女賊記 田中貢太郎 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)館林《たてばやし》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)親戚|知己《ちき》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)姝 -------------------------------------------------------  館林《たてばやし》の城下では女賊《じょぞく》の噂で持ち切っていた。それはどこからともなしに城下へ来た妖婦であった。色深い美しい顔をした女で、捕えようとすると傍にある壁のはめ板へぴったり引附《ひっつ》いてそのまま姿を消すのであった。土地の人は何人《たれ》云うとなしにそれを板女《いたおんな》と云っていた。 「昨夜《ゆうべ》裏の方で犬が啼《な》くから、出て往って見ると、ちらと人影が見えたが、板女かも判らない」 「某家の主人が、夜遅く帰っていると、某家の横で女と擦れ違ったと云うが、それがどうも板女らしい」 「一昨日《おととい》の晩、某家の庭前《にわさき》に板女が立っていたので、そこの主人が刀を執《と》って追っかけたが、そのまま見えなくなった、きっと傍のはめ板へ引附いていたろう」 「某町では、昨夜板女に、五十両盗まれた」 「某家では、板女が衣類を持って逃げようとするところを知って、妻女《さいじょ》が長刀《なぎなた》を持って切りかけると、壁厨《おしいれ》の戸板へ引附いて消えてしまった」 「今朝、某寺の前を某が通っていると、板女らしい姝《きれい》な女が来るから、手執《てど》りにしようとすると、寺の板壁へ引附いて、そのまま見えなくなった」 「昨日《きのう》の午《ひる》、板女らしい女が、旅人の風をして通って往った」 「板女は数多《たくさん》の手下を伴《つ》れているらしい」 「板女の手下にも、やっぱり頭《かしら》と同じように、はめ板へ引附いて、姿を隠す術を使う者がある」 「板女は切支丹《きりしたん》の残党らしい」 「板女は所天《ていしゅ》のような壮《わか》い姝な男を伴れている」 「一昨日《おととい》の夕方、板女のような姝な女が、某家の前を通って往くので、見ていると、その女が揮《ふ》り返って、莞《にっ》と笑った」  奇怪な板女の噂は噂を生んで、城下の町では夜もおちおち眠らなかった。そのうちに某町の豪家で婚礼があって、親戚|知己《ちき》をはじめ附近の人びとがめでたい席へ招かれて御馳走になった。それは秋の夜であった。家の主人に豪家へ往かれた留守の女小供は、もしこの留守に板女にでも来られては大変だと思って、心ひそかに心配する者もあった。 「旦那がお帰りになるまで、家の周囲《まわり》に気を注《つ》けなくちゃいかんよ」  などと仲間に注意する武家の妻女もあれば、 「お松、裏の木戸をしっかり締めてお置きよ、こんな晩を板女が覘《ねら》っているかも判らないからね」  と、婢《じょちゅう》に戸締の注意する商家のお媽《かみ》さんもあった。 「今晩あたり来ようものなら、ひと打ちだ」と、台所の隅《すみ》で鼻の端《さき》を赤くして、おしきせの酒をちびりちびりとやる僕《げなん》もあった。  どこの庭にも蒼白《あおじろ》い月の光があった。風も少し吹いていた。その風が庭の落葉樹の葉を落した。 「あれ、なに」  と、女の子が耳を傾けて心配そうに聞くと、母親は強《し》いて平気な顔をした。 「なんでもないよ」 「だって、がさがさと音がしたじゃないの」  小供はまだ不安な顔をする。 「あれは風ですよ」と、云うような問答をやっている家もあった。  夜《よ》はもう亥時《よつ》に近かった。と、けたたましい女の悲鳴が聞えて来た。 「板女が来た、板女が来た、何人《たれ》か来て……」 「板女……板女……」 「板女……」  女の声は板女を数回繰り返した。恐怖が事実となって顕《あらわ》れた。そこここに雨戸を開ける音がしはじめた。おっとり刀で飛び出す者もあった。一家の主人も部屋住《へやずみ》の若侍《わかざむらい》も、その悲鳴を聞いた者は月の下を駈けつけた。  十余人の者は某《ある》足軽の家に集まったが、そこには盗賊の入った形跡はなかった。小柄なそこの妻女《さいじょ》は玄関の口に立って知己《しりあい》の人と話していた。 「私の家じゃありませんよ、裏口の方で板女が来たと云うから、私は裏隣の御新造さんじゃないかと思うて、飛び出てみましたが、何人《たれ》もいないのですよ、不思議じゃありませんか」  その話を漏《も》れ聞いて集まって来たものは首をかしげた。 「おかしいな」 「何人だろう」 「道通りだろうか」 「それにしても、何人もいないのは不思議じゃないか」  月の面《おもて》を二三羽の雁が鳴いて通った。胸の騒ぎが消えて月の方を見た者もあった。 「板女……板女……、板女が来た……」  遠くの方でまた女の悲鳴がした。人びとは鳴りを沈めて耳をそばだてた。 「板女……、板女……」  人びとはその方へ向って走りだした。その家の前には小さな溝が流れていた。その溝に架けた板をがたがたと云わす音が物凄かった。  声のした方角は西の方であった。そこは主人が江戸に在勤している留守宅であった。主人の父親になる老人が玄関口に出ていた。 「……奇怪至極でござる、庭前《にわさき》で急に婦人の声がするものだから、すぐ庭へ出て見ても、人の影も形もござらぬ……」  小さな真白い髷《まげ》に燭台の燈がちらちらと映っていた。 「……奇怪千万でござる、奇怪……」と、老人はまだ何か云っている。  怪しい悲鳴を聞いて婚礼の席から帰って来た人も集まって、その人数は多くなって来た。 「どうしたと云うのでしょう、何者かが人を愚弄するために、こんなことをやっておりましょうか」 「さればさ、城下の者が板女の噂をしておるにつけ込んで、人を弄《もてあそ》ぼうとする白痴《しれもの》の所為《しわざ》かも知れませんぞ」 「それにしてもたしかに、声は婦人だと思いますが」 「さればさ」  怪しい女の悲鳴がまた起った。人びとは鳴《なり》を沈めた。 「……板女、……板女」  それはそこから北の方でしているのであった。人びとはまたその方へ駈けだした。葉の落ちた桐《きり》の木が骨ばって立っている畑の奥にある家屋があった。怪しい声はたしかにその家らしかった。人びとはその家へ雪崩《なだ》れて往った。もう五十あまりの頭数が月の光に浮いていた。  長刀《なぎなた》を小脇にした壮《わか》い妻女が庭の潜《くぐ》りを開けて出て来たところであった。 「如何《いかが》なされた」  一番に入って往った妻女と見知り越《ごし》の男が云った。と、妻女は立ち停って、その顔を月に透《すか》して見た。 「おお、山上《やまかみ》様……、今|手前方《てまえかた》の書院の庭で、怪しい女の叫び声がいたしましたから、庭に出たところでございます」  女の悲鳴がまた聞えた。  藤枝《ふじえだ》と云う鰥暮《やもめぐらし》の侍は己《じぶん》の家へ帰って来た。彼は四五箇処ばかり怪しい悲鳴を追っかけたが、とうとうその正体を見とどけることができなかったので、ばからしくもあれば腹だたしくもなって、いっしょに駈けまわっていた人びとがまだ最後の家の前で話しあっているにもかかわらず、一人で疲労《つか》れた足をひきずって帰ったのであった。  藤枝は門の懸金《かけがね》をかけ、飛びだしたままで開け放してあった玄関の障子を締めて、刀を脱《と》りながら次の室《へや》へ往った。姝《きれい》な女が行燈の前で胡坐《あぐら》をかいて、傍に飯櫃《めしびつ》を引き寄せて飯を喫《く》っていた。藤枝は驚いて眼を睜《みは》った。 「何者だッ」  女は茶碗を置いて藤枝の顔を見た。 「無断に人の家へあがり込んで、飯まで喫うとは、言語道断な奴だ」  藤枝は刀の柄《つか》に手をかけた。女は居住居《いずまい》をなおして両手を突いた。 「誠に申しわけがございません、私は故あって旅をしておるものでございますが、旅籠《はたご》に往こうにも金はなし、お邸《やしき》にあがって御飯をお願いいたしますつもりで、あがりましたところが、何人《どなた》様もお留守のようでございましたから、悪いことは知りながら、空腹《ひもじ》くてもう一足も歩けないものでございますから、ついこんなことをいたしました、どうか御見逃しを願います」  顔から詞《ことば》の云いようまで別に悪人とは思えなかった。藤枝は誡《いまし》めたうえで許してやろうと思った。と、女はすうと起《た》って背後《うしろ》の戸棚の前へ往った。藤枝はきっと女の方を見た。女の姿は煙のように戸棚の前で消えた。 「うぬ、板女、板女ッ」  藤枝は刀をきらりと抜いて戸棚の前で揮《ふる》ったが、なんの手答えもなかった。彼は狂人《きちがい》のようにその辺《あたり》を切って廻った。 「板女」  庖厨《かって》の方に明るい処があった。藤枝は不審に思って入って往った。宵に締めてあった裏口の雨戸が開《あ》いて月が射《さ》していた。 (板女は裏口から逃げた者だ)  藤枝は裏口へ飛びだした。人影がちらちらと眼前《めのまえ》を掠《かす》めてそれが裏木戸の辺《あたり》で消えた。 「板女が逃げた、板女が逃げた」  藤枝は裏木戸を開けて戸外《そと》へ出た。 「板女、板女、板女が逃げた」  藤枝の眼前《めのまえ》に怪しい人影がまた見えた。  藤枝の声を聞いて集まって来た人びとは、藤枝といっしょになって利根川|縁《べり》の方へ追って往ったが、女の影はもう見えなかった。一行の足は自然《おのず》と止ってしまった。月の面《おもて》に紗《しゃ》のような雲がかかっていた。  二人の旅人がむこうの方から来た。一行の目は皆それに往った。旅人の二人は背の高い年とった男と、壮《わか》いずんぐりした男であった。二人とも手荷物を振分けにしていた。 「もし、もし」  と、一行の中の一人が出て往くと旅人は足を止めた。 「怪しい女子《おなご》を見かけはしなかったろうか」 「怪しい女子と」  と、年とった男が伴《つれ》の壮《わか》い男を揮《ふ》り返るようにして、 「あれじゃないか」  と、云うと壮い男が、 「そうじゃ、蘆《あし》の中へ入った」  年とった男は前に来たものを見なおして云った。 「渡船《わたし》からちょっと来た処の蘆の中へ、女子が入って往くのを見ましたが、それでございますか」 「どんな女子だろう」 「色の白い女子のように思いましたが」 「いよいよそれだ、その女子だ、その場所を教えてもらいたい」  旅人は迷惑そうな顔をして立った。  怪しい女は蘆を折り敷いた上に胡坐《あぐら》をかいて盗み集めたらしい金を算《かぞ》えていた。算えながら垂《たれ》さがって来る頭髪《かみ》を隻手《かたて》で煩《うるさ》そうに掻《か》きあげていた。その指の間は蛇の鱗《うろこ》のようにきらきら光った。  旅人を案内にして藤枝の一行が来た。怪しい女はその物音を聞いて蘆の葉陰から透《すか》して見た。数多《たくさん》の人影が眼の前にあった。蘆《あし》ががさがさと鳴った。女は金を包んだ風呂敷を隻手《かたて》にして起《た》ちあがった。 「それ逃がすな」 「討ちとれ」  抜いた刀が蘆の葉の間から見えた。女は走ろうとした。五六人の者はもう背後《うしろ》に迫って来た。女は風呂敷の中に手を差し入れて揮《ふ》り返りざまにそれを投げつけた。銀や黄金《きん》がばらばらと追手の顔に当った。その金《かね》の光が彼等の眼に入った。女は続いて風呂敷の中の金を投げた。追手の人びとは落ち散る金を見て立った。金銀の財宝は蘆の中へ棄てられて往った。  女の姿はふっと消えた。一行は金の誘惑から覚めてあたふたとその辺を探しだした。 「賊はしとめた、しとめた」  と、云う声がどこからか聞えて来た。一行はその方へ駈けつけた。一行に交《まじ》っていた壮《わか》い男が血刀《ちがたな》を持って立っていた。怪しい女は仰向《あおむ》きになってその足もとへ倒れていた。 「私には、女の走る足もとが見えたから、一人で追っかけた」と、云ってその壮い男は傍へ来た人びとの顔を見た。 底本:「日本怪談大全 第一巻 女怪の館」国書刊行会    1995(平成7)年7月10日初版第1刷発行 底本の親本:「日本怪談全集 第四巻」改造社    1934(昭和9)年 入力:川山隆 校正:門田裕志 2012年3月8日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。