悪僧 田中貢太郎 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)何時《いつ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)読書|三昧《ざんまい》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)姝 -------------------------------------------------------  何時《いつ》の比《ころ》のことであったか朝鮮の王城《おうじょう》から南に当る村に鄭《てい》と云う老宰相が住んでいた。その宰相の家には宣揚《せんよう》と云う独《ひと》り児《ご》の秀才があったが、それが十八歳になると父の宰相は、同族の両班《ヤンパン》の家から一人の女を見つけて来てそれを我が児の嫁にした。  宣揚の夫人となった女は花のような姿をしていた。宣揚は従来《いままで》にない幸福を感じて、夫人を傍からはなさなかったが、朝鮮の風習として結婚した両班の子弟は、すぐ山寺へ往って独居生活を始め、科挙《かきょ》に応ずることのできるように学問文章を修《おさ》めることになっているので、宣揚もしかたなく夫人を家に残して山寺へ往った。  そして、山寺の一室に行李《こうり》を解《と》いた宣揚は、遠く本堂の方から漏《も》れて来る勤行《ごんぎょう》の声に心を澄まし、松吹く風に耳を洗《あろ》うて読書|三昧《ざんまい》に入ろうとしたが、夫人の唇や頬《ほお》が文字《もんじ》の上に見えて読書する気になれなかった。しかし、山をくだって夫人の処へ帰って往くと云うことは、父母をはじめ世間の手前もあるのでさすがにそれはしなかったが、そのかわりに壮《わか》い和尚《おしょう》に頼んで手紙を夫人の許《もと》へ送り、その返書を得て朝晩にそれを読みながら、僅《わず》かに恋恋《れんれん》の情《じょう》を慰めていた。  宣揚が山へ登ったのは晩春の比《ころ》であった。そして、暑い夏を送って秋になると、夫人に逢《あ》いたくなって起《た》ってもいてもいられなくなったので、父母を省《せい》すると云う名目をこしらえて某日《あるひ》山をおりた。  山の中程には大きな巌石《がんせき》が屏風《びょうぶ》を立てたように聳《そび》えた処があった。宣揚はそこまでおりて来ると疲労《くたび》れて苦しくなって来たので、路《みち》ぶちの巌《いわ》に腰をかけて休んでいた。空には白い雲が飛んで荒っぽい秋風が路の下の方の林に音を立てて吹いていた。宣揚は手巾《はんけち》で襟元《えりもと》ににじみ出た汗を拭《ぬぐ》いながら、今日帰って往く己《じぶん》を夫人がどんな顔をして迎えるだろうと思ってその喜んだ顔を想像していた。黒い瞳と朱《あか》い唇が眼の前にあった。と、背後《うしろ》の方でものの気配がして、宣揚が不審して振返ろうとする間もなく、彼の頭は黒い撃痛を感じて横に倒れた。倒れながら彼の顔は血に染まった。太い棒を手にした壮《わか》い和尚《おしょう》が意識を失いかけた彼の眼に映った。  黄金《こがね》の金具を打った轎《かご》が町《まち》の四辻《よつつじ》を南の方へ曲って往った。轎の背後《うしろ》にはお供《とも》の少女が歩いていた。それは麗《うららか》な春の夕方で、夕陽《ゆうひ》の中に暖かな微風が吹いていた。慕華館《ぼかかん》で終日日課の弓を引いていた李張《りちょう》と云う武科志願の秀才は、このとき弓と矢を肩にして己の家へ帰っていたが、きれいな轎が来るので見るともなしに眼をあげた。と、小さな旋風《つむじかぜ》が起ってそれが薄《うっ》すりと塵《ちり》を巻きながら、轎夫《かごかき》の頭の上に巻きあがって青い簾《すだれ》の垂《たれ》を横に吹いた。簾は鳥の飛びたつようにひらひらとあがった。艶麗《えんれい》な顔をした夫人が坐っていた。李張は女の美にうたれた。この姝《きれい》な女はどんな秀才の夫人であろう、と、思いながら立ちどまってその轎を見送っていたが、その足は何時《いつ》の間にか轎の往く方へ動きだした。  金粉をまき散らしたような西の空に紅《あか》い陽《ひ》がどんよりとかくれた。そこここの人家の門口《かどぐち》に咲いていた李《すもも》の花も灰色になった。きれいな轎《かご》は郊外にある大きな邸宅の門へ入った。李張は夢が醒《さ》めたようにその前に衝立《つった》っていたが、心残りがして帰れないのでその邸宅の周囲《まわり》を歩きはじめた。そして、裏門の方に往ってみると裏門の横手の垣に添うて小さな丘があった。李張はふらふらとその丘の上にあがった。黄昏《ゆうぐれ》の邸内には燭火《ともしび》の光が二処《ふたところ》からちらちらと漏《も》れていた。垣はすぐ一跨《ひとまた》ぎのところにあった。彼はそこに佇《たたず》んで燭《ともしび》の光を見ていた。  四辺《あたり》は真暗に暮れてしまって雨気《あまけ》をふくんだ風が出た。李張は何時《いつ》の間にか邸内へ入り、燭の見えている東房《とうぼう》の方へ往って、そこの窓から内を覗《のぞ》いてみた。内では轎の中にいた夫人が老婆の前で物語らしい書物を読んでいた。老婆は姑《しゅうとめ》らしかった。  老婆を牽《ひ》きつけていた書物の一章が終ったのであった。 「今日はお墓参りに往って、疲労《くたび》れておりましょうから、もう、それにして置いて、あとは明日《あす》の晩にしてもらいましょう」  老婆が顔をあげて云った。 「そんなに疲労《くたび》れはしないですけれども、……では、後《あと》は明晩にいたしましょう」  夫人は愛嬌《あいきょう》のある顔を見せて淑《しと》やかに拝《おじぎ》をして房《へや》を出て往った。  李張は燭火《ともしび》の前に浮き出た花のような姿を見たうえに、奥ゆかしいその物ごしを見せられてますますその女が慕《した》わしくなった。彼は女のさがって往く房《へや》はどこだろうと考えたあげく、西房《せいぼう》の方へ往ってその窓から覗《のぞ》いた。東房《とうぼう》からさがって来た夫人が物悩ましそうに坐って耳を澄《す》ますようにしていた。  遠くの房《へや》にいる良人《おっと》の来る跫音《あしおと》を聞いているだろう、こんな美婦の良人であるから、良人になる人も容貌《きりょう》の好い男だろうと思った。そう思うと李張は妬《ねた》ましいような気になって来た。そして、己《じぶん》の行為がばかばかしくなって来た。で、引返そうとしていると庭前《にわさき》の方に人の跫音がした。彼は己がこうしているのを邸《やしき》の人が知って、捕えに来たのではないかと思って、そっと窓を離れて傍の竹叢《たけむら》の中へ身をかくして注意していた。  怪しい人影が戸口に近づいて扉をことことと打ちはじめた。では己ではなかったか、と、李張は安心してその方を見ていた。すると、扉が内から開《あ》いて外の人影は中へ入った。それではここの良人は留守で、不義者が出入しているらしいぞ、と彼はまた竹叢の中から出て窓の処へ往って覗《のぞ》いた。  夫人と壮《わか》い和尚《おしょう》が手を執《と》りあっていた。李張は驚いて眼を睜《みは》った。そして、今まで美しかった知らず識《し》らず尊敬していた夫人に対する感情は、忽《たちま》ちがらりと変って汚い醜い腹立たしいものとなった。  夫人は棚のなかから小さな壺《つぼ》を出して来て、それを二つの盃《さかずき》に注《つ》いで一つを和尚の手に持たし、その一つを己で飲んだ。李張は燃えるように感じる眼をそれにやっていた。  二人は壺の液体を飲みあった。そして、艶《なまめ》かしい囁《ささや》きを囁きあったが、和尚の態度は夫人以上に醜悪なるものであった。李張はまず和尚を踏み潰《つぶ》してやりたかった。  和尚は夫人を横抱きにして洞房《どうぼう》の方へ往こうとした。夫人は抱かれながら両手を和尚の首にからまして朱《あか》い唇を見せた。李張は手にしていた弓を持ち直して、それに腰につけた矢壺《やつぼ》の矢を抜いて添えた。  和尚はすこし首を屈《かが》めて夫人の唇を己の頬《ほお》に受けようとした。と、李張の手にした矢が飛んでその前額《ぜんがく》から後脳《こうのう》にかけて貫《つらぬ》いた。夫人の倒れた上に血に染《そ》んだ和尚《おしょう》の体が重なった。  李張の姿は暗闇の中に消えてしまった。  その夜李張が家へ帰って寝ていると、その枕頭《まくらもと》へ青い衣《きもの》を着た小柄な秀才が来た。李張はこうして締め切ってある房《へや》の内へどうして入って来たろうと思って不審して見ていた。と、秀才は恭《うやうや》しく拝《おじぎ》をした。 「貴君《あなた》は何方《どなた》ですか」  李張は聞いてみた。 「私は、この南村《なんそん》に住んでいる、鄭宰相の独《ひと》り児《ご》の宣揚と云う者でございますが、今日《こんにち》貴君《あなた》に讐《かたき》を打ってもらいましたから、お礼にあがりました」  秀才は弱よわしい声で云った。李張にはその意味がどうしても判らなかった。彼は黙って秀才の蒼白《そうはく》な顔を見つめていた。 「これだけ申しましたのでは、貴方《あなた》にはまだお判りになりますまいが、私はこの三年|前《ぜん》、妻室《かない》を迎えるとともに、例によって山寺へ往って、学問をしておった者ですが、時おり私の家へ使《つかい》にやっていた和尚が、妻室《かない》を誑《たぶら》かし、二人で共謀して、私が帰省しようとして、山の中途までおりたところを、後《うしろ》からつけて来て撲《なぐ》りつけ、死骸は巌窟《いわあな》の中にかくして、世間へは虎に喫《く》われたと云いふらして、今に妻室《かない》と密会を続けておりましたが、それが、今晩、貴君《あなた》に見られて殺されることになり、私の怨《うら》みも報《むく》いられましたが、私の両親はまだ何も知らずに、彼《か》の淫婦《いんぷ》に欺《あざむ》かれておりますから、どうか私の父に逢《あ》って、まず私の死骸を改葬したうえで、淫婦《いんぷ》の始末をしてください、私の死骸は山の中程の、巌石《がんせき》の聳《そび》えている処へ往ってくだされば、すぐ判ります、淫婦を白状さすには、貴君《あなた》に殺された和尚《おしょう》の死骸を、被《ひ》に包んで床の下にかくしてありますから、それを引出してからやってください」  李張が何か云おうと思っていると、怪しい夢は破れてしまった。  朝になった。李張は前夜|何人《だれ》の邸宅とも知らずして往った鄭宰相の処へ往った。 「若旦那の死骸の在る処を知っておる者だ、宰相にお眼にかかりたい」  こう言って門番に取次を請《こ》うと、すぐ大庁《たいちょう》へ通された。そして、ちょっと待っていると、髯《ひげ》の白い痩《や》せた老宰相が出て来た。 「伜《せがれ》の死骸の在る処を知っておられると云うのは、貴君《あなた》かな」 「はい」 「伜は虎に喫《く》われて死骸が無いことになっておるが、それでも貴君《あなた》は知っておられるかな」 「これに就《つ》きましては、いろいろ申しあげたいことがございますが、兎《と》に角《かく》、御子息の死骸をお眼にかけたうえで、申しあげます」 「そうか、それでは、その死骸はどこに在《あ》るかな」 「山寺に登る路《みち》の中程の、巌窟《いわあな》の中に在ります」  老宰相と李張は馬に乗って、数人の供人《ともびと》を伴《つ》れて山寺の方へ往った。そして、山の麓《ふもと》へ着くと、老宰相も李張も馬からおりて、勾配《こうばい》の急な山路《やまじ》を登って往った。山桜がぽつぽつ咲いていた。十|丁《ちょう》ばかりも登ると、屏風《びょうぶ》を立てたような巌石《がんせき》が路《みち》を挟んで聳《そび》えている処へ出た。一番前を歩いていた李張は、夢のなかの秀才が云った処はここだなと思った。が、それでもまだどこと云う見当がつかないのですこし困っていた。 「このあたりかな」  背後《うしろ》の方で老宰相のあえぎあえぎ云うのが聞えた。小さな青い鳥が左側の巌《いわ》の尖《とがり》にとまって、く、く、くと耳に染《し》みるように鳴いた。李張の眼がそれに往った。青い鳥はまだ、く、く、くと鳴いていた。……死骸は山の中程の巌石が聳えている処へ往ってくだされば、すぐ判りますと云った秀才の詞《ことば》が思いだされた。青い鳥は鳴きながら巌の尖を伝って右へ右へ往った。李張はその後《あと》から跟《つ》いて往った。  青い鳥は巌の一方へ廻ってやはり尖を伝って往ったが、巌が次第に低くなって四辺《あたり》に荊棘《いばら》の茂った処へ往くと見えなくなった。李張はその辺《あたり》へ注意した。巌がぐるりと刳《えぐ》れて地の底深く陥窪《おちくぼ》んだ処が脚下《あしもと》に見えた。李張は躊躇《ちゅうちょ》せずにその巌窟《いわあな》へはいった。人の背丈《せた》け位の穴が斜《ななめ》にできていた。で、それに跟いて往くと、三畳敷位の広い巌窟になって、その下の微暗《うすぐら》い処に白骨になりかけた死骸が横《よこた》わっていた。胆力《たんりょく》のある李張はその死骸に近寄った。  老宰相と供《とも》の者は窟《あな》の口へ来て内を覗《のぞ》いていた。李張は朽《く》ちかけた衣服《きもの》に包まれた白骨を抱いてその眼の前にあらわれた。 「伜《せがれ》だ、伜の衣服《きもの》だ」  老宰相は泣きながら白骨に縋《すが》りついた。 「閣下、いよいよ御子息にそういありませんならば、更《あらた》めて山寺へお葬《ほうむ》りになるが宜《よろ》しゅうございましょう、そのうえで、私から閣下に申しあげたいことがございます」  李張は白骨を抱いたなりに云った。 「お前さんは神人《しんじん》だ、どうして伜《せがれ》の死骸がここに在ることを知りなされた」  老宰相は涙を眼に湛《たた》えて聞いた。 「これは昨夜《ゆうべ》、御子息が、夢に私にお話になりましたから、知っております」 「ほう、伜が」 「そうでございます、御子息が私の夢にあらわれて、まだ他にもいろいろお話がありました」 「それでは、伜は、虎に喫《く》われたのじゃないだろうか」 「虎ではありません、悪漢《わるもの》の手にかかったものであります」  老宰相はまた泣きだした。  老宰相は伜の寡婦《かふ》のいる内房《ないぼう》の西房《せいぼう》へ入って往った。寡婦の夫人は愛嬌《あいきょう》を湛えて舅《しゅうと》を迎えた。 「今朝《けさ》、鵲《かささぎ》が鳴いたと思いましたら、お父さまのお出ましがありました」 「ほう、今朝、鵲が鳴いた」と、老宰相は厳《いかつ》い眼をして夫人の顔を見たが、またおもいかえしたように、「二十年も昔のことだが、盗賊が怖《こわ》いので、ここの床の下へ玉を埋《うず》めてある、それを掘りだして、お前にあげようと思って来た」 「おお、玉を、埋《うず》めてある玉を、私にくださいます、それはありがとうございますが、お父さまがお手をくださなくっても、何人《だれ》かに申しつけましょう」 「いや、こんなことはまちがいの起り安いものだから、乃公《わし》がする」 「でも、そんな軽がるしいことは」  夫人は笑顔をして云った。 「好いよ、好いよ、床の板さえ剥《は》げばすぐだから」 「でも」と、云った夫人は急に思いついたことがあるようにさも耻《はず》かしそうな顔をして、「お父さま、どうぞ、床をあげることは、ちょっとの間お待ちくださいませ」 「どうしたとお云いだ」 「……私の汚れ物を皆入れてありますから、それを除《の》ける間、ちょっとお母さまのお房《へや》でお待ちしてくださいませ、すぐ執《と》り除けますから」 「そんなことは好い、ちょっとそこを退《の》いてくれ」 「でも」  と、夫人の声は顫《ふる》えた。 「さ、好いから退いてくれ」  老宰相は強く云って夫人の傍に進んだ。夫人は蒼《あお》い顔をして立っていたが、急に身を飜《ひるが》えして入口の扉《と》を開けて走りでた。出口には李張の手があった。  老宰相は夫人が掴《つか》まえられたことを見届けると床の板を剥いだ。床の下には被《ひ》に包んだ悪僧の死骸があった。被には生生《なまなま》しい血の斑点があった。  老宰相は使《つかい》をやって夫人の父と兄を呼んでその面前《めんぜん》で夫人を鞠問《きくもん》した。夫人は罪悪を包みかくさず自白した。  夫人の実父の老|両班《ヤンパン》は、いきなり腰の刀を抜いて夫人の咽喉元《のどもと》を刺した。  その夜《よ》李張の夢にまた宣揚があらわれた。 「近いうちに謁聖《えっせい》がありますから、それに応ずるが宜《よろ》しゅうございます、貴君《あなた》は武科が御志願でございますけれども、まず文科をお受けになるが宜しゅうございます、今回の賜題《しだい》は私が教えてあげます」  と、云って一つの文章を朗読した。李張は一心になってその文章を暗記した。宣揚は二度も三度も朗朗と誦《しょう》した。 「お判りになりましたか」 「よく判りました」 「それさえ覚えておれば、必ず及第いたします」  李張は科挙に及第して文官になったが、鄭宰相が陰《いん》に陽《よう》に推輓《すいばん》してくれるのでめきめきと栄達《えいたつ》した。 底本:「日本怪談大全 第二巻 幽霊の館」国書刊行会    1995(平成7)年8月2日初版第1刷発行 底本の親本:「日本怪談全集 第一巻」改造社    1934(昭和9)年 入力:川山隆 校正:門田裕志 2012年5月2日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。