藤の瓔珞 田中貢太郎 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)澄《す》み [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)Ⅰ ------------------------------------------------------- [#6字下げ][#中見出し]Ⅰ[#中見出し終わり]  憲一は裏庭づたいに林の方へ歩いて往った。そこは栃木県の某温泉場で、下には澄《す》みきったK川の流れがあって、対岸にそそりたった山やまの緑をひたしていた。松《まつ》杉《すぎ》楢《なら》などの疎《まばら》に生えた林の中には、落ちかかった斜陽《ゆうひ》が微《かすか》な光を投げていた。そこには躑躅《つつじ》が咲き残り、皐月《さつき》が咲き、胸毛の白い小鳥は嫩葉《わかば》の陰で囀《さえず》っていた。そして、松や楢にからまりついた藤は枝から枝へ蔓《つる》を張って、それからは天神《てんじん》の瓔珞《やぐら》のような花房《はなぶさ》を垂れていた。 (いいなあ)  憲一は足をとめた。 (こんな処にいると、帰るのがいやになるぞ)  憲一の眼には汚い四畳半の下宿が浮んで来た。拓殖《たくしょく》大学に通っている憲一は、小石川の汚い炭屋《すみや》の二階に下宿しているのであった。 (汚いって、お話にならないや)  何年か表《おもて》がえをしたことのない、真黒くなって処どころに穴のあいた畳のことを考えてみた。 (いくら汚いたって、あれじゃやりきれないや)  どこからか一羽の蝶《ちょう》が来て、ひらひらと皐月《さつき》の花の上を飛んで往った。 (とにかく、いい処だ)  憲一はもう汚い下宿のことも忘れていた。林は奥へ往くにしたがって、躑躅《つつじ》と皐月が多くなった。朱《しゅ》、紅《べに》、白《しろ》といちめんに咲き乱れた花は美しかった。憲一はその花の間を縫《ぬ》うて往った。  林の端《はず》れは広い草原《くさはら》になっていた。そこに十坪位の小さい池があってきれいな水を湛《たた》えていたが、その池の縁《へり》にも紅紫《こうし》とりどりの躑躅や皐月の花があった。憲一はその池の縁《へり》へ往って腰をかけた。 「あら、きれいだこと」  ふいに人声《ひとごえ》がしたので、憲一はおやと思ってその方へ眼をやった。今出て来た林の中に碧《あお》い瓦《かわら》を葺《ふ》いた文化住宅のような家があって、明けはなした二階の窓から白い二つの顔が覗《のぞ》いていた。 (おや)  憲一は首をかしげた。 (あんな処に家があったのか)  来るときにはどこにもそれらしいものが見えなかったので、憲一は不思議でならなかった。 (どうした家だろう)  その時また女の声が聞えて来た。 「もう、しめましょうよ」  すると二つの顔が引こんで窓の戸が音もなく締った。憲一の好奇心が動いた。憲一はその方へ往った。建物のまわりには円竹《まるたけ》の垣根があって、玉椿《たまつばき》のような木の花がいちめんに咲いていたが、それは憲一がこれまで見たことのない花であった。 (何の花だろう)  憲一はその垣根に跟《つ》いて往った。垣根が右に曲った処に青い石の門があった。憲一はちょっと立ちどまった。  門の中には右のほうに水のきれいな泉水《せんすい》があって、その縁《へり》に仮山《つきやま》があった。仮山の上には二三本の形のおもしろい小松が植わっていた。その時泉水に面した室《へや》の障子《しょうじ》が開《あ》いて、そこから三十位に見える洋髪《ようはつ》の姝《きれい》な女の顔が見えた。憲一は今窓から顔を出した人だろうかとおもって、それに注意したところで、女の姝な顔がこっちをむいて莞《にっ》とした。  憲一はどぎまぎした。憲一はあわてて眼をそらした。その時女の何か云う声がした。と、一方の室の障子が開いておさげにした少女が顔を出した。少女は青い簡単服を着ていた。  少女は女の方へ眼をやったが、やがてその眼をこっちへ持って来た。憲一は女が少女に己《じぶん》のいることを云っていると思った。 (己を怪しいものとでも思ってるだろう、そうだとすれば長くいないがいい)  憲一は急いで門から離れようとした。と、少女は庭へおりてそこにあった草履《ぞうり》を穿《は》くなり、胡蝶《こちょう》の飛ぶようにひらひらと駆けだして来た。 「あなた」  憲一はしかたなしに揮《ふ》りかえった。少女は憲一の後《うしろ》へ来ていた。 「どうかお入りくださいまし」  憲一は眼を見はった。憲一は人違いをして呼びに来たものだろうと思った。 「私は、このむこうの旅館へ来てる者ですが、人ちがいでしょう」  すると少女が莞《にっ》とした。 「いいえ、貴郎《あなた》よ」  貴郎よと云われてもそうして呼ばれる心あたりがないのであった。 「でも、私じゃないでしょう」  少女はまた莞とした。 「貴郎よ、奥さまが、お待ち申しておりますわ」 「お、く、さま、奥さまって、どうした方です」 「いらしてくだされば、すぐお判りになります」  少女は憲一の手を執《と》ってぐんぐんと引っぱった。憲一はしかたなしについて往った。 [#6字下げ][#中見出し]Ⅱ[#中見出し終わり]  憲一は少女に導かれて室《へや》の中へ入って往った。そこは十畳位もある広い室で、室のなかはいちめんに装飾をほどこしてあった。真中には印度綆紗《インドさらさ》をかけた長方形の紫檀《したん》の卓《テーブル》があって、その左右にはそれぞれ三脚の椅子《いす》が置いてあった。卓《テーブル》のむこうには燦然《さんぜん》とした六枚折の金屏《きんびょう》。壁には宝玉《ほうぎょく》が塗り込んであった。憲一は眼を見はった。 「さあ、どうぞ」  少女はぽかんとしている憲一に椅子をすすめた。少女は憲一が腰をかけるのを待っていた。 「ちょっとお待ちくださいまし、すぐ、奥さまがまいります」  少女は莞《にっ》として出て往った。憲一はまた考えた。 (どうした家だろう)  家の構《かま》えから見て、これはどうしても富豪の別荘であるが、人違いでないとすれば、何のために貧乏学生の己《じぶん》を呼び入れたのであろう。 (どうもおかしいぞ)  それに奥さまと云うのはどうした方だろう。憲一はどう考えても判らなかった。 「お待たせいたしました」  憲一ははっとして眼をやった。彼《か》の三十位の背のすらりとした姝《きれい》な女が入って来たところであった。女は裾《すそ》に花模様のある黒の錦紗御召《きんしゃおめし》を着ていた。憲一はその気品のある姿に圧せられるように思った。憲一は起《た》ちあがった。 「どうか、そのままで」  女は微笑を見せながら憲一の傍へ来た。 「は」  憲一は棒のようになっていた。 「そのようにかたくるしくなさらないで、どうか」 「は」  憲一は眩《まぶ》しそうに女を見た。 「おかけくださいまし」  女は堅くなっている憲一を促した。女はそれから憲一のむこう側に腰をかけた。そこへ彼《か》の少女がはいって来た。少女の手には酒肴《しゅこう》を乗せた盆があった。少女はそれを卓《テーブル》の上に置いてから、小さな盃《さかずき》をそれぞれ二人の前へ持って来た。 「お酌《しゃく》しましょう」  少女は四角な瓶《びん》を持って憲一の傍へ来た。憲一はきまりがわるいので俯向《うつむ》いていた。女がそれに眼をつけた。 「さあ、どうぞ」  憲一はしかたなしに盃を出した。少女がそれに酌をした。それは蒼《あお》みをおびたどろどろしたものであった。 「あちらからまいりました、お酒でございます」  女はそう云いながら己《じぶん》の盃《さかずき》を執《と》った。少女がまたそれに酌《しゃく》をした。 「めしあがってくださいまし」 「は」 「男のくせに、遠慮なんかなさるものじゃありませんわ」  憲一は思いきって盃を口の縁《ふち》へやった。それは香気《こうき》の高い酒であった。 「二三杯つづけてめしあがれ」  女は憲一の気もちを硬《こわ》ばらさないようにと勤めている容《ふう》であった。憲一もいくらか気もちがほぐれて来た。憲一は思いきってそれを飲んだ。すると少女がすぐ後《あと》を満《みた》した。 「わたくしは、永い間、貴郎《あなた》のような方のいらっしゃるのをお待ちしておりました」  憲一には女の詞《ことば》の意《いみ》が判らなかった。 「は」 「今日は、やっとその望みがかないましたから、これから家にいらしてくださいまし」  憲一は胸がわくわくした。憲一は思いがけない幸福に打《ぶ》っつかって己ながら驚いた。  そのうちに憲一は酔うて来た。その時どこからか壮《わか》い女の歌う声が聞えて来たが、それは人間の魂を揺りうごかすような声であった。憲一の心はその方へ往った。その時女の何か云う声がした。 「おまえも、あちらへ往ってらっしゃい」  すると彼《か》の少女がひらひらと起《た》って往った。 「二人っきりでゆっくりいたしましょう」  憲一はその声に気が注《つ》いて女を見た。酒にほてった女の顔はいっそう美しかった。 「もすこしめしあがれ」  憲一はもう遠慮がなかった。憲一はすすめられるままに酒を飲み、肴《さかな》を喫《く》った。そのうちに女は憲一の傍へ来て腰をかけた。 「めしあがれ」  女は己《じぶん》の盃《さかずき》を執《と》って憲一の口へ持って往った。憲一は微笑しながら一口飲んで女を見た。女のうるおいのある眼がじっとこちらを見ていた。女はその時憲一の口へやっていた盃を己の口へ持って往った。  女の左手はいつのまにか憲一の肩に来ていた。憲一はうっとりとなっていた。 [#6字下げ][#中見出し]Ⅲ[#中見出し終わり]  夢のような幸福がつづいた。三日目の朝になって、憲一はふと旅館のことを思いだした。 「ちょっと往って、荷物を持って来ます」  女は淋しそうな顔をしていた。 「そんなことを云って、もういらっしゃらないつもりでしょう」 「そ、そんなことは」 「私は貴郎《あなた》とお別れしては」  女はもう眼に涙を溜《た》めていた。 「すぐ来ますよ」  まもなく女は彼《か》の少女とともに、泣く泣く憲一を見送った。 「ほう、これは」  旅館の主翁《ていしゅ》は憲一の顔を見るなりとびだして来た。旅館では憲一がいなくなったので心配していたところであった。 「どこへ往ってらしたのです」  憲一はそれよりも女の素性《すじょう》を聞こうと思った。 「このむこうにあるのは、どうした家です」  すると主翁が首をかたむけた。 「このむこう」 「そうですよ、林のなかに、立派な家があるじゃありませんか」 「林の中に、そんな家はありませんよ」 「ないことがあるものか、姝《きれい》な奥さんが、いるじゃないか」 「姝な奥さん、お客さんはどうかしてるのですよ、このあたりには、第一そんな家なんかありませんや」  憲一は主翁《ていしゅ》がどうかしているだろうと思った。 「たしかにあるよ、往って見れば、すぐ判る」  そこで憲一は主翁を伴《つ》れてその家へ往った。 「すぐそこだ」  二人は林の中を縫《ぬ》うて往った。やがて見覚えのある草原《くさはら》の中の池が見えて来たが、彼《か》の家らしいものは見えなかった。憲一は首をかしげた。 「たしかにこのあたりだ」  ふと見ると、そこに山小屋か何かの腐朽《ふきゅう》したような茅《かや》や小枝の朽《く》ちたのが一かたまりになっていた。 底本:「日本怪談大全 第一巻 女怪の館」国書刊行会    1995(平成7)年7月10日初版第1刷発行 底本の親本:「日本怪談全集 第二巻」改造社    1934(昭和9)年 入力:川山隆 校正:門田裕志 2012年3月8日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。