雪の夜の怪 田中貢太郎 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)この比《ごろ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)一|丈《じょう》 -------------------------------------------------------  昼間のうちは石ばりをしたようであった寒さが、夕方からみょうにゆるんでいる日であった。私はこの比《ごろ》よく出かけて往く坂の上のカフェーで酒を飲みながら、とりとめのないことをうっとりと考えていた。 「や、雪だ」 「ほんとだわ」と云ういせいの良い壮《わか》い男の声と、あまったれたような女の声が絡みあうなり、入口のガラス戸が敷居の上に重い軋《きし》りをさした。 「雪だわよ」  今のあまったれたような声がまた聞えて、それが私のいる食卓《テーブル》の前へ来た。女給のお幸《こう》ちゃんが客を送り出して帰って来たところであった。 「雪か、そいつは良いな」  私は顔をあげて銀色の電燈の光を浴びている女の顔を見た。 「よかないわよ、寒いわ」  私は良い気もちに酔うていた。 「良いじゃないか、雪がうんと降って、その雪が一|丈《じょう》二丈も積んで、路《みち》がこの上にできたら、按摩《あんま》さんが二階の窓からおっこちて来るよ、あの按摩さんもね」  このカフェーは一人の盲人が来ているが、それは市会議員とか代議士とかの選挙があると、有志の一人になってその附近をまわると云う者もあった。なんだか黒い影を曳《ひ》いて見える五十前後の男である。家庭にその男が出入《しゅつにゅう》したがために、そこの細君《さいくん》は良人《おっと》の怒《いかり》を買ってお穢屋《わいや》の置いて往った柄杓《ひしゃく》で撲《なぐ》られたと云うようなことがあり、そのうちにとうとう劇薬自殺してしまった。私はみょうな関係から、その細君の葬式につらなっていた。私は北越雪譜《ほくえつせっぷ》の挿画《さしえ》の中にある盲人が窓から落て来ていた絵のことを話そうと思っていたが、その盲人のことを思いだしたので、気もちが重くるしくなってもうそれを話す気はなかった。 「いやよ、来るわよ」  お幸ちゃんはわざとらしく眉《まゆ》をしかめて見せたが、しかし、単にわざとらしいばかりでもなかった。 「来たら留《とめ》やが喜ぶじゃないか」  その盲人はお幸ちゃんの相棒のお留ちゃんが好きで、時どき来ては留や留やと云って、蒼白《あおじろ》いねっとりとしたような手でその手を握りに来るので、お留ちゃんが嫌っていた。 「いやよ、来るわよ、鬼魅《きみ》がわるいわ」  むこう側の食卓《テーブル》で二人の会社員らしい男の対手《あいて》をしている女がこっちを見た。 「なにが鬼魅《きみ》がわるいものか、あんな人は親切だよ、べろべろ舐《な》めてくれるよ」  私はふと紫色を帯びているように想像せられるその盲人の唇を考えた。 「いやあよ、ぞっとするわ、鬼魅が悪い、よしてちょうだいよ」  お留ちゃんも何か想像しているのか厭《いや》な顔になっていた。 「およしなさいよ、噂は、影がさすわよ」  と、お幸ちゃんがむきになっている時、ガラス戸ががたがたと鳴った。 「それ来たよ」 「いやよ」  私とお幸ちゃんとの小さな声が終るか終らないかに一人の男が入って来た。 「ちょッ、いやな晩だ」  それはよれよれの黒いインバを着て、雪を払ったであろう鳥打帽《とりうちぼう》を右の手に持っていた。 「いらっしゃいまし」  お幸ちゃんが声をかけると、その男は私の隣になった何人《だれ》もいない食卓《テーブル》へ往って、私と同じように壁を背にして身を投だすように腰をかけた。 「姐《ねえ》さん、一|合《ごう》つけてくれないか」  それは蒼《あお》い顔をした額《ひたい》のせまった男で、車屋の壮佼《わかいしゅ》とでも云えそうなふうつきであった。私は額のせまった、酒でわからなくなりそうなその男の顔を見ていた。 「お待たせいたしました」  お幸ちゃんが酒を持って往って酌《しゃく》をすると、彼は指をふるわしてそれを受けて口にした。 「姐さん、いやな晩じゃないかよ」 「いやなものが降ってまいりましたわ、ね、え」 「いやな晩だ、二三ばい飲まなくちゃ、やりきれない」  彼はお幸ちゃんの置いた一合|罎《びん》を執《と》るなり、己《じぶん》で注《つ》いで飲み、また注いで飲んで、三ばい目の杯《さかずき》を下に置いた。 「これでやっと気もちがよくなった」 「お寒かったでしょう」 「いや、寒いよりもへんな晩だからね、おれ、えれえ目に逢《あ》ってるのだからね」 「なにかおありになったのですか」 「あったとも、今話すがね、こんな雪の降りだした晩だよ」 「へえ」  お幸ちゃんは気になるのか顔を引締《ひきしめ》てしまった。私も好奇心を動かした。 「何かあったのですか」  私はとうとうその男に声をかけた。 「えらい目に逢ってるのですよ、だから雪が降りだすと、私はこれから庚申塚《こうしんづか》の方へ往かなくちゃならないが、もうよしたのですよ」 「そうですか、どんなことですか」  私はこっちへ来いと云いたかったが、時どきとんでもない奴にひっかかってひどい目に逢っていて、はじめての人とはいっしょにならないことにしているので云わなかった。彼はまた一ぱい飲んだ。 「いや一昨年《おととし》のことなのですがね」  彼は私の方へ体を向けたのであった。 「暮でしたよ、親方の用事で、品川へ用達《ようた》しに往って、わたしは尾張町《おわりちょう》にいたのですよ、親方の用事で五時|比《ごろ》から往ったのですが、八《や》つ山《やま》の飲み屋で一ぱいやってるうちに、遅くなって、いっそ遊んで、朝、帰ろうと思ったのですが、それがみょうですよ、やっぱりどうかしてたのですよ、そこは時どき往ってますから、婢《じょちゅう》も知ってるのですよ、お千代《ちよ》と云う婢が、 (おたのしみね)  なんかって私が出ようとすると、ひやかすものですから、 (おいらは親方の用事で来てるのだよ、きちょうめんな壮佼《わかいしゅ》だ、ふざけたことを云うない)  なんて大きなことを云って、外へ出てみると雪になってるじゃありませんか、それもたった今降りだしたと見えて地べたは白かあなかったのですよ。  それから停留場《ていりゅうば》へ来て見ると、赤電車が出ようとするところじゃありませんか、急いで後《うしろ》から飛び乗って、見ると、三人の客がいるのですよ、酒に酔ってるし、どんな客がいるのか、それをべつに知ろうとも思わないから、わたしは、そのままその前に腰をかけて、右の肱《ひじ》を窓際に靠《もた》して、それに頬をのっけてたが、なんだか眼の上に、魚の鱗《うろこ》でもはめられたように、眼の工合《ぐあい》はわるくないが、物がはっきり見えないので、電気にでも故障があるだろうかと思って、じっと、車の天井の方を見てて、雪のことを思いだしたので、その眼を車の外の方へやったところで、いやじゃありませんか。  内から燈《あかり》が射《さ》してるので、はっきり見えないはずの外が見えるのですよ、雪がちらちらと降ってて、そのまた雪が銀の鏨屑《のみくず》のように見えるのですよ。  しかし、まあ、それはわたしが酔っていたせいかも判らないのですが、それでもわたしは、あまり外がはっきり見えるのが鬼魅《きみ》がわるいから、見るのをよして、また窓際に頬杖《ほおづえ》をしていたのですが、なんだか己《じぶん》の顔を見ている者があるような気がするので、ふと見ると、わたしの側に婆さんらしいのが、すこし離れて乗ってるじゃありませんか。  この夜更《よふ》けに、婆さんの癖にどこをほうついてたろう、嫁と喧嘩でもして、出て来たかも判らない、この比《ごろ》は、嫁をいびるよりか、姑《しゅうとめ》をいびる嫁が多いなんて、ひどく婆さんの肩を持って、その方を見ると、黄《きい》ろな頬の肉の厚いちょいと因業《いんごう》らしい婆さんですよ。  セルのような白っ茶けたコートを着ているのです、なんだかいやなばばあだと、見ていると、前の方にいた車掌が来たのです、その婆さんの前ですよ、切符を切りに来たのでしょう。  それがどうでしょう、その車掌が、小さな男です、その車掌が婆さんの前に来たところで、婆さんの黄ろな顔がちらちらするようでしたが、そのままふと消えてなくなったのですよ、わたしは婆さんが起《た》ったじゃないかと思ったから、見るとやっぱり姿が見えないのです、そこへ車掌が来たのですから、 (あの婆さんは、どうしたのです)  と、わたしが訊《き》くと、車掌はへんな顔をして、 (婆さん、婆さんなんていないのですよ)  と云うのです。  わたしは婆さんのいた処に指をさして、 (いや、あすこに今までいた婆さんですよ)  と、云うと車掌はなにか夢でも見ているのだろうと云うように、 (婆さんなんかいないのですよ)  と云うのです。  ちょうど電車が停《とま》って、私の前にいた三人の客がおりようとしているのです。わたしはその車にいるのが鬼魅《きみ》がわるいので、なんの事も思わず、その客に跟《つ》いておりたのです、その客は皆電車の前を横に切って往くのです。  その時雪が降ってたか降っていないかは、もうわからなかったのです、わたしも前の人に跟いて往こうと思って、往きかけたところで救助|網《あみ》にすれすれになった処に蹲《しゃが》んで何か探している者があるじゃありませんか。  なにを探しているのだろう蟇口《がまぐち》でも落したのか、それにしても電車が出たらあぶないから、運転手に注意してやろうと思って声を出そうとしたところで、電車が動きだしたのです。私は、 (あぶない、人だ)  と云うなり、その蹲んでいる者に手をかけたのです。その拍子にその蹲んでいた者が起《た》ちあがるようにして顔をあげたのです。それがどうでしょう、車の中で見た婆さんの顔じゃありませんか。わたしはわっと云ったのですが、それといっしょにわたしは電車に触れて気を失って、病院へ担《かつ》ぎ込まれていたのです」  カフェーで私にこの話をしたのは、やっぱり車屋の壮佼《わかいしゅ》であった。彼の見た怪しい老婆と云うのは何人《だれ》も見ていないとのことであった。  そして、彼が電車に触れた場所は、宇田川町《うだがわちょう》の鳥屋の前で、そこには前後に電車に触れて五六人の者が死に、他にも多くの負傷者があって、電気局でも宇田川橋の裾《すそ》に無縁塔を建立《こんりゅう》するのだと云っていた処であった。 底本:「日本怪談大全 第一巻 女怪の館」国書刊行会    1995(平成7)年7月10日初版第1刷発行 底本の親本:「日本怪談全集 第三巻」改造社    1934(昭和9)年 入力:川山隆 校正:門田裕志 2012年5月2日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。