参宮がえり 田中貢太郎 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)伊良湖岬《いらこざき》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)明治五年|比《ごろ》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)姝 -------------------------------------------------------  明治五年|比《ごろ》の晩春の夕方、伊良湖岬《いらこざき》の手前の磯《いそ》に寄せて来た漁船があった。それは参宮《さんぐう》帰りの客を乗せたもので、五十前後に見える父親と、二十歳《はたち》位になる忰《せがれ》の二人|伴《づれ》であった。  舟は波のうねりのすくない岩陰に繋《つな》がれて陸《おか》へは橋板《はしいた》が渡された。その舟には顔の渋紙色をした六十に近い老人と三十位の巌丈《がんじょう》な男が艪《ろ》を漕ぎ、十八九に見える女が炊事をやっていた。老人は伯父《おじ》で巌丈な男と女は兄弟であるらしい。女が艫《とも》の間《ま》の竈《へっつい》で焚《た》く火の煙がうっすらと空にあがるのが見られた。  胴《どう》の間《ま》に忰と坐っていた客は、この時小便を催したと見えて陸《おか》へあがって往った。忰は横に寝そべって何を考えるともなしにうとうとしていた。と、その忰の耳へ女の声が聞えて来た。 「……やめておくれよ、やめておくれよ、兄《あに》さん、お願いじゃからよ、兄さん、私は承知せんよ」  兄の声がした。 「女子《おなご》の知ったことか、だまれ」 「だまらんよ、私はそんなことは嫌いじゃ、そんな恐ろしいことは……」 「あほう、何をぬかす、だまれ、だまらんと豪《えら》い目に逢《あ》わすぞ」 「逢わされてもかまわん、私はそんなことは嫌いじゃよ」  伯父《おじ》の声がその後《あと》に聞えた。 「お民《たみ》、もうええ、云うな、云わいでもええ」 「そんなら伯父さん、私の頼みを聞いてくれますか」 「ええ、判っちょる、云うな」  兄の声が聞えた。 「あほう、そんなことを云うひまに、お客さんに茶でもあげえ」  忰《せがれ》は何を云っているか判らない船頭一家の話を切れ切れに聞いていたが、そのうちに胴の間へ来る軽い跫音《あしおと》がするのでふりかえった。女が茶を持って来たところであった。 「お客さん、お茶をあげましょう」  女はそう云って忰の前に行儀好く坐った。 「これはありがとう」  忰は起きて坐りなおした。 「御膳《おぜん》も出来ました、すぐこれからあげます」  陸《おか》へ往っていた父親が橋板を渡って帰って来た。それと同時に女は腰をあげたが、腰をあげながら忰の顔をじっと見た。忰はその白い顔を見返した。 「船頭さん、明日《あす》はどうじゃろう、やっぱり風が無いじゃろうか」  父親の声に年老《としと》った船頭のしゃがれた声が答えた。 「明日は大丈夫じゃ、この雲は夜中|比《ごろ》から晴れて、二番|鶏《どり》時分から風になるよ、潮《しお》もなおるし、明日は日の高いうちに豊橋へ着く、今日のように、潮の悪いことはめったにない」 「そうかなあ、舟の上が長いとたまらない、明日は早く豊橋へ帰りたいもんじゃが」 「帰れるとも、飯《めし》でも喫《くっ》て、ゆっくり休むが良《え》え、朝、眼を覚した時分には、舟はもう走りよる、飯は途中で炊いて、ぬくぬくを喫わせる」 「そう云ってくれると、云うことはないが、しかし、海に巧者な船頭さんの云うことじゃ」  父親はやっとこさと胴の間《ま》へ入って忰《せがれ》の前へ坐った。忰はびっくりしたようにして父親を見た。 「お民、お客さんが酒を飲むようなら、沸かしてあげろ、まだ俺と伯父《おじ》さんと飲うだ残りが、一合や二合はあるじゃろう」  それは壮《わか》い船頭が女に云っている声であった。父親はそれが嬉しかった。 「それはありがたい、私は、一合あるならけっこうじゃ、売って貰おう」  父親は艫《とも》の暗い方を見て云った。 「なに、売るも売らんもない、昨夜《ゆうべ》の飲み残りがあるからあげましょう、私と伯父は、買いに往くが面倒じゃから、これから陸《おか》へあがって飲うで来る」 「陸《おか》に飲む処があるかな」 「ありますとも、船頭の骨休めをする処じゃ、なんでもありますよ」 「そうかなあ、昼だとちょとあがって見て来るが、夜はめんどうじゃ、その酒を売ってもろうて、一杯やって寝るとしよう」  忰《せがれ》の方は思いだしたように茶碗を持って茶を飲んだが、立って往く時に己《じぶん》の顔をじっと覗《のぞ》き込んで往った女の眼がどこかにこびりついていた。 「茶があったか、一日、海の上におると、咽喉《のど》が乾くものじゃ」  父親は我が子をいたわるように云った。 「今、持って来てくれました、お父さんは」  忰は己一人が飲んでは悪いと思った。 「なに、俺は酒がある、茶を飲むと旨くない」  燈《ひ》の光が周囲《まわり》を明るく見せた。女が手燭《てしょく》の燈を点《つ》けて持って来たところであった。 「ほう、燈が点いたか、舟の上で燈を点けると、舟遊山《ふなゆさん》をするようじゃ」  父親はそう云い云い女の顔を見た。 「御膳《おぜん》もできておりますから、お酒が沸いたらすぐ持って来ます」  女は手燭を二人の傍へ置いて引返したが、引返す拍子にまたちらと忰の顔を見た。忰はきまりが悪いので俯向《うつむ》いて空になった茶碗に眼をやった。 「面倒をかけますな」  女は何か云って会釈しながら艫《とも》の方へ往ったが、すぐ一つの膳へ魚の煮たのを盛った皿や、飯《めし》のつけてある茶碗などを乗せて燗鍋《かんなべ》といっしょに持って来た。 「これはありがたい、この舟は他の舟と違《ちご》うて、姐《ねえ》さんのような人がおるから、何もかもが往きとどいておる」  父親は女にあいそを云い云い燗鍋《かんなべ》の酒を、杯《さかずき》へ注《つ》いで飲んだ。 「お前は飯《めし》をやれ」  忰《せがれ》は父親にそう云われても傍にいる女にきまりが悪いので手が出なかった。 「お民、おい、お民」  壮《わか》い船頭の女を呼ぶ声がした。女は煩《うるさ》そうに後《うしろ》の方へ顔を向けた。 「なに」 「俺と伯父《おじ》さんとは、これから陸《おか》へ往って来る、お客さんが、飯がすんだら、蒲団《ふとん》をかけて、苫《とま》を立ててあげろ、苫を立てんと風邪を引く」 「良《い》いよ、私が良いようにしてあげるから、そのかわり私がさっき頼んだことを聞いておくれよ」  女の声はみょうに重おもしかった。 「良いよ、判ったよ、判ったから、おとなしく番をしておれ、女子《おなご》の癖に余計な口をたたくな」  女はもう何も云わなかった。船頭同志はがたがたと跫音《あしおと》をさしながら橋板を渡って往った。その二人の黒い影が鬼魅《きみ》悪く忰の眼に見えた。 「船頭さんは、これでなかなか面白いことがあるな」  父親は二三杯の酒を飲んで好い気もちになっていた。 「お客さん、ちょっと往って来ます、なにかすることがあるなら、その小供にそう云うておくれ、遠慮はいらない、甥《おい》と二人で一杯やったらすぐ戻って来る」と、しゃがれた声で云って客の返事も待たずに、 「このむきなら、明日《あす》は良《え》え追手《おいて》じゃ……」  もうむこうの崖《がけ》へあがったのか船頭の声は遠くなって聞えた。陸《おか》のほうには三つ四つの燈《ひ》が見えた。父親は船頭に返事をしようとした詞《ことば》を控えて女の顔を見た。 「あの船頭さんは、年老《としと》った方の船頭さんは、お前さんの伯父《おじ》さんかね」 「伯父でございます、一人は兄でございますが、二人とも困ったものでございます」  父親にはその困ったと云う意味が判らなかった。 「二人が大酒でも飲むかな」 「大酒と云うでもありませんが……」  女はそれからうえ云うのを厭《いと》うように口をつぐんだ。父親はふと伯父|甥《おい》で陸《おか》へあがって道楽でもするのであるまいかと思った。 「二人で道楽でもするかな」  女はちょっと考えるようにして云った。 「そうでございます、道楽をしたり、酒を飲んだり、困ります」 「まあ、こうした商売をしておると、すこしはしかたがないだろうが、姐《ねえ》さんは、何時《いつ》もこの舟におるかな」 「はい、家に何人《だれ》もおりませんから、舟におります」 「家はどこだな」 「鳥羽《とば》の近くでございます」 「鳥羽の近く」  父親はそう云いながらまだ飯《めし》を喫《く》わずにいる忰《せがれ》に気が注《つ》いた。 「飯をやったらどうだ」 「喫《た》べましょう」  忰はやっと茶碗を持った。 「今|飯鉢《めしばち》と茶を持って来ます」  女は忰の方をちょっと見てから立って艫《とも》の方へ往った。 「船頭なんて云う者は、皆ああしたものだよ」  父親は小さな声で嘲《あざけ》るように云った。 「そうですかなあ」  忰は女に心を引きつけられていて父親の云ったことははっきり判らなかった。 「あんな者を、親や兄弟に持っておる、あの小供が可哀そうじゃな」  女の子が飯鉢と土瓶《どびん》を持って来たので父親は澄ました顔をして残りの酒を飲んだ。 「わしも飯をもらおう。良い気もちになった」 「まだお酒がすこしありますが、沸かしましょうか」 「もうけっこう、わしは一合で多すぎるくらいじゃ」 「では、ここへ飯鉢《めしばち》と茶を置きますから、どうぞごゆっくり」  女は艫《とも》の方へ引きさがって往った。忰《せがれ》はその女の小さな足をちょっと見てから魚の肉をつっついて口に入れた。魚の肉は旨かった。忰は女の見ないうちにと思って急いで飯《めし》をかき込んだ。  忰はもう箸を置いていた。彼は父親が落ちつき澄まして飯を喫《く》っているのが憎いような気がした。 「お父さん、舟の中はなんだかきゅうくつじゃありませんか」  父親は旨そうにむしゃむしゃと飯を喫っていて顔をあげなかった。 「今晩、一晩の辛抱じゃ、明日《あす》の晩は、ゆっくりと手足を延ばして休めるぞ」 「陸《おか》へあがりたいなあ」 「こんな処で、宿屋へ入ったら、高い金を執《と》られる、もう一晩の辛抱じゃ」 「宿屋じゃありませんよ、ただ陸《おか》へあがって歩きたいですよ」 「道の不案内な処は油断がならんよ」 「なに、こんな狭い処じゃ、迷うてもそれほどのことはありませんよ」 「お前が往きたけりゃ、往っても良いが、足もとがあぶないぞ」 「往っても良いなあ、ちょっとその辺を見て来ましょうか」  しかし、忰は女を離れて遠くへ往く気はしなかった。父親は最後の飯に土瓶《どびん》の茶を入れて喫った。 「海の中へ落ちんように、気を注《つ》けて往って来い」 「往きましょうか」 「それなら往け、しかし、つまらんものを買《こ》うちゃいかんぞ」 「なにも買《かい》やしませんよ」 「それならちょと往って、その辺を見てすぐ戻って来い」 「往って来ます」  忰《せがれ》は云いがかりじょうすこしでも陸《おか》へあがって来なくてはならなくなった。彼はそこにあった草履《ぞうり》を引っかけて橋板に足をかけたが、女はどうしているだろうかと思ってちょと見た。暗い艫《とも》の間《ま》に白い顔が見えていた。忰は親しそうなその顔に何か云おうとしたが、云うのがきまりが悪いのでそのままむこうへ渡って往った。 「おい、よく気を注《つ》けんといかんぞ」  父親の云う声がした。 「大丈夫ですよ」  忰は父親よりも女に聞いてもらいたいと云うような気もちで、返事をしいしい崖の上へあがった。 「すぐ戻って来いよ」  また父親の声がした。忰はもう返事をせずに崖をあがって往った。崖の石の上には微月《うすづき》の光のような微白《ほのじろ》い光があった。  すぐ燈《ひ》の明るい家が来て二三人の人声がしていた。それは酒に酔うているらしい声であった。忰は己《じぶん》の舟の船頭の来ている家でないかと思ったが、それ以上に好奇心は起らなかった。  忰の心は女の方へ往った。彼は舟が陸《おか》へ着いた比《ころ》からみょうにからまって来た女の素振《そぶり》をはっきり心に映していた。眼、眉《まゆ》、脣《くちびる》、皆意味のあるものであった。彼はどうかして女と二人で話したいと思った。あの伯父《おじ》と兄はまだ暫《しばら》く帰らないであろうから、父親さえ早く寝てくれるなら話はできると云う考えが浮んで来た。  忰《せがれ》はそのまま後《あと》に引返して、でこぼこの石高路《いしたかみち》をおりて往った。蟇《がま》の蹲《うずくま》ったように見える小屋の傍を廻っておりて往くと、もう舟のある処であった。忰は足を止めて舟の中を見た。手燭《てしょく》の光が微《かすか》に胴《どう》の間《ま》に見えているのみで父親は寝たのか姿は見えなかった。  橋板に軽く跫音《あしおと》がしてこっちへ来る者があった。忰は心をどきどきさして立っていた。その眼に白い女の顔が見えて来た。忰は何か云おうと思ったが云えなかった。  女は眼の前に来た。 「あの、すこしあなたに」  忰はなるたけ落ちついていようと思った。 「なにか、私に」 「どうしても話さねばならないことがありまして」 「どんなことです」 「すこしみょうなことでございますから」  女の声は苦しそうであった。忰は己《じぶん》の期待にはずれたように思った。 「なんですか」 「すこしみょうなことでございますから」  女は息苦しいように云って前へ歩いた。忰は不審しながら跟《つ》いて往った。  小さな木の生えた間をすこし往くと大きな黒い岩があった。女はそこで足を止めた。 「どうぞ、ここへ」  忰《せがれ》は女の云うままにそこへ蹲《しゃが》みながら同じように己《じぶん》の前へ蹲んだ女の顔を見た。 「なんですか」 「すこしみょうなことでございます」  そう云って女は何か躊躇《ちゅうちょ》したが、そのうちに啜《すす》り泣きをはじめた。忰はびっくりした。 「なんですか」 「こんなことを申しますと、貴郎《あなた》はびっくりしましょうが、私の伯父《おじ》と兄は、真人間《まにんげん》じゃありません、伯父と兄は、恐ろしい盗人《ぬすっと》でございます、船頭になって貴郎方を伴《つ》れて来て、殺してものを奪《と》ろうとしております」  忰の体は顫《ふる》えた。 「私がおりますから、どんなことがあっても、貴郎方の御迷惑になるようなことはありませんが、ほんとうは恐ろしい盗人でございます、早く貴郎に知らそうと思いましたが、知らして陸《おか》から逃げて往くようなことがあると、陸《おか》には仲間がおって見張をしておりますから、却《かえっ》てあぶのうございます、それであなたに、先《ま》ず知らした後で、お父さんに話して、伯父と兄をどうかしておいて、貴郎方を舟で逃がそうと思うております、これから舟へ往って、三人で相談しましょう、どうか騒がずにいてくださいませ」 「じっとしておるよ、じっとしておるとも、大丈夫だろうか」  忰《せがれ》の声は乱れていた。 「大丈夫でございますが、私も貴郎《あなた》方に、伯父《おじ》と兄の悪いことを知らしたからには、もう伯父や兄と顔を逢《あ》わせることができません、どうかその時は、私を助けてくださいませ」 「助けるとも、お前さんの世話をきっとするよ、私は豊橋の山村と云う者じゃ、もし逃がしてくれたらどんなお礼でもするよ」 「とにかく、これから舟へ往って、貴郎のお父さんに話して、相談しましょう、こわいことはないから、騒がないようにしてくださいませ」 「良《い》いよ、騒がないよ、では、早う往こう」  忰はもう前《さき》に立って走るように歩きだした。女は後《あと》から跟《つ》いて往った。忰はもう木の枝も石の角《かど》も区別がなかった。彼は幾度《いくたび》もよろよろとよろけながら崖の上へ出て橋板をよろよろと渡った。  胴《どう》の間《ま》では父親が一枚の蒲団《ふとん》にくるまって艫《とも》の方を枕《まくら》にして眠っていた。忰はいきなり父親の肩に手をかけて揺《ゆ》り動かした。 「お父さん、お父さん」  父親はうす眼を開けた。 「どうした」 「大変なことがあります、起きてください」  父親は起きあがって、睡《ねむ》そうな眼をきょろきょろとさした。 「静《しずか》にしてくださいませ、なんでもありませんから」  女がもうそこへ来て坐っていた。 「なんだ」 「この舟の船頭は盗人《ぬすっと》じゃと云います」 「なに、盗人」  父親も声を顫《ふる》わした。 「盗人でございますが、指一本も差させずに、豊橋へ送りますから、どうか静《しずか》にしてくださいませ」  父親は何も云わずに女の顔を見た。 「私の伯父《おじ》と兄は恐ろしい盗人で、今晩|貴郎《あなた》方を殺して、金を奪《と》る目論見《もくろみ》をしておりますが、決して指一本も差させませんから、静に寝ておってくださいませ、私に考えがございます」 「この人が、伯父さんと兄さんと喧嘩した後《のち》には、何人《だれ》も世話になる者がないから、世話をしてくれと云います、お父さん、世話をしてやろうじゃありませんか」  父親は忰《せがれ》の顔を見た後《のち》に女の顔を見た。 「よし、良《い》いとも、ここを逃がしてくれるなら、お前と夫婦にしても良い」 「どうか静にして、お二人とも横になっておってくださいませ、刃物もさっき海の中へ捨てましたから、たとえあがって来てもまちがいはありませんが、舟へは一足《ひとあし》もあげさせないようにします」  女はそう云い云い忰の方を見た。忰は幾等《いくら》か心が落ちついていた。 「では、姐《ねえ》さんにまかして、横になっておろう、大丈夫だろうか」 「大丈夫でございます、どうか寝ておってくださいませ」 「それでは横になろう」  父親は横になると忰《せがれ》も横になった。女はそれを見ると手燭《てしょく》を持って艫《とも》の間《ま》へ往った。  父親と忰は陸《おか》の方に耳を立ててみたり、ちょと顔をあげて艫の間を覗《のぞ》いたりした。  父親と忰の耳へ間もなく崖の上あたりでする人の話声が聞えた。 「兄さん」  舟の中から女が声をかけた。 「なんだ、まだ寝ずにおるか」 「寝ておって眼が覚めたところよ、伯父《おじ》さんもいっしょ」 「いっしょとも、伯父さんがぐでんぐでんに酔ったから、肩にかけて戻ったところじゃ」 「そんなら静《しずか》に舟へ乗りなさいよ」 「乗るとも、さあ伯父さん、橋板じゃよ」  橋板の上に跫音《あしおと》がしはじめた。と、思う間に板の軋《きし》る音がして何か大きなものが潮《しお》の中へ落ちた。それに続いて橋板の落ちる音もした。 「さあ、皆さん、起きてくださいませ、これから舟を出します」  女が艫の方で叫んだ。父親と忰は飛び起きて胴《どう》の間《ま》に突立った。 「もう心配することはありませんが、ついすると掻《か》きあがって来るかも判りません、手が見えたら、板を剥《は》いで、見つけしだい撲《なぐ》ってくださいませ」  舟は間もなくゆらゆらと動きだした。纜《ともづな》を解き放した女は艫に立って艪柄《ろづか》を握った。  舟は磯際《いそぎわ》を離れた。  親子の参宮帰りの客を乗せた舟は、その夜の明け方小さな島の傍を通っていた。その舟は壮《わか》い女船頭が漕いでいた。空には光のなくなりかけた星が二つ三つ光っていた。  胴《どう》の間《ま》の方から静《しずか》に女の後《うしろ》へ立った父親は、いきなり艪《ろ》を執《と》っている女を後《うしろ》から突きとばした。女は艪を持ったなりに海の中へ落ちた。  一度沈んでいた女は艪に掴《つか》まったままで浮きあがって来た。父親はそれを見ると傍の水棹《みさお》を執《と》って二度三度続けて殴りつけた。女はじっと父親の方を見た後《のち》に艪を放して沈んで往った。 「お父さん、どうしたのです」  胴の間に寝ていた忰《せがれ》が驚いて起きた。 「盗人《ぬすっと》の女を伴《つ》れて家へ帰れるものか、舟は俺《おら》が漕ぐ」  父親は水棹《みさお》をだして流れている艪を引きよせてそれを艪べそに合《あわ》した。  参宮帰りに海賊船に乗ったのは豊橋某町の山村と云う豪家《ごうか》の親子で、父親は嘉平《かへい》と云い忰は嘉市《かいち》と云っていた。  三年ばかりしてのことであった。山村の家の前に五六人の小供が遊んでいると、壮い姝《きれい》な女が来てずんずんと門の中へ入って往った。小供達は見知らない姝な女を見たので好奇《ものずき》に玄関まで跟《つ》いて往った。女は家の人のように案内も請《こ》わずに黙って障子《しょうじ》を開けてあがって往った。  それは夏のことで、嘉市はすこし体が悪いので寝ていたが、何時《いつ》の間にか睡《ねむ》っていると隣《となり》の室《へや》でうんうんと唸《うな》る声がした。びっくりして起きて往ってみた。一人の壮《わか》い女が父親の上へ馬乗りになってその首を締めていた。 「こら」  嘉市は周章《あわ》てて跳びかかった。女の姿はすぐ見えなくなったが、父親はもう拳《こぶし》を握り締めて冷たくなっていた。 「あの女じゃ、あの女じゃ」  嘉市はその場から発狂してしまった。 底本:「日本怪談大全 第二巻 幽霊の館」国書刊行会    1995(平成7)年8月2日初版第1刷発行 底本の親本:「日本怪談全集 第四巻」改造社    1934(昭和9)年 入力:川山隆 校正:門田裕志 2012年5月22日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。