岐阜提燈 田中貢太郎 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)真澄《ますみ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)一度|注《つ》いだ [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)Ⅰ ------------------------------------------------------- [#6字下げ][#中見出し]Ⅰ[#中見出し終わり]  真澄《ますみ》はその晩も台所へ往って、酒宴《さかもり》の後しまつをしている婢《じょちゅう》から、二本の残酒《のこりざけ》と一皿の肴《さかな》をもらって来て飲んでいた。事務に不熱心と云うことで一年余り勤めていた会社をしくじり、母の妹の縁づいている家で世話になって勤め口を捜しているが、折悪しく戦後の不景気に出くわしたので口が見つからないけれども、生れつきの暢気《のんき》な彼は、台所の酒を盗み出したり残酒をもらったりして、それを唯一の楽しみにしてなんの不平もなしにその日を送っていた。  真澄はもう一本の銚子《ちょうし》を皆無《みな》にしてしまって二本目の銚子を飲んでいたが、なるたけ長く楽しみたいので、一度|注《つ》いだ盃《さかずき》は五口にも六口にもそれを甞《な》めるようにして飲んだ。そして、思い出したように銚子を持ちあげて見てその重みを量《はか》っていた。  それは秋のはじめでもう十二時近かった。叔母《おば》の跫音《あしおと》だけには何時《いつ》も注意を置いていたが、その叔母ももうとうに寝ていることが判っているので、ほとんど持ち前の暢気《のんき》をさらけ出して眼をつむってとりとめのないことを考えてみたり、時とするとすこし開けてある中敷《ちゅうじき》の障子《しょうじ》の間から外の方を見たりした。外にはうす月が射《さ》して灰色の明るみがあった。そこには二三本の小松がひょろひょろと立っており、その根元にはそこここに萩《はぎ》の繁りが見えて虫の声がいちめんに聞えていた。  真澄は盃《さかずき》を持ったなりにまたおもい出したように、斜《ななめ》に見えている母屋《おもや》の二階の簷《のき》に眼をやった。そこには叔母の好みで夏から点《つ》けている岐阜提燈《ぎふちょうちん》の燈《ひ》があった。何時も寝る時には消すことになっている提燈の燈が、その晩に限って点いているので彼は不思議に思った。火の始末のやかましい叔母も客の疲れで寝たものであろうか、そうだとすると己《じぶん》が往って消して来なくてはならないと思ったが、座を起《た》つのがおっくうであるから、そのうちには蝋燭《ろうそく》がなくなって消えるだろう、消えてしまえばべつに危険なこともないから、飲みながら消えるのを待とうとずるいことを考えながらまたそのほうへ眼をやった。と、その提燈は何人《たれ》かつるしてある釘から除《と》ったように、燈の点いたなりにふわふわと下へ落ちて来た。真澄はしまったと思って盃を置いた。  提燈はそのまま屋根の上へ落ちたが足でもあって歩くように、屋根瓦の上をつるつると滑ってそして下へ落ちた。真澄は不思議に思って提燈を見つめた。その時提燈の燈はちらちらと数瞬《またたき》するように消えてしまったが、それといっしょに一|疋《ぴき》の白い犬の姿がそこに見えた。真澄は眼をひかずにそれを見た。  白い犬の姿はゆっくりと背延《せの》びをするように体をのびのびとさしたが、やがて歩きだして中敷の前を掠《かす》めて裏門の方へ往った。真澄は彼奴《あいつ》おかしな奴だなひとつ見とどけてやれと思った。彼は起《た》ちあがって中敷《ちゅうじき》の障子を体の出られるぐらいに開け、そこからそっと庭へおりて、裸足《はだし》のままで冷びえした赭土《あかつち》を踏んで往った。  白い犬は裏門の傍にその姿を見せていた。真澄は怪しい犬に悟られまいと思って、跫音《あしおと》のしないように足を爪《つま》だてて歩いた。そして小松のある処ではその下の方を歩いた。そこは阪急線の別荘地に新築した住宅で、裏門の外は、庭の小松といっしょの小松の生えたまだ自然のままの丘であった。その丘と庭の境には丸竹《まるたけ》の透《すか》し垣《がき》をして、それに三条《みすじ》のとげを拵《こしら》えた針金を引いてあった。  犬の姿はすぐ見えなくなった。真澄はコールターで塗った裏門の扉をそっと開けて、前方《むこう》を透《すか》して見た後《のち》に裏門を出て歩いた。  小松林の中には芒《すすき》の繁りや萩《はぎ》の繁りがあった。芒の軟《やわら》かな穂が女の子の手のように見える処があった。白い犬はその芒の中に姿を消すことがあった。  すぐなだらかになった丘の上が来た。そこに横穴の古墳の崩れのような大きな石が土の中から覗《のぞ》いている処があった。石の周囲には芒や荊棘《いばら》が繁っていた。白い犬はその石の傍へまで往くと見えなくなった。真澄は立ち止った。  十六七に見える小柄の女の姿がふと見えた。微黄《うすぎい》ろな衣服《きもの》を着て紅《べに》をつけたような赤い唇まではっきり見える。  真澄は眼を睜《みは》ってそれを見つめた。と、女の姿は消えてしまった。 [#6字下げ][#中見出し]Ⅱ[#中見出し終わり]  真澄は盃《さかずき》を持っている己《じぶん》の姿に気が注《つ》いた。気が注くとともに今のは夢であったのかと思った。夢にしては余りに記憶がはっきりしている。提燈の落ちたこと白い犬になったこと中敷《ちゅうじき》から裸足でおりたこと、裏門を開けたこと丘の上の石のことそれから壮《わか》い女のこと、皆順序だって思い出されるが、ただ丘の上から室《へや》の中へ帰って来た記憶がない。暢気《のんき》な彼はもうすぐ夢にしてしまって、酒の方へ心を移してまたちびちびとやりだしたが、やがて点滴《しずく》もなくなったので蒲団《ふとん》を引き出して寝てしまった。 「もし、もし」  枕頭《まくらもと》で己を起しているような女の声がするので、真澄は何か用事が出来て婢《じょちゅう》が起しに来たのではないかと思って眼を開けてみた。それは丘の上で見つけた壮い女であった。真澄はそれが別に不思議でもなかった。 「君はさっきの岐阜提燈だね」  女は笑って聞いていた。 「ぜんたい、君はなんだね」 「べつになんでもありませんよ、あなたのような独身者《ひとりもの》ですよ」 「同じ独身者にしても、君の方はいろいろの芸を持ってるが、僕の方は、酒を飲むより他に芸はないのだ」 「あなたは、お酒がすきなの」 「好きだけれども、台所の残り酒しか飲まれないのだ」 「あなたは、暢気《のんき》ね」 「暢気じゃないが、しかたがないよ」 「暢気が好いのですよ、私好きよ、まだお酒が飲みたいのですか」 「飲みたいね」 「じゃ、おあがりなさいよ、あなたにあげようと思って持って来たのですから」 「そうか、そいつはありがたいな」  真澄が起きあがってみると女の傍には膳《ぜん》があって、その上に一本の四|合《ごう》罎《びん》と三皿の肴《さかな》が置いてあった。 「さあ、おあがりなさいよ、私がお酌《しゃく》をしてあげましょう」  女は四合罎の口を抜いて真澄の持った盃《さかずき》に注《つ》いだ。 「あなたは、ぜんたい何人《だれ》ですか」 「何人でもありませんよ、そんなことは好いから、おあがりなさいよ」 「それじゃ聞くまい、聞いたところで、食客《いそうろう》ではなんにもならないから」 「そうですよ、聞いたってなんにもなりませんから、聞かずにいらっしゃい、私が時どきお酒を持って来てあげますから」 「そいつはありがたい」  真澄はそれから女を対手《あいて》にして飲んでいたが、何時《いつ》の間にか睡《ねむ》ってしまって、朝早く眼を覚ましてみると、いっしょに寝たはずの女もいなければ、正宗《まさむね》の罎《びん》も膳《ぜん》もなにもなかった。ただ台所から貰って来た二本の銚子と皿だけが机の上に乗っていた。暢気《のんき》な真澄は昨夜《ゆうべ》は変な夢ばかり見たものだと思った。  その夜は客がなかったので酒にありつけなかった。真澄は台所をうろうろして隙があったら樽《たる》の口をひねろうと思って隙を見ていたが、婢《じょちゅう》と叔母の眼が始終あったのでしかたなしに諦《あきら》めて寝たが、睡っているとまた肩を揺《ゆす》って起す者がある。 「お起きなさいよ、お起きなさいよ」  真澄が眼を開けてみると昨夜《ゆうべ》の女が来て坐っていた。 「今晩もお酒を持って来ましたよ」 「酒、そいつはありがたいな」  真澄は起きて枕頭《まくらもと》に坐った。やはり昨夜《ゆうべ》のような膳へ四合罎と三皿ぐらいの肴《さかな》を添えてあった。 「おあがりなさいよ、お酌いたしましょう」  真澄は女に酌をして貰ってその酒を飲んでいい気もちになって寝たが、朝になってみると女もいなければ膳も正宗の罎もなかった。真澄はまた夢を見たものだと思った。  女はその晩もまたやって来て真澄に酒を飲ましたが、朝になって見ると同じように女も酒の器《うつわ》もなかった。しかし、真澄はもう夢とは思わなかった。夢とは思わないが不思議に女の素性《すじょう》とか、きちんと締めてある戸締《とじまり》をどうして開けて来るだろうかと云うような現実的な疑問はおこらなかった。  女は毎晩のように来た。真澄はもう宵に酒を飲む必要がなくなった。半月ばかりしたところである日叔母の室《へや》へ呼ばれた。 「真澄さん、あんたは、近比《ちかごろ》体でも悪くはないかね」 「べつに悪くはありません」 「でも、あんたは、この比《ごろ》、夜が来ると、独言《ひとりごと》を云ってるそうじゃないか」 「そんなことはありませんよ」 「でも叔父《おじ》さんが昨夜《ゆうべ》遅く便所《はばかり》へ往ったついでに、あんたの室の前まで往って覗《のぞ》いてみると、あんたは蒲団《ふとん》の上へ坐って、何か云ってたと云うじゃないかね、どこか悪いでしょう、おかしいじゃないかね」  真澄は女のことが知れたのではないかと思った。叔母も叔父も知っていて、己《じぶん》の気を引くためにこんなことを云ってるのだから、なまじっか隠しだてをしないが好いと思った。 「叔母さん、隠したってだめらしいから云いますが、この比、毎晩僕の処へ女がやって来るのですよ」  叔母は不思議そうな顔をして真澄の顔を見つめた。 「真澄さんは、すこし変だね、あんたが寝床の上に起きあがって、独言を云ってるのは、私がさきに見つけて、叔父さんに云ったのですよ、あんたは、すこし体が悪いよ、明日《あす》あたり大阪へ往って医者に見て貰ったら、どう」  真澄は叔母が女のことに一瞥《いちべつ》をくれずに己を病人扱いにしているのが癪《しゃく》であった。 「病気じゃありませんよ、女が毎晩ごちそうを持って来てくれるから、話しているのですよ」 「あんたなんかの処へ、何人《たれ》が酔狂《すいきょう》にごちそうまで持って来るものかね、ほんとにあんたは、どうかしてるよ」 「叔母さんこそ、どうかしてるのですよ、嘘と思や、今晩十二時|比《ごろ》に来てごらんなさい、きっと来てますから」 「往かなくったって好いよ、あんたは独言《ひとりごと》を云ってるから、それがほんとなら、今晩来た時に、その方《かた》から証拠になるものを貰っておきなさいよ」 「櫛《くし》か、指環か、なんか貰っておきますよ」 「でもおかしいのだね、ほんとにあんたは病気じゃない」 「病気じゃありませんよ、大丈夫ですよ」  その晩女が来て酒を飲みはじめたところで、真澄は叔母と約束したことを思い出して、銚子を持っている女の指に眼をやった。白い小さな指にはめた指環の青い玉が光っていた。 「その指環を、僕に貸してくれないかね」  女はちょっと指に眼をやって後《のち》に真澄の顔を見た。 「指環、私の指環」 「ああ、その指環だ、一晩貸して貰えば好い、明日《あす》の晩には返すよ」 「指環をどうするの」 「叔母が、君と毎晩こうして話しているのを聞いて、病気で独言を云ってると、怪《け》しからんことを云うから、君のことを打ち開けたが、それでもほんとうにしないから、証拠に、君から櫛《くし》か指環かを借りて、それを見せてやると云ってあるのだ」 「そんな、つまらんことは好いじゃありませんか、ほんとうにしなけりゃしない方が、今のうちはかえって好いじゃありませんか」 「叔母が失敬なことを云うから、見せてやろうと思うのだ、一晩貸して貰おう、好いだろう、一晩ぐらい、売って酒を飲むようなことはないよ」  真澄は笑いながら盃《さかずき》を口へ持って往った。 「では、明日《あす》の晩まで待って頂戴《ちょうだい》、明日の晩、好い方のを持って来ますから、これは駄目ですから」 「明日の晩じゃいけない、今晩でないと、叔母がばかにするから、好いだろう、証拠になりゃなんでも好い」  女は銚子を置いて左の指で指環の玉をいじりながら困った顔をした。真澄はつと手を出して女の右の手を掴《つか》んで己《じぶん》の方へ引き寄せた。 「好いじゃないか、何人《たれ》かに叱られるのかね」  女は体をずらしてぴったりと真澄に寄り添うた。 「そんなことはないのですけど、これは、すこし理《わけ》があって、ちょっとでも抜かれないのですもの」 「お願《がん》でもしているのか」 「そんなことはありませんよ」 「じゃ、好いだろう、貸しておくれよ」  真澄は好奇心も手伝って右の指を女の指環にかけてとっさにそれを抜こうとした。 「厭《いや》よ、厭よ、許して頂戴よ」  女は抜かせまいとして手を引こうとした。真澄はやめなかった。 「厭よ、厭ですよ、あなたは、何時《いつ》ものようじゃないのですわ、あれ、厭ですよ」  指環は抜けかけた。真澄は小声で笑いながら一思いに抜こうとした。 「厭」  女は叫ぶように云って真澄を突《つ》き除《の》けて起《た》ちあがるなり、ひらひらと中敷《ちゅうじき》の方へ走って往ったがそのまま姿が見えなくなった。真澄の開けた覚えのない中敷の戸が二尺ぐらい開《あ》いているのが見えた。 [#6字下げ][#中見出し]Ⅲ[#中見出し終わり]  女はその晩限り来なくなった。そのうちに正月が来て三日となった。真澄は上福島《かみふくしま》にいる友人の家へ年賀に往って非常に酔い、夜の十時|比《ごろ》阪急線の電車に乗ってやっと花屋敷《はなやしき》まで帰って来た。  そこでは真澄の他に四五人の者がおりた。真澄はその人といっしょにプラットホームに立ったところで、眼の前に壮《わか》い女の立っているのが見えた。それはあの女であった。 「ああ、君だね」  女はにっと笑った。 「あれからさっぱり来なくなったが、憤《おこ》ったかね」 「憤りはしないのですが、あなたと別れる時期が来ましたから、もう往かなかったのですよ、でも、今晩は、お名残《なご》りに、私の家へ往って話しましょう」 「往っても好いかね」 「好いのですよ、何人《だれ》も他にいないのです、私、一人ですから」 「じゃ、往こう、遠いかね」 「すぐですよ、いらっしゃい」  女は前《さき》に立って線路を横切って別荘地の方へ往った。真澄は酔った足を引きずって後《あと》から跟《つ》いて往った。  女はすぐ右側にある家の格子戸を開けて入った。 「ここですから、後《あと》を締めてください」  二人は玄関をあがって右手の電燈の明るい室《へや》へ入った。 「まあ、お酒を出しましょうね」 「今日はもう好い、うんと酔ってるから」 「では、また後《のち》にあげましょう、今晩はお名残に泊っていらっしゃい」  真澄は女と他愛のないことを話していたが、何時《いつ》の間にか女が友禅模様《ゆうぜんもよう》のついたきれいな布団を敷いたのでそのまま横になった。  一睡りした真澄は非常に寒いので眼を覚した。彼は叔父の家の裏手になった丘の上の石の傍で寝ていた。 底本:「日本怪談大全 第一巻 女怪の館」国書刊行会    1995(平成7)年7月10日初版第1刷発行 底本の親本:「日本怪談全集 第一巻」改造社    1934(昭和9)年 入力:川山隆 校正:門田裕志 2012年3月8日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。