頼朝の最後 田中貢太郎 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)建久《けんきゅう》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)三郎|重成《しげなり》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)Ⅰ ------------------------------------------------------- [#6字下げ][#中見出し]Ⅰ[#中見出し終わり]  建久《けんきゅう》九年十二月、右大将家《うだいしょうけ》には、相模川《さがみがわ》の橋供養の結縁《けちえん》に臨《のぞ》んだが、その帰途馬から落ちたので、供養の人びとに助け起されて館《やかた》へ帰った。その橋供養と云うのは、北条遠江守《ほうじょうとおとうみのかみ》の女《むすめ》で、右大将家の御台所政子《みだいどころまさこ》には妹婿《いもうとむこ》になる稲毛《いなげ》三郎|重成《しげなり》が、その七月に愛妻を失ったので、悲しみのあまりに髪を剃《そ》って出家して、その月になって亡妻《ぼうさい》追福《ついふく》のために、橋供養を営むことになり、右大将家もこれに臨んだのであるが、その帰途右大将家が馬から落ちたことに就《つ》いて鎌倉では奇怪な噂をする者がでて来た。それは右大将家が橋供養の帰途、八的原《やまとはら》にかかったところで、空中に怪しい者の姿を見た。それは先年《せんねん》西海《せいかい》の果《はて》に崩御《ほうぎょ》あらせられた貴人《きじん》の御霊《みたま》であったが、それを拝すると共に眼前《めさき》が暗《くら》んで馬から落ちたのだと云う噂であった。  その噂とともに右大将家は病気になって、祈祷医療《きとういりょう》に手を尽していると云う噂も伝えられた。しかし、右大将|頼朝《よりとも》は、実際それ程の病気ではなかった。病気でないばかりか夜中《やちゅう》時どき寝所《しんじょ》から姿を消して、黎明方《よあけがた》でないといないことさえあった。  そうした頼朝のそぶりに気の注《つ》いたのは政子であった。政子は頼朝|附《づき》の侍女《こしもと》の一人を呼んで詮議《せんぎ》した。 「上様《うえさま》は、いつも寝所にお出《い》で遊ばされるのか」 「お出で遊ばされるように思われますでございますが」 「何か怪しいことでもないのか、上様が御寝《ぎょしん》なされる時刻とか、お起き遊ばされる時刻とかに」 「御寝なされる時刻と、お起き遊ばされるお時刻とに……そうでございます、べつにお変りもございませんが、何時《いつ》かこの二日三日前、周防様《すおうさま》と二人で、子《ね》の刻《こく》過ぎ、お廊下を見廻《みまわ》っておりますと、怪しい人影が御寝所の唐戸《からど》を開けて、出てまいりましたから、手燭《てしょく》をさしつけましたところ、それは被衣《かつぎ》のようなものを頭から被《かぶ》った女房姿でございましたが、驚いたように内へお引込み遊ばされるとともに、唐戸をお締めになりました、それより他に怪しいことはございません」 「被衣のような物を被った女房姿、そう、それより他には何もない、では、これから後《のち》もよく気をつけて、どんな悪者が、上様を覘《ねら》わないにもかぎらないから」  政子はそう云ってから侍女《こしもと》を帰した。政子はそうして穏《おだや》かに云って侍女を帰したものの、頭の中は穏かでなかった。その政子の頭にちらと浮んだことがあった。それは頼家《よりいえ》が生れて間もない時のこと、政子には継母《けいぼ》に当る遠江守時政の後妻|牧《まき》の方《かた》から頼朝の行《おこない》に就《つい》て知らして来た。それは頼朝に愛している女があって、伏見広綱《ふしみひろつな》の家に置いてあると云う知らせであった。政子は非常に怒って牧宗親《まきむねちか》に云いつけて、広綱の家へやり、広綱の家を破壊さすとともに、その女を逐《お》わした。女は逃げて大多和義久《おおたわよしひさ》の家へ往った。それを知った頼朝は、事にかこつけて義久の家へ往って、宗親を呼ばして罵《ののし》り、怒りに顫《ふる》える手に刀を抜いて宗親の髪を截《き》った。これがために時政は面目《めんぼく》を失うて領地へ帰ったことがあった。政子はこんなことを思い浮べながらじっと考えた後《のち》に、大番所《おおばんじょ》に詰めている畠山六郎《はたけやまろくろう》を内密に呼ばした。  呼ばれて六郎は急いで政子の前へ出た。この六郎は畠山次郎|重忠《しげただ》の子六郎|重保《しげやす》で、時政の前妻の女《むすめ》の腹に生れた者であった。 「上様の寝所《しんじょ》を覘《ねら》う怪しい者があると云うから、お前は今晩から寝所の外を見張ってもらいたい」 [#6字下げ][#中見出し]Ⅱ[#中見出し終わり]  六郎はその晩から右大将家の寝所の周囲を警衛《けいえい》することになった。  そのうちに十二月はすぐ尽きて翌年の正月となった。その正月の五日の晩、六郎は平生《いつも》のように右大将家の寝所の周囲を見廻《みまわ》っていた。  五日の月はほんのりと庭の白沙《はくさ》を照らして、由比《ゆい》ヶ|浜《はま》の方からは穏《おだや》かな波の音が、ざアーア、ざアーアと云うように間遠《まどお》に聞こえていた。それはもう子《ね》の刻《こく》に近い比《ころ》であった。寝所のすぐ前の築山《つきやま》の木立《こだち》の陰に入って、じっと木立の内《なか》の暗い処を見廻わしたが別に異状もないので、そこにあった岩へ腰をかけた。  と、その時、寝所《しんじょ》の南縁《なんえん》の月の光の射《さ》している雨戸が微《かす》かな音を立てて開《あ》いた。六郎は曲物《くせもの》と思ったので、己《じぶん》の体を見せないようにと、ちょと己を見返って、それが木立の陰になっているのを見極《みきわ》めると、急いで雨戸の方へ眼をやった。  被衣《かつぎ》のような物を頭からすっぽりと着た女姿《おんなすがた》の者が開けた雨戸の口に立っていた。六郎はもう腰を浮かしていた。そして、その曲物を手取りにしてやろうと思った。  女姿の者はじっと四辺《あたり》に注意するようであったが、やがて体を軽がるとさして庭へおりた。その白い足は沙《すな》に触れた。そして、女姿の者は後向きになって雨戸を締めてから急ぎ足になって右の方へ折れて往きかけた。  六郎は跫音《あしおと》をたてないように木立の陰に添《そ》うて追って往ったが、機を見たのでそのまま飛びかかった。  女姿の者は驚いて逃げ走った。六郎はひとひしぎに執《と》り押えようとしたが、逃げられたので気をいらだたして、 「待て」  女姿の者はすこし前に走ってから右の方へ折れた。六郎は不思議な曲者を執り逃しては恥辱だと思ったので、いきなり腰の刀を抜いて斬《き》りさげようとしたが、距離ができると思ったので、思い直して背のあたりと思う処を覘《ねら》って突いた。女姿の者は唸《うな》り声をだしたが、それ以外には何も云わなかった。六郎は曲物が斃《たお》れるだろうと思ったが、曲者は斃れないで猶《なお》も逃げ走ろうとした。  六郎はあわてて二度目の刀で突いた。と、女姿の者のかむっていた被衣《かつぎ》が落ちた。 「無礼者」  それは聞き覚えのある声であった。六郎はその声を聞くとともに、眼前《めさき》がくらむようになって立ち縮《すく》んだ。そして、気が注《つ》いて恐る恐る眼をやった時、南縁《なんえん》の雨戸の締《しま》る音がして、曲者《くせもの》の姿はもう見えないで、被衣のみが沙《すな》の上にふわりと落ちていた。  無礼者、六郎の耳にはその声がまた甦《よみがえ》って来た。その声はどうしても聞き覚えのある右大将家の声であったが、しかし、それにしても右大将家ともあろう者が、何故《なにゆえ》に女房の被衣などを着て、しかも、夜陰《やいん》に曲者のように南縁の雨戸を開けて戸外《そと》へ出るだろう、右大将家が決してこんなことをするはずがない。はずはないが声はどうしても右大将家の声であった。もし右大将家としたなれば、己《じぶん》は主君に二|刀《とう》まで傷を負《お》わしたから、不忠不義の極悪人となって死なねばならぬ、それも己一人死ぬるなら好いが、父をはじめ一家一門にもその咎《とが》めがかかって、人に羨《うらや》まれる畠山の家門を恥かしめることになる。が、それにしても右大将家が、何故に女房の姿をして外へ忍び出る必要があろう。これはどうも奇怪至極なことである。どうも右大将家ではない。右大将家の声と思ったのは、己の聞きあやまりであろう。まさか右大将家ではあるまい、右大将家でないとすると、何者であろう。右大将家のお傍附《そばづき》の女房であろうか、女房にしてはその声が、女らしくなかった。彼は刀を持ったなりに雨戸の方へ歩いて往って、右の手でそれを叩《たた》いた。 「畠山六郎でございます、お耳に入れたいことがございます」  内から女の声で返事をした。それは御台《みだい》の声であった。六郎はちょっと雨戸を離れて立った。  と、内から雨戸が開《あ》いて女房|頭《がしら》の周防《すおう》と云うのに紙燭《しそく》を執《と》らして政子の顔があらわれた。 「上様の御傍《おそば》に変ったことがございますまいか、今ここを見廻《みまわ》っておりますと、被衣《かつぎ》を着た者が、ここの雨戸を開けて出ましたから、二刀《ふたたち》突きましたが、突かれながら、あれなる被衣を落して、また内へ逃げ込みましてございます」 「それは女房が忍んで親元へまいる処をお前に見咎《みとが》められて、浅手《あさで》を負うたようであるが、気にする程のことはないから、このことは他へは口外《こうがい》してはなりませぬ、上様は落馬以来、すこし御加減《ごかげん》にすぐれない処があるが、今までお話しなされておって、すこしも変ったことはなし、お前は気にせずに、やはり見廻りを大事にするが好い」  六郎は安心した。 「は」 「では、その被衣を執《と》ってもらいましょう」 「は」  六郎は気が注《つ》いて刀を鞘《さや》に収め、被衣を拾ってさし出した。 [#6字下げ][#中見出し]Ⅲ[#中見出し終わり]  畠山六郎は御台《みだい》の詞《ことば》によって右大将家をあやめないことを知って安心したものの、無礼者と云った詞が耳の底にこびりついていてきみがわるかった。  そのうちに正月十一日となったが、その日になって右大将家が病気が重くなったので、出家したと云うことが伝えられた。そして、十三日になってその死が伝えられた。  頼朝が逝去《せいきょ》するとともに、頼家が家督《かとく》を相続したが、朋党《ほうとう》の軋轢《あつれき》に禍《わざわ》いせられて、僅《わずか》に五年にして廃せられ、継《つ》いで伊豆の修禅寺《しゅぜんじ》で刺客《しかく》の手に斃《たお》れた。そして、頼家の跡へは弟の実朝《さねとも》が立って家督を相続した。  六郎は己《じぶん》が怪しい女房を刺すとともに、扇《おうぎ》の要《かなめ》でも除《と》ったように主家《しゅか》の乱脈になったことを考えずにはいられなかった。頼朝の死から頼家の家督相続となり、次《つい》で実朝の家督相続となった一方、梶原《かじわら》一族が滅《ほろ》び、比企判官《ひきはんがん》一家が滅び、仁田四郎《にたんのしろう》が殺されると云う陰惨な事件が続いて、右大将家の覇業《はぎょう》も傾きかけたのを見ると、己がその罪悪の発頭人《ほっとうにん》のような気がして、恐ろしくてじっとしていられなかったが、御台《みだい》からも禁ぜられているうえに、事件が事件であるから口外することもできなかった。  頼朝が未《ま》だ病気にならない時、御所《ごしょ》の女房頭周防の女《むすめ》の十五になる女の子が、どこが悪いと云うことなしに煩《わずら》っていて亡《な》くなった。周防は非常に歎《なげ》いたが、女《むすめ》の乳母《うば》の口から、女《むすめ》が生前畠山六郎を思うていたと云うことを聞かされると、女《むすめ》の姿を絵に画《か》かし、そのうえ木像もこしらえて、切通《きりどおし》三|間《げん》の堂を建ててそれを収めた。それは六郎が武蔵《むさし》の領地と鎌倉の間を往復するたびに通ることになっているので、女《むすめ》の像に時おりその姿を見せて、せめてもの懐《おもい》をやらせようとする優しい親心から出たことであった。そして、周防はその堂に堂守《どうもり》の僧を雇うて置いた。 「どんな地震がしようと、大風《おおかぜ》海嘯《つなみ》が起ろうと、女《むすめ》の像だけは、執《と》り出してくだされ」 [#6字下げ][#中見出し]Ⅳ[#中見出し終わり]  その後《のち》、六郎が切通《きりどおし》の坂を通って、新しい堂の前に往くと、きっと、村雨《むらさめ》が降って来たり、旋風《つむじかぜ》が吹き起ったりした。そんな時には六郎は、馬からおりて家来の者といっしょにその堂の簷下《のきした》へ入って雨や風を避けた。  ある時、例によって六郎は武蔵の領地へ往って帰りかけていたが、切通が近くなると怪しい雨や風のことを思いだした。 「また切通の堂が来たぞ、厭《いや》な堂じゃないか、今日は雨かな、風かな、まさかこんな上天気《じょうてんき》に雨は降らないだろう」  それは夏の晴れ切った日の夕方であった。六郎の馬が前《さき》になって堂の前《まえ》まで往ったところで、馬が不意に物に狂ったように、身顫《みぶる》いしたために、六郎は馬から落ちてしまった。 「不届者《ふとどきもの》、今度はすることにことを欠いで、馬から落したぞ」  壮《わか》い六郎は火の点《つ》いたように怒《おこ》った。 「この堂を焼いてしまえ、不届至極《ふとどきしごく》の堂じゃ」  六郎はそう云ってから堂の方へ往った。堂の中には年とった僧が一人、眼をつむって坐っていた。 「こら、堂守《どうもり》の坊主、この堂は何物を祭《まつ》ってある堂じゃ」  僧は眼を開いた。 「これは御所の女房周防殿が、女御《むすめご》のために建てた堂でございます」  僧は右の方を見返って、仏壇の上に据《す》えた絵像と木像の方を見た。 「あれが、その絵像と木像とでございます」 「周防の女《むすめ》の絵像があっても、木像があっても、何時《いつ》も俺に祟《たた》る堂じゃ、今日は焼き払う、その方は早く出よ」 「それでは、絵像と木像とをお渡しを願います、周防殿の云いつけもございますから」 「いかん、その絵像と木像とが俺に祟るから、そいつから一番に火をかける、早く出よ」 「でも絵像と木像とだけは」 「ならん、出よ、ぐずぐず云っておると、その方もいっしょに焼き殺すぞ」 「では、是非《ぜひ》に及びません」  僧は仏壇の方にちょっと頭をさげてから、とぼとぼと下へおりた。 「それ、火をつけろ」  六郎の家来の一人は、火打《ひうち》を出してこつこつ打ちはじめた。  僧は堂の方を向いて合掌《がっしょう》して立っていた。  火はもうめらめらと堂の簷《のき》に燃えついた。その火の傍で六郎の狂気のように笑う声が聞えた。 [#6字下げ][#中見出し]Ⅴ[#中見出し終わり]  六郎はその翌日、幕府に呼び出されて京都行きを命ぜられた。それは実朝の御台《みだい》を迎えに往くためであった。実朝の御台は奏聞《そうもん》を経て、坊門大納言信清卿《ぼうもんだいなごんのぶきよきょう》の息女《そくじょ》を迎えることになったので、鎌倉では容儀《ようぎ》花麗《かれい》の壮士《そうし》を選んでそれを迎いに往かした。六郎もその選に入ったものであった。その一行には、左馬権介《さまごんのすけ》、結城《ゆうき》七郎、千葉平兵衛尉《ちばへいべえのじょう》、葛西《かさい》十郎、筑後《ちくご》六郎、和田《わだ》三郎、土肥先二郎《どひせんじろう》、佐原《さはら》太郎、多多良《たたら》四郎、長井《ながい》太郎、宇佐美《うさみ》三郎、佐佐木小三郎《ささきこさぶろう》、南条平次《なんじょうへいじ》、安西《あんさい》四郎など云う美男優長《びなんゆうちょう》の輩《やから》であった。  それは元久《げんきゅう》元年のことであったが、その十二月になって御台は鎌倉に下着《げちゃく》した。御台御迎えの一行が上洛《じょうらく》した時、一行の宿泊所と定められている六角東洞院《ろっかくひがしのどういん》の京都の守護|武蔵前司源朝雅《むさしぜんじみなもとのともまさ》の第《てい》へ着いたが、朝雅は一行をねぎらうために酒を出した。その酒の席で朝雅と六郎が口論をはじめた。朝雅は牧《まき》の方《かた》の腹に生れた女《むすめ》の婿《むこ》で、六郎とは親類関係になっている。  六郎はひどく朝雅を罵《ののし》ってやめなかった。一座の者は六郎と朝雅をやっとなだめてその場を収めたが、朝雅はそれを遺恨《いこん》に思って、牧の方に云ったので、牧の方は時政に畠山親子に逆心《ぎゃくしん》があると云って讒言《ざんげん》した。  それは元久二年六月二十二日の微明《びめい》であった。畠山六郎の家へ一隊の人馬《じんば》が押し寄せた。その時六郎の家には主従十五人しかいなかった。六郎はその家来を率いて寄《よ》せ手《て》と渡りあったが、またたく間に討《う》たれて枕を並べて死んだ。  武蔵の領地にいた六郎の父|重忠《しげただ》も、北条氏のために鎌倉へおびきよせられて途《みち》で殺された。 底本:「日本怪談大全 第一巻 女怪の館」国書刊行会    1995(平成7)年7月10日初版第1刷発行 底本の親本:「日本怪談全集 第三巻」改造社    1934(昭和9)年 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:川山隆 校正:門田裕志 2012年5月2日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。