わるい花 レミ・ドゥ・グルモン Remy de Gourmont 上田敏訳 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)威勢《ゐせい》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)揷 -------------------------------------------------------  花屋の前を通り過ぎた。威勢《ゐせい》よく反身《そりみ》になつてゐる花もある、しよんぼりと絶え入つてゐる花もある、その花屋の前を通りすがると、妙に氣を搖《そゝ》る意地の惡い香がした、胸苦しいほど不思議の香がした。そこでなかへ入つて行つて尋《き》いてみた。 「おかみさん、どうぞ、その花をお呉んなさい、その一つで三つの花、薔薇と鈴振花《すゞふりばな》と茉莉花《まつりくわ》の三つの香がする薫《かほり》の高い意地惡さうな花をさ。その變にほんのりと匂つて來て胸苦しくさせる花をお呉んなさい。 「旦那、もう茉莉花《まつりくわ》も、薔薇も鈴振花《すゞふりばな》も、すつかり切らしました。何《なん》ぞほかに新しい花を召しますのなら、どうか名を仰有《おつしや》つて下さいまし、女の胸の上、戀人の床の上に萎《しほ》れる花の名はみんな存じてをりますから。 「おかみさん、その一つで三つの花といふのは、新しい花ぢや無いよ。丁度私と同年《おないどし》ぐらゐの花だが、暴風《あらし》の晩に萎れて了つたかも知れない。 「旦那、私《わたくし》どもでは、萎れた花なんて置きませんです。宅《うち》の品はみんな新しい若い、愛の充ちた花で、蘆や薄荷の茂《しげみ》の中で、水に浸つて生きてをります。 「おかみさん、私のいふ花が生きてるか、死んでるか知らないが、何しろ今その意地惡の悲しい香《にほひ》がして來てゐる。噫恨めしいその香はどこからして來るんだらう。 「旦那、多分、お痛《いた》はしいお心からでは御座んせんか。暴風《あらし》の晩にたつた一邊かいだばかりで、一生忘られない花の香もありますから。たしか、今暴風の晩と仰有《おつしや》いましたね。 「おかみさん、何《なん》でも花はそこにあるよ。後生《ごしやう》だ取つてお呉れ。その妙に氣を搖《そゝ》る意地の惡い香が、通りすがりにしたばかりで、こゝへ入つて來たんだ。私のいふ愛と恨のその花を取つてお呉れ。 「旦那、それでは御自分で、花の中をお探し遊ばせ。その間《ま》にちよいと私はこの大きな菖蒲を活けてをります。 「おかみさん、そら、あつた、こゝにあつた、ひとりぽつちで忍冬《すいかづら》の中に潰《つぶ》れてゐた。たつた、ひとりぽつちでさ、この花は世界に一つしか無いんだ。それ、暴風《あらし》と涙と幸《さいはひ》の香《にほひ》がしないかね。 「旦那、私には砂地《すなぢ》と濱の香しか致しません。それは金雀《えにしだ》花ぢやあ御座いませんか、風で忍冬《にんどう》の蔓に絡《から》んだのです。色が褪めて、黄ばんで醜《きたな》いぢや御座いませんか。 「おかみさん、生《い》きてるよ、金いろだよ、美しいよ。まるで清い小さい心の臟だ、蝋の涙だ。蝋と愛と死のこの香がしないのかねえ。 「旦那、何の香も致しません。然し先程、薔薇と鈴振花と茉莉花《まつりくわ》の香と仰有《おつしや》いましたでは御座いませんか、ひとつ品の良い香のする奇麗な花環《はなわ》をお造《つく》り申しませう、庚申薔薇《かうしんばら》に葉鷄頭《はげいとう》でも添《あしら》ひまして。 「おかみさん、私の要るのはこの花ばかりだ。この小さい涙の玉、この黄いろい心の臟だ。何なら、一番立派な葬式《ともらひ》の花環の代を上げてもいい。 「旦那、これは差上げませう、よろしう御座います、この黄《き》いろい心《しん》の臟《ざう》なら、心から悦《よろこ》[#ルビの「よろこ」は底本では「よろ」]んで差上げます。 「おかみさん、私も心からお禮を申すよ。  花屋の敷居を跨いで、もう戸の外に出てから、私は振返つて、かう言つた。 「おかみさん、この胸苦《むなぐる》しいほど恨めしい花が、今日丁度にも置いてあつた花屋の前を通りすがつたとは、よほど廻合が惡かつたのだ。おかみさん、今お呉れだつたこの涙と愛と死の小さい心の臟は、實にわるい花だよ。私が聞いてならない事を、この花は聞かせてくれた。おかみさん、この花を持つて歸つて殺してやるんだ、この心の臟を突通《つきとほ》してやるんだ。私は愛の思出や、感情の玩具《おもちや》や、古い繪草子《ゑざうし》に揷《はさ》んだ押花《をしばな》や風が忍冬《にんどう》の蔓《つる》に隱して置く花なんぞは嫌ひだ。おかみさん、これには段々譯もあるがそれは言へない、また察しても貰ひたくないほど、深い譯がある。これからよく忍冬に氣を付けてお呉れ、この花屋の前を通るとき、この堪へ難い愛の香がしないやうにして貰ひたい。」 「とはいふものゝ、大事を取つて、今にこゝの前を避けて通る、愛と若さと死の皮肉な花が、威勢《ゐせい》よく反身《そりみ》になつてゐたり、しよんぼりと絶入つてゐる家の前を。 底本:「上田敏詩集」玄文社詩歌部    1923(大正12)年1月10日発行 入力:川山隆 校正:Juki 2012年7月10日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。