女の姿 田中貢太郎 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)本郷《ほんごう》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)明治三十年|比《ごろ》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)睜 -------------------------------------------------------  明治三十年|比《ごろ》のことであったらしい。東京の本郷《ほんごう》三丁目あたりに長く空いている家があったのを、美術学校の生徒が三人で借りて、二階を画室にし下を寝室にしていた。  夏の夜《よ》のことであった。その晩はそのあたりに縁日《えんにち》があるので、夕飯《ゆうはん》がすむと二人の者は散歩に往こうと云いだしたが、一人は従わなかった。 「杖頭《こづかい》もないのに厭《いや》なこった」 「まあ、そんなことを云わずに往こうじゃないか、今晩はきっと美人がいるぜ」 「杖頭がないのに、美人を見たら、尚《な》おいけない、厭だ、厭だ」 「人のすすめる時には往くものだよ」 「厭だ、厭だ、人の汗なんか嗅《か》いで歩るくのは、御苦労なこった」  こんな会話があってから、二人の生徒が出かけて往ったので、家に残った生徒は横になって雑誌の拾い読みをしていたが、睡《ねむ》くなったので蚊帳《かや》の中へ入って寝た。そして、とろとろとしていると、何か物の気配がするので眼を開けて枕頭《まくらもと》を見た。枕頭になった蚊帳《かや》の外には一人の女が坐っていた。生徒はびっくりして眼を睜《みは》ったところで、女の姿はもう無かった。  生徒は鬼魅《きみ》が悪くなったので、寝床《ねどこ》を飛びだして二階へあがり、洋燈《ランプ》の燈《ひ》を明るくして顫《ふる》えていると、間もなく二人の生徒が帰って来た。 「おい、ちょっと二階へあがってくれ、話がある」  そこで二人の生徒が二階へあがってみると、後《あと》に残っていた生徒がみょうな顔をしている。 「どうした、何をしているのだ」 「まあ坐れ、少し話がある」と云って、二人が坐るのを待って「この家は化物《ばけもの》屋敷だぜ」 「どうして、何かあったのか」 「君等《きみら》が出て往った後で、蚊帳へ入って、少し睡《ねむ》って、今度眼を覚まして枕頭を見ると、蚊帳の外に女が坐っていた」  それを聞くと二人の生徒が笑いだした。 「君が恐ろしいと思ってたから、見えたのだ、神経さ」 と一人が云うと、一人が、 「だからいっしょに出よと云うに出ないからだよ」 「とにかく、僕は厭《いや》だ、君等が出ないなら、僕一人で出て往くよ」  翌日になると彼《か》の生徒は、二人に別れてそこを出て往った。二人の者は出て往った朋友《ともだち》の臆病を笑っていた。  そして、それから五六日|経《た》ってのことであった。二人でいっしょに寝ていた生徒の一人が、ふと眼を覚してみると枕頭《まくらもと》に一人の女が坐っていた。彼はびっくりして睡《ねむ》っている朋友《ともだち》を揺《ゆ》り起した。  で、その朋友も眼を開けて枕頭を見た。やはり坐っている女の姿が眼に入った。  翌日になってその二人も他へ引越して往ったので、その家はまた暫《しばら》く空家になっていた。 底本:「日本怪談大全 第二巻 幽霊の館」国書刊行会    1995(平成7)年8月2日初版第1刷発行 底本の親本:「日本怪談全集 第二巻」改造社    1934(昭和9)年 入力:川山隆 校正:門田裕志 2012年5月22日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。