黒檜 北原白秋 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)冷《ひえ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)杏雲堂側面|未明《まだき》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)窻 ------------------------------------------------------- [#ページの左右中央] [#7字下げ]序[#「序」は大見出し] [#改ページ] [#ここから1段階小さな文字]  黒檜の沈静なる、花塵をさまりて或は識るを得べきか。  薄明二年有半、我がこの境涯に住して、僅かにこの風懐を遣る。もとより病苦と闘つて敢て之に克たむとするにもあらず、幽暗を恃みて亦之を世に愬へむとにもあらず、ただ煙霞余情の裡、平生の和敬ひとへに我と我が好める道に終始したるのみ。 「黒檜」一巻、秘して寧ろ密かに我といつくしむべく、梓に上して些か我が真実の謬られむことをおそる。他に言ふところなし。 [#2字下げ]庚辰孟夏 [#ここで小さな文字終わり] [#地から1字上げ][#1段階大きな文字]白秋[#大きな文字終わり] [#改丁] [#2字下げ]上巻[#「上巻」は大見出し] 熱ばむ菊[#「熱ばむ菊」は中見出し] [#2字下げ]駿台月夜[#「駿台月夜」は小見出し] 照る月の冷《ひえ》さだかなるあかり戸に眼は凝《こ》らしつつ盲《し》ひてゆくなり 月読《つきよみ》は光澄みつつ外《と》に坐《ま》せりかく思ふ我や水の如《ごと》かる [#2字下げ]朝[#「朝」は小見出し] 鶏《かけ》の声けぶかき闇にたちにしがよく聴けば市の病院にして お茶の水電車ひびくに朝早やも爽涼の空気感じゐるなり 杏雲堂側面|未明《まだき》は暗き窻あけて混《こ》み合ひの屋根に霜の置く見つ 暁《あけ》の窻にニコライ堂の円頂閣《ドオム》が見え看護婦は白し尿の瓶持てり 屋上の胸壁にして朝あがる一つの気球みつめつ我は [#2字下げ]菊、その他の花[#「菊、その他の花」は小見出し] [#3字下げ][#1段階小さな文字]菊の鉢は我が家の子久吉爺の丹精になるものなり[#小さな文字終わり] 逆光の玉の白菊|仰臥《あふぶし》に見つつはなげけやがて見ざらむ 我が眼先《まさき》しろきに蘊《つつ》む菊の香の硝子戸あけて乱れたるらし 視力とぼし掌《て》にさやりつつ白菊のおとろふる花の弁熱ばみぬ 影にのみ匂《にほひ》やかなる窻ぎはのその花むらも暮れて来《きた》りぬ [#2字下げ]杏雲堂屋上展望[#「杏雲堂屋上展望」は小見出し] 冬曇り明大の塔にこごりゐて一つ黝《くろ》きは赤き旗ならむ 雲厚く冬は日ざしかとどこほる聖堂の黝《くろ》き樹立うごかず [#2字下げ]冬の日[#「冬の日」は小見出し] [#3字下げ][#1段階小さな文字]失明を予断せられ、I眼科医院を出づ[#小さな文字終わり] 犬の佇《た》ち冬日《ふゆひ》黄に照る街角の何《なん》ぞはげしく我が眼には沁む 病院街冬の薄日に行く影の盲目《めしひ》づれらし曲りて消えぬ [#2字下げ]鑑真和上[#「鑑真和上」は小見出し] [#ここから1段階小さな文字] [#ここから3字下げ] [#ここから34字詰め] 昭和十一年盛夏、多磨第一回全国大会の節に拝しまつりし唐招提寺は鑑真和上の像を思ふこと切なり [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 目の盲《し》ひて幽かに坐《ま》しし仏像《みすがた》に日なか風ありて触《さや》りつつありき 盲《し》ひはててなほし柔《やは》らとます目見《まみ》に聖《ひじり》なにをか宿したまひし 唐寺の日なかの照りに物思《ものも》はず勢《きほ》ひし夏は眼も清《す》みにけり [#2字下げ]童女像の下にて[#「童女像の下にて」は小見出し] 童女像|朱《しゆ》の輝《て》り霧《き》らひ今朝見れば手に持つ葡萄その房見えず 焔《ほのほ》だち林檎一つぞ燃えにける上皿《うはざら》一キロ自動計量器 [#2字下げ]或る画報を見て[#「或る画報を見て」は小見出し] 両《もろ》の眼を白く蔽へる兵ひとり見やる方だにおもほえなくに [#2字下げ]降誕祭前夜[#「降誕祭前夜」は小見出し] ニコライ堂|円頂閣《ドオム》青さび雲低しこの重圧は夜にか持ち越す ニコライ堂この夜《よ》揺りかへり鳴る鐘の大きあり小さきあり小さきあり大きあり [#2字下げ]ある夜[#「ある夜」は小見出し] 暖房は後冷《あとびえ》きびし夜にさへや眼帯白くあてて寝むとす 鳥籠に黒き蔽布《おほひ》をかけしめて灯《ひ》は消しにけり今は寝ななむ 早春指頭吟[#「早春指頭吟」は中見出し] [#2字下げ]退院直後[#「退院直後」は小見出し] 花かともおどろきて見しよく見ればしろき八つ手のかへし陽《び》にして 我が宿よ冬日ぬくとき端居《はしゐ》には隣もよろし松の音して 今朝見えて置く霜さへや我が眼には谷地田《やちだ》も畦も隈|黝《くろ》みあり 冬、ぴしりと氷ひびく石くれは子《こ》か打ちつけし沈みて止みぬ 瞼《まぶた》しめしつくづくとゐる冬日中《ふゆひなか》畳の目など見むはすべなし 眼を病めば起居《たちゐ》をぐらし冬合歓《ふゆねむ》の日ざしあたれる片枝《かたえ》のみ見ゆ 折ふしに冬木見えくる眼先《まなさき》もたちまち暗し虚《むな》しかりけり こがらしの背戸に音やむ小夜ふけて温罨法の息吹《いぶき》眼に当《あ》つ [#地から2字上げ][#1段階小さな文字](吸入器にて)[#小さな文字終わり] [#2字下げ]冬日向[#「冬日向」は小見出し] 文鳥の影移りする鳥籠は日なたの軒にかけてこそ置け 蘭の香や冬は日向に面《おも》寄せてただにひとつの命《いのち》養ふ [#2字下げ]山鳥[#「山鳥」は小見出し] [#3字下げ][#1段階小さな文字]木俣修より贈り来る[#小さな文字終わり] 冬|冷《ひや》き皿の上には山鳥の瞼《まなぶた》しろし閉ぢしまなぶた [#2字下げ]冬光無し[#「冬光無し」は小見出し] 高空《たかぞら》に富士はま白き冬いよよ我が眼力《まなぢから》敢《あへ》なかりけり 眼を洗ふ冬光無し雑木々《ざふきぎ》のいつひらきなむ柔《やは》き若葉ぞ 眼にたのむ何ひとつなき芝庭の冬なりながら薄日照りたる 冬ひと日堪へてありしか池水の冰《こほ》れる面《めん》に風の吹き当つ [#2字下げ]白き冬[#「白き冬」は小見出し] 冬|三月《みつき》ただにましろく引くものに方丈の屏風|襞《ひだ》冷えにけり 白きものまた白からじ立つ襞《ひだ》の六曲の屏風影もこそもて 我がみ冬しろき屏風に引きかけてラヂオの線の影も凍《い》てゐる 白磁《はくじ》の八角の壺の稜線《すぢ》引きてほの上光《うはひか》るみ冬なるなり 眼は閉《と》ぢて眶毛《まつげ》にさやる眼帯の冷《ひえ》きはみけり月夜かも沁む [#2字下げ]方丈冬夜[#「方丈冬夜」は小見出し] 影さへや蕾《つぼみ》は硬《かた》き冬の薔薇ただ三葉四葉の灯映《ひうつ》りにして 聴耳《ききみみ》に胡桃《くるみ》食《は》みゐる影我は坐《すわ》る太尾《ふとを》の栗鼠にかも似る 何しらに灰|掻《か》きならす夜のなぐさまぶれあやしく蝿《はへ》かはばたく 手を当ててまたほてるなき鉄瓶の胴はじきつつすべな夜寒《よさむ》は [#2字下げ]春寒月夜三首[#「春寒月夜三首」は小見出し] 春立ちて月の幾夜ぞ雑木々《ざふきぎ》の風|騒《さわ》ぐ枝に我が眼閃く 冬|雑木《ざふき》こずゑほそきに照りいでて鏡の如く月|坐《ま》せりとふ 父われに冴ゆる月夜を戸は鎖《さ》して書《ふみ》よみにけり女童《めわらは》この子 [#2字下げ]書斎後夜[#「書斎後夜」は小見出し] 万巻の書《ふみ》をい照らす灯《ひ》うつりに鼠は啼くかさむき鼠は 夜の鼠小耳かき立て声も無しうしろけはひをうかがふらしき 古書の帙《ちつ》のぼる鼠の尾は引きて夜の咳《しはぶき》に乱れたりけり 物の文《あや》繁《しじ》にし思《も》へばかいさぐる我が指頭《ゆびさき》に眼はのるごとし [#2字下げ]春蘭[#「春蘭」は小見出し] 春蘭の冷《ひ》やき葉叢《はむら》の香の蘊《つつ》み点滴《てんてき》の音は鉢の外《と》にあり 春蘭のかをる葉叢《はむら》に指《および》入れ象《かたち》ある花にひた触れむとす [#2字下げ]片手[#「片手」は小見出し] [#3字下げ][#1段階小さな文字]眼さきに[#小さな文字終わり] 眼さきに片手さし寄せしぱしぱと見入るならひもおのづとなりぬ [#3字下げ][#1段階小さな文字]能のなげきを[#小さな文字終わり] 片手のみ眼にさしかざし声は無し泣くなる姿こころには観よ [#2字下げ]春夜寒[#「春夜寒」は小見出し] 春|夜寒《よさむ》白の小屏風|超《こ》ゆとして面《つら》出す鼠声落ちにけり 風すごし愛《かな》しふたつのあなうらに赤外線の燈《ひ》は当てて寝む [#2字下げ]早春五首[#「早春五首」は小見出し] 雪降りてしづけかりとふ朝庭に春の時雨か音わたり来《く》る 我が内障眼《そこひ》すべないたはり日も暗し春早き外《と》に土旋風《つちつむじ》巻く 春塵《しゆんぢん》のいづ方となき日のまぎれ渡鳥《わたり》のこゑを聴くと切なり 水ぐるま春めく聴けば一方《ひとかた》にのる瀬の音もかがやくごとし 何知れず眩《まばゆ》き雲やはげしくぞ眼をしばたたき我はありける [#2字下げ]粉雪[#「粉雪」は小見出し] 朝の餉《げ》の堆朱《つゐしゆ》の膳に散らひ来《く》る粉雪は松の揺りにたるらし 女童《めわらは》は雛祭るとぞ言問ひて朱《あけ》の氈《かも》など部屋に取りに来《く》 女《め》の子ろに傾《かし》ぐ思は積む雪の枝しづりつつ春待ちがてぬ [#2字下げ]菫咲く[#「菫咲く」は小見出し] 楢山に菫咲くとふその色のどれが菫ぞ見つつわかぬに 乾反葉《ひそりば》にまじる菫《すみれ》をおぼつかな陽炎をのみ見つつあやなし [#2字下げ]玉蘭吟[#「玉蘭吟」は小見出し] [#3字下げ][#1段階小さな文字]まさに鳴く音はヒーカタカタなり[#小さな文字終わり] 日方とよ鶲《ひたき》啼《な》くなり玉蘭《はくれん》のまだ蕾なる枝の揺れ見よ 玉蘭《はくれん》は空すがすがし光|発《さ》す一朝《ひとあさ》にしてひらき満ちたる 木高きは現《うつつ》あらぬか玉蘭《はくれん》の花|多《さは》にしてむしろ幽《かす》けき 春昼《しゆんちう》はあやかしふかし玉蘭《はくれん》の下照る篁子影二人|笑《ゑ》む [#2字下げ]月のごとく[#「月のごとく」は小見出し] 観るほどは敢《あへ》なかるらし日を経りて物のあいろの暗くなりゆく 日の光月のごときに玉蘭《はくれん》の花さゆれつつあるが清《すが》しさ 我が眼には月の色なる日の照りを雀|歩《あり》けり庭片寄りに [#2字下げ]玉蘭散る[#「玉蘭散る」は小見出し] 玉蘭《はくれん》は花うやうやし散《ち》るとして散りつつ冴えぬその下枝《したえだ》に 玉蘭《はくれん》は木末《こずゑ》より散りやすけらし下枝《しづえ》の花ぞ日に照らひつつ 土に帰る時なりけらし玉蘭《はくれん》のいや澄みまさる散りがたの花 花落ちてただち萌ゆるか玉蘭《はくれん》の立枝《たちえ》の芽ぶき雷に勢《いきほ》ふ 日光現像[#「日光現像」は中見出し] [#2字下げ]春日籠居[#「春日籠居」は小見出し] 春ふかむ隣家《りんか》のしろき花|一樹《ひとき》透影《すいかげ》ゆゑにいよよおもほゆ 春田中ねもごろ人のいふ聴けばげんげは遅し菫いま咲く 承塵《なげし》には池の水照《みでり》の影ゆらぎまだ春早し鼠のをどり [#3字下げ][#1段階小さな文字]註、水陽炎の影を壁鼠と云ふ[#小さな文字終わり] 壺《つぼ》にして影ぞおぼめけ盛る色の薔薇《さうび》とを見れば薔薇《さうび》とし見ゆ 籠鳥の揺りつつ遊ぶさま聴けば夕とのぐもり久しかるらし [#2字下げ]篁子[#「篁子」は小見出し] 春の陽に輝き笑《ゑ》まふ女《め》の童《わらは》瞼の外《そと》に置きて思へや 女童《めわらは》を今朝|出《い》だしやり午《ひる》まけて早や待ちがたし山辺かすむに [#地から2字上げ][#1段階小さな文字](受験の日)[#小さな文字終わり] [#2字下げ]春日すら[#「春日すら」は小見出し] 春日すら霞をぐらき雑木山|木《こ》の芽もただにたちて匂ふを 雲といへば光|恋《こほ》しき玻璃の戸にあまりてしろく春は闌《た》けつつ [#2字下げ]良寛遺愛の鞠[#「良寛遺愛の鞠」は小見出し] [#ここから1段階小さな文字] [#ここから3字下げ] [#ここから34字詰め] かねて懇望したりしかば、遂に越後長岡の知人よりやうやく届け来る。喜びかぎりなし。この鞠、見るからに円く稚く、赤と青とにてかがりたるが、手垢黒くついていとめでたし。小函に入れ、その函の蓋には良寛遺愛の鞠、裏には第十七代の孫新木吟雨とあり。吟雨六十二翁は与板の人、蓋し良寛の父以南の実家新木氏の子孫なる由。乃ちその鞠の歌 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] [#3字下げ][#1段階小さな文字]その一[#小さな文字終わり] 我が籠《こも》り楽しくもあるか春日さす君が手鞠をかたへ置きつつ 春ひねもす鞠のこもりの音聴くと幽《かす》かよ吾れの手触《たふ》り飽かなく [#3字下げ][#1段階小さな文字]霞立つ永き春日を子どもらと手鞠つきつつこの日暮らしつ    良寛[#小さな文字終わり] 乙宮《おとみや》の春はひねもす子どもらと手触《たふ》り遊びし君が鞠これ 何の香かこむる春野ぞ手もすまにつきて遊びし君が鞠これ 鉢《はち》の子と鞠といづれぞ陽にあてて鞠はすみれの花の香《か》のする 春日さす鞠はかなしもうつしとる感光板にうつら影引く [#3字下げ][#1段階小さな文字]その二[#小さな文字終わり] ぬくとさは縁《えん》の端居《はしゐ》の春日向《はるひなた》われも袂《たもと》の鞠とり出《いだ》す 手に撫《な》でてつくづくと居れこの鞠のかがりの綾《あや》は透かせど見えず 女|童《わらは》がふふむ笑《わら》ひはこの鞠のかがりの手垢|愛《かな》しがりつつ 手垢《てあか》つく君が手鞠《てまり》のあや糸は赤しとを見えず青しともまた 春日向ぬくむ手鞠は掌《て》にのせて綾は見えずもほの光りさす 聞くほどは人香《ひとが》こもらへこれの鞠|手触《たふ》りすべなもなにかゆがみて 陽に明《あか》る瞼《まぶた》さし寄せ嗅ぐ鞠の影|黝《くろ》きかもやかゆきこの鞠 [#3字下げ][#1段階小さな文字]つきて見よ一二三四五六七八九の十、とをとをさめてまたはじまるを  良寛[#小さな文字終わり] つきて見む一《ひ》二《ふ》三《み》四《よ》五《い》六《む》七《な》八《や》九《ここ》の十《とを》手もて数へてこれの手鞠を 霞立つかかる春日に子らとゐてつかしし鞠ぞいま手にはずむ おぼつかな鞠のありどの手を逸《そ》れて音なかりけり霞むこの昼 [#2字下げ]道[#「道」は小見出し] 技《わざ》びとや技《わざ》に遊ぶといにしへは一生《ひとよ》の命かけて愛惜《をし》みき めでたかる世々の匠《たくみ》は言挙げずただ恍《ほ》れゐつその楽しみに 言《こと》さやぐけだし寒けし匂ふらく幽けききはぞ道に哭《な》かしむ [#3字下げ][#1段階小さな文字]新万葉審査所懐、四首[#小さな文字終わり] 和《にぎ》み魂楽しみ思へば苦しくもただに言はまく言《こと》すらも無し 我敢て道に言はずも読み読みて盲《し》ひしふたつの眼《まなこ》かくあり 道により敢て楽しと言はまくは楽しびあまり声泣かむかに 読み読みき選び選びきひたむきを眼は楽しみき喰《く》ひ入るまでに [#2字下げ]千手[#「千手」は小見出し] [#3字下げ][#1段階小さな文字]唐招提寺金堂追想[#小さな文字終わり] 観音の千手の中《なか》に筆もたすみ手一つありき涙す我は 観世音像千手の指のことごとに眼《まなこ》坐《ま》しにき清《す》みかがやかに [#2字下げ]文珠[#「文珠」は小見出し] 紫磨金《しまごん》の匂おだしき御座《みざ》にして文珠の笑《ゑまひ》はてなかるらし [#2字下げ]慶州石窟庵を憶ふ[#「慶州石窟庵を憶ふ」は小見出し] [#ここから1段階小さな文字] [#ここから3字下げ] [#ここから34字詰め] 本尊の石仏は悲願によつて日本海に正面したまひ、洞窟はその朝噋の光により微妙に荘厳せられたり [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 東《ひむがし》の海さしわたる朝日影石仏は坐《ま》しぬこよなき目見《まみ》に [#2字下げ]鑑真和上木像[#「鑑真和上木像」は小見出し] [#ここから1段階小さな文字] [#ここから3字下げ] 再び唐招提寺の和上を憶ふ。芭蕉に句あり 若葉しておん眼の雫拭はばや [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] み眼《め》は閉《と》ぢておはししかなや面《おも》もちのなにか湛へて匂へる笑《ゑみ》を [#2字下げ]雪柳[#「雪柳」は小見出し] [#3字下げ][#1段階小さな文字]春邦画伯を訪ふ[#小さな文字終わり] 輝るばかりたわわに匂ふ雪柳君が門辺は寒からなくに 咲きしだり匂|清《す》みゐる雪柳ただ白してふものにあらなくに [#2字下げ]春夕[#「春夕」は小見出し] 春ゆふべ眼に白らけゆく燠《おき》の色のもの柔《やは》きかなや火桶かい撫《な》づ そことなき春の蚊にすら聴くものは愛《かな》しかりけり若葉たをやぐ [#2字下げ]雨後[#「雨後」は小見出し] 水楢の若葉ほたほたと雨|重《おも》り何ぞここだく雫|線《すぢ》引く 萱の根に鼠あらはれ小走りを此方《こなた》見しとふ我も其方《そなた》見る [#2字下げ]春曇[#「春曇」は小見出し] 糸檜葉《いとひば》にしろくこもらふ春曇《しゆんどん》のこのかがやきは底しれぬなり 隣にて鳴く雛聴けば群れはしり眼は開《あ》かぬもや若葉山吹 [#2字下げ]春昼一首[#「春昼一首」は小見出し] 現身《うつしみ》は春も背《そびら》の経絡《けいらく》に火をつづらせて愛《かな》しがるなり [#3字下げ][#1段階小さな文字]註、経絡は灸の筋[#小さな文字終わり] [#2字下げ]初夏の庭[#「初夏の庭」は小見出し] 朝間《あさま》干す白き衾《ふすま》の日に照るは夜ににほふよりせつなかりけり 山吹の黄に咲きしだる色かとも見つつは籠《こも》れ若葉とも見ゆ 日おもての庭の此面《このも》の白つつじ蕋《しべ》長《なが》なれや春|酣《たけなは》に [#2字下げ]盲目の蛙[#「盲目の蛙」は小見出し] 草ごめや蛙《かはづ》のこゑの、夜に聴けばくくく[#「くくく」に傍点]とふくむ。おもしろよ盲目《めしひ》の蛙、かいろ[#「かいろ」に傍点]、くく[#「くく」に傍点]、暗しとを啼く。盲《し》ひぬ盲《し》ひぬ、くくく[#「くくく」に傍点]。惜しや惜しや、くくく[#「くくく」に傍点]。すべな右すでに盲ひぬと、左の眼早やあやしとぞ。春の田のげんげの小田の、水のるや鋤きかへし田を、その蛙、ころろ[#「ころろ」に傍点]、かいろ[#「かいろ」に傍点]、くくく[#「くくく」に傍点]、草ごもり暗しとぞ跳ぶ。をかしとよ、早や見えずとよ、後脚《あとあし》はねてまた水くぐる。 [#3字下げ][#1段階小さな文字]反歌[#小さな文字終わり] 春の田の草間の蛙《かはづ》眼をあけて啼くなるのみと子らは思はむ [#2字下げ]田蛙[#「田蛙」は小見出し] [#3字下げ][#1段階小さな文字]丘の翼家にて[#小さな文字終わり] 眼は見えて啼くがままなる蛙《かはづ》らに春雨《はるあま》づつみ風そよぎつつ 声あがる田居の蛙を上居《うへを》りて眼はふたぎゐる親蛙われは [#2字下げ]背戸に出でて[#「背戸に出でて」は小見出し] 春の田の柔《やは》ら浅茅生|風向《かざむき》を色走りつつ子らが追ひがてぬ 女童《めわらは》を手触《たふ》りなげかひげんげ田の春の日向は行き飽かぬかも [#2字下げ]牡丹現像[#「牡丹現像」は小見出し] [#3字下げ][#1段階小さな文字]1 庭にて[#小さな文字終わり] 春の日の朱鷺色《ときいろ》牡丹|女童《めわらは》が跳ぶ足音に揺れつつ照りぬ ほのあかき朱鷺《とき》の白羽の香の蘊《つつ》み牡丹ぞと思ふ花は闌《た》けつつ [#3字下げ][#1段階小さな文字]2 病室にて[#小さな文字終わり] 豊けきは葉ぐみととのふ牡丹《ぼうたん》のひと花|紅《あか》き穏《おだ》しさにして 香ひたつ朱鷺《とき》いろ牡丹籠にあふれ時計と置くにひと花しづか 蕋《しべ》つつむ幾重花びら内紅《うちあか》き朝の牡丹は食《は》ままく柔《やは》ら 禿髪《かむろ》垂《た》る黒きかほばせあどなくてあてなる際《きは》は物《もの》思《も》はずらし 匂満ちて全《また》けき牡丹|二日《ふつか》まり我と在りしがくづれてちりぬ [#3字下げ][#1段階小さな文字]3 居間の縁にて[#小さな文字終わり] 蕾添ふ黒き牡丹は一鉢の花重きから縁にさし置く 女童《めわらは》や穏《おだ》し牡丹の靄だちを禿髪《かむろ》かき垂り父にゐずまふ 牡丹の弁なごしくつつむ靄すらや我が眼先《まさき》には揺れてくるしき [#2字下げ]庭の一隅[#「庭の一隅」は小見出し] 靄ごもり層《かさ》む若葉の緑金《りよくこん》はただ一方《ひとかた》を陽の照らふらし うち層《かさ》む若葉くらきに子が遊ぶ鏡の反射そこらひらめく [#2字下げ]初夏の灸点[#「初夏の灸点」は小見出し] 影|黝《くろ》む照《てり》やすからず夏山のこの靄立《もやだち》を我が眼おとろふ よく点《つ》きて当《あた》りかなしく柔らかき艾《もぐさ》は妻が揉むべかるらし 火のうつり繁《しじ》にし沁むる艾《もぐさ》には蓬の汁《つゆ》を先《さき》濡らしてむ 背は向けて灸《やいと》こらふる若葉どき妻が手触《たふり》の繁《しじ》に来《く》るかも 若葉照りいぶる艾《もぐさ》は押しすゑて熱き三里がよくきくよくきく [#2字下げ]五月靄[#「五月靄」は小見出し] 谷地《やち》の靄こむるかぎりは日の射して色おぎろなし若葉かも蒸す 靄ごめと香に蒸す緑くるしくて蛙は鳴くか声盛りあがる おぼほしく若葉|黝《くろ》ずむこの眺め梅雨《つゆ》のま待たず我が眼|盲《し》ひむか 若葉靄けふただならず爆弾機関銃弾漢口の空に火を噴くとふはや 激しく火を噴き墜つるたまゆらの機上|幾干《いくばく》を眼《まなこ》見すゑし [#2字下げ]浴湯一首[#「浴湯一首」は小見出し] 朝早やもたぎる風呂釜の湯を浴《あ》ぶとひたかぶる時し我|適《ゆ》きにけり [#2字下げ]夏山[#「夏山」は小見出し] 朝鳥の声乱れ来る夏山は窻ひきあけてただちすずしさ 山蝉の翅《はね》かがやかす声聴けば合歓《ねむ》の若葉か最《もと》もをさなき [#2字下げ]えごの花咲く[#「えごの花咲く」は小見出し] 陽にまがふ何かしらけし眺めには若葉もわかずえごの鈴花《すずばな》 花しろきえごの木《こ》のまを日ごもりと手斧《てうな》は音に楽しむごとし [#2字下げ]人杖[#「人杖」は小見出し] 女童《めわらは》は父が人づゑ蔓薔薇の白きは見つつ寄りて言ふかも 女童《めわらは》や香《にほ》ふ人づゑ肩触りてはずむ温《ぬく》みの艶《いろ》ひ母めく 女童《めわらは》は愛《かな》し人づゑ行かしめて行きつつ父の笑《ゑまひ》あかるを     § 眼に触りてしろく匂ふは夏薔薇の揺りやはらかき空気なるらし [#2字下げ]ラヂオ朝暮[#「ラヂオ朝暮」は小見出し] 夏の鳥朝のラヂオに啼き乱りその山と思ふ滝津瀬鳴りぬ 夕《ゆふ》待たず我が眼くらきに聴きほくる早慶戦もラヂオに止みぬ 犬の声ラヂオの中に群れ起り外《と》に吠え継《つ》ぎて月の夜ふけぬ [#2字下げ]多磨三周年歌会にて[#「多磨三周年歌会にて」は小見出し] 睡蓮の花|泛《う》けりとふ池の面《も》は日の照りつけて観る色も無し な悲しみ霧《き》りてをぐらき我が眼にももろもろの頭《づ》は光《て》りて見ゆるに [#ここから1段階小さな文字] [#ここから3字下げ] 弟の撮し来し水郷柳河と北支大同の映画を観る。天然色のそれらもありき [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 眼のうらに光る汲水場《くみづ》を蛇《くちなは》の奔《はし》る影さへすばやかりしか 石仏は正面《まと》向きおはし須臾《しゆゆ》に見る空|現《うつ》しけく涯《はて》なかりにし [#2字下げ]光を[#「光を」は小見出し] ひと度は相見まつりき縁《えにし》なり日光菩薩加護あらせたまへ 物のはし黄金にあかる夕すらもただにし塵の舞ふと思へや [#2字下げ]たまたま、道に出でて[#「たまたま、道に出でて」は小見出し] 夏菊のしろき籬《まがき》の角にして日のいちじるき光に遇ひぬ 曇れる魚眼[#「曇れる魚眼」は中見出し] [#2字下げ]霖雨低唱[#「霖雨低唱」は小見出し] [#3字下げ][#1段階小さな文字]庭を観つつ[#小さな文字終わり] 梅雨《つゆ》の庭おぼおぼしきに鉄線蓮《てつせん》の花見えてゐてまた降りこめぬ ふりこむる梅雨《つゆ》は霖雨《ながめ》の日ぐらしを硯に向ひ書くこともなし ふる雨にベンチ濡れゐるそれのみの影なりながら眼には頼みき 谷地《やち》の水|上《かみ》と下《しも》とに瀬鳴りて気《け》ごもり重しここの梅雨時《つゆどき》 日癖雨|梅雨《つゆ》はけ長しふきぶりとふりこむるきはぞむしろすがしき 木深くも繁《しじ》に異《こと》なる物の雨|瞼《まぶた》へだててひびくを聴けば [#3字下げ][#1段階小さな文字]隣の松[#小さな文字終わり] 梅雨《つゆ》ぐもり気重《けおも》き松や靄ごめと隣は邃《ふか》き色のこめつつ [#ここから1段階小さな文字] [#ここから3字下げ] 隣の松、舞台の松に似たれば、お能の松と我が呼びならはしぬ [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 靄ごめや三階松《さんがいまつ》の塗笠の笠揺り畳ね今は梅雨時《つゆどき》 [#2字下げ]蛙青し[#「蛙青し」は小見出し] 森にひびき鳴ける蛙《かはづ》を梅雨早やも茅蜩《ひぐらし》の声のきざむかと聴く 雨《あま》がへる日中《ひなか》啼き継《つ》ぎ声|速《はや》し矢筈檀《やはずまゆみ》の根にひびかひぬ [#2字下げ]白昼[#「白昼」は小見出し] 我がほかは日の白光《びやくくわう》にこだましてラヂオ体操の響くあるのみ 暑《しよ》の霞はてなきごとし熬《い》りつつやにいにい蝉の声沁むるかに [#2字下げ]盲父子像[#「盲父子像」は小見出し] [#ここから1段階小さな文字] [#ここから3字下げ] [#ここから34字詰め] 父八十三翁、四年前、手術の甲斐ありて幸に明を得たまひたれどこの頃再びよろしからず、我が視界も亦渾沌たり [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] ま白髯《しらひげ》長かる父の目は盲《し》ひて端然《たんねん》と坐《ま》すに月押し照りき 父の老《おい》内障眼《そこひ》はかなくなりましてひたすらと執《と》らす母の手なりき 立秋を白き木槿《むくげ》の花咲きて見る眼すがしく開《あ》きましし父や 閉ぢしみ眼ひらくただちを咲き笑《ゑ》まふ少女が面輪《おもわ》こよなかりしと 老《おい》のみ眼とかく曇らへ年なれば早や諦《あきら》めておはすかよ父よ そのごとも盲《し》ふる子が眼を乞ひ祷《の》むと手触《たふ》りなげかす父は子が眼を 盲《し》ふる眼の梅雨《つゆ》の霖雨《ながめ》を日ぐらしと子は父を思ふ父は子を蓋《けだ》し 父と子や霖雨《ながめ》けなるき起臥《おきふし》を盲《し》ひつつ坐《ま》すに盲《し》ひにつつあり [#2字下げ]メンコン蛙[#「メンコン蛙」は小見出し] 土もぐるメンコン蛙《がへる》眼ばかりを上のぞかせて吼ゆとふかなや ラヂオにはメンコン蛙《がへる》くくみ啼き鳴る瀬のうつつ蛍が飛ぶも [#2字下げ]六月二十五日[#「六月二十五日」は小見出し] 茅蜩《ひぐらし》のこの日啼きそめ山方《やまかた》やまだ夕《ゆふ》淡《あは》き合歓《ねむ》のふさ花 雨けむる合歓の条花《すぢばな》夕《ゆふ》淡《あは》きこの見おろしも今は暮れなむ [#2字下げ]山寄り[#「山寄り」は小見出し] 小綬鶏の雛うち連れて過ぎりしはまだ朝かげの山寄りにして 小綬鶏の雛を守《も》りつつ降り行ける谷地《やち》をぞ思ふその夏霞 我が庭は莠《はぐさ》にまじる桔梗《きちかう》の紫しらけ朝から暑し [#2字下げ]卓上の一鉢[#「卓上の一鉢」は小見出し] 朝顔は白く柔《やは》らにひらきゐて葉映《はうつり》あをし蔓も濡れつつ 何なるや白くすずしくひらき来て朝顔の花といま匂ふもの 眼《まなこ》かも蔓にはあらし一方《ひとかた》と伸び向ふなり朝顔|絡《から》む [#2字下げ]水の音[#「水の音」は小見出し] [#3字下げ][#1段階小さな文字]ある日のラヂオ[#小さな文字終わり] 苔清水ひびきつたふる幽《かす》かなる金閣寺の庭を我家《わがや》にぞ聴く 金閣は細みちよろろぐ水の音《おと》のただもはらなる夏の日にして [#2字下げ]晩夏、瞼に想ふ[#「晩夏、瞼に想ふ」は小見出し] 火のごとや夏は木高《こだか》く咲きのぼるのうぜんかづらありと思はむ 夏山は我が知る方の夕霧に緋秧鶏《ひくひな》飛びて風もつらしき [#2字下げ]火[#「火」は小見出し] [#3字下げ][#1段階小さな文字]谷地の東宝撮影所、日々に戦火起る[#小さな文字終わり] 閑《しづ》けきを人は戦ふ夏|闌《た》けて模擬地雷火を爆発せしむ [#2字下げ]秋気[#「秋気」は小見出し] 葉ごもりと合歓《かふか》のうれの秋霧に尾長は居《を》らしその飛ぶ一羽 風の先《さき》つぎつぎと飛ぶ雛見れば尾長や秋を気色《けしき》だちたる [#2字下げ]夕顔[#「夕顔」は小見出し] 眼力《まなぢから》けだし敢《あへ》なし夕顔の色見さだめむ睫毛《まつげ》触りたり 夕顔は端居《はしゐ》の膳に見さだめて月より白し満ちひらきつつ [#2字下げ]七夕[#「七夕」は小見出し] [#3字下げ][#1段階小さな文字]篁子の傍らにて[#小さな文字終わり] 端渓《たんけい》の硯に向ふ女《め》の童《わらは》髪黒う垂れて面照《おもて》りにけり また磨らな硯にうつる空のいろの消えつつしあるに墨の乾くに よく磨らむ愛《かな》し女童《めわらは》七夕《たなばた》は磨る墨のいろの金《きん》に顕《た》つまで 端渓の硯の魚眼《ぎよがん》すがしくて立秋はいま水のごとあり [#2字下げ]残暑籠居[#「残暑籠居」は小見出し] 澄みつつし沁《し》むる暑さか西日さししづけき幹に蔦ひかり見ゆ [#3字下げ][#1段階小さな文字]いよいよに濃く黒き眼鏡をかけて[#小さな文字終わり] うち沈む黒き微塵《みぢん》の照りにして暑《しよ》は果しなし金《きん》の向日葵《ひまはり》 [#3字下げ][#1段階小さな文字]日中レコードのみをかく[#小さな文字終わり] 何聴かむこの日のうちぞ指《および》触《ふ》りあてゆく針の鋭《と》くも短かき [#2字下げ]深大寺の九月[#「深大寺の九月」は小見出し] 深大寺《じんだいじ》水|多《さは》ならし我が聴くに早や涼しかる滝の音ひびく むくろじの実のまだあをき庫裏の前もの申すこゑの我はありつつ 深大寺《じんだいじ》の池、水澄みたらし下照りて紫金《しこん》の鯉の影行く見れば 御厨子《みづし》には倚像《きざう》の仏|坐《ま》しまして秋さなかなり響くせせらぎ はてしらぬ仏の笑《ゑ》まひ面《おも》あかる灯映《ひうつ》りにしてみ掌《て》の欠けたる ここの山我が聴く方《かた》ゆ日照雨《そばえ》して庫裏戸《くりど》に濡るる秋海棠の花 [#2字下げ]月色[#「月色」は小見出し] 雲とありて月の光の流らふる屋《や》の空ならし坐《すわ》りて飽かず 子等がいふ欠くることなき望月も父我の眼には二日《ふつか》三日《みか》の月 風に見ゆる月の光を涼しくはにじり出《で》て仰げ暗きかも木々 薄雲にひらめく月の光かも風にかもあれや我が眼|過《よ》ぎぬる [#2字下げ]夜色をまた[#「夜色をまた」は小見出し] 月い照るかかるか黝《ぐろ》く厳《いつか》しき地表の皴《しゆん》を我が思《も》はなくに 山河に輝《て》れる今宵《こよひ》の望月の円《まど》けき思《も》へば我|盲《し》ひにけり [#2字下げ]秋夜父に読む[#「秋夜父に読む」は小見出し] 女童《めわらは》の読みとどこほり声無きは灯《ひ》に見てかあらむ瞳|凝《こ》らすと [#2字下げ]秋曇り[#「秋曇り」は小見出し] 渡り鳥飛ぶとふ空も雨雲のいや降りつぎて暗きかもただ [#2字下げ]山椒太夫哀歌[#「山椒太夫哀歌」は小見出し] [#3字下げ][#1段階小さな文字]安寿恋しやほうやれほ、厨子王恋しやほうやれほ[#小さな文字終わり] 佐渡ヶ島|雑太《さはた》の庄に目は盲ひて干すさ莚の粟の粒はや 啄《つ》む粟の薄日《うすび》あはれとほうやれと追ふ鳥すらや眼には見なくに 短日童女像[#「短日童女像」は中見出し] [#2字下げ]短日[#「短日」は小見出し] 短日《たんじつ》は盲《し》ふる眼先《まさき》に朱《しゆ》の寂《さ》びし童女像ありて暮れてゆきにけり [#2字下げ]初冬月象[#「初冬月象」は小見出し] 夜の池にうごきて繊《ほそ》き月形《つきがた》はかがやく箆《へら》のゑぐれる如し 夜のふけの冬の池水か黒くて深沈たるに月映りけり [#2字下げ]鼠騒ぐ[#「鼠騒ぐ」は小見出し] 田鼠ら硝子戸のぼりあわただし谷地《やち》の月夜も凍《し》みて明《あか》きか 物|欲《ほ》ると鼠つい居る燈《ひ》かげには霜こごる夜《よ》の微動がありぬ 夜々|出《い》づる鼠ひとつにこだはるは何ぞとも思《おも》へその尾引くなり 書画箋や鼠|被《かか》ぶる間《ま》をおきて聴くに穏止《おだや》みまた引き裂きぬ 護摩壇に鼠むらがる夜半にして頼豪阿闍梨狂ひたまひき [#2字下げ]冬夜[#「冬夜」は小見出し] ラヂオには赤き翼《つばさ》といふ曲の楽すすむなり夜《よ》ただ寒きに [#3字下げ][#1段階小さな文字]篁子一銭新貨といふものを持てくる[#小さな文字終わり] 冬夜さりひとつ光れる手に載せて吹きて見よちふ吹けば飛ぶ貨《かね》 [#3字下げ][#1段階小さな文字]鼠よあはれ[#小さな文字終わり] 鼠子は後《あと》も見ざらしするすると柱に消えて夜寒《よさむ》なるなり [#2字下げ]雑魚[#「雑魚」は小見出し] [#3字下げ][#1段階小さな文字]吉植庄亮君より送り来たる、二首[#小さな文字終わり] 眼にさぐる雑魚《ざこ》の熬《い》り煮《に》は箸つけて暗きかもやあはれ霜夜《しもよ》燈火《ともしび》 冬ざれの印旛郡《いにはごほり》ゆ熬《い》りて来《こ》し小蝦のひげが繁《しじ》こごりけり [#2字下げ]谷地の冬[#「谷地の冬」は小見出し] 藪雑木《やぶざふき》谷地《やち》の日かげのしづけきは一朝にしもみ冬寂びたる 小綬鶏《こじゆけい》の群れつつ黙《つぐ》む雑木原冬は日すぢの目に立たずして [#2字下げ]冬山[#「冬山」は小見出し] 冬ひと日なにかきこえてある山のまだしづかにて明《あき》らなりける 瀬の音のひと日ひびかふ冬まけて鉄瓶の湯気我も立たしむ 冬むかふ谷地田《やちだ》の日かげ瀬の音《と》して照る山方ぞす枯れはてたる 陽にあてて瞼《まぶた》温《ぬく》もるほどほどは聴かゆる方《かた》の音きこえつつ 積むのみぞ冬の書塵《しよぢん》のもろもろは我が読まずなりてすでにしづけき [#2字下げ]落葉[#「落葉」は小見出し] 玉蘭《はくれん》の落葉掻き集《つ》め焚く風呂のねもごろ柔《やは》き湯気に立つめり 我が山は落葉|繁《しじ》なり風呂立てて二十日《はつか》まり焚きていまだ散り敷く [#2字下げ]霜三首[#「霜三首」は小見出し] 大霜の田川ひびかふのみなるを我が聴きに出て朝は居りける 霜|下《お》りて近くなりたる冬山を鴑《あとり》の声は繁《しげ》くもぞ来《く》る 眼を開《ひら》き歩む林の小綬鶏は霜踏み越えて清《すが》しかるべし [#2字下げ]愚かなる虎[#「愚かなる虎」は小見出し] [#3字下げ][#1段階小さな文字]讃岐金刀比羅宮の襖絵を思ひ出でて[#小さな文字終わり] 虎の貌《かほ》啖《くら》ひ飽きたるさましてぞ愚かなりしかその眼とろめつ 猛々《たけだけ》し群虎の月に嘯《うそぶ》くを呆《ほ》けたるがひとり澗水《たにみづ》なめぬ [#2字下げ]読書[#「読書」は小見出し] 書《ふみ》読みて楽しかりにし昨《きぞ》思《も》へば燠《おき》掻きほぜり冬よるべなし 楽しみと書《ふみ》は読みしか味気なしゆとりとてあらず読むを聴きつつ 書《ふみ》読みてひたり味ふしづけさを声ありやとも聴きぬ霜夜は 読みさしてゆとりあるまのうら和《な》ぎや自《し》が楽しみと書《ふみ》は読みける 聴きてゐつ心に読むと沁む文字の声ことごとく象《かたち》ありにし [#2字下げ]妻[#「妻」は小見出し] いたりける妻なるならしねもごろとかたへ寄りつつこの夜読みつぐ 我が二人《ふたり》いたりつくらし何くれと言《こと》には出でね依り合ふ思へば 聴くとして書《ふみ》読ませゆく気づまりも妻には思《も》はず心|隔《お》かずも 家妻は心おきなし読む書《ふみ》の声ねむたげに落ちゆく聴けば [#2字下げ]短日起居[#「短日起居」は小見出し] 口授《くじゆ》しつつうしろ寒けき短日《たんじつ》を懸巣《かけす》は飛びてするどかりしか その母の父とこもるにいつか来て子らはあるなり居るともなしに [#2字下げ]飲食[#「飲食」は小見出し] 面《おも》火照《ほで》り炉《ろ》に寄る子らが影見ればあかあかとけぶり煮立つものあり ありやうは春の朝《あした》の飲食《おんじき》も色に見ずてはつひに寒けき [#2字下げ]絵馬[#「絵馬」は小見出し] 山にして幽《かす》けかりしか蔀戸《しとみど》に冬はここだくの小《ち》さきめの絵馬 めの絵馬は掌《て》を合せゐる幼児に一刷毛の空を青く流しき [#2字下げ]短日視野[#「短日視野」は小見出し] 眺めとて何の色なき冬山の雑木端山も見ずばさぶしき 冬山は雑木のかげり夕《ゆふ》早し灯《ひ》を点《つ》けよとぞ諸《もろ》に点《つ》けしむ [#2字下げ]鼠と貂[#「鼠と貂」は小見出し] 明《あか》き燈《ひ》に人ははばかる我が影を鼠|牙《きば》研《と》ぎ噛む音立てぬ 明笛《みんてき》の竹紙《ちくし》すらだに舌ねぶる鼠なりきや啖《く》ひやぶりける 眼を開くをさな夜床の灯《ほ》かげには鼠の法師大きかりにし 鉢の蘭くらひゐにしか夜《よ》の凍《し》みを障子ゆるがし鼠去りぬ 貂《てん》ならむ我が冷えわぶる後夜《ごや》にして鼠ひた追ふ音駈けめぐる 壁うらに食はるる鼠声啼けり飽くなき貂《てん》もはたや寒かる 冬夜さり鼠の業《ごふ》も果てけらし貂《てん》の眼《まなこ》も食《じき》に和むか 松風やさわたるらしき灯《ひ》を消してその松の姿いまは見えつつ [#2字下げ]寒夜[#「寒夜」は小見出し] 池水に黝《くろ》き八つ手の葉はひたりなまじひに月夜見えてあるなり うちみはり眼《まなこ》うつろに居る我を月昼のごと照りて闌《ふ》くるか [#3字下げ][#1段階小さな文字]東宝撮影所[#小さな文字終わり] トーキーは夜の寒《かん》にして騎馬隊の蹄の音も撮《と》るにかあらむ [#2字下げ]雪空[#「雪空」は小見出し] めらめらと火の燃えつきし幻覚も障子に消えて雪曇りなり 雪空の暗く閉ぢたる降り出でてことごとが白く楽しく舞ひぬ 我が堪へて瞼《まなぶた》たぎる日暮れ方雪はけはひに降り乱れつつ 一つ来て瞼《まぶた》に煮ゆる雪片《せつぺん》の須臾とどまらず水と滴《た》りにけり 睫毛《まつげ》より涙したたる両眼を映画にて見にきその大写し [#2字下げ]観雪[#「観雪」は小見出し] 枯山《からやま》に雪しらしらと降れりとふ枯山にすらも人目遊ぶを 降る雪に灯《あかり》向けしめその雪のほたほたと出でて飛ぶに胆《きも》冷ゆ [#2字下げ]雪後[#「雪後」は小見出し] 庭に観て眼もひらく今朝のよろこびは雪つもる木々の立体感なり 冬わたる紅腹鷽《べにはらうそ》は雪ぶりの後晴《あとばれ》にして声にこそ来め 瞳人語[#「瞳人語」は中見出し] [#2字下げ]年頭薄明吟[#「年頭薄明吟」は小見出し] 新春《にひはる》と今朝たてまつる豊御酒《とよみき》のとよとよとありてまたたのたのと 父母《ちちはは》に寿詞《よごと》まうさく歳《とし》の旦《あした》仰ぎまみえむ視力早や無し ゑずまひに眼先《まさき》貴《あて》なる杯《さかづき》やとよりと屠蘇の注《つ》がれたるかに 汝兄《なえ》今は屠蘇も召さぬかあはれよと母嘆かすやしづけき我を 弟《おと》どもが酒に吼ゆるを寿詞《よごと》とも元日は聴け日もかたむきぬ [#2字下げ]木魚と明笛[#「木魚と明笛」は小見出し] [#3字下げ][#1段階小さな文字]人より贈られて[#小さな文字終わり] 妻を呼ぶ小《ち》さき木魚は掌《て》に据ゑてうつによろしも足音《あのと》ちかづく 呼ぶとしてたたく木魚も見えぬ外《と》に手元|逸《そ》れつつ畳をうちぬ     § 明笛《みんてき》はひやるろほろろと吹きいでてすべしらぬかなや指を遣《や》るすべ 指《および》触り冬は頼めし明笛の竹紙《ちくし》のつよき張りぞひびらぐ [#2字下げ]春寒[#「春寒」は小見出し] 春早やも蛙鳴きそめ幾夜さか真闇つづきて月ほそく出《で》ぬ へうへらと蟇《ひき》は土より音哭《ねな》きして春なりけりや月夜はつかに [#3字下げ][#1段階小さな文字]世は献金の盛りなるに[#小さな文字終わり] ほそき金《きん》何ぞ秘むやと夜を覚めて妻に訊きゐつをさな蟇の音 夜哭きする食用蛙風にゐて春寒《しゆんかん》なれや咽喉《のみど》つづかず [#3字下げ][#1段階小さな文字]或る絵をもらひて[#小さな文字終わり] 夜は暗し皿なる鰯|冰《こほ》れるが片照る青き脊すぢそろへぬ [#2字下げ]鼠の春[#「鼠の春」は小見出し] [#3字下げ][#1段階小さな文字]冴えかへる[#小さな文字終わり] 蘭の香に寒波押し来《く》る夜の闇や春|酣《たけなは》といふに間《ま》はあり 春蘭の根に置く卵|殻《から》なるを鼠は出でて触れゐるらしき 春蘭の鉢跳びおりる夜の鼠そのひと跳びの尾は冴えかへる [#3字下げ][#1段階小さな文字]春夜寒[#小さな文字終わり] 鼠|出《で》てもこりと居るは畳目のけばをかひろふ夜寒《よさむ》灯《ほ》あかり 承塵《しようぢん》に水月《すゐげつ》のかげのぼるとき鼠は居りき面《つら》を出《い》だして [#3字下げ][#1段階小さな文字]註、承塵は長押[#小さな文字終わり] 電燈のコード咬み切るふてぶてし鼠|彼奴《かやつ》は感ぜぬらしき 温《ぬく》ときは鼠らしきが小走りに体あたりして早や消えしなり 冷えまさる闇に目を瞑《と》ぢ我が居ればおのれ鼠の親なるごとし 闇にゐる鼠思へば立つ鬚に眼のするどかる啼く音引くなり [#3字下げ][#1段階小さな文字]春惜む[#小さな文字終わり] 春惜む我が方丈の闇にしてさうさうと群るる鼠|暫《しば》あり 薄眼にぞ走る鼠の影追ひて何すとならし春も暮るるに 梁《うつばり》や春来てかじる野鼠のおもしろと聴けばなほと居るなり [#3字下げ][#1段階小さな文字]風狂[#小さな文字終わり] 歳時記をかじる鼠はげんげ田の畔《あぜ》をかも来《こ》らすその日がへりを 花さぐる鼠|和上《わじやう》は身ぐるみに濡れてかまさめ春雨な降り [#3字下げ][#1段階小さな文字]朧[#小さな文字終わり] 春朧ろかがむ鼠のをさなきは両肢《もろて》持ちそへ物ふふみ食《は》む 朧月《ろうげつ》の匂ふ面《おもて》を行く刻み定刻九時四十分の時報今|点《う》つ [#3字下げ][#1段階小さな文字]花塵[#小さな文字終わり] 牡丹しろく香を吐く夜々は陰《かげ》のみを鼠跳梁し早や在らずあはれ 花塵《くわぢん》をさまりて幽《かす》けく暑くなるものか梁《うつはり》を走る鼠すら無し [#2字下げ]春山[#「春山」は小見出し] 百千鳥聴くによろしき春山も眺むるにしかずこれの霞を 聴くになほ匂ふ霞か春山のわたりの野鳥羽ぶりしじなり そこらくは萌ゆる端山《はやま》の藪雑木《やぶざふき》春の鳴る瀬のかがよひにけり 盲《し》ひむより見る眼まされり楽しみとただに聴けとふ何のなぐさめ 色に見ずもただに聴けとふ明らなる両眼にして人言ひにけり 聴くものに春はのどけき鑿《のみ》かんな昼の鼠のそことなきこゑ [#2字下げ]春日[#「春日」は小見出し] 鶯に蛙《かはづ》鳴きつぐ庭ありて我が春日《しゆんじつ》は果《はて》なきごとし [#2字下げ]三度、鑑真和上を憶ふ[#「三度、鑑真和上を憶ふ」は小見出し] 盲《し》ひてなほ浄慧《じやうゑ》の人は明らけし面《おも》もちしろく春を寂《さ》びてぞ [#2字下げ]瞳人語[#「瞳人語」は小見出し] [#3字下げ][#1段階小さな文字]聊斎志異の瞳人を思ひあはせて[#小さな文字終わり] のんのんと瞳の中に言ふ聴けば春昼《しゆんちう》にして花か咲きたる 夜にまさる黒き眼鏡の視野にして桜の花はひらきそめにし [#3字下げ][#1段階小さな文字]靖国神社を偲びて、一首[#小さな文字終わり] 映画には桜浮び出《で》揺れゐしが影日向ありて真昼なりにし [#3字下げ][#1段階小さな文字]塑像を置く縁にて[#小さな文字終わり] 風はまだ繁《しじ》しらけ立つ春塵《しゆんぢん》に眼《まなこ》洗はむ朝《あした》とてなし 立ちにけり空《くう》にさまよふあるかなき春の蚊すらも眼は持つらしき 我が塑像ふくらみ黒き瞼《まぶた》に夕柔《ゆふやは》らなる春陽《はるび》かぎろふ [#3字下げ][#1段階小さな文字]短歌新聞百号の祝に[#小さな文字終わり] 百と積むけだし稀なり香《かぐ》の果の影さへや然り歌に敢て積む 人ならば百に垂《なんな》ん翁にて言ひてめでたし新聞を君は [#2字下げ]暗夜行[#「暗夜行」は小見出し] 夜行くはむしろ安けしひと色と見つつ馴れにし闇の眼にして 真闇《まやみ》にはまぎらふ光あらなくに瞼《まなぶた》慧《さと》しにほひのみして 闇いとど春夜《しゆんや》は愛《かな》しこの道のにほふかぎりを聞きて行くがね ガソリン・コールター・材香《きが》・沈丁と感じ来て春|繁《しげ》しもよ暗夜《やみよ》行くなり 春の夜と時計うごけるアトリエは表《おもて》の闇《やみ》も光《かげ》さすごとし 土移る桜の花にありけらし夜風うごきて将たしづまりぬ 春しぐれ夜を行く人の間隔はけだしけはひに濡れて知りつつ 闇ながら戦盲《せんまう》い寝《ぬ》る家《や》の棟は蛙鳴く田をのぼりきりて見ゆ 夜目にして黒きはふかき藤浪のしだれたりけり隣家《りんか》なるらし 物の和《なぎ》沈むを聴けば草堀の春|闌《た》けにつつ雨夜《あまよ》ひさしき [#2字下げ]塙保己一を偲びて、一首[#「塙保己一を偲びて、一首」は小見出し] 燈《ひ》や消えし眼のあきらけきあはれとぞ沈痛に人の言ひて笑ひき [#2字下げ]四度、鑑真和上を憶ふ[#「四度、鑑真和上を憶ふ」は小見出し] [#3字下げ][#1段階小さな文字]若葉しておん眼の雫ぬぐはばや  芭蕉[#小さな文字終わり] 水楢の柔《やは》き嫩葉《わかば》はみ眼にして花よりもなほや白う匂はむ [#2字下げ]藤と牡丹[#「藤と牡丹」は小見出し]    一 豊けくや匂ふ藤浪房垂れてひと鉢の空をその色とせり 莟《ふふ》みける短かかりしか臈たけて房ことごとに長き藤浪 糸づくり光る鱵魚《さより》はすずしくて早や夏近し鉢の藤浪 触りよきは空《くう》にしだるる藤浪の下重《したおも》りつつとどめたる房 牡丹《ぼうたん》の四方《よも》の明《あか》りはしづけくて色無きがごとしこもる蚊のこゑ 白牡丹《はくぼたん》光|発《た》ちつつ和《なぎ》久し自界荘厳の際《きは》にあらむか 陰《かげ》にして紫紺の香《にほ》ひすさまじき藤浪にあれや夜《よ》の灯《ひ》闌《た》けたる 藤浪は重《おも》りしだるる夜のしじま世界動乱の気先《きさき》観むとす    二 [#3字下げ][#1段階小さな文字]隆太郎富山高校に入りてより早や四十日にもなりぬ[#小さな文字終わり] 鉢の藤かかへ危ふきその母と畳にぞ下《お》ろす房ゆらゆらに ひと鉢を藤は老木《おいき》の片寄りに房しだれたり空《むな》しき椅子に 藤といへば早やも夏場所|夕《ゆふ》こめて鉄傘《てつさん》の揺《ゆら》ぎラヂオとよもす 我が眼には黝《くろ》きのみなる藤浪の散りかつ散りぬけ長き房を 鉢うづむ藤の散花《ちりばな》干《ひ》からびて手に触るるほどは音に立つめり [#2字下げ]惜春賦[#「惜春賦」は小見出し] 花ひとつ片枝《かたえ》に留《と》むる玉蘭《はくれん》の我が視野にして煙霞はてなし 裏端山《うらはやま》匂ふ霞のおほよそは聴きつつ居らむ聴くに幽《かす》けき 春山はえごの楉《しもと》のとわたりを闌《ふ》けつつかあらしきよろろ鶯 閑《しづ》けさは[#「閑けさは」は底本では「閉けさは」]春の蚊をすら羽ぶき澄む浅間の鷹のごとも聴き居つ 春すでに闌《ふ》けてほけゆく紫雲英田《げんげだ》は我が木戸過ぎて打越橋まで 下空に沈みかがやく花見えて我が夕闇は迫れるごとし 表《おもて》には月夜あかるき我が山を春のしぐれか背戸わたりゆく 黒檜[#「黒檜」は中見出し] [#2字下げ]孟夏余情[#「孟夏余情」は小見出し] 黒き檜《ひ》の沈静にして現《うつ》しけき、花をさまりて後《のち》にこそ観め か黝葉《ぐろば》にしづみて匂ふ夏霞若かる我は見つつ観ざりき 我が眼はや今はたとへば食甚《しよくじん》に秒はつかなる月のごときか 視ると聴くとそのいづれとふいよをかし視て而も聴くに豈まさらめや 我ならぬ言ひたやすかり縦《よ》しや眼は耳に聴けちふ心に観よちふ 我が暗き人にここだくきこゆるは勢《きほ》ふに似たり言ひて何せむ 馴れにけり暗き視界もよのつねはかくあるごとく見つつ安らに [#2字下げ][#小見出し]春蝉 [#1段階小さな文字]五月十六日[#小さな文字終わり][#小見出し終わり] 春蝉の早や鳴きそむる我が山を向ひにもこの日じじと声立つ 激しかる我が性《さが》をしも言《こと》撓《た》めて堪へ堪へて居れ蝉の鳴きいづ [#2字下げ]青蛙呼ぶ[#「青蛙呼ぶ」は小見出し] 若葉森に雨呼ぶ蛙湯に聴けば煙筒を揺りて声湧くごとし [#2字下げ]郭公[#「郭公」は小見出し] [#3字下げ][#1段階小さな文字]野鳥レコード[#小さな文字終わり] 郭公の録音聴くと楢わか葉風あざやけき庭に眼は留む 眼もひらく初夏の清《すが》しさ我《われ》聴けりかつこうかつこうの光の録音 [#2字下げ]大暑[#「大暑」は小見出し] 深かりし霧霽れゆきて谷地田《やちだ》には月照れりとふ明日《あす》から暑し 靄ごもり大暑《たいしよ》の照りのしづけきは寒むかるがごとし蝶ひらら居る 白栄《しろはえ》の靄たちこむる真昼にぞげんのしようこはよく煮立つらし 鳥猫大暑の照りに耳立てて蚊を追ふ見れば体《たい》かろく跳《と》ぶ [#2字下げ]茅蜩[#「茅蜩」は小見出し] 茅蜩《ひぐらし》は合歓《ねむ》の夕花咲きそむる山方《やまかた》にして気色《けしき》添ひつつ 雨とふる朝ひぐらしの声きけば常あるに似たり繁《しげ》き杉山 [#2字下げ]東宝映画撮影所俯瞰[#「東宝映画撮影所俯瞰」は小見出し] 夏山に波の音荒く起りしがあはれあはれトーキーの模擬音にして [#3字下げ][#1段階小さな文字]すべて模造花らし[#小さな文字終わり] 夏|撮《うつ》す林檎の花は光れども現《うつつ》ならねば早やあはれなり 夜の零時火星赤々と迫り来て模擬市たちまちにネオン消《け》したり 街建てて夜々華やぎし今朝聴けばぐわらぐわらとすでに壊《くづ》しつつあり [#2字下げ]所懐二三[#「所懐二三」は小見出し] [#3字下げ][#1段階小さな文字]憤ることありて[#小さな文字終わり] 反高《そりだか》の青かまきりを打つべくは一撃《いちげき》にしてその斧ともに 蟷螂《かまきり》のはらわた頼めすぢ黒き針金虫の生くらくあはれ [#3字下げ][#1段階小さな文字]樹相に寄せて[#小さな文字終わり] 大き木の鬱然たるは然《しか》ありてその雲吐けり年を経《へ》にける [#2字下げ]多磨運動会[#「多磨運動会」は小見出し] [#3字下げ][#1段階小さな文字]短歌マラソンのともがらを、我家の方へ出しやるとて[#小さな文字終わり] 日の透《とほ》り影と乱るる秋ざくらよく見て来むぞ庭つきぬけて 庭なべて落葉のみなるありやうをこの凪の陽に思ひみるべし 夕光《ゆふかげ》の諸葉《もろは》かがよふ黄の銀杏わが腰掛は庭に置きたる [#3字下げ][#1段階小さな文字]村童、あまりに現実的なる[#小さな文字終わり] 眼にうとく我がつきそれし風船は童《わらべ》が地よりさらひて逃げぬ 鉛筆の一二本ゆゑに我れがちと子らひた競ふあの駈けざまや [#2字下げ]額髪[#「額髪」は小見出し] [#3字下げ][#1段階小さな文字]井上理吉夫人弔歌一首[#小さな文字終わり] 額髪《ぬかがみ》の幼なかりにし俤は五十歳《いそとせ》過ぎてその亡きあとも [#2字下げ]冬の庭[#「冬の庭」は小見出し] 玉蘭《はくれん》は黄葉《もみぢ》乾《から》びし落ちはてて庭のはひりの音ひびきけり 夕かげはここだをぐらき我が眼にも楓《かへで》の紅葉|火照《ほでり》するなり 日おもてに黄葉《もみぢ》はららく声するは日陰《ひかげ》の雑木風か吹き越す 背戸わきを我が蹴つまづくバケツには落葉かきためあかつきの霜 [#2字下げ]心の花五百号をことほぎて[#「心の花五百号をことほぎて」は小見出し] おのがじし華は咲かせてゆたかなるみ園のあるじ今よき老《おい》に 我が園と眺め足らはす竹柏《なぎ》の園牡丹の花も咲きて明るき 五百《いほ》あまり華の慶《よろこび》積《つ》みましてなほかがやかしみ園は久に [#2字下げ]篁子[#「篁子」は小見出し] 女《め》の童《わらは》篁子《くわうこ》が削る鉛筆に朱《あか》き粉の飛び短日《たんじつ》いまは 灯《ひ》のもとに篁子がすなる英習字菊さし寄せてその父われは 髪揺りて父に笑《ゑ》み寄る夜の寝ぎは手のつめたきは少女ゆゑにぞ [#2字下げ]榛名湯沢行[#「榛名湯沢行」は小見出し] [#3字下げ][#1段階小さな文字]榛名[#小さな文字終わり] 巓《いたゞき》の裏行く低き冬の雲|榛名《はるな》の湖《うみ》は山のうへの湖《うみ》 上つ毛榛名のみ湖《うみ》雲のうへのいただきにして冬の陽|映《うつ》す 雲過ぎて陽のあたりたる湖面には漁舟《れふぶね》ひとつ見ゆとふかなや 榛名富士|明《あか》く日あたり暖《ぬく》しとふ鬢櫛山《びんぐしやま》は早や白しとふ はろばろに神楽きこゆる雲の上|埴山姫《はにやまひめ》や巌《いは》の秀《ほ》に坐《ま》す 日すぢ降る雲こそ透けれ冬山榛名の宮はいや石高に 榛名の宮冬日薄きに妻と我が鶯笛を吹きつつ下る この下りいまだ日のある山路とて残んの黄葉《もみぢ》目にとまりつつ [#3字下げ][#1段階小さな文字]上越線を湯沢へ、水上より[#小さな文字終わり] 水上《みなかみ》は屋群《やむら》片寄る高岸に瀬の音《と》ぞひびく冬陽《ふゆび》さしつつ こごしかる湯檜曾《ゆびそ》の村や片谿《かただに》と日ざしたのめて冬はありつつ 岩ひとつ白かりしかなや冬谿《ふゆだに》水上の瀬は澄みにしかなや 短日《たんじつ》の分水嶺に我が立てば二方《ふたかた》へくだる水の瀬早し 上つ毛利根の水上我が越えてすでにぞくだる越《こし》の山がは 北の峡《かひ》雲ひたひたと押しかぶし降雪《かうせつ》ちかし紅葉も過ぎぬ 上つ毛は明《あか》き黄葉《もみぢ》を越《こし》へ来てほとほと過ぎぬのこれる見れば ふりさけて空に寒けき裾山を奥なる峯は隠《こも》りて見えず [#3字下げ][#1段階小さな文字]湯沢の宿[#小さな文字終わり] 山国はすでに雪待つ外《そと》がまへ簾垂りたり戸ごと鎖《さ》しつつ 冬の宿《しゆく》屋内《やぬち》暗きに人居りて木蓼《またたび》食《は》むかひそと木蓼《またたび》 父《とと》が曳く柴積《しばつ》み車《ぐるま》子が乗りてその頬かぶり寒がり行きぬ [#3字下げ][#1段階小さな文字]鯉市[#小さな文字終わり] 鯉市ぞ本城寺前に立てりとふ早や短日《たんじつ》を競《せ》りてあらむか 門川は黒きのみなる鯉生きて初冬の真水《まみづ》ほそりたりけり 雪降らむ雲は低きに荒々し山袴《さんぱく》づれが真鯉《まごひ》競《せ》りあぐ 山びとが鯉を愛《め》づるは常無くて徹り澄みたる姿観にけり 白鱗《びやくりん》の三色《さんけ》の鯉の清《さや》けきは氷中花とも澄みて真水《まみづ》に 観るものとはぐくむ鯉は常|愛《め》でてなほ思ふから色に出づちふ 水に澄む端厳の相これをかも豊けしといはむ鯉ぞ老いたる 生くらくは鯉市にしもしかもなほ青淵の鎮《しづ》み鯉たもちたり 黒の鯉三十六鱗みな張りて息ととのへれ寒《かん》きはまらむ 山国は冬のものなる鯉市も日の目みじかく数よまずけり 短日《たんじつ》の市の盥や手づかみと鯉は投げられ少くなりぬ 市はてて気《け》どほきごとし鯉あらぬせせらぎに菊のうつれる見れば み湯のしりとろむお池の湯ごもりに息づきてあるか鯉は老《ふ》けつつ [#地付き][#1段階小さな文字](高半旅館にて)[#小さな文字終わり] [#3字下げ][#1段階小さな文字]冬渓[#小さな文字終わり] 風ひびく冬山岸にはららくは白樺の清き黄葉《もみぢ》なりけり 冬山のつまさきあがり早や凍《し》みて日光《ひかげ》はじかぬここだ石ころ 冬渓《ふゆだに》にこもる椙森《すぎもり》夕日さしかかる鎮《しづ》みの雪を待つなり 山柿のここだ朱《あか》かる豆柿も正眼《まさめ》仰ぎて色によむなし 手にひろふものの落葉はつくづくと眼《ま》さきすがめて見るべかるらし 柴積《しばづみ》は莚かけ置く霜ながらまだあをあをし穭田《ひつぢだ》の湯田 [#3字下げ][#1段階小さな文字]月夜[#小さな文字終わり] 天の月川の瀬照らす更闌《かうた》けてここにしぞ思ふ四方の鎮《しづ》もり 潭水《たんすゐ》の自力発電の音澄みて飯士《いひじ》の山に月照りわたる [#2字下げ]雪祭四章[#「雪祭四章」は小見出し] [#3字下げ][#1段階小さな文字]穂積忠が処女歌集「雪祭」に寄せて[#小さな文字終わり] [#3字下げ][#1段階小さな文字]雪祭は睦月の神事[#小さな文字終わり] 雪祭は睦月《むつき》の神事《かむごと》、その雪は田の面の鎮《しづ》め、雪こそは豊《とよ》の年の、穂に穂積む稔《みのり》のしるし、その雪を神に祈ると、その雪に神と遊ぶと、山峡や小峡《をがひ》の子らが、あな幽《かそ》か、鬼の子鬼が、雪祭|四方《よも》の鎮めと、幣《ぬさ》立てて、小松植ゑてな、あな清《さや》けおもしろ、雪よ雪こんこよ、ハレヤとう、ヤソレたたらと、夜すがら遊ぶ。 [#3字下げ][#1段階小さな文字]反歌[#小さな文字終わり] 天竜の水上《みなかみ》清み雪祭る族《うから》が鬼はよに遊びける [#3字下げ][#1段階小さな文字]「雪祭」幽けきかも[#小さな文字終わり] 「雪祭」幽《かそ》けきかも、忠《きよし》はうれしきかも。その窓に富士を見さけて、狩野《かの》の瀬に月を仰ぎて、豊かなる心ばえやなほも、ほのぼのと朝夜あらし。ちちのみの父のみ身、ははそばの母のみ魂《たま》、老いませば、常無けばあはれ。風花《かざばな》や天城《あまぎ》の杉を、うらら日を、何とはなくて吹きちらふその影にかも、心は寄する。 [#3字下げ][#1段階小さな文字]反歌[#小さな文字終わり] うら歎く父母の子は風花《かざばな》の消《け》ぬかに散らふ和《な》ぎにかも行く [#3字下げ][#1段階小さな文字]おもしろの雪祭や[#小さな文字終わり] おもしろの雪祭や。風花《かざばな》の空に顕《た》ちて、日和《ひより》うららよとの。遠山は霜月祭、新野《にひの》にては睦月《むつき》、西浦《にしうれ》は田楽《でんがく》、北設楽《きたしだら》は花祭とよの。さてもめでたや、雪祭のとりどり。国は信濃よ三河遠江、水は天竜の流、水上《みなかみ》よ、下り下りに春うらかすむ。 [#3字下げ][#1段階小さな文字]反歌[#小さな文字終わり] 春|天城《あまぎ》雪の鎮めと伊豆びとは何をもて遊ぶ歌をもて遊ぶ [#3字下げ][#1段階小さな文字]神業ぞ雪祭[#小さな文字終わり] 神業《かむわざ》ぞ雪祭、鬼の子の出でて遊ぶは、ひたぶるぞ雪の上の田楽《でんがく》、鎮《しづ》みこそ四方《よも》に響くに、まことのみぞ神と遊ぶに、おもしろとこれをや聴く、をかしとよそをや笑《ゑ》ららぐ。な巧みそ歌に遊ぶと、早や選りそ言《こと》のをかしと。心にぞはじめて満ちて、匂ひ出《づ》るその外《ほか》ならし。遊びつつ将《は》たや忘れよ、そのいのち命《いのち》とをせよ、穂積《ほづみ》の忠《きよし》。 [#3字下げ][#1段階小さな文字]反歌[#小さな文字終わり] 神遊び忘るるきはよ鬼の子がひたぶるに笑《ゑ》らぐ命とをあれ [#2字下げ]利久居士[#「利久居士」は小見出し] [#ここから1段階小さな文字] [#ここから3字下げ] 三百五十年遠忌によせて、その墓所、京の聚光院へ贈れる懐紙の歌一首 [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 茶をわびと和敬《わきよう》きよらに常ありてそのおのづから坐《すわ》りたまひき [#2字下げ]春寒[#「春寒」は小見出し] [#3字下げ][#1段階小さな文字]池辺[#小さな文字終わり] 池の面に匂へる影を雲ぞとは知らで過ぎしか今は見さだむ 池水に映る繊雲《ほそぐも》あふぎみて霞むのみなるあはれ白雲 十方《じつぱう》射光《しやくわう》霞むのみなる浮雲のまうへ照りつつ春なるかなや [#3字下げ][#1段階小さな文字]門前新月[#小さな文字終わり] 眼にとめて月のをさなさいふこゑはまかる人らし門《かど》の夜寒《よさむ》に 月暦《つきごよみ》睦月《むつき》二日《ふつか》の新月《わかづき》の眉をさなかる西に見ゆとふ [#3字下げ][#1段階小さな文字]白辛夷[#小さな文字終わり] [#5字下げ][#1段階小さな文字]春邦画伯の銀屏によせて[#小さな文字終わり] 白辛夷《しろこぶし》花さく枝にとまりたる頬白見れば春冴えにけり [#3字下げ][#1段階小さな文字]春雷[#小さな文字終わり] 春雷《しゆんらい》の行《ゆき》かそけかる夜なりけり寒餅《かんもち》の水の雫切らしむ [#2字下げ]尾長[#「尾長」は小見出し] うち霞む三階松《さんがいまつ》の空にして尾長は喚《よ》ぶかその尾ひらめく 春山の松に群れ来《く》る尾の長き空いろの鳥といふがめでたし [#2字下げ]玉蘭唱[#「玉蘭唱」は小見出し] ひらきかけて黄にぞこごれる玉蘭《はくれん》は時ならぬ寒波《かんぱ》昨夜《よべ》かいたりし その母の子らかきおこす声きけば白木蓮《はくれん》の咲きて夜明《よあけ》ちかきか 玉蘭《はくれん》の花咲きてより来《く》る鳥の尾長・鷽《うそ》・鶲《ひたき》・雀みなあはれ 玉蘭《はくれん》の下照る土に歩めるは野の小綬鶏か長閑《のど》になり来し [#2字下げ]庭の春日[#「庭の春日」は小見出し] 春日照る庭の枯芝しづかやとただ白くもぞ観てを居りける 蝶の飛ぶ春なるかなと見てをるを小鳥ぞといふに微笑《ほほゑみ》尽きず 春日照る庭の芝生を鶏《とり》じもの我は掻きをり白《しら》けたる芝 冬旱《ふゆひでり》長かるあひだ乾《から》び来し雑《ざふ》の落葉もはららき失せぬ うちしらけ色無き芝生下萌えず日は春にして眼霧《まぎ》らひ泣かゆ うち見には枯山《からやま》芝生春日照りねもごろ聞けば濃すみれ咲きぬ 吾が犬の呆《ほ》けてあくなきい寝ざまにうらら春日の照りこそなごめ 春といへば菓子などめして犬じもの我の坐《ま》しけり渇くものから 口出づる「おばこ」のどかや用のない煙草売《たばこうり》など春はふれて来《く》る 我がこもり春は匂へば照り美《ぐは》し物のあいろよ強ひてしも見ず [#2字下げ]転居近づく[#「転居近づく」は小見出し] 成城十九番地月まどかなる春夕《しゆんせき》の暮れつつはありて明《あか》りつつあり 花ひとつ枝にとどめぬ玉蘭《はくれん》の夏むかふなり我も移らむ [#改丁] [#2字下げ]下巻[#「下巻」は大見出し] 日本古武道[#「日本古武道」は中見出し] [#ここから1段階小さな文字] [#ここから3字下げ] [#ここから34字詰め] 昭和十三年九月十五日独逸青少年使節団一行を迎へて、日本古武道型大会開かる、会場神田国民体育館、主催は日本文化聯盟なり、我視力乏しけれども行きて参観す [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] [#2字下げ]武神[#「武神」は小見出し] 建御雷《たけみかづち》響きわたらし夏雲やすでに向伏《むかふ》す下《しも》つ国原 大船の香取の海に潮《うしほ》とよみ弓弭《ゆはず》輝《て》りわたらす経津主《ふつぬし》の神 ひもろぎ香取の山は鷺|多《さは》に梢とよめり清《さや》の明りを 荒み魂しかも和《やは》すと明らけし遠《とほ》つ祖先《みおや》は討ちに討たしき [#2字下げ]神前[#「神前」は小見出し] 神とある弓矢のまことうやうやしひとたび立ちてたぢろがめやも 剣執り闘ふかぎり斎庭《ゆには》なり塵だにとめじ朝|潔《きよ》めつつ [#2字下げ]武田流陣貝[#「武田流陣貝」は小見出し] 陣貝は裃正し高々と両手《もろて》持ちにぞ吹きあげにけれ 陣貝の法螺貝聴けば武者押しに今ぞ押しゆく昧爽《あけぐれ》の空 音《おと》に止《や》む陣の法螺貝緋ぶさ垂りしづけかるかも吹きをさめける [#2字下げ]立身流居合[#「立身流居合」は小見出し] 真竹《またけ》を立身《たちみ》の居合抜く手見せずすぱりずんとぞ切りはなちける 見たりけり斎庭《ゆには》に立つる青竹の試し切りこそうべな一と太刀 [#2字下げ]日置流弓術[#「日置流弓術」は小見出し] [#3字下げ][#1段階小さな文字]その一[#小さな文字終わり] 弓構《ゆがまへ》や差矢前型《さしやまへがた》いざとこそ片折り敷きぬ物見正しく 矢を番《つが》へ物見安らぐ跼《つくばひ》のよに落居《おちゐ》たる姿よく見む 物見しばし弣《ゆづか》しづもる際《きは》ありてきりり引きしぼる張りのよろしさ 姿なり構《かまへ》正しく張る弓の矢と一つなる心澄みつつ 引く弓はいよよ張り詰め一筋や眼先《まさき》の鏃《やじり》弣《ゆづか》まで引く 満を持してまさに射はなすたまゆらは幽《かす》けかるらし弽《ゆがけ》ふるへつ 詰《つめ》いよよ張りて堪へたる右手《めて》の肱《ひぢ》矢頃はよろしひようとはなしつ 射てはなし見入る我かのしばらくは楽しきがごとしいまだ名残《なごり》に 矢をはなしくるりと返る弓返《ゆがへ》りの弣《ゆづか》よろしも君が押手《おしで》に 的はいざ神明《こころあき》らに引く弓の矢は音たてつ徹《とほ》りたらしも [#3字下げ][#1段階小さな文字]その二[#小さな文字終わり] 矢継ぎ早に管矢《くだや》継《つ》ぎ射るしばらくは矢筈あてゆくひまもなく見ゆ つぎつぎと矢継早にぞ引く弓の弦《ゆづる》は鳴りぬしづけきまでに 甲矢《はや》乙矢《おとや》射継ぎはなちてつく息の事なかりけり弓はをさめつ [#2字下げ]剣道諸流[#「剣道諸流」は小見出し] 相むかひ声無き太刀の鋒鋩《きつさき》はむしろ凄まじき気合なるなり 気先《きさき》には撃つと見せつつまじろがず張り満つる力《ちから》極みなむとす 青眼《せいがん》にひたとつけたるしづかなる時たちにけりひらめく一太刀 真向《まつかう》より打ちおろす太刀雷撃のこの太刀風は息もつかせず 一太刀にひた打ちおろす、響あり何を思《も》はむぞ小手先のわざ 体あたりかららと絡《から》む火のごとき気合|鍔《つば》にして敢て押しにけり 白刃《しらは》取《とり》極む捨身《すてみ》の入り早し飛鳥の如くその手抑へぬ [#2字下げ]柔道諸流[#「柔道諸流」は小見出し] 男童《をわらべ》ら構《かまへ》凛々しく肱立ててゐずまふ見れば張り切るごとし 母はいざ国の童男《をぐな》が相搏つと対《むか》ひ構へぬ小さき柔《やは》ら手 相むかふ今か搏《うた》んず面《つら》がまへ丹田にして気合満ちたる えやと掛けおうと応《こた》ふる張り満てる童《わらべ》が気合相搏つかすでに 身をあげてすべて相搏つひたごころ童《わらはべ》なれや響き合ひにつつ 男童《をわらべ》は稚なかるとも相搏つとひとたび対《むか》ひ面《おもて》ふらぬかも 手は疾《はや》し礼《ゐや》してぞ退《の》くすなはちをじりりじりりと寄り身にはゆく 早技《はやわざ》とすくふただちのこのきまり大外刈《おほそとがり》の型のよろしさ 師の道におのれ鍛ふとたじろがず力尽くしてその型学ぶ [#2字下げ]天道流薙刀[#「天道流薙刀」は小見出し] 薙刀の一手《ひとて》ひらめきいつくしき真夏なるなりしづもる塵に しやつ小女童《こめろ》小太刀するどし老刀自の薙刀ぐるまたとうちとめぬ [#2字下げ]根岸流手裏剣[#「根岸流手裏剣」は小見出し] 十《とを》の指|諸《もろ》に手挟《たばさ》む手裏剣のつぎつぎ疾《はや》しうつ手は見えず 手裏の技《わざ》神にもかもや的の戸にうちし小柄は我《われ》と礼《ゐや》し抜く [#2字下げ]夢想流杖術[#「夢想流杖術」は小見出し] 天地《あめつち》に構ふる杖《ぢやう》の音無きはただ水のごとし無念無想の型 杖《ぢやう》の手は眼にもとまらず引くと見せ打つと返すと十方《じつぱう》無礙《むげ》なり [#2字下げ]武道[#「武道」は小見出し] 青雲《おをぐも》に直《ただ》にひびかふ剣《つるぎ》太刀《たち》古《いにし》へありきいまもこの道 戦時雑唱[#「戦時雑唱」は中見出し] [#2字下げ]鋒鋩[#「鋒鋩」は小見出し] [#ここから1段階小さな文字] [#ここから3字下げ] 靖光は陸軍省贈の将官刀なり。征戦一ヶ年、而も我眼を病みて今為す無し [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 晴《はれ》けふを暗きかもやとうちなげきひたと瞻《も》り居りわが太刀|靖光《やすみつ》 父の子はつくづくと見よ我が太刀と鞘《さや》はらふ太刀に曇りひとつ無し 一方《ひとかた》に力あつむる我が眼先《まさき》鋒鋩《ほうばう》の蒼み光|発《さ》し見ゆ [#2字下げ]哀歌[#「哀歌」は小見出し] ひたひたと攀ぢてうばへる塁《とりで》にて何を叫びしつはもの彼ら つはものはあへぐいまはもをたけびてこゑあげにけむ天皇陛下万歳 先き駆くとただに勢《いきほ》ふ軍の犬ひとたび吼えてかへらざりけり 伝書鳩荒野の空に行き消えてたより無しとふその鳩泣かゆ 斃れ伏す軍馬あはれと我が水のひとしづくつけて死にし兵はや [#2字下げ]この感激を[#「この感激を」は小見出し] [#ここから1段階小さな文字] [#ここから3字下げ] [#ここから34字詰め] 昭和十三年九月廿六日、大日本聯合青年団第十四回大会に際して、秩父宮殿下には会場日本青年館に台臨あらせられ、畏くも令旨を賜ふ。一同感激措く能はず、我また席末を忝うすれども、眼疾の篤きをもつて幽かにただ拝し奉るのみ。この日、我が新作大日本青年団々歌初めて合唱さる [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 澄みわたりいよよ静けき時今を宮《みや》成らすらしみ気配《けはひ》聴かゆ 金屏の映えて畏き真正面《まおもて》に宮《みや》おはすらしあたりしづけき 秩父嶺《ちちぶね》に神立《かんだ》ちわたる朝の雲み声いさぎよし若き直《ぢき》の宮《みや》 朗かと国の若らに下《くだ》したぶ力雄々しきみ声なるはや 聞えあげ応《こた》へまつれる人|誰《たれ》ぞ涙せきあへずその声|歔欷《さぐ》る みそなはせ天《そら》もとよめとけふ今ぞ声揺りあがる大日本青年団の歌 [#2字下げ]老兵[#「老兵」は小見出し] [#3字下げ][#1段階小さな文字]その一 応召[#小さな文字終わり] [#ここから1段階小さな文字] [#ここから3字下げ] 昭和十三年五月、応召兵我家に宿る。その中にひとりの老兵ありき [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 老いし兵|笑《わらひ》落しつかきかぞへ一《ひ》二《ふ》三《み》四《よ》五《い》六《む》七《な》八《や》九人《ここなたり》の子 召されけり老いし兵《つはもの》若やぐと面《おもて》もふらね多きかも子ら 小童《がき》らかよ末は名すらも忘れつと兵|後《あと》言はず将《は》たや忘れし 老いし兵強き日差に歩を張れりむしろ叫びて駈けたかるべし 点呼なり若葉しづもる午《ひる》行くと兵は照る陽の地に灼《や》くる踏む 死ぬべくぞ兵は戦へかりそめと病みてな還り草も灼くるに 手もすまに養《か》ふ蚕《こ》かなしびまた書かず兵《つはもの》が妻や九人《ここなたり》の母や 立つとして今は安きか兵彼ら生死《いきしに》の外《ほか》に遊べるごとし 壺口の防毒マスク管《くだ》長し若葉光るにをどり出《で》て来る 蒸しむしと夜眼《よめ》に撲《う》ち来る土ほこりトラックとどろき兵|発《た》ちはじむ [#3字下げ][#1段階小さな文字]その二 その家[#小さな文字終わり] [#ここから1段階小さな文字] [#ここから3字下げ] [#ここから34字詰め] 初夏、我家に宿りし兵士の一人今既に中支に奮戦しつつあり、我等とその妻子との消息絶ゆることなし [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 兵の妻|九人《ここなたり》とふ子の母のまた細るらし家貧しきに 兵の家《いへ》事《こと》に嘆《かこ》たず貧しくも国を頼《たの》めて養《か》ふ蚕《こ》あげにき 山と言へば子ら九人《ここなたり》母のみにかつかつ暮らす冬日《ふゆび》おもほゆ 兵の家《いへ》雑木端山《ざふきはやま》の後空《あとぞら》も朝寒むからむ子らの騒《さわ》ぎて 前線に今ぞ発《た》つとふ文ありて生死《しやうし》もわかね戦《たたかひ》勝ちぬ 秋ざくら花みだれゆく庭にして何くれとなく干す日はつづく 霜夜《しもよ》着る幼《をさな》な小衾《をぶすま》継《つ》ぎあてて仕立て送らな内《うち》のさがりを 小ぎれもの掻集《かきつ》め送る菰巻に古綿|畳《たた》ねキャラメル九《ここの》つ [#2字下げ]戦影[#「戦影」は小見出し] [#3字下げ][#1段階小さな文字]戦場の眼[#小さな文字終わり] じりじりと匍匐しつつも寄り進む兵をぞ思ふその眼力《まなぢから》 ひたおもて戦車にあるはまじろがずその眼射たれけり両《ふた》つのその眼 銃《つつ》向けて壕《がう》に押し並《な》む鉄兜眼には堪ふるか待つある時を 動ぜぬはいよよ見据うと塹《ざん》にして未だは射たず敵引き寄せぬ [#3字下げ][#1段階小さな文字]白昼に思ふ[#小さな文字終わり] 日のさかり眼《まなこ》射たれて聴きにける兵の命の四方《よも》のしづもり [#3字下げ][#1段階小さな文字]夜戦[#小さな文字終わり] 夜戦《よいくさ》は月をこもれば黍の根に鳴き澄む虫のその翅《は》すら見む 眼先《まなさき》に友の屍《しかばね》凍《こほ》れるを月夜《つくよ》堪へつつ七夜《ななよ》経しとふ [#3字下げ][#1段階小さな文字]廃馬[#小さな文字終わり] ましぐらに進み行きける軍《ぐん》のあと馬|縡切《ことき》れぬ草は喰みつつ 砲火絶え今はあやなき夜の沼に馬沈まんずまた嘶きて [#2字下げ]盲兵春日[#「盲兵春日」は小見出し] ひと棟《むね》は盲目《めしひ》のみなる兵にして真昼|明《あか》きに坐りてありしと もの言はず光る戸口へ面《おも》向けて兵はありきと盲目《めしひ》なりしと 面《つら》あげし兵の一人はそれぞとふ眼も無かりきと見て来て言ひぬ 戦盲兵《せんまうへい》見て来しといふ人見れば眼はあきらけく頼むあるらし [#2字下げ]戦聾[#「戦聾」は小見出し] 面《かほ》笑ひ照る日に群るる兵見れば呆《ほ》けたるがごとし耳|聾《し》ひにけり 夕河鹿また聴かざらし戦聾《せんろう》の幾人《いくたり》の兵青葉見てあり 空は見て答ふるなきは音絶えし兵の起居《たちゐ》の性《さが》とやなりにし 爆撃音今は玄《はる》けくありぬらし聾兵は碁に余念無しとぞ [#2字下げ]弔電二首[#「弔電二首」は小見出し] [#3字下げ][#1段階小さな文字]手嶋多賀美君の英霊に捧ぐ[#小さな文字終わり] つはものはかくしあるべし先行《さきゆ》くと面《おもて》もふらず戦ひ死にぬ ちちははは国に捧ぐとひとり子《ご》の愛児《まなご》先立《さきだ》たし老いつつ言はず [#2字下げ]若鷹[#「若鷹」は小見出し] [#ここから1段階小さな文字] [#ここから3字下げ] [#ここから34字詰め] 我が一族、陸軍航空兵少佐(当時大尉)鶴田静三君、昭和十三年初夏、南昌空中に於て散華す 九月十一日、郷里柳河にて葬儀盛大に行はる [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] 我が族《うから》すでに一人はいさぎよしくわうくわうと空に散りつつ消えぬ 夏空を翼《つばさ》はららかし錐揉むと激し若鷹|眼《まなこ》見据ゑき 誉とぞ世人《よひと》讃へむ我《わ》も然りその老いし父も厳《いつ》かしくあらむ 電送歌|口授《くじゆ》し勢《きほ》ひし今出でて秋草の中にうづくまりぬる 故郷《ふるさと》や今日《けふ》し響《とよ》まむ秋草の闌《た》けて閑《しづ》けき[#「閑けき」は底本では「閉けき」]かかる日差を [#2字下げ]長江夜話[#「長江夜話」は小見出し] 見る見る黝《くろ》き蝗の大群《たいぐん》の空おほひ来《く》る恐れを言ひぬ 長江の大き出水は見るさへや空をのみ映《うつ》し白き積雲《つみぐも》 [#3字下げ][#1段階小さな文字]或る船員[#小さな文字終わり] 揚子江遡江しつつも夜ふけには耳に入り来《く》と後《うしろ》引く波 下航する夜《よ》のおそろしさ言ひにけり兵揚げて来て後《のち》のむなしさ [#2字下げ]新秋を待つ[#「新秋を待つ」は小見出し] あますなき戦車爆撃を軍言ひて虱つぶしに撃ちに撃ちにけり 哈爾哈《ハルハ》河|朝《あした》越え来てほろびたる蘇蒙の兵に白夜《はくや》け長し 戦車|来《く》る音のとどろを地に伏して待つま澄みつつ神《しん》はあるらむ 大草原《おほくさはら》沙塵捲きつつ響き来《こ》し百の戦車の骸《がい》燃えにけり 編隊機けだし進むは山形《やまがた》と列並《つらな》む雁の一機|先《さき》かゆく ノモンハン火を噴《ふ》き戦ふ国境の上空《じやうくう》にして夏もをはるか ホロンバイル夕湖岸《ゆふうなぎし》にうつ砲の煙噴きつぎて未《まだ》し暑からむ 掃射戦のすさまじかりし後《あと》冷《ひ》えてパン焼き車|香《にほひ》立てつと 国境線敢て守りてしづかなる月夜にしあるか笛を吹きつつ 口をつくハロンアルシャンといふ語韻《ひびき》新秋にして我も癒えなむ [#2字下げ]波濤の歌人に寄せて[#「波濤の歌人に寄せて」は小見出し] ながむらくしづけきがごとしまともにぞ敢てしぬぎて大き荒波 [#2字下げ]海洋図絵[#「海洋図絵」は小見出し] [#3字下げ][#1段階小さな文字]辰の歳に寄せて、二首[#小さな文字終わり] 竜巻の幾はしら立つ冥《くら》き海リーダアの画《ゑ》は影繁かりき 海を雲へ竜巻き騰《あが》る幾はしら覆《くつがへ》る船は小さくゑがきつ   § 海洋の西洋木版画|帆船《はんせん》描《か》き地球の円き弧線があはれ   § コロンブスが卵立てをるその画など時に笑ましく思ふことあり [#2字下げ]戦時立冬[#「戦時立冬」は小見出し] めらめらと人馬も草も燬《や》きつくす火焔砲とふに冬ひた恐る 火焔砲重戦車ピアノ鋼線あはれあはれ子らが遊びも昂じ来にけり 戦はいつ止むとしもあらなくに米ひた惜む冬にぞ入りぬ 独居る暗き眼にして頼めたる一と擦《す》りのマチの火すら惜みつ ハルハ河あはれとしいふ言《こと》すらも冬来にけらし口を衝《つ》かずも 町に遇ふ小さき兵隊バンドには代用らしき締めてみ冬なり   § 北支那に砲とどろきし頃よりぞ目見《まみ》闇くなりて我は籠りつ [#2字下げ]内閣印刷局[#「内閣印刷局」は小見出し] かうがうし菊の御紋は透かし漉《す》き人つつましも紙あつく漉《す》く 閑《しづ》けくて偉《おほ》き機構の刷り出づる百円|紙幣《さつ》は現《うつ》しけなくに 長江の流もかくやたうたうと刷りいづる紙幣《さつ》の清《さや》の洪水《おほみづ》 国の紙幣《さつ》日を夜をただにかく刷りて幾百億円刷るにやあらむ 截《た》ち切るや刷る間《ま》ただちを香に澄みて百円|紙幣《しへい》手も切れぬべし うち羽ぶき常にもがもな刷られゆく紙幣《さつ》夜昼《よひる》なし戦《いくさ》長きに 五色旗の満州紙幣|手童《たわらは》がただに愛《かな》しぶものならなくに 紙幣・債券・印紙・郵便貯金帳虹なして刷りいづるところ人鼠なす 円陣に秘《ひそ》ゐる少女|鋭眼《とめ》速《はや》く紙幣《さつ》検《けみ》しをれ早やおそれつつ 網の目の蟻なす花文《けもん》うつしけき百円|紙幣《さつ》を指はじくなり 豊けかる退《ひ》けて出《づ》る子がゆふぐれは身のほそりして悲しかるべし 大御代と刷りいづる紙幣《さつ》や我は見て大臣《おとど》のごとく闊《ひろ》く歩みき [#3字下げ][#1段階小さな文字]年の瀬一首[#小さな文字終わり] 我が戦《いくさ》疑ふとにはあらなくに紀元二千五百九十九年の年の瀬今は [#2字下げ]鉄を削る[#「鉄を削る」は小見出し] [#3字下げ][#1段階小さな文字]前橋理研工場所見[#小さな文字終わり] 機械とは将《は》たやしづけき鉄削る旋盤のかくも艶《いろひ》澄みつつ 複雑の単純化とふ一方《ひとかた》に機械はこころこめゐるごとし 旋盤やひねもす速《はや》れ事といへばただにリングの幅《はば》削るのみ 旋盤に立つ微塵見れば鉄と鉄や触れあひのただち声いづるなり 鉄微塵|短日《たんじつ》にして現《うつ》しけき色盛りあがれ旋盤|速《はや》む 冬といへば精密機械|気先《きさき》にもリングの寸分《すんぶ》ひた感じつつ 戦艦のピストンリング大きなるこの円輪《ゑんりん》に我はなごまむ おなじ作業ただに繰り返すのみなるを愛《かな》し機械や倦みもせなくに [#3字下げ][#1段階小さな文字]旋盤工は少年のみなり、一首[#小さな文字終わり] れうれうと子ら一つなれやリング削り単純にただにうごくを見れば 香にほくる鉄の微塵や気色《けしき》すら旋盤も人も別《わき》ししらずも [#2字下げ]黄塵[#「黄塵」は小見出し] 風荒れて黄に霾《つちふ》らす下つ空大き年けさの初日ぞのぼる 国挙げて事に惑へりかくしてぞ年明けたりといふもおろかや かきほぜる埋火すらに早や消《け》ちて後継《あとつ》ぎ足さむ炭とてもなし ゆゆしくも照りつつ降らぬ冬空の寒《かん》にもちこし水尽きむとぞ 我が観るはむしろ用なしけだしただ盲《し》ひつつくらき眼にぞ堪へゐむ [#2字下げ]紀元二千六百年讃歌[#「紀元二千六百年讃歌」は小見出し] [#3字下げ][#1段階小さな文字]読売新聞社募集奉讃歌選者吟[#小さな文字終わり] 天雲《あまぐも》の青くたなびく大き陸《くが》かくいにしへも和《やは》したまひき [#3字下げ][#1段階小さな文字]大日本歌人協会奉祝歌集に[#小さな文字終わり] 遥けくも今に澄みたる天《あま》の原その蒼雲に直《ただ》むかふ我は [#改丁] [#2字下げ]巻末に[#「巻末に」は大見出し]  本集『黒檜』は前集『渓流唱』(未完)に次ぐものである。  昭和十二年十一月、眼疾いよいよ昂じて、駿河台の杏雲堂病院に入院して以来、同十五年四月、砧の成城よりこの杉並の阿佐ヶ谷に転住するに至る、約二年有半の期間に於ける薄明吟の集成が之である。  収むるところ長歌五章短歌六百五十一首、之等がそのすべてである。  本来病中生活の吟詠であるゆゑ、自らの歌誌「多磨」以外にはさして発表せず、知らるることも欲しなかつた。ここにはじめて取りまとめて諸賢の清鑑を仰ぐのである。  此の集の歌は、別に選ぶところ無く、作したほどのものは洩れなくここに蒐めた。ただ一々に検して、その磨くべきは改めて磨き直した。  私の眼疾は遠因を肉体の上に加へた多年の精神的暴虐に発し、糖と蛋白との漏出が激甚となり、遂に、新万葉選歌に於ける日夜の苦業が眼底の出血と共に極度の視神経の衰弱を来し、失明直前の薄明状態に坐らねばならなくなつた。この一生の重患に於て、他に補うてあまりある道の楽しみを得たことは、私の欣びである。私は寧ろ現在の境涯に於て幸せられてゐる。  本集は歌集であるゆゑ、作品にすべてを委ね、病気の経過その他心境の如何等に就いてはここに贅しない。短歌以外の詩作、或は随感、消息等は、各年度の白秋年纂「全貌」に全部を収録してある。  なほ、病中吟の外に、正統「郷土飛翔吟」その他の覊旅歌六百余首も、その後半期には氾濫した。しかし之等はその性質上前々集『夢殿』に収めてある。で、創作の順序歌風の推移に就いては、これも「全貌」によつて知つてほしく思ふ。その「全貌」にはこの『黒檜』の諸作も、原形のままに保存して置いた。異同も亦録したい考である。  終りに、此の集の中に時局の歌が少いのは、恰も発病が北支事変と同じ頃に当つて作歌の機を逸したのである。これは短歌作品のみならず他の詩歌にも禍した。甚だ残念に思ふがいづれ大成してその責を果したいと思ふ。ここには「戦時雑唱」としてその片鱗のみを示すにとどめた。  視力は一進一退して、今日に至つたが、やや小康を得て、薄明にも馴れた。ただ四方は暗くなりつつある。(昭和十五年七月廿四日夜) 底本:「歌集 黒檜」短歌新聞社文庫、短歌新聞社    1994(平成6)年8月25日初版発行    2002(平成14)年1月10日再版発行 底本の親本:「黒檜」八雲書林    1940(昭和15)年8月13日 初出:「黒檜」八雲書林    1940(昭和15)年8月13日 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※小見出しよりもさらに下位の見出しには、注記しませんでした。 入力:岡村和彦 校正:光森裕樹 2014年9月21日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。