白南風 北原白秋 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)厨戸《くりやど》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)藍微塵|檀《まゆみ》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)〻 ------------------------------------------------------- [#ページの左右中央] [#中垣(世田ヶ谷時代)の口絵の図(fig52391_01.png、横640×縦483)入る] [#改丁] [#ページの左右中央] [#1字下げ][#大見出し]序[#大見出し終わり] [#改ページ]  白南風は送梅の風なり。白光にして雲霧昂騰し、時によりて些か小雨を雜ゆ。欝すれども而も既に輝き、陰濕漸くに霽れて、愈〻に孟夏の青空を望む。その薫蒸するところ暑く、その蕩搖するところ、日に新にして流る。かの白榮と言ひ、白映と作すところのもの是也。蓋し又、此の白映の候に中りて、茲に我が歌興の煙霞と籠るところ多きを以て、採つて題名とす。もとより本集の歌品秋冬に尠く、春夏に多きもその故なり。  我が短歌に念持するところのもの、即ち古來の定型にして、他奇なし。ただ僅かに我が歌調を這個の中に築かむとするのみ。その自然の觀照に於ては、必ずしも名山大澤に之を索めず、居に從ひて選ぶ平々凡々の四圍に過ぎず。又、その生活感情の本とするところに於て、あながちに一時の世相に關せず、社會機構とも強ひて連工する無し。而も又、孤高を潔しとし、流行を斥くるにもあらず。ただ專ら短歌を短歌とし、自然を自然とし、我を亦我とするのみ。本分は我自ら知るべきなり。  惟ふに風騷いやしくもすべからず。かの光明に參じ、虚實交〻にして莊嚴の祕密を識る、畢竟は此の我を觀、我を識るなり。一なる生命の根源に貫徹すべきのみ。乃ち、心地清明にして萬象おのづからに透映し、品格整齊して氣韻おのづからに生動せむ。純情にして簡朴なる、幽玄にして富贍なる、情意臻つて詞華之に順じ、境涯極に入つて象徴の香氣一に鐘る。一首は遂に一首にして亦生死の道なり。質實にして強靱ならされば得べからず。  又、惟ふに、神工にして成るものは稀なり。我が如きは、ただに玄微に玄微を搜ね、一音に一音を積み、而も鈍根にして未だ全く達するところを知らず。ただ好むところに殉じ、時に隨ひて行ふのみ。苦樂もと一なり。靈感は安易にして俟つべきにあらず。ただ日常にありて忘れざるべきを思ふ。精錬の道にして、初めて成就すべき業ならむか。恭謙ならざれば到り難し。 『白南風』一卷、もとより屑々の歌集にして、何らの氣に負ふべきものなし。日光・月色・風塵・草卉・魚・鳥の諸相、季節と生活、單にただ一々の歌品を以て、偶ま同好にして渾厚の士の清鑒に供へむとするのみ。言説すべきにあらず。 [#ここから1段階小さな文字] [#2字下げ]昭和九年四月 [#地から5字上げ]砧村の雲と鐵塔の下にて [#ここで小さな文字終わり] [#地から2字上げ]白秋識 [#改丁] [#ページの左右中央] [#ここから5字下げ] 口繪 [#1段階小さな文字]中垣(世田ヶ谷時代)[#小さな文字終わり] 山本鼎 裝幀            北原白秋 [#ここで字下げ終わり] [#改丁] [#ページの左右中央] [#1字下げ]天王寺墓畔吟[#「天王寺墓畔吟」は大見出し] [#改ページ] [#ページの左右中央] [#ここから1段階小さな文字] [#ここから4字下げ] [#ここから24字詰め] 大正十五年の、谷中天王寺墓畔に於ける生活に由る。新舊作合せて、短歌二百五拾貳首、長歌一篇。墓畔吟なれども必ずしも哀傷せず、世は樂しければなり。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] [#改丁] [#ページの左右中央] [#中見出し]Ⅰ・朴はひらく[#中見出し終わり] [#改ページ] [#2字下げ]新居[#「新居」は小見出し] 移り來てまだ住みつかず白藤のこの垂り房もみじかかりけり 厨戸《くりやど》のとのもの小米花《こごめ》闌《た》けにけり衣《ころも》干したり子らがさごろも [#2字下げ]春晝[#「春晝」は小見出し] 春まひる眞正面《まとも》の塔の照りしらむ廻縁《ゆか》高うしてしづかなる土 塔《あららぎ》や五重の端反《はぞり》うつくしき春晝《しゆんちう》にしてうかぶ白雲 [#2字下げ]珠數工[#「珠數工」は小見出し] 音きざむ珠數屋が窻の板びさし椎の古葉《ふるは》のつみて久しき 春まひる隣に聽きてひそけさよ珠數みがく子らが息吹《いぶき》ためつつ 木蘭《もくれん》は花の立枝《たちえ》の影濃くて表《おもて》にほへりいちじろき照り 木蘭《もくれん》の花立ちひらく春日すらひめもすや人の珠《たま》磨きする さしなみの隣につづる珠の緒の現《うつつ》なりけに春はかそけさ [#2字下げ]墓地前[#「墓地前」は小見出し] 春過ぎて夏來にけりとおもほゆる大藤棚《おほふぢだな》のながき藤浪 墓地前は石屋が軒をうづみてし白雲木《はくうんぼく》の花もをはりぬ [#2字下げ]鷺・鶴・珠鷄[#「鷺・鶴・珠鷄」は小見出し] [#5字下げ][#1段階小さな文字]動物園所見[#小さな文字終わり] [#3字下げ][#1段階小さな文字]鷺[#小さな文字終わり] 白鷺はくちばし黝《くろ》しうつぶくとうしろしみみにそよぐ冠毛《かむりげ》 槇《まき》もやや光る葉がひを秀《ほ》に佇《た》ちて青鷺の群のなにかけうとさ [#3字下げ][#1段階小さな文字]鶴[#小さな文字終わり] 鶴の巣と松の根方に敷く藁は今朝《けさ》さやさやし新《あら》の麥稈《むぎから》 松の花あかる日竝《ひなみ》を巣に群れて丹頂の雛は早やあらはなり [#3字下げ][#1段階小さな文字]珠鷄[#小さな文字終わり] 脊に負ひて霰小紋の兩《もろ》つばさほろほろ鳥《てう》は聲ふくむ鷄《とり》 珠鷄《たまどり》は頬《ほ》の瘤赤し片寄りにみな横向くとただほろほろに ほろほろと啼く珠鷄《たまどり》のこゑきけば夕日ごもりになりにたらしも 夕かげの砂掻きあますくくみごゑほろほろ鳥《てう》の連れうごき來る [#2字下げ]門庭[#「門庭」は小見出し] 前廂ふかきこの家を門庭《かどには》は日の照りあかり若葉かへるで 石のつま濕《しめ》らふ見れば藍微塵|檀《まゆみ》の花のちりて時あり [#2字下げ]内庭[#「内庭」は小見出し] 若葉して日射明れどこの空や朝より煤《すす》のきらひふりつつ 根府川石《ねぶかは》やいまは日ざしも夏まけて板屋かへでの若葉映ろふ 石《いは》の面《も》にむらがる羽蟻音立てて香《か》は時|經《た》ちし春蘭《しゆんらん》の花 庭石にささとむらがるひとときは柔《やは》き羽蟻もいきほひにけり うちあがり羽蟻かがよふ若葉木の暮合《くれあひ》の空をいつくしみをる [#2字下げ]門前[#「門前」は小見出し] 靄ごめに萠えてうづまくむらわかば墓地の空《そら》こそ照りあかりたれ 日はすでに照りかがやかし若葉木や東に塔のつまぞ反《そ》りたる [#2字下げ]墓地の扇骨木[#「墓地の扇骨木」は小見出し] 瑞若葉《みづわかば》紅《あけ》の扇骨木《かなめ》は日の照りを躑躅まじらひ花かとも見ゆ 角《かく》吹きてうつら添ひ來《く》る荷かつぎの夕ごゑながし扇骨木《かなめ》生垣《いけがき》 [#2字下げ]父母と[#「父母と」は小見出し] 父と母|夕《ゆふ》安らけく附かすなり扇骨木《かなめ》もえたつ墓地の霞を 佛にはかかる和《なぎ》をと宣《の》らせこそなどか愛《かな》しき光る若葉 若葉陰しみみにまとふ蟆子《ぶよ》の羽の眼にかゆきからわれは掻くなり 椎はもえ樟《くす》は闌《た》けゆく若葉森この日移りのしづかなれこそ 石のべの躑躅の蕊《しべ》は長けれど萎《な》えつつ垂りぬ日の光沁み [#2字下げ]桐の花曇[#「桐の花曇」は小見出し] [#ここから1段階小さな文字] [#ここから4字下げ] [#ここから25字詰め] 義の叔母村上氏、齡七十にも垂んとして、何故にか我が叔父と離別して、今は流浪の身を、この同じ谷中のさる寺に養ふやに傳ふ。ほのかの便なれば、その寺の名すら知るに由なし。幼少の恩愛忘れがたく、暇ある毎にたづねありく。乃ちその歌。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 寺おほき山はこの空寺ごとに桐の花咲きて匂ふこの空 花ふかむ桐の木群《こむら》のとのぐもりこもれる君が空もわかなく 山川とをさなかりける我さへやまさしく老いぬ人は知らずも とのぐもり紫こもる桐のはな暮合《くれあひ》の空にけふもなりぬる [#2字下げ]童と花[#「童と花」は小見出し] 朝早やも咲きぬ咲きぬと掻きためて子がかかへ來る花筒の花 童《たわらは》よこは朝かげの花ならず夕かげに葬《はふ》りみ墓べの花 いづれよし花は清《すが》しよ朝花と咲きも咲かずも露しげき花 [#2字下げ]新墓[#「新墓」は小見出し] 朝なさな求《と》めてつつしむ墓の原に新埴土《あらはにつち》のいろのつゆけさ あさみどり若葉映らふこの墓や埴《はに》のぬめりの何ぞつやめく 我は誰《た》ぞ笻《つゑ》は曳きつつ新墓《あらはか》の日に殖《ふ》ゆるすら朝眼樂しむ 新土《あらつち》に草の香ながれ風|疾《はや》し何思ふ我のうつくしみ佇《た》つ [#2字下げ]朝東風に[#「朝東風に」は小見出し] 朝東風《あさこち》の吹きひるがへす朴《ほほ》の葉は葉おもてひろくすがしかりけり 吹きはらふ風さき清《さや》にこの朝や靄は霽れゆきて天王寺の塔 この道や朝は葉づたふ木《こ》しづくのしづけかりけり石にひびきて 若葉洩る朝の光は父われの麥稈帽に沁みて子が手に 子を連れて墓地は若葉の日のひかりしみじみと思ふすこやけき息 空《むな》しかり死にし幽《かす》けき爲すなかり我は世に生きて繁《しじ》に喜ぶ 吹きちらふ物みな涼し朝東風《あさこち》や石塔うへの藍微塵《あゐみぢん》の花 石のべは三角柏《みつのがしは》の葉ごもりに蚊の聲ほそし立ちてゐにけり [#2字下げ]よく遇ふ人[#「よく遇ふ人」は小見出し] 犬|牽《ひ》くと墓地をとめぐる朝涼は力張るらし草分きにけり 草間《くさま》來て荒く息づく面《つら》がまへブルドツグ勢《はや》り手綱張り引く [#2字下げ]青春[#「青春」は小見出し] 若葉どき雲形定規かきいだき學生は行く燃ゆるその眼眸《まみ》 若葉森早や鳴き勢《きほ》ふ春蝉の若やぐ子らは思なけむか [#2字下げ]朴はひらく[#「朴はひらく」は小見出し] 朴《ほほ》の花白くむらがる夜明がたひむがしの空に雷《らい》はとどろく ひむがしに群れてかがよふしろき花|朴《ほほ》の喬木《たかぎ》ぞ木立してけれ 生けらくは生くるにしかず朴の木も木高《こだか》く群れて花ひらくなり 現身《うつしみ》は生きて朝間《あさま》ぞすずしけれ愚かなりけり死にてむなしさ 光|發《さ》しその清《すが》しさはかぎりなし朴《ほほ》は木高《こだか》く白き花群《はなむら》 [#2字下げ]鳥聲[#「鳥聲」は小見出し] 鳩《はと》鳶《とんび》雀うぐひす矮雞《ちやぼ》の鷄《とり》この朝|聽《き》けばいろいろの鳥 朝霧にほろこほろこと啼くこゑはここの御寺《みてら》の鳩にかもなも [#改丁] [#ページの左右中央] [#中見出し]Ⅱ・月光佇立[#中見出し終わり] [#改ページ] [#2字下げ]梅雨前と[#「梅雨前と」は小見出し] 日に黝《くろ》む紅《あけ》の扇骨木《かなめ》は梅雨前《つゆまへ》と刈りそめにけり朝涼夕涼 [#2字下げ]朴の花落つ[#「朴の花落つ」は小見出し] 何の木か秀枝《ほづえ》しづもる夜目にしてしろくはさら[#「はさら」に傍点]と落つるその花 短夜《みじかよ》はいまだ暗きに小嵐《さあらし》や朴《ほほ》の木の梢《うれ》を搖りぬまさしく 下葉うちたたと石うつ清《すが》し花|朴《ほほ》の木の花の一夜落ちつつ 墓石に朴《ほほ》の散花《ちりばな》日を經れば縁《へり》朽ちにけり一瓣《ひとひら》一瓣《ひとひら》 直土《ひたつち》に饐《す》えつつ黄ばむ朴《ほほ》の花晝は仔犬が掻きてゐにけり 石の邊《べ》は朴《ほほ》の散花《ちりばな》數ふえて梅雨《つゆ》の日癖の雨期に入りにし [#2字下げ]樫の花季[#「樫の花季」は小見出し] 墓原は小雨《こさめ》しめやぐ夜に嗅ぎて吾が堪へがてぬ大葉樫の花 花樫の香に立つきけばけんぽなし若葉ふきあかる山戀ひにけり 姥目樫《うばめがし》かをす雨夜はつれなくてかしこかりけり墓地を拔けをり 香《か》にはずむ樫の木《こ》ぐれは夜ごもりに苦木《にがき》の花もふけにつらむか 花季《はなどき》は樫の木《こ》ぐれを行きありく餓鬼もこそをれ眞夜ふけにけり 椎かしはむせぶここらの雨夜月《あまよづき》卵塔はわびし照りもかへさず [#3字下げ][#1段階小さな文字]動物園近し[#小さな文字終わり] 樫いとどにほふ眞闇となりにけり夜ふけくるひたつ鳥《とり》獸《けもの》のこゑ [#2字下げ]淺宵[#「淺宵」は小見出し] 聲呼ばふ墓地のかかりの夕餉《ゆふげ》どき遊びあかねば子らは愛《かな》しも 晝のごと青葉かがよふ燈《ひ》のおもて墓地のはひりもここだすずしさ 陸橋に灯《ひ》の點《つ》く見れば夜靄立ち鶯谷の春も去《い》ぬめり 電柱の影うちかしぐ夕月夜|切通《きりどほ》し上のあらくさのはな 塔の端《つま》月明らけしひらら飛ぶ二つ蝙蝠が金の羽の裏 [#2字下げ]月夜の墓畔[#「月夜の墓畔」は小見出し] 墓地前の花屋が花の中《なか》明《あか》るみづみづし燈《ひ》の月の夜に見ゆ 月夜風しろう幅《はば》だつ墓地わきを影はずみ來る母と子らはも 椎若葉けむる月夜のうつつにも燈《ひ》とぼす窻か珠數かがりつつ 隈《くま》だちて家廂《やびさし》ふかき月の夜もおもての墓地は照りまさりつつ 探海燈夜空薙ぎゆく墓地の森や女のこゑも月に立ち來る [#2字下げ]深夜の墓地[#「深夜の墓地」は小見出し] うしみつと夜のふけゆけば草木みな寢《ね》にしづむらしまして墓原 月よあはれ立ち蔽ふ雲のいやはてを螢火のごとも光りけるかなや 我のみや命ありと思ふ人なべて常久《とこひさ》に生くるものにあらなくに わづかのみ明《あか》る木膚《こはだ》のさるすべり夜は深うして笑ひけらしも 黒南風《くろはえ》の雲|斷《き》れにけりこの夜ふけ月ほそく光り鷺と鶴のこゑ [#2字下げ]梧桐の花落つ[#「梧桐の花落つ」は小見出し] 眞夜中といよよしづもる夜の空の梧桐《あをぎり》のはなちりそめにけり 纎《ほそ》くのみ月の見え來る短夜《みじかよ》をまだ最中《さなか》なり落ちしきるもの [#2字下げ]朴と弦月[#「朴と弦月」は小見出し] 吾が觀るは幽世《かくりよ》ならず朴の葉に月出で方の黄の火立《ほだち》なり ほそき月夜ふけて光るひむがしは雲黒くしてあらはえの風 [#2字下げ]晝貌[#「晝貌」は小見出し] 草いきれあつき日なかに汗は滴《た》り無縁の墓のうつら晝貌 日ざかりは未《ま》だし現《うつ》しきもののつやほの肉色の晝貌のはな そよろと風過ぎしとき日中《ひなか》の晝貌の花ぞ内ら見せたる [#2字下げ]或る眞晝[#「或る眞晝」は小見出し] 石だたみ墓地の十字路《じふじ》の日の闌《ふ》けに音とめにけり落つる榎《え》の實 [#2字下げ]大佛[#「大佛」は小見出し] うしろ肩大き佛ぞいましける月の光のながれたるかも 暮れにけり露佛の螺髮《らはつ》くろぐろと月あかりしてうづだかき肩 [#2字下げ]月光人のごとし[#「月光人のごとし」は小見出し] 墓原の木立の奧所《おくが》夜はふかし月の光のたたずみにけり 物の風か氣《け》に立ち來らし木の間洩る月の光のわななきにけり [#2字下げ]白秋の墓[#「白秋の墓」は小見出し] [#ここから1段階小さな文字] [#ここから4字下げ] [#ここから25字詰め] 我と同じ名の白秋といふ人の墓あり。若目田氏たり。明治十九年沒、勤王の志士なり。容貌性格我によく似たるものあるが如し。その嬬人菊池氏、吾が妻はまた菊子なり。因縁淺からず、ひとごとならず思へば、時をりに行きては墓を清め、花などをささげて、我と亦自ら慰む。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 墓の座に鐵砲百合の粉は觸れて日の照はげし我はぬかづく 命かよふ我かとも思ふ朝じめりこの墓庭の青苔のいろ 青苔に染《し》みうつくしき斑照《はだらで》りこの木洩れ日は幾時あらむ この墓に日ざししづけくなりにけりきのふも來り永く居《を》りにき [#2字下げ]日のうち[#「日のうち」は小見出し] 蒸しつつも現《うつつ》ならぬかこの墓地の日ざかりを靄の立ちてあはれさ 日のうちはなにかつやめく物のこゑ墓原ごもりひびきゐるなり [#2字下げ]蝶影[#「蝶影」は小見出し] 墓原や晝の霞の中あがる紋白蝶《もんしろ》の翅のちらと輝りたる 眼はあげて吾が附く道のけどほさよ白南風《しらはえ》の空をひとつ飛ぶ蝶 [#2字下げ]双蝶[#「双蝶」は小見出し] 氣《け》にふかき蝶のむつみや誰知らぬ墓うらの照りのすでに久しさ 紙のごとひらひらとこそありにけれ蝶の双《ふた》つぞ照り合《あ》へりける [#2字下げ]或る新墓[#「或る新墓」は小見出し] 朝は見て息もつきあへずあら墓や力張りきる鐵砲百合の花 新土《あらつち》は朝にいつくし雨名殘いとどしくすがし鐵砲百合もよし [#2字下げ]祭の夜[#「祭の夜」は小見出し] [#4字下げ][#1段階小さな文字]接待の泡盛は琉球の大甕なり[#小さな文字終わり] 吾が門《かど》の向ひの墓の夕月夜水うたせたるおしろいのはな 氣色《けしき》だち神輿《みこし》練り來《く》るゆふぐれは茅蜩《かなかな》のこゑも墓地にとほれり 水うちて月の門邊《かどべ》となりにけり泡盛の甕《かめ》に柄杓添へ置く 市中《いちなか》は殘る暑さを樫の森や月あかうして向ひ墓原 墓原や石の角目《かどめ》に照る月の光うち蒼み夜ただ木《こ》しづく [#2字下げ]萼の花[#「萼の花」は小見出し] 萼《がく》のいろ雨に浮きたり。呼びそめぬ、ラヂオのニユース、フラン落ち、巴里暴動す、ポアンカレーまた世に出でむ。子らよよし、冷麥《ひやむぎ》食べむ、實山椒は奴《やつこ》につけむ、月待ちがてら。 [#改丁] [#ページの左右中央] [#中見出し]Ⅲ・こほろぎの髓[#中見出し終わり] [#改ページ] [#2字下げ]殘暑[#「殘暑」は小見出し] 墓原の木立に暑き蝉のこゑじんじんときこえ今日も久しき この暑さまだし堪ふべし色褪せて萼《がく》あぢさゐはほろほろの花 日のほてりはげしけれども石《いは》の間《ま》や細葉のつつじ株さびにけり [#2字下げ]羽蟲[#「羽蟲」は小見出し] [#4字下げ][#1段階小さな文字]墓地の十字路にて[#小さな文字終わり] 夜目《よめ》ながら老木《おいき》の榎《えのき》洩る月のしろがねの網に狂ふものあり [#2字下げ]百日紅咲く[#「百日紅咲く」は小見出し] [#3字下げ][#1段階小さな文字]展望[#小さな文字終わり] 百日紅《ひやくじつこう》花いち早し眼はやりて向ひの墓地の今朝はすずしさ 風かよふ百日紅《ひやくじつこう》の花見れば立秋のけはひ既にうごけり [#3字下げ][#1段階小さな文字]中垣[#小さな文字終わり] 對《むか》ひ葉の枝の秀《ほ》ごとの紅《あか》き花|百日紅《ひやくじつこう》のちらら咲き繼《つ》ぐ 門庭《かどには》をこなたへ咲きて中垣に影ちらつかす百日紅《さるすべり》の花 つくつくはふしひとつ來てゐる夕つかた袖垣のうへの百日紅《さるすべり》の花 [#3字下げ][#1段階小さな文字]墓地[#小さな文字終わり] 百日紅《さるすべり》咲きつぐ道は吾が行きて利玄分骨の墓も涼しさ 百日紅《さるすべり》下照る道の石だたみ子とひろひつつ蚊のこゑ暑し 百日紅《さるすべり》滑《なめ》ら木肌《こはだ》のこぼれ日は花咲き足らひいとどしき搖れ 花あかき百日紅《ひやくじつこう》の下にして子が立ちとまる影のみじかさ [#3字下げ][#1段階小さな文字]白秋の墓にて[#小さな文字終わり] この墓をすがしと思《も》へば差出《さしで》咲く向ひの墓の百日紅《さるすべり》のはな 本《もと》ごころさびしき時はここに來てしじ聽きにけりつくつくはふしのこゑ [#2字下げ]彼岸前夜[#「彼岸前夜」は小見出し] 花つみて一荷《ひとに》はのぼる馬ぐるま寛永寺坂に月は照りつつ この月に佇む馬の尻向けて花屋が前は露しとどなり 入り廣き墓地のまともの宵月夜風とほじろし早き葉はちり 墓むらや月の光のながるればこちごちの石の濡れてはろけさ [#2字下げ]月晝のごとし[#「月晝のごとし」は小見出し] 本阿彌の露地出でて來れば狹霧立ち月晝のごとし墓の草原 芒《のぎ》の穗に小寥ひるがほをみなへし遊び歩《あり》かな月夜よろしみ [#2字下げ]秋雨の朝[#「秋雨の朝」は小見出し] 雨のあし秋づきぬらし椎の葉の前には見えてここだみじかき 塗りづくゑ今朝ひえびえしペン軸に蟷螂《かまきり》の眼はたたかれにけり [#2字下げ]秋の夜書齋にて[#「秋の夜書齋にて」は小見出し] 髓《すね》立ててこほろぎあゆむ疊には砂糖のこなも灯《ひ》に光り沁む 秋の夜は前の書棚の素硝子に煙草火赤し我が映るなり [#2字下げ]塔影[#「塔影」は小見出し] 目に黒く木末《こずゑ》かがよふ星月夜御院殿坂をひたぶるのぼる 雨たもつ椎の木ずゑの土用芽のかすかに星に光るならむか 小夜中は五重の塔のはしばしに影澄みにけり小糠《こぬか》星屑《ほしくづ》 金輪際《こんりんざい》夜闇《やあん》に根生《ねお》ふ姿なり五重の塔は立てりけるかも 立てりけり星屑《ほしくづ》たぎる夜のくだち五重の塔は影くきやかに 青《さを》のつま朱《あけ》の五重の塔《あららぎ》の今|眞闇《まやみ》なり鷺のしき啼き 星月夜九輪の塔の空たかくうち透かし見ればかよふすぢ雲 [#2字下げ]朝露[#「朝露」は小見出し] 朝顏にまじるみどりのかもじぐさここらの墓の陰《かげ》もうれしき このあした露おびただしむきむきを穗に掻き垂れてゆらら犬蓼 この墓やゑのころぐさの穗は濡れてえんまこほろぎも露まみれなり [#2字下げ]秋ぐさ[#「秋ぐさ」は小見出し] [#3字下げ][#1段階小さな文字]花に遊ぶ[#小さな文字終わり] うゑまぜてしをりよろしき秋ぐさの花のさかりを見て遊ぶなり [#3字下げ][#1段階小さな文字]曼珠沙華了る[#小さな文字終わり] 曼珠沙華《まんじゆしやげ》莖立《くきだち》しろくなりにけりこの花むらも久しかりにし 彼岸ばな今はおどろと卷鬚《まきひげ》の朱《しゆ》もしらけたり長雨《ながめ》ふりにし [#2字下げ]月夜の庭[#「月夜の庭」は小見出し] よちよちと立ちあゆむ子が白の帽月のひかりを搖りこぼしつつ 木蘭《もくれん》の濃き影見れば良夜《あたらよ》や月のひかりは庭にあかりぬ 竹柏《なぎ》の葉と木蘭《もくれん》の葉の影交し月は隣の家《や》の上に來ぬ 家竝《いへなみ》の高きアンテナ月の夜は光りまさりぬ濡れにけらしも 照る月の夜空にまよふあるかなき薄翅《うすば》かげろふの尾は引きにけり [#2字下げ]深更月夜[#「深更月夜」は小見出し] 板縁は月夜ふけつつ玻璃のかげ引きてゐにけり光る幾線《いくすぢ》 總玻璃のとのもの月夜ふけにけりしろくかびろく庭石は見ゆ 石《いは》の面《も》に月の光は冷《ひ》えはてて音ひとつ無しただにその影 月夜ふかし光しづもる木々の間《ま》に羽蟲かと思ふ影のちらつく 裏うがつ月の光となりにけり黝《くろ》き茂みのゆづり葉の垂り [#2字下げ]櫨紅葉[#「櫨紅葉」は小見出し] 一木櫨《ひときはじ》いよよ照葉《てりは》のことごとに染《そ》み出《で》來にけり櫨はその葉に 觀つつあれば櫨の紅葉の一ひらちりまた二葉ちりぬ日の照る石に 石のべの櫨の落葉はよく掃きてまた眺め居り散りてたまるを 櫨紅葉下照る土はしめやぎて帚目《ははきめ》正しちる二葉三葉 はらら散る櫨は落葉ぞおもしろき表《おもて》火のごとく裏べ寂《さ》びたる 石のべに櫨の落葉を吹きためてはららきし風も止みゐたりける [#2字下げ]紅葉に籠る[#「紅葉に籠る」は小見出し] [#ここから1段階小さな文字] [#ここから4字下げ] [#ここから18字詰め] 立襖は金泥をちらし、桔梗・薄・女郎花などを肉筆にて描きたり。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 立襖《たてぶすま》もみぢにあかる夕《ゆふ》の間《ま》を籠らふふかき日ざしなりける [#改丁] [#ページの左右中央] [#中見出し]Ⅳ・冬と緑青[#中見出し終わり] [#改ページ] [#2字下げ]初冬の庭[#「初冬の庭」は小見出し] [#3字下げ][#1段階小さな文字]色鳥[#小さな文字終わり] 菩提樹の落つる葉早し尾を曳きてめづらにつどふ色鳥の影 [#3字下げ][#1段階小さな文字]刈りこみて[#小さな文字終わり] 吾庭はみ冬ちかきに刈りこみて躑躅のほそり目に立ちにけり 空寒し今は葉も無き菩提樹の木膚《こはだ》かぐろく伐口《きりくち》のいろ [#3字下げ][#1段階小さな文字]落葉のあと[#小さな文字終わり] ひえびえし冬の日ざしとなりにける土に落葉の光れる見れば かへるでの枝こまごまとありにけり葉なみふるひて今はしづけさ [#2字下げ]冬の椎[#「冬の椎」は小見出し] まれまれに椎の葉にもつたまり日《び》も照りはかへさず冷《ひ》えまさるらし 椎の葉に冬の日のあるほどほどはうれしき珠數の珠《たま》も磨るなり [#2字下げ]氷雨の頃[#「氷雨の頃」は小見出し] 錦木の時雨紅葉となりにけりふりみふらずみ日にくすみつつ 冬青《もち》の葉に走る氷雨《ひさめ》の音聽けば日のくれぐれはよく彈《はじ》くなり [#2字下げ]冬に入る菊[#「冬に入る菊」は小見出し] 目にたちて菊は白けど置く霜のむらさきの凍《し》み光こもれり 菊の香のこもりてぬくき冬日向蒲團の綿はゆたにうちつつ [#2字下げ]冬日向[#「冬日向」は小見出し] 墓原の空地《あきち》に繁きゑのこぐさ子ら踏み荒らし地膚《ぢはだ》すら出《で》つ 墓地裏も集《つど》ふ子供の影さむき冬の薄日《うすび》の照りとなりにき 墓地裏に騷ぐ子供のこゑきけばおほに澱《をど》めり霙かも來む [#2字下げ]冬木[#「冬木」は小見出し] 朝しぐれ塔の庇のあをあをと木立はづれに見えて寒けさ 向う墓地冬木したしくなりにけりこちごちの靄は落葉焚くなり 上光《うはひか》るけだし榎の乾葉《ひば》ならむこまごまと溝をふりうづめたる 凍土《いてつち》になにか落葉の二葉三葉朝早き風にそそ走りつつ [#2字下げ]冬の夜の雨[#「冬の夜の雨」は小見出し] 冬の雨の石にひびかふ墓地の闇母と來る子は歩みとどめず 墓原を歸り來る子のこゑきけば氷雨《ひさめ》すさまじくふり亂るらし をさな兒は軍歌うたひていさぎよし外套に靴に氷雨《ひさめ》はじき來る [#2字下げ]寒月[#「寒月」は小見出し] 枯枝に白銀《しろがね》かがる月の夜は光ほそうして冱《さ》えにけるかな [#2字下げ]霜の庭隈[#「霜の庭隈」は小見出し] 霜の凍《し》みいたもきびしき土のうへに南天の紅葉はらら散りたる 榊の實|黝《くろ》ずむ觀れば袖垣の結《ゆ》ひ目も凍《し》みぬ霜の氣《け》に立ち [#2字下げ]霜と南天[#「霜と南天」は小見出し] 墓原の花すてどころ霜ふかしつくづくと今朝は我もきびしき 霜ふかき花すてどころ目につきて南天の實は鈴の赤玉 [#2字下げ]山茶花咲く[#「山茶花咲く」は小見出し] 山茶花の最寄りの日向しづけくてたまたま來れば子らつどひけり 童《わらべ》どち足踏しつつまだ小《ち》さし山茶花あかく咲きにけるかな [#2字下げ]朴の實凝る[#「朴の實凝る」は小見出し] たかだかと冬木の朱實《あけみ》垂りにけりきびしくも凍《し》むか向ひ墓原 [#2字下げ]寒の靄[#「寒の靄」は小見出し] 暮の靄子が背嚢の毛に凍《し》みてしろく粒だつ寒《かん》到りけり 冬木原《ふゆきばら》寒《かん》の靄ごもり行き消ゆる人あし見れば暮せまりつつ 暮れぎはの寒《かん》の靄かかる冬木原《ふゆきばら》外套あかき子も來《きた》るなり 冬すでに頬のみ燃え立つ雄の雉子の駈け走る見れば日もつまりけり [#2字下げ]縁先[#「縁先」は小見出し] 石のべの紫蘭の莢《さや》に來て光る蜻蛉《あきつ》の翅《はね》も小《ち》さうなりにけり [#3字下げ]白秋の墓にて一首[#「白秋の墓にて一首」は小見出し] この墓に凍《し》みつつ白き山茶花の蕊《しべ》あざやけき寒《かん》は來りぬ 墓原の遲き月夜の石だたみ山茶花ちらし止む旋風《つむじ》あり [#2字下げ]或る朝[#「或る朝」は小見出し] 今朝も見る閼伽《あか》の氷のさやけくて子はたたきゆく墓石ごとに 山茶花は末もつぼめど濃き紅《あけ》の上凍《うはじみ》くろしつひに開かず [#2字下げ]雪[#「雪」は小見出し] もんもりと雪ふりつもる朝まだき知音《ちおん》の墓は求《と》めて親しさ 雪は觀て早き朝餐《あさげ》をたおたおと木ぶりをかしく搖り出《で》しづけさ 薄墨とけぶる低めの空にしてよにしづけきは百日紅《さるすべり》の雪 人踏みし雪の窪みに聲はしてなにかひもじき雀入りをり さるすべり枝のぬめりにつむ雪の時しづれする聲のみしろし [#2字下げ]雪に[#「雪に」は小見出し] むらさきのこもりしたしくなりにけり見てのみか居らむ薄き障子を 雪あかり早やすべしなし張りつよき白き障子に燈《ひ》は向けてあらむ [#2字下げ]霜とラヂオ[#「霜とラヂオ」は小見出し] 大君の御腦《ごなう》の[#「御腦の」はママ]ニユースきこえ來《き》ぬ絶えて音なき霜夜しづもり 霜の凝《こ》り堪へてこの夜もすわりたりラヂオのニユース聲せまりたり 霜くだる今宵《こよひ》のラヂオおぎろなし心とどろくひと時|隔《お》きに 霜の夜のラヂオのニユースはてにけり灯《ひ》は明《あか》うしていたくしづけさ 縁の戸にひびく霜夜の玻璃の罅《ひゞ》ひたなげき寢《いね》ず御寶我は 大君は神にしませばこの霜のとほる夜ふけは聽きておはさむ [#2字下げ]大正天皇を悼み奉る歌[#「大正天皇を悼み奉る歌」は小見出し] 冷《ひ》えとほるほどろの霜や冬青《もち》の葉の垂り葉の光ゆらぎ止《や》みたる 現神天皇《あきつかみすめらみこと》にましましてなほし常無く坐《ま》すがかしこさ あらたまの年立ちかへる日は見えて神あがりましぬ霜のしろきに 健《すこや》けく常は坐《ま》さずも大御命《おほみいのち》長く坐《ま》せよと仰ぎしものを ほがらけき崇《たか》きたふとき大御業《おほみわざ》つがせたまひき短かかりにき 石《いは》の面《も》にいやさむざむと日はかげりたづき知らずも生ける蟻匐ふ 冬木の根に凍《し》む土の張り乾きかうかうと響く道を行くなり [#2字下げ]梅もどき[#「梅もどき」は小見出し] [#4字下げ][#1段階小さな文字]天王寺歌會即興、録二首[#小さな文字終わり] 梅もどき籠に揷しつつ用は無し來馴れし人の來れば待つなり 吾妹子《わぎもこ》が揷してうれしき落霜紅《うめもどき》オンスコツプのくちばしよしも [#2字下げ]或る母と子[#「或る母と子」は小見出し] [#ここから1段階小さな文字] [#ここから4字下げ] [#ここから25字詰め] 寒夜、日暮里驛のベンチに相抱きて曉に發つ汽車を待つ母と十一二の女の兒ありき。子は雛妓の見習に上京中、肺患のため母の迎ひを受け歸郷せんとするなり。あはれなれば家に伴ひ一夜を送らしむ。後その子死にたる由の報知來る。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 母と子のおもざし見れば寒き燈《ひ》にすべなしばたたきよく似たりけり 吹きさらしひびく霜夜にかきいだき母と子はありき温《ぬく》みとるとて 女童《めわらべ》は繁《しじ》に咳《せ》き入る寒き夜を小糠《こぬか》小星《こぼし》も風に冱えにき ただにありき爐の火かきおこし寒むからむ温《ぬく》もりてよく寢よとのみわれは 死にせりと母が書き來《こ》し文見ればその子が笑《ゑま》ひ力なかりし 墓原に風は吼えながら朝わたる月夜なりしか白《しら》みそめにき 子にくるむ衾《ふすま》そだたき一夜《ひとよ》いねずたづきなかりけむか人の親母は [#2字下げ]失火多し[#「失火多し」は小見出し] この夜ごろ火に立ち騷ぎ止む間《ま》なしかぎりなく寒く人はまづしさ すさまじき夜の火なりしか墓地ぬけて曉の霜に身ぶるふ今は 霜いたり空は濃青《こあを》き夜の明けに筑波の山はくきやかに見つ [#2字下げ]冬晴[#「冬晴」は小見出し] 柿の蔕《へた》黒くこごれる枝見ればみ冬はいたも晴つづくらし [#2字下げ]春曇籠居[#「春曇籠居」は小見出し] 深廂《ふかびさし》晝もをぐらき家の内に灯《ひ》はとぼしつつ春を待つわれは とのぐもり煤《すす》の氣《け》ふかく立ち舞へば咽喉《のど》ゑごくして春もくるしさ [#2字下げ]春ひらく[#「春ひらく」は小見出し] 何か花にほふ雨間《あまま》の木《こ》のくれを妻とし歩《あり》くゆゑはしらずも [#改丁] [#ページの左右中央] [#1字下げ]緑ヶ丘新唱[#「緑ヶ丘新唱」は大見出し] [#改ページ] [#ページの左右中央] [#ここから1段階小さな文字] [#ここから4字下げ] [#ここから23字詰め] 昭和二年の晩春より同三年の初夏に至る馬込緑ヶ丘の生活に由る。新らしき文化住宅地緑ヶ丘の突端にある此の馬込の新居は、明朗にして簡素、月・霧・燈・火の夜景は亦九十九谷の名にそむかず、少くとも近代詩趣の一年なり。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] [#改丁] [#ページの左右中央] [#中見出し]Ⅰ・ウィンネッケ出現[#中見出し終わり] [#改ページ] [#2字下げ]新居[#「新居」は小見出し] 吾が門《かど》は通草《あけび》咲きつぎ質素なり日にけに透《とほ》る童《わらべ》らがこゑ 厨戸《くりやど》は夏いち早し水かけて雫したたる蝦蛄《しやこ》のひと籠 [#2字下げ]玄關[#「玄關」は小見出し] [#4字下げ][#1段階小さな文字]この小さき鐘と撞木は前の主人の遺し置けるものなり[#小さな文字終わり] 小《ち》さき鐘|撞木《しゆもく》とりそへ吊《つる》したりこの家《や》のはひりすがしとも見よ 小《ち》さき鐘掛けてすがしきこのはひり戸は鎖《さ》しにけりそよぐ木の影 風そよぐヒマラヤ杉の二三本《ふたみもと》はひりの庭は今朝もすずしさ 吾が童《わらべ》鐘にとどかず脚立《きやたつ》よりのびあがりうつ面《かほ》仰向《あふむ》けて [#2字下げ]小閑[#「小閑」は小見出し] 戀《こほ》しかる晝は待てどもうつ鐘のまたわづらはし人にこそよれ 誰待つと家居るならずおなじくも憂ふる人の來《こ》よと思《も》ふのみ まれびとか或《ある》は來けらし軒鐘や音のさやかにふたつ鳴りたり [#2字下げ]あやめ咲く[#「あやめ咲く」は小見出し] 家垣の築土《ついぢ》のあやめ咲きにけり童《わらべ》な手折り通りすがりを あやめ咲く築土《ついぢ》に添へば鴨跖草《つゆくさ》や隣もすずしふり亂る露 [#2字下げ]夕凪[#「夕凪」は小見出し] 蟆子《ぶよ》の立《たち》口にかゆきか吾が童《わらべ》夕ばえの頃は聲はずむめり 月はあれど夕立つ雲の氣《け》に見えてなにか逸《そ》れたる蒸しかへしなり [#2字下げ]晝貌[#「晝貌」は小見出し] 日に闌《た》くる草の香|嗅《か》げばこの崖や晝貌の咲く色もまじれり 晝貌は晝もあはれや容貌《みめ》清き稚《をさな》どちゐて草に坐りぬ [#2字下げ]出現[#「出現」は小見出し] [#4字下げ][#1段階小さな文字]二人の子供は隆太郎と篁子なり[#小さな文字終わり] 草生《くさぶ》には出で入る子らが二人ゐて晝ふかきかなや大き星見ゆ 月のごと大き星晝の空にありウィンネッケよあはれ人は貧しさ [#2字下げ]木の花咲く[#「木の花咲く」は小見出し] うち開くわが屋《や》は高しゆりの木のほづえに花も現れにけり 大き鳶たわたわと來て過《よ》ぎるとき穗にあざやけき丹波栗の花 [#2字下げ]隆太郎[#「隆太郎」は小見出し] 大き窻今朝うちひらき朗らなり芝の刈生《かりふ》に子は飛び下《お》りる 白き柵をどり越え來てわが太郎窻這ひあがるこの朝づく日 [#2字下げ]卵[#「卵」は小見出し] 梅雨《つゆ》ふかし薄ごもりに生みためて鷄《かけ》の卵の光澤《つや》も失《う》せぬる 卵ひとつ生まずあはれと見つつゐし生みてありけり鷄《かけ》は草生に [#2字下げ]送梅[#「送梅」は小見出し] 半夏生《はんげしやう》早や近からし桐の葉に今朝ひびく雨を二階にて聽く しやしやと來て篠懸《すずかけ》の葉をひるがへす青水無月の雨ぞ此の雨 [#2字下げ]斷層[#「斷層」は小見出し] 斷層の青萱見れば吹きなびく風竝《かざなみ》しるしかがやきにけり [#2字下げ]やや黄なる風景[#「やや黄なる風景」は小見出し] 梧桐《あをぎり》のふふめる花の穗に立てば二階も暑し窻は開《あ》け置く 日は午《ご》なり靄たちこむる向う空にカキ色の氣球熱しきりたる 午《ひる》の坂黄なるドレスののぼりゐて電柱の影が彎《ゆが》みたり見ゆ [#2字下げ]架橋風景[#「架橋風景」は小見出し] 憤怒《いきどほり》堪へつつのぼる我が歩み陸橋にかかり夏の富士見ゆ 陽炎の搖りあふる見れば朱《しゆ》の桁や鐵橋はいまだ架け了へずけり かうかうと鐵の鋲うつ子ら見れば朱《しゆ》の鐵橋は雲に響けり 蒸す雲の立雲《たちぐも》思《も》へば息の緒に息こらへ立つ憤怒《いきどほり》の神 こまごまと茱萸《ぐみ》の鈴花《すずばな》砂利に散りあはれなるかなや照りのはげしさ [#2字下げ]吾家の坂[#「吾家の坂」は小見出し] 日は暑しのぼり險《けは》しき坂なかば築石垣《つきいしがき》のこほろぎのこゑ 白榮《しらはえ》の暑き日でりの竹煮ぐさ粉にふきいでていきれぬるかも [#2字下げ]盆地の蛙[#「盆地の蛙」は小見出し] 馬込《まごめ》盆地の暑き小峽《をかひ》にうちひびき蛙《かはづ》は啼けり草いきれ立ち 聲|合《あは》す草田のかはづ晝|闌《た》けて間《ま》を啼きしぶれ深むものあり [#2字下げ]千樫[#「千樫」は小見出し] 末つひに人の命は長からじ眼には笑《ゑ》みつつ肩喘ぎけり 水さしに水はあらぬをほそぼそと吸ひほけにけり透きとほるもの かくしつつ人の命は過ぎなむやちかぢかと眼を寄せて見むとす 眼力《まなぢから》かくのごとくば眞夏さらずあはれほそぼそと人は死にせむ 山なすここだくの書《ふみ》ほこりつもり暑き日なかを息繼げり君は 生きざらむ命思はず仰ぎ寢て手は拱《く》みにけり敢て息|繼《つ》ぎ 下冷《したひ》えて額《ひたひ》ににじむ薄ら汗おもほえばしじに君も生きにき 二階に咳ひびきけりかいかがみ今はすべしなし靴の紐むすぶ おもての光くわうくわうと流れたり強ひてまともに眼は向けて出《で》つ いたいたし脚のほそりの眼をさらず我は踏みありく光る直土《ひたつち》 眞夏過ぎ簾《すだれ》うごかす廂合《ひあはひ》の朝の涼《すず》かぜを君はたのめぬ [#2字下げ]百合木と猫[#「百合木と猫」は小見出し] うちそよぎ風吹きかよふゆりの葉に朝は朝日の透きてすずしさ 廣き葉の半《なかば》は黄なる本《もと》つ枝《え》に早や風涼しうちかがむ猫 [#2字下げ]夏野[#「夏野」は小見出し] ひとすぢに夏野よこぎる道しろしおのづからなる歩みつづけむ 道のべの車前草《おほばこ》硬《かた》くなりにけり眞日《まひ》明《あか》うして群るる子鴉 [#2字下げ]風に觀る[#「風に觀る」は小見出し] 風ひびく葉廣《はびろ》篠懸《すずかけ》諸枝《もろえ》立ちあざやけきさ青《を》の火立《ほだち》騰《あが》れり ポプラ葉のかがよふ見れば涼風立ちさながらに日の光るさざなみ 吹く風の幅は揉みぬく栗の葉の葉あひに青く毬《いが》の群れたる [#2字下げ]永瀬夫人を弔す[#「永瀬夫人を弔す」は小見出し] 夕かげのおもてに移る合歡の花ほのかに君もねむりたまひぬ [#2字下げ]赤松[#「赤松」は小見出し] いとどしき殘暑の照りとなりにける繁立《しみたち》ほそきその赤松に 赤松の直立《すぐた》つ見ればあきらけく正面《まとも》の西日|木膚《こはだ》照らせり 夕かげはにほひこめつつ靄ごめに疊みよろしき松が枝の笠 赤松の一木《ひとき》が撓《たを》る向う丘夕かげの中に風の吹きしく 夕《ゆふ》早く風にさはめく赤松の林のほそみ見るがすずしさ [#2字下げ]洗足の池[#「洗足の池」は小見出し] み寺には百日紅の閑《しづ》かなり洗足の池の夏も過ぎたる 池のべの楊《やなぎ》が傍《そひ》に咲きあかる漆《うるし》の花はまだあはれなり 現世《うつしよ》の漆《うるし》の花のひと木立臈たくしろき月空にあり みなぎらふ夏の光も過ぎにけりわが對《むか》ふ池の薄らさざなみ 殘暑の日ざし冷《さ》め來《く》るさざら波ただひとりなる舟は遣《や》るなり [#2字下げ]九月中旬の或る朝[#「九月中旬の或る朝」は小見出し] 竹煮草今は穗に垂りしづかなり鶸茶《ひわちや》の莢《さや》の朱《しゆ》のいろの液 隣りびと W. Timacus の厨《くりや》には窻はうち開きフライパンが見ゆ 露つけて今朝すばらしく眞青《まさを》なりうしのしつぺいの放射線の芒《のぎ》 露草は朝露しげし今朝咲きて涼しかるらし黄の小蕊《をしべ》立ち 松の木間《こま》栗の花ぶさ返り咲き日光室に日の光る見ゆ [#2字下げ]朝霧[#「朝霧」は小見出し] 朝めざめ清《さや》にすがしき戸は開《あ》けてヒマラヤ杉は大粒の霧 吾が起きてただに瞰下《みおろ》す門《かど》の戸を濃霧しづもり谷地《やち》はこもりぬ 森と言へば叢立《むらだ》つ霧のこちごちに氣高《けだか》く厚く壘《とりで》立てたる 朝月夜《あさづくよ》いまだも夜霧とどこほりひむがしの丘に日あし立ちたる 高き屋に光射し滿つ我が丘を明暗《あけぐれ》の谷の街《まち》ぞとどろく [#2字下げ]月とヒマラヤ杉[#「月とヒマラヤ杉」は小見出し] 窻ちかきヒマラヤ杉の秀《ほ》は搖れて光り來にけり月出づる方 わが門《かど》はヒマラヤ杉の朝月夜影がそよげり鋪石《しきいし》のうへに [#改丁] [#ページの左右中央] [#中見出し]Ⅱ・月・霧・燈火[#中見出し終わり] [#改ページ] [#2字下げ]谷の馬込[#「谷の馬込」は小見出し] 馬込《まごめ》は谷おほき里、とりよろふ丘の岬々《さきざき》、朝に夜に狹霧立ち立つ。高窻や東に開き、西をあけ、南もあけて、うち透かす賑ふ灯《あかり》、山中《やまなか》のみ湯のさまかも、月さへも紫明る。霧はおもしろ。 [#2字下げ]篁子[#「篁子」は小見出し] 女童《めわらべ》が眶毛《まつげ》にやどる露のたま月のありかは雲の上《へ》にして 木の間洩る谷地《やち》の灯《ひ》あしの線《すぢ》引きて蛙《かはづ》が啼けば子は寢《い》ぬるもの [#2字下げ]月に佇つもの[#「月に佇つもの」は小見出し] [#3字下げ][#1段階小さな文字]ひとり行く[#小さな文字終わり] ひとり行く歩みとどめて眺めけり水芋の葉に月の宿れる おのづから歩みはとまる道すがら芋の立葉《たちは》のことごとの露 [#3字下げ][#1段階小さな文字]美童に遇ふ[#小さな文字終わり] 月を指《さ》す幼兒ゆゑにあはれとはいみじかりけることを言ひつる 珠《たま》ごと露の立葉《たちは》に月は照り清き童《わらべ》の面《おも》あげて佇《た》つ 犬の吠《ほえ》近き月夜の野路《のぢ》の霧誰かころろと歩みかへしつ 清らけき母を思へば月の面《も》に微塵の氷吹きつくる影 白鷺の月に見えつつ飛ぶ影は正眼《まさめ》ながらに霧しまきつつ [#2字下げ]夜、風に思ふ[#「夜、風に思ふ」は小見出し] 母を思ふ現《うつつ》の聲や夜風の硝子戸たたき消ゆる疾足《はやあし》 [#2字下げ]秋ちかき[#「秋ちかき」は小見出し] 秋ちかき月の夜ごろは雲と言へばしろく流れて片明りつつ 涼しさははてなかるらし眞木山や隣る月夜の小竹《ささ》の葉にして [#2字下げ]庭隈[#「庭隈」は小見出し] 影いくつ涼し月夜や古木の梅つつじ藤錦木ほそき孟宗 梨の棚あをきすはえに照る月の光しづもり鳥屋《とや》の戸も見ゆ [#2字下げ]或る月の夜[#「或る月の夜」は小見出し] 草ごもるかけろ探すと子らは出て月にわけをり薄き月夜に 掻きわけて涼しきものは篶《すず》の秀《ほ》や月の夜ごろの山いもの花 篶《すず》の葉に月の光は遊べども吾が利心《とごころ》よいまだ和《なご》まず 咲くものはつひにあはれよ月夜照《つくよで》り山いもの蔓にそよぐ涼風 おもしろの月の夜ごろや草に居て眼に入る物の風そよぐなり [#2字下げ]夕月映[#「夕月映」は小見出し] かぎろひの夕月映《ゆふつくばえ》の下びにはすでに暮れたる木の群が見ゆ 月の照り匂だち來《く》る雲ながら木原が上は色のさむけさ 月の映《はえ》こもりてしろき夜の靄に煙かと思ふ色ぞうごける 遠じろくうごくけむりのふたながれ月の光も渡りつつあり ひと時は夕月映にめづらしき遠近《をちこち》の谷の早き燈火《ともしび》 [#2字下げ]紫の月[#「紫の月」は小見出し] [#ここから1段階小さな文字] [#ここから4字下げ] [#ここから23字詰め] 馬込は霧多ければ圓月もまた紫に見ゆることあり、光悦の屏風と思ひ合せて [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 中明《なかあか》る紫の月丘にあり秋ぐさの花の亂れたるかも 桔梗《きちかう》の月にさやけき松が根はひとりかがむにしくものぞなき [#2字下げ]遲き夜二景[#「遲き夜二景」は小見出し] 洩れいづる月の斜光となりにけり雨は盆地の灯《ひ》をたたきつつ 匂だち濕《しめ》らふ雲の影見れば小夜ふけと月もふけて和《な》ぎなむ [#2字下げ]月のあなた[#「月のあなた」は小見出し] はるばるとわたる月夜のうろこ雲|現《うつ》しき母の子をかかへ佇《た》つ 月夜よし遠き梢に下《お》り疊む白木綿雲《しらゆふぐも》は雪のごと見ゆ [#2字下げ]月夜俯瞰[#「月夜俯瞰」は小見出し] 月高し谷地《やち》の夜霧に尖《とが》り出《で》て急勾配の濃小豆《こあづき》の屋根 しゆうしゆうと夜霧ながれてありにけり月に光るは玻璃の屋根のみ [#2字下げ]月夜靜坐[#「月夜靜坐」は小見出し] [#4字下げ][#1段階小さな文字]二階の和室にて[#小さな文字終わり] 硝子窻月に開きて坐りけりつくゑにうつる壺と筆の影 筆立のとりどりの影しづかなり月夜ふけつつひとり坐るに 塵ひとつ月に留めじと思ふなり黝朱《うるみ》の塗《ぬり》の清《さや》の文机《ふづくゑ》 ふけつくし月の騷ぎも過ぎにけり梧桐《あをぎり》の葉に今は澄みたる つくづくと觀る月ならし夜の遲き光に妻が面《おもて》向けたる [#2字下げ]さる樂人[#「さる樂人」は小見出し] 目は盲《し》ひて笑《ゑまひ》かすかにおはすなり月のひかりの照らす面白《おもじろ》 [#改丁] [#ページの左右中央] [#中見出し]Ⅲ・剥製の栗鼠[#中見出し終わり] [#改ページ] [#2字下げ]草の穗[#「草の穗」は小見出し] [#ここから1段階小さな文字] [#ここから4字下げ] [#ここから25字詰め] 秋さびしもののともしさひと本の野稗の垂穗瓶にさしたり                   千樫 秋の空ふかみゆくらし瓶にさす草稗の穗のさびたる見れば                   同 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 秋ふけぬ物の葉ずゑに立つ蟆子《ぶよ》のかそけき光ただに思はむ 稗草の穗向《ほむき》にちらふ蟆子《ぶよ》のかげ驚きて思ふうらさびにけり さびさびて今は光らぬ野稗の穗親しかりにし人も死にせり 野稗の穗|瓶《かめ》にさしつつうらさぶしかくのごとくや人の坐りし 吾が門《かど》は電柱の根に夕日さしうらがれぐさの穗が映《うつ》るなり    § 草の穗に移ろひはやき日のあたりこのごろはわれも病みやすくして [#2字下げ]觀艦式の日[#「觀艦式の日」は小見出し] [#4字下げ][#1段階小さな文字]家にこもりて[#小さな文字終わり] 皇禮砲とどろと響き雨間《あまま》なり柿のもみぢがうつくしく見ゆ 航空船黄にうかび來てとどろけりなにかはさむき日の曇りなり はらら飛ぶ小禽《ことり》あはれと觀つつゐて霜の葉おほき木々に驚く とのぐもり羽ばたきとよむ飛行機は向ふ時雨に今は列竝《つらな》む [#2字下げ]菊[#「菊」は小見出し] 吾が庭は白き小菊の錢菊のただに明《あか》りて朝の濃き霜 菊の花酢にひたしつつうらさぶしかくしつつこそ秋も過ぎなむ 白菊の青み冱《さ》え來《く》る夜の寒さ百燭のあかり近く寄せ置く [#2字下げ]子を呼ぶ[#「子を呼ぶ」は小見出し] 御會式の萬燈あかく山を去り蹤《つ》きゆける太郎この夜歸らず 子を呼べばまばたきすもよこの夜さり谷地《やち》の灯《ひ》あしが眶毛《まつげ》なし見ゆ 父われの大き靴はき童《わらべ》なり萬燈に蹤《つ》きていづち向き行く わが聽くは小さき足音ひとつのみ夜は暗くして群の足音 灯《ひ》は多しもとも大きくみづみづし紫の燭《しよく》は映畫館ならむ [#2字下げ]錦木の秋[#「錦木の秋」は小見出し] 吾が庭は若木錦木もみぢして椎の根方も照りとほり見ゆ [#2字下げ]時雨のころ[#「時雨のころ」は小見出し] 光無き冬の入日の朱《しゆ》のおぼろ西の曇りのあやにしづけさ 神無月|合歡《ねむ》の老木《おいき》のもみぢ葉のすでにわびしく濡れわたるめり 朝にけに時雨なづさふ雜木立|最寄《もよ》りの丘も染《し》みて來にける [#2字下げ]短日[#「短日」は小見出し] 十方に放つ黄金《こがね》の日あしなり欅の寒き冬の木のうへ 群禽《むらどり》の木末《こずゑ》にきほふひとなだれ遠《とほ》のながめも寂《さ》びあまりけり み冬づく丘の家居《いへゐ》に立つけぶり湯氣おほけれやあたたかく見ゆ 目にたのむ寒き木《こ》の間《ま》の赤屋根も煙見せつついつか暮れたり 暮れにけり師走の谷地《やち》の家《や》びさしにこごりて白き寒靄《かんあい》のいろ [#2字下げ]落葉の庭[#「落葉の庭」は小見出し] こま形《かた》の銀杏《いてふ》の散葉《ちりは》黄《き》に冱《さ》えてその向き向きを霜のよろしさ 土に凍《し》みて今朝の落葉はおびただし木履《サボオ》つつかけそこら掃きゐる 黄なる葉と褐色《かちいろ》の葉とちりにけり黄なる銀杏《いてふ》がまれにこまかさ 枯れつつし色に目だたぬ雜木やま向ひは霜の晴れにたるらし 立ちほそり寒き木ゆゑに裸木《はだかぎ》や霜朝《しもあさ》の空に末光るなり [#2字下げ]坂下[#「坂下」は小見出し] 冬の日の光|冱《さ》えたつ淺葱《あさつき》は添ひゆく子らの頬《ほ》に映るらし ほろほろと行くにくづるる崖《がけ》の土こごりきびしき霜ぞ立ちたる [#2字下げ]霜ばしら[#「霜ばしら」は小見出し] 男《を》の童《わらべ》父の杖とり犇《ひし》とうつ霜柱しろし此の霜ばしら こごり立ちしづけかりしかひた乾く地膚《ぢはだ》はららかし踏む霜ばしら [#2字下げ]砧村[#「砧村」は小見出し] [#ここから1段階小さな文字] [#ここから4字下げ] [#ここから25字詰め] 隆太郎を砧村の成城學園に入學せしむべく、先づ行きて參觀す。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 濃き霜の凍《し》みてさやけき冬菜畑に朝の響の來つつしづけさ 霜いたる冬の玉菜は藁しべにきびしく結《ゆ》ひぬその株ごとに 朝凍《あさじみ》の大野の霜となりにけり早やあざやかに冬菜積みたる 清々《さわさわ》に根引く冬菜は野に積みて置き足らはしぬ横山のごと 水のべに洗ふ大根《おほね》をさわさわに見つつわが行くしろき大根《おほね》を み冬づくくぬぎ林に子らと來て落葉踏みたつる音のひもじさ くぬぎ原ぬけつつとほる貸家の庭霜くづれ黒し落葉まじり踏む 子を負ひて切通しゆく影寒しこのあたり低き雜木ひと山 [#2字下げ]妹の家[#「妹の家」は小見出し] 風後《かざあと》の冬の日あしにありにけり通草《あけび》の散葉《ちりは》いまだ青きに このとぼそ晝も鎖《さ》しつつ寒けさよ日は光りつつ一木《ひとき》白樺 風すさぶ一木《ひとき》白樺月夜には影いさぎよし葉竝ふるひぬ [#2字下げ]牧舍[#「牧舍」は小見出し] 草くづと土糞《どふん》焚《た》きつぐこの日ぐれ五六頭は居らし牛の立ちつつ [#2字下げ]寒夜[#「寒夜」は小見出し] 寒《かん》の月響く夜空となりにけりしろき梢の繁《し》み立《た》つ仰げば 冬木照る月夜すがらやまれまれは山片附きて走る雹あり [#2字下げ]白き野菜[#「白き野菜」は小見出し] 白くのみ月にかがやくひと束は紫うすき根の蓮《はちす》らし 白菜《はくさい》はみながら白し月の夜と霜の光にうづだかく積む 白き菜と紫うすき根の蓮《はちす》冬はさやかに厨戸にあり [#2字下げ]鳩[#「鳩」は小見出し] [#4字下げ][#1段階小さな文字]唐畫風[#小さな文字終わり] 白菜《はくさい》の霜にかがよふ夜明け方|歩《あり》き歩《あり》きて鳩は眼聰《めざと》さ [#2字下げ]寒曉[#「寒曉」は小見出し] しらしらと朝行く鷺の影見れば高くは飛ばず寒き水の田 下《お》り盡す一夜《ひとよ》の霜やこの曉《あけ》をほろんちょちょちょと澄む鳥のこゑ [#2字下げ]水禽[#「水禽」は小見出し] かげ寒き池の水面《みのも》やつれづれと家鴨《あひる》およげり鴛鴦《をしどり》を前に 尻あげて水に竝《な》みゆく水禽《みづどり》のちらら後掻《あとか》くふりの寒けさ [#2字下げ]冬の道路[#「冬の道路」は小見出し] 畑なぞへ冬の砂利道行きのぼる柚子色の帽は悲しきごとし 夕凍《ゆふじみ》にむらさきしきぶ數《かず》光り電線は切れて橋に垂れたり [#2字下げ]冬の土[#「冬の土」は小見出し] 冬の道くだりてのぼる木原山射的の音がひどく確かさ 冬の土ひた乾くから小胸《をむね》張りかうかうと行く小學生なり [#2字下げ]剥製の栗鼠[#「剥製の栗鼠」は小見出し] とまり木にからみて朱《あか》き鳥瓜毛は荒しもよ剥製の栗鼠 頤ひげをくひ反《そ》らしつつ愚かなり剥製の栗鼠を氷雨《ひさめ》にぞ置く 冬ちかき一望の寂《さび》映《うつ》りゐる剥製の栗鼠の大き眼の玻璃 寂しくも遊ぶ暇《いとま》は無き我を剥製の栗鼠はしづけくあるらし 秋冬を心むなしき夕ながめ剥製の栗鼠は眼の光るあはれ [#2字下げ]寒空[#「寒空」は小見出し] いつまでか長き日あしぞ炎|立《だ》ち冬木にたぎる寒空のいろ 寒《かん》の土に佇《た》ちつくしつつかそけさよ冬は螢も飛ばぬものをよ [#2字下げ]冬に立つもの[#「冬に立つもの」は小見出し] 末ほそく下枝《しづえ》引き張るたけ高きヒマラヤ杉は冬によき杉 さんさんとヒマラヤ杉を洩る月の後夜《ごや》たちにけり冬に立つ影 [#2字下げ]椿咲く[#「椿咲く」は小見出し] わらべどち憎む境《さかひ》の切崖《きりがけ》は陸橋がかかり椿花むら 花深く紅《あか》き椿《つばき》や下枝《しづえ》さへ光るばかりを上にも上にも 小學生ら聲|放《はふ》りあげて行きにけり椿の花がひたあかきなり 花ふかき椿はすごしつらつらと出て來てはくぐる子らが足竝 老椿下照る道の春の泥洗足の池はけだしこの奧 [#2字下げ]雪の夜[#「雪の夜」は小見出し] 雪つもる窻の内《うち》らのゆふつかた火映《ひうつり》親し誰か爐に居《を》る 雪しづりけはひ幽《かす》けき夜の間《ま》にも紅毛びとは火にか樂しむ マントルピース火立《ほだち》華やぐかたへには金髮のふさ透《とほ》りゆらげり 穩《おだ》しき笑《ゑまひ》なるかも片頬照り爐に寄る母の何か言ひつる 老びとの紅《あか》き上衣《うはぎ》はをさなくて灯《ひ》にものがなし毛絲編みをる [#2字下げ]春日展望[#「春日展望」は小見出し] 咲きあかる花かあらしも木原山松の木のまのしろきを見れば 櫻咲き馬込の谷もしづかなり霞むかぎりがしろくのみ見ゆ 向丘《むかをか》の木のまに見ゆる赤がはら家古風にして春日おだやか 本門寺の裏山道ののぼりおり松の木のまの山ざくら花 花曇源藏原の夕影にみづみづし燈《ひ》のひかりいでたる [#2字下げ]女童[#「女童」は小見出し] [#4字下げ][#1段階小さな文字]九歳にて變質の子なり。ひそかに訪れてやまず。[#小さな文字終わり] をさなきはをさなかれよと數花《かずばな》の通草《あけび》の門《かど》に立たせつるかな 女童《めわらべ》は心くるへり崖の端《は》のほのかに萎《しな》ふ晝貌の花 晝貌やここだかなしき女童《めわらべ》を日ざかりの門《かど》に隔てさぶしき うち見には童《わらべ》なれども女子《をみなご》やまさなきことも美しみ思《も》ふ つきほなくかなしかるかなかがなべて年のへだたりは三十《みそ》あまり五《いつ》つ 言ふことはねびてきこゆれ女童《めわらべ》や母を離れてなどか死にせむ 夏衣《なつぎぬ》の生絹《すずし》が裾の高踵《たかかがと》なんぞ童《わらべ》が少女さびする 女童《めわらべ》は水に戲《そば》ゆるしろがねの鱗《うろくづ》のごとかなしかりけり [#2字下げ]草上晝餉[#「草上晝餉」は小見出し] 晝餉《ひるげ》には庭の芝生にぢかに坐りわが眼先《まなさき》のかきつばたの花 飯粒《いひつぶ》に沁みつつ白き日のひかり子ら食《は》みあまし父われが食《は》む [#2字下げ]短夜追憶[#「短夜追憶」は小見出し] 消え易き花火思へば短夜《みじかよ》は玉とうちあげる青き蓋《きぬがさ》 水の上《へ》や夏は花火の宵々にひかる投網《とあみ》をかいひろげ消《け》つ 短夜《みじかよ》の馬込なりしか梟と木菟《みみづく》のこゑの互《かた》みにはして [#2字下げ]砧村へ移る[#「砧村へ移る」は小見出し] 子鴉は嘴黄なり車前草《おほばこ》や穗に立つ道の埃《ほこり》踏みつつ [#2字下げ]馬込緑ヶ丘[#「馬込緑ヶ丘」は小見出し] [#4字下げ][#1段階小さな文字]五年の後[#小さな文字終わり] 馬込緑ヶ丘、この門《かど》のヒマラヤ杉、來て見れば木高《こだか》くなりぬ。夜寒にも燈《ひ》はとぼりをり。人や來て住みつきたらし、わがごとやこもり息づく。星月夜《ほしづくよ》、狹霧立ち立つ、この家の、鐘と撞木がいよなつかしも。    § 秀《ほ》に搖れていよよ木高《こだか》き影見れば下枝《しづえ》もふかく曳きにけるかな たけ高きヒマラヤ杉の星月夜二階の窻に灯《ひ》のうごく見ゆ    § 門庭よ冬の夜寒も燈《ひ》は洩れて住みつきたらし人香《ひとが》こもれり この門よ槇《まき》も通草《あけび》も目立たずてすがしかりしか雨つづりつつ [#改丁] [#ページの左右中央] [#1字下げ]世田ヶ谷風塵抄[#「世田ヶ谷風塵抄」は大見出し] [#改ページ] [#ページの左右中央] [#ここから1段階小さな文字] [#ここから4字下げ] [#ここから23字詰め]  昭和三年初夏より同じく六年の同じ季節に至る、四年間の、世田ヶ谷若林の生活に由る。尤も三年には歌作乏し。家は街道にのぞみ、囂音と塵埃と筆硯の繋鎖とに苦しめらる。しかれども邸内廣く、花木多く、奧の庭やや古風にして四時眼を樂ましむ。日常之に添ひ、風韻幽かに成る。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] [#改丁] [#ページの左右中央] [#中見出し]Ⅰ・月に飛ぶ雪[#中見出し終わり] [#改ページ] [#2字下げ]言祝[#「言祝」は小見出し] 大君、日の本の若き大君、神《かん》ながら朗らけき現人神《あらひとがみ》。青空やかぎりなき、國土《くにつち》やゆるぎなき。萬づ世の皇統《みすまる》、皇孫《すめみま》や天津日繼。ああ我が天皇《すめらみこと》。大君、道の大君、大稜威。今こそは依り立たせ、けふこそは照り立たせ。高御座《たかみくら》輝き滿つ、日の御座《みくら》ただ照り滿つ。御劍や御光添ひ、御璽《みしるし》やいや榮えに、數多《かずさは》の御鏡や勾玉や、さやさやし御茵《みしとね》や[#「御茵や」は底本では「御菌や」]、照り足らはせ。大君、我が大君、現《あき》つ神《かみ》、神ゆゑに、雲の上《へ》の照る日の光 釆《と》りてますかも。 [#3字下げ][#1段階小さな文字]反歌[#小さな文字終わり] 黄櫨染《くわうろせん》の大御衣《おほんぞ》明《あか》く照り立たし彌《いや》さやさやに若き大君 [#2字下げ]楓紅葉[#「楓紅葉」は小見出し] かくばかり楓《かへで》ありとは知らざりき繼《つ》ぎ繼《つ》ぎて染む秋を驚く この庭に一木《ひとき》二木《ふたき》と照らひたるかへるで紅葉時了りけり [#2字下げ]背戸[#「背戸」は小見出し] 鷄頭はつぶさに黒き種子《たね》ながら鷄冠《とさか》の紅《あけ》よ燃えつきずけり わが背戸は食用菊の黄の花の殘りとぼしく霜の滴《た》りつつ [#2字下げ]冬朝[#「冬朝」は小見出し] 石庭《せきてい》に冬の日のさしあらはなりまだ凍《し》みきらぬ青苔のいろ 庭苔に木の根影ひく朝の間《ま》は冬も幽《かす》かに美しくして 木《こ》のま洩る冬の朝日のすがしくて時ならぬ土のかをり息づく うすうすと朝日さし來る椎の根に心寄せつつ冬はこもれり 檜葉垣の外《そと》とほりゆく影ながら早や親しもよ冬は透き見ゆ [#2字下げ]木槲の冬[#「木槲の冬」は小見出し] 木檞《もつこく》の一木《ひとき》の表《おもて》闌《た》けにけりみ冬ながらに日ざしもちつつ 木檞《もつこく》の葉洩れ日見つつ思ふなり濡石に出でて歩《あり》く蟻ゐず [#2字下げ]短日[#「短日」は小見出し] 向ひ見る冬の梢となりにけり細みつくして眺めまさりぬ 晝餉《ひるげ》過ぎいくら經《た》たぬを木群《こむら》には早やしろじろとかかる夕霧 [#2字下げ]軍馬[#「軍馬」は小見出し] この日ごろ近き空地《あきち》に來て騷《さや》ぐ軍馬ありけり風の夜寒《よさむ》を 軍馬の群この夜とどとし來て居りと思ふだによしを千葉聯隊の馬 觀兵式の豫行演習に朝出でて夜は寢《ね》に還る軍馬の群らし    § 山茶花や井の水|汲《く》むと來《く》る兵のバケツ音立てぬその凍土《いてつち》に 兵士來て井の水汲むと我が太郎眼もまじろがず山茶花の午後を    § 夕凍《ゆふじみ》を子らと見に出《づ》るとなり原軍馬は群れて還りゐにけり 夜に還り朝|發《た》つ馬の草床は風吹きぬけて置く屋根も無し 濃霜置き軍馬入り臥す隣原夜はふかくして騷《さや》ぎぬるかも 霜は滿ち軍馬のたむろしづもらず糠星の數《かず》のただにきらめく 夜のほどろ騷《さや》ぎ立ちゆく音すなり觀兵式に列《つら》なる馬なり 大君のけふみそなはす軍馬なれ蹄《ひづめ》の音もさやかに發《た》つべし    § 駒|竝《な》めて兵還り來ず代々木よりただち本隊へ駈けにたるらし 隣の原また騷《さわ》ぐなし風のみぞ夜どほし寒き空に地にきこゆ 夜はしげく軍馬|寢《ね》に來し草の原馬臭き肌のこもりかなしも 寢《い》ねがてぬ軍馬なりしか夜に聽きてなにか心に觸るるものありき [#3字下げ][#1段階小さな文字]その後の夜[#小さな文字終わり] 常ならず物の幽《かそ》けくきこえゐて今宵の雲は凍《し》みこごるなり [#2字下げ]ある冬の日[#「ある冬の日」は小見出し] 日おもては雜木《ざふき》にこもる霜の氣《け》の照りあたたかし春めきしかも 輝かでにほふ垣内《かきつ》の芝生には冬の日ざしぞ和《な》ぎたまりたる [#2字下げ]水邊早春[#「水邊早春」は小見出し] 青鷺にしら鷺まじりあはれなり氷のひびの水に薄きを 圦《いり》もやや角ぐむ葦のさ青《を》の芽に電球がひとつ流れ寄りつつ [#2字下げ]書齋と月[#「書齋と月」は小見出し] 疊《たたな》はる木群《こむら》のうしろ明るめり月の光の立ちそめにけり 硝子戸にのぼりて黄なる圓き月瑜伽師地論を讀みつぐ我は [#2字下げ]青葡萄の頃[#「青葡萄の頃」は小見出し] 破《や》れはててむなしき鳥屋《とや》の葡萄棚葡萄の房は垂りそめにけり むべの棚いまだ青けどひえびえと日ざしとほりて風うごくなり [#2字下げ]九月[#「九月」は小見出し] もちの葉の葉越しに見ゆるわくら葉は櫻なるらしよくそよぎつつ 木のうれにふけつつ澱む夜の曇り甜瓜《メロン》のごとき月黄ばみ在り [#2字下げ]夏をこもる[#「夏をこもる」は小見出し] 高々とのうぜんかづら咲きにけりただにあはれと觀つつ籠らむ 家垣のひともと木槿《むくげ》光|發《さ》し開くただちを土埃《つちほこり》來《く》る もちの木は葉につむ埃《ほこり》いちじるしじりじりと照る眞日の光を 街道の地響《ぢひびき》しげき日のさかり鏡にうごく木はちすの花[#地から9字上げ][#1段階小さな文字]書齋[#小さな文字終わり] 窻の上《へ》に垂りつつそよぐ蔦かづら涼風たちて實の綴り初《そ》む [#2字下げ]萩のくさぐさを[#「萩のくさぐさを」は小見出し] 吾が宿の萩の中垣荒れはてぬいきれて暑き男ぐさの花 青萱の野萱にまじるさざれ萩この朝涼をすでに綴れり 颱風の逸《そ》れつつしげきあふり雨白萩の花のしとど濡れたる 夕ほてりこのごろつづく芝生には木の椅子が二《ふた》つ猫萩のはな 日時計の夕かげ長くなりにけり宮城野萩の叢咲《むらざき》の花 [#2字下げ]高野槇[#「高野槇」は小見出し] [#4字下げ][#1段階小さな文字]からかさもみ、一名高野槇、或は金松[#小さな文字終わり] 雨のふり觀の幽《かそ》けくて眞深《まぶか》なりからかさもみのしだり緒の笠 高野槇雨こまかなり秋もややけしきだちつつ冷《ひ》えまさるらし [#2字下げ]芝庭の小宴[#「芝庭の小宴」は小見出し] [#4字下げ][#1段階小さな文字]田中智學、高村光雲兩翁、竝びに國醇會の人々を迎へて[#小さな文字終わり] 芝庭の日向最寄りにくむ酒の老《おい》よろしもよ小春過ぎの雲 日向べは木々の紅葉の過ぎぬれどまだあたたかし莚《むしろ》敷き竝《な》む [#2字下げ]蔦紅葉[#「蔦紅葉」は小見出し] わが家は煙突の壁《へき》の蔦かづら日ましに染みて煙立てにけり わが窻は日向の壁《かべ》の鍵の手を常春藤《きづた》もみでて照りかへしつつ[#地から9字上げ][#1段階小さな文字]書齋[#小さな文字終わり] [#2字下げ]郁子と通草[#「郁子と通草」は小見出し] わが家はポウチの棚の郁子《むべ》の實のこよなく熟れて冬來りける とり食《は》めば核《さね》は多けど齒にしみてすがすがしかも郁子《むべ》の實のつゆ こもごもに郁子《むべ》と通草《あけび》をとり食《は》みて郁子《むべ》がよしちふこの子があはれ 郁子《むべ》食《は》むとひたぶるの子らやうちすすりしじに核《さね》吐き眼もまじろがず おほかたに遊び足りたり夜ふけたり子らよ寢《いね》なむまた明日もあらむ [#2字下げ]寒き日[#「寒き日」は小見出し] 多摩川に砂利あぐる音の風向《かざむき》をひと日きこえて寒《かん》あけずいまだ 日につのる寒さもちこたへ諸《もろ》の葉のかがやける見れば椎よ冬の葉 思ひ屈《く》しぬくき日あたり出て見ればかへるでの根に雪ぞ光れる かがみゐて寒き日向や下心《した》ふかく侮《あな》づる子らに隙《ひま》與へけり 淡々《あはあは》と火の見の灯《ひ》あしたちにけりすぐろにほそき木のこずゑより [#2字下げ]霜に聽く[#「霜に聽く」は小見出し] [#3字下げ][#1段階小さな文字]1.[#「1.」は縦中横]十一月五日深更、「赤い鳥童謠集」序成る[#小さな文字終わり] 思ひ繼《つ》ぎ長きはしがき了《を》へにけり夜ふけかすかに吠ゆるものあり かんとうちて半鐘の音とめにけり火の消え方は夜も凍《し》みるらむ 霜の空透きとほり青しこの曉《あけ》や月は落ちつつ松|二木《ふたき》見ゆ [#3字下げ][#1段階小さな文字]2.[#「2.」は縦中横]十二月十三日夜より十四日拂曉に至る[#小さな文字終わり] 夜ふけて寒くひびかふ音ながら沿線に住めばけだしよろしき ひそかに吾が本質をうたがはず大禪寺柿に刄《は》をすか[#「すか」に傍点]とあてぬ ゐろり火に蛇經を讀めばおもしろく身うちゆるがして走るリズムあり 夜はふけぬしゆんしゆんとして煮こごれる林檎のつゆの紅《あか》き酢醤《すびしほ》 野砲隊とほりしがとどろきやまずいづべの霜に闌《ふ》けにつつあらむ しみしみと澄みて來にけりまさしくもしづかに霜に聽くべかるらし 絹笠に黒く粒だつ蠅ながらオスラムの熱冬を光れり 冬の夜は物の正しき影すらやただにすさまじく燈《ひ》が明《あか》るのみ 幼さびかくて我あれやつゆだにも童《わらべ》ごころはけだしとほらず 冬の蠅そこら遊びし小夜ふけて居るものは無し凍《し》みて來らしも 燈《ひ》は明《あか》し大藏經のうしろゆく鼠の尻尾影うごくなり 常ながらおもて通るは夜發《よだ》ちして多摩よりのぼる牛車《ぎうしや》かもあはれ あけがたはいとどしづもる野の霜をひたすらや赤き電氣爐の息 遊行《ゆぎやう》して障《さや》り無してふ日はあらずただになづみぬうちこもりつつ 武藏野に紫つづる蘇枋の果《み》わが縛著《ばくちやく》は子ゆゑきびしき [#2字下げ]東聲[#「東聲」は小見出し] [#4字下げ][#1段階小さな文字]前の夫人と別れたる頃のこと、及び挽歌[#小さな文字終わり] 椎が根に素燒の鉢の三つ二つ見に寄るべくも花はあらざりき 家廂《やびさし》に及ぶ椎が枝そこらくを明りたのめて伐りし椎が枝《え》 縁の端《は》に日ざし頼めて見やる眼も力なかりけむか土をのみ君は 庭土にちりて久しき椎の花なげきこまかに君も堪へにき 窻さきのちひさ篠の子篠の子の秀《ほ》の上《へ》にのぼり露は光りき 夜のほどろいつか寢入れるその頬には涙ながれて薄き髮の毛[#地から8字上げ][#1段階小さな文字]鹽原の一夜[#小さな文字終わり] いついつとえは諦《あきら》めずありけらし消《け》なば消《け》ぬかに末はなんぬる 木原山日暮れて寒き人あしの中のひとつの音絶えにけり[#地から9字上げ][#1段階小さな文字]挽歌[#小さな文字終わり] [#2字下げ]少年騎馬隊[#「少年騎馬隊」は小見出し] 十二三頭馬乘り入れて來りけりこの跑《だく》を見よと少年騎馬隊 木檞《もつこく》は冬によろしき門庭を馬糞《まぐそ》火氣《ほけ》立ち騎馬は足踏む 息しろく凛々しかるかも少年騎馬隊馬上敬禮の眼を向けにけり 夕凍《ゆふじみ》を門《かど》出づる子ら馬上なり早や疾駈《はやがけ》に駈けつつゆくらし 門庭に馬糞《まぐそ》火氣《ほけ》立ち日は寒しすべなあはれとわれは掃きをり [#2字下げ]月に飛ぶ雪[#「月に飛ぶ雪」は小見出し] この月を小竹《ささ》の葉叢《はむら》に影さして飛びちらふ見れば雪はおもしろ 寢帽《ナイトキヤツプ》つけてまだ讀む月の午後《ごや》しきり粉雪のけはひさらめく [#2字下げ]樂しみと[#「樂しみと」は小見出し] [#4字下げ][#1段階小さな文字]三月五日夜[#小さな文字終わり] 樂しみと心こめゆく夜のさなか出で入るふかき息づきを吾れは ほれぼれとおのれ遊ぶとたのたのと磨る墨のいろはひとり吾がもの 磨る墨やにじむ光の粒だちのにほひこまやかにのりて來るもの 樂しみとひとり恍《ほ》れつつ磨る墨はむべこまやかにとろりとあるべし 草假名は心ゆくなり細《ほそ》がきの面相《めんさう》に書けばなほとおもしろ [#2字下げ]薄暮雪[#「薄暮雪」は小見出し] 落ちてけりあはれよと見るその棚の通草《あけび》とどとして積む雪とともに 雪のいろみなぎる見れば日の暮は下沈みつつよく積みにけり [#2字下げ]雪片[#「雪片」は小見出し] [#4字下げ][#1段階小さな文字]寢室にて[#小さな文字終わり] 玻璃の窻棧の隙《すき》吹き吹きたまる雪片《せつぺん》しろし小夜ふけてける 夜はふかし隙間《すきま》吹き入る雪の粉の今は小床《をどこ》に飛び亂れ積む 夜のふけの鏡にうつり幽かなり雪片は白しつもりつつ澄む [#2字下げ]寒鴨[#「寒鴨」は小見出し] 水の手にさけぶ野鴨の數きけばねもごろならず月夜きびしき [#改丁] [#ページの左右中央] [#中見出し]Ⅱ・春の銃眼[#中見出し終わり] [#改ページ] [#2字下げ]篠むら[#「篠むら」は小見出し] 吾が門《かど》のおもての細き美篶原《みすずはら》みすずは寒しよくしをりつつ 美篶原《みすずはら》風の戲《そば》えのよく見えて春早き朝の日の當《あた》りなり 目にしげき風の戲《そば》えは寒けれど美篶《みすず》が原よ春は來にけり 美篶《みすず》吹き篠《しの》吹く風の朝東風《あさこち》は目もすまにして音のさやけさ 春と言へどいまだ篠《すす》吹く風さきに楊《やなぎ》は枯れて影あらはなり [#2字下げ]風の夜[#「風の夜」は小見出し] 風の吼え聽きつつくだつこの夜さり玻璃戸にうつり吾が顏は見ゆ 風の夜は暗くおぎろなし降るがごとき赤き棗を幻覺すわれは しばしばも息吹きやすむ風息《かざいき》のこのけぶかさは冱《さ》えかへるなり 夜の風の息づきの間《ま》や下《お》り沈む蘭鑄《らんちゆう》の尾鰭ひらきゆるがず 風の音すさぶこの夜の篠藪をほそくとほりて眞澄むこゑ何 うち向ふ春なりながら美篶《みすず》吹き夜をしきり吹く風のするどさ 家垣を一夜《ひとよ》あらしの吹き落す椿のあかき花もあらむあはれ 庭の木々にすさぶ夜風はさりながら咲きつつやあらむそのあるものは この闇の木々吹きひらく夜風には少くも明《あか》き燈《ひ》を向けてあらむ オスラム電球ひたと見つめてゐたりけり何ぞ夜風の息のみじかさ 繁《しじ》はじく椿の蕊《しん》の粉のひかり外《そと》の嵐に燈《ひ》は動くらし 夜に起《た》ちてはげしけれども物の芽に息つめて吹く風のうれしさ 息つめて却《かへ》て冷《ひ》えきる夜の風間《かざま》繼ぎ吹く風はいまだ起らず 燈《ひ》のもとに眼はひた向ふ妻とゐて何か後《あと》引く暗き野の吼え 玻璃の戸をがりりとかじる夜の風の白き齒すごし我は見むとす ぬか星に猛《たけ》る嵐の吹きあふる照葉《てりは》の椎の鋭《と》き光なり 黒松の葉がひに光る小糠星《こぬかぼし》風の喚《おら》びを燈《ひ》は消えにける 風の先《さき》またくしづもる小夜ふけて軋む夜聲の時をしむなり 風は夜《よる》はさだまりにけりうつ雨のはらはらと來てそれも止みたる しきりなく自動車とほる夜のおもて間《ま》どほになれば黎明《しののめ》近し [#2字下げ]春雨[#「春雨」は小見出し] [#4字下げ][#1段階小さな文字]菊子中耳炎を病む[#小さな文字終わり] 耳いたむ妻とこもりて夜はふかし物のこまかにはじく雨あり この夜ふけ聽けばこまかにきこえゐる小雨《こざめ》にしあれやそそぐ春雨 [#2字下げ]寢室の朝[#「寢室の朝」は小見出し] [#4字下げ][#1段階小さな文字]二階、北と東の窻[#小さな文字終わり] 北の風吹きは入れどもこの窻の隙《ひま》あかりつつ菜のあをく見ゆ 百日紅《さるすべり》ねめりあかるき春さきは眼もぬくむなりその枝この枝 [#2字下げ]櫻を思ふ[#「櫻を思ふ」は小見出し] 櫻小學校に櫻の校歌成りにけり子ら歌ふ頃は花の咲かむぞ 襤褸市《ぼろいち》に冬は貧しき道の下《しも》櫻小學に通ふ子らはも [#2字下げ]春意動く[#「春意動く」は小見出し] 移るべき家をさがすと春早し土耳古の帽をかぶりつつ出《い》づ 野の方にしろき煙の行く見ればおろそかならず春はうごけり 春もやや芽立《めだち》張り來る木々のまに瓦の屋根がうちかすみつつ 風道《かざみち》にひかりてしろき花ひと木しきりにさびし何の花ぞも この空の濕《しめ》りにあかる日の在處《ありど》梢はすでに紅《あか》み張りたる 山ゆけばしみみに戀《こほ》し日のさして黒木に萌ゆる色のやさしさ 春まさにねぶたの芽ぶきいちじるしちよろろながるる水もおもしろ [#2字下げ]つくばひ[#「つくばひ」は小見出し] つくばひの日あたりに見て春あさき土賊《とくさ》は[#「土賊は」はママ]硬し叢立《むらだ》ちにけり つくばひの水に映ろふ赤松の木はだなりけり雲うすら行き つくばひの上清《うはず》む水の底にして垢かぶりけり椎二葉三葉 [#2字下げ]風空[#「風空」は小見出し] 春と言へば日ましに乾く畑土の火山灰飛ばす錆いろの風 霾《つちふ》らし嵐吹き立つ春さきは代々木野かけて朱《あけ》の風空《かざぞら》 風面《かざおもて》朱《あけ》に吹き立つ春眞晝ゑぐき埃《ほこり》に食《じき》いとふなり かき濁り霾《つちふ》る春やおぼほしく光無き外《と》に家さがしつつ 月のごと白き夕日や霾《つちふ》らし澱《をど》む眞西の朱《あけ》のしづけさ [#2字下げ]春雨を待つ[#「春雨を待つ」は小見出し] まだ寒く硝子の障子|鎖《さ》し竝《な》めてたまる埃《ほこり》の黄に濁りつつ 鶯やまれに梓《あづさ》の下枝《したえだ》に傍目《わきめ》すれども鳴く音しめらず [#2字下げ]築山の菫咲く[#「築山の菫咲く」は小見出し] 土の膚《はだ》乾く日向の薄ら影すみれの花はあてにやさしさ 築山の笹の根かたの日のあたりそよぐ菫は見れば幽けさ [#2字下げ]家垣[#「家垣」は小見出し] 家垣の椎の諸木《もろぎ》の鏡葉の裏葉入り揉む雪おろしの風 風隱《かざかげ》のぬくき垣内《かきつ》の高野槇これの一木《ひとき》の春のしづけさ [#2字下げ]春の蚊立つ[#「春の蚊立つ」は小見出し] 椎のまに楓《かへで》嫩芽《わかめ》のあざやけき吾が家垣を愛《め》でてこもらふ 春の蚊の立ちそめにけり芽楓《めかへで》の下照りあかりしづけき土に    § 四阿屋《あづまや》に虎斑の竹の葉は落ちていささめながら雨ふれりけり 風竹《ふうちく》を萬古《ばんこ》の狸立てりけり春の日暮は愚かなるらし    § うち沈み石《いは》の面《も》蒼しかへるでの若葉明りに蚊のちらひをる 若葉していくら經《た》たぬを楓《かへるで》の葉べりはあかく染《そ》み出《で》すずしさ [#2字下げ]春朝細雨[#「春朝細雨」は小見出し] [#4字下げ][#1段階小さな文字]階上の東の窻より[#小さな文字終わり] 春は朝ほのぼのい凭《よ》る吾が窻を小雨のり來るとべらの木見ゆ 石のべや若葉かへでとよくうつる春日燈籠に雨ふりにけり 築山の天滿宮に雨はふり春雨にあれやふたもと赤松 笠の松たゆらたゆらにありにける風ありとしも見えぬ春雨 おもしろの春雨やとぞ人の言ひにけるその雨ふれりさくらの花に [#2字下げ]春雨のあと[#「春雨のあと」は小見出し] 中垣をこなたへ明《あか》る山吹の八重咲きの花は雨ふかき花 ここの庭ひろびろと雨の降《お》りにけり朝出でて見る山吹の花 [#2字下げ]春晝落花[#「春晝落花」は小見出し] 木檞《もつこく》のしづけき空へちりかけて櫻はしろし光る花びら 木檞の一木《ひとき》が陰の行潦《にはたづみ》さくらの花は漂ひにけり 春じめり散りたる花は滑岩《ぬめいは》に平《ひら》に貼《は》りつきいとどしき白    § 庭土に花びらしろき春眞晝つぶさに觀れば風あるかなき 風たまゆら土にしづけき花びらのひとつ舞ひ立ちはらら皆立つ 春まひる土移りする花びらの光りつつとまり後《あと》はしづけさ 石《いは》が根にともすれば寄る花の瓣《べん》風無かりけり動きつつ止《や》む [#2字下げ]新樹の頃[#「新樹の頃」は小見出し] 世田ヶ谷は欅竝木《けやきなみき》の若芽どき牛車《ぎうしや》つづきて騎兵隊がまた 欅木群《けやきこむら》寒けかりしか夏向ふ今いちじるし若芽萌え立つ 欅の木の芽立こそこまかなれ寢室の窻は朝|開《あ》け放つ    § 曇天《どんてん》に萌えつつひかる樫若葉浮びてしろき淨水池の塔 あさみどり芽《め》ぶくくぬぎの木々の間に櫻は乏しちらひそめつつ 日にけに雜木《ざふき》の萌《もえ》のかがやけば身はかいだるし胚芽米食ふ 若葉風揉み來《きた》る見ればおそらくは田には蛙《かはづ》の眼も光るらし    § 木のま透き花遠じろく見えにける若葉がくりになりにけるかな 木の芽ぶきいつかしづけくなりにけり葉に出づるものは葉に出たるらし [#2字下げ]砲車タンク驀進[#「砲車タンク驀進」は小見出し] とみにあをむ芽ぶき楊や門《かど》いでて砲車とどろ來る音感じをる 春惜むこの家《や》ゆするは日の闌《た》けて砲車つづき來る永き地響《ぢひびき》 タンクの無限軋道の地響《ぢひびき》なり一臺が行きてまた續き來る タンクの銃眼にすわる大きなる眼《まなこ》かがやけば春ふかむなり 木々若葉し日は照りかがやく地《ぢ》おもてを壓《お》しひしぎ行くタンクの齒ぐるま 砲車トラツク裝甲車機關銃隊日毎とどろかす地響《ぢひびき》を吾れは 重砲隊とどろ壓し來る地響《ぢひびき》に叫び應《こた》ふる鵞鳥早や亡《な》し [#2字下げ]春宵[#「春宵」は小見出し] 起床喇叭吹き習《なら》しゆく木の芽どき月夜にはよき夏向ふなり 春今宵喇叭吹きさしわが門《かど》を青年團ならむ何か言ひをる 二方《ふたかた》に喇叭吹き合ふ寄るのおぼろ田にも蛙《かはづ》の啼き出《で》したしさ [#2字下げ]通草と雨[#「通草と雨」は小見出し] 棚にして見のすがしきは雨あとの通草《あけび》が綴る蔓の葉の萌《もえ》 ぬか雨《さめ》のちららにむすぶ雌雄《めを》のはな通草《あけび》はすがし蜆《しじみ》いろの花 蜆花《しじみばな》通草《あけび》ちりしきおびただし時に搖りこぼす棚の上の雨 雨落《あまおち》に通草《あけび》の花はちり泛《う》きて中《なか》流れをり清きむらさき 雨たもつわか葉の通草《あけび》すがすがし棚ぬけてそよぐことごとの蔓 [#2字下げ]風二三日[#「風二三日」は小見出し] この硝子戸|外《と》の日の照りにわが見るは風の吹きまくる八重ざくらのみ 風の今朝八重のさくらはほたほたと吹きもぎられて色のさやけさ [#2字下げ]柏槇[#「柏槇」は小見出し] 石のべに緑沁み出《づ》る嫩芽立《わかめだち》はひびやくしんの春のすがしさ 清《すが》しくも今朝ふる雨や新葉《にひは》立つ矮檜《そなれ》のいろの石に映ろふ [#2字下げ]兵卒[#「兵卒」は小見出し] 肩章の三つ星を見よと來りけり手をあげにけり背は低き兵 汗ふくと軍帽をとり息づけり額《ひたひ》のみしろき上等兵あはれ 此處に來し安けきかどかとあぐらゐて譽まさぐる兵卒あはれ 對《むか》ひゐて兵卒はにほひはげしけれ街道に遇ふ縱隊のにほひ 兵卒はくるしからむとこの照りを病ふなきかとただに見てわれは [#2字下げ]椿朽つ[#「椿朽つ」は小見出し] 踏處《ふみど》なく見ゆる椿もおほかたは早や朽ちかけぬ紅《あか》きは三つ四つ 落ちかさみ闌《た》くる椿やその花のひとつ紅《あか》きに蟻のぼりをる [#2字下げ]吾が門[#「吾が門」は小見出し] 吾が門《かど》は築土《ついぢ》の端《はた》の白薔薇《しろうばら》おもてへは向かずこなたへと咲く 眺めゐてくぐりの白き花うばら出《で》つはひりする子らがよろしさ [#2字下げ]五月[#「五月」は小見出し] わが庭の薔薇《うばら》のとぼそ春過ぎてくれなゐ久し夏はくるしき 山吹の花ちりがたとなりぬれば蘇枋《すはう》は染めぬ紫の枝 [#2字下げ]轉居の日近づきて[#「轉居の日近づきて」は小見出し] 家移《やうつ》ると今あらためて見るものにこの家垣の椎よ芽楓《めかへで》 咲く花は後《のち》住む人の樂しみとのこしたらなむその草花は 雪つもる通草《あけび》の棚は飯食《いひは》むと朝夜よろしみ茶の間より見し [#2字下げ]をはりの夜[#「をはりの夜」は小見出し] ここに聽く遠き蛙の幼なごゑころころと聽けばころころときこゆ [#改丁] [#ページの左右中央] [#1字下げ]砧村雜唱[#「砧村雜唱」は大見出し] [#改ページ] [#ページの左右中央] [#ここから1段階小さな文字] [#ここから4字下げ] [#ここから23字詰め] 昭和六年初夏より同八年の冬に至る、砧村の生活に由る。此の篇年次に章を分つ。此の砧村大藏の野に於ける鐵塔と雲との風景は快適、日月ともに明らかにして、季節の推移亦おのづからなる玄理にかなふ。自然隨順の三年なり。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] [#改丁] [#ページの左右中央] [#中見出し]Ⅰ・白南風[#中見出し終わり] [#改ページ] [#2字下げ]初夏の代々木[#「初夏の代々木」は小見出し] [#3字下げ][#1段階小さな文字]明治神宮[#小さな文字終わり] 若葉樫しきりかがよひ午《ひる》ちかし明治神宮の春蝉のこゑ 御庇《みひさし》の檜皮の黒み夏まけて映る若葉の清《さや》にまばゆさ 赤松の木群《こむら》しづけきここの宮椎の若葉の時いたりけり 夏向ふ五百枝《いほえ》嚴橿《いづがし》葉廣橿日にきらきらし若葉|嚴橿《いづがし》 雨は今朝ふりながしけむ若葉橿や神苑の森は塵もとどめず ここの宮光る若葉の葉ごもりに一羽|雉子《きぎす》の聲ひらくなり [#3字下げ][#1段階小さな文字]同じく西參道[#小さな文字終わり] 明治神宮西參道の晝|闌《た》けて清きひと照りの風ぞ過ぎたる 晝の林泉《しま》光る若葉の靄ごめにまじりて黝き松のしづけさ 風|透《とほ》る廣き芝生の參《まゐ》り路《ぢ》は玉敷きならし目もすまの照り 神の苑木立おもての眞日照りを歩《あり》く雉子《きぎす》の一羽たふとさ 眼は向ふ芝生なだりの日のおもて寶物殿にうかぶ白雲 ほのぼのと眞晝はこもる靄ゆゑに一木《ひとき》のしろき花のめでたさ お池にはいづくにも見る影ながら龜の子が搖る水際《みぎは》さざなみ [#3字下げ][#1段階小さな文字]代々木練兵場[#小さな文字終わり] 代々木練兵場朗らけく明《あか》し若葉どき上下八方にとどろく物音 代々木の空若葉盛りあがる色見れば青あり緑あり時|闌《た》くるあり 赤土に伏せのかまへの兵ふたり照りあきらけし見ざるべからず 砲車隊|駛《はし》る夏野の日のさかり遠ざかり遠ざかり立つ後埃《あとぼこり》 [#2字下げ]新居前景[#「新居前景」は小見出し] 朝眼には若木櫻の葉ざくらの梢葉《うれは》の紅《あけ》の裏そよぎつつ 夏向ふ霞にあかる若葉木の木群《こむら》のみどり盛り層《かさ》むなり 田の遠《をち》は若葉かがやく日ざかりを往還の埃吹きつけはしれり 桐の花ふふむこなたの日おもては蛙が鳴きて水田さざなみ [#2字下げ]白南風の頃[#「白南風の頃」は小見出し] 白南風《しらはえ》の光葉《てりは》の野薔薇過ぎにけりかはづのこゑも田にしめりつつ 大葉栗夏はこずゑの房花《ふさはな》のさやかにあかり田毎|代《しろ》掻く 水口《みなくち》のえごのひと木の群花《むらばな》は田を植ゑそめていよよすがしさ [#2字下げ]刈りしほと[#「刈りしほと」は小見出し] 刈《かり》しほと麥は刈られぬ。刈麥の穗麥は伏せて、畝竝《うねなみ》にさららと置きぬ。麥刈れば戰《そよ》ぐさみどり、畝《うね》の間《ま》にすでに伸びつる陸稻《をかぼ》ならしも。    § 刈りしほと麥は刈られしこちごちをこのごろしろし馬鈴薯の花 熟麥《うれむぎ》の穗麥刈りとる畝間《うねま》には早やつやつやし茄子の若笛 茄子畑は穗のみ刈りそぐ立莖《たちぐき》の柵《しがらみ》明《あか》し麥のしがらみ [#2字下げ]農村月夜[#「農村月夜」は小見出し] [#3字下げ][#1段階小さな文字]西山野[#小さな文字終わり] 月の夜はいとどかぐろき家《や》の森を田には狹霧《さぎり》の引きわたるめり 狹霧《さぎり》立つ月の夜さりは村方《むらかた》の野よ香《かう》ばしく麥こがし熬《い》る [#3字下げ][#1段階小さな文字]東山野[#小さな文字終わり] 月魄《つきしろ》のしろき夜さりの離れ雲麥たたく音の村にさびしさ [#2字下げ]水の田ちかく[#「水の田ちかく」は小見出し] 朝なさな我が門《かど》いでて見るものにしみじみとよし植ゑし水の田 竹山のうすきみどりの朝じめり水の田ちかく見るがすずしさ [#2字下げ]竹若葉[#「竹若葉」は小見出し] 竹若葉みどりこまかき山方《やまかた》のひといろのなびき朝目にも見よ わせ竹の若葉に霧《き》らふ夏がすみ何か日中《ひなか》の音|闌《た》くるなり [#2字下げ]前の植田[#「前の植田」は小見出し] 植ゑ竝《な》めてみどりすずしき下の田を畷も畦《あぜ》も見のあをみつつ 田の水に茅萱うつりゐしづかなりこのすがしさの眞晝|經《た》ちたる 田のあぜをこなたかがみに叉手《さで》つかふ人かげ見れば梅雨《つゆ》あがりけり 田は植ゑてうつりよろしき秦皮《とねりこ》の若葉も過ぎぬ五四本《いつよもと》づつ 畦竝木《あぜなみき》遲き若葉もふきたちて青葉がうれのまた明《あか》るなり [#2字下げ]青一色[#「青一色」は小見出し] 朝目覺|清《さや》にすがしきこのごろは田面《たづら》も畑も青《あを》よひと色 あさみどりしきり搖れ合ふ竹群《たかむら》は若竹の秀《ほ》と風にすずしさ [#2字下げ]夕べの青田[#「夕べの青田」は小見出し] さしあかり夕かげあをき竝田《なづきだ》にそよそよとある時化後《しけあと》の風 さ青《を》の田に沁みつつひびく蝉のこゑ夕づきにけりうつくしき晴 [#2字下げ]梅雨長し[#「梅雨長し」は小見出し] 梅雨《つゆ》過ぎてなほも降りつぐ日癖雨《ひぐせあめ》このごろ見ねば庭も荒れたり 梅雨《つゆ》のまも桃の繁り葉|末葉《うれは》立ちまた掻き垂れぬ夏檜葉のうへ [#2字下げ]梅雨あけの庭[#「梅雨あけの庭」は小見出し] 梅雨《つゆ》あけの葉かげに照らふつぶら玉豐後梅は紅《あか》し花のごと見ゆ コスモスの立莖《たちぐき》あかき梅の根はこぼれ日つよし地靄立ちつつ 空のむた蒸しつつしろき日は暑し草いらふ手にひかる汗はや 土ほてり闌《た》けつつもあるか日のさかり爪立ちてしろき猫はかまへぬ 外《と》に出して晝は果敢なき鉢ながら瓢箪の花の夜は咲きにけり [#2字下げ]月と水田[#「月と水田」は小見出し] 蛙《かはづ》鳴くくらき水田の夕澱《ゆふをど》み電柱に添ひて月のぼる見ゆ 圓けくも未《ま》だし光らぬ朱《あけ》の月ひむがしの塵の澱みにぞ見ゆ ゆらぎたちややに照り來る月の出を田には蛙のこゑしきるなり 短夜《みじかよ》の月の表《おもて》となりにけり蛙《かはづ》鳴く田がただ明《あか》うして 月の道いつか南へ下《お》りぬらし光は涼し田にひたりつつ [#2字下げ]雨夜月[#「雨夜月」は小見出し] 雨夜にも裏ゆく月のしろじろと空あかりして闌《た》くるものあり 棚曇かげ遠じろき月の夜は狹田《さだ》の水田も澤のごと見ゆ 雨夜月|陰《かげ》はもてどもうすうすに田の水あかりかはづ音立つ 水の田の遲き月夜の時あかり泳ぐ蛙《かはづ》のくろくしづけさ [#2字下げ]螢[#「螢」は小見出し] 闇を來てわれはいきづく小夜ふかく螢の光田の面《も》移ろふ 月の出や稻葉|爽立《さわた》つ夜嵐に螢あふられ田の面《も》立ち消ゆ 月夜風あふる田づらを消ゆと見し螢は高くまた光るあはれ [#2字下げ]新月[#「新月」は小見出し] うち蒼み暮れて間《ま》は無き西の手に早やあはあはしほそき新月《しんげつ》 門畑やそよぐ陸稻《をかぼ》の夜に入れば月ほそく見ゆ黒き屋《や》のうへ [#2字下げ]唐黍咲く[#「唐黍咲く」は小見出し] もろこしは花つけそめし上の穗に緑蜆蝶《みどりしじみ》の翅《はね》ひらきつつ 唐黍や立穗《たちほ》の稚《わか》き八《や》つ房《ぶさ》に照りつくるしろき旱雲《ひでりぐも》なれ [#2字下げ]日ざかり[#「日ざかり」は小見出し] たぼたぼと蛙《かはづ》混《こ》み合《あ》ふ日のさかり田岸は白き虎の尾のはな 日ざかりの田中の黝《くろ》きひとつ松夏はけはひに闌《た》けにつつあり 日のさかり暑さ堪へゆく田のへりは桑の實黒く忍冬の花 唐辛子花咲く頃やほのぼのと炎天《えんてん》の畝《うね》に歪《ひず》む人かげ 白小雲《しろこぐも》かがよふ野良の末にして鐵塔のよき間隔《かんかく》は見ゆ [#2字下げ]竹煮草[#「竹煮草」は小見出し] 竹煑ぐさ朝行く月のわづかのみ穗には明りて風騷ぐめり 竹煑ぐさ夕立つ雨の亂るれば風さへすさび心神《こころど》も無し [#2字下げ]暑き日[#「暑き日」は小見出し] 身のほとり暑き日なかや眼につきて疊に猫の毛はつまみをる 蝉しぐれしづかにかよふ晝|闌《た》けて子と組み立つる名古屋城の型 [#2字下げ]蝉時雨[#「蝉時雨」は小見出し] 蝉しぐれしづけき山に行き向ふ眞晝は明《あか》し我があるきつつ 蝉時雨ながらふ聽けば母の手の冷《つめ》たき手觸《たふ》り繁《し》みにおもほゆ 蝉のこゑしづもる山の晝|闌《た》けて光る黒檜《くろび》の土用芽は見ゆ [#2字下げ]茅蜩を聽く[#「茅蜩を聽く」は小見出し] 東山野《ひがしさんや》この夕《よ》はじめてきく聲の茅蜩《かなかな》のこゑは竹にとほれり [#2字下げ]ある月の夜[#「ある月の夜」は小見出し] 月すでにのぼりて淡《あは》き黄のしめり茅蜩《かなかな》のこゑぞ森にとほれる 紫は茄子の月夜の陰《かげ》ながら傍《わき》ゆく水のよく光るなり 月夜空高ゆく夏の薄雲は消えつつしあれど涼しかるらし [#2字下げ]夜雨近し[#「夜雨近し」は小見出し] 雨夜雲《あまよぐも》移ろふ月のつぎつぎと先《さき》あかりつつすでに露けさ [#2字下げ]月の晩景[#「月の晩景」は小見出し] 猪子雲《ゐのこぐも》照り出《づ》る月の傍雲《わきぐも》の氣《け》に引く見れば茜《あかね》細雲《ほそぐも》 [#2字下げ]青き田[#「青き田」は小見出し] 翔《かけ》りけり狹田《さた》の青田のひと色にきようきようとしていち早き百舌 青き田の見はらしどころここにゐて二階は涼し風そよぐ見ゆ 目に移るさ青《を》の稻田のそよろ風夕かげのいろと滿ちてすずしさ [#2字下げ]秋夕[#「秋夕」は小見出し] うち向ふ竹の林の夕じめりひぐらしのこゑをひとり聽きゐる 氣色《けしき》には匂のみなる夕霧の竹の端山にありてしづけさ [#2字下げ]庭園の晩餐[#「庭園の晩餐」は小見出し] [#3字下げ][#1段階小さな文字]天蛾[#小さな文字終わり] 天蛾《すずめが》の翅《はね》あげて來るゆふべには夕顏の大き花もこそ咲け 父|我《われ》は言にうちあげず月の出を大き天蛾《すずめが》の翅《はね》降《お》りる見る [#3字下げ][#1段階小さな文字]葡萄と月[#小さな文字終わり] 一方《ひとかた》に蛙《かはづ》啼く田のはるけくて月わたる下び雲堤引く 照る月に面《おもて》ふりむけわがかざす葡萄の房のつぶら實の玉 房ながらまろき葡萄は仰向《あふむ》きて月の光にうちかざし食《は》む 雛鳥の咽喉《のんど》あけたる子が口に葡萄つぶら玉入れてをりわれは [#2字下げ]曉闇[#「曉闇」は小見出し] 木群《こむら》には早やも湧きたつ蝉のこゑまだあかつきの道はくらきを 蝉のこゑ湧きはたてどもこの朝やなにか勢《きほ》ひにおとろへにけり [#2字下げ]門前の影[#「門前の影」は小見出し] 朝ひらく白き木槿《むくげ》の門《かど》ながら夕さりさぶし花はつづかず 電柱の片側《かたがは》くらき月夜|照《で》り石ころに茅《かや》に露ぞ滿ちたる [#2字下げ]卷積雲[#「卷積雲」は小見出し] 白魚の移ろふ群のひとながれ初秋の雲の空にすずしさ 流れけり鱗だちつつ正眼《まさめ》にもすずしくしろくみなぎらふ雲 [#2字下げ]初秋月夜[#「初秋月夜」は小見出し] 月あかり水脈《みを》引く雲の波だちて夜空はすずし水のごと見ゆ 月に見て水脈《みを》だつ雲の風道《かざみち》は薄らにしろきものにぞありける [#2字下げ]夕映の田[#「夕映の田」は小見出し] 稔《みの》り田《だ》の夕映すごき乾田《ひだ》の泥《ひぢ》うち絶えて鳴かず蛙《かはづ》ひさしく 秋の田の穗向きに移る夕雲《ゆふぐも》の影迅くして後《あと》ぞ燒けたる [#2字下げ]秋冷[#「秋冷」は小見出し] 葉鷄頭《かまつか》の火立《ほだち》にそよぐなるこびえ日は透《とほ》りつつ色の涼しさ 颱風《あらし》過ぎいたも冷えたる稔《みの》り田《だ》になにか蛙の時ならず鳴く [#2字下げ]月の夜の庭[#「月の夜の庭」は小見出し] 月夜よし二つ瓢《ふくべ》の青瓢《あをふくべ》あらへうふらへうと見つつおもしろ ぬばたまの夜にして開く白き花大き夕顏の開ききりたる [#2字下げ]檜葉の間[#「檜葉の間」は小見出し] 檜葉のまを移ろふ月のかげ洩れて涼しかりしか庭に出《で》て飮み 檜葉のまに光る蜘蛛ゐき月夜には搖れにたりしか絲もとどめず [#2字下げ]秋日向[#「秋日向」は小見出し] 日の光|染《し》みてすずしき群《むら》ぐさによき蟲のこゑのほそく立ちたる 帚草|株立《かぶだち》紅《あか》くなりぬれば日射すずしか猫もつくばふ 何か猫草にとり食《は》みつくづくと舌なめずりぬけだし日は秋 [#2字下げ]秋雨ほそし[#「秋雨ほそし」は小見出し] 軒の端や青き瓢《ふくべ》にふる雨の雨あしほそくうちしぶきつつ [#2字下げ]渡り鳥の道[#「渡り鳥の道」は小見出し] [#4字下げ][#1段階小さな文字]その電線は庭のまなさきに見ゆ。[#小さな文字終わり] 野分《のわき》だち翔《かけ》りつぎ來る秋鳥のきそふ鋭聲《とごゑ》は朝明《あさけ》まされり 群れわたる鳥かげ見れば秋空やただにひとすぢの道通るらし つぎつぎと來て立つ見れば電線《はりがね》やこの空ぞ渡る秋鳥の道 [#2字下げ]秋分[#「秋分」は小見出し] よきかげよ向ひの松の木ぶりにも秋分の日射しづかにし見ゆ [#2字下げ]秋祭[#「秋祭」は小見出し] 畷ゆきもみつつ勢《はや》る樽みこし夕かげに見えて稻は穗の波 樽《たる》みこし山のすそ田の夕かげに出てはずむなり霧な棚引き [#2字下げ]この道[#「この道」は小見出し] 草堤夕かげ永し誰ならず我があゆむなりかく思ひあゆむ 秋のいろただにあはれと道芝の小砂利まじりに夕燒くる蹈む [#2字下げ]秋山[#「秋山」は小見出し] なぐはしき山とふならね雜木立ただにしたしき秋ふかき山 雜木山朝に見あるき夕べにも見てめぐるなり足の向くまま [#2字下げ]遠足の歸りを[#「遠足の歸りを」は小見出し] 朝出でて歸り來る子とあひにけり歩みつつ聽くその秋山を 相模の阿分利の山の秋山のなにの紅葉かもとも染めたる [#2字下げ]菊[#「菊」は小見出し] 日ににほふ閑《しづ》かなる戸や門竝《かどなみ》の秋ふかうして黄菊咲きつぐ 秋まひる隣にふかむ菊の香のいつかこなたへうち匂ひつつ [#2字下げ]月と霧[#「月と霧」は小見出し] 吾が門にさし入る月のかげ見れば昨夜《よべ》のあらしは激しかりにし 觀るものに月の光は流るれど山櫨《はまはじ》の葉にさらにすずしき 秋はいまさなかとぞ思ふ向つ岡月|明《あか》うしてこの夜|十六夜《いざよひ》 狹霧立ち冷《ひ》ゆる夜頃や先驅《さきか》けて月に向く子が髮毛かがよふ 月夜風しろくかがよふ穗すすきの旗手は長しなびかひにけり    § 架線橋つづきて霧《き》らふ空ながら線路は涼し月明う照り[#地から8字上げ][#1段階小さな文字]小田急線[#小さな文字終わり] ひと村に白くかぶさる乳房雲月の光の滴《た》りにけるかも 糯《もち》の田はいまださ青し夜霧立ち香に立つ稻のその葉さやらふ ここの田の穗の垂り見れば月の夜やただに夜霧のむすびつつあり 十六夜《いざよひ》や月夜高きを濃き霧の煙幕の幅引きにつつあり       § 蓆戸《むしろど》やしまく夜霧をありありと灯《ひ》は赤く點《つ》けて芝居うつ子ら ひといろの松蟲の音とぞなりにける夜霧ふり下《くだ》りここは松山 月に行く新懇道《にひばりみち》もたどたどし夜霧たちなびき伐りのこりの松 霧ふかく月もとどかぬわが前を影あやしかも歩《ある》きてぞをれ この月をアンゴラ兎飼ふ家は霧ふかくとざし早や夜中なり [#2字下げ]月明[#「月明」は小見出し] 草くづに見えて啼き澄む蟲のひげ月のひかりは水のごとあり 床下《ゆかした》に月の光は射し入れり球根が見ゆ數あかる蟻 [#改丁] [#ページの左右中央] [#中見出し]Ⅱ・氷の鱗[#中見出し終わり] [#改ページ] [#2字下げ]水上[#「水上」は小見出し] 石《いは》ばしる水のかかりの音立てて紫|冷《ひ》やき龍膽《りんだう》のはな 日のうちも狹霧こもらふ水上《みなかみ》は紅葉さし出《で》て冷《ひ》やき岩室《いはむろ》 [#2字下げ]枯山[#「枯山」は小見出し] 雲間洩る寒き日すぢとなりにけり遠々《とほどほ》に見る雜木々《ざふきぎ》の立《たち》 冬山の枯山《からやま》來ればいさぎよし甲《かん》にひびきて何か斫《き》る音 枯山《からやま》にはらら飛び交《か》ふ小さき蝶|黄翅《きはね》せせりの影ぞ生きたる この道の朽葉|下凍《したじ》みかそけさよあたる日射のそれも寒けさ 寂びつくししかも明るき端山木《はやまぎ》や時にはららき日ざしかがよふ    § 冬まひる雜木端山《ざふきはやま》の日あたりを吹きあふる風の音のわびしさ 雜木山とよもす晝のこがらしはかうかうと寒し空へ吹きぬく [#2字下げ]冬の土[#「冬の土」は小見出し] 庭の土風に罅《ひび》だつ冬の曝《さ》れ鼠小走りただち隱れぬ 目もすまに凍《し》みつつ玄《くろ》き冬の土玻璃の缺片《かけ》すら光りかへさず 冬の土こごりきびしくなりにけり球根を埋めてにじむもの待つ 冬の土しみみ掻きたる種床《たねどこ》にひとりさやけさや白き猫ゐる 種床にうづくむ猫の今朝はゐて時ならぬ白き華ぞ咲きたる [#2字下げ]霜[#「霜」は小見出し] 野にあれば季《とき》のうつりのしづかなり霜は明らかに人はすなほさ 三冬月|谷地《やち》の畠のとりどりに霜置き足らし我ぞ歎ける 霜疊|清《さや》にましろき萱の枯れ我が起き起きの心きびしさ 霜と言へば雜木《ざふき》の竝木|染《し》みつくす田川の岸も目に緊《しま》るなり 霜は今はいたりつくしてしづかなり畦《あぜ》つたひ來る庭鳥のこゑ [#2字下げ]歳の暮に[#「歳の暮に」は小見出し] 形ばかり門《かど》に小松はうちつけてただに來向ふ春を待つわれは 篁を松をこの家《や》に常に見てわが足れりけりなにぞ今さら [#2字下げ]竹山[#「竹山」は小見出し] 竹山はおもての小舍《こや》の蓆戸に日のあたりゐて寒き物音 篁の外《と》に積む稻は乏しけど唐辛子赤く掛けつらね干す [#2字下げ]冬の水[#「冬の水」は小見出し] 冷《ひ》えちぎり洗ふ大根《おほね》をその葉さへ寒《かん》の素水《さみづ》にわれは見つくす 冬はいましろくさやけき蓮の根の紫ひかる切口の孔《あな》 うち沈む飯粒《いひつぶ》見れば冬の田の後《あと》ゆく水も冷《ひ》えとほりけり 常無きはいよよ清明《さや》けしさらさらに冬の淡水《まみづ》もながれ來にけり 冬の水いさら小川の日に透きて影うごく見れば流れつつあり [#2字下げ]冬の田[#「冬の田」は小見出し] [#3字下げ][#1段階小さな文字]裏の戸[#小さな文字終わり] 群鷄《むらどり》の白き鷄《かけ》ゐる背戸ながら田にはけざむき影ばかり見ゆ 晝の間《ま》も冬の田の面はけざむくて何か凍《し》みつつ影のかぐろさ [#3字下げ][#1段階小さな文字]氷雨ふる[#小さな文字終わり] 冬の田の門田の泥《ひぢ》にふる雨のこの夜《よ》氷雨《ひさめ》の音立てにける 朝の田に澄みつつあかる水のいろ昨夜《よべ》の氷雨《ひさめ》かふりたまりたる 冬の田よしきり光れど日のうちもおほにかぐろくさむき稻莖《いなぐき》 [#3字下げ][#1段階小さな文字]冬眠するもの[#小さな文字終わり] 冬の田のこごれる泥《ひぢ》にすむ魚の蛙の蛇のこゑもせなくに 土ふかく蛇はひそむととろほろと眼もつぶるらむ食《た》べはせなくに 聲は無しただに月夜の田の泥《ひぢ》におのれ身がくり冬眠るもの [#3字下げ][#1段階小さな文字]足跡[#小さな文字終わり] 冬の田の足跡見れば入り亂り氷雨《ひさめ》たまれり深き水の田 [#3字下げ][#1段階小さな文字]氷の鱗[#小さな文字終わり] 冬の田は稻ぐき黒き列竝《つらなみ》に鱗だちたり美《よ》き氷張り 冬の田に月の光の來るとき稻莖《いなぐき》は見ゆさざら薄氷《うすらひ》 冬の田の深田《ふけだ》の氷|罅《ひ》びわれて月の夜頃はよく光るなり [#2字下げ]冬夜[#「冬夜」は小見出し] 襖《ふすま》には猫の物|食《は》む大きかげ夜寒《よさむ》ひそかに吾れも食《は》みをる 白き猫|繁《しみ》み身動《みじろ》ぐ毛のつやのしづかを霜は外《と》にくだるらし 怪しく閑《しづ》けかりしか夜明がた忽《たちまち》を霜の大いに到れり [#3字下げ][#1段階小さな文字]眼を病みて[#小さな文字終わり] 冬の夜のストーブ守《も》れば我が行きし沙漠をぞおもふ駱駝の足音 夜は深しただにしづけくゐるわれをストーブの熱《ほて》り痛む眼に來る 時ならず寒き夜ふけにとどろくは軍需品はこぶ貨車にかもあらむ 聽くものにはらつく冬の雨ながら月夜なりけり眼鏡拭きをる [#2字下げ]雨と雪と[#「雨と雪と」は小見出し] 雨まじり雪かふるらし夜のふけを音《ね》には立ちつつ眼には白かり うすうすと夜目にも雪ぞつもりけるあたりはいまだ雨の音して [#2字下げ]早春月夜[#「早春月夜」は小見出し] うち騰《あが》り月は圓《まど》けき向う岡木の立寒し未《まだ》しきさらぎ 淺夜にはかすむ月夜も夜ふけにはただにわたりぬ冱《さ》えかへりつつ [#2字下げ]早春の水田[#「早春の水田」は小見出し] 前の田は乾き乾かぬ稻莖に日のあたるのみいまだ冬の田 田の水につづる氷の薄ら罅《ひび》春の日ざしは照りそめにける    § 水の田に薄氷《うすひ》ただよふ春さきはひえびえとよし映る雲行《くもゆき》 刈かぶや黝《くろ》き稻莖水ひかずひたりつくして冬もをはりぬ 春すでに刈田に黒き泥《ひぢ》の面《も》のふくらみ柔《やは》しうちにほひつつ うちはずみにほふ青みや兵ふたり歩《ほ》のそろひをり田に映るかげ 長かりし冬のねぶりよ土いでて蛙は水にまだもとろみぬ [#2字下げ]田の水光る[#「田の水光る」は小見出し] 楉山《しもとやま》芽《め》ぐむ春日を水田にはまだひえびえと風のさざなみ 田の水に來寄るさざなみ刈株の列竝《つらなみ》のまに光るさざなみ [#2字下げ]寂しき春[#「寂しき春」は小見出し] 寒くのみいまだけぶらふ雜木原《ざふきばら》あゐむらさきに照る日かげりぬ うち澱《をど》み春は病ましも水の田に映る曇の日を透かしつつ [#2字下げ]蝌蚪[#「蝌蚪」は小見出し] 猫やなぎ花はぜそめて田川には蛙子《かへるご》生《あ》れぬ繁《しみ》みかへる子 搖れ泳ぐ蛙子《かへるご》見ればくろぐろとひたり水漬《みづ》きぬ底に群るるは [#2字下げ]雨つづみ[#「雨つづみ」は小見出し] 雨《あま》づつみ薄き田の面の上清《うはずみ》におたまじやくしはよく泳ぐなり かへる子はしじに濁せど道つけて薄ら水のる春の田の泥《どろ》 雨《あま》づつみにほへる見れば紫雲英田《げんげだ》や春の日永はよくふりにけり [#3字下げ]春の田[#「春の田」は小見出し] 春の田にうつら啼き出《づ》る蟇のこゑえごの木の芽もひらきたるらし 萠えいでて柔《やは》き木の芽の或る梢《うれ》は白うかがやけり花かともあはれ 庭つ鳥あそぶ田の面に咲く花は野芹げんげん馬のあしがた 鷄《かけ》まじりあそぶ野鴨の埓なさよ水には入らず紫雲英田《げんげだ》にゐる 春の田にしじに闌《た》けゆく芹の花しろき鵞鳥の頸根《うなね》伏せたる 春茱萸やけむる嫩芽を田川には鶩ひとりが行き戻りつつ 田の圦《いり》は映る楉《しもと》の叢嫩芽《むらわかめ》この閑《しづ》けさをいまだ塞《せ》きたる [#2字下げ]光なき空[#「光なき空」は小見出し] 霾《つちふ》らす春の嵐はとよもさず雉子《きぎす》鳴き立つ聲ぞとよもす 霾《つちふ》らす風《かざ》あし見れば吹き亂りひと日濁れり光なき空 [#2字下げ]初蛙[#「初蛙」は小見出し] 吾が門よ夜ふけにきけば春早やもかはづのこゑの立ちてゐにける 初蛙《はつかはづ》鳴くやいづらと窓あけて耳とめてをり月ののぼるに    § 春じめり馬頭《めづ》觀音の小夜ふけて立ちそめにけり田蛙《たかはづ》のこゑ くくと啼きころころと繼ぐ蛙《かはづ》のこゑ纎《ほそ》き月夜のものとし聽きゐる [#2字下げ]鐵兜[#「鐵兜」は小見出し] 菜の花に眼のみうかがふ鐵兜童なりけり敵はあらぬに [#3字下げ][#1段階小さな文字]爆彈三勇士を憶ふ[#小さな文字終わり] 廟行鎭はきさらぎさむき薄月夜おどろしく三人《みたり》爆《は》ぜにたるはや 汲みかはす水盡きにけりいざとこそ立ちたりけむ思ひきはめぬ 鐵條網にいたりすなわち爆《は》ぜ死なむ命なりひたひたとそろふ足音 ますらをや命ある間《ま》と口火|燧《き》り爆藥の筒はいたはりぬらむ 灼《や》きつくす口火みじかしひた駈けに爆《は》ぜて碎けて果てぬべき兵 ますらをはかねて期《ご》したれ行きいたり火と爆《は》ぜにけり還る思はず 筑紫の我が不知火のおぎろなき氣性このごとし爆破し止《や》んぬ 突撃路あへてひらくと爆藥筒いだき爆《は》ぜにき粉雪ちる間《ま》に 薄月夜とどろ火の發《た》つたちまちをおのれ爆《は》ぜ飛び兵微塵なり 兵士《つはもの》はしかく死すべししかれども煙はれつつその影も無し [#2字下げ]麻布第三聯隊[#「麻布第三聯隊」は小見出し] [#ここから1段階小さな文字] [#ここから4字下げ] [#ここから25字詰め] 七年春、麻布第三聯隊の隊歌作成につきて、秩父宮殿下に再三拜謁し、歌詞成る。作曲は山田耕筰氏なり。軍歌としての新聲騰り、光榮身にあまる。その時の歌。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] [#3字下げ][#1段階小さな文字]賜謁の日[#小さな文字終わり] 秩父宮召したまふなりあなかしこ麻布第三聯隊に參《ま》ゐのぼる我は 早や早やと召したまふとよ我が足ども踏處《ふみど》さだまらず營門を今は わが君は直立《すぐだ》ちおはし御眼鏡にほほゑましけり此方《こなた》見まして 最敬禮して眼がしらあつくなりにけりすがすがしとも若やかに坐《ま》す 麻布第三聯隊春まだ淺しうやうやと心ひきしまり高きにのぼる[#地から8字上げ][#1段階小さな文字]屋上展望[#小さな文字終わり] [#3字下げ][#1段階小さな文字]隊歌發表式の日[#小さな文字終わり] [#ここから1段階小さな文字] [#ここから4字下げ] [#ここから25字詰め] 五月十六日、隊歌發表式あり。偶ま犬養首相の兇變の翌日なり。この日參向、營内の道場にて撃劔の試合あり。我が椅子は一段と高きところにしつらへあり、中隊長宮に隣りまゐらせたり。あまりの畏こさに御後べに退りて扈從しまつる。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 兵士《つはもの》はうやまひあつし竹刀《しなひ》とりお前にとうと聲|徹《とほ》り撃つ 激しくうちあふ竹刀《しなひ》眼には入れこの畏《かし》こさに面も小手もわかず [#ここから1段階小さな文字] [#ここから4字下げ] [#ここから25字詰め] 營庭にて三聯隊の兵全部凹形に整列し、隊歌を合唱す。宮殿下もその列中にあらせらる。聯隊長と、作歌作曲の兩者は北面す。風やや強し、聯隊長の訓示の後、合唱の聲大いに騰る。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 營庭の老木《おいき》の櫻過ぎにけりわれは立ちつくす光る眞土《まつち》に 立ち待つと心澄みゐる晝さなか兵あらはれて來り列竝《つらな》む わが前に歩兵第三聯隊竝び立ち隊歌うたふと聲大いにあがる 葉ざくらは風やや強し耳とめて宮の御聲を聽きまつらくは [#ここから1段階小さな文字] [#ここから4字下げ] [#ここから25字詰め] 夜宴あり。將校一同列席。メーン・テーブルの中央に殿下おはし、我が席は殿下に對ひまゐらす。畏れ多きことかぎりなし。聯隊長には上海よりの凱旋將校對座し、山田耕筰氏その左に在り。わが作るところの隊歌、民謠「歩三の春」數次合唱され、少壯將校たちの氣焔亦當るべからず。この夜、無禮講とて御手づから御酒賜ることしきりなれば、初めはひたに恐懼しまつりたれども、後には陶然として、わが歌謠など御耳に入れ奉りぬ。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 瓶子《へいじ》とらせ御酒《みき》はたぶなり御さかづき持つ手ふるへて泣きをりわれは あなかしこ宮のお前に頸根《うなね》つきなんぞほのりと酒の乘り來る この御酒《みき》や臣《おみ》もささげて醉ひにけりゆるしたばりて歌ひけりのどに 春の夜は闌《た》けにたらしもみさぶらひ遊ぶ今宵も闌《た》けにたらしも [#2字下げ]我が歌[#「我が歌」は小見出し] うちつけにただに胸うつ歌ならず心ひそめて我が歌は觀よ 命なりありのままなる觀のながめ祕密莊嚴《ひみつしやうごん》の相《すがた》しぞ思ふ [#改丁] [#ページの左右中央] [#中見出し]Ⅲ・夕莢雲[#中見出し終わり] [#改ページ] [#2字下げ]苺咲く[#「苺咲く」は小見出し] いささかは庭の芝生のふちどりと苺のしろき早咲きの花 [#2字下げ]初夏の畑[#「初夏の畑」は小見出し] 麥の間《ま》に植ゑて肥やる茄子のうね麥は穗に立ち茄子の花はまだ 蠶豆の裏吹く白き晝の風ものの氣遠《けどほ》く夏はさみしさ 夏すでに穗麥にからむ晝貌の莟よぢれて花二つ三つ [#2字下げ]玄土[#「玄土」は小見出し] [#ここから1段階小さな文字] [#ここから4字下げ] [#ここから25字詰め] このあたり田植おそし、馬は印旛沼地方の事果ててより借りて來るなり。この夏ことに遲れたり。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 玄土《くろつち》は光とほらず物の根の下凍《したじみ》ふかし春來るなし 玄土《くろつち》のなじまぬ土の畑つもの季《とき》遲れたり白南風《しらばえ》を而も 玄土《くろつち》は眞土《まつち》ならねば水入れて深くぬめるなし早稻田《わさだ》根づかず 蛙鳴く草田のいきれたがやさず梅雨《つゆ》は向へど馬も借り來ず 玄土《くろつち》の小田よ十代田《としろだ》の栗の穗の光しらけてやをら代掻《しろか》く 代掻《しろか》きの眞夏來れり出でよ出でよとみに見えたり玄土《くろつち》のほけ [#2字下げ]耕田遲る[#「耕田遲る」は小見出し] まだ鋤かず狹田《さだ》の田岸の鴨萱の根を泳ぎつつ蛙らはゐる 青日射《あをひざし》しげき莠《はぐさ》の下草に音《ね》は立ちにけり早き蟲の音 夏の田やいまだ鋤かねどぬめり田のむらさきの泥《どろ》光りまされり 草ごみに荒く切りゆく田の土は犁《すき》の刄型《はがた》の紫の塊《くれ》 [#2字下げ]夜々、蛙を聽く[#「夜々、蛙を聽く」は小見出し] 藁床に起きてなげけば蚊のこゑも立ちてゐにけりころろ夜蛙《よかはづ》 樂しみと蛙《かはづ》聽く夜の水口《みなくち》は水も遊ぶか音ちよろろゆく [#2字下げ]庭前小景[#「庭前小景」は小見出し] 青梅の幹掻き立つる母の猫仔猫は飛べる蝶を見あげぬ 野茨《のいばら》はいとどしろきに層《かさ》厚き薔薇《さうび》は濡れて肉いろの花 [#2字下げ]鐵鈷雲[#「鐵鈷雲」は小見出し] 黄金《こがね》の鐵鈷雲《かなとこぐも》の巨《おほ》き雲ただに押し騰《あが》り晝は久しさ 入日蔽ふ鐵鈷雲《かなとこぐも》は雨雲の下ふらしたりすごく燒けつつ    § 眞東《まひがし》やただに反《そ》り立つ巨《おほ》きなる鐵鈷雲《かなとこぐも》は一つ根の雲 日のさかり鐵鈷雲《かなとこぐも》の傍《わき》あがる神立雲《かんだちぐも》のおどろ三つ峯 [#2字下げ]深大寺[#「深大寺」は小見出し] 立雲《たちぐも》に雷《いかづち》こもる傍空《かたへぞら》風前《かぜさき》しるしここのまつかぜ 黒南風《くろはえ》にかがよふ群の青杉は嫩芽《わかめ》ふきたつ深大寺《じんだいじ》の森 夏すでに黝《くろ》む青葉を揉みあふる梅雨《つゆ》の風ふかし押し移る雲 この庭や後ろ邃《ふか》きに日はさして枇杷の喬木《たかぎ》の明き實の數《かず》 閑《しづ》かなる庵《いほり》やと觀て仰ぐ眼にまろまろとよし明《あか》る枇杷の實[#地から7字上げ][#1段階小さな文字]庭に小亭あり[#小さな文字終わり] 庭苔の強き日射《ひざし》を時|隔《お》かず散らひ舞ひ來る細き葉や何 花よりはこれの一木《ひとき》の鏡葉の照りかへし日を白しとを見る[#地から5字上げ][#1段階小さな文字]泰山木に花ひとつ殘れり[#小さな文字終わり] 水|冷《ひ》やきここのお池のとちかがみ眺め足らはむ肘枕して 深大寺松風ひさしこの隱《こも》る黒南風《くろはえ》はくらしけだし夜に入らむ 大葉栗しろくなだるる花群《はなむら》は深大寺出でて布田《ふだ》へ行く道 鳥居には一木《ひとき》栗の木花さはに穗に咲き垂れて代掻《しろか》きの馬 [#2字下げ]梅雨にこもる[#「梅雨にこもる」は小見出し] 梅雨の靄おほに蒸し立つ日ざかりはくるしかりけり野に隱《こも》りつつ けけと啼く夕闇《ゆふやみ》蛙《かはづ》家垣の檜葉のしづくか食らふなるべし [#2字下げ]食用蝦蟇[#「食用蝦蟇」は小見出し] [#ここから1段階小さな文字] [#ここから4字下げ] [#ここから25字詰め] 洗足池のほとり食用蛙を釣る浮浪者殖えたり、一匹の値五圓なりといふ。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 池の下《しも》茅萱うちひたす出水には食用|蝦蟇《がま》か夜ただ吼ゆらむ 池尻に食用蝦蟇を釣ると來てあはれあはれ空し人かがみをる [#2字下げ]老蛙子蛙[#「老蛙子蛙」は小見出し] 老蛙子の蛙とし鳴くならし夏めきにけれやにほふ闇の田 老蛙田簑|著《き》て鳴く梅雨の田を子の蛙らは泳ぎすらむか [#2字下げ]或る門前[#「或る門前」は小見出し] むくろじは花ちりしける白土《しろつち》に雀鳴き立つ梅雨あけの照り 梅雨《つゆ》あがり代掻《しろか》きをへし水の田に新麥藁《あらむぎわら》の鳰が映れり [#2字下げ]宵月[#「宵月」は小見出し] 無線塔とわたる月のこなたには蛙が鳴きて植田すず風 敷藁や月夜清きに南瓜《かんぼちや》の黄なる花さへ照り白く見ゆ 地靄立つ蒼き月夜の草堤ひとりは行かず子ら二人ゆく [#2字下げ]夜聲[#「夜聲」は小見出し] 梅雨霽《つゆばれ》のあをき月夜の白小雲遠く犬の聲のうつくしく發《た》つ 吾が窓よ月に開けば刈りしほの穗麥の矢羽根風そよぐなり 代掻《しろか》きて水も足らふや夜は蛙《かはづ》ころろ樂しめり玉ふくむこゑ [#2字下げ]雷雲[#「雷雲」は小見出し] 黒南風《くろはえ》の風さき見れば雨雲に雷《らい》こもりつつ青き田のいろ 夏眞晝とどろ閃めき押し移る雷雲《らいうん》の層《さう》は拱居《あぐらゐ》て觀む 雨雲にやまずひびかふ物の音夜はまだふけず赤く濁る月 [#2字下げ]路上の照り[#「路上の照り」は小見出し] 前歩む子らが頸根よ滴《た》り落つる玉の汗見ればよく灼《や》けにけり 搖りひびきしづけき山はよく聽けば分きしぐれつつみんみん蝉のこゑ [#2字下げ]夕雲二景[#「夕雲二景」は小見出し] あやに飛ぶ雲のうへ引くすぢ雲は夕光《ゆふかげ》にしてさらに氣遠《けどほ》さ かぎろひの夕莢雲《ゆふさやぐも》は蜩《かなかな》の啼く間《ま》も早し邊《へ》に消《け》つつあり [#2字下げ]紫芋[#「紫芋」は小見出し] 楯|竝《な》めて群立《むらだ》つ芋の高莖は紅《くれなゐ》すがし下透かしつつ 莖高《くきだか》の芋のひとつ葉風吹きてひるがへる見ればすべる白露 秋の風さわたる見れば高畑や幾畑となく芋の葉の群 芋莖や騷《さや》ぐ立葉《たちは》の風傍《かざわき》も早や色づきぬ早穗田《さほだ》粳稻《うるしね》 朝曇うすらすずし水の邊はずゐき積みたりあかき芋莖 [#2字下げ]牛[#「牛」は小見出し] 日おもてにひた黒の牛立てりけり深くうなぶし見るとなき目見《まみ》 道の幅|俯居《うつゐ》る牛の傍《わき》よけて歩み來にけりひた堪へむとす      § 風を見る牛のまなこのしづけさよ秋づきにけりうつくしき稻 ただに射す夕日や牛の横臥して瞼《まぶた》の蒼蠅《さばへ》しばたたきつつ 大黒《おほぐろ》の雄牛の尻毛卷きにけり夕風亂りほそぼそと見ゆ 艶黒《つやぐろ》の穩《おだ》しき雄牛うなじ垂り日の夕かげは曳かれけるかも この道に靜けき牛のありしかと還りゐにけりほそき月の夜 [#2字下げ]夜は起きて[#「夜は起きて」は小見出し] ここの谷地《やち》冷《ひ》えはなはだし夜《よ》は起きて月夜すがらに雲の行《ゆき》見ゆ 夜に起り荒く息づく風音《かざおと》はまがふべきなし耳を放たず 月の前おのれ消えつつ飛ぶ雲の後來《あとき》たる間《ま》の空のすずしさ 山蝉か蓋《けだ》し魂ぎる雲いでてただち梢にひた明る月 雲|迅《はや》し月に逆らふしばしばも後夜《ごや》はあはれに裏あかりして [#2字下げ]大森區[#「大森區」は小見出し] [#3字下げ][#1段階小さな文字]本門寺[#小さな文字終わり] [#4字下げ][#1段階小さな文字]扁額は大虚庵光悦の書なりといふ[#小さな文字終わり] おほらかに本門寺とぞ讀まれたる日のくれぐれを仰ぎゐる我は 本門寺日の暮れかかる眞正面《まおもて》はひろびろとあり寒き石段《いしきだ》 赤松はけだし閑《しづ》けしつれづれと惣門を來てはひるこの庭 本門寺裏の切通しをどらいぶして松おほき山の寒きに向ふ [#3字下げ][#1段階小さな文字]洗足の池[#小さな文字終わり] まかがやく日の位置低し空は觀て西かとも思《も》へど南とも見ゆ わが來り片附く水は池尻の築石垣のさむき夕波 蚋《ぶよ》のむれ夕日にきほふしまらくは赤松の幹も暮れがたみあり 冬晴の夕日に照らふさざら波洗足の池は木のまより見む 池の面に沁みて光るは丘の家の硝子戸の冬の日の反射ならむ ひたおもて水にかぎろふ夕光《ゆふかげ》のひと幅の動き我にとぞ來る み冬日や黒くあらはに短艇《ボート》漕ぐ影二つありてかぎろふ夕波 この池や廣く明きに我は見てなにをかも憎む漕ぎゐる憎む [#2字下げ]軍鷄[#「軍鷄」は小見出し] [#4字下げ][#1段階小さな文字]若冲の畫を觀て、心神相通ずるものあり、乃ち我も亦、[#小さな文字終わり] この軍鷄《しやも》の勢《きほ》へる見れば頸毛《くびげ》さへ逆羽《さかば》はららげり風に立つ軍鷄《しやも》 雄《を》の軍鷄《しやも》は丈《たけ》いさぎよし肩痩せて立ちそびえたり光る眼の稜《かど》 冬の土《つち》に昂然として立つ軍鷄《しやも》の鷄冠《とさか》火のごとし流るる頸羽根 一羽ゐれば胸高軍鷄《むなだかしやも》の雄《を》の鷄《かけ》も後《あと》向けりけりはらめく尾の羽根 軍鷄《しやも》の立《たち》しづかよと見れ蹈むただち蹴爪くひ入る霜ばしらの土 [#改丁] [#ページの左右中央] [#中見出し]Ⅳ・父母の冬[#中見出し終わり] [#改ページ] [#2字下げ]鶉飼[#「鶉飼」は小見出し] わが父はつれづれの翁《おきな》、鶉《うづら》飼《か》ひひめもす飽かず、鶉籠|雌《め》と雄《を》とさし寄せ、行き通へよく番《つが》へとぞ、い坐《すわ》ると、膝に肘張り、眼を凝らし、ただにおはせり。眞白髯かき垂る老《おい》の、この姿ひと日もおちず、生めよ殖《ふ》えよよく番へとぞ、日あたりを冬はよろしみ、端居《はしゐ》ますかも。 [#3字下げ][#1段階小さな文字]同じく[#小さな文字終わり] 摺餌掻きただにみ冬を家ごもり番《つが》ふ鶉を見て守《も》らすなり ま寂しき父と思《も》はめや日あたりを鶉|見守《みまも》りひたぶるに坐《ま》す み冬日は愛《かな》し鶉ものどならず行きはかよへどよくは番《つが》はず とまり木の捲毛《まきげ》カナリヤ聲搖らず冬をこごえて眼はあけてをり おもほえず父の薄眼《うすめ》のたどたどに日月も知らずなりまさむとき [#2字下げ]信心[#「信心」は小見出し] わが父は信心の翁、み目ざめはあかつき闇、口嗽ぎただち拜《をろが》み、珠數かぞへ南無妙法蓮華經、かがなべて朝に五千、午《ひる》過ぎて夕かけて三千、湯を浴み、御燈明《みあかし》點《つ》け、殘りの二千、一萬遍唱へつづけて、眞正《まただ》しくひと日もおちず、國のため、祖先《みおや》のため、その子らがため、わけても子らの子がため、ただ唱へ南無妙法蓮華經、いとほしと口には宣《の》らね、嚴《いつ》かしさまたただならね、ひたぶるのこの親ごころ、その子我、仰ぎまつりて泣かざらめやも。 [#2字下げ][#1段階小さな文字]同じく[#小さな文字終わり] 日をひと日|夜《よる》も乞《こ》ひ祷《の》みひたごころ守《も》らす我等が父ここに坐《ま》す 愛兒《まなご》我などかたゆまむこの父の夜もおちず通ふ御聲とほれり わが歌はわがものならず祖先神《みおやがみ》くだし幸《さきは》ふ言靈《ことだま》の搖り 父のこゑ澄みぬる際《きは》やうつばりの塵ひとつだに聽きものがさず 魂むすび父とその子の相合へば言《こと》には搖らねただにかなしさ ほのぼのとおはしませばか尊くてこの頃父の老《おい》のよろしさ [#2字下げ]宵寢[#「宵寢」は小見出し] わが父は八十《やそ》ちかき爺《をぢ》、國いでてすでに二十《はた》とせ、この頃は夢に立ち來《く》と、亡《な》き友の夜ごと寄り來《く》と、樂しよとひと夜もおちず、よく寢むと衾《ふすま》かつぎて、今宵はも何《ど》の誰か來む、早や待つと、すぐに寢ましぬ、友無しにして。 [#2字下げ]たけ高き母[#「たけ高き母」は小見出し] わが母はたけ高き母、まさやけくさびしき母。おもてだち學びまさねど、僞らず、正しくましけり。み眼清く切《きれ》長くます。やさしきは夫《つま》にのみかは、その子らに、その子の子らに、なべて愛《かな》しく白髮《しらが》づく母。 [#2字下げ]わが母[#「わが母」は小見出し] [#5字下げ][#1段階小さな文字]わが母はシゲ子、石井氏、肥後南關はその里なり。[#小さな文字終わり] 母の國墨磨川の水上《みなかみ》の山の井近くしだるゆづり葉 わが母や學びまさねど山水《やまみづ》のおのづからにし響きたまへり わが母はこころ隈なしまさやかに御眼《みめ》明らけく切《きれ》長くます わが母はあてに清明《さやけ》し山の井の塵ひとつだにとどめたまはず わが母はよにいさぎよし高山とたとへて言はば雪割の花 [#2字下げ]手習ひ[#「手習ひ」は小見出し] わが母はつれづれの嫗《おうな》、永き日を子らが名書くと、手習らふと、たどたどし筆と墨や、その文字は父に習ひて、隆吉・鐵雄・家子・義雄と、その子らが名。愛《かな》し母この母|思《も》へば、赤石の硯の海のふかさ戀《こほ》しも。 [#2字下げ]老の賀宴[#「老の賀宴」は小見出し] [#ここから1段階小さな文字] [#ここから4字下げ] [#ここから25字詰め] 昭和七年十一月五日、父の喜壽と、母との金婚式を祝ひて、一門その膝下に集る。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] [#3字下げ][#1段階小さな文字]1[#小さな文字終わり] かがなべて老《おい》の齡のたふとさよ七十路《ななそぢ》あまりいよよ七歳《ななとせ》 よき翁父の寂びたる老樂《おいらく》は市中《いちなか》ながら山の手の松 こきなでてゆたけき父のましろ髯いや掻き垂らせその膝までに おもほゆれ相者《さうじや》ならずも我が父のみ命は長く豐《ゆた》に寂《さ》びつつ [#3字下げ][#1段階小さな文字]2[#小さな文字終わり] 金婚の父と母とを言祝《ことほ》ぐと子ら擧り來てつどふよろこび 金屏の灯映《ひうつり》見れば父と母竝びおはしていよよたふとさ 父に添ふ母の今宵の影見れば永くも添ひて舊《ふ》り來ましけり よき翁《おきな》よき嫗《おうな》としうち竝び笑《ゑ》ますこの夜のあてにをさなさ 父と母竝びいましてしづけさよ七十路越えて二柱なほも うちそろひて老づく子らを父と母世にますことのありがたく泣かゆ 童《わらべ》より四十路五十路と父母を仰ぎ來しもの正眼《まさめ》かなしく わが母のいまだあえかにましまして父のみもとのぼんたんの花[#地から7字上げ][#1段階小さな文字]庭にありき[#小さな文字終わり] [#2字下げ]嘖ばえて[#「嘖ばえて」は小見出し] わが父はさびしきひと、富み富みて失ひしひと、傲りかに育ちふるまひ、五十路過ぎよ、郷《くに》を離れて、年老ゆと、心弱ると、すべなみと子らに頼《よ》らしぬ。この父ぞこの日を、子の我と酒めせばか、秀《ほ》に出《づ》る荒み靈。思はぬにうち勢《きほ》ひ嘖《ころ》ばしにけり。嚴《いつ》かしき昔の父、おもかげに今し立ち、潔《いさぎよ》しわが父やげに、昭和八年一月元旦、父の子は我は、嘖《ころ》ばえて涙しながる。     § 童《わらべ》ぞとまだおぼせれか一聲に喝《か》とぞ嘖《ころ》ばす白き髯の父 言《こと》過ぎて嘖《ころ》ばえにけり何ぞかく父の尊のおそろしきや我に 嘖《ころ》ばえてまかり還ると夜は寒しこの元日の星の照りはも 嘖《ころ》ばえて父と思へばいさぎよしよくこそ強く生きたまひけれ [#2字下げ]老樂[#「老樂」は小見出し] 父と母|性《さが》合はず、さびしくましき。若きより悲しかりにき。今老いて、七十路過ぎて、さらさらに何の事なし。頼りなく頼りますかも、まさびしく閑《しづ》けかるかも。朝に夜に、茶のけむりほのぼのと立てて、在り對《むか》ひ坐《ま》す、これの老樂《おいらく》。 [#2字下げ]冬の日[#「冬の日」は小見出し] 老らくのながき朝夜のわびごころただに對《むか》はし寒きこの頃 父と母冬は南の日あたりをただによろしみ常|二階《うへ》に坐《ま》す [#改丁] [#ページの左右中央] [#中見出し]Ⅴ・月の魚眼[#中見出し終わり] [#改ページ] [#2字下げ]霜に行く[#「霜に行く」は小見出し] 上乾くもろき地膚《ちはだ》や立つ霜の光る柱はさくりさくり踏む 朝北風《あさぎた》を帽ひきかぶり出あるくと松原越えて寒しいよいよ [#2字下げ]卓上燈[#「卓上燈」は小見出し] 反射燈更|闌《た》けにけり我と在る球面の影の冬はきびしさ 煙筒に風の吹き入る音きけば雪解《ゆきげ》はいたも騷がしくあり [#2字下げ]梅に寄せて[#「梅に寄せて」は小見出し] [#ここから1段階小さな文字] [#ここから4字下げ] [#ここから25字詰め] 昭和八年二月二十七日の夜、與謝野寛先生の還暦祝賀會を東京會館に開く。その折、梅に因みて獻げたる歌十首、但し各人同題なり。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 讃《たた》へ言《ごと》うち擧げむよはまのあたり今日をさやけき白梅の花 [#3字下げ][#1段階小さな文字]久地梅林の梅に[#小さな文字終わり] 君がため未明《まだき》に起きて梅のはな見に來りけりまさやけき花 來り見て涙しづかなり梅のはなかくはこもらふ靄にこの花 白くのみ光こもらふ梅のはな松の木群ぞうちかすみたれ 晝の靄うちへだて見れば梅のはな紫ふかき枝に照り交ふ 咲きにほふ老木の梅こぼれ日は花おほきからにうつくしき影 [#3字下げ][#1段階小さな文字]再び梅に寄せて[#小さな文字終わり] よき人の道のあゆみはとどまらず白梅《はくばい》の陰を入りて出たまふ 梅の花にほふ南のゆふがすみほのかに老《おい》にいたりたまへり [#2字下げ]ぬくみ[#「ぬくみ」は小見出し] 日のあたりなにとなけれど春もやや立枯草《たちがれぐさ》の叢根《むらね》かがよふ ほのぬくみ明《あか》る眞土《まつち》や追ひぬけて鼠見はなち猫のころぶす [#2字下げ]水邊早春[#「水邊早春」は小見出し] 葦かびの角ぐむ見ればあさみどりいまだかなしき宇麻志阿斯訶備比古遲神《うましあしかびひこぢのかみ》 春はまだ寒き水曲《みわた》を行きありく白鷺の脚のほそくかしこさ [#2字下げ]蛙子の生るる頃[#「蛙子の生るる頃」は小見出し] 春早き田の面の水皺《みじわ》風吹けば流るるがごとく動きつつ見ゆ 春いまだ蟇《ひき》のたまごも田川には水泥《みどろ》かぶりぬ搖りうごく紐 紐解くる蟇《ひき》のたまごにくろぐろと今はしみみにはずむものあり ほかならぬ子らを思へばかへる子もしじに生《あ》れつつ水に搖《ゆ》れ出《で》ぬ かへる子ぞ繁《しじ》に生《あ》れたれこの水を親のかへるの影ひとつ無し [#2字下げ]初蛙[#「初蛙」は小見出し] [#ここから1段階小さな文字] [#ここから4字下げ] [#ここから25字詰め] 四月五日夜、ラヂオのニユースは米國の大航空船アクロン號の墜落を報ず。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 雷とどろき裂くるすなはち天翔《あまがけ》るアクロン號はほろびたりけり アクロン號とどろほろぶとも夜に聽きてころろうつくしき田蛙《たかはづ》のこゑ 耳|聰《さと》き子らかなやあはれ夜に聽きて蛙《かはづ》啼くころろと啼くよと聽きをる 木の芽立《めだち》かをす雨間《あまま》の夜ごもりに蛙《かはづ》は啼きぬまだくくみつつ 冬を眠り春は起き出《づ》る田の室《むろ》のぬめり蛙《かはづ》か覺めつつあるらし [#2字下げ]遲日[#「遲日」は小見出し] 田川にも蟇《ひき》の子滿ちぬいざ子供卯月|八日《やうか》の花菜摘み來な このゆふべたとへしもなくしづかなり日は明らかに月を照らしぬ [#2字下げ]春朝[#「春朝」は小見出し] [#ここから1段階小さな文字] [#ここから4字下げ] [#ここから25字詰め] ある朝、縁側の姿見の卓に花瓶を置きて海棠を揷したるに、鶯の來てとまりたれば [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 春はいまけむる小雨《こさめ》のものならし鏡にこもるうぐひすのこゑ [#2字下げ]濕り田[#「濕り田」は小見出し] 濕《しめ》り田《だ》よ春は田の面《も》の下萌《したもえ》に油ながれて日ぞ光りたる 投げ棄てを蕪《かぶら》花咲くここの田の見のあたたかやまろき根蕪《ねかぶら》 [#2字下げ]麥秋の頃[#「麥秋の頃」は小見出し] 蟇のこゑ野天《のてん》にひびく午《ひる》ちかく焦《こげ》いろの風も麥あふり吹く 熟麥《うれむぎ》の大麥の穗を照りつくる六月の日射《ひざし》くらきがごとし 刈しほの濃きは淡《うす》きは大麥と小麥にかあらむ裸麥もあらむ 焦いろの盆地の麥に立つ靄の夕あかりながく蒸しにけるかな 風《かざ》おもていとどかぎろふここの野は麥ほこり立ちて言ふばかりなし     § 白南風《しらはえ》の軍用道路はてもなし竝び押し來るカキ色の兵 麥の秋目も病《や》ましかもとどろ來る戰車かぎろひ砲つづく見ゆ 亂れ立つ電柱見れば黄の麥や段畑の上にあがる白雲 立雲よ野外教練の子ら行くと銃《つつ》はかつぎて足亂れ踏む 熟麥《うれむぎ》や月夜ひさしき砂利路をもそろ這ひ入る大き蝦蟇《がま》あり [#2字下げ]草堤にて[#「草堤にて」は小見出し] 人ゆかぬ荒玉《あらたま》水道草ふかし音《ね》に老《ふ》けにけり隣田の蟇《ひき》 あさみどり標《しめ》ゆひそめし早苗田の苗間《なえま》の田水のりにけるかな [#2字下げ]蛙を聽く[#「蛙を聽く」は小見出し] 草ごみに鋤きしばかりをる水の蛙《かはづ》にはよき雨ふりにけり 地にひびきしげき蛙を夜ごもりに觸りてゐにけり耳に蛙を 田の蛙|怪《け》しくしづもる時たちて音|亨《とほ》りけり深き夜の地震《なゐ》 田に滿ちてしげき蛙はよく聽けば子らが小床《をどこ》に呼び鳴くごとし 草堤子らと歩《あり》きてこちごちに聽ける蛙か夜もすがら鳴く くくみ鳴く蟇《ひき》のこゑきけば草ごもり夜の眼光らす田の水が見ゆ ひとつゐる濁聲蛙《だみごゑかはづ》泥《ひぢ》の面《も》のうすら上水《うはみづ》も夜ふけつらむか ナチスは書を焚《や》きにけりかはづ聽くこの夜深《よぶか》にしひびかふものあり [#2字下げ]竹若葉のころ[#「竹若葉のころ」は小見出し] あさみどりよにもすずしき一色は竹の若葉のひらきかけの頃 幾群《いくむら》と竹の若葉は萌えそめてこなたなぞへの馬鈴薯の花 [#2字下げ]草堤白日吟[#「草堤白日吟」は小見出し] 草堤|空梅雨《からつゆ》ひさし子らと行き妻と行きつつせつなくおもほゆ 篁子や黒き女童《めわらべ》草間ゆく腕《かひな》も脛《すね》もよく灼《や》けにけり 青萱原|尿《いばり》放つとこの男《を》の子《こ》父と竝ぶか早やいさぎよし 爆音密雲にとどろけりあはれあはれ草いきれしるき中より仰ぐ 息ごもり風は流れずこの妻と夜に見し草の深きに見入る [#2字下げ]雲は蒸す[#「雲は蒸す」は小見出し] 夏霞おほに蒸し立つ野平《のだひら》をふきあがる雲ぞ低くかがやく 白光《びやくくわう》の蒸しつつこもる空にして雲の奧渡る黝《くろ》き鳥あり 白き襞《ひだ》けぶかき雲を彌《いや》が上《へ》に雲は噴《ふ》きあがりまかがやく縁《へり》     § 蒸しにけり白き南風《みなみ》を月かとも氣球うかびて夕あかり空 [#2字下げ]六月七日淺宵[#「六月七日淺宵」は小見出し] [#4字下げ][#1段階小さな文字]川端千枝女史告別式の夕、通知入手遲れ不參。[#小さな文字終わり] 圓けくて肉いろの月おぼろなり白南風《しらはえ》あけの茅蜩《かなかな》のこゑ 身をつくす炎なりけむか老いつつあはれ激しくぞ戀したりてふ 夕かげを月は光らず眼前《まなさき》や電線の張りをはなれつつあり 村藪はまだ暮れがてぬ靄ながら月高くのぼりけんけら棒の音 無線塔相|對《むか》ひ立ち夕凪なり暮れやらぬかなや月ものぼるに 雨夜雲|噴《ふ》き出づる月の角《かど》見えて鋭かりけりかなしき光     § 藤の棚に雨の音しげくなりにけり光りたりしかさきほどの月は [#2字下げ]積亂雲[#「積亂雲」は小見出し] 積亂雲とどろ噴《ふ》き立つ日のさかり人參の花に我は思はむ 眞平《またひら》と根に湧きあがる巨《おほ》き雲|鐵鈷雲《かなとこぐも》ぞ吹き亂れたる [#2字下げ]庭前小情[#「庭前小情」は小見出し] [#4字下げ][#1段階小さな文字]七月二日[#小さな文字終わり] 電柱と支柱が近き眞日照りは諸葉《もろは》しなへて酸《すゆ》き豐後梅 立雲《たちぐも》の怪《け》しくかがやく日のさなか蟷螂《かまきり》が番ひ雌《めす》は雄《をす》を啖《く》ふ 下草を而も日照《ひで》りに眼を射るは山百合のしろき裂長《きれなが》の花 よく光る百合の花瓣や一莖に花は二つひらき照り合ふその影 頸長《くびなが》の鐵砲百合は日に向くと鉢ごとに白く突き出《で》すがしさ 立莖のしろく粉《こな》ふく竹煮ぐさ廣葉わき立ち穗には數花《かずばな》 山椒の葉摘みつくしける庭に出て空梅雨《からつゆ》のあけをしみじみ感ず 藤の棚蔽ひあまれる藤の葉のそよぐ影見れば照り透く葉もあり [#2字下げ]七月八日夜、即興[#「七月八日夜、即興」は小見出し] 大きタオル黒き裸身《らしん》に卷きつけ來る女童《めわらべ》篁子そだたきやらむ 母を虐《しひた》ぐるこの男《を》の子《こ》よしつくづくと父ははばかるをこの子は成しぬ 夜明けに白馬ヶ嶽へ出で向ふこの子と思《も》へばうやうやし母と [#2字下げ]驟雨、即興[#「驟雨、即興」は小見出し] 葉洩れ日をただにすずしと下草に見つめゐにけりそよぐ光を 張つよき山百合の蕾うちたたく驟雨なりただち霧たちのぼる 深き酒せちにつつしむこの頃は脾腹にひびくなにものもなし すばらしき雨あしの長さ岡の上の林より盆地の青田へ走る 豪雨とみにおとろへて金蓮花の濡色あかし蟹のごとうごく 吾が子らを心に思《も》へば神立雲《かんだちぐも》光り閃めきぬはたためくは後《のち》 よく冷《ひ》やして冷《ひ》やき麥酒はたたき走る驟雨のあとに一氣に飮むべし たちまちにして歌成るこのよろこびを妻に言擧げて我がくちつけぬ [#2字下げ]或る朝涼[#「或る朝涼」は小見出し] 共産主義者轉向すと聞くこのあした白鷺ら飛べり青き水田のうへ [#2字下げ]晩夏小情[#「晩夏小情」は小見出し] 照りつづく夏もいぬるか肉厚く雲うかびいでて今日も蒸したる 襞《ひだ》ふかく光こもらふ黄金雲《こがねぐも》蒸すからに巨《おほ》き二《ふた》つ牡丹花 いまだ夏布團の綿は日に干して雲よりも白く光りたりけり 日のひかり強きさなかを黄の泡のほのぼのと立つをみなへしの花 切石にうづくむ猫のねちねちと腋毛《わきげ》つくろふをみなへしの花 ひたむきに閑《しづ》けかりけり日の方や向日葵《ひまはり》の蘂《しん》ぞ灼《や》けつくしたる 花いろのなにかうち透く雲ゆゑに立つ秋風もうすら涼しさ 向日葵《ひまはり》や葉裏にさがる紋白蝶《もんしろ》の夜は翅《は》ばたかず宿りたりけり [#2字下げ]庭前立秋[#「庭前立秋」は小見出し] 風前《かざさき》に朝居るしろき積雲《つみぐも》の下空あをみ今朝はすずしさ 無線塔うつろふ雲の騷立《さやだ》てば眼にとめて涼し秋來りけり 油|熬《い》る蝉の鋭聲《とごえ》は繁《しじ》ながら立秋を今日を涼しくおもほゆ 垣くぐる尾長の猫の子を連れてほそり目に立つ桔梗《きちかう》の花 互生葉《かたみば》の樗《あふち》の瑞枝《みづえ》風立ちてその涼しさはかぎりなく見ゆ 藤の葉にとほる日ざしのすずしきは樗《あふち》の葉分く風そよぐなり ひらひらと風に吹かるる黄の揚羽蝶《あげは》立秋も今日は二日過ぎたり 電柱に裏吹かれゐる蝉の翅《は》の飛び立つと見れば鋭聲《とごえ》斷《き》れたり [#2字下げ]白緑[#「白緑」は小見出し] 晝さなか駈足の兵續きゐてキヤベツ畠の白緑《しろみどり》の風 白みどりよく植ゑ竝《な》めし葱の秀《ほ》を蜻蛉《あきつ》は飛べり迅《はや》きその翅《はね》 [#2字下げ]或る夕光[#「或る夕光」は小見出し] 角畑《すみばた》や茗荷にあかる西の日の黄にかなしければ我は觀るなり 木下道《こしたみち》夕日さし入り流れたり亂れ立つ蝶の何に驚く [#2字下げ]向日葵童子[#「向日葵童子」は小見出し] [#ここから1段階小さな文字] [#ここから4字下げ] [#ここから25字詰め] わが庭の向日葵つひに伸びず、一列にして小さし。童子のごときそのさまや。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 丈《たけ》ひくき向日葵《ひまはり》童子《どうじ》うちならび直《ただ》に射《さ》す日に面《おも》あげて佇《た》つ 日に向ふ向日葵《ひまはり》童子《どうじ》前なるがいといと小《ち》さし面《おもて》直《ただ》にあげぬ [#2字下げ]ある午[#「ある午」は小見出し] 日のさかり草堤來る聲はしてよく聽きてゐれば[#「聽きてゐれば」は底本では「聽きてゐれぼ」]我が名|指《さ》しをる 我が家《や》言ふ行きずり人の聲高《こわだか》をひそみゐにけり暑き日なかを [#2字下げ]十六夜[#「十六夜」は小見出し] 照りいづる月は魚眼《ぎよがん》のごとくなり吹きながす雲よしろき水脈立《みをだち》 照り強し月の面《おもて》を撲《う》つ雲の眼には裏べを立ちのぼりつつ 月夜なり低くかぐろき丘の脊をふきあがる雲ぞ絶えずかがやく 芋の葉の聚落を見れば月夜には面《おもて》照りあかり人ら立つかに 草土手や月にそがひてゆく我の影がひとりなり袖をふりをる 垂りくらき孟宗の上《へ》に在る月の十六夜《いざよひ》の光風にはららく ちよろろと光る水あり草深に田をめぐり來て月の夜|愛《かな》し[#地から3字上げ][#1段階小さな文字]旱天にて田は植ゑずじまひになりぬ[#小さな文字終わり] 地下水の響くをきけば月かげや鋼管の蓋に聚《あつ》まり光れり 風道《かざみち》の光すがしき鴨萱は月前《げつぜん》に見て跳《と》ぶべかりけり 狹霧立つ窪田のわきの草土手も月夜ふけたり竹煑草の花 うちかがむ毛の柔《にこ》ものの黒きかげ葱はかがよふ月夜《つきよ》落窪《おちくぼ》 [#2字下げ]十七夜[#「十七夜」は小見出し] 照りつよく孟宗の上に立つ光十七夜の月にわれは正面《まと》向く 十七夜の月かすめ飛ぶ雲さへや立つ秋風と繁《しじ》にし白し 稻びかりしきりひらめく棚雲の上の空晴れて秋は來にけり 旱天《ひでりぞら》夜も火氣《ほけ》だちていちじるき横雲の上に蠍座《さそりざ》が見ゆ 十七夜の月惜みをればおどろしくしろき巨《おほ》き雲の亂れ立ち蔽ふ [#2字下げ]八月淺宵[#「八月淺宵」は小見出し] 藤の蔓網戸の外にうちそよぎ灯《ほ》かげ緑なり夜は透かしつつ 蝗麿網戸にとまり涼しさよ灯《あかり》さしむけて我ら夕餉《ゆふげ》食《を》す 宵の灯《ひ》を網戸にたかる蟲の翅《は》の螺鈿きらきらし鏤《ちりば》めにけり 粉《こ》をちらして網戸に翅《は》うつ天蛾《すずめが》は肉厚《ししあつ》き胴の黝《くろ》き褐色《かちいろ》 灯《ひ》にあかるみどりの網戸|男童《をわらべ》が蟲を採る顏の外《そと》に凛々しさ [#2字下げ]黄金蟲[#「黄金蟲」は小見出し] 野に向ふ我が家の網戸|灯《ひ》の點《つ》けばさうさうとして羽蟲|來襲《きおそ》ふ 黄金蟲うなり飛び來るこの夜ごろ雲は蒸しかへし夕凪暑し 黄金蟲網戸うちたたく音きけばすさまじきかなや灯《ひ》に狂ひける 黄金蟲|銃丸《つつだま》と來て亂れふりこの朝見ればなべて死ににけり 黄金蟲朝なさな掃き亡骸《なきがら》の艶《つや》ふかきから瓶《びん》につめつつ [#2字下げ]晝寢覺[#「晝寢覺」は小見出し] 晝寢《ひるい》ざめ日の照る方にうち見やる往還の埃《ほこり》とほくひもじさ 晝寢《ひるい》ざめまだうつつなしながめゐてしらしら照りのをとこへしの花 [#2字下げ]晩夏白雨[#「晩夏白雨」は小見出し] いつしかと夏も去《い》ぬらしこの眞晝雨はげしけれど遠空あをし 白雨《しらさめ》の霧立ちのぼるゆふつかた孟宗むらは燈火《ともしび》早し [#2字下げ]白日觀雲[#「白日觀雲」は小見出し] 我が家は坐《ゐ》ながらにして觀る雲の空廣らなり野のかぎり見ゆ 坐《ゐ》ながらに雲の行《ゆき》觀る晝つかたみんなみの空にかかる鷺あり 押し移りうしろ風もつ綿雲のおのれ薄れていつかむなしさ 吹くからにつぎつぎと來る白雲のおのづからゆたに移る風向《かざむき》 風向《かざむき》に移ろふ雲のまろがりは光厚うしてしろき二塊《ふたくれ》 曩《さき》の雲いづら行きけむ今見ればさまかはる雲の高う積みたる 仰向《あふむ》きに眠る顏だち胸高く押し流れ行く雲もありにけり 樂しみと雲は眺むる夕かげを茅蜩《ひぐらし》のこゑの亂れ立ちつつ [#2字下げ]曇り日[#「曇り日」は小見出し] 曇り空日暮もよほす雨のまを茅蜩《ひぐらし》のこゑの立ちきそふめり 雨ふり雲立ち蔽ふ森のこなた野良|家組《いへぐ》み明《あか》ししきり音立つ [#2字下げ]寢室の初秋[#「寢室の初秋」は小見出し] 二階より灯《ひ》に照らしみる向日葵《ひまはり》の花|小《ち》さうして數無かりけり 硝子戸に白き寢臺の影うつり灯《ひ》もうつるなり子らが初秋 蚊帳を吊る妻が袂は寢たる子の直向《ただむか》ふ顏に觸りにつつあり 水のごと白き寢臺の下冷えていの寢《ね》ざるらし子らが圓《つぶ》ら眼《め》 蟲の音のほそきこの夜と思ふにぞあはれ一杯《ひとつき》の水すすりをる [#2字下げ]秋旱[#「秋旱」は小見出し] 眞晝ひとり歩み來にける砂利の道に夏枯れの田の風を見わたす 秋旱《あきひでり》防空演習しきりなり蒸《む》れつくしける稗《ひえ》の雉子いろ 何に立つ水の音ならむ思はぬを旱はげしき眞晝にきこゆ [#2字下げ]木犀[#「木犀」は小見出し] 夜のくだち小雨しづみてにほひ來る金木犀にうらなづみゐる [#2字下げ]遠じろき夜[#「遠じろき夜」は小見出し] 月の夜は雲遠じろし野平《のだひら》を多摩川あたり森低み見ゆ 月夜いまなにか明りて來る聲の隣びとらし通り過ぎをり [#2字下げ]我家を[#「我家を」は小見出し] 晝の野に子らと出て來てかへり見る我家《わがや》にしあれや白木槿《しろむくげ》の花 野に見つつ閑《しづ》かなりける我家《わがいへ》や上のてすりに毛布干したる [#2字下げ]秋の日[#「秋の日」は小見出し] 秋の田の早稻田《わさだ》の畔《くろ》をゆく童《わらべ》ふたり見えつつ彼方《あなた》指《さ》しをる 事もなき秋の眞晝や穗に垂りて早穗田《さほだ》の美稻《をしね》色づきにけり 眺めつつ閑《しづ》けかるかな夏過ぎておほかたの色は秋に入りたり 田のあなた新墾道《にひばりみち》の砂利道も閑《しづ》けかりけり秋《あき》正午《まひる》過ぎ 穗の薄《すすき》光るあたりに眼は向けて何かをさなき聲も聽きをり [#2字下げ]根くづ焚く[#「根くづ焚く」は小見出し] 根くづ焚く火は燃えながら掻きほけて土ばかりなる何も無き畑 根くづたく畠の火立《ほだち》色見えてうちいぶる末はしろく棚曳く [#2字下げ]床の間[#「床の間」は小見出し] きちかうの表《おもて》見せたる花ふたつ薄とりそへ妻がたしなみ 赤人のゆたに坐らす像見ればほれぼれとよし眺めたまへり [#2字下げ]ピアノ[#「ピアノ」は小見出し] 月拂ひ二十ヶ月とよ。このピアノ中古《ちゆうぶる》ぞとよ。塗りみがき、うつくし黒し、大きなり室《しつ》にそびやぐ。かうがうしこのピアノ、立ち添ひて、蹲《かが》み見て、蓋をひらき、鍵たたき見て、見も飽かず終日《ひねもす》ありける。貧しかる我やとも、えは求め得ず、常こがれ果敢なみしもの、子らが爲め、五十路《いそぢ》近く、やうやうと手に入りにけり。月拂ひ二十ヶ月とよ。中古の獨逸製とよ、眼がしらのあつくなり來る。    § 父われはピアノの陰《かげ》にかき坐り言《こと》默《もだ》しをり子らぞたたける 在るべくて在るべかりにしこのピアノやうやうにして室に光りぬ [#2字下げ]演習の秋[#「演習の秋」は小見出し] 秋まひる野には火花の發《た》つ見えて機關銃の音のたたたとひびけり 赤き旗稗の穗向にしきり振りとどとかなしも駈けきたる兵 秋の日の空氣ほがらに駈けのぼる兵あらはなり淨水場の道 假想敵ひたにし晝をこもらべば孟宗むらもかなしかるべし うち透《とほ》り休戰喇叭鳴れりけりこちごちの野も吹きつぎてあはれ [#2字下げ]庭前秋雨[#「庭前秋雨」は小見出し] 楚《すはえ》立つ古木《こぼく》の梅にふる雨のあかつきの雨の寒くしぶけり 朝寒と小雨ながらふこの空や立枝《たちえ》の楚《すはえ》さ青《を》に見えつつ いち早く諸葉《もろは》ふるひし梅が枝に雀がとまり雨のコスモス 黄の粟のいとど蒸したる女郎花《をみなへし》も時過ぎにけり雨しげくふり 朝ぐもりラヂオの塔の先《さき》わたる小鳥かぎりなしなだれ落ちゆく [#2字下げ]或る夜の雨[#「或る夜の雨」は小見出し] 誘蛾燈しろくかかぐる家《や》のあたり秋雨の中になにか狂へる 鈴《りん》の音《ね》の草堤來る夜の雨間《あまま》灯《ひ》をあかくつけて胸とどろ居《を》る[#地から8字上げ][#1段階小さな文字]何の號外ぞや[#小さな文字終わり] [#2字下げ]燈火管制の夜[#「燈火管制の夜」は小見出し] ラヂオ研究所|灯《ひ》を消しにけりうしろ立つ照明|迅《はや》く鐵塔は見ゆ 大藏《おほくら》の原目にただひとつ頼む灯《ひ》の明かりしかば遂に消しにけり 常の夜も谷地《やち》は暗きに灯《ひ》を消して物のこごしくいよよけぶかさ ここの谷《やと》灯《ほ》かげ全《また》く無し消し棄てにふたたびと點《つ》けずいねにたるらし 砧村燈火管制の時過ぎて月明らけし高槻がうへに 隈《くま》ふかく過《す》がふ夜霧を照る月のいよよさやかに高しらしつつ ふかき霧しきりむらだつ夜あけがた月は黒檜《くろび》のあたま照らしぬ 早や早やとあかつきの闇にしぐれゐる蝉のこゑごゑもをはりに近し [#2字下げ]山茶花咲く[#「山茶花咲く」は小見出し] [#4字下げ][#1段階小さな文字]書齋より觀て[#小さな文字終わり] 玻璃戸透き山茶花あかく見えにけり咲きにけるかと眺めつつ今朝は 株まろき細葉つつじの霜凍《しもじみ》にここだくづれしさざんくわの花 [#2字下げ]葉牡丹の庭[#「葉牡丹の庭」は小見出し] [#ここから1段階小さな文字] [#ここから4字下げ] [#ここから25字詰め] ある朝、妻と出てあるくに、とある畠に、葉牡丹の植ゑはなしになりたるが、數多ければ殊にあはれなりき。一株はいかほどと訊けば十錢にてよからむと言ふ。さば買はむとて三十株ほどあがなふ。冬は花も無く、色も無き庭なればすべてよろしく移し植ゑて樂しむ。かほどの喜びまたとあらむや。我は足るなり。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 葉牡丹よ大き葉牡丹、葉牡丹を一株植ゑ、二株植ゑ、移し植ゑ七株八株、また更に十よここだく。畠より根こじあがなひ、リヤカーに山ほども積みもて來さしつ。彈《はじ》き葉《ば》のあさみどりなる、内|紅《あか》く紫くろき、層《かさ》厚く七重八重なる、葉牡丹は大いにうれし。牡丹とも見ずや葉牡丹、値《ね》は廉《やす》きその株ながら、株立つとこの庭も狹《せ》に、豐かなり乏しともなし。我が植ゑて霜に傲れり。いかならむ雪の日や將た。この富よこれの葉牡丹、子らとこそ見め。    § 葉牡丹の冬によろしき株立《かぶだち》は紫ふかし葉をかさねつつ 妻よ子よわれら富みたり置き足らふ葉牡丹の霜にわれら富みたり [#2字下げ]野鴨[#「野鴨」は小見出し] [#ここから1段階小さな文字] [#ここから4字下げ] [#ここから25字詰め] さる人より贈られたる野鴨の一夜にして二羽ともあへなくなりぬ。その歌。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 灯映《ひうつり》や家の夜寒をつくづくとうづくむ鴨の竝びみじろぐ 三和土《たたき》の凍《いて》きびしかも夫鳥《つまどり》の雄鴨死にせり雌の鴨もいづれ 童《わらべ》言ふ雌鴨かなしもこれをかも長々し夜をひとりかも寢む 朝明《あさけ》待たず終夜《ひとよ》うづくみ死鳥《しにどり》の雄鴨がそばに雌鴨斃れぬ 下總や千葉の水沼《みぬま》になげかひし愛《かな》し野鴨を家に死なしつ [#2字下げ]霜晴[#「霜晴」は小見出し] 大野良の一夜の霜の下《お》り到《いた》り見る眼まばゆき冬は菜のいろ 大霜のひと朝のいろを我は見て夜をとほし來し今ぞおどろく 宵早く寢ねにたりける今朝起きて子らが駈けいづる畠の大霜 鷄《かけ》のこゑうらめづらしとあらなくに大霜の今朝の野は澄みにける 日の出前霜はふかきをくろぐろと人立てり見ゆ淨水池の土手 霜晴をおほに燃え立つ丘の靄ひむがしの空は日ののぼるなり    § 霜晴の靄の氣《け》に立つくぬぎ原|午《ひる》ちかき日の今はあたりぬ 日あたりの枯葉のくぬぎはららかず霜晴の午《ひる》の靄のしづけさ にびねずみ雜木のすがれうちけぶる霜の氣《け》にして晝はあたたか 靄の奧ふかくかがよふむらがりは櫟枯葉か乾ききりたる しづけさたとふべきなしくぬぎ原にあはれかがやかし一葉ちりをる 赤松の木群《こむら》しづけくありにけり日のあたるところ影を落して 日あたりの枯野よこぎる道あらし思はぬにしろきバスの搖れ來る 思ふことみなしづかなり妻とゐて冬の日向の靄にこもらふ 冬雜木《ふゆざふき》の靄あたたかき遠ながめ鉾杉の秀《ほ》も群れてこもれり 霜晴の日あたりぬくむ野の南ラヂオの塔はうち對《むか》ひ見ゆ [#2字下げ]日の大皇子[#「日の大皇子」は小見出し] [#4字下げ][#1段階小さな文字]皇太子御生誕を壽き奉る歌[#小さな文字終わり] [#3字下げ][#1段階小さな文字]その前日[#小さな文字終わり] 冬の晴無線の塔のいただきに水晶のごと光るものあり [#3字下げ][#1段階小さな文字]御生れの日[#小さな文字終わり] 霜晴のひむがしの空光立ちゆららに紅《あか》き大き日の面《めん》 皇子《みこ》ぞ今|御生《みあ》れましたれ日の出|疾《と》くサイレンはつづくまさに大皇子《おほみこ》 國をこぞり極まる涙しづかなりかかるよき日を待ちまけまつりき 乞《こ》ひ祷《の》むと言絶えにける國民のいかなるきはか涙ならざらむ 何ごとも畏《かしこ》かりけりこの朝や大きみ光に息づく思へば 皇神《すめがみ》も見霽《みは》るかします青雲を今朝ぞうち開く此の産御聲《うぶみこゑ》 産御聲玉と透《とほ》らす此の國や早やうら安し勢《きほ》[#ルビの「きほ」は底本では「きは」]ひこそ思《も》へ [#3字下げ][#1段階小さな文字]その後[#小さな文字終わり] ラヂオの我が祝歌《ほぎうた》はいち早し子らが歌ふこゑのひびき來《く》ここに [#3字下げ][#1段階小さな文字]畏きあたりを[#小さな文字終わり] 朝光《あさかげ》の貴く明《あか》き御産殿《みうぶや》に國母は坐《ま》さめ御眼《みめ》なごやかに 現《あき》つ神我が大君は朝に夜に通ひわたらすと皇子《みこ》を笑《ゑ》ますと 大君の御笑《みゑま》ひ思《も》へば朝ぼらけ日はさしのぼり豐《とよ》の旗雲 [#3字下げ][#1段階小さな文字]再び、大皇子を[#小さな文字終わり] 生《あ》れましてたぐひなく坐《ま》す此の皇子《みこ》の我が大皇子ぞただち日嗣の宮 朝よ夜よ肥立《ひだ》ちましまし我等が皇子あてにをさなく笑《ゑ》ますとふはや 繼宮明らにゆたに坐《ま》せりとぞ畏みて聞けば御息《みいき》づかひまで [#2字下げ]月と星[#「月と星」は小見出し] [#ここから1段階小さな文字] [#ここから4字下げ] [#ここから25字詰め] 昭和八年十二月廿日夜、上弦の月を中心に金星と土星と潛入す。數萬年に一度の歡會なりといふ。金星潛入、タツチ午後四時三分四十八秒、完全潛入四時四分八秒、出現雲のために不明。土星潛入、タツチ午後六時三分十六秒。完全潛入六時三分三十六秒、同出現七時一分、完全出現七時一分廿秒。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 上弦を食《は》み出《づ》る圓《まろ》き陰《かげ》の月夜空は青し冱《さ》えかへりつつ 纎月《せんげつ》の縁《ふち》どる黒き圓球は我が佇《た》つ地《つち》の陰《かげ》うつるらし 現《うつ》しくもいたもかなしきこの淺夜月にふたつの星|潛《くぐ》り入る 金星は下|潛《くぐ》りつつ月の上に土星は明し光りつつ入る 月面《げつめん》をゑぐりてくらき色見れば裏ゆく星のありと思《も》へなくに 母と子ら佇《た》ちてながむる西の方《かた》月も二つの星を抱きぬ [#改丁] [#ページの左右中央] [#大見出し]卷末記[#大見出し終わり] [#改ページ]  本集『白南風』は、我が第六の歌集たるべきものである。  第一は『桐の花』、第二は『雲母集』、第三は『雀の卵』であるが、第四、第五たるべき歌集は未整理の儘に、此の第六の集を刊行することになつた。で、此の『白南風』は大正十年の『雀の卵』以來、約十三年ぶりの出版であるが、順位としては、間に二卷のエアポケツトがあり、直後の歌風ではない。  尤も、その間に、詩集としては長歌の多くを收めた『觀想の秋』、長歌の綜合集『篁』及び短歌の選集『花樫』或は現代短歌全集中の『北原白秋集』等の刊行があり、『白秋全集』の歌集第二にも新作の一部は編入されてあるが、何れも單行の新作集でなかつた。これは別編たるべきものである。 『雀の卵』以來、現在に到る、わたくしの短歌作品は約四千首にのぼり、長歌は六十に餘るであらう。若し分册整理するとすれば、左の四卷となる。 [#ここから2字下げ、折り返して5字下げ] 第四。大正十一年より同十五年に至る作品中、小田原山莊生活を中心としたる短歌及長歌、加之、同傾向の若干の覊旅歌。及増補新作。 第五。大正十二年より昭和二年に至る作品の中、覊旅を主としたる印旛沼、北信、鹽原、樺太、北海等の短歌・長歌・口語歌。及新作増補。 第六。大正十五年より昭和八年に至る作品の中、天王寺墓畔、馬込緑ヶ丘、世田ヶ谷若林、砧村、此の四ヶ所に於ける、東京轉住以來の生活を主としたる短歌及長歌。 第七。昭和二年より同八年に至る作品の中、木曾川、北越、奈良、北九州、滿洲、濱名、富士五湖等の覊旅、飛行等の短歌・長歌及増補。加之、今後の新作覊旅歌。 [#ここで字下げ終わり]  而して、本集『白南風』はその第六に該當する。なほ、此の外に時事歌として、昭和八年度に『成城學園を思ふ歌』百四十四首及び二三の長歌があるが、之等は他の機會に何かの集に編入されるであらう。  以上の四卷は、その製作順によらず、各册各自の風懷と香色とを個々に收攬しようとするものである。で、製作の年代は交々に錯綜してゐる。  之等の内、第六を先にした理由は、最近作が多く、整理に就き易かつたからである。第四、第五の如きは、その推敲が十三年に亙つて、而も完成し得ぬ作の夥多があり、一首の中、僅かに一二音の爲に難澁する若干もあつて、之等の整理は容易ではないのである。その當初、まだ生れてもゐなかつた長男が、既に小學を卒へて中學へ進む現在に於て、つくづくと感慨の深いものがある。その間、一册の單行歌集をも完全に整理し得なかつたわたくしであつた。ただに切拔の誌面やノートが眞黒になるばかりであつた。     §  本集『白南風』の作品數は左の通りである。 [#ここから4字下げ] 天王寺墓畔吟   短歌貳百五拾貳首・長歌壹篇 緑ヶ丘新唱    短歌貳百貳拾壹首・長歌貳篇 世田ヶ谷風塵抄  短歌貳百貳拾五首・長歌壹篇 砧村雜唱     短歌六百貳拾壹首・長歌拾篇    總計    短歌壹千參百拾九首          長歌    拾四篇 [#ここで字下げ終わり]  生活年代は大正十五年暮春より昭和八年の年末に至り、製作年代は、大正十五年七月より昭和九年二月に至る、約七ヶ年半に及んでゐる。  編纂に就いては、その製作の年代順によらず、生活の次第に順じた。乃ち居の移るに從つて四章に分類し、之に應じてそれぞれに秩序を正した。前後するに必ずしも作の新舊を問はなかつた。此の際、増補すべきは加へた。一貫した整理を欲したのと、更に新なる感興を得て、意外の多作を見たのである。  本集の編纂を思ひ立つたのは、昭和八年の初頭であつたが、その後、曾つての生活に於ける歌材の整理に於ける熱意が、わたくしをして六百首に庶い新作を得せしめ、またノートに探し索めて、未成の物をも訂正、採録せしめるに到つた。豫定以上の尨大なる歌集となつたのは此の故である。  又、その作品の收録に就いても、本集は先例に反して極めて寛選である。嘗つての發表作の中、殆どは棄てず、先に述べた如く新作以外のノートの分までも加へた。ただ一首一首には丹念した。  整理を了したのは、昨八年の十一月であつた。初校のゲラ刷りが直ちに出た。而も最後の下版は本年の二月にかかつてからであつた。此の間、訂正に訂正が重ねられた。下版後紙型にまで、わたくしの不滿が夥しい象眼や組み替を強行せしめることになつた。冷汗を覺えるぐらゐではなかつた。この難行には脊骨もひしがれる思がするが、推敲の苦も決して矜るべきではないのである。ただ徹すべきは飽迄も徹しなければならぬ。いい加減のところで放擲すべきではない。  その當時の作に對し、増補した新作の割合は、『天王寺墓畔吟』に於て、三・六倍、『緑ヶ丘新唱』に於て、四・五倍、『世田ヶ谷風塵抄』に於て一・八倍、『砧村雜唱』に於て、〇・二倍となつてゐる。  此の内、最も舊い作は『天王寺墓畔吟』中の卷頭、「新居」の一、「白藤」の歌であり、最も新らしい作は『砧村雜唱』中の「Ⅳ・父母の冬」の一聯である。  他の全篇に亙る一々の作の新舊、製作の年代に就いては、事あまりに繁瑣に亙るので茲には冗説せぬ。確實なる年表その他は後日に讓ることにする。     §  本集には四つの風景がある。時に應じて、それぞれにわたくしの生活の環境が移つてゐる。四つの章の冐頭に、簡單な解説は試みたが、更に多少の加筆が必要に思ふ。 [#1字下げ]天王寺墓畔[#「天王寺墓畔」は中見出し]  大正十五年五月に、わたくしは小田原の山莊から、その谷中の天王寺墓畔に移つた。河口慧海師の紹介で借りたその家は石井久太郎氏の有であつて、元は天王寺の坊中の隱居所の一つであつたらしい。廂が深く、晝もなほ仄暗いほどであつた。門は東に面し、道路を距てて直ちに石塔と向ひ、隣は左に彫刻家朝倉文夫氏のアトリヱがあり、右には珠數工の板廂が門庭の木蓮の上に見えた。その門庭には楓や百日紅、竹柏、檀、厨近くには藤、小米花、友待の空には八重の櫻も咲いた。中門から古風な奧庭へ入ると、椎垣に添つて冬青やゆづり葉が繁り、菩提樹や楓、茶室の隔ての袖垣、幾つかの大きい石、厠近くには一本の櫨が秋は深い夕日に照り輝き、裏には柿の枯枝が冬は黒い蔕をこびりつかしてゐた。石井氏は明治天皇の臨御になつた三條公の邸宅を買つて白鬚橋畔に之を奉安し、自もまた傍に住んだが、この家の後ろ横にも、その土藏を移した。この土藏が雜誌『近代風景』の編輯室となつた。  此處の生活は約一年間であつたが、朝夕の墓地の逍遙は、わたくしをして却つて明るい樂しいものに心身を悦ばせた。ただ煤煙の深いのには陰欝にされた。  詩集『海豹と雲』の中の第六章「珠數工の夜」の中の十六篇が、此の『天王寺墓畔吟』と照應する。詩文には、「谷中の秋」「白秋の墓」「庭を眺めて」「白く耀くもの」がある。之等は『白秋全集』の※[#ローマ数字13、637-5]「詩文集第二」に收めてある。 [#1字下げ]馬込緑ヶ丘[#「馬込緑ヶ丘」は中見出し]  この近代的風景は、『白秋全集』※[#ローマ数字13、637-7]の詩文「緑ヶ丘風景」「緑ヶ丘の秋」「緑ヶ丘にて」「剥製の栗鼠」等に委曲が盡されてゐる。 「この緑ヶ丘は赤と緑と青の屋根の、種々雜多な建築樣式の所謂文化住宅の波濤の中に突出した一つの岬である。」  曾つて、芥川龍之介君が、仰いで「これは白秋城」だと言つたこの家は、ヒマラヤ杉をあしらつて赤い瓦の屋根を尖らしてゐた。急坂に添つた石垣の上の芝土手(築地と歌には言つたが、日本風のそれではなく、洋風の芝の土手である。)を鍵の手に曲ると質素な丸木の門があり、通草が絡み、また芝土手と上の生垣が續いた。この家は或る建築師が自分の住居として設計したものであつた。簡素で贅が無く、しかも明朗で、如何にもその頭腦のよさを思はせた。庭の芝生や立木や、盆地を隔てた向うの丘、方々の丘の赤松、霧と燈火の九十九谷その他は、歌にある通りである。  その丘の、後ろが切通しになり、蒲田から大井へ通ずる貨物線が敷かれた。洗足池方面へ向ふ途次の陸橋からは、南に富士が仰がれた。そのあたりにも異人館の三四が竝んでゐた。  その昭和二年暮春から翌三年の初夏に至るわたくしの生活は谷中時代とは全く相違した環境が至極快適であつた。わたくしは主として洋風の生活をし、支那服を着け、或は仕事着の豐かなガウンを着けた。芝生へはトラピスト製の素木のサボウをつつかけて下りた。風景も東洋の水墨でなく、清新な油畫のタツチであつた。歌の上の色彩も之に關連しない筈はない。ただ和室は二階に一間しかなかつた。その家に、夜ふけて月に開く窓は閑かであつた。その時折は坐つて古きを温むるわたくしであつた。  詩としては、『海豹と雲』に收めた「月光の谿」の中の「緑ヶ丘夜景」等の七八篇、「童話と月」の中の「月と美童」がある。此の『緑ヶ丘新唱』と流通する。 [#1字下げ]世田ヶ谷若林[#「世田ヶ谷若林」は中見出し]  馬込から越したのは、子供たちの成城への通學の便宜を思つたからである。昭和三年初夏のことであつた。その家は赤瓦の洋館で、ポーチの上には郁子の棚が日陰を作つてゐた。邸内は廣く、離家は數寄な和風であり、石の多い幽雅な奧庭もあつた。築山の小さな祠や鳥居、赤松や木檞、楓、柏槇、箱根笹、つくばひのそばの土賊[#「土賊」はママ]、春日燈籠、通草の棚、すべて歌にある。中の生垣を隔てて、廣い芝生があり、周邊には四阿屋、竹に萬古燒の狸、鞦韆[#「鞦韆」は底本では「鞦※[#「韆−二点しんにょう」、639-10]」]。櫻、楓、椎、梧桐等の立木。此の集の揷畫にある庚申薔薇の中門には眞萩や山吹がしだれかかり、その中門から門庭へ出入りができ、そこにはまた木檞の植込があり、應接室の窓には八つ手や松ヶ枝が透かして見えた。自動車小舍は空になつて、二階には或る巡査の家族が住つてゐた。裏手には葡萄棚や壞れかけの鷄舍があり、井戸があり、金魚の池があり、白鵞鳥があさり、また山茶花や椿が咲き、小さな畠には柿が落葉し、食用菊が霜に痛んだ。  書齋は郁子の棚上の表の階上にあつたが、秋は鍵の手の壁から蔦紅葉が實に明るく反射した。電線や所在の巨きい木立や、淨水池の白塔が見えた。  かう書いてくると、當時のわたくしの生活は極めて豪奢なやうであるが、その家は郷里の先輩で貴族院議員であつた吉原正隆氏の死後の邸宅を、留守番代りに頼まれて、廉く借りてゐたのである。巡査氏は居附の管理人として遺してあつたのである。わたくしは容易く誤解される者の苦痛をしばしば味つたが、その爲に善良で貧しいその一家族との邸内同居を斷る心にはなれなかつた。  風塵のはげしさは非常であつた。三軒茶屋から登戸への街道に面し、牛車、タンク、砲車隊等の轣音、囂音、火山灰の旋風は堪へがたかつた。近くには陸軍の自動車學校もあつた。襤褸市で有名な世田ヶ谷の本場であつた。此處での生活は六年の初夏まで續いた。  詩文には「新居より」「殲くして長久なるもの」がある。『白秋全集』※[#ローマ数字13、641-2]。 [#1字下げ]砧村[#「砧村」は中見出し]  今も、わたくしは、この砧村の大藏の西山野にゐる。移つたのは六年の初夏である。此處に來てこの風景を散文に書いたことは曾つて無い。すべてを歌に托した。作歌にしみじみとうち涵つたのもこの砧村である。日常が作家生活であつたため、改めて新作を増補することも尠い。往時を追想して藝術表現に歌材を索る要も亦尠く、直に觀て朝夕に磨いた。  この家は簡素で風致があり、和にして洋、何か虔ましくて、まことに田園の住居と思へる。庭は狹いが、ささやかでも芝生があり、掌ほどでも苺の畝があり、花壇もある。古木の梅、樗の若木、藤の棚、檜葉垣の向ふは植木屋の植込があり、坐ながらにして南の空に雲の去來が仰がれ、野の涯、夜の星座までが廣々と眼界にはひつて來る。門傍の薄、萩、茶の木垣の横の電柱、白木槿、或は左の書齋の前の山茶花、躑躅、沈丁、月桂樹、小さな祠。門前の道路、畠、田川、狹い田の竝び、萱原、色とりどりの畑の向うには竹山に高槻。東南には本村の火の見、ラヂオ研究所の對の無線塔。このあたりの盆地景情は、四時、わたくしをいかばかり樂しましてくれることか。  わたくしは本來光明の子であらうか。かうした自然の光耀の直下には、如何なる人生の悲痛も一瞬にして忘れ得る性情が抑もの本質であるらしい。自然と一枚になる時こそわたくしの最高の歡びを自身に忝しとする。(昭和九年四月八日、釋迦佛誕日の夜記) 底本:「白南風」アルス    1934(昭和9)年4月20日発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※「木檞」と「木槲」、「竹煮草」と「竹煑ぐさ」の混在は、底本通りです。 ※小見出しよりもさらに下位の見出しには、注記しませんでした。 ※「中垣(世田ヶ谷時代)」の素描画は山本鼎(1882年10月24日〜1946年10月8日)作です。 入力:岡村和彦 校正:光森裕樹 2014年12月15日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。