鳴門秘帖 木曾の巻 吉川英治 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)碓氷峠《うすいとうげ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)本郷森川|宿《じゅく》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)⾅ ------------------------------------------------------- [#3字下げ]送り狼[#「送り狼」は中見出し]  未明のうちに、本郷森川|宿《じゅく》を出たお綱と万吉とが、中仙道をはかどって、もうそろそろ碓氷峠《うすいとうげ》の姿や、浅間の噴煙《けむり》を仰いでいようと思われる頃、――三日おくれて、同じ中仙道の宿駅に、三人づれの浪人を見ることができる。  それが、例の、お十夜と、一角と周馬であった。  こん度の旅は、無論、お綱と万吉のあとを追って、そのうえに、法月弦之丞《のりづきげんのじょう》を刺止《しと》めるまでの目的だろうに、わらじ、野袴《のばかま》、編笠《あみがさ》という、本格の支度をしているのは天堂一角だけで、周馬は笠なし、お十夜は、笠もわらじも嫌いだといって、素《す》のまま着流しに草履ばきという風態《ふうてい》。  まだ軽井沢ぐらいはいいが、それから先の和田峠、猪《い》の字《じ》ヶ原の高原、木曾の⾅所《せっしょ》などへかかったら、どうする気だろうと思われるが、小手調べの碓氷峠でも、さして難儀な顔もみせないところは、お十夜も周馬も、旅にはひとかどの見識をもつものとみえる。 「はてな? ……まさか、おれたちの行く道が見当違いをしているのじゃあるまいな」  上田の城下へ入る前に、追分《おいわけ》の辻から佐久《さく》街道へ折れて、青々とした麦畑や、菜《な》の花《はな》に染め分けられた耕地や森や、千曲《ちくま》の清冽《せいれつ》などを見渡しながら、フイに、お十夜がこう言いだした。 「なぜ?」  と、ふりかえったのは天堂一角。  根岸の闇で、法月弦之丞にやられた太刀傷《たちきず》が致命にいたらなかったまでも、かなり深傷《ふかで》であったとみえて、いまだに左手を首に吊っているのが、いかにも暴勇な剣客らしく目立って、往来の者が必ず、ふりかえってゆく。 「冗談じゃアねえ」  と、お十夜はふところ手で、 「もう江戸から四十里余り、三晩も泊りを重ねているのに、行っても行っても、万吉とお綱の姿が先に見当らねえじゃアねえか」 「そのことなら心配は無用だ。まさかに使屋の半次が、口から出放題なことを言いはしまい」 「それなら、もうたいがいに追いついている筈だが」 「イヤ大丈夫。実は小諸《こもろ》の立場《たてば》で念入りに聞いておいたことがある。ちょうど、きのうの朝立ちで、それらしい二人づれが、間違いなくこの街道へ折れたという問屋場《といやば》の話であった」 「ふウむ……そうか。すると今のところで、日数にしてたッた一日、道のりにして小十里しか離れていない勘定になる。それじゃ、もう一息で追いつけるだろう」  と、お十夜の語気は、景趣の変化につれて旅らしい軽快をもってきたが、周馬は、いっこう面白くない顔で、どこかで折った桑の枝を、杖とも鞭《むち》ともつかずに持って、一番あとからおくれがちに歩いてくる。で、一角が、 「一服やろうではないか」  千曲《ちくま》の板橋を渡るとすぐに、日当りのいい河原蓬《かわらよもぎ》へ腰をおろすと、 「よかろう――少し時間は惜しいが」  とお十夜も煙草入れを出して、きれいな玉石を床几《しょうぎ》にとった。 「まだまだ先は永いから、そうあせるには及ぶまい。おい、旅川氏《たびかわうじ》」 「なんだ」 「少し休息してまいろう」 「さようか」 「貴公、あまり旅を好まぬとみえる」 「旅は好きだが、どうも、こんどの旅ははなはだ面白くない。人間の感情は正直だ、アテのない道かと思うと一日に十里の旅は楽でない」 「これは頼もしくない言葉。なぜ、今度の旅にアテがないと申されるか」 「孫兵衛や貴殿はいい。しかし、この周馬にとってみれば、こうまでしても、万吉や弦之丞を殺さねばならぬという必要がない」 「ばかなことを。墨屋敷《すみやしき》を焼いたのはお綱の為業《しわざ》でござるぞ。また、お千絵をああして奪ったのは万吉でござるぞ、よいか! そしてそれを傀儡《かいらい》したやつは法月弦之丞ではないか。それでも貴公は、きゃつらに何の怨みもないか! いやさ、吾々と力を協《あわ》せて、その怨《うら》みを思い知らせてやるという気が起こらぬのか」 「どうも大して起こらぬなあ」 「ちイッ。ぶ、武士らしくもないッ」 「お千絵といい、墨屋敷の財宝も、今ではみんな幻滅となってしまった。その揚句《あげく》に命がけで、万吉や弦之丞を狙ったところで、何の埋合《うめあわ》せにもなりはしない。拙者はもうここでお別れいたすよ。江戸へ帰って寝ていた方がはるかまし[#「まし」に傍点]だ」 「その無念を晴らすがいいではないか。その怨みを!」 「でも――親の仇《かたき》ではないからなあ」  周馬が歪《ゆが》んだもの言いぶりに、一角はムッとなって、 「だれが親の仇だといった?」  煙管《きせる》を片手にもって立ち上がった。  相手が、胸板へ迫ってきた血相に、周馬は少し言いすぎたことを後悔したが、行きがかりとなった唇は心と反対に動いて、 「うわッ面《つら》なあげ足をとるな! それまで深い遺恨《いこん》はもてぬといったまでの分《ぶん》ではないか」 「ばかなッ」と、一角はそれを睨み返した。 「では、なぜ、江戸を立つ前にそういわぬか。ここまで来た旅先で、面白くもないケチをつける奴だ」 「ケチはつけんよ、ただ旅川周馬一個人の立場について言明しているのだ」 「臆病風《おくびょうかぜ》にさそわれてきたのだろう。江戸表にいるうちは、貴様も吾々と合体《がったい》して、どこまでも、法月弦之丞を討《う》つと誓い、また、万吉も生かしてはおけぬと罵《ののし》っていたではないか」 「それは、そう思ったこともある。しかし、遺恨の怨みのというやつは、カッとなったときこそ真剣にもなれるが、明けても暮れても、いつまで火の玉みたいになってはおられない。ことにサ、旅になんぞ出てみると、よけいに冷静になるからなア」 「じゃアどうでも、吾々と目的を一ツにして行く気はないというのだな」 「オイ天堂|氏《うじ》。よく貴公は目的目的というけれど、これからお綱や万吉に追いついて、なお、弦之丞を討ったにしても、いったいその暁に、この周馬は何をつかむ勘定になるんだな? それが拙者には茫漠《ぼうばく》なのだ」 「勘定? ……フーム、すると貴様はなんだな、すべて最初から、打算《ださん》一方でかかっているのか。武士の意気地もなく、また、復讐の念慮もなく」 「だれが意気地ばかりで命がけになれるものか。早い話がお手前にしろ、お十夜にしろ、みな胸に一|物《もつ》ある仕事ではないか。――周馬にはその報酬がない」 「呆《あき》れてものがいえぬわい。まるで腐った町人根性、もうそんな似而非侍《えせざむらい》とつきあう要はない、いやならここから帰れ帰れ!」 「なんだ、帰れとは!」  周馬も少し目柱《めばしら》を立てた。  いくら武士の意地立てを軽蔑《けいべつ》している周馬でも、ここまで罵倒《ばとう》されれば存分だ。そして思わず左の手が鯉口へ行ってしまったので、いやでも右の肩が挑戦的に一角の胸に寄りつく。  カチカチと、河原の石で煙管《きせる》の首をはたきながら、お十夜孫兵衛、こいつアおもしろい、周馬と一角でぶつかり合って、どんな仲間割れを演じるか、やるまでやらしておいてみよう――という態度で、止《と》めもせずに、また葉煙草を悠々とつめている。 「なんだ、帰れとは!」旅川周馬、重ねて癇《かん》にふるえながら、 「万吉やお綱はとにかく、弦之丞を討つには、お十夜の腕でもまだ心細いから、ぜひ助太刀を頼むと、いんぎんに、汝《なんじ》が両手をついて頼んだからこそ同道してやったのだ。それを、帰れとはなんだ! 帰れとはッ」 「やかましいわッ。貴様も多少は頼み甲斐になる奴かと見そこなって、蜂須賀家の御事情まで洩らしたが、その性根《しょうね》を聞いていやになった。もう頼まん! 身どもと孫兵衛とできっと弦之丞を討ってみせる」 「オオ、そんなことは勝手にせい」 「いらざることを! トットと江戸表へ引っ返せ」 「誰が!」と周馬は、パッと袴《はかま》をはたいて、 「ウム、ここで別れてくれる」と、青筋を立てて歩きかけると、天堂一角、業腹《ごうはら》でたまらないように、つかんでいた銀延《ぎんのべ》の煙管を、周馬の横顔に叩きつけて、 「ふた股《また》武士めッ」とののしった。  その煙管が運わるく、小柄《こづか》のように、コツンと周馬のこめかみ[#「こめかみ」に傍点]を打ったので、さすがのかれも、そのまま後ろをみせて立ち去ることもならず、 「ウヌ!」  と腰の一刀を抜き払って、天堂一角の真眉間《まみけん》へ跳びかかった。  抜くまでの意気地はあるまいと、周馬の足元を、あまり見くびりすぎていたのと、左手の利《き》かないために、一角は不意をくらって、あッ――とうしろへ飛びかわしたが、大きな玉石につまずいて、よろりと腰を砕いたので、仆れながら片手払いにパチンと抜きあわせた。  お十夜はニヤニヤ笑って眺めていた、吸いつけた煙管を口にくわえたままで。  この勝負をほうっておいたらどうなるだろう?  天堂一角にして左手の自由がきけば、もちろん、勝目は問うところではないが、まだ繃帯《ほうたい》のとれぬ片腕が、よほど体のかけ引きを妨《さまた》げるから、そこに、かなりな力量を減退されるものとみなければならぬ。  一方の周馬はといえば、これは、太刀筋において、グッと劣るが、最初から、あらん限りな罵詈《ばり》を浴びせられた揚句《あげく》で、無茶にムラッとした途端の切《き》ッ尖《さき》であるから、ふだんの周馬の実質よりも、相当な強みを加えている筈だ。  とすると、この仲間われの斬合いは、まず一角六分、周馬四分の力とみて、いずれは双方斬ッつ斬られつ、相討《あいうち》に近いケリをつけるのがおちであろう。  闘鶏《とうけい》のカケ合せでも見るようにお十夜はこう考えて、冷淡に落ちついていたが、まさか、血をみるまでほうってもおけず、やッと二人をかき分けて、 「どうしたッていうんだ。周馬も一角も」  と、仔細《しさい》らしく仲裁に入った。 「イヤ、どいてくれ! お十夜」  こうなると周馬は一そう息巻いて、 「あまりといえば口の過ぎた天堂の言い分、叩ッ斬ってくれねば虫が納まらん」 「片腹痛いことを、なんで貴様のようなヘロヘロ武士に」  満顔を朱にして、一角も片手にかぶった大刀を下ろそうとはしない。その太い腕節《うでっぷし》にはみみず[#「みみず」に傍点]のような血管がふくれている。 「旅先で兄弟喧嘩はよそうじゃねえか。え、一角。オイ周馬」 「ム、しかし、周馬を無事に江戸へ帰すと、阿波の内密を吹聴《ふいちょう》いたさぬ限りもない。拙者は主君のお家のためにも、この二|股《また》武士を生かしてはおけぬ」 「まさか、いくら周馬でも、そこまで悪気がある訳ではあるまい。まア、このお十夜に任しておいてくれ、周馬の気持はよく分っている」  考えてみれば一角も、法月弦之丞という強敵をひかえている前に、一人の味方を失うのは得策でない。周馬も、一時、カッとした疳筋《かんすじ》の血が下がってみれば、もとより、好むところの斬合いではないので、不承不承《ふしょうぶしょう》に、イヤ、むしろホッとした気持で、お十夜の扱いに任せることになった。  で、その晩は、小県《ちいさがた》の下和田宿《しもわだじゅく》に着いて、いかがわしい旅籠《はたご》でいかがわしい女どもを揚げ、いかがわしい酒と肴《さかな》で、昼の仲直りということになり、酔《えい》がたけなわとなるに及んでは、周馬がいかがわしい三味線に合せて、怪しげな江戸唄の声自慢までやりだした。  これで、酔中《すいちゅう》の妥協もついた。だいぶ酔ったらしい天堂一角、振分けを解いて、今まで二人に示したことのない、蜂須賀阿波守のお墨付《すみつき》を出してみせたりした。  そして、天堂一角は、どういう胸算をもっているのか、大望《たいもう》を遂げて帰国すれば、蜂須賀家では屈指《くっし》な格式にとりあげられるのは無論のこと、やがてまた、幕府が仆れ蜂須賀家が将軍の職をつぐ日には、自分も、十万石や二十万石の大名に成り上がることになる。つまり、今はその階梯《かいてい》だと、すばらしい気焔をあげて、周馬やお十夜の欲望のあまりに小さいことを冷笑した。  その揚句《あげく》に、いよいよろれつ[#「ろれつ」に傍点]の廻らぬ舌で、 「だ、だから、貴公たちもすこし大きな慾を、か、か、かいたらどんなものでござる。……女! あはははは……女なんテ、ウーイ、女なんテ、ありゃ、男が畢生《ひっせい》の力をぶち込むものにはなりませんぞ。うふふふふ……ウソとお考えなさるなら、お十夜殿、アイヤ周馬先生、ど、ど、堂島へ出て、万金を賭して相場をやってごらんなさい。お、お綱だッて、お千絵様のことだッて頭から消えてしまう。イヤ、当然に消えてしまう!」  と、天堂一角、怖ろしく自信をもって、また珍らしくグデングデンに酔って、八|戒《かい》のように寝てしまった。  だが、そんな酔いどれの哲学に頓着なく、お十夜は、座の目ぼしい女をさらっていつのまにか別間へかくれ、周馬もそれに習って、お千絵様を夢みながら、お千絵様とは似もつかぬ飯盛《めしもり》と旅のふすまをひッかついだ。  翌朝は、三人とも元気に肩を並べて、霞《かすみ》の晴れるまに大門《だいもん》峠を越え、和田村をすぎて、やがて午《ひる》少し過ぎには、和田の大峠《おおとうげ》をのぼりつめた。  佐平治《さへいじ》茶屋で支度をすまして、やおら、立ち上がって日ざしをみた。まだ七刻《ななつ》にはかなり間がある。諏訪《すわ》泊りには楽な時間。  九|輪草《りんそう》の多い下り道を、少し大股になりかけると、削《けず》り落したような絶壁の下から、うねうねと渓谷《けいこく》に曲っていく道を、先に、話しながらいく男と女がチラと目に止まった。 [#3字下げ]山《やま》の俊寛《しゅんかん》[#「山の俊寛」は中見出し]  花が散る花が散る。  天女にも五|衰《すい》の相《そう》の悲しみはあるというが、花の梢《こずえ》は、いくら散っても散っても衰えないで、大地に空に、クルクルクルクル白光《びゃっこう》の渦を描いてめぐる。  これがほんとの朧夜《おぼろよ》というのだろう。  微風《そよかぜ》はぬるく耳をなでるが、耳を驚かす音とてはない。空も森も伽藍《がらん》も池も山門も、ありとあらゆる象《かたち》のものが、シットリとした水気《みずけ》をふくんで、錫《すず》の細粉《さいふん》でも舞っているように光る、ほのかな春月がどこかしらにある。  その明りもきわめて鈍く、目をみはればみはるほど、白毫《びゃくごう》の光が睫毛《まつげ》をさえぎるので、ここはどこかしら? と思い惑っているとかすかに一点の御灯《みあかし》がみえる。  アア、江戸で有名な、浅草の観音堂だな。  道理で、五重の塔がある、淡島《あわしま》堂がある。弁天《べんてん》山の鐘楼《しょうろう》がある。  オヤ、誰かきたらしい。  小さい娘の跫音《あしおと》だ。  なんという可愛らしい小娘だろう。一人かと思ったら、また同い年ぐらいな少女が後からくる。何しに今ごろ通るのだろう?  道づれなのか? 別々なのか? だが、どっちにしても、なんと似ている少女だろう。オヤ、いけない、二人ともに目がつぶれている、手探りで歩いている――アアあぶない、あんな方へ。  おいおい、そんな方へ向いてゆくとあぶないよ。  池があるよ。橋は向うだよ。  おーい。聞こえないとみえる。おーい。  空の模様が変ってきた。  花旋風《はなつむじ》にさらわれるなよ、通り魔に肌を切られるなよ。あれッ、盲の小娘はどうした? 盲の小娘は? どこかでヒーッと泣いているようだが……。  しまった。  とうとう池に落ちてしまった。ああ、溺れてゆく、もがいている。  誰か助けてやらないか、観世音《かんぜおん》はアレを救おうとしないのか、あの盲目《めしい》の小娘を見殺しにするのか。  いけないいけない、見るまに深いほうへ入ってゆく、アア悲しそうな顔を向けて――。や! しかも、しかも! あれは他人ではないぞ、わしの娘ではないか、オオわしの娘だ、どっちもわしの娘なのだ。  早く助けてやってくれい。  誰か――誰か。  わしはあすこへ行くことができない。  誰かいないか、人はいないか。  アア観世音菩薩《かんぜおんぼさつ》。  あれは私の娘です。  お千絵です――お綱です。       *     *     *  四国|阿波《あわ》の国第一の峻峰《しゅんぽう》、つるぎ[#「つるぎ」に傍点]山《さん》の頂《いただき》から一羽の角鷹《くまたか》が、バタバタバタと翼を鳴らして斜めに飛び、やがて、模糊《もこ》とした霞《かすみ》の底へ沈んで行った。  何かの音におどろかされて、甲賀世阿弥《こうがよあみ》は、ふッと、深い夢からさめた。  さめて、あたりの現実を見廻してみると、ここは江戸の観音堂でもなく、また花の散る朧夜《おぼろよ》でもなかった。  江戸の地から何百里を隔て、本土の国とは鳴門の海を隔てた阿波の国――。それも、海を抜くこと六千尺にあまるつるぎ[#「つるぎ」に傍点]山の洞窟《どうくつ》である。  チチ、チチ、と山千禽《やまちどり》のさえずりが聞こえるから、もう夜は明けているのだろうが、世阿弥の側には、魚油を点《とも》した火皿《ひざら》の燈心が、今のかれの命のように、心細く燃え残っている。 「ああ……」  と世阿弥は、夢の疲れを太く呻《うめ》いた。  この洞窟の中こそ、つるぎ[#「つるぎ」に傍点]山の間者牢《かんじゃろう》である。かれが十一年の春秋をくり返した阿波の山牢《やまろう》。  また今年も、雪が解けて、春がきて、木の芽が吹いた。そして、きょうという日の夜が明けたが、それは、世阿弥にとって何の希望を意味するものでもなかった。  深い洞窟の中は、三|間《げん》幅《はば》ぐらいな板敷となっていて、そこに、藺《い》ござ[#「ござ」に傍点]や獣皮が敷いてあった。  ぬらぬらと光って、生きもののような岩の肌からしたたる雫《しずく》が、冬は氷柱《つらら》となって剣《つるぎ》の天井となり、夏はポタポタと乳のごとく清水《しみず》を降らすので、いつか世阿弥が黒木柱を組んで、その上へ、柏葉樹《はくようじゅ》の葉をたくさんに葺《ふ》いておいたが、それも今では、真ッ黒に朽ちて、時折、氷より冷《ひや》やかな白玉《はくぎょく》を襟《えり》すじに落してくる。 「ああ、夢だった……」  やがて世阿弥はこういって、残り惜しそうな眼をあげた。  夢ほど楽しいものはない。夢はこの山牢を解放して、剣山から江戸までもさまよわせてくれる。今の世阿弥と現実の世の中との交渉は、ただ時折にみる夢だけに繋《つな》がれている。  やがて、かれは薄暗い岩窟《がんくつ》から外へ這《は》いだした。  そこには、何ものも萌《も》え立たせずにはおかない春の太陽が、らんらんと群峰の肩からのぼりかけていた。鵯《ひよ》、橿鳥《かしどり》、駒鳥、岩乙鳥《いわつばめ》、さまざまな鳥がその恵みを礼讃し、あたりの山草や植物も、かがやかしい芽《め》や花に力をみせて、世阿弥の瞳はクラクラとしてしまった。 「あ……」と、かれは、痛いように、両手を顔に当てながら、洞窟の前からトボトボと低地の水際《みずぎわ》へ下りて行った。十一年もの間、岩窟に起き伏ししていたせいもあろうが、その姿は、この世の人とは思われない。陽の前に立っても、かれには影がないようだ。  岩から岩へチロチロ流れてくる雪解《ゆきげ》の水に、世阿弥は、ガクリと膝をついた。藁《わら》でつかねた麻のような髪を濡らして撫《な》であげた。  そして、その清冽《せいれつ》に口をそそぎかけた時、かれは、意外な物を見つけだした。あわててうがいの水を吐いて、向うの草むら[#「むら」に傍点]へ飛びついた。  そこに四、五本の花梨《かりん》の木が生《は》えていた。秋から冬にかけて黄色い果実がつく頃には、この樹の実《み》がもつ特色のある芳香が、世阿弥をひどく慰めてくれるので、友達のような気がする樹である。今みると、その木の根にからむ雑草の中に、一本の、真新しい狩矢《かりや》が突っ立っている。  抜いてみると、矢羽はぜいたくな鷹《たか》の石打《いしうち》、やじり[#「やじり」に傍点]は槇《まき》の葉形のドキドキするものであった。それに錆《さび》がみえないところから察するに、つい、昨日かきょう[#「きょう」に傍点]の流れ矢であろうと思われる。 「ほ、また誰か、徳島城の者が、山へムダ矢を放ちにきているな……」  こんなことをつぶやきながら、世阿弥はそれをつかんで、洞窟の前へ戻ってきた。そして、日光に目を慣らしてから、改めて、その矢骨をズーと眺め廻していると、やじり[#「やじり」に傍点]二寸ほど上がったところに、沈金彫《ちんきんぼり》で蚤《のみ》のような細字。  竹屋《たけや》三|位《み》有村《ありむら》。  という切銘《きりめい》が読まれた。 「ああ竹屋……竹屋三位? ……」  かれにも記憶のある名とみえてややしばらく、それをみつめていると、どこかで明らかな人声がきこえだした。 「啓之助《けいのすけ》、啓之助」 「はッ」 「どうした? 意気地のない奴じゃ」 「イヤ、意気地のないわけではございませんが、さすがに、倶利伽羅坂《くりからざか》十八町を、ひと息に上ってまいったので、やや疲労をおぼえました」 「まだ、この上には一ノ森、二ノ森の嶮路《けんろ》がある。そんなことでは心細いぞ」 「いや、とんでもないことを」 「なにがとんでもないことじゃ」 「春とは申せ、まだ渓谷《けいこく》には雪があり、藤の森あたりはすこぶる危険でございます」 「ばかを申せ。きょうは是が非でも二ノ森を踏破して、お花畑の天《て》ッ辺《ぺん》から三十五社、蟻《あり》の細道、または人跡未踏という、剣《つるぎ》の刃渡り、百足虫腹《むかでばら》までも、越えてみなければ気がすまぬ」 「なんと仰せあろうとも、まだ五月にならぬうちは、これより上のお供はできませぬ」 「ではこのほう一人で登りつめる」 「また有村様の横紙《よこがみ》破りな。万一お怪我《けが》のある時には、この啓之助の落度《おちど》として、殿より御|叱責《しっせき》をうけねばなりませぬ。どうぞ、今日はこの辺で、ひとつ日置流《へきりゅう》のお手際《てぎわ》を拝見いたしたいもので」  朽葉《くちば》一枚こぼれても、カラカラとひびく山中の静寂《しじま》――、それはだいぶ遠いらしいが、世阿弥の耳へは怖ろしく近く聞こえてくる。  空谷《くうこく》の跫音《きょうおん》である。  世阿弥は耳をたてて、その人声のする方へ伸びあがった。  たいそう近くに聞こえると思ったが、その実在は遠くであった。かれのおる山牢は、一面の矮生植物《わいせいしょくぶつ》につつまれた、瘤《こぶ》のような地点だが、そこから見下ろすとズッと麓《ふもと》にあたる所に、ポチと、二個の寸影《すんえい》が立っている。 「お、あの人物だな……。だが、山目付《やまめつけ》でもないらしい? ……」とつぶやくうちに、世阿弥の姿が、ガサガサと樹木をわけて、その人影の方へ下って行った。  しかし、ある程度まで下りてゆくと、もうその先へは一歩も出られぬことになっている。  なぜかといえば、つるぎ[#「つるぎ」に傍点]山|覗《のぞ》き滝の深潭《しんたん》から穴吹川《あなふきがわ》へ落ちてゆく激流が、とうとう[#「とうとう」に傍点]と飛沫《ひまつ》を散らしている上に、その岩壁に添って、瘤山《こぶやま》の瀬をグルリと柵《さく》でめぐらしてあるからである。  つまりこの瘤山は、ひとつの山の離れ島をなしているわけだ。かれの終身間者牢は、この自然の地形と、人為の柵内とに局限されている上に、また、ここと麓《ふもと》の間には、三ヵ所の山関があって、たえず詰役《つめやく》の山番がいるから、どうしたって遁《のが》れだすことはできない。そしてその山見廻りは、麻植《おえ》、板野《いたの》の里あたりの原士《はらし》が交代で詰めることになっている。  甲賀世阿弥。  今――このつるぎ[#「つるぎ」に傍点]山の奥に、めッたにない人語を聞いたので、吾を忘れて、瘤山の柵ぎわまで駈け下りたが、別に、なんぞこれという目的があったのではない。ただ、その人影へ本能的に引きよせられたまでのこと。  ちょうど身の丈《たけ》ぐらいな這松《はいまつ》やつつじ[#「つつじ」に傍点]が、うまく体を蔽《おお》い隠したので、そのままジッと、柵の外を眺めていると、さっき倶利伽羅坂《くりからざか》の上にみえた二人が、依然と、はばかりない高声で話しながら、すぐ流れの向うへまできて、爼板岩《まないたいわ》の端へ腰を下ろした。 「啓之助、啓之助」  まるで、家来でも呼びつけるように、またそこでこういったのは、蜂須賀家の永居候《ながいそうろう》、竹屋三位卿であった。 「諦《あきら》めてやろう。それほどまでに頼むなら――」 「お、では、つるぎ[#「つるぎ」に傍点]山踏破のこと、お見合せ下さいますか」  と初めて、ホッとしたらしく答えたのは、阿波守、三位卿などとともに、昨年大阪表の安治川から、卍丸《まんじまる》でこの阿波の国元へ帰っている森啓之助なのである。  あの時、森啓之助は、脇船《わきぶね》の底に一個の長持を積んで阿波へ帰った筈だ。その長持の中には、たしかに、川長《かわちょう》のお米《よね》が隠してあった筈――。  さすれば、あの多病薄命なお米も、今はこの阿波の国の人となっている筈だが、啓之助は、そのお米の身をどう始末してしまったのか、人には、おくび[#「おくび」に傍点]にもそれを洩らしたことがない。  と――一緒に、あの時、かれは太守《たいしゅ》阿波守からいいつけられて、このつるぎ[#「つるぎ」に傍点]山の間者牢へ、俵一八郎と妹のお鈴を護送してきている。一八郎は、今なお、世阿弥のいる瘤《こぶ》山よりまだ奥深い、一ノ森の山牢へ封じこめてあるが、妹のお鈴は、この冬の寒気に凍《こご》え死んでいた。  で、啓之助は、以来、お船手方《ふなてがた》の役目をかねつつ、時々、このつるぎ[#「つるぎ」に傍点]山の目付役を仰せつかって、月に一度ずつは、必ず山牢の様子を巡察《じゅんさつ》することになっていた。  きょうも、実は、かれは山目付《やまめつけ》巡察の役目できていたのだが、そろそろ春めいてきたところから、食客の若公卿《わかくげ》、家中のもてあまし者、竹屋三位卿が、なんでも同行するというので、はるばる、徳島の城下から、山支度と狩装束《かりしょうぞく》できたのはいいが、日置流自慢《へきりゅうじまん》の竹屋卿の弓も、二、三日の小鳥追いに、あまり大した獲物《えもの》がなかったので、すぐに飽きてしまった。  飽きたら先に徳島城へ帰るかと、啓之助が放《ほう》っておくと、こんどは、まだ絶巓《ぜってん》には氷原《ひょうげん》もあろうというのに、蟻《あり》の小道まで踏破《とうは》しゆかねば、阿波守への土産話《みやげばなし》にならぬといいだして、駄々《だだ》な若公卿の本領を発揮し、さんざんに、啓之助をてこず[#「てこず」に傍点]らせてきたところであった。  だが、この山牢のある近い所までくると、さすがに、森厳な冷気と山気《さんき》があって、きょうは諦《あきら》めようと我《が》を折ったので、啓之助は、はじめてホッと安心した。  で、ご機嫌の変らぬうちに、よろしく下山をすすめようと思っていると、不意に、森々《しんしん》とした空気を破って、 「山番ッ、山番ッ、山番はいねえか――」  とはるかな上で、絶叫するものがあった。 「ヤ……?」  啓之助はハッとして、三位卿の顔をみた。三位卿も、木魂《こだま》につんざいた今の声に驚いて、爼板岩《まないたいわ》の上へ突っ立った。  と――また一声。 「山番ッ――」という叫びが、高い木立の奥でしたかと思うと、時鳥《ほととぎす》のように、それなり後はシーンとしてしまった。 「何かあったな? ……」  竹屋三位は、星でも占《うらな》うようにつぶやいた。 「この山に、異変のある筈がございませぬ」  啓之助が否定した。 「イヤ、今の最後の声に鬼気《きき》があった。誰か人が斬り殺されたぞ」 「それは気のせいでござりましょう」 「啓之助、お前は兵学に通じておらぬから、話せない。人が殺される間際《まぎわ》の五|音《いん》ほど明らかなものはないのじゃ。たしかに誰か殺されている。イヤ、誰かではない。今叫んだ声の主《ぬし》が斬られた……」  いいも終らぬ時だった。  真上の細道から、血まみれになった山番の下士が二人、バラバラと転《まろ》び落ちに下りてきた。三位卿の音声学もばかにはできない。啓之助は横顔を打たれたように、 「何事だッ」と、怒鳴った。 「おッ、お目付」 「ウム、いかが致した?」 「い、一大事です……」と息をかすらせたが、すぐ要領をいった。 「また、あの乱暴者が狂乱して、牢番の佐平の脇差を奪って斬り殺しました」 「えっ、斬った?」  と、おうむ[#「おうむ」に傍点]返しにせきこむ啓之助の言葉|尻《じり》を取って、三位卿は得意らしく、 「ム、斬ったろう!」と大きくうなずいた。 「で、どうした、彼奴《きゃつ》は?」 「佐平の声に驚いて、吾々が駈けつけてみた時は、もう柵《さく》を破っている切迫《せっぱ》で」 「ヤ、脱牢したか!」 「すわとばかり、組みつきましたなれど、なにせい、血刀《ちがたな》を持っている上に、いつものような死物狂い、とても、二人の敵ではなく、みるまにあの柵際《さくぎわ》から西谷《にしだに》へ向って、身を躍らせてしまいました」 「ば、ばか!」と森啓之助、口ぎたなく呶喝《どかつ》して、 「破牢して西谷へ飛び下りたのを見届けながら、空しく逃げ降りてくる奴があるか。合図|鳴子《なるこ》は何のために備えてあると思うのじゃ。うろたえ者め! 早く鳴子を引いて麓《ふもと》へ合図をしろ! 早く引けッ、鳴子をッ」 「おッ」  と、蹴飛ばされたようにはね上がって、 「そうだった!」と山番の一人、バラバラと彼方《あなた》の黄櫨《はじ》の木の下へ駈けだした。  ヒラリと、その喬木《きょうぼく》の下枝へ飛びついたかと思うと、猿《ましら》のようにバサバサと木の葉を散らして攀《よ》じ登った。  登りつめた八分目の梢《こずえ》に、タラリと、一本の藤蔓《ふじづる》がかかっている――、片手で幹に抱きついて、片手をそれへ伸ばした山番の下士が、力いッぱいグンと引くと、電波のような力のうねりが、喬木の梢から梢をへて、谷のあなたの山関へ届いた様子……。  かすかだが、物々しく、グワラグワラッと鳴った合図の音響が返ってくる。  下に立って、仰むいていた啓之助は、それを聞きたしかめて下りようとする上の者を、 「待てッ」と手をあげて制止した。 「待て! そして、しばらくそこで様子を観望しておれ」 「は!」と、虚空《こくう》で返辞をする。 「見えるだろう、鞘橋《さやばし》の木戸が」 「うかがえます――、只今の鳴子合図に、手配の人数が動きだしました」 「ム、鬼淵《おにぶち》の間道《かんどう》のほうは?」 「よく見えませぬが……」と樹上の居場所をかえて手をかざしながら――「オオ、駈け向ってゆきました、原士《はらし》の方が十四、五名」 「鷭《ばん》の平《たいら》には?」 「見張が立った様子です」 「よし!」と森啓之助、うなずきを与えた。そして三位卿をかえりみながら、 「もう大丈夫――天魔鬼神でもこの山から踏みだすことはなりませぬ」と笑《え》みをみせた。 「脱走を企てたのは何者か」 「御存じの、俵一八郎でござります」 「ウム、あれか」  三位卿は、安治川屋敷の雪洞《ぼんぼり》と、阿波守が手に持った、ほたる[#「ほたる」に傍点]斬《ぎ》り信国《のぶくに》の光を想い起こした。 「森様――」とまた、樹上から樹下へ、物見の山番が呼びかけた。 「おウ、なんじゃ」と、声に応じて振りあおぐ。 「見つけたらしゅうございます。俵一八郎を、八方から一ヵ所へ、ワラワラと人数が集まって行きました」 「そうか。手もなく捕えてしまったのであろう。では降りてもよろしい」と命令した。  で、啓之助は、すっかり不安を一掃したらしく、岩の上へ腰を下ろして、三位卿へ話を向けなおした。 「あなた様もご承知でございましょう。鳩使いの天満浪人《てんまろうにん》、俵同心と申した奴で」 「知っている。安治川のお屋敷へ妹を棲《す》みこませていた者じゃ」 「その妹の鈴も、この剣山に同獄しておりましたが、極寒《ごっかん》のうちに、凍死してしまいました。それ以来、一八郎め、ほとんど、野獣のように荒れ狂って無謀な脱走をくわだてますので、特に、山番二人と牢番一名をつけておきましたが、またもやこんな騒ぎをしでかしました」 「自暴自棄《じぼうじき》になっているのだ」 「この分では、ただの山牢では不安心ゆえ、改めて、前神《まえがみ》の森の石子牢《いしころう》へぶちこんでくれましょう」 「それほど手数のかかる奴なら、なぜひと思いに、首を打ってしまわぬじゃろう」 「隠密は斬るな、終身山牢へ入れて鳴門の向うへは返すな、間者を斬ると徳島城へ祟《たた》りをする――というのは、義伝《ぎでん》様以来、破れぬお家の掟《おきて》でござります」 「そうそう、大阪表におった頃、そういう話を阿波殿の口からも聞いたことがある。そのために、十一年余りも、この上の洞窟に封じ込まれている甲賀世阿弥、あれはまだ存生《ぞんしょう》でいるのか」 「生きているというのも名ばかり、まるで、うつせみ[#「うつせみ」に傍点]かまゆ[#「まゆ」に傍点]を脱《ぬ》けた蛾《が》のように老いさらぼうておりまする」 「道理で、この柵の中から上は陰森《いんしん》としているな」と、その世阿弥が、流れをへだてた向うの柵ぎわに、ジッと身をかがめているとは知らずに、三位卿、なに気なくふりかえった。  その眼を避けようとして、世阿弥はあわてて身を引っ込めたが、おおいかぶさっていた山笹《やまざさ》やつつじ[#「つつじ」に傍点]の葉がガサガサと動いたので、 「や、何者か?」  と三位卿、身を屈して流れのうちから向うを睨んだ。  啓之助もズーと柵ぎわを見渡したが、格別、異状がないので、気にかけずに、 「山鳥か何ぞでござりましょう」と打ち消すと、 「おお、あんな所に」 「何をお見つけなさりました」 「わしが昨日《きのう》射《い》た流れ矢の先がチラと見える」  という声を聞いて、隠れていた世阿弥はハッと思ったが、もうなおのこと身を動かすことはできない。 「あれは秘蔵の鷹の石打《いしうち》じゃ。あとで誰かに流れを越させて、拾っておいてくれるように」 「承知いたしました」と、啓之助が答えるのと一緒に、竹屋三位、不意に、ヤッと叫んで小手をひるがえした。矢羽の先が浮いている木の葉の中へ、小柄《こづか》を投げて試したのだ。  それでも、何のそよぎもしないので、かれは初めて心をゆるしたが、小柄を打ったはずみに、己《おの》れのふところから金襴皮《きんらんがわ》の料紙入れが落ちて、ズズズと岩の間へ辷《すべ》りこんだのを知らずにいた。  倶利伽羅坂《くりからざか》の方から、にわかに、殺気だった人声がしてくる――。  精悍《せいかん》な装いをした阿波の原士《はらし》の十数人、一人の武士の両腕をねじとって、無二無三に引きずり上げてきた。それは脱走をもくろんで捕われてきた俵一八郎。見違えるほど痩せ細って、頬骨《ほおぼね》は尖《とが》り、目は青隈《あおぐま》をとったよう、眉間《みけん》にも血、腕にも血、足にも血……。ふた目とみられぬ姿である。 「お、来たか」と森啓之助、バラバラとそれを迎えながら、 「いく度となく山を騒がす憎ッくい奴、こんどは前神の石子牢《いしころう》へぶちこんで、身動きのならぬように致しておけ」 「石子牢? 合点です!」と、あけび[#「あけび」に傍点]蔓《づる》を輪にして提《さ》げていた一人の原士、流れへ寄ってザブザブとそれを濡らし、ピューッと手でしごいて紐《ひも》のように柔らかくしたのを、「それッ」と向うへ投げてやった。  歯がみをしながら俵一八郎、見るまに、あけび[#「あけび」に傍点]巻きにされてしまった。その水気が乾くに従い、蔓《つる》は針金より固くなって、一|分《ぶ》一分肉へ食いこんでいく一種の呪縛《じゅばく》だ。  柵の向うでは、甲賀世阿弥が、息を殺してこの無残さを眺めていた。かれの太股にも鋭い小柄が立っていた。――だが、今はそれを抜くだけの微動もゆるされない。世阿弥は、流れる血さえない傷口をおさえて、ジッとこらえつめていた。  阿波の国だけにあった特殊な武家階級、原士《はらし》という一族の中には、その頃までも、殺伐な野武士の血が多分に遺伝されていた。  蜂須賀家の家来であって、家来の束縛《そくばく》はうけていないし、無禄《むろく》の浪士に似て浪士でもない。いわば、山野へ放ち飼いにされていた客分である。  領主の田数帳《たかずちょう》にある以外の山地は、どこでも、かれらの自由所領とされていた。だから、かれらは決して城下に屋敷をもっていない。みな、阿讃山脈《あさんさんみゃく》の根から、四国三郎の流れに沿った奥深くに、土俗風な門戸を構えている。  その中には戦国以来の旧家もあり、天草の残党だという家もある。山を伐《き》り拓《ひら》いて吉野川へ流す材木や、南国的な花の咲く長順煙草《ちょうじゅんたばこ》などは、かれらの所領を富ますものであった。それでいて、皆ひとかどの武術に長《た》け、スワ城下に喧嘩でもあるとかいって、猛然と、かれらの群が、吉野川の流域を下る時は、ほうふつ[#「ほうふつ」に傍点]として古《いにしえ》の野武士だ。  その、気の荒い原士たちは、なんらの仮借《かしゃく》なく俵一八郎を引ッ立てて、前神の石子牢へぶちこんでしまった。石子牢というのは、一種の風穴《かざあな》で、穴の奥から冷たい風が吹いてくる上に、あたりの断崖からは、夜も昼も、たえずザラザラと小石の降る音がしている。  一八郎をその中へほうり入れると穴の口へは、大石や小石をかこってほんの食物を投げ込まれるだけの余地を残した。これでよし、と森啓之助は、竹屋三位卿を促《うなが》して、その日は麓《ふもと》へ下りてしまう。  翌日から、山はまた終日シンと静まり返っていた。石子牢に狂う一八郎の叫びも聞えなくなった。  一日ごとに、太陽の熱度が昂《たか》くなって、木や草ばかりがズンズンと伸びていった。静中の動、なんらかの力がそこに鬱《うっ》している。  だが――山は静かだ。  鬼気をひそめて静かである。  ところが、ここに不思議な現象が起こりだした。といっても、世間の巷《ちまた》とは違うから、そう大した異変ではないが、この山としては少なくもひとつの変った現象には相違ない。  それは何かというと、あれ以来、世阿弥の様子がにわかに生々《いきいき》としてきたことだ。かれは、竹屋三位の小柄《こづか》が自分の太股に深く突き刺さったにもかかわらず、山牢の前へ這い戻って、ニヤリと、十一年目といってもいい独《ひと》り笑《え》みを洩らしたのである。 「初めて知った……。ウーム、この山には、自分の他《ほか》に、まだ一人の同志がいる……。何といったっけ、オオ俵一八郎、俵一八郎、かれはたしかに大阪表の天満組《てんまぐみ》同心だ。あの様子では、ごく近ごろに、この山牢へ送りこまれてきたらしいから、さだめし、その後の消息に通じているだろう。なんとかして、あの一八郎と一度話をしてみたいものだ」  こういう希望が燃えだしたのである。希望は生命《いのち》の火のようなものだ。希望のうすれる時には人は老い、希望の赫々《かっかく》とする時には人は若やいでくる。  世阿弥は小柄《こづか》の傷を癒《いや》すために毎日、薬草の葉をムシっては、青い草汁を傷口へなすりこんだ、そして柵《さく》から脱けうる方法と場所に苦しんでいた。  ひどく山の荒れた晩があった。翌朝みると、一本の山栗の大木が、柵をくずして仆れていた。山番の者がそれを繕《つくろ》いにこないうちに、かれはその朽木《くちき》を引き入れて、草むらの中に隠しておいた。  春の夜も、山荒れのあと二、三日は、冬のような月の冴《さ》え方をしていた。世阿弥は真夜中ごろになって、獣《けもの》のように、間者牢から這いだした。  かれは、青白い月魄《つきしろ》をあびて、鬼のように働いた。やがて柵に攀《よ》じて外へ辷《すべ》り出したかと思うと、世阿弥は、隠しておいた朽木を激流の岩に架《か》けて、飛沫《しぶき》のかかる丸木の上を這って渡った。 「俵殿、俵殿……」  やっと尋ねあてた石子牢を覗《のぞ》いて、こう呼んだのは世阿弥である。パラパラパラパラ崖《がけ》から小石が降っている。その断壁面《だんぺきめん》の荒い岩肌に、藤の森から青い月がさしていた。 「一八郎殿……」と、もう一度、石と石との間をかき分けて、世阿弥が声をかけるとややあって、 「うウ……、た、たれだ!」  と風穴の中で物音がした。――物音はしたが、一八郎もこの深夜に訪れたものを深く怪しんだとみえて、めったに穴口へ顔を寄せてこない。 「俵一八郎殿……。わしは甲賀世阿弥と申すものでござる。阿波の者ではござらぬ。十一年以前からこの山牢に封じこまれている世阿弥と申す幕府の隠密でござる」 「やッ、世阿弥殿?」 「ご承知か」 「知っている!」と、一八郎、青白い顔を石の間からさし出した。世阿弥は、妖鬼に睨まれるような凄さをおぼえた。 「ウーム、なるほど。いかにも世阿弥殿であった。たしかにそこもとがこのつるぎ[#「つるぎ」に傍点]山にいるとは存じていたが、どうしても会うことができない。それゆえ、わざと、柵を破って山を騒がせ、そこもとの気がつくように致していたが……ああ、とうとうお気づき召されたか」 「や、では脱走する目的ではなくて?」 「なんで。――この山峡《さんきょう》を脱走したとて、四面は山と海との二十七関、とても逃げおおせぬことは某《それがし》も心得ている」 「うむ、仰せの通りじゃ。土佐境《とさざかい》も讃岐越《さぬきごえ》も逃げ道はない」 「しかし、お目にかかればもう本望でござる。世阿弥殿、一言《ひとこと》お告げいたしたいことがある」 「オオ!」と顔を寄せあうと、二人の間へ、ザア――と箕《み》を開《あ》けたような砂礫《されき》が落ちてきた。それをかき落して、また穴口を作りながら、甲賀世阿弥。 「わしも、お身に会ったなら、何ぞ消息《しょうそく》が聞かれようかと、それ一念で、山牢の柵を破ってまいったのじゃ。して、わしに告げたいこととは」 「江戸表におらるるそこもとの御息女お千絵殿という方から便りをもって、唐草銀五郎《からくさぎんごろう》というものが、阿波へ入りこむべく大阪表までまいりました」 「オオ、さては、唐草が娘の消息をもって阿波へまいりますとな?」 「さ、ところがその銀五郎は、目的の途中で、あえない最期をとげたのでござる。場所は、大津の禅定寺《ぜんじょうじ》峠。――某《それがし》もまたその時に、阿波の侍のために捕われて、とうとうここへ送られてまいった。しかし、御落胆なさるな、まだ安治川屋敷に押しこまれている当時、手前の妹の鈴が探ったところによると、われらと同腹の者で天満組の目明しをしている万吉と申す者が、法月弦之丞という人《じん》の力を借りて、再度、阿波へまいる支度のために、お千絵殿を尋ねて行ったということでござります……」 「はて? ……法月弦之丞と申せば、わしが江戸表にいた当時は、まだ十四、五の美少年で、夕雲流《せきうんりゅう》の塾へ通っていた大番組《おおばんぐみ》の子息――。どうしてそれが、娘の千絵を存じているのであろう」 「二人は恋の仲だそうでござる」  世阿弥は不思議な気がした。かれが、夢にみるお千絵は、いつも彼が江戸を去った時のおさないお千絵であったから……。 「なるほど、もうそんなこともありそうな年頃。では、ついでをもって伺うが、その千絵女のほかに、お綱と申すものの消息をお知りなさるまいか」 「お綱? ……それはまた何者でござりますな」 「実を申すと、母違いの娘でござるが」 「ひと頃、大阪表を立ち廻っていた、女スリの見返りお綱という者はござったが? ……」 「いや、それは全く別人じゃ」 「無論、そのお綱ではござりますまい。だが、ほかにはお綱というような名は、誰の口からも聞いたことがなかった……」 「ないのが当然でござろう、親子《しんし》の情《じょう》、お笑い下さい」 「しかし世阿弥殿。ただ今お告げした通り、弦之丞殿が江戸へついた暁《あかつき》には、さだめし、それらの消息や、また公儀の旨をふくんで、いつかは一度、この山牢へも訪れるものと察しられる。必ずともそれを信じて、気を落さぬように」 「十一年ぶりで、初めてその吉報を聞きますわい。そうあればお手前もなおのこと、御短気をなされずに、阿波の密謀が公《おおやけ》となって、幕府よりお救いのある日をお待ちなさるがよい」 「ところが……」と、一八郎は暗然として、 「某《それがし》の命は旦夕《たんせき》に迫っています。それで……」  といいかけるうちに、もう彼の面《おもて》には、ありありとした死相がうかんでいた。  そこへ山番のしわぶきがきこえてきたので、世阿弥は、一八郎のいった意味を「なぜか?」と問い返してみる隙もなく、石子牢の前を離れて駈けだした。  森をぬけて断崖に出で、藤蔓《ふじづる》にすがりながら瘤山《こぶやま》の裾《すそ》へ戻ってきた。そして、朽木丸太を架《か》けておいた所へ出るまで、流れぎわの岩石と水草の間を這ってくると、何やら、妙なものがフト指先にふれた。  さわったと思うと、それが岩の間へ、スルリと辷《すべ》って行ったので、あわてて拾い取ってみると、月明りでしかとは分らないが、どうやら古風な懐紙挟《かいしばさ》みで、金襴革《きんらんがわ》の二つ折り、旅用とみえて懐紙以外なものが厚ぼったく挟んである。 「分った、これはあの竹屋三位が持ちものであろう」  世阿弥は、格別役にたつものとは思わなかったが、そのまま、ふところへ入れて、以前の所から激流を渡った。  そして、後に疑いを残さぬように、朽木を流れの中へ突き落すと、パッと白い水煙をあげて、その丸木が大蛇《おろち》のように浮かんでゆく。  で、無論、世阿弥が柵《さく》を出て、石子牢にいる一八郎と話をまじえたなどということは、山|詰《づめ》の役人、誰一人として気がつかなかったが、永らく蟄伏《ちっぷく》していた世阿弥の心は、その日から、俄然と眼をさまして一|縷《る》の望みを江戸の空へつないだ。 「わしがここにいるということは、まだ世の中から忘れられていなかった。今に! 今に! 誰かくるに違いない」  こういう信念をもったのである。 「しかし? ……」と冷静になってみる時に、世阿弥は、それもまた、あまりにはかない凡情《ぼんじょう》にすぎないのではないかと疑った。  単なる人恋しさから燃える希望ではないかと反省した。  幾多の危険を冒《おか》して、ここへ訪ねてきた者に、この姿を彼に見せ、彼の姿を自分が見たところで、果たして何の意義があろう。やはり、それも一つの夢想に過ぎない。一時の煩悩《ぼんのう》を、よろこばせ、涙ぐませるだけのことではないか。  ――とも思うし、いやいや、そうではないとも思いなおした。  この厳しい密領へ、命がけで忍んでくる者があれば、それは、必ずや大きな意義をもたらすものか、求めに来る者でなければならない。  宝暦変以来、密雲につつまれているこの国の内秘。その謎をとき、その秘密の鍵《かぎ》を握っているのは自分だ。  法月弦之丞とやらいう者、また、天満組の万吉とやらいう者が、ここへ来る日があると、俵一八郎がいったのは、そうだ! その鍵を自分へ求めに来るのに相違ない。  永い山牢生活に、自分はあまり愚に返っていた。ただいたずらに、江戸へ残してきた二人の娘の愛情にばかり囚《とら》われていた。  本来、自分がこの阿波へ入り、こうした運命を招いた時の使命はなんだったか! 鳴門の渦《うず》と剣山の雲に蔽《おお》われていた徳島城の大秘密をあばいて、天下をアッといわせようという壮図《そうと》に燃えていたのではないか。  老いたものだ。甲賀世阿弥も、いつのまにか焼《や》きが廻った。その頃の元気を思うと恥かしい。  そうだ。支度をしておこう!  いつ何人《なんぴと》がこの山を訪れても、すぐに、自分の探っておいた限りの言葉を、その者へ、手渡すことができるように。――よしや、それが無駄になるまでも。  かれの思慮は、ここへ、ピッタリと落ちついた。  死花《しにばな》だ! 死花だ! と彼の心は躍ってくる。徳島城内のかずかずの密謀や、歴々と、阿波一国にみなぎっている反徳川の風潮を、十分に探っていながら、この終身牢に枯死《こし》してしまう運命であったものが、誰かの手で、江戸城へ届けられるとすれば、その甲賀世阿弥に死花が咲くわけである。  虫のごとき死をまぬがれて、人間らしい死を遂げることができる。  で、世阿弥はその支度をしようとした。  しかし、ひるがえってみると、この山牢の中に、悠々と、そういう記録などを書き残しておく、筆墨《ひつぼく》などはない筈である。 「はて? ……」と、その方策に腕をこまぬいた時、かれは、岩の間から拾ってきた、竹屋三|位《み》の懐紙入れを思いうかべて、中を開いてみる気になった。  別にこれぞという物もなかったが、その懐紙挟《かいしばさ》みの中に、一|帖《じょう》の絵図がしのばせてあった。  小形《こがた》な法帖《ほうじょう》みたいに折り畳んであるので、サラリと押し開いてみると、竹屋卿がわらじ[#「わらじ」に傍点]がけで実地を写したものらしく、徳島城の要害から、撫養《むや》、土佐|泊《どまり》、鳴門のあたりを雑に書きかけてある海図だった。  だが、世阿弥の目には、それが書き半端《はんぱ》な海図とのみ単純には看過されなかったとみえて、 「お、これは、軍船の配りや布陣の線を引いたものじゃ。や、鏡島《かがみじま》の袋潟《ふくろがた》――鳴門の裏海には、いつのまにか、こんなにも多数の軍船がひそめてあったか」  と、図面の角点を数えて目をみはった。 「よいものが手に入った。これも、一つの証拠にはなる。しかも、公卿《くげ》方の者が自写したのは、何より有力な証拠品である。ウム、そうだ、これへ自分が隠密して探り得た箇条を書き加えて……」  ひとりうなずいた甲賀世阿弥は、ふすまに使っている鹿の毛皮をとりだし、また、瘤山《こぶやま》の窪《くぼ》みへ下りて、手ごろな篠《しの》を切ってきた。で、何をするのかと思うと、この間、太股へうけた一本の小柄《こづか》を細工刀《さいくがたな》として、斑竹《ふちく》の細い尖《さき》を切り落し、鹿皮《しかがわ》のワキ毛をむしって、一本の細筆《ほそふで》を作ったのである。  さて、筆はできたが、墨汁を何から得よう。  かれはまた、草木の中を歩いて、紫、藍《あい》、紅《べに》、さまざまな花をもんで試みたが、どれも日光にあえば色を失うのみか、筆にかかる粘力《ねんりょく》がない。  その中でも、割合に色素のありそうな、ぎらん[#「ぎらん」に傍点]草の花を選んで洞《ほら》へ帰った。そして紫色の汁を絞り、指を噛んで、自分の血汐をタラタラとそれへ注《そそ》ぎまぜた。  岩を机とし、獣油を灯《とも》し、かれは、さながら大蔵経《だいぞうきょう》を写しにかかる行者のごとく、端然と洞穴《ほらあな》にこもって、自分の血とぎらん[#「ぎらん」に傍点]草の汁へ筆をぬらしはじめた。  そして、竹屋三位が鳴門水陣の線を引きかけてある、あの折帖《おりちょう》の余白へ、きわめて細い字で、ポトリと五、六字書いた。  書けた文字をジッとみつめていると、血と紫花《むらさきばな》の汁がうまく混和して、墨よりも強い、玉虫色の光沢をおびてくる。 「これでいい」  と、世阿弥は額《ひたい》を抑えた。  遅々とした筆が運ばれだす。  灯《ともし》がつきれば獣油を足し、筆が渇《かわ》けば指の血を絞《しぼ》って……。  だが、筆にふくませる血液も、やがて、指からはしたたらなくなって、かれは、五体のいたる所を小柄で破った。       *     *     *  煙草船《たばこぶね》や藍玉船《あいだまぶね》が、白い帆を張って、ゆるゆると吉野川を辷《すべ》ってゆく。  その底には、もう若鮎《わかあゆ》がチラチラ光っているだろう。南国らしい黄花《こうか》の畑、変化に富んだ両岸の風景もかくべつだが、何よりはその大河の、砂と水のきれいなことといったらない。  きれいなといえば、水も水だが、アレをごらん、あのかんこ[#「かんこ」に傍点]船に乗って、こッちへ上ってくる御新造様《ごしんぞさま》は、いずれ御城下のお方だろうが、なんというお美しいことだろう――と、藍取歌《あいとりうた》を唄っていた陸《おか》の娘が見とれていた。なるほど、この山水の紅一点《こういってん》。今――西麻植《にしおえ》の岸へ船をつけて、スラリと、そこへ下りた美人がある。  阿波にはたくさんに美人がいるが、あの豊麗な、肉感的な、南国色《なんごくしょく》の娘たちとは、これはまた、クッキリと趣《おもむき》をかえた美人。  太夫《たゆう》鹿《か》の子《こ》の腰帯に、裾《すそ》を上げて花結びにタラリと垂れ、柳に衣裳をかけたようななよやかさは、東風《こち》にもたえまいと思われるほど、細ッそりとした形である。 「宅助や……」と、うしろを向いて、 「うっとうしいから、お前、これを持っていておくれでないか」  紅緒《べにお》の菅笠《すげがさ》を下郎《げろう》に渡すと、うけたお供の仲間《ちゅうげん》は、それを自分の笠に重ねて、 「へい。もうお近うございますよ」  と、南の空をふり仰いだ。  剣山がそびえている。 「ここから、もう何里ぐらい歩いたらいいの」 「さア、私もこんな奥へ来たのは初めてで、よく見当はつきませんが、川島郷《かわしまごう》から湯立船戸《ゆだちふなど》、ザッと四、五里も歩いたら、穴吹口《あなふきぐち》へ着きましょうか」 「そこが、あの山の麓《ふもと》かね? ……。まだずいぶんあるらしいが、どこかに駕屋《かごや》でもないかしら」 「へへへへ、お米《よね》様。いつまで大阪表にいる気じゃ困りますぜ。ここは阿波の国も吉野川のグンと奥、そんな物があって堪るものじゃございません」 [#3字下げ]くいつめ者《もの》[#「くいつめ者」は中見出し]  仲間《ちゅうげん》づれの旅の女は、静かな大河に沿った道を、上《かみ》へとって歩きだした。  豆の花が飛ぶかとばかりに、たくさんな蝶が舞っている。群蝶にくるまれて行くうしろ姿が、目を吸われるほど美しい。 「そんなことをいうけれど、お前……」  仲間|風情《ふぜい》へ話しかけるには、もったいない笑《え》くぼ[#「くぼ」に傍点]をみせて、 「立派な乗物はないだろうが、山駕《やまかご》とかいうものぐらいはあるだろうに」 「そりゃ、ない訳《わけ》はございますまい。第一、馬ならたしかにお間に合せ致します」 「人をばかにおしでない」  ちょっと睨むまねをして、 「在所のお嫁さんじゃあるまいし、誰が、馬へのるなんていったえ」 「お怒りなすっちゃいけません。だから、乗物はないと、まっすぐに申しあげているんで」 「お前は私をなぶるから嫌いさ」 「エエ、どうせ嫌いは分っております。なにしろ大阪表にいた頃から、この宅助《たくすけ》は、仇役《かたきやく》にばかり廻っておりましたからね」 「ずいぶん私をひどい目に会わせました」 「またお怨《うら》みでござンすかい」 「一生忘れやしませんとも」 「じょ、じょウだんじゃねえ!」  と仲間の宅助、下司《げす》らしく頭を掻いて、 「そのお怨みはお門違《かどちが》いでござンしょう。ねえ、主人持ちのかなしさに、わっしはただ、いいつけられたことを真ッ正直に承るだけのこッてすぜ。命がけで安治川の渡船場から、お前様を引ッさらってきたり、長持の底へ入れて綱倉《つなぐら》の番人をしたり、ずいぶんロクでもねえことはやりましたが、その揚句に、思いを遂げて、うまい花の汁を吸ったのは、すなわち、手前のご主人様――怨むなら、その森啓之助様をお怨みなさいまし」 「知らないよ……」 「そう、早くお歩きなさいますと、またすぐに息が喘《き》れますぜ」 「――お前も怨むし、啓之助様も私は怨む……。ああ、こんな国のこんな山郷《やまざと》を歩こうとは思わなかった」 「いけねえいけねえ。そういう溜息《ためいき》がでた後は、いつでもきまってお体が悪くなる。気をかえて、雲雀《ひばり》の声でもお聞きなせえ」 「思い出すと腹が立つもの……」 「まアよろしいじゃござンせんか。これが、大江山へでもさらわれて、酒顛童子《しゅてんどうじ》のようなやつを亭主にしたというのなら、そりゃ諦《あきら》めもつきますまいが、城下|端《はず》れの小粋な寮へ納まって、お化粧料《けしょうりょう》もタップリなら、遊山《ゆさん》やぜいたくもしたい三昧《ざんまい》、森啓之助様の思われもので、お米の方様というお身分は、決して悪い仕合せじゃございませんぜ」  この仲間《ちゅうげん》の粘《ねば》り舌が、少ししつこくなってきたので、傷つきやすい旅の心は、急に女を憂鬱にさせた。  もう、いわずもがなのことだが、この痩形《やせがた》の美人こそ、去年の秋まで、大阪の立慶河岸《りっけいがし》にいた川長《かわちょう》の娘お米《よね》であった。  連れているのは啓之助の仲間、お米を阿波へ運ぶ時に、骨を折った宅助である。二人の口ぶりから察するに、お米はその後、心ならずも、啓之助の意に従わねばならぬ、余儀ない境遇に落ちているらしい。  だが、その心の奥底には、当然、まだ啓之助の腕では、ねじ伏せきれないものかあるだろう。  それが二人の会話にチラチラ出る。弱い女の不平と反抗だ。けれど形の上では、もう誰が目にも、お米は啓之助の囲《かこ》い女《もの》、宅助はその番人という態《てい》になっているのを否めない。  ただ、幾分か、お米にとってよろこぶべきことは、あの癆咳《ろうがい》の病のかげが、大阪にいた頃より大層よくなっていることだった。瞼《まぶた》のあたりの青いかげや、病的であった頬の肉艶《にくつや》、それがズッと健康らしく見えてきた。  環境が変ったからであろう。  お米の囲われている寮のあり所が、海気《かいき》と松風に恵まれている地に相違ない。  黙って歩くと道が遠い。  何の用向きをもってきたのか、指して行く剣山の麓《ふもと》までは、まだなかなか道のりがありそうだ。 「こいつはいけねえ、とうとうこじれやすいお米をこじらしてしまった」と、仲間の宅助が後からテクテク供をしながら、少ししゃべりすぎたかなと後悔した。そして、何とかひとつご機嫌をとり結ばなくっちゃ……と思っていると、 「おウい――」と、突然。  うしろのほうから遠呼びに手を振ってくる男がある。 「おーい」とまた一度呼びとめて、こっちへ急いでくる者をふりかえると、顔は見えない、一文字の笠、ヒラヒラするのは縞合羽《しまがっぱ》だ。 「誰だろう。こんな所で呼ばれる者はない筈だが……」お米が少し気味悪げに道をよけていると、程もあらず、そこへ追いついてきた一文字笠の男は、 「もし、川長のお米さん」  と、いきなり、図星《ずぼし》をさして、合羽《かっぱ》の片袖をうしろへはねた。  帯の間の手拭をぬき取り、口を歪《ゆが》めながら、生《は》え際《ぎわ》の汗を拭いている顔を覗《のぞ》いたが、お米にも宅助にも、どうも覚えのない男だ。 「私をご存じのようだけれど……お前さんは?」 「お忘れでございますか」 「さア……どうも」 「去年の夏の初め頃は、立慶河岸へ屋根舟をつけて、よくお前さんの家の、川魚料理を食べに行ったものですぜ」 「ああ、それじゃ店のお馴染《なじ》みでございましたか」 「なアに、馴染みというほどでもねえが、お十夜孫兵衛という男と、飲み仲間でよく一座したことがある」 「それを聞いて思い出しました。ではあなたは住吉村にいた……」 「そうよ、あの頃ぬきや[#「ぬきや」に傍点]屋敷に住んでいた甲比丹《かぴたん》の三次という者だ」 「まア、人というものは思いがけない所で逢うものでございますね」 「冗談をいいなさんな、読本《よみほん》の筋じゃあるめえし、こんな四国の山奥で、バッタリ行き逢ったり何かして堪るものか。実はお前《めえ》の尋ねてゆく人に俺も少し用があって、この通りの汗だく[#「だく」に傍点]で追いついてきたのよ」 「私の尋ねてゆく人って? ……」 「トボけちゃいけませんや、お前《めえ》さんの旦那様だ」  お米はほろ[#「ほろ」に傍点]苦い顔をした。  仔細をきくと、甲比丹の三次は、去年以来、禁制の密貿易をやるぬきや[#「ぬきや」に傍点]の仲間とちりぢりばらばらになって、諸方の港場を流れていたが、うまい仕事も見つからないので、これから尋ねてゆく森啓之助に、身の振り方をつけて貰うのだといった。 「なんだい、この虫ケラは?」  と側《そば》にきいていた宅助は、その虫のいい言い草と、三次の図太い面構えにあきれている。  お米とすれば、もと大阪の店へ来つけた客ではあり、啓之助とこの男と、どんな関係があるかないかも知らないので、話に釣られながら、肩を並べて歩きだすよりほかなかった。 「ふざけた野郎だ」  虫の納まらない仲間の宅助、後から来て先へ立った甲比丹の三次へ、突ッかけるように、 「おい!」と声をかけた。 「なんでえ!」語気が同じに弾《はず》んでくる。 「どこへ行くんだ、てめえは一体」 「今もいったとおり、森様へ用向きがあるんだ。城下のお屋敷をたずねたところが留守、じゃテッキリと思って、お米さんの妾宅へ行ったところが、そこも留守だ。で、だんだん探ったところが、吉野川を舟でお前《めえ》たちが上ったということが知れたから、やッとこうして道づれになれたてえものよ」 「だが、ちょッと待ちねえ。うちの旦那は、お前《めえ》のような者たあ知合いがねえ筈だぜ」 「向うで知らなくっても、こちらさまはよくご存じの者だからしかたがねえ」 「しかたがねえという法があるものか。どこの馬の骨だか牛の骨だか分らぬ者に、なんで旦那が逢うものか、はるばる行ってみるだけ無駄骨だ」 「ご親切はありがてえが、よけいなことはいって貰《もら》うめえ」 「なにを」 「およしッ――宅助」お米はあわてて目で止めた。この人気《ひとけ》のない山郷《やまざと》で、間違いでもあられた日には、女はどうする術《すべ》もない。殊に、隼《はやぶさ》のような三次のまなざしを見ただけでも、そんな手軽いコケ脅《おど》しに怖《お》じて、後へ引っ返すような生《なま》やさしい食いつめ者でないことは分り過ぎている。  それよりは、一刻も早く、啓之助や原士《はらし》たちのいる剣山の麓《ふもと》へ辿《たど》りつくことを急いだ方がよいと、お米は息ぎれをこらえつづけた。  つるぎ山の麓口に、原始的な一部落がある。巨大な石材や自然木《じねんぼく》の柵《さく》に囲まれている建物は、原士の詰めている山番所、その向うに目付屋敷が見えた。その附近に散在しているのは、つるぎ山を見廻る小者《こもの》小屋や、土佐境《とさざかい》の関所へ交代してゆく山役人の溜《たま》りなどである。  陣屋門みたいなそこの出入り口へ、今、足を引きずって来たのはお米と仲間《ちゅうげん》の宅助で、もうこの辺へ来て四方を仰ぐと、綱付山《つなつきざん》、赤帽子岳《あかぼうしだけ》、丸笹《まるざさ》の峰などが、白雲の上に巨影をみせているので、まったく、山奥へ来たという感じが深い。 「もうここまで来れば、日が暮れようと、雨が降ろうと、安心なものでございます。どれ、とにかく、取次を頼んでみましょう」  と、宅助がつかつか門際《もんぎわ》へ寄ってゆくと、前後してきた甲比丹《かぴたん》の三次が、もうそこにいた組子の者に、腰をかがめて何かしゃべっている。すると、 「さようか、では、しばらくそこに待っておれ」  と一人の小者が奥の目付屋敷へ入って行った様子。三次は、なれなれしく門小屋の土間炉《どまろ》へしゃがみこんで、煙草《たばこ》入れをとりだしていた。 「恐れ入りますが、ちょっと、お願い申します」  こんどは宅助が揉《も》み手をして行って、 「御城下からお出張《でばり》になっている、森啓之助様へお目にかかりたい者でござります。どうぞお取次を願います」 「その森啓之助様なら、只今、同役が知らせに行ったよ。しばらく待っておいでなさい」 「いえ」宅助は、わざと三次へ目もくれないで、 「そこにいる者とは違います。手前は、啓之助様の召使なので、へい」 「ああ、同行してきた者ではないのか」といっているうちに、奥の目付屋敷の方から、森啓之助の姿がこっちへ向いて歩いてきた。 「誰じゃ、この方《ほう》に密用《みつよう》があると申してまいった者は?」と啓之助、そこへ来て見廻すと一緒に、すぐと、門のかげにチラと見えたお米の姿に気づいたが、わざとそれを後廻しにして、組子《くみこ》にたずねた。 「ええ、啓之助様、その甲比丹《かぴたん》の三次はここにおります。どうもまことにお久しぶりで」 「はて、そちは? ……いっこう覚えがないように思うが」 「こんな山の中だから、思いだせないのでございましょう。あなたもお船手組《ふなてぐみ》の森様、わっしも密貿易船《ぬきやぶね》の三次です。お互に水の上で顔を合せりゃ、ああ、あの時のあの野郎かと……」 「うむ、わかった、あの三次か」 「折り入って、お願いがあってまいりやした。誰か、お美しいお客様もあるところ、長いお邪魔はいたしませんが、ちょっと、しばらくお顔を貸していただきてえと存じますが」  啓之助は、下らぬ者を取り次いだ、組子《くみこ》の愚鈍を腹立たしく思ったが、何となく、脇の下へもたれ[#「もたれ」に傍点]こんでくるような三次の口ぶりを、強くはね返してもまずいかと考えたらしく、 「そうか、では目付屋敷の、執務所《しつむじょ》の縁がわへ行って控えているがいい。何の用事かしらぬが、後からまいってきいてやる」 「ありがとう存じます。やれやれ、これでわっしもホッと致しやした。何だッて、この山奥まで尋ねてきて、面会は相ならんなどと、木戸を突かれた日にゃ御難ですからネ」  脱いだ合羽を片腕に垂らして、お米のほうへ目をくれながら、自然石《じねんせき》の石段を上《のぼ》って、向うの役宅の庭へ廻って行った。  と、啓之助は、それを待ちかねて、すぐに門の外へ出た。そして、サッサと向うの樹蔭《こかげ》へ行ってから、お米を目でさし招いた。 「どうしたというのだ、お前は? 勝手に出歩いてはならぬというのに、このような役向きの所へ何しにきた。また、連れてくる宅助も宅助じゃ」  こう咎《とが》めたが、啓之助の挙動《きょどう》は、むしろ、お米が不意に来たよろこびに、落ちつかないほどなのである。  誰にも内緒にしている匿《かく》し女が、役向きの出先へ不意にやって来たので、啓之助は、こそ[#「こそ」に傍点]ぐッたいよろこびと舌打ちしたいような困惑を感じた。  目付屋敷には、まだ竹屋三位がいるので、そこへ曰《いわ》くのあるお米を連れこむことはできないし、逢曳《あいびき》のように外でひそひそと話しているのは、なおさら外聞《がいぶん》にかかわる。  で、自分が案内して、附近の家へお米を待たせておき、口を拭いて、目付の執務所へ帰ってきた。  啓之助が使用している机の側から、煙草盆《たばこぼん》を煙管《きせる》の首で引ッかけて、その縁側に腰をすえこんでいた甲比丹《かぴたん》の三次。顔をみると狎《な》れッこい態度で、 「ああいう美女《たぼ》をこの山奥まで逢いに来させるなんて、旦那も、なかなか罪つくりでございますね」と、啓之助にとっては、すこぶる不愉快なお追従《ついしょう》笑いをした。 「そんなことはどうでもいいが、三次とやら」 「やら[#「やら」に傍点]はござんすまい……ご存じの仲で」 「揚げ足をとるな。多用な役宅のことじゃによって、用向きの次第、簡単に承ろう」 「簡単にね、結構でございます。じゃ手ッ取り早く申しますが、森様、まことにご迷惑じゃございましょうが、ひとつ、わっしをお船手《ふなて》か何かでお使いなすって下さいませんか」 「では、何か、貴様は雇《やと》われ口を求めにまいったのか」 「至る所を食い詰めましてね、もうこの阿波よりほかにゃ、のんきに暮らせそうな所はねえんで」 「それは断《ことわ》る。殊に、お船手の水夫《かこ》も、今では他国者《たこくもの》をお召抱えにはなるまい」 「じゃ、それはよろしゅうございます。断られて引っ込むことに致しやす――。その代りにですね、森様、たんとじゃございません、千両といいてえが、その半分ほど、ご拝借願いたいと思いますが、どんなものでございましょう」 「な、なにをいうのだ」 「お金を貸してくれという話なので」 「そちは正気でないと見えるな。暴言を吐くにも程があるぞ」 「程があると思うから、千両欲しいところを、こっちから五百両と負けて出ているんじゃございませんか。安いもんでございます、何とか算段をしておくんなさい。それもサ、何もお前さんの自腹《じばら》を切って出せという話じゃねえ、蜂須賀家のお金蔵《かねぐら》から、威張って引きだせる筋のものです」 「だまれ! 蜂須賀家の公金を、たとえ一文でも、貴様のような奴に下さる筋があろうか」 「出ねえものを取ろうとして、無駄骨を折るような三次じゃございません。じゃ、そのところを、チョッピリ耳こすり致しますが、蜂須賀様じゃ、また近頃、だいぶ精を出して、火薬を買い込むって話じゃございませんか――あの天下|御法度《ごはっと》の戦薬《いくさぐすり》をね。そりゃ、何かに要《い》るからでござンしょうが、廈門《アモイ》船や西班牙《スペイン》船から長崎沖で密買した火薬を、この阿波の由岐《ゆき》港に荷揚げをしてコッソリと、渭《い》の津《つ》の山へ運びこむってえ噂が、もっぱら評判でございますよ、といっても、色をかえて、びっくりすることはございません。その評判は海の上のことで、まだ怖《こわ》い江戸城の親玉へまでは知れていねえ話ですから」 「…………」無言でいるうちに、啓之助の色が青くなってきた。この獰猛《どうもう》な男の毒《ど》ッ気《け》にあてられたのだ。そして彼は四、五年前にも、新鋭の銃器何千|挺《ちょう》を、外船から密輸入した時、その折海の上で働いていた密輸入仲間《ぬきやなかま》に甲比丹《かぴたん》の三次という名が重きをなしていたことを思いだした。 「もうよけいなおしゃべりは止めましょう。わっしも、楽に食えている身分なら、御無心なぞにゃまいりませんが、去年、住吉村の巣を荒されちまった後、どうも運の悪いことばかりで、食うや食わずの手下が五、六人も、口を開《あ》いて待っているんです。どうぞ何とかお助けの方法を講じてやっておくんなさい、でないと、わっしは我慢いたしますが、空《すき》ッ腹《ぱら》まぎれに乾分《こぶん》の奴が、御当家のことを、どんなふうに世間へ吹聴《ふいちょう》するかもしれませんので」 「これこれ三次、貴様は何か思い違いをしているらしい、そりゃ何かの誤聞《ごぶん》であろう」 「冗談いっちゃいけません、永年潮風に吹かれている密輸入《ぬきや》の三次、海の上のことなら迅風耳《じんぷうじ》だ! じゃ、こんどはお前《めえ》さんの手相を一つ見てやろう」と、片あぐら[#「あぐら」に傍点]を抱《かか》えこんだ三次は、テコでも動かぬ面構《つらがま》えをして、啓之助の顔をジッと見ながら、 「あー、お前《めえ》も少し密輸入《ぬきや》をやったことがあるな。しかも、そいつア美しい生物で、イヤだと泣くのを手込《てごめ》にして、お関船《せきぶね》の底へ隠し、他領者を入れちゃならぬ御城下へくわえこみながら、殿様の目をかすめているという人相だ……」  と、啓之助をゆすっていると、どこからか、ヒュッ――と風を切ってきた矢が、三次の喉笛《のどぶえ》を貫いて、白い矢羽《やばね》を真ッ赤に染めた。 [#3字下げ]白粉《おしろい》くずれ[#「白粉くずれ」は中見出し]  ひどく酒の醗酵《はっこう》する香《におい》がすると思うと、そこは山役人の食料や調度の物を入れておく納屋らしく、裏の土間に、咽《む》せるばかりな酒樽《さかだる》が積んである。  お米《よね》は、そこの薄暗い一|間《ま》に、いつまでも待たされていた。もとより装飾も何もない部屋なので、夜になることを思うと、急に心細くなった。それに、家の中に蒸《む》れている酒の気がたまらなく鼻をついて、香《におい》だけでも酔いそうになった。  それとは反対に、宅助は、冷酒《ひや》を酌《く》んで、五、六杯も盗み飲みをした揚句、いつか、裏土間の藁《わら》の上へ、高鼾《たかいびき》をかいて居眠ってしまった様子。  重い戸の開《あ》く音がした。啓之助が入ってきたのである。真っ青な顔をして――。 「お米……」 「旦那様ですか」 「ウム、どこにいるのじゃ」 「こちらの部屋でございます」 「あ、そこは、納屋番が夜寝る所じゃ、その廊下の奥がよい」 「どこも同じじゃございませんか。ほんとにひどい旅籠《はたご》だこと……。ああ、この天井板のない屋根裏を見ていると、大阪表から来た時の、怖《こわ》かッた船底が思いだされます」 「ばかな」  かれも、それをいわれることは、古傷《ふるきず》にさわられるような気持がすると見えて、舌打ちをしながら、お米の側へ来て坐った。するとお米は、「あら……」と、後ろへ手をついて、 「血が……あなたの袖に、ま、耳のところへも、なまなましい血が……」と目をみはった。  いわれた所を撫《な》で廻《まわ》して、掌《てのひら》についた色を眺めながら、 「なんでもない」 「どうなすったのでございます」 「甲比丹の三次の血だよ、わしの身から流れた血ではない」 「え? ……あの三次を、殺したのでございますか」 「竹屋三位が矢をもって射殺したのだ。あの居候殿は、人を殺すのが好きで困る」と、かれは血におびえた心のうちで、三次の手下どもが、火薬一件や自分とお米のいきさつ[#「いきさつ」に傍点]などを、世間に流布《るふ》せねばよいがと案じていた。  お米もまた、啓之助の頬へ、ベトリとつぶれた血糊《ちのり》のかたまりを見て、にわかに、胸がムカムカとしてきた。この国へきてから、しばらく忘れていた血痰《けったん》が、胸のどこかに、時機を待って鬱滞《うったい》しているのではないかというような神経を起こしたりした。 「陰気だな、この中は」 「早くお話をして、私は、今日のうちに御城下へ帰ります。こんな所に、一晩夜を明かしてはいられません」 「ばかを申せ、今頃から帰れるものか」 「でも、いたたまれやしませんもの」 「一体、何用《なによう》があってまいったのだ。こういう山家《やまが》ということを存じながら、来たほうが悪いではないか」 「実は、急に、お願いがありまして……」 「また、大阪へやってくれということか」と苦《にが》ッぽい声の下から、針のような筋が啓之助の眉に立った。 「エエ……」  先にいわれてしまったので、お米はうつむきながら、かすかに、哀れッぽい声をかすらせた。そして、来る途中で巧《たく》みに織《お》ってきた作りごとが、グッと喉《のど》につかえてしまった。 「何度いおうと、いけないといった以上、ゆるすことはできないのじゃ。もう四、五年もたったらやってくれる、それまでは大阪へ帰ることはならぬ」 「帰るとおっしゃいますけれど、決して、もう、大阪へ行って、戻らないというのではございません、すぐにまた阿波へ」 「いけないといったら!」 「だって、そ、そんな……」 「くどいッ」 「そんなこと、む、無理でございます」 「ちイッ、くどいというに!」  いきなり啓之助が、お米の頬を打った時、お米は、ワッと泣いて、 「口惜《くや》しい、わ、わたしは、こんな所へ手込《てごめ》に連れてこられた上に、お母《っか》さんが死んでも家へ帰られない」  涙がこぼれてくると、胸につかえていた空言《そらごと》までが、苦もなく、真実そうにスラスラ口へ出てきた。  お米の怨《うら》みがましい泣き声をきくと、啓之助はまたかというような舌打ちをして、じゃけん[#「じゃけん」に傍点]に唇を噛みしめた。 「何をメソメソ泣くのだ! ものの分らぬにも程がある」 「わ、わからないのは、あなたのほうじゃございませんか」 「やかましい、ここをどこだと思うのだ、男の役目先へまで来て吠《ほ》え面《づら》をかく奴があるか」 「どこであろうと、私は言いたいことを申します。エエ、弱くしていれば、私なんか、今にあなたのために殺されてしまうかもしれない」 「ウム! どうしようと、この啓之助の一存だ」 「私だって、なにもこの国へ、島流しにされた科人《とがにん》ではなし、身を売ってきた女でもございませんからね」  お米も負けずに言い返した。  そして、止めどもなく、流れる涙を流れるままに任して、いかにも憎そうに、啓之助を睨みつけている。  その眼が、以前から怨みつらみの数をならべて、男にものをいうような時、啓之助の気持も妙に荒《すさ》んできて、食いちがっている二人の心と心とが、行く所まで、いがみあわなければ止《や》まないのが常であった。  今も、かれはお米の眼色から、深い反抗が自分に燃えてくるのを感じて、 「身を売ってきた女ではない? フーン、だから、どうしろというのだ」と青ざめて、殊さらに冷たくいった。いう下からお米もまた、 「帰して下さいというんです!」と肩に波を打った。 「どこへ?」 「大阪の家へ」 「虫のいいことを――だれが!」 「か、かえして、くれないとおっしゃるんですか」 「知れたこッた」 「よ、ようございます――、あなたがお暇《ひま》をくれないなら、私は私の勝手に大阪へ行きますから。立慶河岸のお母《っか》さんが、危篤だという早打《はやうち》がきているのに、帰らずにはおられませんからね……」 「嘘をいえ、そんな、見え透《す》いた偽りをいっても、この啓之助が手放すものか」 「嘘ではございません、宅助に聞いてごらんなさいまし、たしかに、家から手紙が来ているのですから」 「くどい! 何といおうが、わしが大阪へ行くときには連れても行くが、そち一人でまいることはならぬ」 「そ、そんなことをいわないで……」お米は我《が》を折って、啓之助の膝へ泣きくずれながら、「――すぐに帰ってきますから、どうぞ、二十日《はつか》ほどお暇《ひま》を下さいまし、ほんとに、今いったような、知らせが来ているのですから」 「いけないッ」と、それでも啓之助が意地強く突ッ放すと、お米はもう嘘や頼みではきき入れられない口惜しさと捨鉢とで、 「あなたは鬼だ! 悪魔のようなお人です!」 「オオ、おれは鬼だ。お前がわしをそうさせたのじゃ」 「みんなに聞いて貰います、世間の人に何もかも話してやります。お関船の底へ無体に私をほうりこんで、その上にまだ……」 「大きな声をするなッ」 「しますッ。どっちが無理か世間にきいて貰います」 「ばか、ここは剣山の麓だぞ」 「向うの目付屋敷には、竹屋三位様がいらっしゃいます。三位様のお耳へ届くように、私はわざと大きな声でいってやるのです」いきなり立って、窓の障子へ手をかけた女は、もうヒステリックにうわずっていて、放っておいたら、威嚇ばかりでなく、ほんとに、何をしゃべりだすかしれないような血相だったので、啓之助もうろたえ気味に、 「ばか! つまらぬことを口走るな」  と、お米の口を手でふさいで、 「そんなことが御家中へ洩れたら、わしばかりではない、二人の身の破滅ではないか」 「い、いいえ、いいえ!」  啓之助の手へ爪を立てながら、お米は、髪のこわれるのも忘れて、首を振った。 「いってやります――御家中方の耳へ」 「お米! あまり男を見くびるなよ。そちは命が惜しくないのかッ」 「殺すのですか、殺すというのですか」 「ウーム、どこまで口の減らぬ女め、啓之助にも、いよいよとなれば、それ相応な覚悟がある」 「殺してください、死んでも私は」 「ええ、どうして貴様は、そうわしを……」  ねじ仆《たお》して重なりあった体が、人目もなく挑《いど》みあった。肺臓《はいぞう》の弱いお米は、啓之助に胸を押されて、苦しげに目をふさいだが、啓之助は盲になったように、その細い喉首《のどくび》を抱きしめた。お米は、さからいきれない力をふるわせて、ヨヨ……とすすり泣きを洩らすばかりだった。そして、殺すといい、殺してくれと叫んでいた男と女が、気だるい春昼《しゅんちゅう》の納屋倉《なやぐら》に、蒸れ合うばかりな情炎の餓鬼となって苦悶した。  しばらくしてから…… 「ね、今のこと」  お米は、たぼ[#「たぼ」に傍点]のくずれを、きゃしゃ[#「きゃしゃ」に傍点]な指で梳《す》きあげながら、男に、うしろを向けていた。 「いいでしょう、ほんとに」  その姿を見るともなしに見やりながら、啓之助は腕枕をかって、グッタリと横に寝ている、酒がさめたような血色をして、 「そんなにも大阪が恋しいか」 「そりゃあ……」  髪へ手を当てたまま、そこらに落ちた鬢止《びんど》めを目で探して―― 「生れた土地ですもの。それに、アアして、不意に来てしまったのですもの」  啓之助も、少し哀れげを催《もよお》して、「じゃ、きっと半月ぐらいで帰ってこいよ」 「行ってもよろしゅうございますか」 「うむ」 「では、これから帰って、すぐに支度や何かをして」  女が、苦もなく急《せ》きだすのを見ると、かれの心はまた、たやすく手離したくないように動きだして、 「だが? ……まあ待て」と重苦しい口を濁して、そして、何かいおうとしたことまで黙ってしまった。お米は、かれの遅疑をみると、「いいとおっしゃったのでしょう、ね、あなた」  あわてて、一生懸命に、啓之助のそばへすりよって、男の体を抱くように、 「じらさないで、後生《ごしょう》ですから」  と、機嫌をとると、 「エイ、娼婦《しょうふ》みたいな真似《まね》をするな」  啓之助は、かえって癇《かん》にふれた声をして、お米を突き放して起き上がりざま、ふところからつかみだした船切手《ふなぎって》の木札を、女の膝へ叩きつけた。 「行ってこい! だが、なんだぞ、もし大阪へ行ったきり戻らぬ時には、きッと命を貰いにまいるぞ、いいか、それだけを忘れるなよ」 「まあ、邪推ぶかい」 「それでなくとも、貴様は剣山の隠密みたいに、隙さえあれば逃げたがっているんだ」 「そんなことがあるもんですか、きっと、一日でも早く、阿波へ帰ってまいります」 「宅助を付けてやる、あれを連れてゆけ」 「エエ、その方が、私も気強うございます」 「で、近いうちには、お関船《せきぶね》の便がないから、上方へ荷をだす四国屋のあきない船へのせて貰うがいい。そして、帰りには、月の下旬に阿波へ戻る同じ船で、きっと帰ってこないと承知せぬぞ」  ともすると、啓之助が気を試そうとするふうなので、お米はうれしそうな顔色を隠すことに注意していた。  と。二人のいるこの納屋蔵《なやぐら》のまわりへ、急ぎ足にきた人足が止まって、 「森様――。森様はここにおいでではございませんか」戸をこじあけて入ってくる様子だ。 「あ、誰かきました」 「お米」  啓之助はあわててあたりを見廻して、納屋番の藁《わら》ぶとんが積んであるうしろへ、女を隠した。そして自分から入口の土間へ姿をみせ、 「啓之助はここにいるが、なんじゃ」 「あ、おいでなさいましたか」  入ってきたのは、剣山の山番たち、ゾロゾロと七、八人、一人が手に一本の矢を持って、漆《うるし》が干《ひ》からびたような鏃《やじり》の血汐を啓之助に見せていった。 「石牢にいる俵一八郎が死んでおります」 「えっ、一八郎が絶命した?」 「はい、何者かに、射殺されたので」 「それを見せい」  引ったくるように取ってみると、まさしく竹屋三位《たけやさんみ》の矢である。この間三位卿は、間者牢のいわれ[#「いわれ」に傍点]を聞いてその迷信を嘲笑していた。  そして、冗談のように、今でも隠密を殺せば徳島城にたたりがあるかないか、試しに、世阿弥か一八郎かどちらかのひとりを殺してみたら面白いがといっていた。  また責任のない居候どのが、口に年貢《ねんぐ》のいらぬ戯《ざ》れ言《ごと》をいうな、とその時は、啓之助も笑っていたが、これをみると、竹屋三位卿、ほんとに、剣山の迷信へ、槇葉《まきば》の鏃《やじり》をうちこんでしまった。 「とにかく一八郎の死骸を片づけ、仔細を徳島城へ申しおくることにいたそう。いつもながら放恣《ほうし》な三位卿、困ったことをしでかしたものだ」  と眉をひそめながら、啓之助は、また鏃《やじり》の血の痕をみるにつけて、思わず肌を寒くした。  かれの脳裡にも、自分では意識しない迷信のおびえがあった。 「――折も折、渭《い》の津《つ》のお城に、何ぞ不吉なことがなければいいが……」こう思う不快さに目をつぶった。啓之助ばかりでなく、変を知らせてきた山番たちも、伝説の禁断を破ったことが、何となくそらおそろしい様子で、必然、この結果がなくてはならぬように信じている。  強請《ゆすり》にきた甲比丹の三次を、物蔭から一|矢《し》に射た時には、三位卿の殺人好みも悪くは思えなかったが、その放恣な矢を石牢の中へまで放ったのは、いくら大事な食客殿としても、少し殿の優遇に狎《な》れすぎるきらいがある、と啓之助は、目付役という自分の職責の上から腹を立てた。  それを報告したら、さだめし太守も神経を突ッつかれるに相違ない。けれど下手《へた》に隠蔽《いんぺい》しておいて後日に分るような場合には、自分の落度とならざるを得ないから、一刻も早く徳島城へ帰って、ありのままに上申し、向後《こうご》あの居候殿の放縦《ほうじゅう》も少し慎しむような方針をとるべく、上《かみ》にも御意見しなければならぬ――と啓之助は、山番たちの前に息まいて、それぞれの指図を与え、納屋蔵の外へ追いやった。  そして自分は、前の陰湿な部屋へ戻っていった。そこには今し方、お米がとりみだしたすすり泣きや髪の匂いが、愛慾の感情にからみやすく漂《ただよ》っていたが、かれの頭脳《あたま》は不意の事件で忘れたようになっていた。 「お米、わしもにわかに、御城下へ帰る都合になったから、すぐに支度をせい」 「え、これからすぐに」 「ウム、空も少し曇り模様、明日《あす》とのばして雨にでもなると困る。疲れたであろうがすぐに立とう」 「いいえ、まだ歩けないほどではございません」  隠れていた藁《わら》ぶとんの蔭から、そういいながら、襟《えり》をかきあわせて立ったお米は、徳島へではなく、大阪表へ早く帰れる都合になったうれしさを、思わず顔に出している。  酔いと疲れで、だらしなく寝込んでいた仲間《ちゅうげん》の宅助、にわかに起こされてうろたえながら、またわらじの緒《お》を結びなおして、裏道から四、五丁出てゆくと、啓之助は菅笠に霰《あられ》の打《ぶ》ッさき羽織で、先に廻って待ちあわせていた。 「もし家中の者に出会ったら、わしの側を離れて、素知らぬ振りをしてゆくがよい。吉野川へ出れば下りの舟、乗ってしまえば別に人目の心配はないわけだが」  匿《かく》し女を持っているのも、なかなか細心でなければならぬ。啓之助は歩きながら、たまたまくる里の百姓にも気を配って、お米と道をひとつにして行く。 「徳島へつくと、わしは屋敷へも寮へも寄っている暇がない。さッきお前が聞いていた通りの事情で、すぐに登城して殿へ委細の報告をせねばならぬから――。で、お前は、いずれ寮へ帰った上に、何かの支度もあろうから、その間に、宅助をやって、四国屋の荷船の都合を問い合わせてみい。それから、最前渡した船切手、あれを落さぬようにな、よいか、また大阪へまいっても、御当家のことや要《い》らざることを他言《たごん》してはならぬぞ。宅助、そちにも何かの注意を頼んでおくぞ」  もう二里ほどは歩いたろうと思われる頃である――三人のゆく後ろから、大地に馬蹄をひびかせて、まっしぐらに駒を飛ばしてきた若者がある。  驚いて、両方へ道を開いたとたんに、土を飛ばして、鞭《むち》をくれ、疾風一陣に駈けぬけた馬上の人――パパパパッ――と十数|間《けん》走り越したところで、急に手綱をしぼり止めたかと思うと、 「オオ、啓之助、啓之助!」  ふりかえって、家来のように呼んだものだ。 「――早くまいれよ、徳島城へ! 女の足をいたわっていると間にあわんぞ! 江戸へ上った天堂一角より、何やら大事な知らせがまいって、また一会議あろうと申すぞ。身にも急いで帰城せよと、阿波殿からのお招きじゃ。早くこい! 早くこい! 天下の風雲急ならんとする秋《とき》、女のひとりぐらいは捨てて行ってもよいではないか」  そこで、ピシリッとまた一|鞭《むち》、悍馬《かんば》をあおッた竹屋三位は、菜種《なたね》の花を蹴ちらして、もうもうと皮肉な砂煙を啓之助に残して行った。  気がついてみると、午後も早遅いのではあろうが、にわかに空も地もドンヨリと薄ぐらく、剣山の肩の一部が、まッ黒に見える以外は、いちめんなる雲であった。その雲の裡《うち》には、甲賀世阿弥が、今も血汐の筆をとって、秘帖《ひじょう》に精をしぼっているだろう。  雲の奥か、地の果てからか、おそろしい響きが人身《じんしん》に感じてきた。  煙草《たばこ》畑の娘たちは、雑草抜きをやめて姿をかくした。やがて、土佐境《とさざかい》の空には春雷が鳴っていた。 [#3字下げ]疑心暗鬼《ぎしんあんき》[#「疑心暗鬼」は中見出し]  諏訪《すわ》の温泉町《ゆまち》は、ちょうど井桁《いげた》に家がならんでいる。どこの宿屋にも公平に内風呂というものはないので、その井《い》の字なりの町のまんなかにある三|棟《むね》の大湯へ、四方の旅籠《はたご》のお客様がみな手拭《てぬぐい》をブラ下げて蝟集《いしゅう》していた。  ここは木曾路をへてくる上方《かみがた》の客、信濃路《しなのじ》からくる善光寺帰りの旅人、和田峠をこえて江戸の方角から辿《たど》りつく旅人などが、一|夕《せき》の垢《あか》を洗うべく温泉《ゆ》をたのしみに必ずわらじを脱ぐので、中仙道の宿駅のうちでも指折りな繁華をみせていた。  夕方の六刻《むつ》というと、もう三道の客が織るように入ってくる。温泉町《ゆまち》の入口は馬や駕《かご》や運送の人足で埋まっていた。昼間はさしては白くもみえない湯けむりが、宿屋の軒にまでモクモクと這いだして、硫黄《いおう》の匂いまでがなんとなく生新《なまあたら》しく鼻をうってくる。  赤い前垂をかけた宿引の女が、ぶかっこうな杉下駄をはいて猫じゃらしの帯をふりながら、向う側とこっち側で、互いに腕にヨリをかけるのはその時分で、 「かしわ屋でございます、かしわ屋はこちらでございます」 「桔梗《ききょう》屋は手前どもで、昨年もごひいきになりました」 「ハイ、越後屋でございます」 「お馴染《なじみ》の鍵《かぎ》屋はこちらでございます」  喋々《ちょうちょう》とさえずるばかりでなく、信濃そだちの強力で、笹をひッたくる、振分《ふりわけ》を預かってしまう、合羽の袖《そで》にほころびをこしらえる。文句をいえば、晩にわたしが縫ってあげます――と上手に見る。またそういうのに宿引女の極伝《ごくでん》があるそうで、わざとほころびをきらす女ばかり抱えておく別宿《べつやど》もあったりする。  なにしろ、大湯《おおゆ》の横にひッついている湯番小屋で、五刻《いつつ》の拍子木を打ち、導引《どういん》の笛がヒューと澄む頃までは、このかしましさがやまないのである。 「ホイ」 「ここだな」 「会田屋《あいだや》さん、お客様だぜ」  下《しも》ノ湯《ゆ》の角《かど》にある大きな宿の店先へ、二|挺《ちょう》の駕がおろされた。 「ご苦労様」 「駕屋さん、こちらへ掛けて一服お吸い」 「ようお着きなさいました」 「お洗足水《すすぎ》を」 「いえ、お荷物はこちらへ」  女中や番頭に取り巻かれて、すすぎ盥《だらい》の前へ腰かけたのは、商家の内儀《ないぎ》らしい年増の女と、地味な縞《しま》ものを着た手代《てだい》風の男であった。  足を拭いていると、帳場|格子《ごうし》にいた会田屋の老主人が、ちらと見て、初めて気がついたように筆を耳に挟《はさ》んで出てきた。 「これはお珍らしいことで、四国屋のお内儀《ないぎ》様ではございませんか」 「おや」と、つつましい笑い方に黒豆をならべたようなおはぐろ[#「おはぐろ」に傍点]の歯を見せて、 「善七さんでしたか、いつもお達者らしくて、ほんに、けっこうでございます」 「はい、おかげさまで、ありがたいことでござります。したがお内儀様、こんどもやはり善光寺へお詣《まい》りのお帰りでいらっしゃいますか」 「ええ、それが実は、小諸《こもろ》のほうの取引先に、ちと藍草《あいぐさ》の掛《か》けがたまりましたので、信心やら商用やら」 「おお、それじゃたいそうな廻り道で……きょうはあの和田峠をお越えなさりましたな。さぞお疲れなことでございましょう」 「疲れもどこかへ消えてしまいました。その和田峠から、とんだ目にあいましてね」 「ま、そこではなんでございますから、さ、どうぞこっちへ」 「新吉や」と、手代の方へ目交《めま》ぜをして――「お前も早くこッちへ体を隠したがよい。そんな所に坐っていると、また外から見えるじゃないか」 「四国屋様」 「はい」 「なにか外で、怖ろしいことにでもお逢いなされましたか」 「エエ、和田峠から、私たちを、つけ廻してくる侍がありましてね」 「へえ、あなた方を? ……」 「お宅へ着いて、ホッとひと安心いたしましたが、まだこのように胸が波を打っておりまする。誰か、お冷水《ひや》を一杯下さいませんか」 「怖ろしい侍たちでございました。しかもそれが三人づれで、和田峠の下りから、オーイと、私たちを呼びはじめたではございませんか」  四国屋とよばれた商家の内儀は、宿屋の老主人にこう話して、青い眉毛の痕《あと》をひそめた。 「ほ、三人づれの侍が?」 「ふりかえってみますと、上から早足に追ってまいります。それは、かなり間がありましたゆえ、わたしどもは怖い一心で、麓《ふもと》へつくとすぐに駕《かご》へ乗ってまいりましたが、気味の悪い侍たちは、それから先まで執念ぶかく駈けてきたそうでございます」 「ま、なんという図々しい奴」 「藍草《あいぐさ》の掛《か》けを取ってまいりましたので、その金に目をつけられたかと存じます」 「そうかも知れませぬ。ですが、もうご安心なさいまし、ここへ来たとて、決して泊めは致しませぬ」 「もしまた、姿でも見つけると、これから先、上方までの道中が、ほんとに思いやられます」 「そういう訳なら、早く、奥の部屋へ隠れておしまいなさいませ。おいよ、四国屋のお内儀様を……そうだな、どこがよかろうか」  主《あるじ》の善七が考えていると、そのまに、四国屋のお久良《くら》と手代の新吉は、案内もなしに奥の廊下へバタバタと走りこんでしまった。  妙に思って、なんの気なしに善七が店先を見ると、今、お久良から話をきいていたばかりの三人組の侍。 「ここだろう」 「ここらしい……」と、あたりをジロジロねめ廻しながら、遠慮なく店へ寄ってきた。  ひとりは熊谷笠《くまがいがさ》をかぶり、ひとりは総髪《そうはつ》、そのうしろには、底光りのする眼をもった黒頭巾|黒着《くろぎ》の武士。  これはいうまでもなく、お十夜とほかふたりの者である。和田峠の中腹を下ってきた時、周馬と一角が、先へ遠く急いでゆく男女のうしろ姿をみとめて、あれこそ、お綱と万吉に相違ないとばかり、にわかに意気ごんで、足を早めて追いかけたのだ。  すると、追えば追うほど、いよいよ先の男女《ふたり》が、後もみずに逃げだす様子なので、初めの怪しみは、的確に、それと思いこむようになってしまった。 「駕のついたのはたしかにここだ」と周馬が会田屋《あいだや》の前で明言すると、お十夜と一角がズッと中をさし覗《のぞ》きながら、ゆるせよ、と声をかけて、すぐに埃《ほこり》をハタき笠と振分を投げだしそうにした。  外にいた客引の女が、それと知って、あわてて洗足水《すすぎ》だらいをそこへすえると、帳場のわきに立って眼を丸くしていた主《あるじ》の善七、びっくりして店先へ飛んでくるなり、 「ばか!」と、女をどなりつけた。 「もうどの部屋もいッぱいで、御案内する座敷もないのに、なんでお断りしないのだ。気のきかないやつめ、ましてやお武家様方へ、しッ、失礼千万な」  叱られた女は、いったい、何がどうした叱言《こごと》なのかわからないが、客商売の断るかけひきはままあるので、そのまま、口をつぐんでいる。 「どうも申し訳がございません」  善七は如才なく両手をついて、 「せっかくでございますが、上も下も、折悪《おりあ》しくふさがりまして、御用に足りますような座敷は一つもござりませぬ。まことに申しかねますが、どうぞほか様へひとつお越しのほどを」  三人は黙って顔を見合せたが、こう不自然な断り方をされてみると、一層、ここへ逃げこんだ男女《ふたり》がてッきりそれと思われるし、善七の方にしてみれば、そう疑ってくる三人組の侍が、ますます道中稼ぎの浪人者とみてとれる。 「そうか、座敷がないとあらば、無理に泊ろうとはいわぬが……」  と天堂一角、傷の片腕を胸に曲げ、熊谷笠のうちから亭主の面《おもて》を睨みつけた。 「今し方のこと、当家へわらじをぬいだ男女がある筈、それをここへ呼びだして貰いたい」 「おまちがいではございませんか……私どもには、いっこうそんなお客様は」 「隠すな! たしかに見届けてまいったのだ」 「いえ、決して、隠しなどを」 「では出せ、その者をこれへ出せ!」 「でも、そういうお客様は、ハイ、今し方ならなおのこと、男女《ふたり》づれのお泊りはございませぬ」と、一角の威嚇《いかく》を巧《たく》みにうけて、どこまでも善七が言いぬけていると、側にみていたお十夜が、ちぇッと、歯がゆそうに癇《かん》を起こして、 「やい、亭主、甘くみてたかをくくっていると、気の毒だが、土足で家探しという荒療治になるぞ、いくら茶代をハズまれたかしらねえが、それとこれと、どっちが算盤玉《そろばんだま》に合うか、よく考えて返辞をしろ」  これはまるでムキ出しな浪人伝法《ろうにんでんぽう》。一角ほど肩肱《かたひじ》は張らないが、その代りに、黙って刀が先にものをいいそうだ。  大湯の八間燈《はちけん》や宿屋の軒行燈《のきあんどん》にちょうど灯の入る刻限なので、退屈な温泉《ゆ》の客と入りこんでくる旅人が、たちまち輪になって、会田屋の前をふさいでしまった。 「見世物ではないぞ、なんでそこらに立つか! あっちへ行け、あっちへ行け」  旅川周馬は、お十夜と背なかあわせに向いて、むらがる弥次馬を追っぱらいながら、顎《あご》のにきび[#「にきび」に傍点]をつぶしている。  そのうちに、湯番がきて、会田屋の肩をもったり、喧嘩と思いちがいして、仲裁に入る侍が出たりして、お十夜のかけあいも、ついに、一場の喜劇となってしまった。  土地には土地の約束もあるし、ことに、温泉町《ゆまち》のような場所には、犯すべからざる旅客の掟《おきて》がある。いくら一角の自来也鞘《じらいやざや》や、周馬の風采にひと癖ありとみえても、めッたにそれを破らすものではない。  なおこれ以上の騒動を起こすと松本の代官所からやっかいな者が出張《でば》ってくる懸念もあり、かたがた衆人環視の中なので、ぜひなく三人は、会田屋の前を離れた。  しかし、そこを去ったとはいうものの、もとより素直《すなお》にこの諏訪《すわ》の温泉《ゆ》の町を出てしまったわけでは無論ない。七、八歩あるいて、すぐ前の十三屋という家へ入った。そして、会田屋の二階と向い合っている表二階を明けさせて、ここから前の出口を見届けていようということになった。  さらに、それでも不安な点があるので、宿の者に過分な心づけを与えて、あの時刻に、会田屋へ入った男女《ふたり》の客が、裏口からでも立った時には早速知らせてくれと、念入りに手を廻して、さて、やっと、旅装を解いたのである。  周馬もどてら[#「どてら」に傍点]になり、一角もどてら[#「どてら」に傍点]に着かえたが、お十夜は着流しなので、あえてその必要もなく、茶をすすっていると、それを残して、二人はいつのまにか外の温泉《ゆ》につかってきた。 「なかなかいい温泉《ゆ》だ、お十夜も一風呂ザッと浴びてこないか」 「おれは後で行くよ、寝しなに」  膳がくる。蜆汁《しじみじる》の椀《わん》、鯉のあらい、木《き》の芽《め》田楽《でんがく》、それに酒。  信州路へ入って、鯉の料理にお目にかからない日はないぞ――といいながら、周馬が椀《わん》をチュッとすすって、うむ、こいつはいい、諏訪湖《すわこ》の味がするぞという。  このあたりで古い歴史のある俚謡《りよう》、木曾ぶしの絃歌が、赤く曇った湯気の町にサンザめきだす頃になると、 「どうだ、ひとつよぼうか」  と周馬がぬけめのない提案をもちだすと、「なにを?」と一角が通じない反問をする。 「なにをって、すなわち、唄《うた》い女《め》をさ」  返辞をしないで一角は、またのび上がって会田屋の門口を見おろしていた。お十夜は何をおかしく感じたか、周馬の顔をみて苦笑をもらし、それを隠すべく杯《さかずき》をさした。  平凡なる一夜をすごして、翌朝、起きるやいな、見張りを頼んでおいた宿の者をよんで、会田屋の男女《ふたり》が立ったかどうかを問いただすと、まだたしかに落ちついているという返辞。  その宿の男は、きのう、三人が会田屋の店に立った少し前に、駕を出て前の家に入った男女を見届けているということをいっているので、お十夜も一角も、すっかりこの男の見張りを信頼していた。  けれど、この男の見届けた事実に相違はなく、和田峠から追ってきた自分たちの眼が錯覚《さっかく》をおこしているのだとは、今にいたっても気がつかない。  遂にまたそれに惹《ひ》かれて、一日を暮らしてしまった。そして、一角も周馬も寝しずまった真夜中である。お十夜はただひとり、緒《お》のゆるい宿屋の下駄を突っかけて、屋根へ大きな石が幾つものせてある大湯《おおゆ》の浴槽へつかりに出かけた。  どこもかしこも、昼のように明るく燈《ともし》がつき放しになっているが、疲れたような空気がシーンと沈んでいる。孫兵衛は空を仰いで青い星を見た、どこの二階の障子にも影法師がない。  いつもかれのみは、こういう時刻を好んで湯にひたる習慣である。習慣というよりは努めているのだろう、とかく人に疑惑されている十夜頭巾を解くのに、ひとりの者が側にあってもならない。だが、今頃になれば大湯《おおゆ》の中にも誰もおりはしまい。  もうもうと白い湯けむりをあげている板囲いの浴槽は、上《かみ》ノ湯、中《なか》ノ湯と二棟に別れて長屋《ながや》なりにつづいている。孫兵衛は歩みよった順からまず中ノ湯の戸をぐわらッとあけて、ふと、脱衣場《ぬぎば》の棚をみると、女の帯と寝衣《ねまき》がおいてあった。  で孫兵衛。それを避けて上ノ湯の方へ歩みだした。板囲いの戸が細目に開いているので、覗いてみると、いッぱいな湯けむりで中はもうとしているが、チョロチョロと温泉《ゆ》が湧きこぼれる音のほか別に人気《ひとけ》もないらしいので、スッと土間口へ足を入れ、腰の助広を取って棚へおこうとすると、からりと、鞘《さや》にふれて鳴ったものがある。  見ると、尺八、いや、それと同じような一節切《ひとよぎり》の竹と天蓋《てんがい》。――これはまずい、あいにくとここにも誰か湯浴《ゆあ》みをしているやつがある――と舌打ちをしてフト向うへ眸をこらすと、湯気にまぎらわしい鼠色の衣を着た一人の虚無僧、掛絡《けらく》を外し、丸ぐけの帯を解き、これから湯壺へ入ろうとしている。  何思ったか、かれは、いきなりそこを飛び出し、宿の二階へ戻ってくるやいな、寝酒に酔って正体もなく眠っている周馬と一角とを揺《ゆ》すぶり起こして、 「おい、起きろ、すぐに支度をしろ、支度を」  不意に夢を破られて、赤い眼を渋そうにあいた二人は、時ならぬ頃に、お十夜があわただしい態《さま》をキョトンとして眺めながら、 「なにを騒いでいるのだ」  と枕に顎《あご》を乗せたけれど、容易に立ち上がりそうもない。 「意外なやつに出会ったぞ。まアいいから、とにかく起き上がってくれ」 「起きろというのか」 「ぐずぐずしているまには、またとない機会をのがしてしまうことになる」と孫兵衛は、用捨《ようしゃ》なく二人の夜具をはねのけた。かくてはいかに横着な周馬でも一角でも、安閑と寝てはいられないので、それと一緒に飛び上がって、 「では、会田屋に泊っているやつが、宿をぬけだして行ったのだろう」と、当然そうあるべきことと、思い当るところをいったが、孫兵衛はそれでもないとかぶりを振って、枕元の水挿《みずさし》を取り、 「とにかく、こいつをグーと飲んで、よく眼をさまして貰いたい。その上で話すとしよう」 「ふム? ……」と一角は、やや怪訝《けげん》な顔をしたが、すすめられるまでもなく、酔《よい》ざめのほしかったところなので、それを取って水挿の口から喉《のど》を鳴らして飲み干し、周馬にもすすめると、周馬は事態の容易ならぬさまにやや寒さをもよおしたらしく、いらない、とばかり身を硬くしてお十夜の面をジッと見つめている。 「ところで、何だ、お十夜」 「周馬」 「ウム」 「一角」 「オオ」 「法月弦之丞《のりづきげんのじょう》がツイ鼻の先に来ているぞ」 「えっ……弦之丞が」  この一句は一|斗《と》の酔《よい》ざめの水をのむより二人の目を冴えさせてしまった。 「――今おれが何の気もなく上ノ湯へ行ったところが、そこに一人の虚無僧がいる。湯気にさえぎられて先ではこっちの姿を見なかったらしいが、おれの眼にはしかと分った、まちがいなく法月弦之丞、ちょうど温泉《ゆ》につかっている頃だから、そこを襲ってやろうと思うがどうだ」 「よしッ。いい所を見つけてきた」  一角が鐺《こじり》を突いて立つと、旅川周馬、 「だが、待ちたまえ」と、沈着を装って、 「江戸表で探った所から推すと、その弦之丞は、もうとくに、垂井《たるい》の国分寺に着いて、道者船の出る日を待ちあわせている筈だ。それが、いまだにこの辺にいるというのは腑《ふ》に落ちないように思うが……」 「腑に落ちても落ちないでも、この孫兵衛が見届けてきた事実をどうする」 「しかし、疑心暗鬼ということもあるから」 「疑心暗鬼?」 「常に弦之丞のことを念頭にえがいているため、その錯覚《さっかく》で、縁なき虚無僧までが、それらしく見える場合もない限りではない」 「ちぇッ、また周馬が小理窟《こりくつ》をならべだした。時刻を移して、かれに先手を打たれては大変だ。お十夜! こんにゃく[#「こんにゃく」に傍点]問答をしている場合ではあるまい、すぐに行こう!」  自来也鞘《じらいやざや》の下緒《さげお》をしごいて、一角が性急にそこを出たので、孫兵衛もまた、周馬をすてて梯子《はしご》を下り、周馬もまた、いやおうなくついて、宿の外へ飛び出した。  深夜、人なき浴槽に身をひたして、こんこんと噴《ふ》きだす温泉《いでゆ》のせせらぎに耳心《じしん》を洗いながら、快い疲れをおぼえていた法月弦之丞は、やがて湯から上がって衣類をつけなおした。  常木鴻山《つねきこうざん》と松平左京之介《まつだいらさきょうのすけ》のほかは、誰も知らぬまに、代々木荘を出立したかれである。日程《ひどり》にすれば、もうとくに美濃路《みのじ》に入っている筈だが、道者船にのりあわせるには、向うでだいぶ待つことになるので、わざと道を迂回《うかい》して、屋代上田《やしろうえだ》などに旧知の剣友をたずね、さながら的《あて》なき旅をするもののように、今日も夜にかけて峠を越え、この温泉町《ゆまち》に辿《たど》りついたのを幸いに、自然の報謝をうけて、旅の垢《あか》を洗っていたのだ。  さて、久しぶりに爽快《そうかい》な気を味わったが、時刻はいたって都合が悪い、もう夜半《よわ》もすぎてやがて五|更《こう》になる頃おい、宿をとる間はなし、といってこれから塩尻の高原へかかるのも早過ぎる気がするし? ……。  ままよ、かりそめにせよ、普化僧《ふけそう》の法衣《ほうえ》を借りてある以上は、樹下石上も否むべきではない。道に任せて歩き、疲れた所を宿として草にも伏そう。と笛袋をさし、天蓋をかぶりかけていると、湯小屋の戸がガタンと動いた。  が、風でも吹き去ったのか、そのまま誰も入ってくる様子はないので、かれは片足立ちになって、わらじの緒を結んでいた。と、またかすかな音が外でする、人の跫音《あしおと》低いささやき……、それは耳に触れる程なものでないにしても、かれの心耳には明らかな空気の動揺を感じられた。  試みに戸へ手をかけて、一、二寸、ズズ……と引いてみると、外からひっそりした夜気がスーと流れこんでくるだけで、格別なこともないが、なにか、一脈の殺気が弦之丞の面を打ってくるように思われる。もっとも、かれには、最前ここをあけた男が、妙にそそくさと戻って行った不審もあったところだが……。 「はてな、これはおかしい」と気づいたので、かれは湯小屋の羽目へ背中を貼りつけたまま、サッと不意に引き開くと、それを待ちかまえていたらしい者が、ふいに躍りこんでくるなり、白刃をふって湯けむりの空《くう》を斬った。  さてはと、足をあげて弦之丞、その男の腰とおぼしい所を蹴って放す。  ドボーンと湯槽《ゆぶね》の中に湯の飛沫《しぶき》が立った。さだめし首から先に突ッ込んだのであろう。ぷッ……と濡れ鼠になって喚《わめ》いたのは旅川周馬。 「一角ッ、早く助剣《じょけん》を!」  いうまに弦之丞は、戸口から外へ足を踏みだした。とたんである。右に添って隠れていた一角の大刀、左に息をのんでいたお十夜の助広《すけひろ》が、かれの姿を待ちかまえていた。  足をすくった孫兵衛の刀は、風を流して湯小屋の柱へズンと食いこみ、一角の烈刀は一節切《ひとよぎり》の竹にはね返されて、柄手《つかで》にきびしいしびれを感じたばかり。  人を斬らんとする程の力で、柱へ斬りこんだそぼろ[#「そぼろ」に傍点]助広は、とっさ、たやすくは抜きとれないので、気をいらった孫兵衛は刀をそこに残したまま、ダッ――と追って弦之丞の後ろに組みつき、ここぞという一念を拇指《おやゆび》にこめて、相手の喉《のど》にくいこませたまま、 「一角、わき腹を突け!」と呶鳴った。けれど、寄り進んできた天堂の前には、そう呶鳴った孫兵衛そのものの体が、もんどり打って躍ってきたので、ふりかぶった大刀を無碍《むげ》にふって落せば、弦之丞を打つ前に、お十夜を両断にしてしまったかもしれない。  この一瞬に三人は、前後も場所がらも時刻も忘れて、すさまじい声と気合を発したのであろう。たちまち、四方に密集している温泉宿の二階や店先には、何ごとかと驚いたふうな人影が立って、またぞろ静かな温泉《ゆ》の町の平和はおびやかされてしまった。 [#3字下げ]もちの木《き》坂《ざか》[#「もちの木坂」は中見出し]  木曾福島の関所の高地から目の下の宿《しゅく》を見おろすと、屋根へ石をのせた家ばかりが櫛比《しっぴ》していて、ちょうど豆板という菓子でも干《ほ》してあるような奇観。  その関所の西口から急落している石段を、今、ひとりの儒者《じゅしゃ》ふうの男、肩から紐《ひも》で合財袋《がっさいぶくろ》と小瓢《こふくべ》をさげ、その小瓢のごとく飄々乎《ひょうひょうこ》として降りてくる。  宿《しゅく》へ入ると、瓢《ふくべ》先生、左右に軒をつらねている名物屋を、しきりに右顧《うこ》し左眄《さべん》して、干《ほ》し岩魚《いわな》の味をたずね、骨接薬《ほねつぎぐすり》の匂いをかぎ、檜細工《ひのきざいく》や干瓢屋《かんぴょうや》の軒さきにまで立ったが、ベツになんにも買いはしない。  あまつさえお六|櫛《ぐし》を造る店の前では、がらにもなく挿櫛《さしぐし》や鬢櫛《びんぐし》を手にとって、仔細にその細工のあとを眺め、ふところから日誌をだして二、三種の形を写した上、値だんも聞かずに、またその先へぶらぶら歩いて行ってしまう。  すこし変っている男だ。  いたって悠長な旅には違いない。後からくる旅人がいくら先へ追い越して行こうと、駕屋《かごや》が声をかけようと、一向気にとめる風もないが、何かに見とれている場合、不意に馬の長い顔が肩へ食いつきそうにでもなる時は、さすがに少し驚いて蛙のように横へ飛ぶ。  すると、この宿《しゅく》の出はずれには、あだかも、この変り者を待ち設けていたように風変りな店が控えていた。  木曾街道で有名な、ももんじ[#「ももんじ」に傍点]店《だな》である。隣から隣へつづいて半丁ばかりの両側は、みな、大熊、熊の胆《い》、貂《てん》の皮、などという看板をかけた店ばかり。狐、猪《しし》、小熊《こぐま》の生けるを檻《おり》に飼って往来の目をひく店もあり、美々《びび》しい奇鳥の啼《な》き声に人足《ひとあし》を呼ぼうとする家もある。そして、獣皮《じゅうひ》、獣蝋《じゅうろう》、膏薬《こうやく》、角細工《つのざいく》、馬具革《ばぐがわ》、袋ものなど、あらゆる獣産物《じゅうさんぶつ》を売っている。  瓢《ふくべ》先生は、果たしてこの奇なる景観にうたれたとみえて、やがて百獣店《ももんじだな》の一軒へ、ずッと寄って行ったかと思うと、その店先へ腰をおろした。 「いらっしゃいまし、熊の胆《い》をさしあげますか」  亭主が早くも貝殻の詰まった箱を持ちかけると、かれは侮辱されたように、その熊の胆《い》を舐《な》めたと同じ顔をして、 「そんな物はいらん。わしは医者だからな」  と、店の中を見廻した。 「ああ、なるほど」  亭主は自分の魯鈍《ろどん》に感心した。  細くつめて結んだ髷《まげ》なり風采なりが、医者といわれればどう眺めても医者である。 「黒貂《くろてん》の蹯《ばん》があるかい」 「蹯《ばん》? ……蹯《ばん》て何でございましょうか」 「てのひらだよ、黒い貂《てん》の」 「ああ、なるほど」とまたうなずいたが、 「どうもおあいにく様で。それにいくら木曾の山中でも黒毛の貂《てん》などはめったに捕れません」 「じゃ、こんど出た時に送って貰おう」 「おうけあいはできませんが、お所だけ伺っておいてみましょう」 「ム、わしは、大阪の九条村、平賀源内というものだよ」 「あ、平賀先生で、お名まえは伺っておりました。どちらへお越しでございますか」 「御岳《おんたけ》へ薬草採りにまいったが、どうも、ほしいものがあまりなくてな……。だがまた、意外な儲《もう》け物もいたしたよ。これ」と合財袋の口をのぞかせて、採集してきた草根木皮《そうこんもくひ》を一|掴《つか》みつかんで見せていたが、その時、ふと店先を過ぎてゆく旅人の姿に目を追って、 「ではまた、なんぞ要《い》る品があった時には、手紙を出して注文するから、よろしく頼むよ」  あわてて百獣店《ももんじだな》を出た源内は、七、八間ほど走りだすと、先へゆく二人づれの後ろへ、 「おい、万吉。そこへゆくのは、天満の万吉ではないか」と呼んで煽《あお》ぐように手をふった。  声に気がついて、足を止めた先の者は、中仙道の順路を辿《たど》ってこの木曾街道のなかばにある目明しの万吉とお綱であった。  通りすがった姿を見かけて、百獣店《ももんじだな》から追ってきた源内は、とんだよい道《みち》づれを見つけた気で、緩々《かんかん》たる歩調とのどかなあるきばなしに、木曾風俗の漫評《まんぴょう》や、御岳山《おんたけさん》の裏谷で採った薬草の効能や、そうかと思うと、近頃、大阪に見えない鴻山《こうざん》はどうしたろうとか、俵一八郎の伝書鳩はどうだとか、木曾のお六|櫛《ぐし》に朱漆《しゅうるし》をかけてミネに銀の金具をかぶせ、こいつをひとつ源内櫛と銘《めい》をうって花柳界に流行《はや》らせてみたら面白かろうとか、それからそれへ、とめどもなくしゃべりつづける。  おかげでお綱と万吉は、数里の道のりをいつのまにか歩いたが、御岳の薬草やお六櫛のことなどは、二人の旅に他山《たざん》の石ほどの値打もない。だが、どうせ歩く道はひとつなので、その晩は須原の駅に泊《とま》りをとって、同じ部屋にくつろぐと、晩酌《ばんしゃく》の話にまた源内流の旅行要心談がでる。  まず駅舎へついたら、土地の東西南北、宿《やど》の雪隠《せっちん》や裏表を第一に睨んでおくこと。刀《かたな》脇差《わきざし》はこじり[#「こじり」に傍点]を背中で挟《はさ》むくらいに床の下へさしこんで寝ること。隣座敷でする碁《ご》将棋の音や浄瑠璃《じょうるり》などには決して口をつりこまれぬこと。またこういう物を持って歩くと便利だよと、智慧の環《わ》のような金具を出して五ツの鈎《かぎ》に解き放し、それを長押《なげし》へ一つずつ懸けて、笠、衣類、合財袋、煙草入れ、旅の身上《しんしょう》をのこらずこれに吊ってみせる。  駕《かご》に酔ったのは船暈《ふなよい》より気もちが悪い。酔い癖のある者は駕の戸をあけて乗るがいい。ムカムカ頭痛がしてきた時には、熱湯に生姜《しょうが》の絞《しぼ》り汁を入れて呑む。ことに女は鳩尾《みぞおち》をシッカリと締めて乗ることだ、とこれはお綱のほうへ向いていった。  船もなかなか難儀なものだ。ひどく酔う者は血まで吐く。硫黄《いおう》か懐中|付木《つけぎ》をふところにして乗ると船に酔わないというが、ひどく船酔いした時には、半夏《はんげ》陳皮《ちんぴ》茯苓《ふくりょう》の三味を合せて呑ませるさ、だが、そんな物のない場合が多いから、しかる時には、童子の便をのますとたちまち効果がある。きたないというなかれ、[#「なかれ、」は底本では「なかれ、、」]血を吐くよりはましではないか、もし童子便なき時は、大人の尿《にょう》を呑ますべし――と鹿つめらしく講義をしたが、これは、阿波へ行こうという考えの万吉とお綱に、参考とまではならなくとも、ちょっと耳をひかれた話。  なお、田螺《たにし》を妙《い》りつけて旅先で用うれば水あたりのうれいがない。笠の下へ桃の葉をしいてかぶれば日射病にかからない。足の土踏まずが熱して腫《は》れ痛《いた》む時にはみみず[#「みみず」に傍点]を泥のまま摺《す》りつぶして塗ること秘方の一つ。苦参《くじん》という草を床の下へ敷いて寝るか、枳《からたち》の葉を抱いて寝ると蚤《のみ》よけになるということにまで源内談義が及びかけた時――不意に、今までヒッソリしていた隣り座敷で、 「だ、だッてお前、どの顔さげて、阿波へ帰れるものじゃない……」  声をたかぶらせていう者がある。  シク、シクと嗚咽《おえつ》する様子が女であった、連れとみえて慰めている。若い男で、その婦人の召使であるらしい。 「ま、お内儀様《かみさま》、そう取りつめて、お考えなさるからいけません。阿波へお帰りなさらぬの、死んでしまうなどと、そんなにまで……」 「お前は奉公人だから、そうまでは思うまいが、私にしてみれば、面目なくて、このまま旦那様へは顔が合されません」 「いえ、私もお内儀様《かみさま》についてきながら、こういう大事をひき起こしたのですから、その罪は同じでござります。けれど、お金のことですから、死んでお詫びをしたところで、それが戻るという訳じゃなし」 「でもお前、こんどの掛《か》けは少ないけれど、藍年貢《あいねんぐ》の足しにするお金で、私の戻りを待っている場合じゃないか、それをお前……それをあんな者にゆすり盗《と》られて」  阿波――という言葉がでたのでお綱はそのほうへ耳を澄ました。万吉もどうやら事情があるらしいことと、思わず膝を起こしかける。  けれど源内は、さっきも説いた旅行要心の心得通りに、それを抑え自分の声をひそめてしまった。  あらかた察しがついたので、源内と万吉は相談の上、境の襖《ふすま》をあけて隣り座敷へ入って行った。  途方にくれた様子で、そこにいた内儀と手代風の男は、先頃、和田峠でも人違いをされて、諏訪《すわ》の会田屋《あいだや》へ逃げこんだ四国屋のお久良《くら》と手代の新吉であった。  事情をきいてみるとこの二人は、あの時の難儀をどうにか遁《のが》れたと思うと、こんどは正真正銘のゴマの蠅《はえ》に目ぼしをつけられて、四日四晩もつきまとわれたあげく、とうとうこの宿《しゅく》の一ツ手前にある人なき峠で、腰帯にくるんだままの掛けの大金をゴマの蠅に強奪されてしまった。それもただの金ならいいが、藍《あい》と煙草の年貢《ねんぐ》金として、蜂須賀様へ納めなければならない急場に持って帰る途中なので、国元で、首を長くして待っている主人へ、どうにも顔向けがならないので……と、思わず取り乱した理由《わけ》を話したり、合宿《あいやど》の方の旅情まで不愉快にしてすまぬという詫びをのべる。  これが癪《しゃく》の病とか霍乱《かくらん》とかいう話なら、源内にも応急策はいろいろあるが、少なからぬ大金ではあるし、相手がよほど腕のすごいゴマの蠅ときいては、どうも匙《さじ》加減の及ぶ所ではない。これはよろしく職掌がらの目明しの万吉がいい相談相手であろうと、自分は精神的に慰めだけをいうに止めて、先へ臥床《ふしど》へ入ってしまった。  翌朝は源内、かねて名古屋へ廻る予定なので、一同に別れをつげ、先へ宿を立って行ったが、四国屋の者と万吉とお綱とは、午《ひる》近くまで宿に残ってそこの二階から前の街道を見張っていた。  するとやがて、皿のような眼をして、通る旅人を見ていた手代の新吉が、 「あいつだ、もし、あいつです、あいつです」と、障子の蔭から指さして万吉とお綱に教えた。 「あ、じゃ向う側に添ってゆく、あの青髯《あおひげ》のこい大男ですね」 「そうです、赤銅作《しゃくどうづく》りの脇差をさしている。あ、こっちを睨みやがった、気がついているのかしら?」 「じゃ、万吉さん、すぐ戻ってくるから、支度をして、宿屋の門まで出ていておくれ」と、どういう相談ができているのか、お綱はひとりで梯子《はしご》を下りて行ったかと思うと、もう門を出て、ゴマの蠅の後になり先になりして、五、六町ほど歩いて行った。  残ったほうの万吉は、宿の勘定や旅支度など、すっかりすまして駕を頼んだ。けれど自分は乗らずにお久良と新吉だけをその中へ隠して、しばらく帳場で四方山《よもやま》の話をしている。  と――そこで煙草を五、六服吸ったかと思うと、お綱が、すこし微笑しながら帰ってきた。そして、結び丸めた腰帯を、 「この品でしょう?」  お久良の駕の中へ落してやった。ザクリという金の音がした。あっ――とびっくりして、うれしまぎれに駕から飛びだそうとするのを、万吉が抑えるようにして、 「さ、急いで、今のうちに道をはかどっておしまいなせえ。なに、礼なんかにゃ及ばねえ、御縁があったらまた会いましょう」  無理に別れて二人の駕を先に立たせ、お綱と自分とは後からブラブラ歩きだした。  そして中川原の立場《たてば》までくると、さっきのゴマの蠅が、道しるべの石へ自分の笠をかぶせ、あたりの草の上へ荷物や帯を解きちらして、何か紛失物でもしたように、蚤取《のみと》り眼《まなこ》でバタバタと着物をはたいては考えている姿が見かけられた。  万吉は思わずプッと吹き出して、口を抑えて横向きに通りすぎた。お綱も横目で見たことは見て行ったが、なんの表情も現わさなかった。人を助けるためにしても、よしまたそれがどういう理由でも、掏《す》られた者のうろたえざまをみるのは、かれの懺悔心《ざんげしん》が人知れぬ痛みを感じる。  美濃へ入って垂井《たるい》の国分寺へもやがて近くなった。日いち日とはかどる旅の春も深くなってゆく。  国分寺につけば、そこで法月弦之丞に会えようと思うことを張合いにして、お綱と万吉は、その日、夕照《ゆうでり》をみながら少し無理な道《みち》のりをかけ、もちの[#「もちの」に傍点]木坂の登りにかかった。 「男でさえも足の筋が針金のように突っ張ってきたくらいだから、お綱さん、お前《めえ》はさぞくたびれたことだろう」  坂の中途に立ち止まって、汗ばむ胸へ手拭を入れた。そこからはるかに見渡すと、漠《ばく》とした雲の海に加賀の白山《はくさん》が群巒《ぐんらん》をぬいて望まれる。 「いいえ、阿波へ越えて剣山《つるぎさん》まで行き着こうというのですもの、これくらいな所でくたびれてしまってどうなるものじゃありませんよ」 「そうよな、まだほんとうの難所はこれから先だ、血の池があるか針の山が待っているか、どっちにしても命がけの……」そういいながら、まだどれほどの登りだろうかと、もちの[#「もちの」に傍点]木坂の勾配《こうばい》を見上げると、その中途に、名古屋へ出る裏街道の辻があって、目印の七本松がそびえている。  深山笹《みやまざさ》に夕風がそよいで、ひと足ごとに落日の紅耀《こうよう》がうすれてゆく。ぶらぶら上《のぼ》ってその辻まできてみると、椿と藪《やぶ》に埋まって西行《さいぎょう》法師の歌碑《うたぶみ》があり、それと並んで低い竹垣根を結《ゆ》い廻した高札場《こうさつば》がある。みると、宿役《しゅくやく》の布告《ふこく》や、何者かの人相書や、雑多なものがベタベタと貼《は》りつけてあるが、目につくのはその側《わき》に、別に立っている生新しい一本の立札。  なにげなく立ち寄った万吉、読み下してみてサッと色を変えた。それは二人がこれから指して行こうとする垂井《たるい》の国分寺から出た寺触《てらぶれ》で、春の道者船停止《どうじゃぶねていし》の沙汰が公示してある。 [#ここから1字下げ] 例年当寺ニテ執行《シュギョウ》ノ阿波《アワ》丈六寺代印可ノ儀|併《ナラ》ビニ遍路人《ヘンロニン》便乗ノ扱イ等|俄《ニワカ》ニ阿州家《アシュウケ》ヨリ御差止《オサシト》メ有之候《コレアリソウロウ》ヲ以《モッ》テ中止イタシ候《ソウロウ》尚《ナオ》秋船《アキブネ》ノ遍路ハ其折《ソノオリ》再告申《サイコクモウ》スベキ事《コト》。 [#ここで字下げ終わり] 「あ! ……こ、こりゃいけねえ」  高札の真偽を疑い、おのれの眼を疑うように、万吉はくり返しくり返しそれを読みつづけたが、 「ウーム、こういう沙汰が阿波から出たとすると、いつのまにか蜂須賀家では、もう用意を固めているものとみえる」 「じゃ、この春は、遍路の者の船まで止めてしまったのかしら」 「そういうふうに書いてあるが」 「とすると……弦之丞様は?」 「さあ、どうしたか、この模様変りとすれば、国分寺に足をとめている筈はありますまい」  嘆息《ためいき》といっしょに腕を組んで触札《ふれふだ》を睨みつけていたが、もう意地もなく気をくじいてしまったように、 「まずかった!」と臍《ほぞ》をかんで悔むのだった。 「俺としたことが、思えばとんだ手ぬかりをやっていた。阿波へ入る目標《めあて》にばかり気をとられていて、こっちの内幕を探られていることを、少しも頭においていなかったのが大失策――、こりゃあ天堂一角が、江戸から本国へいちいち早打をうって知らしていたので、こっちの先手を越して道者船を取止めたのに違えねえ。ウウム。これじゃまた阿波へ足ぶみをする道順が、百倍も千倍も大困難になってきたわえ」  腸《はらわた》をしぼるような万吉の呻《うめ》きをきいて、お綱も落胆のあまりそこへ坐ってしまいたくなった。進んでいいか退いていいか、その利害を思慮してみる勇気さえない。  垂井《たるい》まで行けば、弦之丞にも会えるだろうし、国分寺の印可《いんか》をうけて、目的地への渡海もたやすくできるものと、互に励ましあってきただけに、二人は希望の目前を絶壁に塞《ふさ》がれて、茫《ぼう》とした当惑に立ちつくしてしまった。  すると、坂の中腹、少し平地《ひらち》になった草原と空茶店《あきぢゃみせ》から、ひとりの武士、いたち[#「いたち」に傍点]のように顔を出した。  こなたの高札場に立っている、お綱と万吉のうしろ姿を眺めて、首を引っこめたかと思うと、こんどはその中から四、五人の侍が飛びだして、青い夕闇をすかしているような眼《まな》ざし。  指さしながら、何かひそひそとささやきあっていたかと思うと、やがて中のひとりが、二本の指を唇へ当てた。  と――不意に静かに、夕風をうごかして、笹鳴《ささな》りの音か、水の響きかとばかり、あたりへ鳴ってひろがったのは呼子《よびこ》の笛――。  赤い芽《め》をもった樫《かし》の林に、ありやなしやの宵月がほのかだ。  あやしげな呼子の音《ね》に、万吉はぎょッとしてお綱に目くばせした。そして高札の前を離れるやいな、のめるようにもちの[#「もちの」に傍点]木坂を駈け上がった。  とたんに崖《がけ》の両側からバラバラと飛び下りて来た野袴《のばかま》の武士、前をふさいで十人あまり、いずれも厳重な草鞋《わらじ》がけ、柄頭《つかがしら》をそろえて、 「待てッ」  坂の上から押しかかって、二人を前の場所まで突き戻してきた。  とみれば、中腹の平地にも、三々伍々の人影が草や石に腰を下ろして、その光景を眺めている。都会の武士らしからぬ言語風俗、まぎれもなくこの者たちは、阿波の国から急行してきたか、あるいは命をうけて安治川の阿州屋敷から出張《でば》ったものか、いずれにせよ蜂須賀の原士《はらし》なるには相違ない。 「おい! こっちへ――」  ヌッと立ってさしまねいたのは、最前呼子を吹いた原士、坂の上から押し戻してきた者たちへこういって、一同草原のまん中に待ちかまえていると、お綱は利腕《ききうで》を取られ、万吉は万吉でその襟《えり》がみをつかまれたまま、否応《いやおう》なくそこへ取り囲まれてきた。 「貴様だろう! 江戸表から阿波へまぎれ込もうとしてきた目明しの万吉はッ。ウヌ、そこにいるのこそ見返りお綱という女に違いない。望みにまかせて剣山へ連れて行ってやる、わざわざ迎えにきてやったのだ、神妙にしろよ」  こういい渡すと左右にいた原士が、バラリッと二人の前へ縄を解いた。万吉は飛びすさってお綱の身をかばったが、わざとおののく様子をみせて、 「な、何をなさいますんで――ちっともわけが分りません、私どもは商用がてら御岳詣《みたけまい》りをしてきた帰りの者で、お言葉のような者ではございません。お人違いじゃございませぬか」 「その白《しら》をきる面《つら》が、なんで今向うの高札の前にあんな様子をして立ちすくんでいたか。貴様たちをはじめ法月《のりづき》弦之丞が、この木曾街道へかかることを承知して、罠《わな》を掛けて待っていたのだ。その逃げ口上は通用せぬ」 「どうおっしゃいましても、そんな者でないことにはしかたがございません、へい、私は今も申し上げた通りの旅商人《たびあきんど》、これは妹の……」あくまでも言いのがれてみようと必死の弁をふるっていると、向うの空茶店の蔭から、頭から褄先《つまさき》まで真っ黒に着流したひとりの浪人者、ふところ手をしてそれへ出てきながら、 「よせよ、万吉」  と、せせら笑いをうかべて側に立った。  ひょいと見ると、青白い夕月をうけて頭巾の顔――意外やお十夜孫兵衛だ。 「あっ」  と万吉、もう言いのがれの及ばぬはめ、手を振りきって立とうとすると、原士の者と一緒にうしろに立っていた旅川周馬が、 「どこへ行く」  たぶさ[#「たぶさ」に傍点]をつかんで後ろへ仆した。  それを眺めながら、孫兵衛、手も出さずに苦笑《にがわら》いをかすめさせて、 「よせよ、万吉、そのジタバタが野暮というものだ。てめえも天満《てんま》の万吉とかいって、二十五万石の大国へ十手を振りあげた男じゃねえか。その上望みどおりに剣山で、生涯終らしてやるという迎えの御人数へ、手対《てむか》いをしては罰があたるぞ」――孫兵衛の言葉が続いているうちであった。もちの[#「もちの」に傍点]木坂の裏道から、樹葉《じゅよう》を分けて駈け登ってきた編笠《あみがさ》の男。  息がきれたか、途中の岩石に立ち、ホッと麓《ふもと》のほうへ眼をつけていたが、やがてまた、栗鼠《りす》のごとき素早さで、岩や根笹をつかみながら、一同のいる平地の一端へその姿を躍り立たせた。  何か? ――という気色《けしき》で、皆の眼がハッとそれへ惹《ひ》きよせられていると、編笠の男はさらにそこでも下のほうへ向って、耳へ手を当てていたが、 「方々《かたがた》、静かにしろ!」と手を振った。  そして一|足《そく》跳《と》びに疾走してきながら、編笠をそこへ叩きつけ、意気|軒昂《けんこう》な眉をあげて、 「来たぞ! いよいよここへ」  と、語尾を強めて言ったのは、すなわち天堂一角だ。  来たとは何者?  かねて期《ご》していることではあるらしいが、黒々とむらがり寄っていた人数が、思わず息を内へひそめた瞬間に、ちょうどもちの[#「もちの」に傍点]木坂の下あたりから喨々《りょうりょう》と夜を澄ましてくる一節切《ひとよぎり》の音《ね》のあることが分った。 「ム! とうとうきたな」  麓のほうをのぞみながら、お十夜と一角が、口のうちで強くうなずくと、気早に、下緒《さげお》を解いて、袖を引っからげた原士の面々も、 「オオ、あの一節切《ひとよぎり》か」  と、険《けわ》しい目合図を投げ交《か》わしながら、あたりの空気に氷を張らすばかり、シーンとした緊張味をみなぎらせた。  その間にも、次第に近づいてくる竹の音《ね》は、一味冷徹な鬼気を流してきて、そこに、鍔《つば》ぶるいをひそめる者、柄糸《つかいと》へ唇をつける者などの血汐をいよいよ惣毛立《そうけだ》たせ、いよいよ猛《たけ》くジリジリと沸《わ》き騒がせる。  周馬に襟がみをつかまれた上に、二人の原士に両腕をねじ上げられていた万吉は、もう今がすべての最期かと思った。天堂一角と本国との間に、かくも巧妙な連絡がついていては所詮《しょせん》、剣山はおろか、徳島の城下はおろか、鳴門潟《なるとがた》の磯を見ることさえ不可能なわけ。  もとより、こうと知っていたなら、やすやすと原士どもの囲みに陥《お》ちるのではなかった――とこみあげる無念に体をふるわせたものの、それもいわゆる噬臍《ぜいせい》の悔《く》いなるもので、かれはたちまち、お綱も自分と同じような縄目にかかるのを見ながら、数人の原士に蹴仆され、周馬だかお十夜だかに後《うし》ろ手《で》に締めあげられたまま、向うの松の大木へ引きずり寄せられ胴縛《どうしば》りにくくり付けられてしまった。 「それ、ぐずぐずしている間には!」と一方が急《せ》き立つと、 「向う側へも七、八人廻れ」 「よしッ!」といって珍らしく旅川周馬が疾駆するのを、天堂一角が、それへ続く原士たちへ、 「静かに――」と注意して、さらにお十夜の姿をふりかえった。 「孫兵衛、ぜひとも今夜はぬかってくれるな」 「ウム、大丈夫だろう?」と気をもたせて―― 「これだけの助太刀に、俺たち三人が足場を撰《よ》って待ちかまえているんだ。諏訪《すわ》じゃあこっちで斬りかけるとたんに、宿屋の奴や湯番の者が拍子木《ひょうしぎ》なんぞ叩き廻って、弥次馬を呼んでしまったから取り逃がしてしまったが、人の絶えたもちの[#「もちの」に傍点]木坂、新手《あらて》をかえてこれだけの者が一|太刀《たち》ずつかすッても、たいがい息のねは止まってしまうだろうと思う」 「ただ髀肉《ひにく》の嘆《たん》にたえないのは、この場合にきて拙者の左腕《うで》だ」 「まだ思うように伸びないかな?」 「繃帯《ほうたい》は取ったが、柄《つか》を自由に扱うことはむずかしい。戸田流の一本使いというような型はとるが、いざとなるとどこか気力の入らぬものでな」 「ま、おれが先手《せんて》に斬って仆すから、しばらく形勢を眺めていてくれ」  と、孫兵衛にも、今夜は十二分な確信があるもののごとく、他の者とはやや離れて、七本松のうしろへジッと体をかがませていた。  一瞬のまに、そこは墓場ともない寂寞《せきばく》の地域に帰っていた。三々伍々に躍っていたあれだけの人数も、ひとり残らず姿を消してしまい、ガサと隠れ場所をそよがす者もない。そして、薄曇りした宵月の明りで、向うの草原にもがいているお綱と万吉だけが、視界の中に動いているものの影である。  その時、気がついてみると、いつのまにか、麓《ふもと》のほうからくる一節切《ひとよぎり》の音が途切れていた。と思うと――こんどは不意に、前よりは数倍近い所に、呂々《りょりょ》とした音が起こって、もうその人はやがて坂の中段を横に切って行く渓流《けいりゅう》の丸木橋までかかってきたかと思われる。 「あ! ……あれは山千禽《やまちどり》! 山千禽……の曲」  松の根方《ねかた》にもがいていたお綱は、転々としながらこう叫んだ。叫んだけれど声は出ない。さいぜんお十夜のために、扱帯《しごき》を解かれて猿ぐつわ[#「ぐつわ」に傍点]をかけられていた。 「ちイッ……」無駄と知りながら、お綱はもがかずにはいられなかった。叫ばずにはいられなかった。 「弦之丞様ア!」  必死に喉《のど》をからしているつもりでも、天地は森《しん》として笛の音以外の何ものも伝えない。ただ、お綱の体が根笹の中にひとりでのた[#「のた」に傍点]打つばかりである。  冷々《ひえびえ》と樹海の空をめぐっている山嵐《さんらん》の声と一節切《ひとよぎり》の諧音《かいおん》は、はからずも神往《しんおう》な調和を作って、ほとんど、自然心と人霊とを、ピッタリ結びつけてしまったかのごとく澄みきっていた。  木々に精《せい》があるなら、花に化身《けしん》があるなら、あなおもしろの交響よ! とこの宵月に舞踊するであろう。  嘈々《そうそう》としてやまず、呂々《りょりょ》として尽きるところを知らぬ一節切《ひとよぎり》の吹き人《て》も、今は現《うつつ》であるだろうか。吹いては一歩、流しては一歩、夜旅の興趣と、おのれの芸味に酔いつつ来るのだろうか。  いや、一片の風流子の心事と、法月弦之丞の心に波うつものとは、大《だい》なる隔《へだ》てがある筈だ。したがって、同じ竹枝《ちくし》の奏《すさ》びにしても、その訴えるところは、巷《ちまた》や僧院の普化《ふけ》たちとは必然なちがいをもつ。  かれはおそらく、この木曾の夜の道を踏んで、あの禅定寺峠《ぜんじょうじとうげ》の頂《いただき》に、骨を埋めている唐草銀五郎のおもかげを、目にうかべずにはいられまい。  血みどろな合掌と、銀五郎が最期の声を新たに思いうかべる時――またかかる夜かれの菩提心《ぼだいしん》は、知らず知らずにも一節切《ひとよぎり》の一曲をその霊に手《た》むけさせる。  なおその呂韻《りょいん》に異常な熱を加えてくると、かれの胸底にひそんでいる剣侠的な情感は、笛の孔《あな》を破るばかりな覇気をおびてほとばしる。それは悲壮な行進の譜《ふ》であり、かれの余裕と鬱勃《うつぼつ》の勇を示すものだ、易水《えきすい》をわたる侠士《きょうし》の歌だ。  そうした山千禽《やまちどり》の曲の叫びは、かれの目指す鳴門の海にもひびき剣山の世阿弥が夢にも通うであろう。  その、法月弦之丞の姿は、今、もちの[#「もちの」に傍点]木坂三ツ目の曲り勾配《こうばい》、空谷《からだに》の桟橋《かけはし》を渡っていた。  竹の歌口へ唇をあてながら、うつむきかげんに歩んでくる、その肩のあたり、裾《すそ》のあたり、チラチラ影絵の雪のようにかすめて消えるものは、上の梢《こずえ》をこして映る、淡い月影の斑《ふ》であった。  山をめぐると坂の中腹。  月かげもない両側の崖に、道はやや急な爪先《つまさき》のぼりとなる。  バサリと、時々ころげてくるものは、落椿《おちつばき》の音だった。――弦之丞はこの辺から、一節切《ひとよぎり》を笛袋におさめて、ややしばらくの闇を辿《たど》る。  と、山犬のように、四、五人――七、八人ずつ――這《は》いつくばった黒い影が……。  西行《さいぎょう》塚の平地へきて、ホッと一息入れながら、弦之丞の天蓋がクルリと後ろへ振り向いた途端に、その影は両端の草むらや岩の根に、サッと野分《のわき》に吹かれた草のようになびいてしまう。  一|刻《とき》ばかり前に、お綱と万吉とが立った国分寺の触札《ふれふだ》は、悪魔の囮《おとり》のように弦之丞の目を招いていた。そして彼もなにげなくその柵《さく》の側へ足を吸いよせられて行った。 「…………」  笠の裡《うち》から黙読している弦之丞には、さしたる驚動《きょうどう》も見えなかった。むしろ、当然こうあるべきこととうなずいてもいる風。  路傍の一草のごとく、それを見て去らんとすると、その刹那だ! 七本松の黒々とわだかまった闇の蔭にシーッと息をこらしているかのような氷刃《ひょうじん》の鋭気。  踵《きびす》をかえして七、八歩、うしろを見るといつのまにか、そこにも狼群《ろうぐん》のような原士《はらし》が、兇刃を植えならべて、じわじわと、静から動へ移らんとする空気をみなぎらしている。  左右の草むらにも閃々《せんせん》たる伏刃《ふくじん》。  坂の上、坂の下、四方は全き剣《つるぎ》の垣だ。法月弦之丞は、もう一歩でもゆるがせにそこを動くことはできない。  すると。  どう考えたか弦之丞、足もとの岩の上へ、ゆたりと腰を下ろしてしまった。  同時に、天蓋をぬぎ掛絡《けらく》をはずし、そして、一本一本の指を握って折り曲げた。  あたかも盲が勘をめぐらすように――。  こういう危地に陥《お》ちた場合、かれは必ず数度の息を静かに吸ってかかる。  いかなる兇暴な殺刃でも、冷々《れいれい》として騒がずに、その呼吸の支度をしている間には、容易に、斬ってかかり得ないものだ。  かれに、狐疑《こぎ》と逡巡《しゅんじゅん》をいだかせ、その間に、われは心耳心眼を研《と》いで、悔《く》いなき剣の行きどころを決する。  いわゆる、胆《たん》まず敵をのむのである。  見えざる敵を見、聞こえざる音を聞き、光なき闇をも瞬間に察しなければならぬ。その思慮なく、おのれの勇を過信して、一人の剣を交《か》わし左右の敵を電瞬《でんしゅん》に切って捨てたくらいでは、その寸隙《すんげき》に八面の殺刀が、たちどころに一人の相手を蜂の巣と刺激するに足るであろう。  弦之丞が師事し、味得しているところの、戸ヶ崎|夕雲《せきうん》の夕雲流《せきうんりゅう》なる剣法が、神陰《しんかげ》とひとしく、そもそも白虎《びゃっこ》和尚の禅機から発足していて、剣気と禅妙の味通、生死同風の悟徹の底から生まれているだけに、あざやかなる剣を舞わす派手技《はでわざ》よりは、まずもって剣前に、半眼《はんがん》の心をいたすこと夕雲工夫の奥伝《おくでん》とする。  で――今。  もちの[#「もちの」に傍点]木坂に足場をかためて、待ちもうけていた敵の重囲の中核に陥《お》ちつつ、法月弦之丞がことさらに悠々と腰をかけたのもその心。笠《かさ》掛絡《けらく》を地に捨てて、指の節を一本ずつ、ポキリ、ポキリと、もむようにして、四方を睥睨《へいげい》しているのも、まさに、その気構えをととのえているものと思われる。  しかし。  それもほんの一瞬である。  そよそよと吹く風が、およそ、二、三度|鬢《びん》づら[#「づら」に傍点]を撫でたほどな秒間――。  もの蔭や草むらに、また地に匍匐《ほふく》している敵の数も残らず読めた――かるが故に、その陣外にあって、飛び道具を離す二の手はあるまい。四方に散立《さんりつ》する大樹の梢にも、それらしい奴のよじ登っている様子もないことが分った。  うむ! ではまず敵は周囲にある二十四、五人だな。――阿波の原士《はらし》――それに入りまじってあるものは天堂一角、お十夜孫兵衛、旅川周馬。  こう、弦之丞は、心のうちでうなずいた。  諏訪《すわ》の大湯で、かれらが自分を擁撃《ようげき》した後から、弦之丞はすでに前後の経過を察していた。今、道者船とり[#「とり」に傍点]止《や》めの高札を見ても、それが故に、さまで驚きもせず落胆もしなかった。また、信濃境から、後なる三人が先へ駈けぬけて行ったことにも気がついていたので、今宵の伏刃も、あらかた、かくあるべく予期していたところ。  さらば来い!  修法のものに不退転という言葉がある。  つるぎ山へ行き着こうとする目的は、ちょうど彼岸《ひがん》へ達そうとするその信仰と一つだ。ここまで足を踏みだして来ながら、わずか一|基《き》の高札文や、三、四十本の錆刀《さびがたな》に行き当ったからとて、やわか、一歩でも足を後へ戻してよいものか。  山も阻《はば》めてみよ、海も防いでみよ、阿波の関も固めてみよ。  必ず、法月弦之丞は、つるぎ山の間者牢へまで、この足を踏みかけずにはおかぬ。  おお、それを堰《せ》かんとすればするほど、不退転の信を強め、自己の一念の度を加えていってみせる!  と――青年弦之丞が全身の熱血は、ここに、火ともならんほど燃えあがって、手はおのずから腰刀《こしがたな》の柄《つか》へかかり、胆《たん》、気、力の充《み》ちみなぎった五体は、徐々に岩を離れてヌーと伸びあがった。  さながら、岩角に雄躯《ゆうく》をのばした牡獅子《おじし》の姿――壮であり美であった。  そして不意に大声の一|喝《かつ》。 「どうしたのだッ! 卑怯な奴めら」  打って響かせた気魄《きはく》の鋭さ。  これが、白皙痩身《はくせきそうしん》の美丈夫、あの弦之丞の声音《こわね》かと疑われる。  シーッと静まり返っている八方の閃刃《せんじん》。機を逸したか、胆をのまれてしまったか、それに応じる気合いもないうちに、またかれは凛々《りんりん》たる語気を張って、 「――阿波の原士《はらし》とは問わでも読めた。汝らの待ち伏せていた法月弦之丞はここにおるぞ。何をしびれをきらしているのか! さッ、かかって来いッ! 斬りつけて来い! さまたげのないもちの[#「もちの」に傍点]木坂はのぞむ所の足場であった。どれほど腕の精魂がつづくものか、夕雲流の八|天斬《てんぎ》り、九|地《ち》に死骸の山を積ンでくれる!」  爛《らん》とした眼の向くところ、タジタジと退身《ひけみ》に動く相手の気配が、敵ながらもどかしそうであった。――と弦之丞は一方の物かげへ向かって、 「――旅川周馬はいないか! お十夜孫兵衛はその中におらぬのか! 天堂一角はいかが致した。いつもこそこそと拙者をつけ狙《ねろ》うておるくせに、なぜ今ここへ真《ま》っ向《こう》に躍り立って、いさぎよく弦之丞へ名乗りかけぬか。――ウウム! 返辞がないな! では逆礼《ぎゃくれい》ながら待ち伏せられたこのほうから初太刀《しょだち》がまいるぞッ――」 「生意気なッ」  と、初めて、怒声を叩き返したのは、剽悍《ひょうかん》なる原士のひとり、無謀! 血気な太刀に風をくらわせて、閃光《せんこう》とともに弦之丞の身辺へ躍りかかって行った。  待つや久し――  柄《つか》に満《まん》を持していた弦之丞の片肘《かたひじ》、ピクリッと脈を打ったかのごとく動いて、真《ま》っ向《こう》に躍ってきた影をすくうかとみれば、バッ――と鞘《さや》を脱した離弦《りげん》の太刀《たち》!  それはひそやかに、後ろに廻っていたものの腰車を払って、遺憾《いかん》なきまでに斬って抜け、左へ返すやいな、八|相《そう》の落し。  剣風一陣、もう三名が血まつりの犠牲《にえ》となった。 「わアーっ」  という鬨《とき》の声、期せずして、山をゆるがし、皓々《こうこう》たる刀林《とうりん》をどよ[#「どよ」に傍点]ませてきたのは、その途端だ。  血をみて発作的にふるいあがった声――獣性も人もけじめ[#「けじめ」に傍点]なきかを思わする兇暴なる挑戦の猛吼《もうく》。 「それッ」 「相手はひとりだ!」 「鬼神ではあるまい! ひるむなッ」  二十余名の原士の姿、ここに黒々と明らさまなる影を描き、かつ躍り、坂の下段、坂の上方から、弦之丞ひとりを挟んでミリミリと鋭刃《えいじん》を詰めあった。  すでに、返り血の斑点《はんてん》を身に浴び、剣それ以外に何ものもない、無想境の神《しん》に入った弦之丞は、仆れ重なった三個の死体に片足を踏まえて、 「オッ。いざ来い!」  と無銘《むめい》の皓刀《こうとう》、ふたたび、八相の天に振りかぶって、双眸《そうぼう》らんらん、四面に構えた。 「むむッ」 「おおッ」  と取りかこむ数多《あまた》の人数――ズ、ズ、ズ、ズ――と弦之丞の周りを巡《めぐ》って動いていたかと思うと、坂の上手《かみて》の者六、七人、足場のいい地勢から、かこみをくずして乱剣の太刀風荒く、いちどにドッと斬りつける! 「押しきれ!」 「退《ひ》くなッ」  と坂の下手《しもて》へ廻った者も、機を狙って切《き》ッ尖《さき》をそろえ、颯《さっ》、颯、颯然! 真っ黒になってなだれ[#「なだれ」に傍点]かかる――  剣の光は閃々《せんせん》と乱れて見えたが、その時、ここ、もちの[#「もちの」に傍点]木坂の一地点――ほとんど、人と人と人と人とのかたまり[#「かたまり」に傍点]が、一個の野晒《のざらし》をあばき[#「あばき」に傍点]合う狼群《ろうぐん》のごとく眺められて、さしも、法月弦之丞、どうなってしまったか、その群影に揉《も》みこまれて、しばらくの間というもの、かれの姿を識別しようもない。  が、それも一刻。  ワッとどよみ立ったかと思うと、すべての影がボヤッと隠れた――四、五人|斃《たお》れた血煙の霧だろう――と見れば刹那に弦之丞の姿、逆風剣《ぎゃくふうけん》の切《き》ッ尖《さき》を、上手《かみて》の者の足もとに薙《な》ぎつけて、まっしぐらに坂の上手へ踊り進んでいる。  逃げるかと見て、追いかけると、不意に、一転して立ちなおった。こんどは地勢を改めて、すべての人数を下へ見おろし、吾から寄って左風剣、右風の剣、無二無三に斬ってまくる。  その鋭刃《えいじん》になぎ立てられ、半数あまりの原士たちが、算をみだし、傷《て》を負って、ドドドッ――と下り勾配《こうばい》へ押し崩れてゆくのを、夜叉《やしゃ》のごとく追いかけて、ひとりあまさず斬《き》り伏《ふ》させずにはやまないかにみえた。  思うに、今こそ、弦之丞が剣をとっての本相は、かれが平常の、白皙柳眉《はくせきりゅうび》の柔和仮面《にゅうわめん》をかなぐりすて、獅身夜叉面《ししんやしゃめん》のおそろしき本体を見するのであろう。  逃げおくれるのを跳び斬りに切ッて放し、なおも疾風! 引ッさげ刀! ピューッと血糊《のり》をすごきながら追って走ると、そのうしろへ、 「待てッ、弦之丞――」  とからみついた閃光《せんこう》がある。そぼろ[#「そぼろ」に傍点]助広の閃光であった。 「なにッ」  と坂の勾配《こうばい》に、惰勢《だせい》のついた行き足を止めて、ふりかえるや、その真眉間《まみけん》へ、 「かッ!」とばかり、目のくらむような気当《きあて》と一緒に、猿臂《えんぴ》のばしにふりつけてきた岩砕《がんさい》の太刀《たち》。  丹石《たんせき》流の呼吸である。  業刀《わざもの》はそぼろ[#「そぼろ」に傍点]助広、持ち人《て》はいうまでもないお十夜孫兵衛。  チャリン! という音の冴え。双方の鍔《つば》へ――鏘然《しょうぜん》として、まッ青な火が降った。  斬《き》るか、斬られるか。  やるか、とるか。  剣と剣の間には、毛髪をいれる妥協もない。  触れたがさいご、焼金《やきがね》からシューッと青い火花が飛ぶ――火花は生命《いのち》の目《ま》ばたき[#「ばたき」に傍点]だ。  豹《ひょう》の四|肢《し》のごとく、伸縮の自由な孫兵衛の腕ぶしには、一種の粘力《ねんりょく》があってなかなかあなどり難い。ことには弦之丞がすでに散々な疲労をおぼえているに反して、その気息には新しい力がある。  すさまじい一合二合! そこでガッキと鍔《つば》が食いあったが弦之丞、坂の下寄りへ廻っていたので、柄手《つかで》をねじって、ひッぱずした。 「あっ!」と、その時、孫兵衛のほうに、不意に息が抜けたのは、ヒタ押しに上方から鍔競《つばぜり》を押す気ごみであったらしい。かれの上体は弾《はず》みをくって、坂を斜めに泳いでしまった。すると、 「おのれッ」と、また一人。  小高い所から飛び下りて、片手かぶりの大刀を、そのまま梨割《なしわ》りにふるって落してきたのは、殿《しんがり》をしろと孫兵衛にいわれていた、天堂一角。  いつまで周馬の現われぬのに業をにやして、もう我慢ができないというふうに、片手上段で飛び下りたが、早くも弦之丞、剣下《けんか》を交わしてしまったのみか、裾《すそ》を払って、その隙に、一方の低地へ駈け下りた。  そこは最前、弦之丞がここへ来る前に、三人を初め原士のすべてが、たむろをしていた草原で、わざとそこへ走ったのは、なお闘うべく地相を選みなおしたものか。  かれが平地へ立ちなおったのをみると、草原の隅に身を屈していた旅川周馬、ムクムクと身を起こして、しずかに近くへ近くへと這いまわって行った。――そのまに一角とお十夜は、さらに猛然と、切《き》ッ尖《さき》をならべ、たとえどんなことがあるとも、今夜こそは弦之丞を刺《さ》しとめずにはおかぬという気勢を示した。そして、先に乱離《らんり》となった原士の方も駈けあわせてきて、捲土重来《けんどちょうらい》の手ぐすねをひき、ふたたび疲れた弦之丞を危地へ誘い込もうとする。  もう最前の場所からこの平地までの間には、弦之丞の烈刀《れっとう》にあたって血みどろになったものが、少なくも八、九名はのた[#「のた」に傍点]打っている筈だが、残余の氷刃が一ヵ所に晃々《こうこう》と集立《しゅうりつ》すると、いっこう人数が減ったとはみえない。  そのおびただしい光ものが、チカチカきらめくたびごとに、弦之丞の命が、一|分《ぶ》二分ずつ、磨《す》り減らされてゆくのではあるまいか――どう倫《りん》を絶した使い手にしろ、疲れぬ肉体というものを持っている筈がない。  だが、静かにそこを冷観すると、なんという壮美な活景だろう。空には妖麗な金剛雲《こんごうぐも》――地にはほのかな宵月《よいづき》の明り。  花には露の玉があり、草は柔らかい呼吸をしていた。そこへ、人間の生血が惜しげもなくフリまかれる。  かくて麗《うるわ》しい夜は夜だが、お綱は苦しい、修羅《しゅら》の刻々だ! 万吉も深い血の池へ溺れこんでいるようにもがいた。二人は縛《いまし》められている松の根元を転々としながら、どうかして、縄《なわ》を噛み切ろうと、さまざまに悶《もだ》えて体を蝦《えび》のごとく折り曲げた。  すると、万吉の縛り付けられている松の木から、二、三間ばかり離れた所に、旅川周馬が身を折り敷いて、玉薬《たまぐすり》をこめ火縄を吹き、あなたにある弦之丞の姿を狙《ねら》って、あわや短銃の引金を引こうとしている。 「畜生! ……」と思ったが、縄目に自由を奪われている万吉には、どうする術《すべ》もない。  しかし、最前から、ジッと身を隠し通していた旅川周馬、引金をひいたらただ一発で、必ず弦之丞の急所を撃ってみせようとする意図なのに相違ない。  危機は間髪《かんはつ》!  弦之丞の致命をつかみかけている危機は、かれの身辺よりむしろここにあった。 「エエいまいましい! みすみすそこにいる奴を眺めながら――」と万吉の歯が下唇をかみしめた。と、かれは足を踏ン張って、松の根元から芋《いも》虫のように転がった。そして、五体の肉をもがかせて、縄の伸びるかぎり周馬の方へズリ出してゆく――。  周馬はといえば、今や、構えを取った銃先《つつさき》の焦点へ全念をこらしかけていたので、それとは気づかずに指へ力をこめかけると、いきなり、伸びて廻った万吉の足が、ウム! とその片肘《かたひじ》を蹴払った。  とたんに、ズドーンという硝薬《しょうやく》のひびき。的《まと》を狂わせて天空へ音波をゆすッた。  徒労になった轟音《ごうおん》に、耳をガンとさせた旅川周馬。  はからぬ邪魔をした万吉の足へ、カッと眼をいからせて、 「ちぇッ、なにをしやがる!」  と、まだ余煙のからんでいる短銃をイヤというほど叩きつけた。  と――今の爆音に気がついて、旋風のごとく、そこへ猪突《ちょとつ》してきた者がある。  眉《まゆ》はあがり、髪はみだれ、気息はあらく炎のよう――手には幾多の生胴《いきどう》をかけた血あぶら[#「あぶら」に傍点]のうく直刃《すぐは》の一刀。  それを引っさげて疾駆してきた。  弦之丞である、天魔神を思わする姿である。  さながら潮《うしお》をさしまねくように、わッと刃囲《じんい》をくずして追いかかる後ろの声に振り向きもせず、来るや、そこなる周馬を目がけて、 「えーいッ」  とばかり一|跳足《ちょうそく》。  逆風を切ッて横薙《よこな》ぎに一揮《ひとふ》り、相手の胴へビューッと走ったは、またもやあの手――弦之丞が今宵同じ手ぐちで四人までも斬っている夕雲流の逆風剣――すなわち八|天斬《てんぎ》りと誇称されるあぶない切《き》ッ尖《さき》。  周馬。  いきなりその剣風をくらッて、吹ッ飛ばされたかのごとく、あッ――と後ろへ片足立ち、気当《きあて》を返して腰の太刀を、 「おうッ」とすぐに抜きあわしたが、無論、自分の体《たい》を退《ひ》いているので、その払いは虚にして空、キリキリ舞いをやったにすぎない。  もう一歩――その刹那に、弦之丞の返し太刀が、足とともにふって落されたら、旅川周馬、その時、梨か竹かのように二ツに割られている筈である。  だが、すぐ後へ――お十夜と一角が電馳《でんち》して来た。原士の乱刃が迫っていた。  で――弦之丞はその寸隙《すんげき》を惜しんだのであろう。周馬へまいる余地のある太刀を、ヒラリと返して横へ駈けるや、そこに仆れていた万吉の縄目を、プツリと斬って孫兵衛と一角のほうを防いだ。  何か、異様な叫びをあげて――まったく何を叫んだか分らない――はね上がった目明しの万吉は、お綱のそばへ転げて行って、次にかれの縄を切った。  猿ぐつわ[#「ぐつわ」に傍点]を振りほどくと、お綱は、吾を忘れて、弦之丞の名を呼んだ。  弦之丞も、無論、それをお綱の声と聞いたであろう。だが、周馬、一角、お十夜――こう三人の鋭刃《えいじん》を前にして、かれは死力に汗をしぼっていた場合であるから、或いは、聞こえなかったかも知れない。  万吉は新手《あらて》の意気ごみで、道中差の鞘《さや》を払った。お綱もまた、母のかたみであり、剣山に辿《たど》りついた時、父の世阿弥に名のるべき唯一の証《しるし》として、愛護してきたあの銘刀へ手をかけた。  かくて――  春月を隠した美しい金剛雲の下で、その夜、惜し気もなく犠牲《にえ》に散らされた鮮血が、どこまで、もちの[#「もちの」に傍点]木坂|満地《まんち》の若草を紅《くれない》にしたことか? ……。  やがて、刃影の跳躍も、一場の夢幻となってかき消えた。そして、木曾の往還は何ごともなかったように夜が明ける。  小荷駄《こにだ》の鈴が街道の朝を知らせ、小禽《ことり》が愉快にさえずりだした。真昼の太陽に草の露が乾くころには、墨汁《ぼくじゅう》をこぼしたかと思われる道ばたの血痕も、馬蹄《ばてい》やわらじの土埃《つちぼこり》に蔽《おお》われて、誰の目にも、ゆうべの修羅が気づかれない。  幾つもの死骸や負傷《ておい》はどこへ運び去られて行ったか、夜明けの前に手ぎわよく片づけられていたのである。で、すべての旅人はみな常と変りはなく、もちの[#「もちの」に傍点]木坂を通りすぎたが、敏覚な虫類――虻《あぶ》や蝶や太陽虫《てんとむし》などはいたる所の草の根から、面《おもて》をそむけて飛んでいた。 底本:「鳴門秘帖(二)」吉川英治歴史時代文庫、講談社    1989(平成元)年9月11日第1刷発行    2008(平成20)年12月24日第22刷発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:門田裕志 校正:トレンドイースト 2013年2月4日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。