞ」  その夕は、人間どものうごきに、夕鴉も声がなかった。不気味なほど赤い雲の下を、素頭《すあたま》にただ鉢巻したのや、鉢金と脛当《すねあて》だけで、胴も着けてない男や、草鞋《わらじ》なしの足に、ただ縄を巻いて、長巻一ツを持って躍り出るのやら、とにかく雑多な武装をした者どもが、 「陣触れだぞ」 「おういっ、大江へ出ろ」  と、触れ合いながら、そこかしこの、散所部落の路地や辻から駈け出して行った。  かれらの内には、宮方の残党とみずから称するしかるべき侍もいたが、多くは、食うために、さしずめの職のつもりで、この一ヵ月ほどの間に糾合《きゅうごう》された者だった。だからもとより序列もない。ただかねて言い渡されていた貝合図《かいあいず》の下に駈けていただけである。  しかし、愛染堂の上に見える菊水の旗は、ゆるやかに今、夕日ノ岡を西へ降って行き、一心寺や住吉街道の方面にもまた、幾旗ものおなじ旗が見られた。そして、それらは旗鼓《きこ》整然《せいぜん》と、時もひとつに、大江の一点へ流れていた。 [#3字下げ]天王寺《てんのうじ》未来記《みらいき》[#「天王寺未来記」は中見出し]  五月十七日の未明。  六波羅の軍勢四千と称するものが、尼ヶ崎、神崎、柱松《はしらまつ》のあたりに着き、午ごろにはもう大江の渡辺橋《わたなべばし》(現今の天満橋《てんまばし》辺)の北岸にはチラチラ偵察の影などみせていた。  はじめ六波羅では、 「天王寺|界隈《かいわい》に不穏なきざしが見える」  と、聞いても、さしてはと、多寡《たか》をくくっていた。が、やがては、 「楠木が張本《ちょうほん》らしい」  と知るにおよんで、一驚を喫《きっ》したらしい。はやくも巷《ちまた》では、 「楠木が都へ攻め入ってくる」  などという声まで真《まこと》らしく立って来たからだった。  追討《ついとう》の大将は、高橋三河守|時英《ときひで》と、紀伊の隅田藤内左衛門《すだとうないざえもん》で、ふたりが大江の北に陣をすすめた次の日、さらに在京の篝屋《かがりや》武士千余騎が、追っかけの加勢として、両将の下に加わっていた。  大江は、名にしおう難波《なにわ》の大河で、そのころ、河幅二百六十|間《けん》といわれ、良暹《りょうせん》法師の旅の歌にも、 [#ここから2字下げ] 渡《わた》の辺《へ》や 大江の岸に宿りして 雲井にみゆる 生駒山かな [#ここで字下げ終わり]  の写生があるし「堀川百首」には――五月雨《さみだれ》は日数《ひかず》ふれども渡の辺の、大江の岸は浸《ひた》さざりけり――などの景観も見える。  おそらく、ここの渡辺橋というのも、当時の大橋でこそあれ、こころぼそい板を敷きならべた破《や》れ橋《ばし》であったに過ぎまい。 「うかと、こえるな」  隅田、高橋の二将は、味方の大軍にほこらなかった。敵を見くびらなかった。というよりも、時は五月の雨期である。大江の水かさ[#「水かさ」に傍点]と、あやうげな渡辺の大橋を惧《おそ》れたものに違いあるまい。 「だが、三河どの」  と、藤内左衛門は、数日すると、しびれを切らした。 「敵はどうもたいした数ではないらしいぞ。聞くほどもない陣容だ」 「どれほどと見る?」 「三百か。四百はこえまい」 「隠し勢ということもある」 「それは当ってみねば分らん。が、この河幅だ、遠矢はきかぬ。さりとていつまで、こうしていたら、あとから来る味方にも、何していたかと嘲《わら》われようぞ」  翌日、賞を賭《か》けて、 「われと思わん者は申し出ろ」  と、陣頭|高札《こうさつ》を掲げると、たちまち功に燃えた武者どもが、数十名、望んで出た。  そこでその決死の一組をさきがけに、渡辺橋を駈けわたらせ、敵中へ斬りこませたのである。悲壮な景だった。もちろん、彼らが橋上にいたるやいな、対岸からは、矢の雨が集中した。  だが、すでに、 「おお。ヘロヘロ矢」 「この弓勢《ゆんぜい》では知れたもの」  と、彼らは、敵を呑んでいた。むらがり寄る橋口の敵もたちまち突破した。そして、敵陣営の防柵の近くまであらしまわったが、ほどなく味方の退《ひ》き鉦《がね》を聞いたので、彼らは、勝ち誇った姿を返して、渡辺橋を一せいに退いて来た。 「奴らは、暴民です」  口々の答えは、一致していた。 「旗や弓道具を持つだけで、装いなどは、揃っていません。察するに、掻き集めの散所民や、浮浪の徒が、数の大半以上かと思われまする」  ちょうどまた、和泉、河内方面からの偵報も、その日、北岸の陣に入った。  だが隅田、高橋の二将は、 「いよいよわからん」  と、捕捉《ほそく》に迷った。  諜者《ちょうじゃ》の眼も、それぞれに違っているのだ。  楠木勢はおよそ六、七百。  と告げるのもあり、千をこえるといっているのもある。  また主将の楠木は、ここに見えず、という観察と、正成一族のほかは、烏合《うごう》の土民で、住吉辺にその本陣を置く、とやや真相らしい情報もあったりする。 「いずれにせよ」  と、高橋三河守は結論を出した。 「まちがっても、敵は千前後、味方は五千。しかも、敵は烏合の浪民だろう。味方の装備や精鋭の比ではない」  ここで総攻撃の肚はきまった。  作戦も。  高橋の手勢は、橋上を押してゆき、隅田藤内左衛門の一勢は、水馬隊を編成して、橋下を泳ぎわたる――となって、前夜の北岸は五月闇《さつきやみ》のうちに殺気立った。  むろん南岸の楠木勢も、これを無関心ではいまい。それかあらぬか、大江の水をへだてた彼方には、いつもより赤い、そして数も多い遠篝《とおかがり》が、  いざ、来い。  と、挑《いど》むばかりな意気を夜どおし焦《こ》がしていた。  五月の爽涼《そうりょう》だ、夜明けも早い。  東国勢には、伝統的に馬自慢の武士が多いのである。暁の下に彼らは遠い祖先の宇治川先陣を、今朝の自分に擬《ぎ》しながら、もう汀《なぎさ》から白波をあげて、大河のうちへ馬首をすすめていた。  きれいである、血を見ぬうちは、うごく絵巻のように美しい。  だが、水馬の馬陣が、矢ごろの距離に入るやいな、 「あッ。――」  もう泡沫《うたかた》の中に覆《くつがえ》されて、たちまち浮きつ沈みつ流されてゆく武者の影が続出していた。 「伏せろ」 「馬筏《うまいかだ》を崩すな」 「よろいの袖を深く翳《かざ》せ」  まるで、夕立のような矢の中だった。多くは、眼をつぶっていたのである。かぶとの脳天には何度となく鏃《やじり》がカンと刎《は》ね辷《すべ》ッた。 「よしっ」  頃を見ていた隅田《すだ》勢は、鉦を鳴らして橋上を駈け出した。ほとんど、この方へは、いくらの矢風も吹かないうちに、はや北詰からも迫って来た楠木勢と、橋の真ン中で白兵戦になっていた。こう敵味方、顔を見合って、吠えあう段になると、装備にすきのない六波羅勢に、いやおうなしの強味がみえた。――楠木勢の先鋒《せんぽう》といえば、そのあらかたが、日傭兵《ひやといへい》といってもよい、半裸同様な軽装に、ただ大刀《だんびら》や長柄を振り廻すものが多かったのだ。  ぜひもない。見るまにばたばた、仆れてゆく。  あとはわっと逃げ崩れる。  隅田勢は一気に追う。敵のかばねを踏みこえ踏み越え、すでに全軍は、大江の南を、水から揚ッた水馬隊と共に、遠く敵を追っかけ出した。  ところが、そのあとの渡辺橋の上では、死んだはずの楠木兵が、あらかたムクムク起き出していた。そして手当り次第、そこらの橋板を剥《は》ぎ取っては、河の中へ、ざんぶざんぶ、投げ込みはじめた。  作戦は図に中《あた》った。  隅田、高橋らの視角と心理の錯覚が、すべて正成の構想によるものだったのはいうまでもない。  だがなお、敵を思う地点へおびき込むまでは、正成の本隊以下、辛抱づよく、天王寺附近に旗を伏せていたのである。 「これはおかしい」  逃げる楠木勢を追いまくして来た藤内左衛門は、阿倍野の辺で、やっと気づいた。  脆《もろ》すぎる? 「おおいっ、三河。ちと深入りだぞ。この上どこへ」  折ふし、南へ駈け飛ばしてゆく高橋三河守を見かけて呼ぶと、高橋は彼方で、 「隅田か。あれ見よ」  と、指さした。 「住吉に敵の旗が見える。畢竟《ひっきょう》、正成のいる陣所か。御辺もこっちへ懸《かか》れ。ひっくるんで正成を討ち、一族もろとも、六条河原に首を並べてくれようぞ」 「おうっ、こころえた」  螺手《らしゅ》に貝を吹かせ、いちおう陣立てをまとめ直していた時だった。  どうしたのか、先に住吉へ突進していた高橋の騎馬隊が、味方の歩兵のうちへ、逆《さか》なだれに、戻って来た。松林の両側から、とつぜん、矢の集中を浴びたものか、小混乱をまず起した。  が、じっさいには、菊水の旗が見えた所に敵はいなかったのである。正成の弟正季、一族の神宮寺正師《じんぐうじまさもろ》、佐備正安らの河内きッての精鋭は、 「今ぞ」  という正季の一令をべつな所で受けていた。  住吉ノ浦へつづく小松大松の密生している乱松地帯は、道があって道がなく、一種の迷路といっていい。 「やっ、敵は後ろだ」 「いや横だ」  高橋隊の逆行を見て、隅田《すだ》の一勢も、突くところに戸まどった。そのうえ阿倍野の一端からは、約二百ほどの騎馬の楠木勢が、疾風《はやて》のようにむかって来た。  それは、日傭兵《ひやといへい》だの、浪民などといえるものではない。見事な訓練と規律をそなえた一団の鉄騎で、楠木方の和田正遠、正高、矢尾常正、箕浦友房《みのうらともふさ》などが、先頭の将だった。  と同時に、正成の本隊も、天王寺附近から、鼓を鳴らして起っていた。――そう気づいたときは、一つの兵法の図式が、いつのまにか、忽然《こつねん》と地にえがき出されていたのである。――この図式の中に陥った六波羅勢が、どこを破って、よく逃げ得られるか、それだけが、あとの命題でしかない。  この命題は、やがて、大江の渡辺橋で解決された。 「返せ、返せ」  われがちに、退《ひ》き鉦《がね》を乱打しながら、隅田、高橋以下何千人、大江の岸までなだれ退《さ》がったが、さらに「大河を背後《うしろ》にしては」と、渡辺橋を北へ、争って渡りかけるやいな、とつぜん起った惨事だった。  真ン中の橋板が、所々、剥がされていたのである。  ころぶ。抛り出される。その上へ、後から後から積み重なる。溢れて河の中へ落ちる。  しかも、楠木勢の全力は、その機に、後ろから拍車《はくしゃ》をかけて来たのだった。  世にいう「渡辺橋の合戦」では、六波羅勢がよほど派手な敗け方をしたことは疑いない。  けれど、いかに正成の“断橋《だんきょう》ノ計《けい》”が、よくその功を奏したとしても、 [#ここから2字下げ] 然《さ》れば、五千余騎の兵共、残り少なに討ちなされて、みな這々《はふはふ》、京へさしてぞ、逃げ返りける。〔太平記〕 [#ここで字下げ終わり]  という程ではなかったろう。  ただこの大敗の責めで、隅田、高橋の両将が、六波羅を出仕止めとなったなどは信じられる。ほぼそれほどに損害も大であったには違いない。 [#ここから2字下げ] わたなべの 水いかばかり 早ければ 高橋落ちて 隅田《すだ》ながるらん [#ここで字下げ終わり]  都では、京童《きょうわらんべ》のこんな落首《らくしゅ》が六条河原に立てられ、六波羅の敗北を、小気味よがる風潮もあったというが、それよりは、 「宮方の残党は、まだ根強い」  となす印象を、時人《じじん》に深くしたことの方が、六波羅には、さしあたっての焦慮《しょうりょ》だった。  やっと、先帝の島送りもすみ、加茂の祭りも終って、まだ残務も多いが、 「ひとまずは」  と、ほっとしかけたところなのだ。  もっと、いけないことには、鎌倉の命で、すでに在京の諸大将あらましは、関東へ引き揚げ去った後なのである。 「誰をば次の、楠木追討の二陣にさし向けるか」  となると、これぞと思う大将もいない。常備の六波羅直属もいるが、ここを空《から》にするわけにはゆかず、隅田《すだ》、高橋の五千が向っても破れ返った敵と考えると、うかつな計も立てられなかった。 「ばかな!」  宇都宮公綱《うつのみやきんつな》は、ある日の六波羅評定に、ふと顔を出して、ぷんぷんと罵りちらした。  宇都宮|治部大輔《じぶだゆう》ノ公綱《きんつな》は、東北の大族である。美濃入道の息子で、大剛の聞えがあった。  ちょうど、べつな用向きで、上洛中だった彼は、評議に出ては見たものの、腹が立ってたまらなかった。 「楠木なぞとは、かつて東国では聞いたこともない。それしきの者に騒ぎ立って、いちいち鎌倉殿へ早馬を立て、ご軍勢の上洛を仰ぐほどなれば、いっそここの両六波羅などは、廃した方がまし[#「まし」に傍点]ではないか」  宿所へ帰っても、客をつかまえて、広言を払った。 「楠木が強いのではなく、隅田、高橋らの兵略が拙《つたな》いのだ。また士卒も臆病ぞろい。われらの東国|下野《しもつけ》では、かかる愚戦は聞いたこともおざらん。いやはや、都へ来ると、いろんな珍聞を耳にいたす」  そこで、客が言った。 「もし、御辺なら?」 「この首をやるか、楠木の首を持ち帰るまでのこと」  しきりに、こんな大言を吐くのが聞えて、その反感から評定所でも、彼への酷評が露骨だった。 「公綱こそは、虚勢を吠える。手勢を連れた上洛でないゆえに、ああいえるのだ。もしほんとに討手を命ぜられたら、用を構えて、早々国元へ逃げ帰るにちがいないわ」  それから間もないこと。 「宇都宮公綱が、楠木退治を買ッて出て、近いうち出陣する」  という噂が京中にひろまった。  が、当人の公綱にただせば、 「買ッて出た覚えはない」  のだそうである。  周囲が作った雰囲気だろう。けれど公綱の放言自身も、好んでみずからこの“意地ずく”のかたちを周《まわ》りに拵《こしら》えていたものであることは否めまい。  当の公綱の思わくにすれば、遠い蝦夷地《えぞち》ノ乱などで、連年いくら功をあげても、中央では知る者もないが、ここで楠木討伐に剋《か》てば、一躍、わが武名は全国に鳴りひびく。  また。周囲の弥次馬性からは、 「東北の大剛宇都宮が、どんな戦をするか。楠木との駆け合せは見もの」  とする心理が手伝っていたこともある。いわば両者の結合が、やがて事実を生んだのだった。  六波羅は、非公式に、 「楠木勢の押さえに赴《ゆ》くご用意がおありであろうか」  と、彼をよんで訊いた。  そのときの、公綱の答えがまた振るッている。 「押さえにゆくなどという料簡は毛頭ござらん。ゆくからには、楠木と勝負を果たし、這奴《しゃつ》を生け捕って帰るか、難波《なにわ》の洲《す》に、この身が屍《かばね》をさらすか、二つに一つあるのみでおざる」  つまりは、大言のてまえ、公綱の陣頭指揮は、意地ずくからの出発だった。  しかし元々彼は、平時の用務で上洛していたものである。国元兵の軍勢などは持っていない。さしあたって、道中の供として連れて来た七、八十名の子飼い郎党が宿所においてあるだけなのだ。  なのに、彼は六波羅へも、兵を求めなかった。 「借兵《しゃくへい》などが、役に立つか」  というのである。  出陣の前夜は、一党賑やかに大酒盛《おおさかもり》して、あくる朝、堀川の宿所から左巴《ひだりともえ》の旗を振り出し、わずか七十余騎で、 「正成、何者ぞ」  都を駈け出したものだった。  これには、六波羅探題もあきれたとみえる。 「宇都宮を死なすな」  と、庁の守護兵、二百五十騎を追ッかけさせた。また、我から公綱の麾下《きか》を望む武者には、 「参陣さまたげなし」  とも、ゆるした。  だから、公綱の隊が、東寺《とうじ》を過ぎて四塚《よづか》にかかる頃は、はやくも四百人をこえていたし、なお行く行くの途中でも、 「音に聞く宇都宮殿の楠木征伐、ぜひ、御陣の端に」  と、望んで来て、麾下に加わる無名の輩《はい》もたえなかった。――乱を見て、身の不遇を、宮方へ寄せる者が多かった時流とおなじように、野望の賭けを、こんなさい、途上の東国勢に寄せて来る郷民まがい[#「まがい」に傍点]の武士もまた少なからずあったことが窺《うかが》われる。  で、難波の北方、柱松《はしらまつ》について陣したときは、およそ七百騎となっていた。  これを見た楠木方の物見は、鴻雁《こうがん》のように飛んで帰って、 「わずか六、七百の小勢ですが、宇都宮公綱以下、決死のていで、柱松に陣取りました」  と、味方へ報じた。  ちょうど、正成はその日、先ごろの勝利をおさめた礼詣りのため、四天王寺の内にいた。  そこの仁王門廻廊では、物見の偵報をみな笑った。 「何、たッた六、七百騎の宇都宮勢だと?」 「性懲《しょうこ》りもない奴らだ。さきの隅田、高橋の大敗も見たろうに」 「いや、あまりひどい負け方を喫したので、敵は、負け腹立って来たのだろう」  しかし、衆言をよそに、正成の床几《しょうぎ》の辺では、和田、神宮寺、橋本、安間などの諸将から正季も前において、いつもに変らない正成の低目な声が、なにか諄々《じゅんじゅん》といっていた。  情報の聞えと共に、和田孫四郎が「……一気に蹴ちらしてお見せしましょう」と言って出たのにたいしての、ことばであった。 「まあ、待て」  と、正成は、彼のみならず、幕僚すべての燃え逸《はや》るひとみを、焦《じ》れッたいほど長い思考のうちに抑えてから、 「その小勢が気にくわぬ。小勢は曲者。正成にもちとニガ手……」  と、つぶやいた。  そしてなお、いうには。 「宇都宮は東北一の弓取。わずか七百の兵でも、よく用いられれば、これは恐《こわ》い。たとえ彼にやぶれず、味方の勝ちとしても、必死の敵には、味方の大半を討死させるかもしれん。止めよう、止めよう……。戦わずして勝つということの方がいい。まして戦は今日《こんにち》だけでもなし、後日が大事だ」  こう彼は諭《さと》したが、諸将の沈黙には、なお釈然《しゃくぜん》としきれぬものが拭《ぬぐ》いきれない。  じたい武者魂とは、お互いの張りと士気で昂《たか》め合っているものだ。なかんずく主将の言は、その士気を左右する。だのに、正成が鬱陶《うっとう》しそうな片眼をすこし細めながら、始終、抑揚《よくよう》のない低声で弱音《よわね》にも似るようななだめ[#「なだめ」に傍点]を言っているのを聞くと、どうもせっかくな意気も沈んでしまう。幕僚たちには気にくわない。 「では?」  と、正季が何とつかず言い出した。みなの気を腐らせてはと、惧《おそ》れたのだろう。 「どうなされますか、当面の敵勢は」 「ほっておけ。ここまでは襲《よ》せて来まい」 「夜襲という手もありますが」 「夜には、われらが、もうここにはおらぬ」 「では、どこへ」 「遠くへ退こう。退いての上の考えでよい。そして退く前に、士卒のものすべてを、六時堂の広前に、よび集めておけ。ちと披露しておくこともあれば」  ぜひなく、やがて正季やら諸将のあらましも立ち去った。すべての姿が、ここの陣払いとは? と意外な足つきだった。  しずかな退陣準備が行われ出していた。夕日ノ岡やその他の拠点へも伝令が駈けた。しかし仕事は、輜重《しちょう》の荷駄隊がおもである。ゆるやかな動きにすぎない。  その間の小半日。天王寺の金堂《こんどう》では、大般若経《だいはんにゃきょう》の転読《てんどく》がながれていた。この日、正成は先ごろの戦勝のお礼に、二頭の神馬と、白覆輪《しろふくりん》の太刀などを寺中へ納めていたのである。 「兄上、いつでも」 「正季か。みな揃ったか」 「は。ほとんど」  正季と共に、正成は六時堂の方へ歩いた。将士二千、見わたす限りの地に、あぐらして、敷波《しきなみ》に坐っていた。 「……わしは声が低い」  つぶやいて、正成は横を見、 「俊秀《としひで》、わしに代って、今朝《こんちょう》のことを、そちから全軍の者に話してくれまいか」  命じられたのは、中院ノ雑掌《ざっしょう》俊秀である。 「かしこまりました」  正成の手から、うやうやしく折奉書《おりぼうしょ》を受け、広場の真ん中へ行って立った。 「みな聞くがいい」  そこからである。俊秀の声は、端々の兵にまでよく通る。 「今朝《こんちょう》のご参詣のあと、わがお館《やかた》には、ふしぎな奇瑞《きずい》にお会いなされた。あまりのありがたさゆえ、それを皆へも告げ知らせる。まずは次の一|文《ぶん》を聞け」  俊秀は、奉書を披《ひら》いた。 「――人皇《ジンワウ》九十五代ノ世ニ当ツテ、天下一トタビ乱レテ、主《シユ》モ安カラズ。コノ時、東魚《トウギヨ》来《キタ》ツテ、四海ヲ呑ミ、日ノ西天ニ没スルコト三百七十余日、西鳥《サイテウ》来《キタ》ツテ、東魚ヲ食ラフ。――ソノ後、海内一ニ帰《キ》スルコト三年、又モ獼猴《ミコウ》(さる)ノゴトキ者、天下ヲ掠《カス》ムルコト三十余年、始メテ、大凶変ジテ一|元《ゲン》ニ帰セム」  兵はぽかんと聞いている。わかったような顔つきは一つもない。 「わかるまい」  俊秀は逆を言った。  奉書を巻きおさめて。 「いま読み聞かせたのは、日本一州未来記というものの抜書《ぬきがき》の一節なのだ。――その未来記一巻は、かしこくも、この御寺《みてら》を創《た》てられた聖徳太子の書きおかれた秘封なのだが」  そっくり、談義僧《だんぎそう》口調である。 「さるを特に、わがおやかた多聞兵衛《たもんびょうえ》殿へは、その忠誠にめでて、内見《ないけん》をゆるされ、今朝、秋ノ坊の別当とお館とただお二人ぎりで、斎戒沐浴《さいかいもくよく》のうえ、上宮太子の御霊屋《みたまや》にて、そっと拝覧を給わったものだ。……いや、まだこれでも、よう解けまいが」  それから彼は、その秘文未来記の解釈を、わかりやすく説いて行った。  人皇九十五代とは、とりも直さず、後醍醐帝の今の世をさす。  東魚《とうぎょ》とは、関東の逆臣北条。  しかし、帝の島隠れをいう――日ノ西天ニ没スルコト――も一年にすぎない。  西鳥《さいちょう》が、東魚を呑む。  西鳥とは、西国の宮方である。帝のお味方が起って、北条氏は亡ぶ。  そして、天下は帰一するが、その間にも、猿のごとき何者かが、一時は天下を盗む。けれどそれも長くはない……。やがては真の万民泰平が返ってくる。 「なんと、おどろくべきではないか。釈尊《しゃくそん》は遠き末世を予言しておられたが、わが上宮太子も、すでに四天王寺創建のころ、今を見とおしておられたのだ」  中院ノ俊秀は、自分の弁に酔うがごとく、頸《くび》すじに汗をしたたらして、なお弁じた。  兵たちは、感心した。奇瑞をよろこぶ風である。またみな予言が好きである。多分な迷信の中に生かされていた人々だった。蒼古《そうこ》な四天王寺の輪奐《りんかん》もそれを援ける。  だが、奇瑞や予言をつかうのは兵家のつねだ。これも正成が士気|昂揚《こうよう》のための一計であったろう。正成でなければ、正成の蔭の援護者だった龍覚房《りゅうかくぼう》の智か、または天王寺中の秋ノ坊に深く隠れていた別当ノ大僧正などが、案外、その作者だったかもわからない。 「なんの狐疑《こぎ》を」と、宇都宮公綱は、兵七百の先に立って、 「おれにつづけ」  と、渡辺橋を駈け渡った。  天王寺の楠木勢が総退却したと、今朝知ったからだった。 「またぞろ、楠木の詭計《きけい》かもしれませぬぞ」  さきの隅田、高橋の例もある。その轍《てつ》を踏んではと、危ぶむものもあったが、公綱は一笑にふした。 「楠木の小細工など、公綱に何《なん》するものぞ。臆病者は知らず、勇者には、大河も背水《はいすい》ノ陣になる」  でも、菟我野《とがの》から天王寺のあいだでは、物見隊を先にめんみつな偵察をしながら進んだ。そして、やがてのこと、 「はははは。臆病風は急に、楠木勢へ風向きをかえてたらしい」  天王寺前に立ったとき、公綱は大いに笑った。  なるほど、ひろい地域は寂《せき》としたものだ。すぐ境内の検分に入って行く。およそ兵馬が駐屯《ちゅうとん》したあとは乱脈なものだが、地に鳥影が映るほど、いちめん、きれいに清掃されてある。  のみならず、金堂《こんどう》の深くから、今日も大般若経《だいはんにゃきょう》の転読の声がながれていた……。公綱はあやしみながら、秋ノ坊から別当職の者を呼び出して、 「つつみ隠すな」  と、まず脅しつけ、 「ここにいた楠木について、知るかぎりのことを申せ」  と、詰問した。  寺僧は答える。――寺は一切、戦《いくさ》に介入いたしません。楠木殿へも同様な扱《あしら》いです。ただ御退却のさい、渡辺橋にて戦歿した敵味方のための供養の布施《ふせ》にと、芳志《ほうし》のご寄進がありましたので、七日間の大般若経転読をいとなみ、今日も主座《すざ》以下、勤行《ごんぎょう》の最中にござりまする――と。 「相違ないな」  という以外、不審を突くところもない。  ところが、夜に入ると、附近にはさまざまな風説が乱れとんだ。公綱はよろいを解けなかった。明ければまた、何の事もない。  怪聞は、味方の物見が持ち込んでくるのである。はなはだしきは、住吉の沖に、深夜、何百艘もの船団が見えたなどという。あるいは、生駒山中に、天狗のような武者声がしたともいう。いずれにしろ公綱にも、楠木勢はまだ遠くに退いていない臭《にお》いがする。  かくて、寝もやれぬ緊張の幾夜がつづいた或る晩だった。 「や、や?」  宇都宮勢は、一せいに暗天へ気を奪われた。  生駒山の遠くから、高安、平野、秋篠《あきしの》ノ丘、浜へかけては堺の方まで、無数の赤い蛍火《ほたるび》といっていい遠篝《とおかがり》が見えたのだった。耳をすませば、噂どおりな天狗の諸声《もろごえ》に似たものが虚空《こくう》を駆けるかとも思われてくる。  こんな夜が、三晩もつづいた。そして昼は、ぱったり異状も見ず、六月の摂津平《せっつだいら》には、牛と農夫と、高い夏雲を見るだけだった。 「敵はすっかり屏息《へいそく》した」  ようやく、公綱も疲れてきたらしい。ひとり角力《ずもう》の馬鹿らしさにも気がついたのだ。 「出て来ぬ敵はぜひもない。宇都宮の一ト面目は立ったも同然だ。ひとまず京へ帰れ。京へ引き揚げようわい」  たしかに、このこと以来、公綱の一ト面目は都でもみとめられた。彼が欲したほどな武名でもないが、彼の存在だけはこの一戦でみな知った。 [#3字下げ]青《あお》い痣《あざ》[#「青い痣」は中見出し]  こんどに限らず、いつも旅行癖にまかせて出ると帰りも忘れるらしい兼好法師が、ひょっこり、その旅疲れを吉田山のわが庵《いお》へ見せたのは六月の初めであった。 「命松《めいしょう》。いま帰ったよ」 「あ、お帰んなさい。ああまっ黒け。また日に焦《や》けましたね、お師匠さんは」 「おまえは、なにしてた?」 「おるす中は、毎日|書《ほん》を読んだりお手習いしてました」 「ははは、それだけでもあるまい。川狩の網がここに見える」 「オヤ、いけねえ」 「殺生《せっしょう》だけはおよし」 「はい」 「なにして遊んでもいいけれどな」 「だけど、お師匠さんがお魚を食べるのを、見たことだってありますよ」 「魚を漁《と》って、生業《たつき》としている人もあるんだから、それはいい。ひとつの慈悲だ」 「へえ?」 「雀も、達者か」 「ええ、あいかわらず」 「見えんじゃないか」 「奥にいます。この頃、わたしよりも、べつな人に馴れちゃったんです。ちっとも私の方へは来ないんです」 「べつな人?」  わらじの緒《お》を解き、足など洗いながら、兼好は片手を上がりがまちについて、台所の方の小部屋を振り向いた。そして、  ――これは怪しからん。  とも言いたげな顔をした。 「命松」 「はい」 「たれだ、あそこで縫《ぬ》い物している若い婦人は」 「お藤さんです」 「お藤さん?」 「こないだ、相国寺《しょうこくじ》裏の町の衆が、どうせここは空家みたいなもンだから、庵主さんが帰るまで、ここに寝かしておくのがいいって、連れて来てしまったんです」 「じゃあ、ご病人か」 「病人でもありません。高野川の川合へ身を投げて、あぶなく死《し》に損《そこ》なッたのを、みんなして助けたんで……。やっとこのごろ快《よ》くなって来たんですよ」 「ほう。それはまた」  ただ、呆《あき》れながら書斎に坐る。しかしそのお蔭に、留守でも女手がとどいていたせいだろう、彼の机のまわりなども、小ぎれいだった。  命松丸は、その間に、 「お藤さん。お師匠さんが帰って来たのに、なぜ、もじもじしてんのさ。ごあいさつしておくれよ」  と、奥の人へ催促していた。 「……ええ、いま」  彼女は、針を針刺しに。そして、膝の糸くずなどを払いかけた。  ここでは、藤夜叉という名はもとより身の上も隠して、ただ近江の女とだけ、人には言っていた。兼好の前へ出ても、おなじであった。ひたすら、留守中の世話になった礼やら詫びを、くり返すのみで、すぐ羞《はじ》らいにさしうつ向いた。 「……見ればまだお若いのに」  兼好にも、継《つ》ぎ穂《ほ》がない。「なんで死ぬ気に?」と問いたくもなるが、人が死ぬ気になるまでには、おおむね、人にも話せぬ秘密やら事情があろう。それを根ホリ葉ホリして、自分に何がしてやれるかと考えると、彼には徒《いたず》らに訊き掘じる気にもなれなかった。  いちど投身した者が生きかえると、生の執着は別人になる。逆に生きぬくためから、性格までが、もんどり打って一変しやすい。  常識ではよくそういうが、いまのところの藤夜叉には、そんな風もみえなかった。わけて前身を語らないので、兼好には今の彼女と比較して見るべくもなかった。彼はただ、自分にしてやれることとして、 「わしが帰って来たからといって、なにも急にこの庵《いお》を出て行くにはおよびませんぞ。よいかね。充分、体もよくしたり、身のおちつきも考えてからにしなさいよ。もし行く所がなかったら、なアに二年や三年は、ここにいてもよろしいしさ」  そんなことで、なお数日は、吉田山の庵に身を小さく屋根借りしていた彼女であった。  あるじは、法師でも、持戒《じかい》のやかましい僧ではない。よくヒョコヒョコと出かけはするが、帰って来れば冗談もいうし、世間ばなしも好きである。それに命松丸は、きれいな姉でも持ったように「お藤さん、お藤さん」と、つきまとう。藤夜叉にも、いるに窮屈な点は何もなかった。  ただ年齢こそ少し違うが、この命松丸の童《わっぱ》ぶりを見るにつけ、 「不知哉丸《いさやまる》は」  と、忘れがたい。  たまらなく母情にみだれる。道誉にけがされた体を憎む。なぜか道誉を憎めないで自虐的《じぎゃくてき》に自分のみを掻きむしる。  だが二度とは、死など考えに出なかった。いちど死んだのは他人のことのように思惟《しい》のなかで区別できる。綯《な》い交《ま》ぜられて、自分の心からも肉体の縒《より》からも除けないのが、あの夜の道誉という者と、わが子と、それから、高氏とであった。 「お藤さん」 「なあに」 「お藤さんは、寝てから毎晩、ひとりして泣いてるんだろ」 「そんなことないわ。なぜ」 「だって、朝みると、いつもここンとこが」  と、命松丸は、自分の瞼を、指で抑えてみせて、 「きっと朝は桜色に腫《は》れぼったくなっているんだもの」 「あら、そう」 「また死のうか、尼になろうかなンて、考えているんじゃない? お師匠さんは、尼になるほどなら女に生れなければいいっていってたよ」 「そんなこといったってむりですよ。お師匠さんも男だから女の心はわからない」 「じゃあ、なるつもり」 「尼さんにはなりません。子どもがかわいそうですもの」 「お藤さん子があるのかい」 「命松さんより三ツ四ツ年下ですけれど」 「どこへ預けておいたの」 「三河の田舎に」 「だってお藤さんは近江なんだろ。どうしてそんな遠くにおくのさ。ああ分った。それで毎晩ベソをかいてるんだな」 「ホホホホ。そうよ」 「雀の子では、やっぱり駄目かい。そんなに、おらの雀は、お藤さんに馴れちゃッたけど」 「いいえ、雀も可愛いの」  庵の裏で、洗い物を干している彼女と、その側で、命松丸がしゃべっている声だった。――書斎の兼好は、頬杖《ほおづえ》のまま、眼は書物に落していたが、耳はそっちへ預けていた。  兼好も枯木ではない。ないどころか、四十男の性も旺《さかん》なはずである。  独り書斎にいても、自然、藤夜叉の起《た》ち居《い》や匂いには、ふと心を奪《と》られがちだった。 「なにも自分だけのように、辱《は》ずるには当らん。煩悩《ぼんのう》は人すべてのものだ」  彼は、しいて取り澄ます。  それにしても、夜々、彼女の閨《ねや》へ夜這《よば》いを思い立ちながら、抑えに抑えて、夜明けを待つのは苦しかった。益なき疲労を、昼にはどこかで悔やんでいた。 「はて、ばかな」  思考を、逆にかえてみる。  それほどなら、なぜ一ト思いに欲情を晴らしてしまわないのか。その方がはるかに自然なはずではないか。  ところが、兼好の理想だと、 「やはり割が合わない――」  勘定になるらしい。  女と契《ちぎ》れば、鎖《くさり》ができる。周囲の絆《きずな》や、子も出来る。それらの者を養うためには、職を持って、心ならぬ権門へも付かねばならぬ。 「しょせん、一庵の巣に隠れて、乱世をよそに、藪雀《やぶすずめ》のような気ずい気ままはしてはおれまい。……そのうえ、妻子の枷《かせ》を求めるなどはやりきれん」  いまもそう思い返して、眼を書物へ沈めていたのである。――と、洗い物など干しおえた藤夜叉が、やがてそこへ、麦菓子の点心《てんしん》(茶うけ)に、茶を入れて運んできた。 「兼好さま、これは今朝見えたお人の、いただき物でございますが」 「オ、代書料にくれた麦煎餅《むぎせんべい》か。お藤さんもここで食べたがよい。……命松丸は」 「つい今、裏におりましたが」 「よう遊び飽《あ》かぬ奴。……さ、あんたも食べぬか」  彼女に付きまとっていた家雀《いえすずめ》は、兼好の膝や机の上に移って、彼が食べこぼす麦粉を拾って啄《ついば》むことで夢中になり、彼は一喫《いっきつ》の茶のうちに、ふと、彼女の俯し目がちな面に、今日はまた凄艶《せいえん》なべつな美を見つけ出していた。  それは、藤夜叉の左の眉から眼の下へかけての、うすい痣《あざ》だった。  高野川の落ち口へ身を投げたあの晩に、早瀬の岩にでも、面をぶつけていたのであろう。初めて、兼好が見たときから、擦過傷らしい痕《あと》は気になっていたが、いま見ると、眼は無事らしいが、可惜《あたら》、瞼のあたりが薄紫に変じている。  いや、可惜とするのは、つい浮かぶ通念にすぎないことで、男心の裏から観《み》ると、それはすぐ男の邪念に結びつく妖美な極印を花の貌《かお》に一ツ加えたものといえなくもない。兼好もふと想像する――。かかる神の悪戯をうけたこの女性が、死ぬべきところを助かったがため、かえってこれから先の半生を、どんな男どもの手から手へと、業《ごう》の深い欲海の波間を、浮き沈みの目に会わされて行くことであろうか、と。 「……あ。たれか門《かど》に」  そのとき、庵の外で、訪《おとず》れがしていた。  彼女はあわててそこを立ったが、どんな客にも、客を恐れて人前に顔を出さない藤夜叉は、すぐ裏口の外へ出て、 「命松さん、命松さん」  と、助けを呼ぶように、さがし廻った。  お客と聞いて、命松丸は、庵《いお》の表へ廻って行ったが、 「なあんだ、お藤さん、何をあわてているのさ」  と、またすぐ裏口へ戻って来た。 「お客だもんか。薬売りがあっちへ行ったよ。薬売りと間違えたんだろ」 「でも、お武家のような声でしたのに。おかしいわね」 「ア、そうじゃなかった。もう奥へ通ってら」 「え。奥に」 「お師匠さんが、とうに自分のお書斎へ通してたよ。ああ、あのお侍なら、いつかも、ここへお使いに見えたことがある」  しかし藤夜叉は、客を覗いてみることもしなかった。一そう身を隠すように、干し物の下へ立ち寄りながら、 「どこのお方?」  と、小声でたずねた。  が、命松丸は、そのとき、兼好の呼ぶ声に、大きく答えて、家の内へ駈けこんでいた。  そして、しばらくすると、兼好は書斎を立ち、迎えに来た客の侍と共に、庵の門《かど》から連れ立って、吉田山を降りていった。 「お藤さん、お入りよ。もう帰ったよ」 「兼好さんもご一しょにお出かけですのね」 「今夜は帰らないよ、って仰っしゃってたけれど、お師匠さんのことだから、分りやしない」 「どちらへおいでになったんですか」 「いま帰ったお侍ね、あれは佐女牛《さめうし》のお迎えなんだよ」 「佐女牛って」 「知らないの。黄母衣《きほろ》で有名な、あの佐々木道誉さまのおやしきを」 「ま。……そう」  すうと、血が引いてゆく彼女のおもてに、左の瞼へかけての、打身の痣だけが、紫陽花《あじさい》いろに濃く残った。 「おや、どうしたのさ。お藤さん。気もちでも悪いのかい」 「ええ、なんだか少し……」 「きっと、さっきから陽なたで洗い物していたせいだぜ。もう、暑いもんなあ。家へ入って寝るといいよ。お師匠さんは留守だから、晩のしたくもいらないしさ」  その晩だった。  寝るとすぐ命松丸は正体もない。  藤夜叉は、そっと起きて、身じたくしていた。逃げよう、先は先、それしかないと、宵に胸を決めたのだった。  命松丸のことばによれば、兼好と道誉とは、鎌倉いらいの親しい仲であるとのこと。その酒の座の雑談などで、ふと、自分の噂でも出たとしたら、それこそは大変である。うむ[#「うむ」に傍点]もいわせず、佐女牛へ連れ戻されるにちがいない。 「……ごめんね、命松さん」  寝相のわるい彼の枕元の下へ、彼女は、宵に書いておいた仮名文《かなぶみ》の幼稚な置き手紙をしのばせておき、そして勝手口から手さぐりで外へ出た。足ごしらえには、ワラ草履《ぞうり》をくくり紐《ひも》にして、手には納屋《なや》から取り出した笠と竹杖とを持っていた。 「どこへ?」  深夜の闇は、彼女の胸をあらためて糺《ただ》していた。一途《いちず》に、三河の一色村へと焦心《あせ》ってはいるものの、一色党の人々の疑惑を何と解いたらいいか、その口実の見つからないうちは、不知哉丸《いさやまる》とも、母として会えない心地がするのだった。 「そうだった……。なぜ思いつかずにいたのだろう」  ぼやと星屑の空しか彼女には見えていない。  夜気《やき》の墨に吹かれさまよう姿は、ふと何かを、心あて[#「心あて」に傍点]に抱いたようだった。 「女は女どうし……」  小松谷にいる草心尼《そうしんに》なら頼って行けぬこともないと思う。覚一というお子もあるひと、きっと、この胸を聞いてはくれよう。  いや、ひょっとしたら、不知哉丸も、なおまだそこに置かれていて、そこでは逆に、この身の行方を案じたり探しぬいていることやらもわからない。――もし、そうあってくれたらと、藤夜叉は、祈りへ向って走るように、東山のすそをひたむきに、いつか六波羅近くへ来ていた。  ところが、大宮、車大路、いずこも道は遮断され、庁の総曲輪《そうぐるわ》の辺は、たくさんな遠篝《とおかがり》で、さながら火焔の府に見えた。 「行けない」  はたと、彼女は惑《まど》った。  先ごろから、どこかで戦《いくさ》が起っているという風聞は、耳にしてない事でもない。けれど藤夜叉の胸には風の音ぐらいにしかそれは吹き抜けていなかったのだ。いま、物々しい夜景を目に、初めて、自分のほかにも、ただならぬ世間があるのを知った風だった。 「この様子では?」  あきらめるしかなく、藤夜叉は、また道を後へもどった。  草心尼母子も、不知哉丸も、はや小松谷にいるかどうかは心もとない。――その小松谷の邸は、探題の住居である。戦争とあれば、そこの備えも例外であろうはずがない。 「やはり三河へ……」  と、思い返した意志の足どりというよりは、風にもてあそばれてそこを去って行くような藤夜叉の影だった。――夜をとおして歩いていたにちがいない。一面にはたえず何かにおびやかされて、一歩もとどまっていられないもののようにも見える。  いや事実、彼女は追われていたのである。  彼女自身は、夜が明けたことも、また、街道の人中を歩いていることなども、うつつないかのような姿で、大津越えを東へ、ただせッせと急いでいたが、それいぜんに、蹴上《けあげ》の辺の、とある安旅籠《やすはたご》の軒端《のきば》で、 「やっ?」  一人の男が、じいっと、彼女を見送っていたと思うと、もう一人の連れを、同じ旅籠の内から呼び出して、共にあとを追ッかけ出していたのだった。  そして相坂山《おうさかやま》をのぼりつめた辺で、 「もしっ、そこな女性《にょしょう》」 「もしや、藤夜叉さまではありませんか」  二人の男は、手をあげて、先へ行くものを呼びとめた。  彼女は答えない。ちらと振り向いたふうではあったが、彼女の足が一ばい早くなったのはそれからだった。むしろ逃げるといった姿にちかい。  男ふたりも駈け出した。  侍だが、ちゃんとした侍ではない。街道でよく見かける蠅みたいな浪人である。  でなければ放免《ほうめん》(密偵)か。  いやいや、藤夜叉には、そんな見わけを、とつこうつ抱いているゆとりはない。とつぜん小走りに走って、関ノ清水の横道へ隠れこんだ。 「あっ、逃げた」  唖然としたように、後ろの浪人二人は、腕拱《うでぐ》みをくんで、立ちどまった。 「はて、やっぱり人違いだったのかな?」 「でも、逃げるのはおかしいじゃないか」 「いや、こんな風態《ふうてい》のわれわれだ。あとを尾《つ》けられたら、旅の女など、不気味に思うのはあたりまえだよ」  と、一人は笑う。 「それもそうか」と、是認《ぜにん》しかけたが、また、一方はその言をひるがえした。 「何、どうあっても、おれには藤夜叉さまに見えた。もう一ぺん追って行って、たしかめて見ようじゃないか」 「だが、藤夜叉さまに、痣《あざ》はないぞ」 「それはない」 「ところが、おれがさっき、斜めに寄ってさし覗いたら、左の瞼のあたりに、うすくこう、青痣があった。……だから思い止まれといったのに、きさまはどこまで諦《あきら》めぬ」 「間違っても、損はない。女にあやまればすむことだ。いやなら、おれ一人でただしてみる」 「まあ待て。そう慌てなくても女の足。おれも行くさ」  一方の藤夜叉は、関明神のお旅所《たびしょ》のうらに、かがまっていた。笠を眉《ま》ぶかに沈め、竹の杖を両手に持って、石垣の下の石の一つに腰かけたまま、もう一歩もあるけないような呼吸をしていた。ゆうべから、さまよいつづけて、京の内を離れるまではと、まだ、朝餉《あさげ》も食べていなかったのだ。 「…………」  誰か、眼の前のやや離れたところに、人が来て立っている。  と、彼女は体で感じていたが、もう立つ力はなかったらしい。笠もそのまま、顔もさし俯向《うつむ》けたまま、じっとしていた。 「……?」  ふたりの浪人も、凝視《ぎょうし》をそろえているきりで、しばらくは何もいわず、ただ、自分らが尋ねていた者であるや否やを、慎重に見さだめようとしているふうであったが、やがてのこと、 「藤夜叉さま!」  同時に言って、同時にふたりとも、地へひざまずいた。 「ああ、どうなされたのでござりまする。やはり紛《まご》うなき藤夜叉さま。どんなにお探し申していたことやら知れません」 「篠村《しのむら》の右馬介どのはじめ、三河の一色党のわれらまで、八方、京を中心に手分けして、今日まで、お行方を尋ねていたのでございました」 「いざ、お立ちくださいませ」 「お供して、これよりすぐに、一色村へ」 「右馬介どの、刑部《ぎょうぶ》どの、みなあなた様の、ご生死すらも、あやぶまれて、お案じ申しておられますれば」 「…………」  なお、藤夜叉は、顔を上げなかった。それをかくして笠だけが微かにふるえている。 「さ、さ、いかなる御仔細かは存じませぬが、ともあれ三河へ」 「そこには、お愛《いと》しい不知哉丸《いさやまる》さまも、とうにお帰りあって、日夜、母者《ははじゃ》のお名を呼んでおられますものを……」  と聞くやいな、藤夜叉は、ささえていた杖と涙から身を崩《くず》して、その怺《こら》えを、地の肌へじかに咽《むせ》んで、泣き倒れてしまった。 [#3字下げ]十目《じゅうもく》十指《じっし》[#「十目十指」は中見出し]  以来、門をとじて謹慎中の佐々木道誉へ、数日前に鎌倉表からの示達《じたつ》があった。「――下向《げこう》して、不審を申し開くべし」との沙汰なのだ。  道誉はほくそ[#「ほくそ」に傍点]笑んでありがたくお受けした。心中思うツボとしたのであろう。鎌倉へ下って、高時の前に出さえすれば、高時は掌中《しょうちゅう》の物だと思う。ご機嫌をとりむすび、あわせて、どんな嫌疑も解いてみせる自信があった。 「法師。……そんなわけで、またいつ都へ出るか、次の折はわからん。達者ですごせよ」  わざわざ、吉田山から呼んでおいた兼好法師へ、彼はいろんな物を立ちぎわの布施《ふせ》に贈った。銀子《ぎんす》、布、茶、料紙、穀類など、持ちきれないほどなものを、家来を付けて、持たせて帰した。  彼自身が、京を立ったのも、その日であった。  言いおくれたが、彼の下向は、べつに重大な一ト役をそのさい申しつかっていた。つまり下向のついでに、鎌倉へ下《くだ》す宮方の一公卿を護送して来いと、命ぜられていたのだった。 「自分を試すのだな」  道誉はそう取った。神妙に、その役も奉じて行った。  笠置《かさぎ》一味の捕虜は、後醍醐帝を流す前に、あらまし処分にふしていたのだが、なお、いろんな事情や嘆願の運動やらで、猶予《ゆうよ》されていた者もある。  ところが、俄然、ここへきて、その未決中だった公卿僧侶へも、一せいに刑の申しわたしが断行された。  ――わずかな日のあいだに、武士の多くは河原で首切られ、僧や公卿は、伝馬《てんま》の背やら箱輿《はこごし》で、続々、遠流《おんる》になって行ったのだった。多い日には、二つも三つもの流され人《びと》を都の庶民は目撃していた。  そのうち、おもなる人々だけを挙《あ》げても。  前大納言|師賢《もろかた》を下総《しもうさ》へ。参議の光顕は、出羽に。  また、洞院《とういん》ノ公敏《きんとし》、万里小路藤房《までのこうじふじふさ》のふたりは、下野《しもつけ》へ。東宮ノ大進季房は常陸《ひたち》流し。  僧の聖尋《しょうじん》は、下総。殿ノ法印良忠は、加賀の前司預け。おなじく俊雅《しゅんが》は長門へ。  このほか、さきには陸奥《みちのく》、越後、硫黄島へまで流された僧侶もあるから、宮方加担の僧はほとんど根絶されたといっていい。  が。どうして、幕府がかくも慌ただしい、狼狽《ろうばい》にも似た断行に出たかといえば、理由はたれにも明らかだった。「――死んだとつたえられた楠木が、四天王寺に拠《よ》って、意外な勢力をみせた驚きからだ」と。  だから「……もしや助かるか」と、僥倖《ぎょうこう》をたのんでいた未決中の宮方公卿やその家族たちは、 「これは、楠木のせいよ」  と、みな恨んだ。  わけて参議の烏丸成輔《からすまなりすけ》などは、はや護送途中、相模の早川で殺されたという風聞なども聞えていたので、おなじ宮方ながら烏丸の一族は、楠木の天王寺挙兵を、恨むこと一《ひ》ト通りでなかったといわれている。――これが後年、正成の上に、どんな祟《たた》りになったかなど、もちろん正成自身は、思いも及びえないことだったろう。  ところで、道誉が護送する役割となった公卿は誰かといえば、それは後醍醐近臣中の随一の近臣、北畠具行《きたばたけともゆき》だった。  北畠ノ源中納言《げんちゅうなごん》具行《ともゆき》は、ことし四十二だった。  かつての正中《しょうちゅう》ノ変の犠牲者、日野資朝や俊基《としもと》らとは、多年、その理想を一つにしてきた少壮公卿のひとりである。そして、さきの笠置挙兵では、もっとも活溌にそれの実行をおしすすめた天皇幕僚の中心だった。  だから彼のみは、ほかの公卿捕虜の仲間とは、覚悟のほどもちがってみえ、  ――鎌倉へ差下《さしくだ》す。  と、いい渡されて、獄から板輿《いたごし》へ移されたさいも、 「近江ノ入道(道誉)が、身の護送役とは、よいお介添《かいぞ》え。よろしく、たのむ」  と、さすが、悪びれた風もなかった。  そしてはや、護送の人馬が、大津の辺へさしかかると、 「道すがらの徒然《つれづれ》だ。佐々木へ見せよ」  と、懐紙《かいし》の一ト筆を、兵にわたした。  道誉が、馬上、披《ひら》いてみると、 [#ここから2字下げ] 帰るべき 時しなければ これやこの 行くをかぎりの 相坂《あふさか》の関 [#ここで字下げ終わり]  と、あった。  道誉はちょっとほろりとした。元来、彼は心ではよくほろりとする性《たち》であるが顔には出したことがない。そんな涙ッぽい粧いは自分の嗜虐《しぎゃく》に似合わないと知っているせいだろうが、このときだけは真底《しんそこ》、何か身につまされたようだった。  ――というのも、護送使の立場にはいるが、自分もじつは、鎌倉の譴責《けんせき》をうけて下って行く身なのである。 「今日の人の身は、あすの我が身という言葉もある」  と、どこかでは、彼にも、そんな惻隠《そくいん》の情《じょう》めいたものが、吹きぬけるように、ささやかれていたことかもしれない。  近江路も三日目、鏡ノ宿から先は雨空だった。まもなく犬上郡である。 「だいじな囚人《めしゅうど》、鎌倉へ行きつかぬまに、病気させては、落度になろう。宿の予定をかえて、民家でも寺でもさがせ」  と道誉は、その日の行《こう》を半日で休《や》めさせた。  土地の“長者”ともいわれる旧家であろうか。大夕立の中を、人馬は門へなだれ寄って、そこを不時の宿所に宛てた。――どんな急でも、官旅の人馬には、拒めないのが掟《おきて》であった。わけて、ここらはもう近江源氏一族の領下である。長者の家では、下へもおかない。 「だいぶ都も離れました」  奥の一《ひ》ト棟《むね》を、中納言|具行《ともゆき》の一夜の牢居《ろうきょ》とさだめてから、道誉はそこへ来て言った。そして、 「こよいは、それがし自身、番士をつとめるつもりです。お心おきなく」  と、風呂場には、新しい衣服をそなえさせ、夜には、食膳を共にするなど、何くれとなく、その牢愁《ろうしゅう》を、なぐさめた。 「忘れはおかぬ」  具行は、つい眼を熱くして、 「かねて、近江ノ入道は、やさしい武士と聞いていたが……。そして、出雲路《いずもじ》でも、みかどへたいして、情けあるお見送りをして給うたことも、ほのかに、うけたまわっていた。かたじけない」  と、なんども言った。  離散、流竄《りゅうざん》、いずれも悲境に沈んでいた宮方のあいだでは、いつのまにか、道誉の名が、敵人ながら、理解のある、たのもしい同情者として、つよく記憶されていた。 「みかど(後醍醐)が、六波羅の獄におわした間の給仕人も、彼であった」 「寒中の獄へ、火桶《ひおけ》をまいらせたり、三名の典侍を、おそばにおく計らいをしたなども、みな彼だとか」 「隠岐への遷幸《せんこう》にも、出雲までお供して、終始、心やさしい奉仕を尽くしていたそうな」  こんなふうに、道誉といえば、花も実もある武士と、みな見ていたらしいのだ。北畠具行も、また、その一人だった。  だから、その夜の道誉のいたわりにも、彼は、しんから感激した。 「士は士を知るとか。おなじ護送されるにも、其許《そこ》のような武士に送られるのは、身の倖せであったよ」  と言い、そして、 「やがて見給え。第二、第三の宮方の鯨波《げいは》は、津々浦々から、鼓《こ》を鳴らして起って来よう。……神ではないが、具行には見えておる。なぜなれば、密勅ノ檄《げき》を諸国に飛ばしたさいの実務はすべてこの身がいたしたからだ。……それゆえ、どこの誰と誰とは、いまは起《た》たねど、やがて起つ宮方武士であるなども、分っておる。勅に答えてきた連判の名もみなこの胸にたたんでおればの」  と、そんな秘事まで、ついには洩らした。 「さも、おざろう」  道誉は、べつに驚いたふうでもなかった。――おくびにも宮方へ同心するとはいっていないが、すでに自分も北条氏の世をそう長いものとは見ていない一人であるのだ。 「して、その連判は、どこへお置きでございますな」 「いや、笠置落城のさい、火中へ捨てた。しかし、名は、洩れなく覚えておる」 「とくに、その連名を、そっとお聞かせいただけますまいか。神かけて、幕府へ密告などはいたしません」 「聞かせてもよいが」 「ご疑念ですか」 「なんといっても、其許《そこ》はやはり幕臣であろ。盟約のてまえ、打ち明けがたい」 「もし、宮方なれば」 「もちろん、仔細なしだが」 「では初めて、あなたにだけ心底を申しましょう。夙《つと》にこの道誉も、宮方へ密かな心をよせていたひとりなのです。それを知っていた者は、いまは亡き日野俊基|朝臣《あそん》だけですが」 「えっ?」 「かの朝臣とは、以前、ふかく心をかたりあっていたのです。都でも伊吹ノ城内でも」 「まったくですか」 「あなたが、ご存知ないとはおかしい。さもなくて、何で道誉が獄のみかどへ、あんな奉仕を、よそながらでもいたしましょうか。――幕府の前に、一身を賭けてまで」  具行はうなずいた。眼の前の道誉が、百倍もの、たのもしい一味の同志に見えていたのである。  彼は、眼をとじながら、連判の簿《ぼ》を読むように、全国にわたる隠れた宮方の武士の名を記憶のままに挙げて行った。それを、道誉はじっと、聞きすまして、いちいち胸に刻《きざ》んでいた。  意外な名が、次々に、具行の口から出た。  道誉でさえ、日頃、よもやとしていた武族までが、宮方連判の一人であると――その連判はないが――いま、明言されて出たのだった。 「……して、足利の名は、如何《いかが》ですか。よもや加わっては、いないでしょうな」 「下野《しもつけ》の足利か」 「そうです。笠置攻めにも、上っていた又太郎高氏です。しかし彼は、正面の攻撃にはむかわず、伊賀方面をまごまごして、そのくせ、いちばん遅くまで、畿内に兵をとどめていたなど、とかく不審な行動をとっていた者ですが」 「いや、その高氏なら、密勅の呼びかけもしていません。もちろん、連判にもみえぬ」 「赤橋殿の妹聟《いもむこ》。いわば北条一族と見てのことですか」 「それもあるし、高氏は寝反《ねがえ》りなどは出来ぬ一徹者、うかつに呼びかけるのは、あぶないとみな申す」 「では、東国において、勅におこたえした者は、大族では一名もなかったのですか」 「皆無ではない」 「では、たれですか。東国での隠れた宮方といえば」 「新田小太郎義貞がある」 「や、あの新田も」 「笠置には、起《た》ちおくれたが、いつかは、きっと東国の野に起って、宮方の中心になるであろう。……したが、新田、足利は下野の領地を隣り合わせていることゆえ、なにせい、至極むずかしい立場にある」  いつか、屋根の夜雨《やう》の音は、やんでいた。  北畠具行は、囚《とら》われの境遇も、忘れはてていたようだった。酒につよい道誉に彼もつりこまれて、更《ふ》けてまで、なお、杯をおかなかった。 「……ああ、死にとうない!」  とつぜん、彼は酒気にまぜて、嘆息した。 「きっと、天下はわれらに恵んで来るのだ。いま言ったような面々が、こぞり起《た》つ日は決して遠い先ではない。こんなにも、下地は春を待っているのに、それも見ず、それに先だって、この世を散って去る身とは……ああ何とも、ざんねんだなあ、死にたくないぞよ、道誉」 「何を仰せられる。死ぬには及びますまいが」 「でも、鎌倉へ曳かれては」 「おあきらめは、早すぎる。それらの裁断は、一に高時公のお胸にあること」 「その北条高時が、たれにもまして、この源中納言《げんちゅうなごん》を、憎んでおると聞きおよぶ」 「いや」  と、道誉はなぐさめた。  自分も、嫌疑をうけて、その申し開きに下《くだ》る身であるが、充分に自信はある。ご助命の方も、きっとおすがりしてみよう、と高時の寵《ちょう》を恃《たの》んで、言いきった。 「ありがたい」  具行は、はじめて涙をたれた。 「もし、助かったら、他日、恩賞の日、其許《そこ》を武将の叙位《じょい》の第一に推挙しよう。ああなにやら、濶然《かつぜん》と、闇がひらけて来たような。……道誉、忘れ難い一夜だな」  いつか、鶏鳴《けいめい》が遠くに聞えていた。ふたりは、ほんのつかのま眠っただけだった。  道誉を先頭に、具行の輿《こし》をかこんだ人馬は、その朝、愛知川《えちがわ》を越えた。  愛知川は江南江北の分堺である。そこから先の――犬上、坂田二郡の沃土《よくど》から美濃境の山岳地方までも――佐々木の領土、つまり道誉のお国元なのだ。  道行く者も、 「あ。ご領主が」  と、路傍にうずくまり、駅路《うまやじ》にかかれば軒々で、 「ご領主が通らっしゃる」 「ご領主のお帰りか」  と、拝《はい》をしない者はない。  都でも、彼の評判は一般に好感をもたれているが、近江ではわけて「よい国主」と親しまれているふうだ。ほかの守護のような苛税を徴《ちょう》する風もなく、治水がすすんでいるせいか、湖畔の青田は見わたすかぎり生き生きとよく肥えている。  やがて、安食《あじき》の街道茶屋が見えて来たときである。家来のひとりが道誉のそばでささやいた。 「花夜叉が彼方でお迎えに見えておりまする」 「花夜叉?」  道誉もすぐ見つけたらしい。  列をとめさせて、自分も茶屋の前で馬を降りた。ちょうど割子《わりご》(弁当)をつかう時刻である。並木の蔭に、輿はおろされ、輿の内へも中食《ちゅうじき》が供された。  今朝来、具行の顔いろは明るかった。ゆうべ夜ッぴて、道誉と語りあったことから、絶望の底にあった彼のひとみも生き生きと一変していた。俄然、生への執着と、希望に燃え出したらしい容子《ようす》は、割子を解いて、いつになく、むさぼるように喰べている食欲にもそれは窺《うかが》われる。  その間。  大勢の人馬が、それぞれ、腹をみたして休んでいる間を――道誉は茶店の裏で、花夜叉と、会っていた。  田楽《でんがく》村の長《おさ》、花夜叉だ。  いうまでもなく、この男は、藤夜叉の養父であり、そしてこの附近の、不知哉《いさや》川の上流の一村に扶持《ふち》をいただいている佐々木家お抱えの田楽師である。 「花夜叉。――急にこの道誉へ告げたいため、ここで待っていたとは、どういうことか」 「はっ」  と、花夜叉は、地に伏せていたひたいを上げた。菊花石《あばた》くずれの鬼みたいな顔である。花夜叉という芸名は、それを愛嬌に売り物としている所から来たものだろう。もう五十すぎた年配だが、体つきも頑丈で、田楽者らしい頭巾《ずきん》、袖なし羽織に、短めな帯刀を一本横たえ、木の根にかけたご領主の姿に、終始、胸も伸ばさない恰好だった。 「じつは、つい先おととい、この街道すじで、むすめを見たという者がございまして」 「なに、藤夜叉を」 「はい」 「ふうム……?」 「なんぞ殿に、お心あたりでもございましょうか。かねがね、藤夜叉が村へ立ち廻ったら、必ず一報せよと、仰せつかっておりましたが」 「心当り? ……。いや、知らん。そして、どうした? ……村へ帰って来たわけか」 「いえいえ、そんなことならばよろしゅうございますが」 「では?」 「そのために、田楽村の者二、三が飛んだ災難に会うたのでございまする」  花夜叉の知らせは、道誉に耳をかたむけさせた。  彼の訴えによれば。  つい二、三日前のこと。田楽村の者たちが、西明寺の三重ノ塔供養へ出かけての帰り途で、藤夜叉にそっくりな女性を、この街道で見かけたという。  それは、一頭の荷馬と七人ほどの野武士てい[#「てい」に傍点]の群れで、女は一人きりだった。――いずれもが、旅装《たびよそお》いで、並木の木蔭に休んでいたところを、折ふし村の田楽たちが通りかかって、 「おや、藤夜叉があの中に?」  と、思わず立ちどまると、女の方でも、はッとしたらしく、ついと編笠《あみがさ》のつば[#「つば」に傍点]へ手をやって、急に、そ知らぬ振りをするかに見えた。  そこで、人々は、 「人違いか」  と、たじろぎ合い、いちどは通りすぎたが、どうしても今のは藤夜叉だった、と言い張る者もあって、ふたたび、あとへひっ返して、 「藤夜叉ではないか」  と、呼びかけてみたのであった。  ところが、これがまちがいの因《もと》だった。彼女のまわりにいた野武士ていの男たちは、 「なんだと」  のッけから、目柱《めばしら》たてて、 「なにをばかな。そんなお方ではないッ。近づくと、用捨《ようしゃ》はせんぞ」  と、凄いけんまく。  しかし、田楽村の者は、近々と見て、よけいその確信を、つよめずにいられなかった。  左の瞼のへんに、青い痣《あざ》がうかがわれたり、ひどく窶《やつ》れても見えたが、同じ村に住み、同じ楽屋生活もし、幼少からよく覚えている藤夜叉なのだ。とまれ十目《じゅうもく》十指《じっし》、見ちがえるわけはない。  で。つい、親しみのまま、 「これ、藤夜叉。いったい、これはどうしたわけじゃ」  と、そばへ寄り合って、彼女の肩や笠へ、みなで手をふれようとしたのである。  とたんに、野武士たちは、まるで自分らの守る珠玉でも触《さわ》られたように「この雑人輩《ぞうにんばら》めッ」と、やにわに刀を抜き、まわりの二、三名を薙《な》ぎ払うやいな、 「それっ、行け」  とばかり、女を荷馬の背へ押し上げて、あとも見ずに、中山道《なかせんどう》を東へ急いでしまった――と花夜叉は語り終って、 「それが、藤夜叉であったか、人違いやら、いまもって分りませぬが、余りなふしぎさに、ちょうど御入国の途とうかがって、お知らせまでに、これにてお待ち申しあげておりましたようなわけで」  と、あとは道誉の顔いろを恐る恐るうかがうのだった。 「そんなことか」  道誉は、わざと、軽く聞きながした。彼にも、判断はつきかねる。それに藤夜叉のことも、この養父を前に、今はとやかく思い出したくもなかった。 「花夜叉。おそらく、それは人違いぞ。それに藤夜叉のことは、もう余り口沙汰するな」 「はい」 「わしも近ごろ忘れておる」 「は。さようで」 「身もいまは帰国でなく、鎌倉へくだる途中だ。村へ帰って、一座みな田楽に励んでおれ。そのうちにまた、伊吹ノ城へ呼んでやる」  道誉は彼をおき捨てて、すぐ街道の表に立ち、馬をよび、また一同へ出立を命じていた。  具行の輿や道誉の人数が、摺針峠《すりばりとうげ》へかかったのは、次の日だった。 「朝のま、涼しいうちに」  と、早めに出たが、鳥居本《とりいもと》では、はや汗まみれな、喘《あえ》ぎ喘ぎの人馬であった。  きのうからの降り足らぬ雨雲が、なお醒《さめ》ヶ|井《い》や伊吹の山地を閉じていて、むしむしする。かと思えば、六月半ばの陽がカンとつんぼ[#「つんぼ」に傍点]になりそうなほど照りつけて、馬さえうごきたがらない。  それもやっと、番場の立場《たてば》へ近づいたころだ。峠の上から、 「殿っ」  と、馬をとび降りて駈けよって来たふたりがある。道誉の留守城、伊吹の家臣らであった。  二人はすぐ、道誉の馬前に、ひざまずいて告げていた。 「火急のことゆえ、お途中と存じましたが、これまで、駈けまいってござりまする」 「何事がおこったのか」 「昨夕、鎌倉どのの御上使が、お着きでした」 「なに、執権殿のお使いとな」 「さればで」 「いかなる御用で?」 「さ……。その儀はまだ何も」 「いや、道誉にも会わぬうち、公命の内容を、そちたちへ語るわけもなかった」  自問自答、いつになく、彼は顔いろを騒がせた。なにか、とむね[#「とむね」に傍点]を突かれたふうでもある。 「して、御上使は、どこにお待たせしてあるの」 「昨夕、柏原《かしわばら》からすぐ城内へお迎え申そうと存じましたが、いずれ一両日には、佐々木殿がここを通過するはず、ここで待つとの仰せゆえ」 「では、柏原の亭にお泊りか。またその上使は、誰と誰?」 「糟谷孫六《かすやまごろく》どのと、三島新三《みしましんざ》の御両所にござりまする」 「糟谷道教《かすやどうきょう》の子、孫六がお使いか。これは、容易なるまい」  語尾は口のうちだった。 「すぐ、行く。――ご上使へ、先ぶれしておけ。また輿の同勢は、あとから来い」  列を残して、彼もまた、一ト足先に、そのまま柏原へ駒を飛ばした。  柏原は、番場からも、伊吹ノ城からも遠くない。つまり佐々木家の城下であり、彼の下屋敷といっていい一館もある。  で今夜は、下向の途中ながら、そこでは、ゆるりと、くつろぎも出来ると予定していたのである。――思わざる執権の上使が待っていようとは、まさに寝耳に水だった。 「そも、なんの急命か?」  上意の何かによっては、一身の大危機が、そこに来ているのかもわからない、と考える。  自分への高時の信寵《しんちょう》は、いまでも変らぬものとは自負するが、北条一族人のすべてが、自分へ好意的なわけでもない。  わけて、高氏のごときも在《あ》る。また、幕府へ讒訴《ざんそ》しようとならば、いくらでも、身に覚えはないともいえない。で、道誉のひたいには、この一|刻《とき》、しんから生命のしたたらす油の汗が光っていた。  下屋敷へつくやいな、彼は、上使の前へ出て、さっそくに平伏した。 「道誉、ただいま下向の途中を、これまで、参ってござりまする。御上意、何事にございましょうか」  ここへ鎌倉の急命とは、一体、何であったのか。道誉は、 「上意、かしこまってござりまする」  と、その場でお受けし、やがて奥から退がって来た。  上使の糟谷孫六、三島新三のふたりには、一刻の猶予《ゆうよ》を乞うて、彼だけふたたび、門外へ出て来たのだった。  その眉には、 「……まあ、よかった」  として、一時の恐惧を、ほっと涼風に払っていた。  ここは自身の城下だけに、ここで鎌倉の使節が待ちうけていたなどは、いい辻占《つじうら》ではない。ひょっとしたら、自分への切腹申し渡しかとさえ、いやな胸騒《むなざい》に慌てたのだった。  しかし、上使から高時の台命をきいてみると、やはり凶《きょう》は凶であったが、自分の上に降りかかって来た凶ではなかった。  すなわち、執権奉書《しっけんぼうしょ》の文言どおりに言いわたされた口上というのは、 [#ここから2字下げ] 前《サキ》ノ源中納言北畠具行ハ、先帝ノ帷幄《ヰアク》ニカクレ、天下ヲ禍乱《クワラン》ニ投ジタル逆謀ノ首魁《シユクワイ》タリシ事、スデニ歴乎《レツキ》タリ。 護送ニ及バズ、途上、ソノ居《ヲ》ル所ニオイテ、死罪ニ処セ。 [#ここで字下げ終わり]  と、いうのであった。  そしてなお、 「執刑《しっけい》は、佐々木入道道誉に申しつくる。なお道誉には、その儀、果たし次第、早々、鎌倉表へ身のみにて、罷《まか》り出《い》ずべきこと――」  とも両使は言った。  道誉の答えは、弾《はず》んでいた。遅疑《ちぎ》なく、お受けしたせつなに「おれは助かった」とする禍《わざわ》いの転嫁にほッとしていたのは、彼ならずとも、人間のあさましさ、ぜひがないともいえばいえる。  だが。  外の涼風に、再生の快を味わったすぐ後では、さすが、 「あの中納言が、それと、ここで知ったら、どんなに愕《がく》とするだろう。また、この道誉を恨むだろうか」  と、辛《つら》い立場におかれた自分に気がついて、なんともいえぬ当惑と、自己嫌厭に、ふっとその佇立《ちょりつ》はくるまれ出した。  おとといの晩、あの愛知《えち》川の長者の宿で語りあかしたときの、具行のよろこびようや、新しい希望に、涙まで垂れて恩を謝していた顔が――どうしようもなく、道誉の眼さきにつきまとう。  が、彼は、そんな蚊ばしらみたいな心の迷いを、しいて心で払いのけながら、 「……俗にもいうぞ、背に腹はかえられん、と。……はて、まだかな」  と、門に立って、街道の西を見ていた。――輿《こし》は、摺針峠《すりばりとうげ》の上で、あれから、一ト息入れてでもいたのだろうか、同勢、だいぶ遅れているらしい。  が、まもなく彼方に、列の先頭が見え出した。道誉は、それの近づくのも待ちきれず、馬の背にまたがった。  そして、自身からも、馬を駈けさせて、街道中で、列の先頭にぶつかるやいな、 「北へ折れろ。彼方の辻を、北の方へ曲がれ」  と、やにわに、指さした。  先頭は、まごつき、輿《こし》も人馬も、いちど通りすぎた町屋の辻の角まで、あとずさりに押し戻された。  近江の山、美濃ざかいの山、どっちを向いても山ばかりな駅路《うまやじ》だが、その柏原の街道を、北へ三、四丁ほど折れて行くと、さらに一つの山の山すそへ出る。 「よかろう」  道誉は、列へ、号令をくだした。  自身もサッと馬を降りる。 「その辺へ、輿をおろせ」  と、つづいて言った。  輿の内の北畠具行は、さっきから怪しんで、しきりに「……どこへ行くのか」と、警固の兵に訊いていたらしいが、もとより兵も知らないのである。――ここへ来て、命ぜられるまま、輿を、青芒《あおすすき》のなかへ下ろした。 「はて。ここは街道とも思われぬに、なんで?」  具行は、きのうも今日も、しごく快活に過ごしていたが、よほど不安に突かれたとみえ、板輿の内から顔をさし出して、 「道誉。……誰《た》ぞ、道誉をこれへ呼んでくれぬか」  と、言っていた。  けれど、馬の尻や、兵たちの汗の背が、彼の眼をさえぎッているだけで、たれも答えてくれる者すらない。  そのはずだった。  道誉の姿は、そこから百歩も彼方の、山寺の裏口らしい崩れ築土《ついじ》の蔭に、床几《しょうぎ》をすえ、民谷玄蕃、田子六郎左衛門などの、おもなる家臣と、何やら鳩首《きゅうしゅ》している様子なのである。 「よいか、六郎左」  道誉は、仔細を話していたのだ。そう念を押した上で、ふところから、自分がさきに受けた鎌倉の一状を取り出して、 「太刀執《たちと》りは、そちたちにまかせる。――まずこの執権《しっけん》の御奉書を読みきかせ、すみやかに、刑を執りおこなってしまうのだ。わしは近くでは見るにたえん。ここにいて、検分しておる。早くいたせ」  と、いいつけた。 「はっ。かしこまりました」  二人は、床几のまえを離れた。いつになく意気地のない主人と、妙な気もしないでなかった。――それに、おとといからの雷鳴り癖《ぐせ》が今日も遠くで鳴り出している。――全く風もハタとやみ、伊吹山の上半身は、厚い垂れ雲の幕に徐々と隠されてくるなど、太刀執りを命ぜられた者の気持ちも、決していいものではありえなかった。  わけても。  きのうあたりからは、たいへん、機げんのよかった中納言殿だったのにと思うと、彼らにしても、輿のそばへ立ったときは、ひとしい人間感に取り憑《つ》かれて、何とも、ことばが、切れなかった。しかし、 「上意ですッ」  言ったとたんに、玄蕃も六郎左も、武者そのものになっていた。 「源中納言殿。輿をお出なさい。御奉書を読みきかせる」 「なに」  具行は、彼らの語気で、すでに何かを感じたように、さっと、血のひいた顔をみせた。荒らかに、兵が輿の引戸を開ける弾《はず》みに、転《まろ》び出して、 「上意とは、何か」  と、草に坐って、聞き詰《なじ》ッた。 「されば、鎌倉どのの上意でおざる」  すると、具行は、憤然として、それを叱ッた。 「だまんなさい。源中納言は朝廷の臣だ。朝命なればわかるが、そのほかの上意などとは心得ぬ。ものは気をつけていうものぞ」  彼の反撥を食うと、かえって、仮借《かしゃく》は無用と、玄蕃も六郎左も、その傲岸《ごうがん》を、露骨にして、 「しゃらくさい小理窟を」  と、せせら笑った。 「朝廷朝廷と、公卿はいうが、そんな公卿念仏を、たれが今どき、ありがたがろうか。――事ごと、鎌倉殿の下に、からくも、あがめられている飾り物の朝廷であろうがな。おれどもは、武士だ。朝廷の禄《ろく》一ト粒食ったことはない武士だ。――四の五を吐《ぬ》かさず、つつしんでうけたまわれ」  と、圧倒し、 「上意っ」  と、かさねて言いかぶせた。  やはり具行は公卿だった。「――無知にはかなわん」といいたげに、そのまま口をつぐんでしまった。  とつぜん、伊吹の雲の破れから、冷たい疾風が、裾野をなぐッて、襟もとを打つ。俄に、晩のような暗さを見てのせいか、昼のきりぎりすが啾々《しゅうしゅう》と啼き立ち、どこかでは遠雷鳴《とおがみなり》が、いよいよ空の形相を、具行の胸そのもののようにしていた。 「……前ノ源中納言具行ハ」  玄蕃は、執権奉書を披《ひら》いて、彼への、死罪の申し渡しを、高々と、読み出している。  一句一句、声を張っても、声は風にちぎられて飛び、雷鳴に消されがちだった。 「……以上」  と、彼がむすんだとき、 「この上は、お覚悟を」  と、ややいたわり気味に言ったのは、田子六郎左の方だった。すぐうしろの、まろい小丘の一本松を指さして、 「ここは背も埋《うず》む萱原《かやはら》。あれまでお運びたまわれい。おなじことなら、ご最期《さいご》には、人の聞えにも、おすずやかがよろしゅうおざろう」  と、うながした。  しかし、なかなか起つ容子もない具行だった。今にして、悔やまれもし、恨みはつきない。  すでに、相坂《おうさか》ノ関《せき》を越えたとき、死は、覚悟して出たのである。だのに道誉は途中で、自分へ再生の望みあるを、ささやいた。自分は正直に狂喜した。そして彼も一味の士と信じて、何もかも打ち明けた。十年の知盟と交わすように、酒杯をかたむけ合い、たとえ半夜ながら、刎頸《ふんけい》の友を契《ちぎ》ッた仲ではないか。  その道誉は、どうしたのだ。どこにいるのだ。  姿も見せない。  一たん、覚悟した自分を、死にたくないと、叫ばしておいて、這奴《しゃつ》め、どこへかくれたのか。 「……武士ども」  具行は、容易に処理のつかない未練と怒りを、眸にもキラキラさせて。 「道誉はなぜ見えぬか。かりそめにも、源中納言を刑するに、雑武者《ぞうむしゃ》の手をもってする法やある。――道誉にまいれと申せ」 「まず、お立ちなされ」 「いや、参らぬうちは、動かぬ」 「立たぬとあれば」 「下郎《げろう》ッ、何とするッ」 「ぜひもおざらん。松の下まで引ッ立てる」 「やあ、理不尽《りふじん》な。道誉にも会わさず、ムザと刃《やいば》を下《くだ》してみよ、その刃へ噛《か》みついて、なんじらの頭上へ、呪いの雷《いかずち》を呼び降ろしてくれるぞ」  すさまじい叱咤《しった》なのだ。またそれを疑わせぬかのように、青白い稲妻が武士たちの影にひらめいた。  丘の一本松の下には、さっきから、一枚の蓆《むしろ》が展《の》べてあった。具行を斬るための支度である。  その蓆が、吹き起されたとおもうと、生き物みたいに、風をはらんで、遠くにいた道誉のそばまで飛んで行った。  道誉は大ゲサな恟《すく》みをみせて、はッと振り向いたが、 「なにしておるのだ」  と、すぐ彼方の群れへ、眼を戻して、 「玄蕃と六郎左へ、早くいたせと申して来い。いまにも、大夕立になりそうだわ」  床几脇《しょうぎわき》の一人へいったが、逆にその玄蕃が、強風の中をこッちへ泳いで来るのが見えた。 「どうしたっ。玄蕃」 「殿っ。手におえませんっ」 「何が手におえん?」 「身は朝廷の臣、その源中納言を刑するに、道誉が顔を見せぬという仕方やある。道誉に一言すべきことあり。道誉参れと、猛《たけ》り叫んで、うごきませぬ」 「しゃっ、吠えさすな。かまわん、うごかぬなら、その場で行え」 「ところが」 「なにを惑《まど》う?」 「容易ならぬことを口走ります。斬らば斬れ、道誉も死の道づれにいたすぞと」 「ばッ、ばかな」 「いや、無態《むたい》も相なりません。兵どもに聞かれるのは、まだしもですが、そこらの山寺の僧や雑人《ぞうにん》どもが、はや、何事かと知って、あわれ、北畠ノ源中納言でおわすぞよと、ものめずらに、寄りたかっておりますれば」 「いわぬことか。暇どるからだわ。――して、往生ぎわの悪い中納言が、いったい何をば、言い散らすのか」 「あたりの僧や里人へ、身の末期《まつご》を見とどけよ、と申すかと思えば、ここで道誉と会わずとも、百日の間には、必ず道誉と、冥途《めいど》にて会わん、などと恨みをほざきおりまする」 「そういうのか」 「そう言います」 「いやなやつだなあ」 「でなくてさえ、ご嫌疑中の殿のお立場、この上不利を叫ばせては、人の聞えも悪かろうと、そこを惧《おそ》れて、六郎左が今しきりと、なだめているところでおざりまする。……いかがなされますな」 「では、源中納言、少しはおちついている様か」 「殿を、お呼びしてまいると、なだめおきましたので」 「たわけめ」  道誉はもう歩き出している。歩きながら、風の中で、言い散らしていたことばだった。 「それでは……行くしかないわ……ぜひもない……僧になったつもりで……引導《いんどう》をわたしてやる」  やがて、近づく道誉の姿を見つけると、具行は、青芒《あおすすき》の戦《そよ》ぎの中で、ただ一つの戦《そよ》がない趺坐《ふざ》の石仏《せきぶつ》のごとく、硬直して、きっと相手をにらまえていた。 「…………」  道誉は眼をそらした。  もちろん、意識的であるが、そうは見えないほど自然に、周《まわ》りにいる兵以外の顔を見まわして、そのうちの山寺の僧たちへ、なに事かを、低目な声でいいつけている。  それから、やおら、仏《ほとけ》ずきな老婆が、野の石仏でも拝むような恰好で、具行の姿の前に、ぺったりと、ひれ伏した。 「道誉っ。いやさ、似非《えせ》入道」  具行の眼光は、まるで灰色の闇にある燐《りん》だった。 「わしの顔が仰げぬのか。……いや見られまいわ。愛知川の一夜、そちは何とわしに申したか」 「はい」 「もし、姿を見せずば、わしはこの首へ、断刀をうくる一せつなでも、そちの腹ぐろさと、腹の秘を、天地へ叫んでやる気だった……」 「あいや、羽林《うりん》(中納言ノ別称)どの」  道誉は、かろくさえぎって。 「愛知川の夜も今も、道誉に変りはございません。もし、豹変《ひょうへん》のできる道誉なれば、執権の御奉書をかさ[#「かさ」に傍点]に、誇りこそすれ、何条、気の弱さなど見せて姿をかくしていましょうか。……道誉は気弱者、末期のおすがたを、拝すにたえないのでござりまする」 「…………」 「さるゆえ、御生害を仰ぐにも、市の人目の中で、辱《はじ》をお与えしてはならじと、家来どもにも申しつけ、自身は彼方の山寺に床几をおいて、蔭ながらのお念仏を誦《ず》しまいらせていたのでした」 「…………」 「しかも、ここの伊吹山下は、累代《るいだい》佐々木の領土です。思うに、京よりお身を預かり下って、鎌倉どのの御命《ぎょめい》よんどころなく、この地で、ご生害を見るなども、仏法でいう、先世《せんぜ》の宿業《しゅくごう》とやらでございましょうか」 「…………」 「つい、徒《いたず》らに遠くで不覚な袖をぬらしておりましたが、以てのほかなお怒りときき、動顛《どうてん》して、これへまいりました次第。……いやいや、とかく深いおことばなり、道誉のこころざしは、ここではちと申し難うござりますれば」  彼は立って。  また、後ろを見まわして。 「これ、里人たち。これは貴人のごさいご、興《きょう》じ見るものではないぞ。遠くへ散れ。また、兵どもも静かにここでひかえておれ」  それから、もいちど、具行へたいして、ていねいに身を屈《くっ》した。 「あの丘にて、心ゆくまで、お名残りを惜しませられませ。山僧に申しつけて、ただいま、筆墨をとりにやりました。さだめし、遺書をやりたいお心のうちの方々もおありでしょう。――せめては道誉がうけたまわって、後々にでも……」  一人の兵が、蓆を松の根がたへ敷き直しているのが見えた。  具行は、やっと、平常心をとりもどしたように、黙然と立った。――道誉のあとから、歩を運ばせつつ、謎を見るように、道誉の背を凝視していた。しかし、歩くしかなく、いまは観念の姿だった。  その数百歩の間にも、やむまなく、風がつよい。稲妻は、彼の弔花のようだった。やがて松の下へ、彼が坐ったと見えたせつなも、一|閃《せん》のいなびかりが、松のみどりを、ぱっと浮かせた。 「道誉。……愛知川の夜も、今の自分も、変らない道誉だと、申したな。その心底を、もいちど、死出のみやげに、たしかめおきたい。その本心を」  具行が問いかけた時である。ちょうど、山僧がそこへ届けて来た硯《すずり》、料紙を見て、これ幸いのように、道誉は言った。 「いやまず、ご遺書を先に……。ご辞世のお歌でも、一ト筆これに」  辞世をといわれて、具行はつい筆を持った。いや持たせられたといってよい。  彼はここで、もいちど、道誉の胸を存分きいてみたかった。いま死す自分へ、嘘をいう要はあるまい。ねがわくば、人を信じ、世を信じ、笑って死にたいと、あせっていたのだ。  しかし、ここへ来ると、道誉の態度はただ、死の介添人《かいぞえにん》として、刑の進行を努めるだけで、何も語ろうなどとはしない。 「万事休すか」  死の座は、無力の座だ。いやおうなしだ。とたんに、寸秒の刻々も、具行には、心ぜわしい。  直前の死が描き出す、幼時の父母のおもかげ、自分の少年時の姿、後醍醐もまだ帥《そち》ノ宮といっていた頃のお顔やら、あの人、この君など、数十年の宮廷生活が、回顧の電光《いなびかり》となって、あたまのうちに、明滅する。  惹《ひ》いては、 「隠岐の帝《みかど》さえ、ご息災《そくさい》なら、いつかはきっと」  と、遠くへ、祈りの目をあげた。  すると。――その眼の前には、忽然《こつねん》と、隠岐の荒海が近づいていた。いちめん、白い微粒な霧の怒濤が睫毛《まつげ》をふさぐほど押し流れて来たのであった。  伊吹も見えず、野も見えず、そして丘のぐるりに、十人ほどの黒法師の影が薄く立木みたいな裸足《はだし》姿を立ちならべて……何か、経文《きょうもん》を誦しはじめている。  経に和して、しきりな雷鳴が耳を打つ。それにつれ、誦経《ずきょう》も、だんだんに、高かった。 「道誉っ」 「はっ。ご遺書の、おしたためは、すみましたか」 「まだだ」 「ポツと、雨が襟を打ってまいりました。いざ、料紙の濡れぬまに」 「そこらの、読経の声は?」 「近くの山僧たちです。ご最期の手向《たむ》けに、集《つど》うて来たもの。無下《むげ》にも追えません。お心をなだめられ、彼らの往生《おうじょう》の偈《げ》を、受けておやりくださいまし」 「嘘をいえ! そちが迎えにやった僧侶だろう」  具行は、看破した。  だが彼は、道誉の二タ股を、嘲《あざけ》ると共に、自分の未練な姿にも、辱《はじ》を覚えた。  ――いやもッと覚悟を急《せ》かれたのは、とたんに、田子六郎左衛門の影が、袖ダスキを結んで、道誉のうしろから、抜《ぬ》き刀《み》をさげて、ツツとこっちへ歩いて来たことだった。 「待て!」 [#ここから2字下げ] 逍遥生死《シヤウシニセウエウス》 四十二年 山河一革《サンガヒトツニアラタマツテ》 天地洞然《テンチドウゼンタリ》 [#ここで字下げ終わり]  こう、一気に筆を走らせ、 「いざ、斬れッ」  と、筆を投げた。  そして、せつなの、一秒の生の昇華が、叫ばせていた。 「道誉! わしの血が、明日の天下を洗い、わしの声が、次代の雲を撥《はら》ってゆくのを、眼に待っておれよ。……あははは、とんだ道化者に会うて、死出の道草を食ったわ。六郎左とやら、源中納言の介錯《かいしゃく》は、身に過ぎるぞ。ありがたいと思うてせよ。仕損じるな」  彼が、身を正そうとするのも待たず、六郎左の太刀は、そのとき、一震の黒雲を破ッた雷獣のごとく跳びかかって、そこだけを、ぱっと赤い霧の飛沫《しぶき》としていた。  その後。  北畠具行の墓石は、江戸時代の頃まで、近江柏原の峠地蔵にあって、道行く旅人に弔《とむら》われていたと、古い紀行にはあるが、今は、どうなっていることか。  碑には、彼が行年《ぎょうねん》四十二で、ここに斬られた命日を、  元弘二年六月十九日  と、あったという。  それから数えて、佐々木道誉が、幕府の上使糟谷孫六、三島新三らと共に、鎌倉の府へ入ったのは、六月下旬とみて、まちがいはない。  そして、彼はさっそく、北条高時の前に出て、 「ご下命のまま、これへの途中、源中納言どのを、斬《ざん》に処しましてございまする。いさいは御差遣《ごさけん》の両使より、おききとりを仰ぎたく」  と、それの報告もし、また、身の嫌疑についても、高時のいちいちな訊問《じんもん》も待たず、我から、釈明にこれ努めた。 「そうか。いやさようか」  終始、高時は、彼のさわやかな弁に、こッくりしていた。  ここ柳営の台閣にばかりいて、久しく道誉を見てないうちに、彼の耳にも“反道誉”の声が、だいぶ入っていたらしい。  わけて、道誉が近ごろ怪しいと風説されて、もっぱら帰還の諸将の間から、彼の二心が、とかくいわれる段になると、 「うぬ。忘恩の徒……」  高時の怒りは、一時、尋常ではなかったらしい。  すぐ、その頃から、道誉召喚の議もあったのだが、折ふし道誉は、先帝の島送りで、出雲の途中にあったので、その帰洛をみるやいな、閉門の令が飛び、つづいてこんどの“召下《めしくだ》し”となったものである。  だが、道誉にたいして難題とみられていた源中納言の処刑も、神妙に仕果たして、これへ出頭してきたのを見ると、高時はもう「うい奴[#「うい奴」に傍点]」と、彼をながめ「……まこと、宮方へ心をよせている者なら、宮方随一の公卿をば、斬れといわれても、斬れないはずだ」と、疑いの半ばは、すでにはらしていたものだった。  しかし、いかに道誉が、その弁舌と、しおらしさとで、高時の寵《ちょう》を、いぜんのとおりに取りもどしても、それだけではなお、事はすまない。  評定所というものがある。  その幕府機関へも、彼はいくたびとなく喚問された。彼を、正体の知れない、 「鵺《ぬえ》だ」  と、いっているのは、ほとんど十目十指で、北条一族と重臣のみで構成されている評定所衆は、ここぞとばかり、ずいぶん彼のいたいところを突いたつもりでいじめつけたが、道誉の言い開きにはすきもなかった。――しかもあくまでその態度は柔軟《じゅうなん》でまた神妙なため、 「やはり噂は、諸将のざんそ[#「ざんそ」に傍点]にすぎぬものか」  と、結局は、何一つ、罪名とするかど[#「かど」に傍点]などはつかめなかった。それにまた高時の寵《ちょう》もあるのが分っていては、手もつけられない。  こうして、夏から秋への、  七、八、九月  は、またたくすぎ、いつか道誉の姿はまた、鎌倉の秋風と共に、いよいよ多事多端《たじたたん》な柳営の中で、誰よりもお覚えめでたく、相模入道高時のそばには、なくてはならぬ人間みたいになっていた。 底本:「私本太平記(三)」吉川英治歴史時代文庫、講談社    1990(平成2)年3月11日第1刷発行    2008(平成20)年3月3日第25刷発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:門田裕志 校正:トレンドイースト 2012年11月7日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。