指環 田中貢太郎 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)微紅《うすあか》く |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)その上|強窃盗《ごうせっとう》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)睜 -------------------------------------------------------  ふと眼を覚ましてみると、電燈の光が微紅《うすあか》く室《へや》の中を照らしていた。謙蔵《けんぞう》はびっくりして眼を睜《みは》った。彼は人のいない暗い空家の中へ入って寝ているので、もしや俺は夢でも見ているのではないかと思って、己《じぶん》の体に注意してみた。右枕《みぎまくら》に寝て右の手を横にのびのびと延ばし、左の手を胸のあたりに置いている己の姿が眼に映った。そのうえ駒下駄《こまげた》を裏合《うらあわ》せにして新聞で包《くる》んで作った枕の痛みも頭にあって、たしかに宵に寝たままの姿であった。故郷《くに》の父親が病気になったと云う電報を遅く受取って、牛込《うしごめ》の天神町《てんじんちょう》へ往き、もう寝ていた先輩を起して旅費を借り、小石川《こいしかわ》原町《はらまち》の下宿へ帰るつもりで、十二時近くなって大日坂《だいにちざか》まで来たところで、大きな雨になったので、坂をあがりつめた処にあった家の簷下《のきした》へ駈込《かけこ》んでみると、その戸口に半紙《はんし》を貼《は》ってあるのが見えた。それで煙草を喫《の》む拍子にマッチの火で見ると、それは貸家の札《ふだ》であった。それに雨は急に晴れそうにもないし、汽車も翌日の午後でないと乗れないから、そこで一夜を明かすことにして雨戸に手をかけると、苦もなく明《あ》いたので、内へ入って寝たところであった。  彼は半身《はんしん》を起すように体を俯向《うつむ》けにして顔をあげた。八畳ばかりの何も置いてない室《へや》ががらんとしている。頭の往った方は床《とこ》になっているが、そこも亀裂《ひび》の入った黄《きい》ろな壁土《かべつち》が侘《わび》しそうに見えるばかりで、軸らしい物もない。見た処どうしても空家としか思われない。電燈の点《つ》いたのは、借家人が引越した時に、スイッチを切らずにそのままにしてあったのが、故障のために消えていて、それが何時《いつ》の間にか点いたのであろうと思った。  戸外《そと》には物のうみ潰《つぶ》れるような雨がびしょびしょと降っていた。彼はいよいよ空家と云うことをたしかめたので、安心して横になって駒下駄《こまげた》の枕《まくら》に頭をつけた。暖《あたたか》な空気のふわりと浮んだ夜《よ》であった。彼は病気だと云う父親のことを考えだした。古い古い家の奥の間で、煙草の脂《やに》で黒くなった二つ三つ残った歯を出して、仰向《あおむ》けに寝ている父親の姿を浮べた。  その時物の気配がした。それは咳《しわぶき》とも何んともつかない物の音であったが、どうも人の気配であった。苦学しながら神田の私立大学へ通って法律をやっている彼は、体に悪寒《おかん》の走るのを感じた。平生《いつも》の疏放《そほう》から他人の住宅へ侵入した結果になり、その上|強窃盗《ごうせっとう》の嫌疑をかけられてもしかたのないようになった己《おのれ》の所業《しわざ》を恐ろしく思った。隣の室ではまたものの気配がした。彼は怪しまれて騒がれないうちに、こっちから声をかけて事情を話して謝《あやま》ろうと思った。 「もし、もし」  咽喉《のど》が乾《ひ》からびて声の出ないのを無理に出して、体を起して坐った。  隣の室と境になった襖《ふすま》がすうと開《あ》いて、背の高い女が入って来た。 「私は決して怪しい者じゃありません、雨に降られたものですから、空家と思って入ったのです、何《な》んとも申しわけがありません」 「何《な》んとも思ってやしませんよ、もう、お眼がさめましたの」 「空家と思ったものですから、すっかり眠ってたのです、どうもすみません」  謙蔵は安心して女の方をはっきり見た。痩《や》せぎすの体に友禅《ゆうぜん》模様の長襦袢《ながじゅばん》を着た、二十四五に見える廂髪《ひさしがみ》の女であった。 「貸家札《かしやふだ》を貼《は》って置いたから、空家と思ったのも無理はありません」 「どうもすみません」 「なに好いのですよ」  女はその前へ坐って白い顔を重そうにした。 「貴郎《あなた》は福岡の方でしょう」 「福岡です、が、どうして知れます」 「お詞《ことば》のぐあいで知れます」 「あ、そうですか」 「近いうちに、お帰りになるようなことはございませんか」 「爺《おやじ》が病気で、明日《あす》の汽車で帰ります」 「そう、明日の汽車で、では、すこしお願いしたい事がございますが、聞いて戴《いただ》けませんでしょうか」 「どんなことですか」 「なに、ちょっとしたことでございます、お手間をとるようなことではございません」 「承知しました」 「ではお願いいたします。貴郎《あなた》は福岡市の××町を御存じですか」  それは停車場《ていしゃじょう》と己《じぶん》の家の途中にある町であった。 「好く知っております、家へ帰るには、どうしてもそこを通りますから」 「では、どうかお願いいたします」 「××町に御存じの方でもおありですか」 「あすこに山路《やまじ》と云う酒造家《さかや》がありますが、御存じでございましょうか」 「山路なら知ってます」 「その山路でございますが、すこし私に考えがありますから」  と、女は膝《ひざ》の上に置いていた左の指に右の指をやって、さしていた黄金《きん》の指環《ゆびわ》を静かに抜いて、 「これを貴郎にお願いいたしますから、福岡へお帰りになるまで、指にはめていてくだすって、山路の前へ往いた時に、抜いて地べたへ落してください」  謙蔵はみょうなことを云う女だと思って耳をたてた。 「べつに何んでもありません、ただちょっとした禁厭《まじない》でございますから、一度地べたへ落してくだすったら、もう用はありませんから、直《す》ぐ拾って、貴郎の所有《もの》にしてください、お礼にさしあげますから」  謙蔵はうす鬼魅《きみ》悪く思わないでもないが、生死の判らない病人の許《もと》へ帰って往くのに、汽車賃以外に一銭の小使《こづかい》のないのを心苦しく思っている処であったから、その心は黄金《きん》の指環《ゆびわ》に惹《ひ》きつけられた。 「じゃ、山路の前へ、ただ落したら好いのですか」  と、云って彼は女の差しだした指環を受けとった。 「それで宜《よろ》しゅうございます、ただ落してくだされば」 「僕には意味が判らないが、落すくらいの事なら何んでもないのです」 「で、何人《だれ》にも仰《おっ》しゃらずに、人に知らすと駄目《だめ》になりますから」 「何人にも知らしません」 「それから、どうぞ、ここから差して往って、どんなことがあっても、途中で抜かないように、抜くと駄目になりますから」 「それは大丈夫です」 「では、お願いいたします」 「承知しました」  雨の音はもうしなかった。謙蔵はぼうとしていた気が引締ったようになった。彼は指環を左の指にさした。 「もう夜《よ》が明けたのですね、雨もやんだようだ、じゃ、失敬しましょう」 「まだお早いでしょう」  女は蒼《あお》い顔をしていた。謙蔵は女が冷たくなったように思った。彼は早く下宿へ帰りたかった。 「荷物がありますから」 「そうですか、では、何分《なにぶん》宜《よろ》しく」 「承知しました、それじゃ失敬します」  謙蔵は女に挨拶《あいさつ》して傍にあった新聞|包《づつみ》の下駄《げた》を持って起《た》った。女もすうと起って後《うしろ》から送って来たが、謙蔵が玄関を降りてもう一度挨拶しようとして背後《うしろ》を見た時には、もういなかった。そして、気が注《つ》いてみると玄関は真暗で今まであった電燈の光はなかった。彼は消燈の時刻にしてはすこし早いと思い思い雨戸を開けた。はたして戸外《そと》はまだ真暗で、処どころ雨雲の切れた空に、暁《あかつき》の星が物凄《ものすご》く光っていた。  街路《とおり》には晩春の午後の陽《ひ》が明るく射《さ》して、町はひっそりとしていた。そこここの塀越しに枝を張っている嫩葉《わかば》にも風がなかった。今、着いたばかりの謙蔵は、黒い袱衣包《ふくさづつみ》を小脇《こわき》に抱《かか》えて××町の方へ曲って来たが、彼は奇怪な指環を酒造屋《さかや》の前で落そうとして、左の指にさした指環を気にしいしい歩いていた。  四辻《よつつじ》になった左側のむかう角が、昔から見馴《みな》れている酒造家の山路であった。謙蔵は四辻を歩きながら店頭《みせさき》へ注意した。店の横手に二人の店男《みせおとこ》が大きな桶《おけ》に徳利《とくり》を浸《ひた》して、それをせっせと洗っていた。店頭《みせさき》には暖簾《のれん》がだらりと垂れて人の姿はなかった。指環を落すにはまたとない機会であった。彼は急いでその前に往って、そっと指環を抜いて顔をむこうに向けたなり落した。指環はちろちろと転《ころ》んで店頭《みせさき》の敷石の上へ往って止まった。同時に彼は物を落して驚いたような容《ふう》をして、その四辺《あたり》をきょろきょろと見廻《みまわ》し、やっとそれを敷石の上に見つけたようにして急いで拾った。店の内に人のいたかいないかはきまりが悪いので顔をあげて見ることができなかった。彼は走ってその前を往き過ぎたいのをじっとこらえて、その指環を元の指に持って往った。  女の悲鳴が不意に起った。謙蔵はびっくりして立ち止まったが、その眼は視線が定《さだま》らなかった。続いて数人の男女の叫ぶ声がした。それは酒造屋《さかや》の内からであった。謙蔵は揮《ふ》り返って店の中を覗《のぞ》いた。罵《ののし》り叫ぶ声がそこにも起って黒い人影が入り乱れた。赧《あか》ら顔の大きな男が悶掻《もが》き走るように店の中から飛びだして来た。それは山路の主人であった。と、その後《あと》から壮《わか》い男が血に染まった白刃《しらは》を揮《ふ》りながら追っかけて来た。謙蔵は恐れて半町《はんちょう》ばかりも逃げ走って、やっと背後《うしろ》を揮《ふ》り向いた。壮い男が街路《とおり》の真中で倒れている山路の主人の上に腰をかけて、腹に刀を突っ刺したところであった。  謙蔵は気が遠くなってしまった。彼は非常を聞きつけて来た町の人の手当を受けて我に帰った。しかし、たしかに差したはずの指環はもう指になかった。  山路の主人を殺した者は、一二年前に法科大学を卒業した主人の弟の法学士であった。彼は不意に日本刀を抜いて、裁縫《さいほう》していた己《じぶん》の女房を殺して、それから店へ出て主人を殺し、そして、己もその刃《やいば》に斃《たお》れたものであった。  世間ではこれを財産の争いとしたが、謙蔵はこれを恐ろしい因果話として、何時《いつ》か私に話したことがある。  指環の奇怪を見せられた謙蔵は、それとなしに山路法学士の素行《そこう》を調べてみると、山路は在学中、某官吏の未亡人と関係して、その未亡人から金を執《と》りだして、それで放蕩《ほうとう》をしているうちに、未亡人は一人|女《むすめ》を残して病死した。病死する時未亡人は、山路に女《むすめ》と結婚してくれと頼んだ。山路は好いかげんな返事をして、病人を安心さして置いて、いよいよ未亡人が亡くなると、残りの財産を蕩尽《とうじん》してしまった。女《むすめ》は母の命《めい》もあるし、すっかり山路を信頼して、山路のするままにしていると、山路は卒業してふいと福岡へ帰り、何時《いつ》の間にか土地の女《おんな》を細君《さいくん》にしていた。そんなことがあってから東京にいた官吏の女《むすめ》は、不意に家出をして生死が判らなくなってしまった。  謙蔵はまた某人《あるひと》から己《じぶん》が女から指環を頼まれた家は、最後に女《むすめ》の住んでいた家であったと聞かされた。謙蔵は私の知りあいの某宗教家の変名である。 底本:「日本怪談大全 第二巻 幽霊の館」国書刊行会    1995(平成7)年8月2日初版第1刷発行 底本の親本:「日本怪談全集 第三巻」改造社    1934(昭和9)年 入力:川山隆 校正:門田裕志 2012年5月22日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。