草藪の中 田中貢太郎 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)射《さ》し |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)一人|裁縫《さいほう》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)睜 -------------------------------------------------------  夕月が射《さ》して虫が鳴いていた。益雄《ますお》はその虫の声に耳を傾けながら跫音《あしおと》をささないようにと脚下《あしもと》に注意して歩いていた。そこには芒《すすき》の穂があり櫟《くぬぎ》の枝があった。  それは静かな晩で潮《うしお》の音もしなかった。その海岸に一週間ばかりいて好きな俳句を作り、飽《あ》いて来ると水彩画を画《えが》いていた益雄は、父親から呼ばれて明日《あす》の朝の汽車で東京へ帰ることになったので、静《しずか》な居心地の好い海岸へ名残を惜《おし》むような感傷的な気もちになって、夕飯《ゆうはん》の後で海岸へ出、水際《みずぎわ》を歩いてみたり、陽《ひ》の温《ぬく》みの残っている沙《すな》の上に腰をおろしてみたり、我がままいっぱいに体をふるまって俳句などを考えていたが、それも厭《あ》いて来たので旅館へ帰りかけたところで、本門《ほんもん》の方から往くと遠くて無趣味であるから、その草藪《くさやぶ》を通って旅館の裏手から入ろうとしているところであった。  虫の音《ね》はますます冴《さ》えて来た。益雄は虫の音を句にしたいと思った。彼は月の蒼白《あおじろ》い光が櫟の枝にほんのりとかかった色彩のぐあいに眼をつけた。と、左の方に当ってがさがさと云う枯れた草木の枝葉に足を触れる音《おと》が聞えた。益雄はびっくりして犬だろうか人だろうかと思って眼を睜《みは》った。  手に小笊《こざる》を持った男の子が兎《うさぎ》のようにきょときょとして出て来た。 「おい、おい、君、どこへ往くのだ」  子供は益雄の姿を見つけると嬉しそうな容《さま》をして走り寄って来た。 「臨海亭《りんかいてい》のお客さんだ、お客さんだ」  益雄は何故《なぜ》そんなに子供が嬉しがるか判らなかった。 「どうしたのだ、どこへ往くのだ」  子供は己《じぶん》の周囲を一わたり見廻《みまわ》してから益雄の顔を見た。 「臨海亭へ魚を持って往くところだが、黒い犬のようなものが跟《つ》いて来て歩けないのだ、なんだろう、狐《きつね》だろうか」 「なに犬さ、どこにいるのだ」 「もういなくなったよ、お客さんを見たから逃げたのだろう」 「怖いのか」 「怖かあないが、とうせんぼうするようにして歩けないのだよ」 「君が怖い怖いとおもってるのだから、そんな気がするのだ、いっしょに伴《つ》れてってやろうか」 「好いのだ、おいらはお母《かあ》が待ってるから、急ぐのだ」  子供はくるりと背後《うしろ》向きになるなり、草の間をむこうの方へ走って往った。益雄は子供の気もちがおかしかった。彼は笑いながら歩いた。  小さく咳をする声が虫の音《ね》にまじってやさしく聞えて来た。益雄はおや人がいるようだなと思ってその方に眼をやった。右側の雑木《ぞうき》の一団が月の陰をこしらえている処に、細ぼそとしたカンテラの燈《ひ》が点《つ》いて、女が一人|裁縫《さいほう》しながら外の方を見ていた。 「おや、ここに家があったのか」  益雄は二三回通っているのにそこに家のあったことに気が注《つ》かなかったので驚いた。 「ちと、どうかお掛けなすってくださいませ」  二十二三に見える長手《ながて》な顔をした淋しそうな女で、白っぽい単衣《ひとえもの》の上に銘仙《めいせん》のような縦縞《たてじま》の羽織《はおり》を引っかけていた。 「ありがとう、ここに家があったのですか、ね、え、二三回とおったのですが、ちっとも気が注かなかったのですよ」 「こんな小屋がけでございますから、木の陰になって見えなかったのでございましょう」  女は笑顔になった。益雄は女に親しみを感じて来た。四畳半位ある座敷の前《さき》には小さな船板《ふないた》のような縁側がついていた。 「どうかおかけくださいませ、むさくるしいところでございますが」 「すこしお邪魔さしていただきましょうか」  益雄は縁側へ寄って往った。女は何時《いつ》の間にか起《た》って薄い小さな蒲団《ふとん》を持って来た。 「穢《きたな》い蒲団をあげましょう、どうかお敷きくださいませ」 「いや、どういたしまして、蒲団は好いのです」 「それでも冷えますから」  女の匂《におい》がそそりとした。益雄はちょっとお辞儀をしてからその蒲団《ふとん》を引き寄せて腰をかけた。 「お茶はさしあげません、あまり穢《きたの》うございますから」  女は元《もと》の処へ坐りながら云った。 「お茶はたくさんです、どうかおかまいなさらないように」  益雄は思いだして敷島《しきしま》の袋とマッチを袂《たもと》から出して煙草に火を点《つ》けた。 「やっぱり東京から、お出《い》でになりましたのでございましょう」  女はもう針を持っていた。 「そうです、東京からまいりました」 「御勉強にでもいらっしゃいまして」 「なに、すこし暇ができましたから、一週間位前に来て遊んでいたのですよ、それが家が忙しいものですから、親爺《おやじ》に呼ばれて、明日《あす》は一番の汽車で帰るのです」 「東京は好い処でございましょうね、私は一度も東京へ往ったことがございません」 「そうですか、では、一度|是非《ぜひ》いらっしゃい、でも住んでるとうるさい処ですよ」 「そうでございましょうか、私達のような一度も往ったことのない田舎漢《いなかもの》は、どうかして東京に住みたいと思いますわ、花のように着飾った姝《きれい》な方が、ぞろぞろと街《まち》いっぱいになって歩いておりましょう、ね」  益雄は女のぎょうさんな云い方がおかしかった。 「まさか、そうでもありませんよ、私達のような汚い奴も歩いてるのですよ」 「でも」  女はそう云ってから笑った。益雄も声をだして笑った。 「冷《ひ》え冷《び》えして来ました。お入りくださいまし、閉めましょう」  女は益雄の顔を見た。益雄はもうすこしそこにいたかった。 「お邪魔じゃないのですか」 「家は、今、何人《だれ》もおりませんから、何時《いつ》までおいでくださいましても宜《よろ》しゅうございます」 「そうですか」  益雄があがって蒲団《ふとん》を持って入ると、女は起《た》って雨戸を閉めだした。  古い柱の切《き》れ端《はし》のような木の台の上にカンテラの燈《ひ》が微紅《うすあか》く燃えていた。益雄はその燈の傍へ往って坐った。  女はもう針を持たなかった。  益雄は遅くなって女の家をそっと出て帰った。旅館では彼の帰りの遅いのを心配していた。彼の室附《へやづき》の婢《じょちゅう》はしつこく歩いていた場所を訊《き》いたが、彼は好いかげんなことを云って寝た。  その夜の益雄の夢はやすらかな夢であった。彼は朝になってもう二三日帰りを延《のば》す工風《くふう》はないかと考えたが、そのうちに停車場《ていしゃば》へ往く自動車が迎えに来たので、しかたなしにそれに乗って出発した。  益雄が東京へ帰り着いたのはその日の午後一時|比《ごろ》であった。日本橋で大きな食料品の問屋《といや》をやっている益雄の家では、父親の代理であっちこっちの問屋や銀行などに往かなくてはならない用事が溜《たま》っていたので、益雄は二三日それに費したが、海岸の女のことが思われてしかたがない。で、早く暇をこしらえてまた海岸へ出かけようと思ったが、二三日ではちょっと暇ができそうにもなかった。そこで、本郷林町《ほんごうはやしちょう》の素人《しろうと》下宿にいる洋画家の友人が、夏の間その海岸にいたことを思いだして、それとなしに女の噂でも聞いてみようと思って、浅草の問屋へ往っての帰りに夕飯《ゆうはん》を途《みち》ですまし、団子坂下《だんござかした》から電車をおりてその下宿へ往った。 「やあ、何時《いつ》帰った、ブルジョアはちがったものだね、ちょっと俳句を捻《ひね》ると云っても、あんな処まで出かけて往くのだから、どうだ、好い女でも見つかったかい」  画家はとり散《ちら》した絵具だらけの穢《きたな》い室《へや》でウイスキーを飲んでいた。 「女も見つかったが、親爺《おやじ》がやんやん云って来るものだから、たった一週間しかいられなかった、おちついて好い処だね」  益雄はウイスキーをさされないようにと煙草をつけた。 「好い処さ、それに臨海亭のお客さんになりゃ、理想的だからね、あの家は、海も好いが、家のまわりの木や草が好いのだ、僕はあの旅館の裏手をスケッチしたよ、どうだい、一ぱいやろう、茶のかわりに」  画家は傍にある足のついた小さなカップに手をかけた。益雄は顔をしかめて手を揮《ふ》った。 「たくさん、たくさん、そんな茶なら一生飲まなくても好い」 「ひどく見縊《みくび》るね、じゃ、まあ、さすまい、で、なんだね、名吟《めいぎん》ができたかい、どうも昔から下戸《げこ》に名吟がないと云うぜ」 「あるとも、僕は毎日海岸へ出たり、あの芒《すすき》の穂の出た旅館の裏手の草の中を歩いてたよ、あの草っぱらに夕月の射《さ》したとこは好かったよ」 「そうだ、あの草っぱらは好いな、あちこちに犬小屋のような小屋がけをして、婆《ばあ》さんがいるじゃないか、厭《いや》な婆《ばば》あだよ」 「婆あって、婆あじゃないじゃないか、壮《わか》いじゃないか」 「あれが壮いもんか、もう六十だろう、狼《おおかみ》のように痩せた婆あじゃないか」 「そんなことはない、二十二三だよ、背のすらりとした好い女だよ」 「おい、おい、ばかなことを云うなよ、なにが二十二三の好い女だい、あんな狼婆《おおかみばば》あを、おい、寝とぼけちゃいかんよ」 「寝とぼけるものか、君こそ、女《むすめ》を六十婆あだなんて、君こそ寝とぼけてるよ」 「君はどうかしてるよ、あの銀の針金のような白髪《しらが》と、木彫《きぼり》のような皺《しわ》とがわからないかい、なにが女《むすめ》なのだ、六十の狼女《おおかみむすめ》かい」 「君はけしからん、君はちょっと遠くから見た位だから、見ちがえてるだろう、僕はその女としみじみ話してるから、まちがえっこはないよ」 「じゃ、君は、あの、婆あも女《むすめ》も区別ができなかったのだろう、笑わかすなよ」 「痴《ばか》、君のような下等な奴には、もうなにも云わない、ばか」 「僕も君のような痴な奴とは、絶交だ、六十の婆あと、女《むすめ》の区別がつかないような奴なんかと、朋友《ともだち》になってるのは恥辱《ちじょく》だ」 「なに云ってるのだい、君こそ女《むすめ》も婆さんも判らないじゃないか、痴《ばか》」  そこへ下宿のお媽《かみ》さんが入って来た。お媽は二人の間を隔《へだ》てるようにして坐った。 「お二人とも、何時《いつ》も仲の好いお朋友《ともだち》がどうしたのですよ、おかしいじゃありませんか、私に話してくださいよ、ぜんたいどうしたのですよ」  益雄はそう云われるとすこしきまりがわるかった。 「なに、ね、××の臨海亭の裏手に草っぱらがあるのだ、そこに小屋がけをして六十位の婆さんがいる、ところで、この男は、二十二三の女《むすめ》がいるというから大《おおい》に争っているところだよ」  画家は苦笑しながら手にしていたカップをぐいと飲んだ。 「じゃ、こうなさいよ、二人で××へいらして、ほんとにお婆さんか女《むすめ》さんかを突きとめて、負けた方が汽車賃を出すことにしたらいいじゃありませんか」  益雄はいい口実が出来て海岸へ往けるからこれはいいと思った。 「そりゃ面白い、どうだ賭《かけ》をしようか」  画家は晴ばれした顔をこっちへ向けた。 「好いとも、明日《あす》往こうか」 「明日はすこしつかえるから、明後日《あさって》の朝の一番にしようじゃないか」 「好いとも、だが、僕がきっと勝つよ」  益雄と画家は約束を実行して、二人で××海岸へ往った。そして、臨海亭へ着くなり、益雄は茶を持って来た婢《じょちゅう》に向って訊《き》いた。 「姐《ねえ》さん、この裏手の草っぱらに家があるね」  婢は益雄の前へ茶碗を置こうとしていた。婢は不思議そうな顔をした。 「家、そこの草っぱらですか、家なんかありませんよ」 「ないことがあるものか、小さな家だよ、家のあることは事実だが、その家にいる者が問題だよ、姐さんは近比《ちかごろ》ここへ来たのだね」 「でも、もう三年になりますよ、家なんかがあるのでしょうか、私たちは狐《きつね》が怖いのですから、夜なんか通ったことがありませんが」 「おかしいぞ、だが、姐さんは、通らないから知らないかも判らない、まあ、後で往ってみよう」  益雄と画家は茶をそこそこに飲んで庭へおり、裏口の針金をもうしわけに引いた柵を跨《また》いで草藪《くさやぶ》へ往った。益雄の懐《ふところ》には女に持って来た化粧道具が入っていた。  晩秋の夕陽が芒《すすき》の穂や雑木《ぞうき》の枝に動いていた。そこには菊芋《きくいも》の丈《た》け高い麻のような茎も見えていた。二人は小さな落葉のがさがさと音のする路《みち》を通って、あっちこっちと小家《こや》のある処を探して歩いたが、どこにも家らしい物はなかった。 「どうもこのあたりだったよ」  画家は五六本の樫《かし》や雑木のごたごたと生えたところへ指をさして話を続けた。 「ここの小家から、あの婆さんが顔をだして、ろくでもない奴が来やがって、うるさくってしかたがないなんて、僕にあてつけるようなことを云ったのだよ」  益雄の記憶もたしかにその木の傍であった。そこには萱《かや》の中に二つ三つの黒い石の頭が見えていた。 「どうしてもへんだなあ」  旅館の風呂番の老人がそこへ来た。益雄はその老人に訊《き》いてみた。 「爺《じい》さん、ここに家があったように思うが、あったのか」 「家なんかありませんや、もっとも、まだ臨海亭の出来ない時、さあ三十年にもなりますかね、このあたりに漁師の家が一軒あって、そこの主翁《ていしゅ》が漁に往って歿《な》くなったと云う、壮《わか》い女が住んでたことがありますよ」 底本:「日本怪談大全 第一巻 女怪の館」国書刊行会    1995(平成7)年7月10日初版第1刷発行 底本の親本:「日本怪談全集 第二巻」改造社    1934(昭和9)年 入力:川山隆 校正:門田裕志 2012年3月8日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。